都落ちした尊氏でしたが、九州で兵力をまとめると、持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)から院宣(いんぜん)を受け、自らの軍の正当性を確保したうえで、再び京都を目指して東上(とうじょう)しました。尊氏軍の勢いを感じた朝廷側の楠木正成は、尊氏との和睦(わぼく)を後醍醐天皇に進言しましたが受け入れられず、1336年に天皇のご命令を受けて摂津国湊川(せっつのくにみなとがわ、現在の兵庫県神戸市湊川)で尊氏軍を迎え撃(う)ちましたが、敗れて自害しました。この戦いを湊川の戦い(みなとがわのたたかい)といいます。
尊氏が再び京都を制圧すると、後醍醐天皇は比叡山に逃(のが)れられ、光厳上皇の弟にあたる光明天皇(こうみょうてんのう)が新たに即位されたことで、再びお二人の天皇が同時にご在位されることになりました。後醍醐天皇は京都に幽閉(ゆうへい、閉じ込めて外に出さないこと)された後、尊氏との和睦に応じて天皇であることを証明する三種の神器(さんしゅのじんぎ)を光明天皇に渡されましたが、その後に隙(すき)を見て京都を脱出され、奈良の吉野(よしの)へ向かわれました。
吉野に到着された後醍醐天皇は、光明天皇に渡された三種の神器は偽物(にせもの)であると宣言されて、新たに朝廷を開かれると、1339年に崩御されました。こうして京都の朝廷(持明院統)と吉野の朝廷(大覚寺統)が並立し、以後約60年にわたって争いを繰(く)り返す南北朝の動乱(なんぼくちょうのどうらん)が始まったのです。なお、方角的に北側になる京都の朝廷が北朝(ほくちょう)、南側になる吉野の朝廷が南朝(なんちょう)と呼ばれています。




いつも有難うございます。
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佐佐木あつし 先日はご丁寧な御返答ありがとうございました。この頃(建武の新政から南北朝あたりは漫画化された数も少なくネタ的に狙ってたりするので
先生の講義が大変参考になります。
この辺りは歴史のターニングポイントでもある訳で描き方によってはどうとでもなる時代なので漫画家的には美味しい時代です(笑)
かといって、ここを基軸に熊野天皇まで手を広げるのはやり過ぎでしょうけど(爆)
.
ぴーち こんばんは!
以前、黒田さんのブログ記事で拝見させていただいた三種の新器とは、
あの三種の事だったでしょうか・・?
「鏡、剣(?)、玉」
すみません。かなりウル覚えですので、間違えていたら、ごめんなさい(><)
それでは、応援凸
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 先日はご丁寧な御返答ありがとうございました。この頃(建武の新政から南北朝あたりは漫画化された数も少なくネタ的に狙ってたりするので
> 先生の講義が大変参考になります。
それは光栄です(^^♪
私でよければ、分かる範囲でしたらなんでもお答えしますよ(^_^)v
> この辺りは歴史のターニングポイントでもある訳で描き方によってはどうとでもなる時代なので漫画家的には美味しい時代です(笑)
> かといって、ここを基軸に熊野天皇まで手を広げるのはやり過ぎでしょうけど(爆)
確かに時代の転換期ですからね。先生の作品が楽しみなところですが、確かに熊野天皇まで行き着くと発想が凄いですね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 三種の神器は、
「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」
「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」
「八咫鏡(やたのかがみ)」
以上の三つですから、ぴーちさんは正解ですよ(^^♪
このうち、草薙の剣は安徳天皇とともに壇ノ浦の海中深く沈んだままと考えられていますが、本当のことでしょうか…。
.
アクア お願いがあります。
黒田さんの半生を記事にしてください!
とても興味深いです。
アクアさんへ
黒田裕樹 > お願いがあります。
> 黒田さんの半生を記事にしてください!
> とても興味深いです。
我が国の歴史を分かりやすく記事にすることは慣れておりますが、自分の記事ですか(^^ゞ
私自身も興味がありますが(爆)、まずはプロフから少しずつ改めてみますね(^^♪
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.黒田先生
りら 三種の神器は今だに
真相が分からないようですよね
今皇室にあるものは
どのようなものか
いつか説明お願いします
以前より興味がありました
りらさんへ
黒田裕樹 > 三種の神器は今だに
> 真相が分からないようですよね
> 今皇室にあるものは
> どのようなものか
> いつか説明お願いします
> 以前より興味がありました
三種の神器につきましては、現在の皇室で儀式の際に使用しているのはレプリカらしいので、本物はいったいどこにあるのか、私も良くは存じません。
安徳天皇と運命をともにした草薙の剣も、本物は熱田神宮に祀られているという話もありますし。
三種の神器が本物かどうか分かりませんが、古来の血統をバトンリレーのごとくつなぎ続けている皇室のご存在には言葉もありません。
その理由として、まずは幕府を正当なものと認める後ろ盾(うしろだて)となる朝廷が二つに分裂していたことです。北朝は本来の朝廷の都である京都に存在しましたが、本物の三種の神器は吉野にある南朝側にあるとされたために、尊氏に従った新興勢力の武士の中には、北朝の存在に疑問符をつけようとする者も存在しました。
また、本来の武士にとっての本拠地は鎌倉などの東国であり、尊氏も本当であれば関東で幕府を開くべきだったのですが、南朝がいつ北朝に取って代わろうとするか予断を許さない状態が続いたため、やむなく京都で幕府を開いたのです。このため、鎌倉には尊氏に代わる別の組織である鎌倉府(かまくらふ)を置いたのですが、関東で鎌倉府に権力が集中したことによって、やがて幕府と対立するようになっていきました。
さらには、尊氏の資質にも問題がありました。尊氏は根っからの武人(ぶじん)であったために、実際の政治は尊氏の弟である足利直義(あしかがただよし)が代行していたのですが、武将にしては珍(めずら)しく「優しくて良い人」だった尊氏は、功績のあった武将に気前良く領地を与えました。領地が増えた武将は、この後に様々な権利を得ることによって守護大名(しゅごだいみょう)と化し、こちらも幕府のいうことを聞かなくなっていくのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
尊氏が「優しく良い人」だったんなんて、初めて知ることが出来ました^^
武将としてのイメージが少し変わりました^^
それ良い人というのは、何かと人に利用され易いという難点があるものですが、私はそちらの方が個人的に好きですけれどね!
今日は講座、お疲れ様です^^
それでは、応援凸
.黒田先生
りら 守護大名の始まりは
足利尊氏だったのですね
それが 江戸時代の
大名制度の元になったのですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 尊氏が「優しく良い人」だったんなんて、初めて知ることが出来ました^^
> 武将としてのイメージが少し変わりました^^
> それ良い人というのは、何かと人に利用され易いという難点があるものですが、私はそちらの方が個人的に好きですけれどね!
仰るとおり、尊氏のような人は個人的には好かれますが、政治家としてはいいように利用されてしまうなど、大いに弱点になってしまうんですよね。
難しいところです。
> 今日は講座、お疲れ様です^^
有難うございます。講座の内容につきましては、改めてお知らせしますね(^^♪
りらさんへ
黒田裕樹 > 守護大名の始まりは
> 足利尊氏だったのですね
> それが 江戸時代の
> 大名制度の元になったのですか?
足利尊氏が幕府成立前後に各武将に気前良く領地を与えたことが、後の守護大名化につながってしまいます。その意味では、仰るとおり、きっかけをつくったのは尊氏といえるでしょう。
守護大名は、その大半が戦国時代に没落してしまいますから(島津家のように例外もありますが)、江戸時代の大名との関連性は低いですが、各領地を大名に治めさせるという意味では元になったといえるかもしれません。
.
オバrev なるほど、尊氏が一人で仕切っていたのではなく、弟の直義が政務を行ってたんですね。
尊氏がオーナー社長で、直義が専務的な形でしょうか。
うまくいっているときはいいけど、つまずいた時は社長派、専務派で割れそうですね。その時に尊氏にそれを乗り切るだけの器量があるかどうか・・・記憶曖昧
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど、尊氏が一人で仕切っていたのではなく、弟の直義が政務を行ってたんですね。
> 尊氏がオーナー社長で、直義が専務的な形でしょうか。
仰るイメージでOKだと思います。
ただ、重要な場面でオーナーが独断した結果が…。
> うまくいっているときはいいけど、つまずいた時は社長派、専務派で割れそうですね。その時に尊氏にそれを乗り切るだけの器量があるかどうか・・・記憶曖昧
本日(23日)の更新で詳しく紹介しておりますが、器量という面に関しては、やはり残念ながら…と言ったところでしょうか。
足利尊氏
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
足利尊氏の性格の良さは、いろいろ聞いたことがあります。
① 楠木正成と戦った時、何度も命を救おうと降伏を促し、遺体を丁重に葬った。
② 争っていたはずの後醍醐天皇にたいして、非常に尊敬していて、強硬な姿勢を望めなかったこと。
個人的には、歴史上で、『愛情が深くて、優しい人間』の一人だったと思います。
私が、思う性格の良い人物とは
◆ 織田信長、足利尊氏、昭和天皇、明治天皇、聖徳太子
の5人です。
残念ながら、徳川家康は、性格は、悪かったと思いますが、当時の人間からもその当時の記録から
かなり、家康嫌いがいたようですね。
政治家・武将としての能力は、認めますが、人間としては、ちょっと。。?です。
青田さんへ
黒田裕樹 人間の良さと統治能力とは別物ですからね。
信長も本来は虐殺を好まない人物だった(例えば、反逆した兄の信広を許しているし、滅ぼした斎藤龍興を追放しただけで殺していない)のですが、義弟で全面的に信頼していた浅井長政の裏切りがトラウマとなって、性格が変わってしまったようですね。
尊氏の優しさは、悪くいえば優柔不断(ゆうじゅうふだん、ぐずぐずして物事の決断のにぶいこと)でもありました。当初は弟の直義と二人三脚(ににんさんきゃく)で順調だった幕府政治も、やがては尊氏の執事(しつじ、後の管領=かんれい)の高師直(こうのもろなお)らの勢力と、直義らの勢力との間が不和となり、尊氏は彼らをまとめることができませんでした。
1350年になると、直義は尊氏と対立して南朝側につき、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が始まりました。一時期は後醍醐天皇の子の後村上天皇(ごむらかみてんのう)率(ひき)いる南朝が京都に入り、尊氏が南朝に降伏して北朝側の三種の神器を引き渡すなど、京都や幕府は大混乱となりました。
1352年に直義が急死(毒殺されたとも伝えられています)した後も混乱は続き、尊氏派と旧直義派、さらには南朝勢力の三者の争いが続いたことで、この後も約10年にわたって京都を中心に動乱が続いたのでした。




いつも有難うございます。
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りら 京都は 今は観光の町 平和でのんびりとした感じですよね
でも京都程 過去には政変の激動
戦争の動乱 これ程 あった場所は 無いのではないでしょうか
思う処がありますね
りらさんへ
黒田裕樹 > 京都は 今は観光の町 平和でのんびりとした感じですよね
> でも京都程 過去には政変の激動
> 戦争の動乱 これ程 あった場所は 無いのではないでしょうか
> 思う処がありますね
そのとおりです。応仁の乱をはじめ、数え切れないほどの戦乱が起きたことで、京都の町は幾度となく焼け野原になりました。
京都では「戦後」といえば第二次大戦ではなく、応仁の乱の後だという話を聞いたことがあります。
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ぴーち こんばんは!
動画をUPされる前にお邪魔してしまいましたので、また、後日拝見させていただきますね^^
優しさと「優柔不断」は似て異なもの。
優柔不断では、武将としては一番の致命傷になりうる事だと思います。普段は優しくても、しっかり自分というモノ、自分の考えを決断出来なければ、やはり扇子の要であり続けることは困難でしょうね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 動画をUPされる前にお邪魔してしまいましたので、また、後日拝見させていただきますね^^
すみません、皆様のブログの訪問を優先していたものでして…。今晩中には画面左下の「過去の歴史講座」から見られるようにするつもりです。
> 優しさと「優柔不断」は似て異なもの。
> 優柔不断では、武将としては一番の致命傷になりうる事だと思います。普段は優しくても、しっかり自分というモノ、自分の考えを決断出来なければ、やはり扇子の要であり続けることは困難でしょうね^^;
仰るとおりだと思います。非情な決断ができなかった尊氏の「甘さ」が、この後の我が国を戦乱に巻き込むことになってしまうから皮肉なものです。
かといええ、血も涙もない独裁者でも困るのですが…。
吉良上野介が
しのぶもじずり うわあああ、
高師直って「仮名手本忠臣蔵」の悪役ですよね。
こんなところにいた人だったんですね。
しのぶもじずりさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
高師直は史実においても何かとあった人物として知られていますが、忠臣蔵の世界を室町時代に置き換える際に「悪役」として最適な人物と考えられたようですね。
さて、尊氏は1358年に54歳で亡くなりますが、南北朝の動乱は彼の生存中には決着がつくことはありませんでした。尊氏には人間が本来持つべきとされる性格の良さはあっても、それが政治家としては役に立たなかったばかりか、優柔不断さが政権に対して足を引っ張ったことで、彼の死後も室町幕府は混乱が続き、やがて来る戦国時代への流れにまでつながってしまうのです。
ところで、尊氏のとった行動とその後の現実を冷静に見極め、自己の政権樹立の際に同じ轍(てつ)を踏(ふ)まないように慎重に行動した男が後の世に現れました。
彼は対立する勢力を卑劣(ひれつ)な手段を用いてまでして徹底的に滅ぼしたのみならず、朝廷に対しては幕府がつくった法律を守らせるなどでコントロールし、将来地位をおびやかしそうな大名には広大な領地を与える代わりに政治には一切口出しさせず、さらには巨大な宗教団体を南北朝のように二つに分割することで、内部で争いを起こさせて幕府に対抗しないように仕向けたのでした。
その男とは、もちろん徳川家康(とくがわいえやす)のことです。250年以上続いた江戸幕府による平和が、尊氏とは似ても似つかない、家康のような油断のならない「狸(たぬき)オヤジ」によって実現されたというのが、歴史上の何ともいえない皮肉ですね。
ちなみに、徳川家康については今年(平成22年)の8月7日(土)に、東京(港区・六本木)で行われる講座で取り上げる予定です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
ははぁ~ん。。
いつの時代も「狸オヤジ」が
政治の世界では登場するんですね~。政治家さんって、何故か悪名高い方が息が長いと感じるのは、私だけでしょうか?
それにしても、一人の天下取りが失敗した政治を行うと、随分と後々
尾を引いてしまうものなんですね~(^^A
やはり、しっかりとした人物が天下を治めることの大切さを感じます。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ははぁ~ん。。
> いつの時代も「狸オヤジ」が
> 政治の世界では登場するんですね~。政治家さんって、何故か悪名高い方が息が長いと感じるのは、私だけでしょうか?
そういうことです。悪名高い方が度胸があって政治家に向いているのかもしれませんね。
しかしながら、どんなに優秀でも国益を考慮しない政治家は…。
> それにしても、一人の天下取りが失敗した政治を行うと、随分と後々
> 尾を引いてしまうものなんですね~(^^A
> やはり、しっかりとした人物が天下を治めることの大切さを感じます。
一時の政策の誤りは、後々までに尾を引きます。
繰り返しになりますが、だからこそ政治家は国の行く末を誤ってはならないのです。
.黒田先生
りら 徳川家康は好きになれません
徳川政権が長く続いたため
鎖国政策が続き
日本が世界に遅れをとった気がします
帰宅して先生からコメント頂いていたので
とても嬉しかったです
ありがとうございます
りらさんへ
黒田裕樹 > 徳川家康は好きになれません
> 徳川政権が長く続いたため
> 鎖国政策が続き
> 日本が世界に遅れをとった気がします
たしかにそういうイメージがありますね。
鎖国状態に入ったのにはそれなりの理由があったのですが、それよりも問題なのは、後の幕府がそんな中途半端な状態をずるずる長続きさせてしまったことですね。
家康が嫌いな人は多いですが、そのあたりも含めて8月の東京講座を進めてみたいと思っています。
> 帰宅して先生からコメント頂いていたので
> とても嬉しかったです
> ありがとうございます
いえいえ、わたしもりらさんのお言葉に励まされておりますよ(^^♪
.
アクア これは、
なにで習いますかね?
全くわからないっす泣
アクアさんへ
黒田裕樹 > これは、
> なにで習いますかね?
> 全くわからないっす泣
そうですね…。
通常の授業では学ばないかもしれませんが、覚えておいて損はないですよ。
歴史という科目を、単なる「丸覚え」で済ますのか、あるいは「流れ」でとらえて理解するのか。
前者は高校を卒業した途端にすべてを忘れてしまいますが、後者は多少の回り道はあっても、必ず自分自身の役に立ちますよ。
それが本当の「歴史教育」と信じて、私はブログを続けています。
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佐佐木 こんにちは(≧∇≦)b
次回の東京講座は
六本木ですか(・∀・)アヒャ!!
今から、楽しみです。
家康は見かた次第で
かなりいろんな面のある人だから
先生がどう料理されるのか
楽しみです。
がんばってください!
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 次回の東京講座は
> 六本木ですか(・∀・)アヒャ!!
> 今から、楽しみです。
本当は六本木の予定ではなかったのですが、いろいろと理由がありまして(笑)。
当日にでもお話させていただきますね(^^♪
> 家康は見かた次第で
> かなりいろんな面のある人だから
> 先生がどう料理されるのか
> 楽しみです。
> がんばってください!
有難うございますm(_ _)m
自分なりの見方で引っ張っていけるよう、鋭意準備中です。
楽しみにお待ち下さい(^ω^)