後醍醐天皇は、すべての土地の所有権の確認に天皇の綸旨(りんじ、側近が出す天皇の命令書のこと)を必要とするなど、天皇に権限が集中するように考えられましたが、あまりに多くの案件(あんけん、問題となっていることがらのこと)がご自身に殺到(さっとう)したため、現実には中央の機関として行政や司法などの重要な政務をつかさどる記録所(きろくしょ)や、土地に関する訴訟を扱った、旧幕府の引付(ひきつけ)に相当する雑訴決断所(ざっしょけつだんしょ)などを置かれました。
この他にも北条氏を滅ぼした勲功(くんこう)に対する恩賞を定めた恩賞方(おんしょうがた)や、軍事や警察をつかさどる武者所(むしゃどころ)が置かれたほか、地方にはこれまでどおり国司(こくし)と守護(しゅご)が並んで置かれました。また、天皇ご自身が軍隊をお持ちでない代わりに子の護良親王を征夷大将軍に任命されたほか、鎌倉幕府の本拠地であった関東や東北にはそれぞれ鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)や陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)が置かれました。
後醍醐天皇によるこれらの新しい政治は、鎌倉幕府滅亡の翌年(1334年)に改められた建武(けんむ)という年号から、建武の新政(けんむのしんせい)と呼ばれています。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
りら 後醍醐天皇は歴代天皇の中で
一番私には偉大ですが
やはりかなり革新的な事を
なさった人なんですね
名を残す人は違いますね
黒田先生の名前も残ると信じています
りらさんへ
黒田裕樹 > 後醍醐天皇は歴代天皇の中で
> 一番私には偉大ですが
> やはりかなり革新的な事を
> なさった人なんですね
元の朝廷中心の政治体制に戻そうとなさったのですが、その方法が確かに革新的でしたね。ただ、それゆえに世の中の時流に乗ることができず、天皇ご自身にとっては残念な結果になってしまいます。詳しくは明日(19日)以降の更新をご覧下さい。
> 名を残す人は違いますね
> 黒田先生の名前も残ると信じています
私の名前ですか…。
男と生まれたからにはやはり憧れますね。
.
ぴーち こんばんは!
建武の新政=後醍醐天皇
なるほど、この有名な言葉が
黒田さんのご説明で、ようやく
私の頭の中でがっちりと繋がりました^^;
(それまでは、バラバラでしたからw)
ありがとうございます♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 建武の新政=後醍醐天皇
> なるほど、この有名な言葉が
> 黒田さんのご説明で、ようやく
> 私の頭の中でがっちりと繋がりました^^;
> (それまでは、バラバラでしたからw)
> ありがとうございます♪
それは良かったですね(^^♪
お役に立てて光栄です(^_^)v
ただ、残念なことに建武の新政は短い期間で終わってしまったんですよね…(´・ω・`)
その理由は…明日(19日)の更新までお待ち下さいm(_ _)m
.激変ではなかった?
オバrev 建武の新政は、建武という年号からとってきてたのか(O_O)
でも、鎌倉幕府と室町幕府のちょうど狭間になりますが、政治システムにあまり大幅な変化はないようにも感じました。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 建武の新政は、建武という年号からとってきてたのか(O_O)
そのとおりです。年号から歴史的事実の名称を付ける、という点では他と同じなんですよね。
> でも、鎌倉幕府と室町幕府のちょうど狭間になりますが、政治システムにあまり大幅な変化はないようにも感じました。
軍隊を持たない朝廷は、現実的には武士の協力なくしてはとても政権を維持できませんからね。それでも武士をたてることなく朝廷独自の政治を行おうと思えば、どうしても無理が出てきます。そこに付け入った人物が…おっと(笑)、ここから先は次回以降にまたお話しましょう(^^ゞ
そんな幕府を倒すために何度も兵を挙げられ、結果として建武の新政が実現できたことは、後醍醐天皇にとっては当然のことであり、このまま天皇による新政が未来永劫(みらいえいごう)続くものであると思われていました。
しかし、後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府を倒すのに協力した武士たちは、勢力が衰(おとろ)えて政治を任せられなくなった幕府の代わりに、他の武士による新しい組織のもとで、これまでどおりの「武士による、武士のための政治」を続けることを望んでいたのでした。
それなのに、後醍醐天皇は皇族や公家のための政治しか実行せずに、これまで守られてきた土地の所有権などの武士の権利がないがしろにされたことで、建武の新政に対する武士たちの不満は次第に高まっていきました。
平氏政権が貴族化した際もそうであったように、いくら武力などで世の中を支配したところで、それが国民の理解を得られなければ、その政権は絶対に長続きできないのです。この場合も、当時の国民の代表たる武士の期待に応えられなかった建武の新政にはかげりが見え始めていました。
そして、そんな武士たちの空気を察(さっ)したかのように、後醍醐天皇から「最高の栄誉」を受けたはずの一人の武士が、建武の新政に対して反旗(はんき)をひるがえしたのでした―。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
佐佐木あつし こんにちは先生。
微妙な質問なんですが
朱子学ってどっちかと言えば
本家の方ではマイナーな考えですよね・・あれって、
誰が日本に持って帰ってきたんですか?
というより
誰が後醍醐天皇に吹き込んだのかなぁ?
まあ、家康に至っては確信犯だったとは思うんですが・・
すいません、ふと質問が涌いてきちゃって・・
お教えください(≧∇≦)b
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 微妙な質問なんですが
> 朱子学ってどっちかと言えば
> 本家の方ではマイナーな考えですよね・・あれって、
> 誰が日本に持って帰ってきたんですか?
そうですね。本家の中国よりは我が国の方が広まりましたから、そういう印象が強いですね。
朱子学が初めて我が国に持ち込まれたのは鎌倉時代の初期といわれていますが、定かではないようです。ただ、少なくとも鎌倉幕府の五山の学問として広まったことは確かなようです。
> というより
> 誰が後醍醐天皇に吹き込んだのかなぁ?
> まあ、家康に至っては確信犯だったとは思うんですが・・
後醍醐天皇に関しては私もよく存じませんが、可能性があるとすれば先述した鎌倉五山あたりからかもしれませんね。
家康の場合は徳川家の繁栄のために意識的に導入したという側面がありますから、たしかに確信犯ですね(笑)。
> すいません、ふと質問が涌いてきちゃって・・
> お教えください(≧∇≦)b
答えになったかどうか分かりませんが(爆)、こんなところでよろしいでしょうか?
また何でもご質問下さい(^^♪
.
オバrev なるほど、朱子学が後醍天皇の考えの根本だったんですね。
だからあそこまで頑張れたんですね。
だけど、政権の安定のためには政治力、経済力、軍事力に国民の支持をバランスよく得ていることが大事ですね。
民主党の謀議員は、政治力+経済力+軍事力があるけど、その独裁政治に国民の支持はないように思いますが・・・。
黒田先生.
りら 後醍醐天皇のような 良くも悪くも
政治的権力を持つ事が出来た
天皇が後に続き 天皇政治が続いていたとしたら
日本はどうなっていたか 考えました
ヨーロッパの王政のようにです
私への 素晴らしいコメント有り難く感謝しています
励みになります 有難うございます
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど、朱子学が後醍醐天皇の考えの根本だったんですね。
> だからあそこまで頑張れたんですね。
朱子学の元になった儒学は、良くも悪くも執念深いですからね。
最後まであきらめないことの重要性もうかがえます。
> だけど、政権の安定のためには政治力、経済力、軍事力に国民の支持をバランスよく得ていることが大事ですね。
> 民主党の謀議員は、政治力+経済力+軍事力があるけど、その独裁政治に国民の支持はないように思いますが・・・。
仰るとおりだと思います。
今までの歴史を振り返れば、国民の支持を得られない政治は絶対に長続きできません。ただ、民主党政治が終わるのが早いのか、それとも…。
りらさんへ
黒田裕樹 > 後醍醐天皇のような 良くも悪くも
> 政治的権力を持つ事が出来た
> 天皇が後に続き 天皇政治が続いていたとしたら
> 日本はどうなっていたか 考えました
> ヨーロッパの王政のようにです
当時の国民の代表的組織は武士でしたから、武士のための政治に対して後醍醐天皇が寛容であれば、あるいは長続きしたかもしれませんね。
ただ、その場合はヨーロッパの王政とは一味違う道のりを歩んだと考えられます。
ヨーロッパでは王朝交代がそれこそ当たり前でしたが、我が国の本当の元首はずっと天皇だからです。もっとも、この時期は真っ二つに分かれたことで、かえって存続が危ぶまれましたが…。
> 私への 素晴らしいコメント有り難く感謝しています
> 励みになります 有難うございます
いえいえ、りらさんのブログこそ、私に様々なことを思い出させたり、考えさせたりして下さいます。こちらこそ有難うございます。
.
ぴーち こんばんは!
リンカーンの言葉を思い出して
いました。
「人民の人民による人民ための政治」やはり民衆が主役であり、
そうあるべきなんだなと思いますねェ。
応援凸
管理人のみ閲覧できます
-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > リンカーンの言葉を思い出して
> いました。
> 「人民の人民による人民ための政治」やはり民衆が主役であり、
> そうあるべきなんだなと思いますねェ。
全く以ってそのとおりです。
「俺は政治家だから偉いんだ」。そう思うのは個人の自由ですが、自分が政治家として食べていけるのも、すべては支持する大多数の国民あってこそなんですよね。
一部の利益しか考えられないようでは、国民の支持を失って失脚するか、国と運命をともにしてしまうでしょう。後者は願い下げですけどね(笑)。
.
クメゼミ塾長 高氏立つ ですね
天皇親政、天智・天武・持統天皇…
天皇親政、どうしても、身内擁護になりますよね
まあ、天皇が全ての正義と定義すると、武士の反駁は全て謀反になりますが…
そういえば、『天皇ご謀反』これも変ですねえ
『勝てば官軍、世の習い』ですね
このように、身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを偏諱(へんき)といいます(なお、それまでの名乗っていた高氏の「高」は、自害した北条高時から同じように偏諱を受けていました)。天皇が身分の低い者、ましてや「ケガレた存在」として嫌われる存在であった武士に対して偏諱を受けさせるのは空前絶後(くうぜんぜつご、過去にも例がなく、将来もありえないと思われること)のことでした。
しかし、尊氏が本当に欲しかったのは征夷大将軍の地位であり、目指していたのは「武士による、武士のための政治」を自分が行うことでした。源義家の血を引く武家の名門の子孫である自分自身こそが、北条氏に替わって政治の実権を握るにふさわしいと考えていたのです。
そんな折、1335年に北条高時の子の北条時行(ほうじょうときゆき)が関東で中先代の乱 (なかせんだいのらん)を起こし、一時期は鎌倉を占領しました。尊氏は乱の鎮圧(ちんあつ)を口実(こうじつ)に後醍醐天皇の許可を得ないまま鎌倉へ向かって時行軍を追い出すことに成功すると、そのまま鎌倉に留まって独自に恩賞を与え始めるなど、後醍醐天皇から離反(りはん)する姿勢を明らかにしました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
晴雨堂ミカエル 大河ドラマでは珍しく南北朝の動乱を描いた作品です。尊氏役の真田広之氏が蒙古兵もビックリの騎馬術を披露しているほか、北畠顕家を後藤久美子氏が演じるなど話題性たっぷりの佳作です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 大河ドラマでは珍しく南北朝の動乱を描いた作品です。尊氏役の真田広之氏が蒙古兵もビックリの騎馬術を披露しているほか、北畠顕家を後藤久美子氏が演じるなど話題性たっぷりの佳作です。
そういえばありましたね。CSでも最近までやっていたようですが、残念ながら私は未見です。
機会があれば、ぜひ見てみたいですね。
黒田先生.
りら 身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを
偏諱という言い方をするんですね
よく あることですが それが偏諱と呼ぶことは知りませんでした
ありがとう いつも新しい発見の連続です
心からお礼申し上げます
.
ぴーち こんばんは!
なるほど、そういう事柄があって
「高氏」が「尊氏」となった訳なんですね^^
偏諱という言葉も初めて伺いました。
これは身分の上位のものが、下位の者へ与える場合のみに、言われる言葉なんですね!
よく父親が、子供が生まれた際に、
自分の名前を一文字付ける事に対しては、この言い方はしないのですね?
それでは、応援凸
りらさんへ
黒田裕樹 > 身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを
> 偏諱という言い方をするんですね
> よく あることですが それが偏諱と呼ぶことは知りませんでした
偏諱の具体例はよく聞くのですが、呼び方を目にすることは確かに少ないかもしれません。
武家同士では良くある話ですが、今回のように「天皇→武士」というのは例がないですね。
それだけ尊氏の功績が大きかったのですが、尊氏の望みとは別の方角だったのが、この後の「謀叛」へとつながっていくのは残念です。
> ありがとう いつも新しい発見の連続です
> 心からお礼申し上げます
こちらこそ、お忙しい中お言葉をいただきまして有難うございます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、そういう事柄があって
> 「高氏」が「尊氏」となった訳なんですね^^
> 偏諱という言葉も初めて伺いました。
> これは身分の上位のものが、下位の者へ与える場合のみに、言われる言葉なんですね!
> よく父親が、子供が生まれた際に、
> 自分の名前を一文字付ける事に対しては、この言い方はしないのですね?
そうですね。偏諱は身分の高い人間が低い人間に対して自分の一字を与えるということですから、現代ではそういう言い方はしなくなっていますが、親が子に名前の一文字を与えるのは名残といえるかもしれません。
.
満柚子 日本史は残念ながらやってないんですよ
世界史の方なら…
カタカナ多くて覚えにくいですw
どうして名前が変わっていくのか不思議だったんですが、そういう訳だったんですね!
満柚子さんへ
黒田裕樹 > 日本史は残念ながらやってないんですよ
> 世界史の方なら…
> カタカナ多くて覚えにくいですw
それは残念ですね(´・ω・`)
世界史は必修ですから頑張らないと(`・ω・´)
でも確かに覚えにくいかもしれません(^^ゞ
> どうして名前が変わっていくのか不思議だったんですが、そういう訳だったんですね!
そうなんです。歴史上の有名人物でも結構多いですよ。
例えば徳川吉宗は、綱吉の「吉」をもらっているんです。