後嵯峨天皇は子の後深草天皇(ごふかくさてんのう)に譲位して院政を始められましたが、やがて後深草天皇の同母弟(どうぼてい、母を同じくする弟のこと)である亀山天皇(かめやまてんのう)に譲位させ、さらに亀山天皇の子の世仁親王(よひとしんのう)を皇太子にされました。
後嵯峨上皇は1272年に皇位の継承者を鎌倉幕府に一任される形で崩御されると、幕府は世仁親王を後宇多天皇(ごうだてんのう)として即位させる一方で、次の皇太子を後深草天皇の子である熈仁親王(ひろひとしんのう)に決めました。
こうした幕府の調停によって、後深草上皇の血統である持明院統(じみょういんとう)と、亀山上皇の血統である大覚寺統(だいかくじとう)とが、まるでキャッチボールのように交代しながら皇位につかれることになったのでした。これを両統迭立(りょうとうてつりつ)といい、両統は幕府に働きかけて自分に有利な地位を得ようとするなど、やがてお互いに激しく争うようになりました。




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ぴーち こんばんは!
この辺りのお話は・・。自分の中で一番
整理出来ていない時代です(>0<)
また、新たな気持ちで勉強させてくださいね^^;
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この辺りのお話は・・。自分の中で一番
> 整理出来ていない時代です(>0<)
> また、新たな気持ちで勉強させてくださいね^^;
確かに中世・近世以前の日本史ではいちばんややこしいところかもしれませんね。
私も学生時代に苦労しましたから(笑)。
その分、ぴーちさんをはじめとする皆様に対して、できるだけ分かりやすく更新を続けたいと思います!(^^♪
.
アクア 名前が多い~
鎌倉幕府は
出来るまでしか知らないですね。
黒田先生.
りら 両統迭立の言葉初めて
聴きました
この時代の天皇家の話は難しく
自分だけでは本も読まないでしょう
先生のお陰で勉強させて頂き
有り難く思っています
.
オバrev 承久の乱は、私が習った○十年前は承久の変だったように記憶していますが、どちらでもいいんでしょうか?
しかし、幕府が天皇を決めるとは、完全に鎌倉幕府が実験を握った証拠ですね。
しかも、兄弟の血統で両統迭立とは・・・これを決めた人物には、始めから対立していくことは分かっていたんじゃないでしょうか。
アクアさんへ
黒田裕樹 > 名前が多い~
確かにそうですね。両統迭立をご理解いただこうと思ったら、どうしても外せない人々ですので…。
今回は「両統迭立」への背景と「持明院統」「大覚寺統」の違いが分かれば大丈夫ですよ(^_^)v
よろしければ、何度でも来られてご確認下さいね(^^♪
> 鎌倉幕府は
> 出来るまでしか知らないですね。
そうですか。
いずれ必ず勉強することになりますので(笑)、これを機会に少しずつ理解できれば良いですね。
りらさんへ
黒田裕樹 > 両統迭立の言葉初めて
> 聴きました
そうなんですか。鎌倉幕府の滅亡後、室町幕府が誕生してしばらくの間続いた「ある時代」のきっかけになったキーワードですから、今回のが良い機会になればいいですね。
> この時代の天皇家の話は難しく
> 自分だけでは本も読まないでしょう
> 先生のお陰で勉強させて頂き
> 有り難く思っています
お言葉、光栄です(^^♪
明日(15日)にはこの時代の皇室のカギを握られる重要人物が登場しますので、よろしくお願いしますm(_ _)m
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 承久の乱は、私が習った○十年前は承久の変だったように記憶していますが、どちらでもいいんでしょうか?
私が学んだときもそうでした(笑)。結論を先に言えば、基本的にどちらでも構わないと思います。
承久の乱については、当事者の後鳥羽上皇が「乱」を起こされるのは語感がおかしいということで「変」となっていたんです。最近では当時の幕府と朝廷の力関係から「乱」が主流になっています。
> しかし、幕府が天皇を決めるとは、完全に鎌倉幕府が実験を握った証拠ですね。
> しかも、兄弟の血統で両統迭立とは・・・これを決めた人物には、始めから対立していくことは分かっていたんじゃないでしょうか。
仰るとおり、朝廷の実権が承久の乱をきっかけに完全に幕府に握られていたんですよね。両統迭立については、幕府は調停をしたのみで、基本的には後嵯峨上皇が後継者をはっきりとお決めにならなかったことが主な原因といえそうです。
ちなみに、天皇の追号(ついごう)は崩御後に決められるものですが、平安時代の醍醐天皇(だいごてんのう)による延喜の治(えんぎのち)を理想とされたことから、後醍醐天皇は生前から自らを「後醍醐」と追号されるようにお決めになっておられました。ご自身の理想の高さと強い決意の現れと判断すべきかもしれません。
さて、後醍醐天皇が親政を始められた頃の鎌倉幕府は、第14代執権の北条高時(ほうじょうたかとき)や内管領(うちかんれい)の長崎高資(ながさきたかすけ)による得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)が行われる一方で、分割相続などによって御家人の窮乏化(きゅうぼうか)が進んだことで、幕府に対する反発が大きくなっていました。
これを好機と思われた後醍醐天皇は、討幕(とうばく)の計画を二度も進められましたがいずれも失敗され、幕府によって隠岐(おき)へと流されました。なお、1324年に起きた一回目の討幕は正中の変(しょうちゅうのへん)と呼ばれ、二回目の1331年は元弘の変(げんこうのへん)と呼ばれています。




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りら 後醍醐天皇が追号を後醍醐とご自分で決められたんですね
では何故 そこまで その名前にこだわったのでしょう
出来れば教えて下さい
りらさんへ
黒田裕樹 > 後醍醐天皇が追号を後醍醐とご自分で決められたんですね
> では何故 そこまで その名前にこだわったのでしょう
> 出来れば教えて下さい
本文にも書かせていただきましたが、後醍醐天皇は天皇ご自身による親政を理想とされておられました。その前例として、平安時代初期の醍醐天皇による延喜の治こそがふさわしいと考えておられ、自分も醍醐天皇のように政治を行いたいと強く思われるようになりました。
そこで、本来は崩御後に周囲が決めるご自身の追号を、生前から「後醍醐」とすると決めておられたのです。このような例は非常に珍しいですね。
ちなみに、明治天皇以後は、一世一元の制により、ご在位の際に使用された元号を追号とすることになっています。
.
ぴーち こんばんは!
天皇自ら、政治の表舞台に出て
実権を握りたいと考えた天皇は
珍しい事だったのでしょうか。
と、歴史に疎い人間らしい?模範にもならない質問でお許しください(^^A
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 天皇自ら、政治の表舞台に出て
> 実権を握りたいと考えた天皇は
> 珍しい事だったのでしょうか。
古代ならいざ知らず、中世では珍しいですね。
後鳥羽上皇が復権をかけて承久の乱を起こして失敗しただけに、至難の業ではないかと思われたのですが…。
> と、歴史に疎い人間らしい?模範にもならない質問でお許しください(^^A
いえいえ、素朴な疑問ほど重要なものはないですよ。
「なぜ?」「どうして?」と思うことから探究心が広がりますからね(^_^)v
.
スカイラインV35 醍醐天皇と村上天皇の”延喜・天暦の治”が後世に理想の時代とされたのは、摂関家を置かず(既にこの頃は形式的だったかもしれませんが)天皇親政が実現された最後の時代だからなんですよね。天皇号も村上天皇以降は、数例を除いて、江戸時代末期まで900年復活しなかったようですね。
そして、醍醐天皇の系譜と同じように、後醍醐天皇の父親を後宇多天皇、後醍醐天皇の次代を後村上天皇としたんですよね。
それにしても後醍醐天皇の執念というかパワーは物凄いものがありますね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 醍醐天皇と村上天皇の”延喜・天暦の治”が後世に理想の時代とされたのは、摂関家を置かず(既にこの頃は形式的だったかもしれませんが)天皇親政が実現された最後の時代だからなんですよね。天皇号も村上天皇以降は、数例を除いて、江戸時代末期まで900年復活しなかったようですね。
仰るとおりです。たまたま藤原氏に有力な人材がいなかったという理由もありますが、天皇が自ら政治を行われたのはこの時代が最後でしたからね。同時期に天皇号も消滅して、江戸時代の光格天皇まで待たないといけませんでしたから、皇室にとっては不遇な時代だったのかもしれません。
> そして、醍醐天皇の系譜と同じように、後醍醐天皇の父親を後宇多天皇、後醍醐天皇の次代を後村上天皇としたんですよね。
両方とも後醍醐天皇の意図が強く反映されていますね。後村上天皇も生前追号ですが、これは完全に父君である後醍醐天皇のお考えによるものと思われます。
> それにしても後醍醐天皇の執念というかパワーは物凄いものがありますね。
いずれ後述しますが、後醍醐天皇が熱心に研究された学問がカギを握っていると考えられます。大陸伝来ですからしぶといですよ(笑)。
後醍醐天皇の子である護良親王(もりよししんのう、または「もりながしんのう」)は父の意志を継ぐべく諸国に兵を募(つの)って幕府に抵抗し続けたほか、幕府に対抗する武士団という意味の悪党(あくとう)の一人であった楠木正成(くすのきまさしげ)は、河内国(かわちのくに、現在の大阪府東南部)の赤阪城(あかさかじょう)や千早城(ちはやじょう)に立てこもって幕府の大軍と戦いました。
特に、わずかな兵で幕府軍を翻弄(ほんろう、思うままにもてあそんで手玉にとること)し続けた楠木正成の貢献度は絶大でした。鎌倉幕府は武家政権ですから、大軍で攻め込みながら、少数の兵士しか率(ひき)いていない正成の軍勢にいつまで経っても勝てないということは、それだけ幕府の威信(いしん)に傷がつくのです。事実、正成がしぶとく戦っている間に、各地で討幕の軍勢が次第に集まってきました。
この情勢をみられた後醍醐天皇は、1333年に隠岐を脱出されて、伯耆国(ほうきのくに、現在の鳥取県西部)の名和長年(なわながとし)を頼って挙兵されました。この事態を重く見た幕府は、北条氏と姻戚関係(いんせきかんけい、婚姻によってできた血のつながりのない親戚=しんせきのこと)にあった有力御家人を現地へ派遣(はけん)しました。彼の名を足利高氏(あしかがたかうじ)といいます。




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JJSG こんにちは。
「足利たかうじ」って、「高氏」って漢字でしたっけ???
「尊氏」だったような。。。
別人かなぁ。。。
失礼しましたぁ。
.黒田先生
りら 先日の私の質問に
丁寧に答えて下さり
ありがとうございます
後醍醐天皇の名前はあまりにも
有名です
興味深く 読ませて頂きました
ありがとうございます
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 「足利たかうじ」って、「高氏」って漢字でしたっけ???
> 「尊氏」だったような。。。
> 別人かなぁ。。。
> 失礼しましたぁ。
「足利尊氏」と「足利尊氏」は同一人物ですよ。
それがなぜ名前が変わったかというと…ちゃんと理由があります。
いずれ講座の中で紹介しますね(^^♪
りらさんへ
黒田裕樹 > 先日の私の質問に
> 丁寧に答えて下さり
> ありがとうございます
> 後醍醐天皇の名前はあまりにも
> 有名です
> 興味深く 読ませて頂きました
> ありがとうございます
いえいえ、また何でもご質問下さい。
後醍醐天皇は歴代天皇の中でも極めて個性的な人物ですね。
それゆえに討幕も可能となったのですが、その一方で…あとは講座の中でご紹介します。
.
ぴーち こんばんは!
私も前の方と重複してしまいますが、
足利高氏というもう一方
有名な方がいらっしゃったのは、驚きです!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 足利高氏と足利尊氏は同じ人物です。
名前が異なるのは、幕府を倒すまでは「高氏」と名乗っていたのが、後に改名するからなんですよ。
なぜ改名するのかというと…後醍醐天皇に関係があるんですけど、詳しくは後日紹介しますね。
後醍醐天皇の執念
オバrev それにしても一度ならず二度も失敗しながら三度目の正直に挑戦するとは、後醍醐天皇の執念は凄いですね。
宿命なのか、よほどの思いがあったのか、大きな改革を実現する人はこのくらいでないといけないのかもしれませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > それにしても一度ならず二度も失敗しながら三度目の正直に挑戦するとは、後醍醐天皇の執念は凄いですね。
> 宿命なのか、よほどの思いがあったのか、大きな改革を実現する人はこのくらいでないといけないのかもしれませんね。
確かに物凄い執念です。その理由はいずれ後述しますが、やはり思想面の影響が大きいと思います。
後醍醐天皇はたしかに大きな改革を実現されました。しかし、その成果は…これもまたいずれ紹介します。
高氏は他の反幕府勢力を率いて入洛(にゅうらく、京へ入ること)を果たすと、1333年5月7日に六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼしました。同じ頃、高氏と同じ源義家の血を引く新田義貞(にったよしさだ)も上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)で反幕府の兵を挙げ、鎌倉へ向かいました。
義貞は鎌倉を脱出した高氏の子の千寿王(せんじゅおう、後の足利義詮=あしかがよしあきら)と合流して、共同で鎌倉を攻めました。5月18日には北条氏最後の執権である第16代の北条守時(ほうじょうもりとき)を滅ぼし、22日には得宗の北条高時や内管領の長崎高資らを自害に追い込んで、源頼朝以来約140年続いた鎌倉幕府はついに滅亡しました。
なお、足利高氏も新田義貞も本姓(ほんせい)は源氏ですが、それぞれの本拠地である足利や新田を苗字(みょうじ)として名乗っています。これは北条氏も同様であり(本姓は平氏)、本姓は「○○の」と「の」が付くのに対して、苗字は「○○」と「の」が付かないことで区別できます。




いつも有難うございます。
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佐佐木あつし 先生、こんにちは
千早城いいですねー
あの辺から鎌倉滅亡までをじっくり講義していただきたいですニャー
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 先生、こんにちは
こんにちは(^o^)丿
お忙しい中、ブログの更新お疲れ様です。
> 千早城いいですねー
> あの辺から鎌倉滅亡までをじっくり講義していただきたいですニャー
楠木正成はこの時代の英雄ですからね(^^♪
講談師としては腕の見せ所ですが(笑)、いずれ別の機会にでも取り上げてみたいものです。
こんばんは
スカイラインV35 北条氏の執権は16代で潰えたんですね。初めて知りました。
足利幕府の将軍は尊氏から義昭まで15代、徳川幕府の将軍も家康から慶喜まで15代。そして、自民党が単独過半数で自民党総裁が首相であり続けたのも、初代総裁の鳩山一郎から15代総裁の宮澤喜一まで(その後は連立)。
偶然の一致としか説明のしようがありませんが、こんな偶然もあるんですね。
.黒田先生
りら 「の」一つで大変な違いですね
毎日思いますが
先生の根気のよい ご研究です
これだけの事 書かれるための準備
アップご努力 感服するのみです
.
ぴーち こんばんは!
足利高氏は、私の住んでいる県にも縁の深い人物ですが、生誕の地という説があるのですが、他にも同じように高氏の生誕の地はここだと名乗りを挙げている場所もありますよね。
どうして、色々な場所に分散されてしまっているんでしょうか。
はるか昔の縄文や、弥生の時代ならまだしも、室町時代くらいになると
文献なども揃っている様に思うのですが。。
応援凸
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 北条氏の執権は16代で潰えたんですね。初めて知りました。
> 足利幕府の将軍は尊氏から義昭まで15代、徳川幕府の将軍も家康から慶喜まで15代。そして、自民党が単独過半数で自民党総裁が首相であり続けたのも、初代総裁の鳩山一郎から15代総裁の宮澤喜一まで(その後は連立)。
> 偶然の一致としか説明のしようがありませんが、こんな偶然もあるんですね。
お言葉をいただくまで私も気がつきませんでした。
15代前後がひとつの節目なのでしょうか。
そう思えば125代も続く皇室の血統は物凄く貴重ですね。
りらさんへ
黒田裕樹 > 「の」一つで大変な違いですね
仰るとおりです。昔は「姓」と「苗字」がはっきりと区別されていたんですね。
ちなみに豊臣秀吉の「豊臣」も天皇から与えられた「姓」なので、正しくは「とよとみのひでよし」と呼ぶべきなんです。もはや「とよとみひでよし」が一般化してしまっているのでどうしようもないのかもしれませんが…。
> 毎日思いますが
> 先生の根気のよい ご研究です
> これだけの事 書かれるための準備
> アップご努力 感服するのみです
お言葉有難うございます。
確かに根気が必要ではありますが、一番の支えは、皆様の温かいご支援です。
今後ともよろしくお願いいたします。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 足利高氏は、私の住んでいる県にも縁の深い人物ですが、生誕の地という説があるのですが、他にも同じように高氏の生誕の地はここだと名乗りを挙げている場所もありますよね。
> どうして、色々な場所に分散されてしまっているんでしょうか。
> はるか昔の縄文や、弥生の時代ならまだしも、室町時代くらいになると
> 文献なども揃っている様に思うのですが。。
文献は確かにあるのですが、いわゆる「後付け」で書かれるなど信憑性(しんぴょうせい)が疑わしいものも多いですからね。
歴史の真実を見極める作業もなかなか大変です。
.
HANA子 鎌倉幕府滅亡、そして始まる後醍醐帝親政
やがてくる南北朝時代の動乱が待ち遠しい・・・・・・と言ったら不謹慎でしょうか?
しばらくぶりです。ご無沙汰しておりました~
太平記は何度も読み返したバイブルなんです
個人的には南北朝争乱に入った後の尊氏・直義兄弟の確執の辺りなど好みなんですが、先生はどうですか?
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 鎌倉幕府滅亡、そして始まる後醍醐帝親政
> やがてくる南北朝時代の動乱が待ち遠しい・・・・・・と言ったら不謹慎でしょうか?
確かに日本史で五本の指に入る名場面ですからね(^^♪
> しばらくぶりです。ご無沙汰しておりました~
> 太平記は何度も読み返したバイブルなんです
> 個人的には南北朝争乱に入った後の尊氏・直義兄弟の確執の辺りなど好みなんですが、先生はどうですか?
南北朝は尊氏や直義が南朝や北朝に付くなど目まぐるしく変わりますから、ややこしいんですよね。その原因は建武の新政の主役二名の性格にあるのですが…。
今回は通常の更新なので深くは触れませんが、いずれは特集でやってみたいですね(^o^)丿