これらの現象は、平安中期より広まり始めた末法思想(まっぽうしそう)そのものであると人々に強く信じられたことで、救いを求める意味も込められたのか、鎌倉時代には新しい仏教が相次いで生まれ、人々の信仰を広く集めました。
現代では鎌倉仏教(かまくらぶっきょう)と呼ばれる新しい仏教は、それまでの加持祈祷(かじきとう)や学問という印象よりも、内面的なものを重視しながら武士や庶民(しょみん)などの幅広い階層を中心に広まっていったのが大きな特徴でもありました。
美作国(みまさかのくに、現在の岡山県北東部)の武士の家に生まれた法然(ほうねん)は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で天台宗(てんだいしゅう)を学んだ後に下山(げざん)し、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏(ねんぶつ)を唱(とな)えるだけで、分け隔(へだ)てなく誰でも極楽往生(ごくらくおうじょう)への道が開かれるとする専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを説(と)きました。いわゆる浄土宗(じょうどしゅう)のことです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
まり姫 今日は出かけていてお邪魔するのが遅くなりました^^
明日は退院後の検査が金曜日に変更になりましたので、また留守にします(*^.^*)エヘッ
もちろん毎日のポチは忘れませんからねo(^-^)o
.
紗那 ふむふむ、ここで末法思想が再登場するんですか。一瞬、末法思想……?と思ってしまいましたけどw
この時代の鎌倉新仏教は、覚えることが多くて大変だったのを記憶しています。
まり姫さんへ
黒田裕樹 > 今日は出かけていてお邪魔するのが遅くなりました^^
> 明日は退院後の検査が金曜日に変更になりましたので、また留守にします(*^.^*)エヘッ
> もちろん毎日のポチは忘れませんからねo(^-^)o
いつも有難うございますm(_ _)m
こちらも忘れずに応援させていただきますね(^_^)v
紗那さんへ
黒田裕樹 > ふむふむ、ここで末法思想が再登場するんですか。一瞬、末法思想……?と思ってしまいましたけどw
末法思想は平安文化でしたね(笑)。
記事本文の下線部をクリックするとリンク先に飛べますよ(^^♪
> この時代の鎌倉新仏教は、覚えることが多くて大変だったのを記憶しています。
確かに覚えるべきことが多いですからね。
今回から時間をかけて、ゆっくりと紹介する予定です。
.
ぴーち こんばんは!
釈迦入滅後、正法、像法、そして末法千年と平安時代頃からもう少しで(2050年頃)1000年目を迎えようとしていますが、この末法の世の中は、何が起こっても不思議ではないくらいに、天変地異やら、人間同士の争いや秩序の乱れが起こりやすいと言われていますが、確かに今のこの時代も、混沌としていて、異常気象や地震などが多いですね(><)
その様な時代が到来することがあらかじめ予測されていたので、末法の初めの時代には、様々な宗教が起こったのも、当然の現象だったのですね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 釈迦入滅後、正法、像法、そして末法千年と平安時代頃からもう少しで(2050年頃)1000年目を迎えようとしていますが、この末法の世の中は、何が起こっても不思議ではないくらいに、天変地異やら、人間同士の争いや秩序の乱れが起こりやすいと言われていますが、確かに今のこの時代も、混沌としていて、異常気象や地震などが多いですね(><)
仰るとおり、末法の世から1000年が経過しようとしていますね。乱れやすい世の中は困ったものですが…。
> その様な時代が到来することがあらかじめ予測されていたので、末法の初めの時代には、様々な宗教が起こったのも、当然の現象だったのですね!
宗教は偶然に生まれたのではなく、いわば必然たる理由があったということですね。歴史が生まれる背景には、必ずといっていいほど「動機」も存在するという一つの見本でもあります。
こんばんは
りら 極楽往生への道が専修念仏教えとなり浄土宗になったのですね
また新しい発見です
しばらく講座にもゆっくり伺えませんでした。コメントとても嬉しかったです。ありがとう
りらさんへ
黒田裕樹 > 極楽往生への道が専修念仏教えとなり浄土宗になったのですね
> また新しい発見です
仰るとおりの流れです。ご理解いただければ私も嬉しいです。
> しばらく講座にもゆっくり伺えませんでした。コメントとても嬉しかったです。ありがとう
いえいえ、りらさんの楽しい記事が復活することを期待しております。
.こんにちは
星月冬灯 暗い時代には、必ずといっても
いいほど、宗教が目立ちますね。
それまでの宗教とは違って、確かに
法然の教えは人々に広まりやすい
ものですよね。言ってる内容は
ひじょうに分かりやすくて、学問
的ではないですし。
今日もいい勉強をさせて頂きました^^
星月冬灯さんへ
黒田裕樹 > 暗い時代には、必ずといっても
> いいほど、宗教が目立ちますね。
そうですね。世の中が不安定なときほど、救いを求めようとするものでしょうか。
> それまでの宗教とは違って、確かに
> 法然の教えは人々に広まりやすい
> ものですよね。言ってる内容は
> ひじょうに分かりやすくて、学問
> 的ではないですし。
これまでとは違って、仏教が一般庶民にまで広まるようになりましたからね。
それだけ分かり易さも求められるというのも理解できます。
> 今日もいい勉強をさせて頂きました^^
こちらこそ、お言葉有難うございます(^^♪
法然は選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)という著書を残しています。また、浄土宗の総本山(そうほんざん、中心となる寺院のこと)は京都の知恩院(ちおんいん)です。
法然が流されたとき、弟子として同じく越後国(えちごのくに、現在の新潟県)に流されたのが親鸞(しんらん)でした。貴族の出身である親鸞は、天台宗の僧となって延暦寺で修行を積みましたが、自力での修行に限界を感じ、やがて山を下りました。
下山後に法然と出会った親鸞は、彼の弟子として研鑽(けんさん)を積む間に師の教えをさらに徹底させて、阿弥陀仏(あみだぶつ)の存在を信じ、心に念ずるだけで(つまり、念仏を言葉で唱えることにこだわらない)極楽往生できるとしました。いわゆる浄土真宗(じょうどしんしゅう、別名を一向宗=いっこうしゅう)のことです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
スカイラインV35 この時代は、日本の仏教が小乗仏教から大乗仏教に移行した時期なのでしょうか?それとも、この以前に日本の仏教は大乗仏教となっていたのでしょうか?
この頃から、一般の人の代わりに僧侶が厳しい修行を行い、厳しい修行をしていない一般の人でも仏恩を受ける事が出来るようになった的なイメージを勝手に持っています。
良く分かりませんが、日本仏教の輝いていた時といった感じがしますね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > この時代は、日本の仏教が小乗仏教から大乗仏教に移行した時期なのでしょうか?それとも、この以前に日本の仏教は大乗仏教となっていたのでしょうか?
最澄や空海の段階で、大乗仏教の影響を受けていたと考えられます。特に最澄が我が国に広めた天台宗から、浄土宗や浄土真宗などの多数の宗派が生まれていますからね。
> この頃から、一般の人の代わりに僧侶が厳しい修行を行い、厳しい修行をしていない一般の人でも仏恩を受ける事が出来るようになった的なイメージを勝手に持っています。
> 良く分かりませんが、日本仏教の輝いていた時といった感じがしますね。
そのイメージで正解だと私も思います。仏教がより庶民に近づいた時代だったと思いますが、本文にも書きましたように、仏教が求められるということは、世の中の不安の裏返しでもあったと考えられます。これもまた「皮肉な歴史の流れ」といえそうです。
法然上人
JJSG こんにちは。
いい機会ですから、法然上人について少し補足説明させていただきたく思います。
法然上人は、幼名を「勢至丸」、美作国(岡山県)稲田庄の武士、漆間時国(うるまときくに)の子として生を受けました。
勢至丸9歳のとき、父の時国が、源定明から恨みを買い、ある夜半に寝首をかかれた。
臨終虫の息で横たわる時国に、勢至丸は父の仇討ちを誓いますが、そのとき、時国は、「仇討ちの志はうれしいが、仇討ちは幾世代にもわたって絶えない愚かなことだから、やめてほしい。出家して、日本一の僧侶となって父の菩提を弔ってほしい。これが最後の望みだ」
と言って死んでいきました。
その父の遺言に従って、勢至丸は出家を決意し、近隣の菩提寺というお寺に入りました。勢至丸の並はずれた聡明さに比叡山行きを勧められ、15歳で天台宗比叡山に入山。
名を「法然」と改め、修行・学問に切磋琢磨し、天台宗のみならず、八家九宗といわrた諸宗の教学にも悉く精通。
40歳を迎えられた頃には、他に比肩する者のない学識を備えられるに至ったが、内心に眼をむけられた時、未だ悟りが得られず、後生暗い心の解決は未だできていない。
天台法華の教えに絶望し、泣く泣く山を下りられます。
黒谷の報恩蔵で、釈尊の一切経(すべての経典)を一つずつ、ひもとかれます。
善ができない、悪をやめようと思っても悪を作らずしては生きてゆけない、そのような自分でも助かる教えを必ず釈尊は説いておられるはずだ。そんな教えがどこかにあるに違いない。
一切経の中に自己の救われる道を知るまではこの報恩蔵を出ないと、異常な決心をなされ、七千余巻の一切経に取り組まれます。
難解な経典を一つ読むだけでも大変なのに、七千余巻ある一切経すべてを一つ一つ読んでいかれました。
一通り読まれても、自分の助かる教えがわからない。目のまえが真っ暗になるが、読み落としたに違いないと、再び一切経を読んでいかれますが、二度目も徒労に終わる。。。
後生暗い心、後生の一大事の解決をあきらめるわけにはいかないと、三度、四度と想像を絶する持久力で一切経読破の作業が続けられました。
迫り来る無常と罪悪に溢れる涙はほほを伝わり経典の上に滴り落ちる。
涙にぬれた経典をもはや惰性のように読み進められた五回目の中程、中国の善導大師の書かれた「観無量寿経疏」の中の、「一心に専ら、弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者これを正定の業と名く。彼の仏願に順ずるが故に」を読まれた一念に、法然上人は阿弥陀仏に救い摂られた。
後生暗い心がぶち破られ、大安心大満足の摂取不捨の幸せの身、絶対の幸福に救い摂られたのです。
法然上人は、懺悔と歓喜で涙にくれ、『観無量寿経疏』を手に高々と報恩感謝の念仏を称えられた。
当時の記録では、「高声念仏」と伝えられています。
時に承安五年、法然上人43歳の御時でありました。
それ以来、法然上人は京都吉水で、どんな人も救われる阿弥陀仏の本願を力強く説き続けられたのです。
親鸞聖人が法然上人にめぐり会われたのは、その26年後でした。
少しでも伝われば、と思います。
失礼しました。
JJSGさんへ
黒田裕樹 法然上人も様々なご経験を積まれて専修念仏にまで至ったのですね。
歴史の奥の深さを実感します。
現代のお坊さんはどの宗派の人も結婚できますが、これが広まったのは明治時代以降のことであり、それ以前の僧は、浄土真宗を除いて戒律を守っていましたから、浄土真宗の教えの特異性がうかがえます。
この他にも、親鸞は自分の煩悩(ぼんのう、身心を悩ませ苦しめる心の作用のこと)の深さを知っている人間(=悪人)こそが、自らが阿弥陀仏による救いの対象となることを知ることができる、という悪人正機(あくにんしょうき)を説きました。
親鸞は越後に流罪の後は関東地方で30年以上も留(とど)まって布教を続ける一方で、教行信証(きょうぎょうしんしょう)という著書を残しました。親鸞の没後に弟子がまとめたとされる歎異抄(たんにしょう)も有名ですね。ちなみに、浄土真宗の総本山は京都で東西に分かれた本願寺(ほんがんじ)です。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
JJSG 再びこんにちは♪
土曜って、ゆっくりできて、いいですよねぇ~♪
親鸞聖人のご一生については、私のブログで永遠と書き続けていますので、読んでいただけたらうれしいなぁ、と思います。
浄土真宗。
親鸞聖人は、法然上人こそが開祖だと教えられています。
親鸞聖人は、法然上人の正しいみ心さらに徹底して教えひろめられた。
そして、本願寺八代目の蓮如上人が親鸞聖人の正しい教えを日本全国に爆発的にひろめられました。
「本師源空明仏教
憐愍善悪凡夫人
真宗教証興片州
選択本願弘悪世」
(正信偈/親鸞聖人)
源空とは法然上人のこと。
本師・法然上人が真実の仏教、阿弥陀仏の本願をあきらかにされ、すべての人(善・悪の凡夫人)を憐愍なされ、真宗の教・証(弥陀の本願は、どんな人でも、現在ただいま、ハッキリと救われること)を日本(片州)に興し、「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」と阿弥陀仏の本心が誓われた第十八願(選択本願)を末法濁乱の世(悪世)にただお一人で立ち上がられ、弘められた。
補足説明になれば、と思います。
失礼しました。
(追加)
浄土真宗の総本山は本願寺ですが、現今の本願寺は悲しい有り様です。
伝統、歴史的遺産などばかりが目につき、肝心要の教えが抜け落ちています。
教えこそが命です。
法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が明らかにされ、代々、命懸けで伝えてくだされた教えを
明らかに、正しく、徹底的に教え伝えてほしい、と願うばかりです。
.
ケンシロウ こんにちは。
随分ご無沙汰してしまいました。
ブログ1周年を迎えたようですね。
おめでとうございます。
勉強嫌いで育ったおいらですが
先生のブログを読むことで
部分的に記憶がよみがえることがあります。
これからも頑張って下さい。
JJSGさんへ
黒田裕樹 JJSGさんにとって、親鸞聖人は特別な存在でいらっしゃいますね。
私の拙(つたな)い説明よりもはるかに詳しく書かれておられます。
本願寺については同感です。
教えこそ命。まさにそうですよね。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 いつも有難うございます。
感情に左右されず、冷静に歴史を見つめるべき当講座ですが、次回だけはそうは行かないようです。
レジュメを作成している途中で涙が…(^^ゞ
.
ぴーち こんばんは!
僧侶の食生活と言ったら
「精進料理」が主流のように思いました。精力を薄くさせる為に、或いは無益な殺生を避けるために、こんにゃくを使ったものや、野菜、高野豆腐のように植物性のたんぱく質を摂ったりと
動物からのたんぱく質摂取というのは、
余り聞いた事がありませんでした。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 僧侶の食生活と言ったら
> 「精進料理」が主流のように思いました。精力を薄くさせる為に、或いは無益な殺生を避けるために、こんにゃくを使ったものや、野菜、高野豆腐のように植物性のたんぱく質を摂ったりと
> 動物からのたんぱく質摂取というのは、
> 余り聞いた事がありませんでした。
真言宗の高野山の精進料理は有名ですからね。そんな戒律にこだわる必要がないというのは、当時は大きな革命的なものだったと思います。
「阿弥陀仏様はとてつもなく偉大なお方であり、善人と悪人の違いや、仏の道への信心の有無に関わらず、私たちはすべて極楽往生ができる」と考えた一遍は、全国を行脚(あんぎゃ)しながら、踊念仏(おどりねんぶつ)によって信者たちと集団で念仏を唱えて教えを広めました。
踊念仏には、人間にとって捨てきれない煩悩(ぼんのう)を、ひたすら踊ることで燃え尽くすほどに発散させようとする狙(ねら)いと、極楽往生できることがすでに決まっていることに対する喜びや感謝の気持ちを表現するという意味が込められているとされています。
全国を遊行(ゆぎょう、僧が布教や修行のために各地を巡り歩くこと)して布教を広めたことで、一遍は遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と称され、また彼に従った人々は時衆(じしゅう)と呼ばれました。一遍は死の直前に自己の所有していた経典などをすべて焼き捨てましたが、彼の弟子たちによってまとめられた一遍上人語録(いっぺんしょうにんごろく)が江戸時代に刊行されています。
一遍の教えは時宗(じしゅう)と呼ばれ、主に地方の武士や農民の支持を受けました。時宗の総本山は神奈川県の清浄光寺(しょうじょうこうじ)です。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
晴雨堂ミカエル 当時は自由に踊っていたそうですね。たぶん、沖縄や韓国の宴会のラストの大団円みたいな光景ではないかと思っています。
今は型が決まって静かに踊る形式、創始者の物語はダイナミックで良いのですが、時を経るにつれてアク抜きされつまらなくなります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 踊念仏に関しては一遍上人絵伝にも描かれていますが、相当激しく踊っていたようですね。
一般庶民に受けいれられたのが分かるような気がします。
.
ぴーち こんばんは!
なるほど~。
踊って極楽浄土にいけるのなら、
極端な話、ダンサーさんは皆さん極楽浄土へ
まっしぐらですね(^^A
人生、そんなに甘くはないはずですが。ね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 踊って極楽浄土にいけるのなら、
> 極端な話、ダンサーさんは皆さん極楽浄土へ
> まっしぐらですね(^^A
いわれてみれば確かにそうですね(笑)。
私も信心よりもダンスを学んだほうが極楽へ行けるかも(^^ゞ
> 人生、そんなに甘くはないはずですが。ね?
甘くないからこそ、救いを求めたくなるのかもしれませんね。
踊念仏で救われるのであれば、確かに当時は流行したと思います。
黒田さん.
りら 踊りと宗教
原始時代からですよね
私にはあの世に行ってからの幸せを
願う気持ちは理解出来ないのですが
この時代の人々は現実の暮らしが
大変だったのでせめてあの世で幸せにと願ったのでしょうか
りらさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、現世に希望を見失う時代だったのかもしれません。
だからこそ、せめてあの世では極楽で暮らしたい、という切実な願いが踊念仏には込められていたのでしょうね。
現代に生きる私たちには想像できません。そう思えば、私たちの何と幸せなことでしょうか―。
やがて法華経(ほけきょう)のみが釈迦(しゃか)の正しい教えであると確信した日蓮は、難しい法華経の経典が読めなくても、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という題目(だいもく)を唱えれば救われる、と説きました。いわゆる日蓮宗(にちれんしゅう)の始まりです。
浄土宗や浄土真宗のように静かに念仏を唱えたり(あるいは心の中で信心したり)するのではなく、自らが法華経を信仰していることを周囲に広めるという意味から、題目を唱える際には団扇太鼓(うちわだいこ)をドンドンと打ちながら「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と大声を張り上げるという形式が主流となりました。
日蓮は、法華経のみがこの世の中を救うことができるとし、それ以外の宗教は邪教(じゃきょう)であり、邪教を信じれば自身や国を滅ぼすことになる、と他の宗派を激しく攻撃するとともに、折伏(しゃくぶく)というある意味強い手段で転宗させようとしました。このような排他性(はいたせい)を持つのが、日蓮宗の大きな特徴のひとつです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
紗那 そういえば、日蓮宗の排他性については、学校でやったような気も←
うぅ、日蓮さん、思ってたよりも自己中心的な人だったんですねー。
紗那さんへ
黒田裕樹 > そういえば、日蓮宗の排他性については、学校でやったような気も←
どの宗派も他宗派に対してはあまりいい顔をしないものですが、日蓮宗の場合は特にはっきりしていますね。
> うぅ、日蓮さん、思ってたよりも自己中心的な人だったんですねー。
日蓮上人自身の個性もあったのではないでしょうか。
個人名が宗派になっているくらいですからね。
.
ぴーち こんばんは!
日蓮の奇跡的な逸話は
数多く残されていますね。
何度も流罪に遭ったり、死刑に
処せられそうになるそのたびに
必ずその命が救われたそうです。
個人名が宗派の名前になるのは、
それだけ自分の教えに自信が
あったのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日蓮の奇跡的な逸話は
> 数多く残されていますね。
> 何度も流罪に遭ったり、死刑に
> 処せられそうになるそのたびに
> 必ずその命が救われたそうです。
日蓮上人に関する伝説は数多いですね。それだけ上人ご自身に対する尊敬の念が深かったということでしょうか。
> 個人名が宗派の名前になるのは、
> それだけ自分の教えに自信が
> あったのでしょうね。
私もそう思います。他の宗派への激しい攻撃は、自己の宗派への自信の裏返しとも考えられますし。
黒田さん.
りら 折伏と言う言葉は以前より
嫌いでした
「ねじ伏せる」との感じがします
私自身はあまり攻撃的な言葉を使う
事は好きではないので
ただそれだけの信念が持てる人は
凄いですね
りらさんへ
黒田裕樹 > 折伏と言う言葉は以前より
> 嫌いでした
> 「ねじ伏せる」との感じがします
> 私自身はあまり攻撃的な言葉を使う
> 事は好きではないので
確かに折伏にはそういうイメージがありますからね。
排他性なのも輪をかけているような気がします。
> ただそれだけの信念が持てる人は
> 凄いですね
確かに日蓮上人には「信念の人」という印象が深いです。
良くも悪くも個性の強い人だったのでしょうね。
日蓮は立正安国論(りっしょうあんこくろん)など多数の著書を残しています。また、日蓮宗の総本山は山梨県の身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)です。
ところで、鎌倉を中心とする関東の武士の間で広がり、大きな勢力を持っていたのは禅宗(ぜんしゅう)でした。坐禅(ざぜん)によって自らを鍛(きた)え、布団(ふとん)の上げ下ろしや洗濯(せんたく)など、日常生活のなかで「自分のことは自分でする」という様々な厳しい修行を重ねることが武士の気風(きふう、気性や気だてと同じ意味)に合っていたからです。
鎌倉時代に我が国にもたらされた禅宗には二つの宗派がありましたが、それぞれ対照的な広がりを見せることになりました。栄西(えいさい)による臨済宗(りんざいしゅう)と、道元(どうげん)による曹洞宗(そうとうしゅう)です。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!今日は今から出かける予定があるので、早めに応援です^^
禅宗の厳しい修行は武士達の気風に
うまくマッチしているという事が理由で
広がっていったのですね!
本当の修行とは、日々水の流れのごとく
坦々と行われるべきだと認識しておりますが、これらの所作もまた、日々の生活の中で行われるべき修行の一部として
考えられていたのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 禅宗の厳しい修行は武士達の気風に
> うまくマッチしているという事が理由で
> 広がっていったのですね!
> 本当の修行とは、日々水の流れのごとく
> 坦々と行われるべきだと認識しておりますが、これらの所作もまた、日々の生活の中で行われるべき修行の一部として
> 考えられていたのでしょうね。
「何事も修行である」という精神はずっと受け継がれていますからね。
禅は今でも我が国の風土にあっているといえるでしょう。
黒田先生
りら 道元による曹洞宗の講座楽しみに
しています
私が書いている小説「杏第二章」に
出てくる泉岳寺は曹洞宗の寺院です
泉岳寺の関係から駒澤大学が出来た
はずです
先生なら詳細をご存じですよね
りらさんへ
黒田裕樹 > 道元による曹洞宗の講座楽しみに
> しています
有難うございます。あまり長文にはならないかもしれませんが、ご期待いただければと思っております。
> 私が書いている小説「杏第二章」に
> 出てくる泉岳寺は曹洞宗の寺院です
> 泉岳寺の関係から駒澤大学が出来た
> はずです
> 先生なら詳細をご存じですよね
泉岳寺も駒大も曹洞宗とは縁がありますからね。
確か泉岳寺の学寮が駒大の基礎になったはずです。
.
sisi ご無沙汰しています。
鎌倉時代の仏教の代表といえば、やっぱり日蓮様ですね、感動が残ります。
親鸞も感動ありますね。
ブログ村投票!
sisiさんへ
黒田裕樹 > ご無沙汰しています。
こちらこそご無沙汰しております。
> 鎌倉時代の仏教の代表といえば、やっぱり日蓮様ですね、感動が残ります。
> 親鸞も感動ありますね。
鎌倉仏教の開祖はそれぞれが個性的ですからね。
感動の物語も込められております。
> ブログ村投票!
いつも有難うございますm(_ _)m
.
オバrev 自らを座禅で鍛える禅宗というのは、現在はどうなんでしょうか?
一般庶民には、やはり浄土真宗と日蓮宗が広まったように思いますが。
でも、元は釈尊の教えだと思いますけど、解釈の違いなんですかね??
とは言うものの、自殺者が3万人を越える今、精神的なバックアップとしての仏教の重要性は高まっているように思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 自らを座禅で鍛える禅宗というのは、現在はどうなんでしょうか?
> 一般庶民には、やはり浄土真宗と日蓮宗が広まったように思いますが。
私の知り合いで禅宗を信仰している人は結構いますが、確かに浄土真宗の信者数の方が多いような気がしますね。
> でも、元は釈尊の教えだと思いますけど、解釈の違いなんですかね??
釈迦の教えのうち、何を中心とするか、あるいは教えの道の手段の違いと言えるのではないかと思います。これに関しては明後日(23日)に詳しく紹介します。
> とは言うものの、自殺者が3万人を越える今、精神的なバックアップとしての仏教の重要性は高まっているように思います。
私も同意です。救いの手を差し伸べることで、助けられる命は多くあると思います。
先述したように、禅宗が武士の気風に合ったことで臨済宗は幕府の保護を受け、後には京都に大本山(だいほんざん)となる建仁寺(けんにんじ)を建立しました。臨済宗では、坐禅に打ち込みながら、師から示される公案(こうあん、設問のこと)を解くために懸命に努力するなかで悟りを開くという公案問答(こうあんもんどう)を説きました。
栄西が亡くなった後も臨済宗は幕府の保護を受け、南宋から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や無学祖元(むがくそげん)が招かれました。蘭渓道隆は第5代執権の北条時頼に招かれて鎌倉の建長寺(けんちょうじ)の開山(かいざん、初代住職という意味)となり、無学祖元は第8代執権の北条時宗に招かれて、同じく鎌倉の円覚寺(えんがくじ)の開山となりました。
栄西は興禅護国論(こうぜんごこくろん)という著書を残したほか、喫茶養生記(きっさようじょうき)も有名です。実は、現在のようなお茶を飲む習慣を広めたのは栄西であるといわれており、喫茶養生記の中で茶の薬効(やっこう)などが紹介されています。なお、喫茶養生記は第3代将軍の源実朝に献上されたものです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
イルカ あーーーー。
質問です!
こうゆう宗教・人・どんなことをやったか
をちゃんと覚えるためにはどうしたらいいでしょうか…?
毎度悩んでます←
.
ぴーち こんばんは!
喫茶養生記。お茶を飲む習慣。。そんな習慣にも最初に広めた
方がいらっしゃったのですね(笑)
面白いですね^^
茶道とはまた違うものなのですね!
応援凸
.
紗那 宗教においても、朝廷が無理なら幕府へ……! という流れなんですね。今までは漫然と「禅宗は武士に受け入れられた」と覚えていましたが、事実関係を考えながら学ぶと、なおわかりやすいと感じました。
お茶をのむ習慣を……! あ、感謝しないと←
イルカさんへ
黒田裕樹 > 質問です!
> こうゆう宗教・人・どんなことをやったか
> をちゃんと覚えるためにはどうしたらいいでしょうか…?
> 毎度悩んでます←
そうですね。
私の講座の本文を基にして、鎌倉新仏教の開祖である6人に関する簡単な表を自身で作って、それぞれを歴史の流れの従いながら理解するという方法がいちばんいいとは思いますが…。
ちょっと考えてみますね。
建長寺
スカイラインV35 けんちん汁も建長寺の僧侶が食していたから、という説がありますよね(建長寺汁 → けんちん汁)。
江戸時代では沢庵和尚が沢庵の考案者という説もありますが、お茶を飲む習慣も鎌倉時代の栄西かもしれないんですね。
お寺とか僧侶というのは、色々な分野で最先端の存在だったのかもしれませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 喫茶養生記。お茶を飲む習慣。。そんな習慣にも最初に広めた
> 方がいらっしゃったのですね(笑)
> 面白いですね^^
> 茶道とはまた違うものなのですね!
茶道は室町~戦国時代に本格化しますから、また別の話になりますね。
この場合は茶をたしなむ習慣というべきでしょうか。
茶の成分であるカフェインが、禅の修業の大敵となる眠気覚ましに役立ったとも考えられますね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 宗教においても、朝廷が無理なら幕府へ……! という流れなんですね。今までは漫然と「禅宗は武士に受け入れられた」と覚えていましたが、事実関係を考えながら学ぶと、なおわかりやすいと感じました。
仰るとおりです。
幕府にとっても、自分についてくる新しい仏教勢力の存在は渡りに船でしたでしょうから、栄西の政治力は相当なものだったと考えられますね。
これも「歴史の流れ」のひとつといえます。
> お茶をのむ習慣を……! あ、感謝しないと←
これもそうですね(笑)。
我が国に持ち帰った茶が、たちまちのうちに普及したのも栄西のお陰だといえます。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > けんちん汁も建長寺の僧侶が食していたから、という説がありますよね(建長寺汁 → けんちん汁)。
> 江戸時代では沢庵和尚が沢庵の考案者という説もありますが、お茶を飲む習慣も鎌倉時代の栄西かもしれないんですね。
漢字で「建長汁」とも書きますからね。野菜を入れた精進料理というところも有力な理由になりそうですし。私も大好きです(笑)。
沢庵といい、お茶といい、食文化と仏教とは結構つながっているものですね。
> お寺とか僧侶というのは、色々な分野で最先端の存在だったのかもしれませんね。
仏教は海外にも通じていましたから、確かに当時の文化として最先端という印象がありますね。
黒田さん.
りら 鎌倉の建長寺はブログアップした事があります
まだ黒田さんとお知り合いになる前
だと思います
その時、けんちん汁の事書きました
今日はそれで特に楽しく読ませて
頂きました
りらさんへ
黒田裕樹 鎌倉はりらさんの地元とそう離れていませんからね。
けんちん汁は美味しいですし、ひょんなところから歴史を見直す機会もあるものです。
道元は越前国(えちぜんのくに、現在の福井県東部)に永平寺(えいへいじ)を建立して開山となり、名誉や利益を求める心である名利の念(めいりのねん)を捨てて、厳しい規律のもとに修行を行うことで、北陸地方を中心に布教を続けました。
道元は正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)という著書を残しています。なお、曹洞宗は道元の弟子にあたる瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)によって飛躍的な発展をとげたことで、現在では道元と瑩山紹瑾が「両祖」(りょうそ)と称されているほか、瑩山紹瑾が開いた総持寺(そうじじ)は、永平寺と同格の大本山とされています。
ちなみに、総持寺は能登国(のとのくに、現在の石川県北部)の輪島にあったのですが、明治時代に火災で焼失した後に、現在の横浜市に移転しています。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
曹洞宗はそういう経緯を辿って
広がっていたのですね!
例えが悪いですが、
一つのヒット曲が出来上がるのには、
元になる作曲家がメロディーラインを
考えて、さらにそこへ肉付けする為の
編曲者がその曲を盛り立てている様な
そんなチームワークを感じました^^
少なくとも道元さんが、民主党のように、影で操る首領(ドン)の様な存在じゃないだけでも良いとは思います
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 曹洞宗はそういう経緯を辿って
> 広がっていたのですね!
> 例えが悪いですが、
> 一つのヒット曲が出来上がるのには、
> 元になる作曲家がメロディーラインを
> 考えて、さらにそこへ肉付けする為の
> 編曲者がその曲を盛り立てている様な
> そんなチームワークを感じました^^
分かりやすい例えを有難うございます。
開祖が大切なのは言うまでもないですが、いわゆる「中興の祖」も繁栄には欠かせない存在ですからね。道元→螢山という流れあっての曹洞宗なのでしょう。
> 少なくとも道元さんが、民主党のように、影で操る首領(ドン)の様な存在じゃないだけでも良いとは思います
最近はマリオネットの調子が悪い…というよりどんどん「化けの皮」がはがれていっているようですから、首領様もお困りのようですね(^^ゞ
黒田先生.
りら 総持寺と私の家は実は縁があります
以前から今の場所にあると思っていました
石川県に前はあったのですね
知らないということは残念です
教えて下さりありがとう
りらさんへ
黒田裕樹 総持寺=横浜という印象が強いんですが、実際には移転してからまだ100年ちょっとなんですよね。
ちなみに大阪の茨木市にも、真言宗の寺院である総持寺がありますよ。阪急電車の駅にもなっています。
映画「ZEN」
晴雨堂ミカエル ご覧になられましたか? 主役はかなり頑張っていました。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 ありましたね。残念ながら未見ですが、「かなり頑張った」とのご批評とあらば、連休を利用してでも拝見してみたいです。
それまでの仏教は、厳しい修行を積むとともに、長大かつ難解な経典を読破(どくは)しなければならなかったのに対して、念仏や題目、禅といったいわば「簡略版」で問題ないとした鎌倉仏教の分かりやすさが、武士や庶民に門戸(もんこ)を開放し、幅広い支持を受けたといえるでしょう。
これらの新仏教の動きに対して、従来の仏教勢力も巻き返しを図りました。鎌倉時代の初めの頃、華厳宗(けごんしゅう)の明恵(みょうえ、別名を高弁=こうべん)は戒律を厳重に守りながら権勢におもねず、求道(ぐどう)の生活を続けることで、第3代執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)などの多くの人々の尊敬を受けました。
明恵と同じ頃、法相宗(ほっそうしゅう)の貞慶(じょうけい、別名を解脱=げだつ)も山城国(やましろのくに、現在の京都府南部)の笠置寺(かさぎでら)にこもって厳しい修行を続けました。その後も、奈良の西大寺(さいだいじ)を復興した律宗(りっしゅう)の叡尊(えいぞん、別名を思円=しえん)やその弟子の忍性(にんしょう、別名を良観=りょうかん)らは、戒律を重んじるとともに、貧しい人々や病気を救済して治療したほか、土木工事などの社会福祉事業に力を尽くしました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
鎌倉時代に生まれたそれぞれの
宗派は、どの宗教にも人々を救うだけの力が当初は備わっていたと聞いた事がありますが、その後、色々な方面に分派してしまったり、人間の欲などの邪心が介入してしまった事で、その力が衰えてしまっている宗派もあるようですね。
なかなか開祖の純粋な教えを長い間引き継いでいくというのは、並大抵な事ではないように感じます。
応援凸
明日の講座も、影ながら応援してます^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 鎌倉時代に生まれたそれぞれの
> 宗派は、どの宗教にも人々を救うだけの力が当初は備わっていたと聞いた事がありますが、その後、色々な方面に分派してしまったり、人間の欲などの邪心が介入してしまった事で、その力が衰えてしまっている宗派もあるようですね。
確かに6つの宗派とその分派のすべてが栄えている、とはいかなかったかもしれませんね。長い歴史の中では、宗派の栄枯盛衰も激しかったようです。
> なかなか開祖の純粋な教えを長い間引き継いでいくというのは、並大抵な事ではないように感じます。
時間が経つにつれて変化に富んでいる場合が多いですからね。それが良いこともあるのですが…。
> 明日の講座も、影ながら応援してます^^
有難うございます。頑張ってきますね(^_^)v
黒田先生.
りら 日蓮宗は題目を臨済宗や曹洞宗は禅をとのお話がありました
今日の私は日蓮が死んだ池上の地
池上本門寺アップです
いつかも繋がりがありましたね
楽しく拝見しました
ありがとう
りらさんへ
黒田裕樹 偶然とはいえ、りらさんの記事とは何らかの繋がりが良くありますね。
お互いのブログのためにも有難いことだと思っております。
本門寺の桜は本当に美しいですね。
大切なこと
JJSG こんにちは。
仕事休みの土曜はゆっくりできますので、やっぱりいい~♪
鎌倉仏教のお話が続いておりますね。
お山の仏教から一般大衆の仏教へ。
すばらしいことなのですが、そもそもお釈迦様が説かれた仏教の真髄は、お山の仏教ではありません。
すべての人が救われるたった一本の道を教えられたのが真実の仏教であり、釈尊です。
その釈尊の教えを正しく伝えることこそが最も大切なことです。
「一向専念無量寿仏」(釈尊)
(阿弥陀仏に一向専念せよ)
これが仏教、釈尊45年間の教えの結論です。
これに反するものは、仏教ではありませんので、どれだけ大衆に受け入れられようが、繁盛しようが、意味がありません。
「一向専念無量寿仏」の正しい釈尊の本意を命懸けで明らかにされたのは、法然上人と親鸞聖人のみです。
法然上人も親鸞聖人も、「念仏さえ称えれば死ねば極楽往生できる」、などとはどこにも教えられていませんので、注意が必要です。
法然上人がおっしゃっています。
「我ら仏法者にとって、命かけて護らねばならぬのは、天下の掟でもなければ、世間体でもない。ましてや、名誉でも、財産でもない。それは、唯一つ、釈尊出世の本懐である、一向専念無量寿仏と、その布教だけなのだ」
「一向専念の義は、往生の肝腑、仏教の骨目なり」
(親鸞聖人)
蓮如上人がおっしゃっています。
「一宗の繁盛と申すは、ひとの多く集まり、威の大なることにてはなく候。一人なりともひとの信を獲るが一宗の繁盛に候」
「更に親鸞珍しき法をも弘めず、釈迦の教法を、我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」
(親鸞聖人)
釈尊の正しい教えを伝えてこそ、仏教の繁盛だと、強く思いました。
JJSGさんへ
黒田裕樹 鎌倉仏教の最後を飾るにふさわしいお考えを有難うございます。
お釈迦様の正しい教えの広まりが、現在の混迷の世の中の救いになって欲しいと思います。