関ヶ原の戦いに勝利した東軍の徳川家康(とくがわいえやす)はその後天下人(てんかびと)としての道を着実に歩んで1603年には朝廷(ちょうてい)から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸幕府(えどばくふ)を開きました。
一方、敗れた西軍の石田三成(いしだみつなり)は処刑(しょけい)され、彼が懸命(けんめい)に支えようとした豊臣家(とよとみけ)はその後没落(ぼつらく)の道を歩むことになり、1615年の大坂の役(おおさかのえき)でついに滅(ほろ)ぼされてしまいました。
徳川家の栄光と豊臣家の没落とが関ヶ原の戦いではっきり位置付けられたことは間違いないといえるでしょう。その一方で、関ヶ原の戦いに至(いた)るまでの大きな流れをつかんだり、関ヶ原の戦いでもし西軍が勝っていればと想像したりすることは、歴史の研究心を高めるとともに、現代にもつながる大きな教訓を得ることにもなるはずです。
今回の歴史講座では、関ヶ原の戦いを題材に様々な人間模様や「歴史のif」について探っていきたいと思います。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
久しぶりに黒田さんの活気溢れるお声を拝聴させていただきました^^
仰る通り、映画やドラマ、小説などでは有名なお話ではありますが、東軍と西軍、どうして東軍が勝利し、西軍が負けたのか・・
私もこれから勉強させていただきたく思います^^
応援凸
サムライ銅像研究会 こんばんわ。
初めて拝見しました。福島正則公も参加されておられるのですね。もうすこしいじってあげて!と思ってしまいましたが。
毎日楽しみに拝聴させていただきます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 久しぶりに黒田さんの活気溢れるお声を拝聴させていただきました^^
光栄です(^^♪
今回から画質も向上していますよ(^_^)v
> 仰る通り、映画やドラマ、小説などでは有名なお話ではありますが、東軍と西軍、どうして東軍が勝利し、西軍が負けたのか・・
> 私もこれから勉強させていただきたく思います^^
お言葉有難うございます。
これから18回に分けてじっくり解説していきますので、よろしくお願いします。
サムライ銅像研究会さんへ
黒田裕樹 > 初めて拝見しました。福島正則公も参加されておられるのですね。もうすこしいじってあげて!と思ってしまいましたが。
> 毎日楽しみに拝聴させていただきます。
正則公はお疲れのため、いじらずにそっとしておきました(笑)。
今後ともよろしくお願いします。
ひぎゃぁ
クラチー 東京講演の方が貼られてるぅ~!
あのときの懐かしい思い出とともに、
「アレ」が一緒に映ってるし…!
(Д)゜゜
こ…公開されても恥をかかないようにするには、
どうすればいいんだ…ガタガタ。
{{(・m・;)}}
ひーん、いろいろ申し訳ないです!
本当にありがとうございますー!
クラチーさんへ
黒田裕樹 「アレ」は先に行った大阪講演にも貼られていますので…(^^ゞ
インパクトを考えれば、やっぱり東京の方ですよね。
こちらこそ講座に華を添える「アレ」を有難うございます(^ω^)
智-chisato-里 関ヶ原・・・
日本の歴史の中では、絶対に外せない項目ですよね。
もし(if)関ヶ原の戦いが無かったら・・・
もし(if)西軍が勝っていたら・・・
もし(if)秀吉が生きていたら・・・
日本はどう変わっていたんでしょうね?
天下の台所と言われた場所が、現在の日本経済の拠点になっていたのか?
江戸は存在しなかったのでは?
もしかしたら、もっと早くに外国の文明が入って来ていたのかも?
歴史のifは面白いですよね(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
智-chisato-里さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国にとって大きなターニングポイントとなった関ヶ原の戦いについてあれこれ考えることは非常に重要ですね。
今回の講座では、私なりの歴史のifについて検討してみたいと思います。
なぜ秀吉の死が豊臣家の没落の引き金になってしまったのかといえば、後継者(こうけいしゃ)としてわずか6歳の豊臣秀頼(とよとみひでより)しか存在しなかったからでした。いくら何でも6歳の男児に政治が行えるはずがありません。秀吉の死によって生じてしまった政治的な空白を家康に付け込まれたがゆえに、関ヶ原の戦いが起きてしまったといっても過言ではないのです。
秀吉と正妻のおねとの間にはついに子が生まれませんでした。秀頼が生まれたのは秀吉が50歳を過ぎた晩年になってからであり、側室(そくしつ、第二以下の夫人のこと)の淀殿(よどどの)が産んでいます。天下人となった秀吉であれば、いくら正妻との間に子が生まれなかったからといっても、若いうちから側室との間に子をもうけていてもおかしくはないはずでした。
しかし、それは秀吉には無理な話でした。なぜなら、秀吉は「天下人になるべくしてなった」わけではないからです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
この頃の血縁というのは、非常に重要な意味合いをなしている事が伺えますね(^^ゞ
なるほど、秀吉が天下人になってからの期間が短い為に子孫を残せなかった事が致命傷となった訳ですね。。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり血縁の武将に跡を継がせるのが当時の常識なのですが、秀吉の場合は次回に詳しく紹介する「特殊な事情」がありましたからね…。
天下人になるのも大変ですが、その時期も重要ということでしょうか。
こんばんは
ryo 今回のyoutubeの動画なのですが、何度か見る上で便利なので、連続再生できるように編集していただくことは可能でしょうか。わがまま言ってすいません。。
ryoさんへ
黒田裕樹 > 今回のyoutubeの動画なのですが、何度か見る上で便利なので、連続再生できるように編集していただくことは可能でしょうか。わがまま言ってすいません。。
私のブログでは、更新の分量に合わせて映像を分割しております。YouTubeで連続再生の機能というのが見当たりませんので、映像をあらためて編集しなおす作業が必要になりますが、その場合は2GBを超えてしまいますので、画質を落とすなどの編集が必要ですし、また統合した時間(通常は15分程度の長さが限度)の問題もありますので、可能かどうか現状では分かりません。
ただ、YouTubeでのコメントにもryoさんと同じようなご要望がありましたので、時間を見つけて検討してみたいと思います。
そんな信長に対して、秀吉は実に要領よく立ち振(ふ)る舞(ま)いました。自分に子がいなかったとしても家臣という身分では深刻(しんこく)な問題ではなかったですし、またそれを奇貨(きか)として(良い機会として、という意味)、信長の四男であった秀勝(ひでかつ)を自分の養子としました。
信長にしてみれば、自分の子が優秀な家臣の跡継(あとつ)ぎになるのですから嬉(うれ)しくないはずがありません。こうして「信長の家臣」としての地位を確実なものにした秀吉は、そのまま出世街道を歩んで生涯(しょうがい)を終えるはずでした。
しかし、信長が本能寺の変(ほんのうじのへん)で明智光秀(あけちみつひで)に暗殺されてしまったことで、秀吉の運命も大きく変わっていったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
秀吉は最初から天下人になりたいという
考えでは無かった訳ですね。
信長に一生仕える身で、最高の待遇であれば
それで良いという立場を貫こうとしていたんですか・・。しかし、肝心の親方が居なくなってしまった事でその立場が急変してしまったわけですか。。人生、分からないものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
本来ならば「最高の忠実な家臣」で終わるはずが、思わぬ形で天下人になるチャンスが与えられたわけですから…。
もちろんその運をつかんだことは秀吉にとって最高の幸福だったと考えられるわけですし、人生は本当に分かりませんね。
オバrev なるほど~、秀吉に子供がいなかった理由がよく理解できました。
確かにトップに立つというのと、家臣のままでいるのでは全く立場が違いますね。
このことだけでも、秀吉は自分で天下をとろうと思っていなかったことが分かります。
そこが家康との大きな違いじゃないでしょうか。
クラチー お、やっと本能寺の変あたりまできましたね。
魔王様の家臣として頑張っていたときの猿。
この頃はまだ、有能で女好きなだけだったのに…。
(;。;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~、秀吉に子供がいなかった理由がよく理解できました。
> 確かにトップに立つというのと、家臣のままでいるのでは全く立場が違いますね。
> このことだけでも、秀吉は自分で天下をとろうと思っていなかったことが分かります。
そのとおりです。家臣の立場としては、主君の子を養子にもらうというのは最高の「保身」でもありますからね。マイナスをプラスに変えるあたりがいかにも秀吉らしいです。
> そこが家康との大きな違いじゃないでしょうか。
家康は戦国大名ですから、秀吉とは全く立場が異なりますからね。
1560年代に早々と「徳川」を名乗っているところは抜け目がありません。
クラチーさんへ
黒田裕樹 > お、やっと本能寺の変あたりまできましたね。
> 魔王様の家臣として頑張っていたときの猿。
> この頃はまだ、有能で女好きなだけだったのに…。
> (;。;)
仰るとおり、本能寺の変を境に立場がガラッと変わることで、秀吉自身の性格も激変してしまいますからね…(´・ω・`)
立身出世は人間の栄誉でもありますが、失うものも多いようです。
わろ YouTube3/18まで見ました^^
確かに、秀吉の人生前半は天下人を狙っては無いとは思うのですが、自家の存続を狙うことは無かったのでしょうか??
織田の養子を迎えれば、織田家に乗っ取られる感じもしますが、当時の人はどんな気持ちなんでしょうか・・・
逆に、秀吉も毛利家を乗っ取ろうとしたけど、小早川家に養子を養子として出したと思ってたのですが、養子の概念ってどのような位置づけなのでしょうか?
あと、秀吉が、弟や福島や加藤を盛りたてたのは、もう少し後の話なのでしょうか?
なんだか質問ばかりすみません><
わろさんへ
黒田裕樹 確かに表面上は織田家に乗っ取られるかもしれませんが、もともと子供がいないうえに、信長が自分の息子の養子先の家臣の家をつぶすというのが考えられないことや、あまりにも自身が出世を重ねたことで他の家臣にねたまれることを防ぐというメリットの方が大きかったと思います。
養子は確かに乗っ取りというイメージがありますね。ただ、秀吉の場合は自分の方から望んでおり、区別が必要であると思われます。
加藤清正や福島正則の活躍が始まるのは1570年代後半からであり、この頃はまだ20歳前後の青年ですから本格的な活動は信長の死後に秀吉の天下取りが始まってからですね。
考え抜いた末、秀吉は姉の子である豊臣秀次(とよとみひでつぐ)を養子として、関白(かんぱく)の地位を与えました。そのこと自体に大きな問題はなかったのですが、1593年に秀頼が生まれると、実子に跡を継がせたいと思うようになった秀吉は、次第に秀次を遠ざけるようになりました。
そして1595年、秀吉から謀反(むほん)の疑いをかけられた秀次は高野山(こうやさん)に入って出家しましたが、その後に切腹(せっぷく)を命じられ、また秀次の女子供を含(ふく)む一族郎党(いちぞくろうとう)の39人が京都で処刑されました。
それまでの「人たらし」としての面影(おもかげ)が微塵(みじん)も感じられない、秀吉による冷酷無比(れいこくむひ)な行動は、我が子可愛(かわい)さからきたものであると同時に、独裁者(どくさいしゃ)となったことで猜疑心(さいぎしん、相手の行為などを疑ったりねたんだりする気持ちのこと)が強くなったことが理由のひとつであるとされています。
確かに秀吉の行為は同じく独裁者となった信長の晩年と共通するところが見受けられますが、いずれにせよ秀次一族に対する虐殺(ぎゃくさつ)が、実は豊臣家のその後の運命を決定づけてしまったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
やはりどんな人物でも、天下人となると
周りに対しての猜疑心などが自然に身について来てしまうものなんですね。
これも人の上に立つものの性なんでしょうかね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはりどんな人物でも、天下人となると
> 周りに対しての猜疑心などが自然に身について来てしまうものなんですね。
> これも人の上に立つものの性なんでしょうかね(^_^;)
仰るとおりだと思います。
ごく普通の人間が、権力欲の高まりの果てに猜疑心の強い別の人格を持つようになる…。
どんな人間にも当てはまりそうで恐ろしくもありますね。
歴史の
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
もし、仮に、豊臣秀次が、豊臣秀頼の成人するまで、関白となり、殺されなかったとします。
すると、その後の歴史は、どうなっていたと思いますか?
① 関ヶ原の戦いは、起こったか?
② 徳川家康は、態度を軟化させて、宥和策を取ったか?
③ 諸大名は、後継者が豊臣秀次で、納得できたか?
④ 徳川家康が生きている間に徳川幕府は、開けたか?
などの疑問が浮かびました。
黒田先生は、どう思われますか?
支配
ろっぽん 企業でも社会でも私は血族の後継にはあまり好ましく思いません。天皇もです。
血がつながってるだけで、
身分が決まるというのは、納得がいきません。
まぁ豊臣の没落は奢れるもの云々でしょう。
その教訓を学びましょう。
青田さんへ
黒田裕樹 秀次が生きていた場合、秀吉から秀次への「緩やかな政権移譲」が完成していた可能性が高いですね。
もちろん、家康が豊臣家に付け入る隙があったかもしれませんが、現実の世界のように何もかも家康の思いどおりになる可能性は低かったと思われます。
そうなると、さらに歴史が変わっていた可能性が高いですが、この点についてはじっくりと検討する余地がありそうですね、
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 > 企業でも社会でも私は血族の後継にはあまり好ましく思いません。天皇もです。
> 血がつながってるだけで、
> 身分が決まるというのは、納得がいきません。
確かに血族というだけで身分が決まるという制度には弊害が多いですからね。
それが皇室にまで至るというのも自由なお考えでしょう。
> まぁ豊臣の没落は奢れるもの云々でしょう。
> その教訓を学びましょう。
過去の歴史に学ぶのは貴重ですからね。
逆に「なぜ長く続いているのか」など、様々な教訓が存在しておりますし。
長く続いてる存在
ろっぽん 天皇などの継承制は
カトリックのような法王のような制度がいいなぁ
天皇が神官の親分みたいな存在ですから
日本全国の神官の代表を選んだ方がいい
歌舞伎などの世襲制の伝統芸能などは
国立伝統学芸術校などを作って継承するのがいいでしょう現にヨーロッパや中国はそうやっています
私なども民話をよりわかりやすい媒体で全国に伝えようと言う運動をしてます。
半年に一回くらい何を勘違いするのか国粋主義的なサイトから愛国的コメントがきます。
でもその人たちは日本の文化とはなにかを形だけで何も理解してません
民話を授業の中へは、日の丸、君が代強制だけで
愛国教育はできんと郡部の校長などがとりあげたことです。
ろっぽんさんへ その2
黒田裕樹 昨今の歌舞伎役者による騒動を思えば、世襲制が必ず善とは限りませんからね。海外での手法は大いに参考になるでしょう。
300年以上の歴史を持つ歌舞伎に比べ、神話の世界を除いても1500年程度は続いていると考えられる皇室ですが、ろっぽんさんと同じような考えが当然と受け止められていれば、それこそカトリックの法王のように、かなり以前から「日本全国の神官の代表」がその任を受け継いでいることでしょう。しかし、現実にはそうはなってはいない。
なぜ皇室は皇室でなければいけないのでしょうか。カギを握るのは、古事記や日本書紀による神話の世界で語られている天照大神をはじめとする皇祖神(こうそしん)の存在であり、現在の皇室が皇祖神の直系であるという「血の伝説」ですね。
もちろん、その存在自体が怪しいとされる神話の世界に信憑性を求めるのは無理があるでしょう。しかしながら、キリスト教がキリストを唯一神として崇め奉り、一度息絶えた者を「復活」させるなどの数々の伝説を基本に現在においてなお信仰心を深めている姿勢を評価するのであれば、神話を基本とした我が国独自の「八百万の神」といった精神もまた尊重されるべきです。
私は歴史教育に携わる末端の存在ですが、私たち日本人が祖先から受け継いできた「日本の精神」を次代へとしっかりつないでいく立場からも、皇室をはじめとする我が国の長年の伝統を、そのままの形で受け継いでいくという姿勢を重視しております。
同じように長い歴史に根付いた民話を大事に継承しようなさるろっぽんさんであれば、私の考えにもご理解いただけるものと信じております。
ちなみに国旗や国歌の強制ですが、本来であれば強制などしなくても自然と身につくものでしょう。それが長年の教育姿勢によって反対することが当然となりつつある現状を憂慮すれば、一時的には強制じみた行為になるのも仕方ないのではと個人的には思っております。
神道と国民の生活
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
あれから、日本の歴史の神道との関わり方について、本を読みました。
まず、『君が代』についてですが、
この歌詞の意味を知り、感動しました。
『君とは、天皇を指すのではなく、尊敬する人間にたいしての尊敬の呼び名であり、国民が千年も繁栄するように。。』を歌っているとうこと。
しかも古今和歌集で、歌われてということ。
さらに
天皇が和歌を詠むのは、日本の神道の考え方として、言霊(言葉にも魂がある。)という考え方を基にしていることを知りました。
こういうことの大切さは、唯物論、合理主義だけの人間には、理解できないことですね。
人間というのは、やはり、心、精神的な存在なので、心を大事にする日本の文化がないことが、現代人の心の病の急増につながっていると思います。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰る思い、よく分かります。
我が国は政教分離の国ではありますが、精神面での宗教の存在までも失わさせる必要はありませんし、むしろ失ってはいけません。それこそ唯物論者の思うつぼです。
心の支えとして、我が国では古くから八百万の神々がついています。神に感謝する思いを大事にしながら、明日(8月15日)を迎えたいですね。
そして、秀吉の身内がこのような刑罰(けいばつ)を受けたということは、仕える家臣に底知れぬ恐怖感(きょうふかん)を与え、その後に秀吉に表立って意見する家臣が存在しにくくなったことで、秀吉による独裁政治が一層強くなり、結果として1597年に秀吉が二度目の朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)となる慶長の役(けいちょうのえき)を起こしたとも考えられるのです。
加えて秀次やその一族を処刑したことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となり、実子の秀頼が存在するとはいえ、成人した親族が一人もいなくなったことが豊臣家の将来に暗い影を落とすことになりました。
また、いわゆる秀次事件に巻き込まれたことで多くの大名が秀吉の不興(ふきょう)を買いましたが、その大名の多くが関ヶ原の戦いで家康率(ひき)いる東軍に所属しているのです。我が子可愛さが余(あま)っての秀吉による残酷(ざんこく)な行為が、関ヶ原の戦いを含むその後の豊臣家にとって逆(さか)らえない落日(らくじつ)をもたらしたことは意外にも知られていません。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
普通一般の家庭の主人であるのなら、妻子の幸せを一番に考えて仕事に人付き合いに心血を注ぐ事が通常の考え方だとは思いますが、天下人となるとその優先順位がいれかわり、家族の幸せをさて置いても、周りからの信用、信頼を一番に考えていかなければ、いづれ自分の首も危ぶまれる事態に陥る事になるんですね。
特殊な状態ではあるものの、それも天下人になる為には避けられない運命なのかも知れませんね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いつ寝首をかかれるかわからないという恐ろしさは、天下人にならないと理解できないとよく言われますからね。
本来であれば一門衆は大事に育てていかなければなりませんが、秀吉が天下人になる過程でかなりの無理がありましたから、その矛盾が秀頼の誕生によって一気に噴き出した感があります。
所詮、武力だけでは真の人心の把握はできないという教訓なのかもしれませんね。それに比べて、政治の実権を失うことはあっても、徳によって世の中を治め続けてきた皇室が21世紀の今日においても我が国に存在なさっておられることが意味する現実は重いと個人的には考えます。
サムライ銅像研究会 こんばんわ。
初回からずっと聞いておりましたが、なるほど分かりやすい講義です。関白秀次切腹事件が大名に恐怖心を抱かせ、秀吉死後雪崩をうって「律義者」徳川家康の味方についた・・説得力のあるお話です。心理面に着目して説き起こす論はあまり聞いたことがありませんでした。
以前、山形の「最上義光歴史館」に伺った時、秀次事件で連座した娘の死を義光公がいかに悲しんだかということを等身大の人形を使って展示していました。最上は東軍に付きましたからね。
続きを楽しみにしております。
徹底
ろっぽん 現代の職場の倫理にも似てますね。
実力主義で年功序列を廃止し派遣社員ですぐ解雇する黒田先生のように講師の教師を増やし、
正教員になかなか雇わない。
思想的にも反体制では講師もすぐ解雇になる
だから従順にならざるおえない。
こういうブログだって当局の誰かが見てるかわかりませんからね
私が反天皇なのは、日本の保守のシンボルだからで
より柔軟な保守に変換するためには天皇制を壊すしかないのです。私の側に蝦夷成敗の砦の伊豆(これはる)城跡があります。大和朝廷に侵略され植民地になった東北そういう詳細を日本史で教えてますか
残念なことに戦中教育を受けた人に特にこういうことを知りません。
朝廷に逆らったことで現在も悪人扱いのアザマロ(伊豆(これはる)城に火をつけ焼いた多賀城も放火した)
私はこの「アザマロ」にスポットをあてマンガに描こうと思います。
天皇の系列は南朝北朝で途絶え血が交ざり合っていますね是非この南朝北朝も取り上げてくれませんか。
サムライ銅像研究会さんへ
黒田裕樹 お褒めのお言葉有難うございます。
最上義光もそうでしたね。秀次事件の余波は様々な場所に広がっています。独裁者が持つ強い猜疑心では、そんな幅広い視野を持てないのかもしれません。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり「長いものに巻かれろ」という論理がまかり通っていますからね。
東北地方の歴史も朝廷以外からの視点で見ることも重要ですし、それを伝えていくことも歴史教育の一環だと私も思います。
ご提案有難うございます。私は私の視点で歴史教育に役立てるようブログを構成しておりますが、お互いに自由な認識から歴史を展開して良ければ良いですね。
AKKO この当時出家した者の命を取ることは考えられなかったという記述は他でも見かけますが、羽柴四天皇の尾藤知宣は、九州征伐での失態により秀吉の怒りを買い、剃髪して秀吉に赦しを乞うたものの惨殺されたと言われています。
当時は出家したと言っても弓矢を取ることは普通にありましたし(信玄や細川幽斎も)、実際は出家したかどうかはあまり関係なかったのではないか・・・とも思うのですが、どうなんでしょうか? 素朴に疑問です。
AKKOさんへ
黒田裕樹 出家に関しては仰る一面があるのも事実だと思いますが、秀次の場合は自主的に出家したばかりでなく、高野山にまで登っていますからね。
命乞いのために出家するのとは次元が異なりますし、ましてや身内ですから、やはり考えられないことだと思います。TPOで考えてみるべきかもしれません。
秀次問題
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
秀次が後継者として、資質は、ともかく、
大きな利点が2つあったと思います。
① 成人している後継者
(これは、講座の中で、黒田先生がおっしゃっていましたね。)
②4男1女の子供にも恵まれていたこと。
→ 徳川家康の血のセーフティーネットのように少なくとも、豊臣の流れは、長期的に創れる。
余談ですが、真田幸村の側室は、秀次の娘ですが
何とか難は、逃れたようですね。
最上義光の娘は、処刑されたのに。。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、秀次の存在は意外と大きいものがありました。
それだけに秀吉の短慮ともいえる行動が悔やまれますね。
真田信繁の側室の件は確かに不思議ですね。
父親(昌幸)の政治力が関係しているのでしょうか?
三成は物事に対して常に正確さを求め、また不正義な行動を許さない性格を持っていました。彼のこうした一面は、秀吉によるいわゆる太閤検地(たいこうけんち)を完全に実行することができたという大きな効果をもたらすなど、文治的な才能は非常に高いものがありました。
しかしその一方で、自分が完璧(かんぺき)であると自負(じふ)していたことで、それができないと判断した相手には横柄(おうへい)に振る舞うという欠点もありました。特に軍事面に強い武将とは相性が悪く、自分と同じ秀吉の家臣であった加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らといつしか不仲となるとやがて対立し、彼らが関ヶ原の戦いで家康側に所属する原因をつくってしまったのです。
とはいえ、関ヶ原の戦いで約80,000ともいわれる軍勢(ぐんぜい)を集め、その総指揮(そうしき)をとったという事実は三成が決して無能な武将でなかったことを証明していますし、また横柄な一方で彼が親友に見せた「男気(おとこぎ)あふれる行動」が現代においてもなお語り草となっています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
石田三成という人物は、優秀な反面、自分と同等な軍事力を持つ野心家とは角を突き合わせてしまう一面があったのですね。お人よしばかりでは、相手に足元を掬われてしまいますが、余り闘争心を顕にしてしまっても、これまた敵ばかり増やす事になり、なかなか難しいものですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 石田三成という人物は、優秀な反面、自分と同等な軍事力を持つ野心家とは角を突き合わせてしまう一面があったのですね。お人よしばかりでは、相手に足元を掬われてしまいますが、余り闘争心を顕にしてしまっても、これまた敵ばかり増やす事になり、なかなか難しいものですね(^_^;)
優秀であることや闘争心を持つことは人間にとって重要なことの一つではありますが、何事も程々の方が良いのかもしれませんね。
苦労人の家康に足元をすくわれるあたり、三成は戦った相手が強すぎたのかもしれませんが、それでも人間は戦わねばならない時がありますからね。
佐佐木あつし こんにちは。
講座には残念ながら参加できませんでしたが
こうして拝見させてもらえるて幸いと存じます。
昔から文官と武官は摩擦があるものですね。
今、NHKでやってる大河ドラマの三成は友人の萩原聖人君が演じてますが、彼なりの三成観とその演技には大変好感がモテます^^
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > こんにちは。
> 講座には残念ながら参加できませんでしたが
> こうして拝見させてもらえるて幸いと存じます。
お言葉有難うございます。次の機会にはぜひ先生にもご参加いただければと思います。
> 昔から文官と武官は摩擦があるものですね。
仰るとおりですね。どちらも自己が所属する国や組織を思っての行動のはずなのですが…。
> 今、NHKでやってる大河ドラマの三成は友人の萩原聖人君が演じてますが、彼なりの三成観とその演技には大変好感がモテます^^
今年の大河ドラマは脚本や内容には数々の意見があるようですが、演じていらっしゃる俳優の皆様の迫真の演技力は素晴らしいですね。
石田
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
石田三成は、たしかに武断派とは、合わなかったようですが、
自分自身の軍事的能力があることを知り、それを補うために『島左近』を自分の石高の半分も与えました。
当時、家臣と主君の石高が同じというのは、常識では、考えられないことです。
自分の長所だけではなく、自分の短所もしっかりと知っていた石田三成は、非常に優秀だと思います。
願わくば、その力を徳川幕府のために使ってほしかったです。
外様大名でも、藤堂高虎のように家康のブレインのような存在がいたわけですから。。
青田さんへ
黒田裕樹 今回は割愛しましたが、確かに島左近の存在は大きかったですね。
秀吉に恩義を強く感じていた三成では、家康と組むことは現実的には不可能でしょう。
とはいえ、そのたぐいまれな文治的才能はやはり惜しまれますね。
吉継が業病を患っていたことを知っていた他の武将は、吉継と接触(せっしょく)することを嫌(いや)がり、茶会の際に吉継が飲んだ茶碗(ちゃわん)が回ってきても、茶碗に口をつけるフリをして、茶も飲まずに次の人に回すことが何度もありました。
そんなある日の茶会のことです。吉継はいつものように茶を飲んだ際に、体液を茶碗の中に落としてしまいました。自(みずか)らの大失態にさすがの吉継も慌(あわ)てましたが、同席していた三成が吉継から茶碗を受け取ると、何事もなかったかのように一気に茶を飲み干(ほ)しました。
三成はさらに「のどが渇(かわ)いたので茶をもう一杯(いっぱい)所望(しょもう)したい」と亭主(ていしゅ)に申し出ると、その際にわざと手をすべらせて茶碗を落としました。三成は慌てることなく「転げた茶碗では皆様に対して恐れ多いので取り替えてほしい」と告げて、茶碗を換(か)えさせたことで諸大名を安心させるとともに、吉継に恥(はじ)をかかせることを未然に防いだのでした。
三成の友情に感激した吉継は、その後の関ヶ原の戦いの際に三成と行動を共にする決意をしたのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
今回のお話は、素直に解釈させていただいても宜しいのでしょうか。三成がそこまで相手に恩をきせる事で絶対の信用を得ようとする究極の「人たらし」という裏事情があったなどとは思いたくない程の美談ですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今回のお話は、素直に解釈させていただいても宜しいのでしょうか。三成がそこまで相手に恩をきせる事で絶対の信用を得ようとする究極の「人たらし」という裏事情があったなどとは思いたくない程の美談ですね^^
三成の伝えられる性格から考えて、素直に解釈して問題ないものと思います。吉継もそんな三成の性格を知っていたからこそ感激したのでしょう。戦国らしからぬ美談も良いものですね。
小枝は
ろっぽん こういう小枝も歴史を身近に感じ、ブログ記事として大衆受けしますが
なぜ戦国時代になったかと言うと
1、 元寇によって鎌倉幕府の力が弱まって
2、 後醍醐天皇が再び公家の世にしようと
3、 そのことに足利尊氏が天皇に協力し鎌倉幕府を倒した
4、 だけど、後醍醐天皇の足利尊氏への恩賞が不十分で
5、 尊氏は後醍醐天皇を九州に追いやり
6、 傀儡の北朝に天皇を作り室町幕府を打ち立てた
7、 だけど室町の力も弱まり
8、 我こそがトップにならんと戦国時代になった
9、 弱小の小藩にすぎなかった織田が合理主義で覇権を勝ち取り
10、 だが冷酷非道な独裁に危機感をもった明智光秀が謀反で
本能寺で殺害される
11、だが秀吉に光秀は討たれ
12、その後のことはお江のドラマでご存知だと思うが
13、織田家の親類縁者の家臣を成敗しトップに登りつめ
14、百姓の出身なので将軍の位を天皇からさずからないので
身分詐称するため藤原の家系を買うなどの工作で太閤の身分を得、
茶々姫を得、子も授かった、でもその子は本当は石田光成の種だという説もある
●種なしブドウの秀吉に種などなかろう
オバrev 素直に(・∀・)イイネ!!
やはりそれ相応の優秀な人材であったおこと間違いないですね。
ただ、天下を統一し平和な社会をつくるというモチベーションというか執念が、家康の方が明らかに上回っていて、天もも味方してくれたということでしょうか。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 大まかな流れは仰るとおりですね。
秀頼が石田「三成(光成ではありません)」の子ではないかという噂は尽きないですね。
今となっては確認のしようがないのですが。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 素直に(・∀・)イイネ!!
> やはりそれ相応の優秀な人材であったおこと間違いないですね。
今回のようなエピソードがあるということが、仰るとおり三成がひとかどの武将であったということは間違いないでしょう。
> ただ、天下を統一し平和な社会をつくるというモチベーションというか執念が、家康の方が明らかに上回っていて、天も味方してくれたということでしょうか。
確かに家康の執念は凄いですからね。家康側の検証は後日またブログ上で行いますので、どうぞお楽しみに!
家康の執念
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
家康の執念を感じるのは、
『関ヶ原の戦い』から、『大阪の陣』までの
15年間ですね。
この15年間が非常に重いですね。
わろ 秀次、弟じゃなくて甥でしたね(汗
それにしても、三成はいい人な上に頭も切れるのですね^^
諸大名への配慮を忘れないが流石です。
気の合わない武闘派の武将への配慮がもう少しできていたら、関ヶ原の戦いも違っていたのでしょうか?
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、家康の真骨頂は関ヶ原の戦いそのものよりも、その後の15年間でしょう。
自分の寿命とも戦い抜き、見事に使い切ったその執念は凄味すら感じさせます。
わろさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、武闘派との妥協ができていればむしろ関ヶ原は起きなかったかもしれません。
しかしながら、現実には「殺し合い」にまで発展していますから、抜き差しならない関係だったのが悔やまれますね。
そんな関係に見事にくさびを打ち込んだ家康の手腕も褒めるべきですが。
戦いの後に処刑されたのは三成の他に小西行長(こにしゆきなが)と安国寺恵瓊(あんこくじえけい)がいました。家康が処刑前の三人に対して小袖(こそで)を与えた際に、他の二人が何も言わずに受け取った一方で、三成は「この小袖は誰からのものか」と聞きました。使いの者が「江戸の上様(=家康)からだ」と返答すると、三成は「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様になったのか」と言って受け取らなかったそうです。
また、三成が刑場に引き出される途中でのどが渇いて水を所望すると、警護の人間から「水は無いが、柿(かき)があるからそれを食え」と言われましたが、三成は 「柿は体に悪いからいらない」と答えました。警護の人間が「もうすぐ首を斬られる者が、体の具合を気にして何になる」と笑うと、三成は「大きな志(こころざし)を持つ者は最期の時まで命を惜(お)しむものだ」と平然と答えたと伝えられています。
こうして武運拙(つたな)く刑場の露(つゆ)と消えた三成でしたが、関ヶ原の戦いに勝利した家康側にしても、決して楽勝とは言えなかったのが真実でした。なぜなら、家康の別動隊ともいうべき軍勢が戦いに間に合わなかったからです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
やはり最後まで三成は自分が目標としていた天下人の野望を志半ばにして断念しなければならないという悔しさがその一言の中に凝縮されているかの様ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり最後まで三成は自分が目標としていた天下人の野望を志半ばにして断念しなければならないという悔しさがその一言の中に凝縮されているかの様ですね。
そうですね。死にゆく我が身の悔しさと、そんな中でも武士としても矜持を失いたくないという意地も見え隠れします。やはりひとかどの武将ですよね。
下部の犠牲も
ろっぽん 私はそれほど上部の人間の刑罰に心動かれません。
何千何万の敵も味方も下部の兵が犠牲になったと思うんですね
現在、戦国ゲームなどで、若い女の子でも
カッコイイからと戦国ブームですけど、
もっと悲惨なことも伝えるのが日本史でしょう。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、人間の価値に上士も下士もありません。
私は歴史上の名のある人物を中心に歴史を展開することを主としておりますが、下部の犠牲の悲惨さを伝えていくのもまた重要でしょう。
価値観の違いもまた、歴史を学び伝えることに厚みを加えていくのは間違いありません。
私は私の歴史の見方で伝えてまいります。
なぜ別働隊は戦いに間に合わなかったのでしょうか。その原因は真田昌幸(さなだまさゆき)・真田信繁(さなだのぶしげ、別名を幸村=ゆきむら)父子にありました。
関ヶ原の戦いに向かうために東海道(とうかいどう)を進んだ家康本隊でしたが、それとは別に子の徳川秀忠(とくがわひでただ)に軍勢を預けて、中山道(なかせんどう)を進ませました。つまり、家康は二つの街道から同時に関ヶ原方面を目指す予定だったのです。
しかし、中山道の途中(とちゅう)には真田家が守る上田城(うえだじょう)がありました。関ヶ原の戦いという大きな目標があった以上は、上田城を無視して先に進むという手もあったのですが、昌幸・信繁父子の挑発(ちょうはつ)に引っかかった秀忠は上田城攻略を強く主張して容易に落とせず、結局多くの軍勢と時間を浪費してしまいました。
関ヶ原の戦いには勝利したものの家康の怒りは凄(すさ)まじく、秀忠が遅参に対してお詫(わ)びを申し出ても、しばらく面会を許さなかったと伝えられています。あてにしていた約38,000の兵力が使えなかったのですから、家康の怒りも当然といえば当然だったでしょう。
では、そんな不利な状況を家康が打開できたのはなぜでしょうか。カギを握(にぎ)ったのは、秀吉との縁が深かった一人の武将による「裏切り」でした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
確か歴史の教科書では「関ヶ原の戦い」では家康が勝利した。。。という簡単で簡潔過ぎる言葉でしか教えていただきませんでしたし、詳しい情勢までは存じませんでしたので、今回のお話を伺って、家康軍が思いの外、苦戦であった事を知り、勉強になりました。
ある武将とは。。どなたでしょうか・・
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仮にも「天下分け目の関ヶ原」ですからね。結果的に一日で決着がついたからといって楽勝だったかとはまた別物だということでしょうか。
この人物は確かに大きなカギを握っています。詳しくは次回(10日)以降にご紹介しますね。
きなり食堂 こんにちは
いつも、ありがとうございます。
すごく分かり易いですね~。
マスターは歴史が大好きなんのです。
昔、少しですが勉強していまして
あらためてみると、もう、ほとんど
忘れているようです。
黒田さんのブログを見て、
再度、勉強しようかな~、なんて思いました。
ブログの方は、リンクさせていただいて
いいのですか?
どうぞ、よろしくお願いします。
きなり食堂さんへ
黒田裕樹 こちらこそお言葉有難うございます。
リンクの件は大歓迎です。
こちらからも相互リンクさせていただきますので、今後ともよろしくお願いいたします。
わろ 挑発といえば、家康も昔、三方ヶ原の戦いで信玄の挑発に乗ってしまったことを思い出して、やっぱり親子だなーっと思ったのですが、真田の挑発はどのようなものだったのですか?
真田は、最終的には攻め落とされちゃったのですか??
あと、秀忠軍勢は徳川主体の軍勢だったのでしょうか?
一説によると、関ヶ原の戦いは徳川主体の軍勢で大勝利することで、外様の恩賞を少なくして、譜代親藩の勢力を西日本まで伸ばす腹だったとも聞いたことがあるのですが、本当でしょうか?そうなると幕末も佐幕派ばかりで、まさに関ヶ原はその後の影響を考えて天下分け目の合戦だったと思います><
毎度、質問ばかりですみません(汗
HANA子 明治時代、黎明期の日本陸軍に教官として招かれたドイツ軍人のメッケル少佐が関ヶ原の両軍布陣図を見て、
「これは西軍の勝ちで間違いない」
と断言したのは有名な話ですけど、史実はその反対──東軍の勝ちであるわけで。
東と西の勝利の分水嶺が何であったのか、次の記事も楽しみにしていますね^^
わろさんへ
黒田裕樹 徳川家と真田家における上田城の戦いは、実は関ヶ原の直前が初めてではありませんでした。1585年にも同じような戦いがあり、この時も真田家が少ない兵で徳川家に煮え湯を飲ませているのです。
そんな前例もあって、秀忠は関ヶ原の手土産に真田家を血祭りにあげようという意図があったようですが、そこは老獪な昌幸によって阻まれたというのが通説になっていますね。いずれにせよ、秀忠クラスの武将では真田家の敵ではなかったようです。
真田家がさらに老獪なところは、昌幸の長男にあたる真田信幸が関ヶ原で徳川家についており、戦後に信幸が自らへの恩賞と引き換えに父と弟の助命を嘆願して許されています。かくして真田家は明治維新までその命脈を保つことになりました。
秀忠についての仰るような説は、恥ずかしながら初めて知りました。もし本当だとすれば家康は相当な食わせ者ですね。
HANA子さんへ
黒田裕樹 メッケルは布陣図だけを見て「西軍の勝利」を確信したようですね。実際には家康は様々な調略で勝利をしているわけですが、その最たるものが予告として紹介した「裏切り」だと思います。
次回(10日)の更新にご期待下さい!
小早川
ろっぽん 小早川が寝返ったのですね
考えてみれば、常陸の佐竹氏なども徳川についてれば
秋田に追いやられることはなかったですね
伊達正宗なぞはあんなに秀吉に護摩すってて
西につくかと思うか思いきや東を選んでいましたね
いまだに大阪の人に東なんか西からの移民で開拓した土地であって西高東低なんだという考えがありますね
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、それぞれの大名がそれぞれの思惑で動いたことによって、関ヶ原後の扱いが全く異なっていますね。伊達政宗のような本領安堵はむしろ幸運だったのかもしれません。
同じ日本でありながら西と東の対立は残念な話ではありますが、競ったライバル意識がお互いを発展させるという効果もある様です。
秀秋は毛利家(もうりけ)の名将であった小早川隆景(こばやかわたかかげ)の後継でしたが、実は秀吉の正室であったおねの血縁者であり、小早川家には養子として迎えられていました。秀吉と縁浅からぬ者としてその将来を嘱望(しょくぼう)されたものの、慶長の役での戦いに敗れて領地を半減されてしまいました。
そして領地を没収された際に三成が代官として旧領に入ったことで、秀秋は自分の領地が削(けず)られたのは三成が秀吉に讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)したからではないかと疑いを持つようになったとされています。後に秀吉の遺言(ゆいごん)によって秀秋は旧領を回復するものの、三成への恨(うら)みはそのまま残っていました。
秀秋と三成とのこうした関係(というよりも秀秋による三成への一方的な決めつけ)によって、秀秋は最終的に家康の誘いに応じて東軍に寝返ることを決断するのですが、その行為によって関ヶ原の明暗がはっきりと分かれる結果をもたらすことになりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
すみません、私の読解力が浅い為か
よく理解出来ない部分があるのですが、
結局、三成は秀秋に対して本当に領土を削るような行為をしたのでしょうか。
それとも単なる秀秋の勘違いによる逆恨みだったのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > すみません、私の読解力が浅い為か
> よく理解出来ない部分があるのですが、
> 結局、三成は秀秋に対して本当に領土を削るような行為をしたのでしょうか。
> それとも単なる秀秋の勘違いによる逆恨みだったのでしょうか?
逆恨みの可能性が極めて高いですね。
自己の失態で領地が削られるのはどうしようもないことですが、恥をごまかすために責任を他になすり付けたという印象を強く感じます。
もっとも、普段からの三成の容赦ない厳しさがそれを生んだともいえるのですが…。
オバrev この記事を読んでいると、結果論ですけど、運命は既に決まっていて、我々としてはそれを受け止めて、今目の前にあることに全力で取り組みしかないような気がしますが、でもその前に、やはり三成の大将としての器がなかったんじゃないでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この記事を読んでいると、結果論ですけど、運命は既に決まっていて、我々としてはそれを受け止めて、今目の前にあることに全力で取り組みしかないような気がしますが、でもその前に、やはり三成の大将としての器がなかったんじゃないでしょうか?
三成についての事実上の総大将としての疑問が尽きることはないと思います。
ただ、彼がその器でなかったというよりも、家康を相手に互角に戦うには三成では相手にならなかったと判断すべきだったかもしれません。
もっともその家康にしても若い頃には三方ヶ原の戦いで大敗を喫しているわけですし、経験を生かした老獪さには誰であろうと勝てなかったのでしょう。
運命ですか。確かに言えますね。ただ、仮にそれが決まっていたとしても、私が三成の立場であれば、同じように死中に活を求めるのではないかと思います。
政治家家康と官僚三成。
晴雨堂ミカエル 関ヶ原の合戦は当時の日本の軍事力の強大さをあらわす事件でもありますね。
二度にわたる朝鮮侵攻から日が浅いにも関わらず、双方あわせて20万近くの兵力を動員。しかも時代劇にあるようなチャンバラではなく、鉄砲による銃撃戦が大規模に展開されたようですから。
梅棹氏が数十年前に、織豊政権の政策が継続していたら、ヨーロッパと日本はベンガル湾で激突したと論じていましたが、それもあり得たでしょう。
ところで家康と三成の戦いぶりは、政治家と官僚の戦に見えますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに朝鮮出兵の直後に20万近くの兵力と鉄砲ですからね。
国内に目を向けていることで、侵略を受けずに海外を目指さずに…。
我が国にとっては良かった、ということなのでしょうか。
> ところで家康と三成の戦いぶりは、政治家と官僚の戦に見えますね。
なるほど、そういう見方もありますね。
小早川秀秋に同情
青田です。 青田です。
歴史というのは、常に勝った側が書きます。
そう考えると
小早川秀秋=アンポンタンというふうにドラマで
描かれますが、私は、小早川秀秋に感情移入します。
この時、小早川秀秋は、19歳です。
しかも、頼れる人間は、誰もいません。
(小早川隆景、豊臣秀吉は亡くなっています。)
もの凄い、不安で、心細いです。
よく、徳川家康が、小早川秀秋を裏切るように調略していたとドラマで、描きますが、
それは、西軍も同じように小早川秀秋を調略していました。(上方に2カ国、秀頼が成人するまで関白)
やはり、徳川家康がキレて、小早川秀秋の陣に鉄砲を打ち掛けたのが、ガラスハート(小心者)の小早川秀秋のケツに火を付けたと思います。
私もガラスハート(小心者)なので、小早川秀秋と同じ行動に出たと思います。(笑)
黒田先生は、忠義の人なので、どちらかと言えば、石田三成タイプのように思いますが(笑)
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、秀秋にはそういう一面もありそうですね。
私は三成と違って、人の意見を聞いて行動する方だと思いますが(笑)。
秀秋の下に陣取っていた大谷吉継が懸命に秀秋軍を食い止めていましたが、秀秋の様子を見ていた周囲の西軍の武将がこぞって東軍に寝返ったために吉継軍は壊滅(かいめつ)状態になり、刀折れ矢尽(つ)きた吉継は切腹しました。
この動きを見た家康が東軍全軍に総攻撃をかけたことで、西軍の各武将は防戦一方となり、ついにはこらえきれずに敗走しました。こうして天下分け目の関ヶ原の戦いは一日で決着がついたのです。
なお、自身の寝返りが東軍の勝利に大いに貢献したとされた秀秋は、後に岡山55万石の大名に出世しましたが、1602年に21歳の若さで急死しました。秀秋には跡継ぎがいなかったため、江戸幕府によって小早川家は無嗣断絶(むしだんぜつ)を理由に改易(かいえき)、すなわち取り潰しの処分を受けています。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 豊臣家の血をひく従三位権中納言50万石の大大名が若くして死ぬ。そして幕府初の無嗣改易。代わりに岡山に入ったのは外様でも徳川よりの池田氏。
証拠はありませんが、家康たちが怖くなります。
秀詮は生前の記録から暗愚の評判ですが、徳川の謀略説は当時ありましたか?
韓流時代劇なら三成の祟りにはせず、家康による謀殺にしますね。
ぴーち こんにちは!
やはり跡継ぎが居ないというのは、この時代は
特に致命傷的な大問題だったんですね(^^ゞ
それにしても一日で決着が着いたなんて
天下分け目の激戦の割には呆気なかったですね(^^ゞ
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに証拠はないですが、疑ってみる価値はありそうですね。
秀秋の場合は、秀次などと違って当時からあまり評判がよくなかったようですね。将来に新資料が出てくれば名誉を回復できるかもしれませんが。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いつの世も後継ぎというのは重要ですね。とはいえ、子が生まれないからと言って弟などを早めに後継ぎとしてしまうと、後になって子が生まれた場合には応仁の乱のようにお家騒動の原因になりかねませんし、困ったものです。
激戦であればあるほど、かえって決着がつくのは早いのかもしれません。歴史に名高い第四次の川中島の戦いも、激しく戦ったのはほんの一時ですし。
HANA子 史記の漢の高祖劉邦の中国平定のくだりと家康の全国統一が重なって見えるのはわたしだけではないと思うのですがどうでしょう?
皇帝に即位して天下に号令を下すようになった高祖が次々に有力家臣を粛清していく姿と
もはや敵のいなくなった家康が徳川の体制を磐石とすべく(彼にとっての)外様大名たちの力を削いでいく部分は同じ凄味を感じます。
HANA子さんへ
黒田裕樹 なるほど、言われてみれば確かに似ていますね。
家康は豊臣家を滅ぼしてから一年足らずで死にましたが、もっと長生きしていれば呂后のような女性が現れたのでしょうか?
築山殿が生きていればそうなったかもしれませんね。
勝負
ろっぽん ある意味でそうやって支配する者が移り変わって
歴史が変わっていったのでしょう。
しかし秀秋の寝がえりで西軍から東軍へ寝返った
武将もいたのですね。
しかし、そうやって貢献しても
後継ぎがいないというだけでお取りつぶしとは、
家康も情け容赦がないですね。
なにも親類縁者の中から選ぶよう小早川家に協議する時間を与えてもいいではいいではないですか
生き馬の目を抜く時代では、すきあらば脚が取られる時代だから、情けが仇となりますからね
しかし、生徒にこういうことを教えると人間関係というのはドライであるべきという価値観を与えるのでは?
こういう話はエピソードとして小説のネタになっても自分的には好かんですね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 秀秋の寝返りで日和見をしていた武将が雪崩を打って一緒に寝返りましたから、その影響は大きかったと思います。
無嗣断絶ですが、小早川家に限らず徳川家にとって譜代の大名や、場合によっては親藩格の大名にも平等に適用されています。武力で成立した徳川幕府ですから、その力を示すためにも例外は認められなかったとともに、仮想敵国たる大名家を減らす良い口実になったのでしょう。
ところが、大名家を取り潰し過ぎたことによって国中に牢人があふれて治安は悪化し、由比正雪が慶安の変を起こしかけて幕府はあわや存亡の危機を迎えかねなくなってしまいました。
何事もやり過ぎはよくないということですが、こういった様々な「生きた教訓」を学ばせるのも歴史であり、自身の一面的な考えを押し付けがましく語るのでなければ、生徒に対しても決して悪い影響を与えることはないでしょう。
ということは、もし秀秋が寝返らなかったら西軍と東軍はそのまま一進一退の膠着(こうちゃく、ほとんど動きがなくなること)した状態が続いたでしょうし、また秀秋軍が史実とは逆に家康軍を攻撃するために松尾山を下って行けば、壊滅状態になったのはむしろ家康軍の方になったことも十分考えられるのです。
つまり、東軍が敗れて三成の西軍が勝利した可能性も有り得るのですが、もし西軍が勝っていれば、その後の我が国の歴史はどうなったのでしょうか。
この「歴史のif」を考えるにあたって、私は関ヶ原の戦いで「家康が生き延びた場合」と「家康が死んだ場合」の二つの条件でそれぞれ想像しなければならないと思います。まずは「家康が生き延びた場合」を考えてみましょう。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
確かに激戦であればあるほど、早く決着が付くというのは世の習いでしたね(^^ゞ
もしも家康が死んでいたら。
面白いですね!
そんな発想は今まで想像したことがありませんでしたので、これからの展開を楽しみにしています♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに激戦であればあるほど、早く決着が付くというのは世の習いでしたね(^^ゞ
仰るとおり世の習いではありますが、盲点でもありますね。
歴史教育に限りませんが、思い込みというのは不思議なものです。
> もしも家康が死んでいたら。
> 面白いですね!
> そんな発想は今まで想像したことがありませんでしたので、これからの展開を楽しみにしています♪
有難うございます(^^♪
明日(13日)からの更新にご期待ください!
オバrev 歴史にifは禁物だと思いますが、もし家康が生き延びていたら、確実に復活して豊臣を滅ぼしたことは間違いなく、その後の歴史も大きくは変わらなかったんじゃないでしょうか。
ただ家康が死んでいた場合は、東軍にも西軍にも天下をまとめきれる人はいず、世は再び群雄割拠の時代となり、あるいは西欧の植民地になっていたかもしれません。
家康は出るべくして出た天下人で、薄氷を踏みながらも、天下統一の運命は決まっていたように感じます。
これは興味深い考察。
晴雨堂ミカエル 生き延びた場合と討ち取られたのでは大きく違いますね。
上田城攻略に失敗して大損害とはいえ、秀忠の軍勢は徳川の主力。ただ中納言秀忠はまだ権威やカリスマが無いので、大老家康の「部下」として従った豊臣恩顧の大名は従わないでしょう。あくまで豊臣家の家臣として家老の家康の指揮下ですから。
かといって、三成に戦後調整は無理ですし、宇喜多や毛利が増長する。豊臣家内部の権力闘争は三成ではまとめられないでしょう。
混沌として面白い時代になりますね。
家康が落ち延びたら、私は頼朝のように関東は磐石なので巻き返せると思います。西軍は指揮系統が混乱しそうですから。
オバrevさんへ
黒田裕樹 さすがはオバrevさん、鋭いですね(^^ゞ
お考えが的中なさっておられるかどうか、今後の更新をご覧いただければと思います。
> 家康は出るべくして出た天下人で、薄氷を踏みながらも、天下統一の運命は決まっていたように感じます。
私も同感ですね。後日改めて検証することになるでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るように混沌とした世の中になるのは間違いないと思います。
問題は果たして誰が得をすることになるか、ということになるかもしれませんね。
HANA子 他の方もおっしゃってますが、確固とした地盤を備えている以上一敗地に塗れたとしても徳川方の巻き返しは間違いないでしょうね。
結局のところ有能ではあっても将器でなかった石田三成には豊臣を纏め上げることは出来なかったでしょうし、事実出来なかったですものね
次回も楽しみに待ってます!
HANA子さんへ
黒田裕樹 家康が負けた場合、徳川家の巻き返しと豊臣家の再興とのバランスがどうなるかがカギを握るのは間違いなさそうです。
まずは生き延びた場合から推論していきますので、どうぞご覧下さい。
もう、一つの可能性
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
関ヶ原の戦いで、もう、一つのifが浮かびました。
もし、秀忠の38000が、関ヶ原に間に合ったとします。
すると、私の展開では
① 東軍の圧勝。
② 豊臣恩顧の大名に大幅加増する必要ががないので、徳川の親藩、譜代大名の大幅加増ができる。(但し、権力と財力のバランスは、配慮し、
徳川家の直轄領の増加が中心になる。)
ここで、気になるのは、豊臣秀頼の存在なのですがこの時、豊臣秀頼は、関白職だったのでしょうか。というのも、関白職の場合だと、いかに東軍が圧勝でも、スグにどうこう出来ない気がします。
しかし、考えてみると、豊臣政権は、不思議です。
鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府は、武家政権です。
しかし、豊臣秀吉、秀次の関白というのは、
天皇に代わって、政治を行うという公家の政権です。公家の頭領に武士が従うというのは、平家政権のようになる気がするのですが、政権発足当時から、脆かった気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに東軍が圧勝であれば、大名のバランスが変わってきそうですね。もっとも、家康であれば失敗するようなことはないと思いますが。
豊臣政権が関白になったのは、秀吉の出自に問題があったのと、足利義昭が健在であったために征夷大将軍になれなかったからです。武家政権のよりどころが関白では、やはり無理があったのかもしれませんね。
つまり、戦いに勝利したことで豊臣家が優位に政治を進めようにも、家康が常に頭の痛い存在となりますし、三成などの優秀な官僚(かんりょう)がいるものの、その支えとなるのが当時8歳の秀頼では、豊臣家が中心の政治の実現には無理があると思われます。
かといって、関ヶ原の戦いで福島正則などの豊臣恩顧(おんこ)の武将を味方につけた家康も、第二・第三の関ヶ原の戦いを起こそうとしても、それらの武将が再び家康側につくとは考えにくく、豊臣家を一気に滅亡(めつぼう)させることは不可能に近いといえるでしょう。何しろ、史実においても関ヶ原の戦いから豊臣家の滅亡まで15年もかかっているのですから―。
ということは、家康が生き残っていた場合は我が国が東西に分かれて政治を行うと同時に、東西がそれぞれお互いの覇権(はけん)を握るために果てしない戦いを続けることになる可能性が十分に考えられるのです。そうなれば戦国時代がこの後も続くことになり、史実における江戸時代のような平和な時代の実現はかなり遅れたことでしょう。
では、もし家康が関ヶ原の戦いで死んでいれば、豊臣家による平和な時代は達成できるのでしょうか―?




いつも有難うございます。
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わろ 西軍が勝てば、南北朝時代の再来みたいになりそうですね。
名目上の総大将の毛利家も影響力が上がりそうですし、黒田さんが関ヶ原のどさくにまぎれて、北部九州を平定してたら、豊臣家が西側を抑えられるかも心配です。加えて、上杉家も恩賞をもらえたら強大になりすぎるのでは?と思います。
豊臣政権は、足利幕府なみの不安定なものになるのではと思われます。
空想してみました。
晴雨堂ミカエル 一晩いろいろ空想してみました。家康の生死に関わらず、豊臣家は六番目の摂関家になり君臨するだけの象徴的権威として大坂に閉じ籠る。
家康が生きていれば、時期は遅れても朝廷工作で征夷大将軍となり江戸で開幕、当初は鎌倉幕府のように関東ローカル政権、家康秀忠二代かけて豊臣恩顧の大名を切り崩し、全国へ影響力を広げる。
家康が討ち取られていたら、二十歳代前半の秀忠では家臣団をまとめるので精一杯。
毛利、宇喜多、上杉の三家は加増され大納言に叙勲、徳川並の勢力。権力闘争で豊臣家は形骸化。戦国時代に逆戻り。
わろさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、室町幕府を想像すれば豊臣家の将来が見えてきそうですね。
だとすれば、家康が死ねばどうなるのでしょうか?
(血筋は全く関係ないですが)黒田官兵衛の活躍もありそうですね(^^ゞ
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 さすがにお見事なご想像ぶりですね。
国内情勢を考えれば同じような結果になるかもしれません。
しかしながら、この時代はもはや国内だけを考えていれば大丈夫な時代ではありませんからね…。
ヨーロッパの本格介入があると?
晴雨堂ミカエル 例えば、ボルトガルやスペインが九州諸大名や伊達家に、オランダやイギリスが徳川家や豊臣家に肩入れし、軍事介入する可能性が大きいとか?
ヨーロッパの東アジアへの影響力は17世紀初頭の時点で既に大きいと?
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 さぁ、どうでしょうか?(^^ゞ
詳しくは次回の更新をご覧下さい。
ぴーち おはようございます!
なるほど。。
私は想像力が足らないので、そこまで考えてみたことがありませんでしたが、戦国時代が長引いて人口が減り、江戸時代の到来が先延ばしになった事で急に人口爆発的に出生率が増えたとしたら。。いづれにせよ、日本は戦争で一時的に人口が増える現象が起きていましたが、前の時代がどう変化しようと変えられない運命みたいなものは
要所、要所に点在しているものなのかな・・などと馬鹿馬鹿しい考えが浮かんできましたm(__)m
失礼致しました(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、馬鹿馬鹿しいなんてとんでもないですよ。
仰るとおり平和の実現は人口爆発の一つの要因です。これはどんな運命であってもいずれは実現することになりますよね。
ただ問題なのは、我が国の国体(ここでは国の有り様のこと)が果たしてどうなるか、ということなのです。
しかしながら、豊臣家にとっての大きな課題は、むしろ徳川家を滅ぼした後にあるのです。幼(おさな)い秀頼率いる豊臣家が、果たして家康のような「平和の実現のために計算され尽くした政治」を実現できるのでしょうか?
現実の世界において、家康は平和のためにあらゆる手を打っているのです。例えば、大名の統治において、家康は政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えました。
これは、室町幕府(むろまちばくふ)の守護大名(しゅごだいみょう)が財力と権力とを同時に持っていたがゆえに、幕府の言うことを聞かなくなったことによる失敗の教訓を生かした「大名の権力と財力との分散」でした。この手法によって家康は大名の統治に成功しているのです。
この手法が可能になったのも、家康というカリスマ性を持つ武将がいたからこそだったのですが、同じようなことを豊臣家が実行しようとしても、秀頼の言うことに対して、果たしてどれだけの武将が耳を傾(かたむ)けるでしょうか?




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
歴史上で成功した事をそっくりそのまま真似しようとしても、必ずしも成功出来ないのは、やはりその人物の性格にも大きく左右されてしまうものなんですね。
やはり最終的には瞬間、瞬間を生きるのではなく、自分の感情を自分でしっかりコントロール出来る強い精神の持ち主である事が一番の勝者になる様に思うのですが、いかがでしょうか。
応援凸
無理でしょうな。
晴雨堂ミカエル 秀頼は象徴関白になり事務は三成、毛利や上杉は豊臣家からみれば外様、しかし関ヶ原の段階で既に三位以上の位階と広い所領、加えて政権の中枢たる大老職。
太閤殿下からいただいた高い官位と広い所領と政権の権力、しかも家康に勝利では手放さないし、いくらKYの三成もその手は使えない。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 歴史上で成功した事をそっくりそのまま真似しようとしても、必ずしも成功出来ないのは、やはりその人物の性格にも大きく左右されてしまうものなんですね。
> やはり最終的には瞬間、瞬間を生きるのではなく、自分の感情を自分でしっかりコントロール出来る強い精神の持ち主である事が一番の勝者になる様に思うのですが、いかがでしょうか。
仰るような一面は確かに存在しますね。
強靭な精神力と実行力がなければ政治はできないのかもしれません。もっとも、中身が伴わなければどんなに図太くても国民から総スカンを食らってみじめな結末を迎えるわけですが…。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 秀頼は象徴関白になり事務は三成、毛利や上杉は豊臣家からみれば外様、しかし関ヶ原の段階で既に三位以上の位階と広い所領、加えて政権の中枢たる大老職。
> 太閤殿下からいただいた高い官位と広い所領と政権の権力、しかも家康に勝利では手放さないし、いくらKYの三成もその手は使えない。
仰るとおりです。これでは室町幕府と全く同じ構図ですからね。政治力の駆使にも限界があるでしょうし、それを黙って見ている勢力がいないはずがありません。そうなると…。
無理でしょう
ろっぽん 司馬遼太郎が「この国のかたち」でのべてますが
家康は誰が将軍になろうと幕府が継続する体制を構築したと書いています。
単にまぐれで勝ったとしても、東国でも秀吉から家康に鞍替えした武将も数多くいたわけで、そういった武将に土地を取り上げるなどのペナルティを出した場合、反乱をおこし再度、反乱がおき、短期政権でしょうね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、家康の政治姿勢は完璧に計算し尽くされています。
豊臣家に同じことができるとは思えない以上、せっかくの体制がもろくも崩れてしまう可能性は高いでしょう。
ということは…。
また、家康は朝廷や宗教勢力にも万全の対策をするとともに、徳川家の将来に対しても御三家(ごさんけ)という「血のセーフティーネット」などの様々な政策を実行していました。このような「後顧(こうこ)の憂(うれ)い」をなくしてこそ、安心して政治を実行できるものなのです。
しかし、大名統制ですら覚束(おぼつか)ない豊臣家に、徳川家と同じような政策が実行できるとは考えられません。ということは、一時的な平和の日々があったとしても、その先にあるのはかつての戦国時代のように戦いに明け暮(く)れる日々だといえるでしょう。
しかも家康亡き後にカリスマ性を持つ武将は当分見当たらないとすれば、戦乱の日々は果てしなく続くことにもなりかねませんし、そんな混乱を見越した外国に付け込まれることで、我が国が滅亡の危機に瀕(ひん)することも有り得ます。
「そんな馬鹿な」と思われるかもしれませんが、現実の世界において秀吉や家康が対キリスト教(=カトリック)対策としてどのような政治を行ってきたか振り返ることで、決して大袈裟(おおげさ)でない「もう一つの真理」が見えてくるのです。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 学校の授業では、単なるキリスト教の弾圧、程度にしか教えません。大河ドラマでは権力者の好き嫌いのレベルで弾圧。
当時の私はそれが納得できませんでした。南米からアジアへとヨーロッパの侵略の魔の手が迫る。ルソン島まで勢力が迫る。
さらにキリスト教を知れば知るほど排他的独善発想。
家康は征夷大将軍として南蛮を睨み、朝鮮との和解を急いだのではないか。
ただ、いかに内乱状態とはいえ、日本全体の軍事力は強大で経済圏も構築。ヨーロッパ勢はあの段階ではまだとるに足らない存在のように見えます。
次回が楽しみです。
ぴーち こんにちは!
確かに地球上には日本だけしか国が無いわけではありませんから、海の向こうには虎視眈々と領土を狙う外国が沢山存在している訳ですものね。
日本としてはしっかり内政状況を強固なものに
していかなければ、あっという間に敵に攻め入られてしまいますね。今の日本だとて、内輪揉めばかりを繰り返している様では、どうなるか分かりません・・・(´・ω・`)
応援凸
わろ 宗教の問題って大きいと思います
今の日本人が、宗教感が薄いのは、信長が宗教勢力を弾圧して、秀吉が宗教勢力を分裂させて、家康が葬式のみの宗教のように懐柔させたのが大きいと思います。
あと当時のカトリック布教は侵略のための先兵を敵地に獲得するための意味合いもありましたし、時代は、下りますが、帝国主義の時代に植民地になったのは、国内が不安定な国ばかりですし、外国の脅威に対抗するには、国が安定してないと不味いのは、いつの時代も変わらないのではとも思います。
幕末も混乱が続けば、幕府派のフランスと維新派のイギリスに、双方、武器を買うためお金を借り過ぎて、どっっちが勝っても、負債を抱えて植民地になってしまったのではと思います。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、後年に鎖国と呼ばれた厳しい制限貿易は、侵略の手先とみなされたカトリックを封じるためでした。強大な権力を持つ徳川幕府だからできた芸当でもあります。
確かに欧州勢に比べて、当時の我が国は強い軍事力を持っていました。しかし、それは幕府という一枚岩のもとに我が国が成り立ってこその話なのです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに地球上には日本だけしか国が無いわけではありませんから、海の向こうには虎視眈々と領土を狙う外国が沢山存在している訳ですものね。
> 日本としてはしっかり内政状況を強固なものに
> していかなければ、あっという間に敵に攻め入られてしまいますね。今の日本だとて、内輪揉めばかりを繰り返している様では、どうなるか分かりません・・・(´・ω・`)
仰るとおりですね。
内輪もめはできればしたくはありません。ただ、内輪もめをしている原因がどこにあるかという問題もあると思います。いくら周囲が団結しようにも、指揮官がいい加減ではまとまるものもまとまりません。
ここに我が国のジレンマがあると思います。
わろさんへ
黒田裕樹 仰る内容については私も同意です。
我が国は戦国時代から脱出して国内が安定しました。幕末の混乱も、真の武力倒幕を実現させなかったことで少なく済みました。
もし関ヶ原で家康が死んでいればどうなるのかについて、まずは宗教との絡みを詳しく検討してみたいと思います。
彼らは海外での布教(ふきょう)に存続を賭(か)けていたカトリックが組織したイエズス会と連携(れんけい)して、先住民にカトリックを布教させてから「神の名の下(もと)に」戦争を仕掛けることでアフリカ大陸やアメリカ大陸を次々と支配し続け、その魔の手がついにアジアにまで伸び始めていたのです。
イエズス会の宣教師(せんきょうし)であるフランシスコ=ザビエルによって1549年に我が国でカトリックの布教が広がり始めた頃、当時の戦国大名は欧州による白人支配の野望に気づくこともなく、南蛮貿易(なんばんぼうえき)で欧州渡来(とらい)の珍しい財宝を手に入れるため、支配地でのカトリックの布教を許可するとともに「キリシタン大名」として自らカトリックを信仰する者も現れました。
天下統一を目指した織田信長も同じ理由で支配地におけるカトリックの布教を許可し、信長の後を継いだ秀吉も、当初はカトリックの布教を認めていたのですが、やがてカトリックに潜(ひそ)む欧州による世界侵略の野望に気づいたことで、禁教へと政策を転換しました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
本来、宗教とは人間の業を浄化させる目的であったり、あるいは自らの精神を律する為、心の拠り所であったりする存在であるのに関わらず、国を侵略する目的で利用されるとなると、それこそ、天罰が下る行為だと思いますね。開宗当初は純粋に人類救済の為と謳った宗教でも、長い間受け継がれていく間には、様々な人間の欲が絡み、間違った方向へ推し進められてしまう事は、悲劇でもありますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰ることはよく分かります。
その悲劇が世の中を支配したのが15~16世紀の大航海時代だったのです。
宗教が侵略欲とからんだことで、どれだけ多くの血が流されたことか…。
白色人種からの一方的な人種差別が加わったことも悲劇を拡大させてしまいましたね。
根強い
ろっぽん こちらの奈良の大仏を鍍金した金の産出地は隠れキリスタンの地で現在でもカトリックを信仰しています。高校の時、バイク事故で亡くなった同級生の葬式に行った時、感じたんですが、
私たちが仏教を信じてると言うけど、お教を読んでそらんじていますか、実に自然な感じで
カトリックを禁じられた江戸時代も隠れて
ほら穴で、回りがほとんど仏教徒の中ある部落だけ営々と隠れキリスタンだったんですよ。
学校の先生の分析は産金の権利が幕府だったことが
ある意味、隠れの原因だったと。
幕府のレジスタンではないかと、伊達の役人も見て見ぬふりしていたのではないかと
長崎などの隠れキリスタンも地元の役人が見せかけの取り締まりをしていたんでしょう
そうで、なければ21世紀まで残るはずないですよ
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 隠れキリシタンには様々な伝説があるようですね。
幕府の宗教弾圧の理由も「諸外国による侵略阻止」にありましたから、その危害が去った以上は表向きはともかく、裏では大目に見ていたのかもしれません。
わろ カトリックの野望に気がつくとは、流石は秀吉ですね
ただ、宗教勢の世界侵略への野望は気がついても、秀吉の世界情勢感はお粗末な気がします・・・
存在しない高山国を信じたり、朝鮮が対馬の属国と思ったり、満州と明の違いが分からなかったり・・・世界情勢が掴めないのは、日本人の伝統ではと思ってしまします。
あと、質問なのですが、有力者以外の下々の当時のカトリックの捉え方はどのようなものでしたのでしょうか?和を尊び村社会の日本では、カトリックのような一神教の排他的思考集団とは軋轢を生じなかったのでしょうか?
島原の人々への同情が、本願寺で弾圧された人々より、個人的に薄いと思うのは、認識違いなことなのでしょうか??
わろさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国をめぐる危機にまでは気づいても、正確な世界情勢をつかめないのが我が国の泣き所でもあります。島国であったことが多分にも影響しているのでしょうか?
カトリックの一神教的な立場によって、秀吉の時代には九州の多数の神社仏閣が壊されるという被害が起きています。その事実からすれば、当時のカトリックの教えに反発を覚えた人々がいるかもしれませんが、カトリックの教えも時代によって変化したことで、人々に受け入れられる余地もあるのではないかと思います。現実にも、我が国のキリスト教の宗派では「キリストの幕屋」のように八百万の神と共存する教えを信じる人々もいらっしゃいますから。
そして、秀吉に代わって天下人となった家康もカトリックの禁止を強化して海外との大幅(おおはば)な制限貿易を実現したことで、カトリックを我が国から締(し)め出すとともに欧州による侵略を完全に防ぐことに成功しました。ちなみにこの状態が後年(こうねん)に鎖国(さこく)と呼ばれるようになります。
このようにして、史実における欧州による我が国侵略の野望は秀吉からバトンを受け継いだ家康によって打ち砕(くだ)かれたのですが、このことを可能にしたのは家康がそのカリスマ性を十分に活(い)かした強固(きょうこ)な基盤(きばん)を持つ江戸幕府を組織したからであり、もし西軍が家康を滅ぼしたことで、カリスマ武将がいない混乱した状態に我が国が陥(おちい)っていれば、その隙(すき)をついた諸外国によって我が国が乗っ取られるかもしれないという話は決して荒唐無稽(こうとうむけい、根拠がなくでたらめなこと)ではありません。
関ヶ原の戦いで家康が勝ったことは、私のような家康嫌いの人間にとって決して許せないことではありますが、その結果として我が国に平和が訪れるとともに、諸外国からの侵略を免(まぬが)れることが出来たというのもまた事実なのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
万人に好かれる人物という方を見ていると、はやり何事に置いても、自我を抑えて、控えめである場合が多いですが、やはり一国を統辞出来る程の人物とは、反面では良い結果を齎し、ある反面では人に嫌われる要素を持ちあわせているようですね。やはりそれなりに、一長一短があるものです(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 温厚な性格をもって人望があり、他人にやさしい心を持つことができる人物は総じて好まれる傾向がありますが、そのような綺麗事だけでは多くの人々を統治することはできません。
時にはずる賢く、時には他人に嫌われようが、自国の繁栄のために力を尽くした人物に対して私たちはもっと評価すべきではないでしょうか。
ろっぽん 司馬遼太郎は鎖国しないでも、運営できたのではと言ってます。
長崎の出島のようなを江戸近辺と平清盛の開港した堺、下関、石巻、函館などに港を作り、スペイン、ポルトガルは別にしてもピューリタントのイギリス、フランス、オランダ、ベルギーなどと国交しても侵略受けなかったのでは、とのべてます。まぁ侵略受けなくても倒幕はもっと早まった知れませんが。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 確かにプロテスタントであれば布教の必要もないし、貿易もできたかもしれません。
厳しい制限貿易で失ったものも大きいですが、江戸幕府による長い国内の平和をもたらしたメリットも大き買ったことも忘れてはいけません。
制限貿易がいつの間にか「鎖国」と呼ばれてしまい、幕府の祖法と化してしまったことで、世界の情勢と我が国とが大きくかけ離れてしまったことが悔やまれてなりません。
オバrev その場限りの感情論でなく、大所にたって物事を判断し実行できることが、日本を守り発展させるということは、歴史が証明していますね。
秀吉や家康にはそれがあったということだと思いますが、歴史教育ではなかなかそこまで踏み込めていないように感じます。
わろ 私も家康嫌いです^^
亡国の手先と聞いて、伊達正宗を思い浮かべてしまいました。西軍が勝って家康が亡くなっていたら、伊達さんの遣欧政策で、亡国の手先になっちゃうのでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > その場限りの感情論でなく、大所にたって物事を判断し実行できることが、日本を守り発展させるということは、歴史が証明していますね。
まさしく仰るとおりです。感情に流されたり、一時の人気取りの為だけに大衆受けを狙ったりして国策を誤る指導者は御免です。
> 秀吉や家康にはそれがあったということだと思いますが、歴史教育ではなかなかそこまで踏み込めていないように感じます。
それが記憶重視の歴史教育の最大の欠点なんですよ。
単なる知識の詰め込みだけではない、自分の頭で物事を考える力を身につけるためにも歴史教育の改革が求められますね。
わろさんへ
黒田裕樹 > 私も家康嫌いです^^
多いですよね(^^ゞ
ただ、個人的な評価と歴史の大きな流れにおける評価とは全く別ですから、歴史を教える際には注意しなければいけません。
> 亡国の手先と聞いて、伊達政宗を思い浮かべてしまいました。西軍が勝って家康が亡くなっていたら、伊達さんの遣欧政策で、亡国の手先になっちゃうのでしょうか?
伊達政宗については仰るような可能性がありますね。伊達家の繁栄の為だけにカトリックの仕掛けた罠にはまる。一時の栄光はあっても、その先に待っているのは…。
秀吉の失政
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、徳川家康は、嫌いですが、
豊臣秀吉の組織運営のまずさが、家康の力を
増大させて気がします。
関白秀次事件は、もちろんですが、
五大老は、全て外様大名です。
それぞれが、地方の一代勢力ですから、自分のことが第一と考えます。
五奉行は、あくまでも、五大老の下になります。
しかも、五大老、五奉行は、秀吉の最晩年にできました。
秀吉は、信長、家康のような譜代の家臣が少なく、元々は、自分の上司、同僚、敵対勢力を家臣化したので、組織としての脆さを最初から、内包していたようですね。
秀吉の軍師的存在の黒田如水、蜂須賀小六などは、遠ざけられていました。
歴史のifを考えた場合、秀吉は、どういう組織にすれば、秀吉なき後の豊臣家が安泰だったか
考えてしまいます。
① 関白秀次を後継者にする。
(そもそも、成人していない秀頼を後継者にしたことが間違い。)
② 秀次は、子供が多かったので、後継者問題には、困らない。
③ もし、秀頼に後継者を譲る場合は、秀次の養子というカタチを取る。
④ 天下普請をして、外様大名の力を削ぐ。
そのために、朝廷工作をする。
関白なので、朝廷工作は、やりやすいのでは
⑤ プロテスタントとの国の貿易を独占する。
と考えましたが、いかがでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 お見事なご推察です。ここまでやれば、あるいは豊臣家の天下が続いたかもしれません。
もっとも、秀次以降の政治がどうなったかはわかりませんし、秀次自身の器量も不透明ですが。
秀次を事実上抹殺したことが、やはり豊臣家の運命を決めてしまったということでしょうか…。
しかし、関ヶ原の辛勝(しんしょう)によって江戸時代の長い平和の日々が続き、その歴史や文化が現代の私たちの暮らしを支えています。すなわち、関ヶ原の戦いについて学ぶことで、現代にもつながる大きな歴史の流れが見えてくるのです。
また、関ヶ原の戦いに関する「豊臣家の落日」や「歴史のif」を考えることなど、歴史にまつわる多くの事実や考証を学ぶことは、自分の知識のみならず、人生の幅を広げることにもつながります。
今回の講座では「関ヶ原の戦い」に光を当てて検証しましたが、私は今後も教師としての活動やブログ上における通史の更新だけでなく、我が国の歴史を楽しく学び、また楽しく教えることで、皆さんとともに我が国の今後を支えることが出来る一助(いちじょ)となれば、こんな嬉(うれ)しいことはありません。
様々な思いや願いを込めて、今後も歴史講座を時間の許す限り続けていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
(※第25回歴史講座の内容はこれで終了ですが、次回[8月19日]に補足の記事を載せます)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
仰るとおり、これまで歴史については
まるで無頓着でした私でさえ、黒田さんの歴史講座にお邪魔させていただくようになり、これまでそれが歴史の真実と思い込んでいた様な事も、実は真逆であったり。悪名高い人物が実は、日本国の為に懸命に生きようとしている人物だったりと、誤解していた部分が多々あることに気付かされました。簡潔でありながら、丁寧に解説くださり本当にありがたく存じております。
これからも、黒田さんのご活躍を陰ながら、応援させていただきたいと思っております。
頑張ってくださいね(^^)v
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、丁寧なお言葉有難うございます。
これからも真実に基づいた分かりやすい歴史を目指していきたいと思います。
サムライ銅像研究会 こんばんわ。
今回の関ヶ原講座、拝見させていただきました。なるほど仰る通りで仮に西軍が勝っていた場合はまとめ役がおらず、日本に西欧列強が入り込んでいたかもしれませんね。
徳川家康が最後の戦国武将として確固としたカリスマ性をもっていたことも納得です。
ただ、秀吉の唐入りが西欧列強へ先手を打った行為というのはやや首を傾げましたが。当時の独裁者が今のように公約(それもまもられませんが・・)を発表する訳ではありませんから。その内なる思いは残された資料は類推するしかないですね。
今後とも熱い講義をお願いします。ついでですが、当方のブログもにほんブログ村に登録いたしました。よろしくご教示お願いいたします。
サムライ銅像研究会さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
秀吉の朝鮮出兵の真の理由には確かに証拠がありませんから何とも言えません。ただ、初めから朝鮮を侵略する目的で出兵したわけではないのは間違いないと考えられますし、当時の西欧の侵略への恐怖から類推できると思います。
ブログ村ですね。今後も相互に応援できればと思います。
たとえば、家康が薄氷を踏む勝利を収めたと言う見解については「東軍に不利であった関ヶ原を戦いに選んだことは、西軍に自軍が有利であると思わせて誘い出すため」であり、また小早川秀秋の寝返りの他に、秀頼や西軍の名目上の総大将であった毛利輝元を大坂城から出さなかったことも家康の優れた謀略であったというご意見をいただいております。
関ヶ原の戦いについてはこれまでに数多くの皆様が独自の見解を出されており、私が今回この講座で紹介したこともそれらの一つにすぎないのかもしれません。ただ、このように過去の歴史の事実について検証を重ねることが、今後の私たちの未来における有効な判断にもつながるものであり、今後もこういった研究を大いに続けたいと思っております。
さて、今回の講座で「もし西軍が勝って家康が死ねば外国の侵略を受けて我が国が滅亡の危機を迎える」としましたが、その具体例については実際の講座では簡単に紹介したものの、文面においては書き切れていませんでした。次回(20日)に詳しく記(しる)しますので、ぜひご覧下さい。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
実際に起こった事実は変える事は出来ませんが、それまでに行き着いた経緯や、それぞれの人物の思惑というのを想像する事は大いなる歴史のロマンでもありますよね。
しかし、ロマンという言葉に留まらず、より真実に近い現実を探ろうと皆さん、色々な仮説を立てながら辿り着こうというご努力には頭が下がる思いです。
是非、黒田さん始め、歴史研究家の方々の今後の
ご活躍を期待させていただきたく存じます^^
応援凸
上杉の動き
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
よく、『関ヶ原の戦い』の戦いばかりが注目されがちですが
『関ヶ原の戦い』のキッカケは、上杉征伐ですよね。(小山評定は、反転して西に向かったわけです。)
とすると、上杉の動きも重要になると思いました。上杉は、120万石で、動員可能兵力4万です。(西軍の毛利120万石も大きいですが、)
伊達政宗は58万石程度しかありません。
(1)上杉軍が関東に進軍すると流れが変わってきたのではと思いました。
→ 伊達政宗は、一応、東軍ですが、家康にたいする忠誠心がなく、野心家なので、共同作戦も可能。
江戸は、秀忠38000の本隊が関ヶ原の向かって留守、家康も不在状態。
(2)徳川軍と上杉軍との戦いが、始ってから、石田三成が挙兵していたら、流れが変わっていたのでは。。
挙兵時期が早すぎた。
それにしても、関ヶ原の戦いの後、上杉が取り潰しにならなかったのは、不思議です。
やはり、120万石(減封で30万石になりますが)の兵力が残っているのは、家康にとって、脅威だったのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
今回の講座については皆様から様々な説をいただきまして、大いに参考になりました。
今後とも、このような双方向による研究を続けられればと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、上杉征伐も関ヶ原に複雑に絡んでいますね。
範囲が大きすぎるので今回は割愛しましたが、上杉の動向によってはまた違った結果が生まれたかもしれません。
しかし、これが政情不安定となると一変します。誰もが天下人になれるかもしれないと思えば、どんな手を使ってでも他の大名よりも先んじようとするのが普通ですし、また周囲に攻め立てられて追いつめられた大名は、どんな手を使ってでも助かろうとするでしょう。
いずれ当講座で改めて紹介しますが、幕末の場合も同じようなものでした。薩長ら討幕派はイギリスの、幕府はフランスの支援をそれぞれ受け、武器や弾薬の提供を受けています。しかし、両者は「それ以上の支援」を結果として断りました。
「それ以上の支援」とは何でしょうか。武器や弾薬は買えば入手できますが、量が増えれば当然相手は何らかの「担保(たんぽ)」を要求するでしょうし、また兵力が不足していれば、当然のように外国の兵力を借りようとするか、あるいは外国の方から提供を申し出るでしょう。
実は、これこそが「滅亡への入り口」なのです。




いつも有難うございます。
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涅槃 秀吉が、キリシタンの侵略を気付いた証拠が示されていません。他に余り深く検証もされていないので、まるでゆとり教育の教科書のような内容で大変残念です。次回に期待しております。
涅槃さんへ
黒田裕樹 はじめまして。この度はご意見ありがとうございます。
> 秀吉が、キリシタンの侵略を気付いた証拠が示されていません。
当講座では、第11回歴史講座「太閤殿下の夢」や通史での「秀吉の対外政策と朝鮮出兵の真実」によって、秀吉がキリシタンの侵略(詳しくは「カトリックを利用した欧州による侵略」)に気付いた証拠について明らかにしております。簡単に紹介させていただくと、
1.長崎がキリシタン大名の大村純忠によってイエズス会に寄進されていたこと
2.キリシタン大名の領内において無数の神社や寺が焼かれていたこと
3.ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷として強制連行していたこと
以上の3つが証拠として挙げられ、秀吉はこれらの行為が「イエズス会による布教活動に秘められた欧州による我が国侵略への野望」とみなして禁教政策へと大幅に転換しています。
詳細は下記のURLをご覧下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-812.html
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-813.html
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-814.html
私がブログを始めて2年半近くになりますが、今までご覧になっていただいた読者の皆様に対して、あまり同じことを繰り返し説明しては、かえって新たな分野のご理解への妨げになると思い、また通史での秀吉の行動については今年の2月に紹介したばかりで日が浅いので、今回は省略しておりました。
しかしながら、今回初めて私のブログをご覧になった皆様には、秀吉のいきさつについてはご存じない方も当然いらっしゃるでしょうし、涅槃さんのようなご指摘もある意味当然かと思われます。
> 他に余り深く検証もされていないので、まるでゆとり教育の教科書のような内容で大変残念です。
他の分野がどの範囲を指しておられるかは存じませんが、秀吉の場合と同様に、これまでに紹介した範囲が多いので省略させていただいておりますことをご容赦いただければと思います。
> 次回に期待しております。
当講座の今後といたしましては、以前に紹介した範囲であったとしても、できる限りリンク先を明らかにして、初めてお越しになった皆様にも分かりやすい内容を目指したいと思います。
大変貴重なご指摘ありがとうございました。もしできましたら、私のブログを「ゆとり教育の教科書」と断じるだけの涅槃さんの素晴らしいご賢察をご披露いただければと期待していますし、また必ずやそうなさっていただけると信じております。
わろ それ以上の支援?すごく気になります><
武器だと、船を売りつければかなりの金額になるとは思うのですが、そういえば幕末って南北戦争のあおりで武器がお安入手できたとか本当なのでしょうか?
個人的に、明治維新は、色んな意味ですごく良いタイミングで起きたのでは?と思います。
もしも、鎌倉時代にペリーが来航したら、とりあえず交渉で執権に謁見したペリーを斬首♪なノリがおきそうですえ恐ろしいです^^;
わろさんへ
黒田裕樹 血なまぐさいところにはいつの時代も武器商人が暗躍しますからね。
支援にもいろんな種類がありますが、度を超してしまうとその「見返り」も当然大きくなる、ということです。
鎌倉時代だとペリーを斬首ですか(^^ゞ
本当にやりそうで恐ろしいですね。明治維新は確かに時代に合っていたかもしれません。
管理人のみ閲覧できます
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関ヶ原で西軍が勝って家康が死んだ場合も、いずれは室町時代の応仁の乱のような大混乱の世の中が待っていると考えられます。そうなれば、応仁の乱の頃とは違って外国の勢力の存在をいずれの大名も知っているのですから、切羽詰(せっぱつ)まった大名の中には、後先(あとさき)のことを考えずに外国から領土の割譲(かつじょう)を条件に武器や弾薬、あるいは兵力を借りる者も必ず現れるでしょう。一度そうなってしまえば、後に待っているのは我が国滅亡の危機なのです。
過去の歴史をひも解いても、外国の侵略を受けて滅亡する国は決まって国内が混乱状態にあります。家康の思惑(おもわく)はともかくとして、徳川幕府が結果として長い間の平和をもたらしたことは、我が国にとって想像以上の貢献(こうけん)をしているのかもしれません。
もっとも、その幕府が外交上やむを得ず行った制限貿易を鎖国(さこく)と見なし、時が流れて世界情勢が大きく変わってもその仕組みを変えようともせず、結果として幕末の混乱をもたらしたことは何とも言えない皮肉ではありますが―。
(※次回[22日]より通常の更新を続けます)




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ぴーち こんにちは!
なるほど、確かに
外国の力を借りようとすれば、その代償に
金銭によって長い間賠償していかなければ
ならなかったり、領土の一部が奪われる羽目に陥ったりと、日本国にとってはその後の国益にも、或いは存続にも関わる大きな問題へと発展してしまうということをその場凌ぎの浅はかな感情に任せず、じっくりと考えていかなければいけませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
国益に反してまで我欲を通そうとすれば、そのしっぺ返しは国全体にまで及んでしまうところが恐ろしいですね。
この教訓は、もちろん現代にも通じるものであると思います。
伊達正宗
ろっぽん ~も外国の力を借りて制覇しようと考えていましたからね
でも現在の日本の外交下手は鎖国の影響があるかも知れませんネ
元外交官で鈴木宗雄の関係で逮捕された外務省主任分析官の佐藤優氏が言ってますが
防衛のもう一つの柱は外交で,
もっと外交官を増やすべきだと。つまりCIAのような日本
の情報機関をつくるべきだと思います。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 我が国の外交下手は鎖国や島国であった環境が原因であると思われます。
聖徳太子のような天才的な外交もあったのですが…。
確かに情報機関は必要ですが、スパイ防止法がない現状では情報が筒抜けになってしまい、より悪化するだけかもしれませんね。