満州からモンゴル高原東部にまで及ぶ帝国を築いた遼(りょう)は、1125年に女真族(じょしんぞく)が興(おこ)した金(きん)によって滅ぼされました。金はその後も領土を拡大し続け、1127年には中国の北宋(ほくそう)をも滅ぼしました。宋の皇帝の一族は南方へ逃れて南宋(なんそう)を興し、以後は金と南宋による二つの王朝が中国大陸を支配するようになりました。
そして、我が国で鎌倉幕府が成立した直後の13世紀始め頃、中国大陸で金の支配下にあったモンゴル高原にテムジンが現れると、モンゴルはたちまちチンギス=ハーンと称したテムジンによって統一されました。チンギス=ハーンはその後も征服を続けて、中央アジアから南ロシアに至(いた)る広大な地域を領有しました。
チンギス=ハーンの後継者であるオゴダイ=ハーンは遠くヨーロッパまで征服するとともに、1234年には金を滅ぼし、アジアから東ヨーロッパにまたがる大帝国を建設しました。チンギス=ハーンの孫のフビライ=ハーンは、中国を支配するために都を大都(だいと、現在の北京)に定めて国号を元(げん)と改め、朝鮮半島の高麗(こうらい)を服属(ふくぞく)させました。
中国大陸に広大な領土を持つ帝国が現れ、かつ朝鮮半島が支配下に置かれたことによって、周りを海で囲まれた我が国といえども、他国からの侵略(しんりゃく)にさらされる危険性が生じたのです。1268年には、高麗王の使者がフビライの国書をもたらして、我が国に対して朝貢(ちょうこう)を要求してきました。要するに「日本よ、自分の家来になれ!」と言ってきたわけです。
大国である元からの朝貢の要求に対して、鎌倉幕府はどのような態度をとったでしょうか?




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
おっと、昨日の記事から
また以前のお話に戻ったのですね^^;
チンギス=ハーンや、フビライ=ハーンのお名前は存じておりましたが、後継者であるオゴダイ=ハーンという方のお名前は初めて伺いました^^;
見てて良かった黒田さんの記事です!
このまま、一生知らずに過ごす所でした^^;
鎌倉幕府は、どのような方針を取ったのでしょうか。。気になります^^
また、お邪魔しますね☆
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > おっと、昨日の記事から
> また以前のお話に戻ったのですね^^;
はい、そのとおりです。
今日からしばらく通常の更新が続きますので、よろしくお願いします。
> チンギス=ハーンや、フビライ=ハーンのお名前は存じておりましたが、後継者であるオゴダイ=ハーンという方のお名前は初めて伺いました^^;
> 見てて良かった黒田さんの記事です!
> このまま、一生知らずに過ごす所でした^^;
有難うございます(^o^)丿
二代目というのはなかなか印象に残らないものですからね。
でも、オゴダイの時にモンゴル帝国は大きく飛躍しましたから、世界史としては結構有名な人物ですよ。
> 鎌倉幕府は、どのような方針を取ったのでしょうか。。気になります^^
> また、お邪魔しますね☆
幕府の成立過程を考えれば、取り得る手段はどうしても限られますね。
明日も是非お越し下さい!
今晩は.
りら 今日は私のアップも中国です
興味深く読ませて頂きました
チンギス・ハーンの話は
興味が付きませんよね
ありがとう御座います
私の拙いブログの説明への
温かいコメント頂き
感謝の気持ちで1杯です
りらさんへ
黒田裕樹 りらさんのブログ、早速拝見させていただきました。
チンギス=ハーンは確かに英雄ですが、その一方で多くの名も無き国民が虐殺されています。
チンギスの孫であるフビライに対しても、危うく我が国が犠牲になるところでした。
そんな昔に思いをはせながら、明日(24日)以降も更新を続けていきます。
お言葉有難うございます。
蛇足にならないかどうか心配ではありますが、今後ともできるだけコメントさせていただきたいと思います。
.
紗那 うわぉ。急に話が戻ってびっくりしました(汗
今日は、聞いたことのある人ばかりでよかったです♪ オゴタイハンさん!
朝鮮半島は、やはり日本の国防にとっていつの時代も重要なのですねー。
紗那さんへ
黒田裕樹 > うわぉ。急に話が戻ってびっくりしました(汗
失礼しました(^^ゞ
一ヶ月半ぶりでしたからね。
> 今日は、聞いたことのある人ばかりでよかったです♪ オゴタイハンさん!
> 朝鮮半島は、やはり日本の国防にとっていつの時代も重要なのですねー。
オゴダイ=ハーンは地味ですけど、その役割は大きかったですよね。
朝鮮半島については仰るとおりです。高麗が占領されたことで、我が国に危機が訪れることになりました。その後の展開が重要ですね。
平和条約?
オバrev 日宋貿易という言葉は聞きますけど、日元貿易って言葉は聞いたこと無いですね。随分乱暴な国ですね。
多分、元についての情報はある程度入ってきてたでしょうから、相当強力な政権で、まともにやっても勝てないと分かっていたと思います。
と、なると・・・賄賂を送って平和条約を結ぼうとした?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 日宋貿易という言葉は聞きますけど、日元貿易って言葉は聞いたこと無いですね。随分乱暴な国ですね。
元とは14世紀になってから当時の足利幕府との間で民間の貿易が実現しますが、それまでは波乱万丈の歴史でしたからね。
> 多分、元についての情報はある程度入ってきてたでしょうから、相当強力な政権で、まともにやっても勝てないと分かっていたと思います。
> と、なると・・・賄賂を贈って平和条約を結ぼうとした?
大胆なお考えですね(^^♪
確かに元は強大ですが、幕府がそもそもなぜ成立したのかという理由がカギを握りそうです。
こんばんは
スカイラインV35 コメントせずにいられない場面かもしれません。
確か、、、元からの国書の意味が読み取れず、朝廷では正式に返書しましょう、となった所を、幕府はピンときて国書を持参した使者をスパイ容疑で斬殺し、返書しなかった。と記憶しています。。。
自分が当事者であったら、こんな事が出来るか分かりませんが、鎌倉武士の面目躍如といった所でしょうか。素晴しい。
.
HANA子 元寇については色々と調べたことがありまして、
・なぜ元寇は起きたのか? なぜ日本は標的とされたのか?
・圧倒的であるはずの元軍に幕府─日本はなぜ勝てたのか?
・神風は本当にあったのか?
などなど色んな文献や資料を読み漁ってこれら疑問の答えを求めたものです
まずは最初の接触のお話からなのでしょうか?
次回も楽しみにしています!
鎌倉幕府は、そもそも武力によって他の勢力を自分の支配下に置くことで成立しました。そんな幕府が、いかに強敵とはいえ元の朝貢に応じて軍門に下るとすれば、幕府以外の組織や武士団にはどのように映(うつ)るでしょうか。
「鎌倉幕府は敵に対して尻尾(しっぽ)を巻(ま)いて逃げた」ということになり、幕府のメンツが丸潰(つぶ)れになるどころか、権威が失墜(しっつい)して以後の支配に悪い影響を及ぼすことは間違いありません。
当時の鎌倉幕府の若き第8代執権(しっけん)の北条時宗(ほうじょうときむね)は、元からの再三の使者に対して、服属する意志のないことを強い姿勢で示しました。元の来襲を予想した時宗は、九州の御家人に対して異国警固番役(いこくけいごばんやく)を課して、沿岸の警備を強化しました。




いつも有難うございます。
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満柚子 いつもコメありがとうございます♪
それなのになかなかコメ出来なくて
すみません(><;)
現社のテストは…駄目でした((殴☆
…やってしまいました;
テストいつも難しいんですよ←当たり前だ
平均はあるので許してください♪w
月曜は楽しかったです!!
カラオケに行けて最近
上機嫌なんですw
.
ぴーち こんばんは!
そうですか。
元々、鎌倉幕府とは武力で自分の支配下に置くことで成立して来たのですね。
その体質を念頭に置いておくと、
おのずと答えが見えて来るのでしょうけれど、私には何も見えて来ませんねぇ(大汗)
応援凸
満柚子さんへ
黒田裕樹 > いつもコメありがとうございます♪
> それなのになかなかコメ出来なくて
> すみません(><;)
いえいえ、学校も忙しいでしょうし、お越しいただいて有難いですよ(^^♪
> 現社のテストは…駄目でした((殴☆
> …やってしまいました;
> テストいつも難しいんですよ←当たり前だ
> 平均はあるので許してください♪w
それは残念でしたね(´・ω・`)
新学年では日本史&世界史でしょうか?
いずれにせよ頑張って下さいね(^o^)丿
> 月曜は楽しかったです!!
> カラオケに行けて最近
> 上機嫌なんですw
カラオケは良いですよね。私も大好きですよ(^_^)v
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですか。
> 元々、鎌倉幕府とは武力で自分の支配下に置くことで成立して来たのですね。
> その体質を念頭に置いておくと、
> おのずと答えが見えて来るのでしょうけれど、私には何も見えて来ませんねぇ(大汗)
武力で頂点に立った組織は、相手がどんなに強くても武力に屈するわけにはいかないのです。
鎌倉幕府の成立過程を理解できれば、おのずと見えてくるものですよ(^^♪
また明日(25日)もお越し下さいね(^_^)v
.:黒田裕樹さん
りら 北条時宗カッコ良いですね
日本男子ここにありですね
元の来襲のことは社会科で勉強して
いますがここまで詳しくはありません いつも楽しく拝見しています
講義お疲れ様です
また明日お城にてお待ちしております
りらさんへ
黒田裕樹 そうですね。北条時宗の決断力と行動力は鎌倉武士ならではだと思います。
優秀な為政者がいたからこそ、元の来襲にも負けることがなかったのでしょう。
こちらこそ、心のこもったお言葉有難うございます。
また拝見しますね(^o^)丿
.不思議
クメゼミ塾長 不思議
1.元寇の時、二回とも台風が…!?
2.日本が侵略されて、元にはむかっ(`・ω・´;)と来ますが
中国には、日本人は朝鮮進攻のように恨みつらみはないように思いますが…?
元が滅亡した所為でしょうか?
クメゼミ塾長さんへ
黒田裕樹 > 1.元寇の時、二回とも台風が…!?
確かに暴風雨が吹いて元軍の船団が壊滅したという記録がありますし、これが大きな敗因の一つには違いありません。ただ、講座の中で説明させていただくことになりますが、それだけで元軍が負けたわけではないと思います。
> 2.日本が侵略されて、元にはむかっ(`・ω・´;)と来ますが
> 中国には、日本人は朝鮮進攻のように恨みつらみはないように思いますが…?
> 元が滅亡した所為でしょうか?
仰るとおり、元が存在しないのも大きな原因ですね。他に考えられるのは、私たち日本人の国民性として、時が経てば恨みや憎しみ、悲しみを「水に流す」ということだと思います。このあたりが、儒教の精神に由来した中国や朝鮮半島の「父祖の恨みは永遠に続く」という考えとの大きな違いだと思います。
.
紗那 なんか、3月27日は携帯を買いに行くらしく…… まぁ、どうせ交通費もなかったんですけどね!(ぁ
やむを得ず、の強行的な態度だったのですね。でも、そんな中でも、胸を張って全力で抵抗するのは容易ではないと思います。時宗はすごい人だなぁと。
教科書では1274年以降の、沿岸防備強化しか触れられていませんでした。 1274年以前にも注目してほしかったな、と教科書に注文をつけてみます。
世界史の教科書で元寇のあたりをパラパラ見てましたw
.
明天会更美好 元寇といい、先の秀吉の朝鮮出兵といい、朝鮮はいつも周辺国の「踏み台」になってきたんですよね・・
そのあたり同情しちゃいます。
ある種その環境が、現在の朝鮮の人たちの歪んだ「コンプレックス」になっているとわたしは考えています。
その他にも「てつはう」と呼ばれた爆発物(ばくはつぶつ)に馬も武士も大いに戸惑(とまど)うなど、幕府軍は苦戦を強(し)いられましたが、一方の元軍も幕府軍による激(はげ)しい抵抗(ていこう)によって大きな被害(ひがい)を受けたことで、やがて沖合(おきあい)に船を避難(ひなん)させると、何とそのまま退却(たいきゃく)してしまいました。この戦いは当時の年号から文永(ぶんえい)の役(えき)と呼(よ)ばれています。
なお、これまでの通説では季節外(きせつはず)れの暴風(ぼうふう)が吹き荒(あ)れたことで元軍が退却したとされてきましたが、実際には意外な抵抗を受けて怖(こわ)くなった元軍らが逃げ帰ったというのが真相(しんそう)であり、日本側の記録にも「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚(おどろ)いた」と書かれています。
翌1275年、フビライは様子を見るために我が国に使者を送りましたが、幕府は使者の首をはねて外交拒絶(きょぜつ)の意志を明らかにしました。これは、以前に元が送った使者が我が国に長期間滞在(たいざい)したことで、スパイ活動をしていたのではないかと疑われたからでもあります。その他にも、幕府は異国警固番役を強化するとともに、博多湾沿いに石造の防塁(ぼうるい)である石塁(せきるい)を築いて、元の再来襲に備えました。
我が国の強硬な姿勢に対して、再び日本を攻める決断をした元は、1279年に南宋を滅ぼすと、返す刀で1281年の5月~6月にかけて、兵数約14万人、軍船約4000隻(せき)で二手に分かれて再び博多湾に侵攻(しんこう)しました。




いつも有難うございます。
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てっちゃん中尉 こんにちは、元寇ですか。
教科書のも載ってる、矢やてつはうで攻撃されている武士の画像がとても印象的です。
今晩は.
りら この時代からスパイがいたのですか!!
凄いお話しで興味深深です
日本は島国なので
比較的 外敵からは安全なのだと
誤解していました
今までのお話しを聞いていて
かなり危険が1杯だったんですね
自分の無知を知らされます
有難う御座います
絶体絶命?
オバrev 弘安の役は、14万の大軍ですか。本当に日本は危うかったですね。
ちょうど、台風の時期に重なっていたという話を読んだことあったけど、中国を統一した元ともあろう国がその辺のことを知らなかったんですかね?
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > こんにちは、元寇ですか。
> 教科書のも載ってる、矢やてつはうで攻撃されている武士の画像がとても印象的です。
「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」ですね。資料的にも大変貴重だと思いますし、見た目で元寇の恐ろしさが分かりますよね。本当によく勝てたものだと思います。
この講座では、我が国がなぜ勝つことができたかについても紹介する予定ですので、楽しみにお待ち下さい(^_^)v
りらさんへ
黒田裕樹 仰るように、近代以前は海に囲まれているという利点はあったのですが、かえって海を渡ってきたスパイに気づきにくいという弱点がありました。元寇の際には、その弱点をうまく相手につかれたと思います。
もっとも、スパイに関しては21世紀の現代においても無縁といえるかどうかは分かりませんが…。
知識は無知から始まるものです。何ら恥ずかしいことはないですよ(^_^)v
.
HANA子 実は神風はなかった!
という説もあるそうなんですよね
実は元寇を記した記録の中に、神風を詳しく記した物がないものがあったとか
では、どうして日本軍は勝てたのか?
ていう疑問から元寇についての文献を色々読み漁ったのですが・・・
実は元寇は元による侵略ではなかった・・・なんて資料も
事の正否はともかくとして、やはり諸説様々な歴史上の大事件を調べるのはとても面白いモンです
センセの次回の講義も楽しみにしてま~す!
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 弘安の役は、14万の大軍ですか。本当に日本は危うかったですね。
文永の役の約3万の5倍近くでしたからね。元軍の本気ぶりが伝わりますが、迎え撃つ方も準備万端ですからね。
> ちょうど、台風の時期に重なっていたという話を読んだことあったけど、中国を統一した元ともあろう国がその辺のことを知らなかったんですかね?
モンゴル帝国は海の戦の経験がほとんどありませんし、何よりも本拠地は内陸部ですから、海に関する知識がなかったと思われます。そして、この欠点が元軍にとって最大のアキレス腱になるのですが…詳しくはもうしばらくお待ち下さいm(_ _)m
HANA子さんへ
黒田裕樹 神風については確かに存在を否定する説がありますね。
特に文永の役の頃は晩秋ですから、台風が来るとは考えにくいですし。
ただ、台風でなかったとしても、ちょっとした嵐が海の戦に不慣れな元軍の足を引っ張った可能性があるのと、元軍の船が欠陥品だった(理由は講座でも考察します)ために、台風クラスの暴風雨でなくても簡単に転覆したとも考えられます。
仰るとおり、元寇については様々な説がありますが、私たちがそうした説をあれこれ述べることができるのも、我が国が元軍に勝ったからこそなんですよね。少なくとも、その点における感謝の気持ちは忘れないでいたいものです。
消費税増税反対 4年前の記事にコメントしてすいませんが、元寇に関しては「通説」とは違う考えがあるので書き込みさせていただきます。
日本側の伝統的な戦法「一騎討ち」で元軍に挑み通用せず損害を被ったのが「通説」です。
しかし「一騎討ち」は日本の伝統的な戦法ではありません。儀礼的な戦いならともかく大戦で一騎討ちなどするでしょうか。
保元の乱や源平の戦いなどで武た士は集団戦どころか、夜襲などを平気で行っています。軍事的天才の義経は型破りな戦法を次々編み出しています。
その系譜である鎌倉武士団が一騎討ちなどという戦法を取るでしょうか。幕末では鉄砲を足軽道具などと馬鹿にしていたわけですが、常在戦場の鎌倉武士が非合理な戦法を取ったとは思えません。
日本側が取った「一騎討ち」はある宗教書にしか書かれておらず日本側を故意に貶め宗教を持ち上げるためにそう書かれたのではないかとの説もあります。
自分独自の考えではなく、ウィキペディアや他の書籍やブログなどの受け売りが大きいのですが。どうでしょうか?
消費税増税反対さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
通説と言えども様々な考えがあり、時を経て新たな通説が生まれることもあります。貴殿のお考えもいずれは新たな説として人口に膾炙することもあるかもしれませんが、当ブログは個人の説を主張するのではなく、我が国の伝統に即した「歴史の大きな流れ」に基づく考えを貫いております。
従って、貴殿の説を決して否定するものではありませんが、これまでどおりとさせていただきますのでご理解くださるようお願いします。
さて、外国による本格的な襲来という、有史以来最大の危機を乗り切った我が国でしたが、その背景には勇敢に戦った鎌倉武士の功績が大きかったのはまぎれもない事実です。元寇の時期がたまたま武力政権の鎌倉幕府の支配であったことも幸いしましたが、それ以外にも、我が国の勝利には様々な原因がありました。
まず、元軍といってもその大半が征服した異民族の連合軍であり、各人の戦意が乏(とぼ)しいのみならず、意志の疎通(そつう)が十分に行われなかったことでした。また、突貫工事で高麗に作らせた船は丈夫でなく、しばしば転覆(てんぷく)の憂(う)き目にあいました。
また、大陸を縦横無尽(じゅうおうむじん)にかけ回る陸上と違って、元軍にとっては不慣れな海戦であり、また我が国の風土に合わない兵士が次々と疫病(えきびょう)で倒れるという不利もありました。
さらに、何よりも元軍を悩ませたのは、それまでに他国を征服した際に大いに利用してきた騎馬軍団(きばぐんだん)が、元寇の際には全くといっていいほど使えなかったことでした。




いつも有難うございます。
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りら 元軍にとっては不慣れな海戦が
わが国にとっては幸いでしたね
この辺りは学校で勉強しましたが
ここまで詳しくではありません
興味深く読ませて頂きました
記事とは関係ありませんが
黒田さんの後輩 高橋大輔選手
世界選手権優勝おめでとうございます
私は仕事のローテーションを
友達に代わってもらいテレビに釘付け
今彼の特集記事アップしました
お時間おありでしたらご覧下さると光栄です
りらさんへ
黒田裕樹 我が国を占領しようにも、仰るとおり元軍には不利な条件が揃いすぎていました。
その中でも最大の理由が最後の段落ですが、この件については明日も続けたいと思います。
高橋選手、やりましたね!
オリンピックのメダルが彼の更なる成長をもたらしたに違いありません。
お祝いの言葉をりらさんのブログに書かせていただきます。
.
紗那 元寇の際には、「神風が吹いた」という話がクローズアップされがちな気もしますが、やはりそれだけでは元軍には勝てるわけないですよね(汗
まぁ、元軍が基本的に騎馬軍団であったことが、大きな要因だったような気がします。個人的には。
.
スカイラインV35 成る程、我が国は海に囲まれて外敵に攻められにくい、とはいえ、やはり来る時は来るんですね。
ところで話は元寇から飛躍して申し訳ないのですが、この元はいずれ衰亡してモンゴル民族は歴史の表舞台から姿を消してしまう。こないだの朝鮮出兵の歴史講座のスペインも無敵艦隊の敗北以降、衰退してやはり影が薄くなってしまう。
という事は、日本の先の大戦の敗戦、そして廃墟からの復興は、決して必然ではなく、我々の祖父母、父母の世代の努力の賜物だと。世界史的に見ても、そのように感じてきました。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 元寇の際には、「神風が吹いた」という話がクローズアップされがちな気もしますが、やはりそれだけでは元軍には勝てるわけないですよね(汗
大きな原因の一つではありますが、色んな要素がからみ合わないと、やはりここまで元軍が敗北するとは考えにくいですからね。
> まぁ、元軍が基本的に騎馬軍団であったことが、大きな要因だったような気がします。個人的には。
紗那さん、鋭いですねぇ(^^ゞ
明日(27日)の更新をお楽しみに!
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 成る程、我が国は海に囲まれて外敵に攻められにくい、とはいえ、やはり来る時は来るんですね。
元寇の最大の原因は、やはり朝鮮半島(高麗)が征服されてしまったことです。朝鮮半島からだと、いかに島国といえども、対馬や壱岐を経由して容易に我が国に攻め込むことができますからね。
> ところで話は元寇から飛躍して申し訳ないのですが、この元はいずれ衰亡してモンゴル民族は歴史の表舞台から姿を消してしまう。こないだの朝鮮出兵の歴史講座のスペインも無敵艦隊の敗北以降、衰退してやはり影が薄くなってしまう。
> という事は、日本の先の大戦の敗戦、そして廃墟からの復興は、決して必然ではなく、我々の祖父母、父母の世代の努力の賜物だと。世界史的に見ても、そのように感じてきました。
世界の歴史の中で、数多くの国が生まれては消えてゆきました。そんな中で、少なくとも1500年以上も同じ皇室の血が続く我が国の存在は、実はとてつもなく貴重なのかもしれません。仰るとおり、父祖の血のにじむような努力と智慧に、私たちは感謝するとともに、時代にバトンをつながなければいけません。
.
オバrev 何か、この鎌倉時代の構図は、現在も続いているような気がします(;^ω^)
でも、元元(もと・元)の国は、現在その経験を生かし?海軍を強化しております。空母も建造中です。
日本も鎮西探題を強化しなくてはいけないのに、えぇ!何やってんだろう?
.
けん爺ちゃん こんにちは!
おぉっ!遂に元寇が始まってますね(^ワ^)
今までの元寇記事を、夜勤明けの眠さも吹っ飛ぶ勢いで
読ませて頂きました。
元軍も色々と
問題を抱えていたようですね(^^;)
騎馬という長所が封じられ、上陸も出来ず仲も割れ、
補給や武器の調達も不可能なら、ジリ貧状態に陥るだけで
暴風雨が来なくても撤退するしかなかったと思います。
外圧に毅然たる
態度を取れた鎌倉幕府の姿勢の裏には
幕府が成立した背景が関係しているというお話、
目からウロコでした。
事を処する姿勢や
勝つために必要な状況とは何かなど、
学ぶべき事柄が多い元寇の記事、
次回も楽しみにしてますね☆(^o^)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 何か、この鎌倉時代の構図は、現在も続いているような気がします(;^ω^)
言われてみればそうですね。侵略されたときの備えは、現代の我が国にはできているのでしょうか…。
> でも、元元(もと・元)の国は、現在その経験を生かし?海軍を強化しております。空母も建造中です。
> 日本も鎮西探題を強化しなくてはいけないのに、えぇ!何やってんだろう?
以前から何度も指摘しておりますが、結局はとっくの昔に消えている「島国の恩恵」を未だに忘れられていないことや、戦争に対するアレルギーの相当な強さが足を引っ張っているのかもしれません。
人間は痛い目を一度見ないとわからないといいますが、国家はどんな状況でも自国の独立を守るのが本来の姿のはずですが…(´・ω・`)
けん爺ちゃんさんへ
黒田裕樹 > こんにちは!
> おぉっ!遂に元寇が始まってますね(^ワ^)
> 今までの元寇記事を、夜勤明けの眠さも吹っ飛ぶ勢いで
> 読ませて頂きました。
有難うございます。けん爺ちゃんさんの力作には比ぶべくもないですが、それなりにわかりやすく書いたつもりです。
> 元軍も色々と
> 問題を抱えていたようですね(^^;)
> 騎馬という長所が封じられ、上陸も出来ず仲も割れ、
> 補給や武器の調達も不可能なら、ジリ貧状態に陥るだけで
> 暴風雨が来なくても撤退するしかなかったと思います。
そうなんです。暴風雨が直接の原因とはいえ、いわゆる「神風」が吹かずとも、当時の我が国の武力を考えれば、ハンデなしでも勝てたかもしれません。
> 外圧に毅然たる
> 態度を取れた鎌倉幕府の姿勢の裏には
> 幕府が成立した背景が関係しているというお話、
> 目からウロコでした。
確かに盲点かもしれません。でも、大国に立ち向かうという覚悟は、武力政権という自負がなければ、おいそれとはできなかったと思います。
> 事を処する姿勢や
> 勝つために必要な状況とは何かなど、
> 学ぶべき事柄が多い元寇の記事、
> 次回も楽しみにしてますね☆(^o^)
確かに学ぶべきことが多いですね。これぞ「歴史に学ぶ」ことだと思います。
ところで、元の襲来という国難を乗り越えた際に二度も暴風雨が発生したことで、「我が国は神風(かみかぜ)に守られている」とする神国思想(しんこくしそう)が、この後に主流となっていきました。神国思想は、やがて我が国に対して大きな影響を与えていくことになります。
さて、あきらめきれないフビライは、我が国に対して三度目の来襲を計画しましたが、諸般(しょはん)の事情で中止となり、元軍はその後二度と我が国を攻めませんでした。一方、我が国では九州沿岸の警戒体制をゆるめず、1293年には鎮西探題(ちんぜいたんだい)を設けて、北条氏一門を派遣して九州の御家人を統括(とうかつ)するなど、元軍襲来を機会に幕府の影響力は西国にも広まりました。
また、幕府は、それまでは支配の外にあった国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)や荘園の非御家人の武士を動員できる権利を朝廷から与えられるなど、元軍襲来は結果として幕府の支配を強化するという効果も生み出しました。




いつも有難うございます。
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スカイラインV35 元寇を機に幕府の支配権は強まったんですね。財政的には逼迫の原因にもなったりと、色々あるんですね。
それにしても、中国の万里の長城など、今でこそ無用の長物とも云われますが、日本でも元寇の際は石塁など延々20kmほど作っているんですね。程度の差こそあれ、外敵に対しては真剣そのものの対応なんでしょうね。
.今晩は
りら 今日も講座お疲れ様
私も今会社から帰った処です
神国思想ここから始まったのですね
これが戦争にわが国は負けないと言
う思想の源だったのですね
明治以来の戦争を考えると
繋がりの大きさに驚かされます
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 元寇を機に幕府の支配権は強まったんですね。財政的には逼迫の原因にもなったりと、色々あるんですね。
元寇が我が国に与えた影響は、プラス面も、そしてマイナス面でも想像以上に大きかったということだと思います。
> それにしても、中国の万里の長城など、今でこそ無用の長物とも云われますが、日本でも元寇の際は石塁など延々20kmほど作っているんですね。程度の差こそあれ、外敵に対しては真剣そのものの対応なんでしょうね。
実際に危機を体験している鎌倉幕府のほうが、現代よりもよっぽど真剣だったということだと思います。石塁も、実際に元軍の上陸を防ぐ手段の一つとして機能していたといえますからね。
りらさんへ
黒田裕樹 りらさんもお疲れ様でした。
感動の一日から一夜明けて、ご気分はいかがでしたでしょうか。
神国思想は、色んな意味で我が国に影響を与えていますね。
「勝つんだ」という姿勢自体は良いことだと思いますが、すべての戦いに勝てるはずがありませんから、時には「引く」という姿勢が認められてもいいはずです。
物事というのは本当に難しいですね。
.
佐佐木あつし 実際、自界反逆難や他国侵逼難を含む末法思想も
この頃に熟成されましたね。
様々な鎌倉仏教の祖も、まさか本来の小乗仏教には
実はそんな末法思想なんかなかった事も知らずに
成立させてしまい、
そのまま現代につながってる事を知ったらどう思うんでしょうね(笑)、
そのあたりも歴史の皮肉さを感じます。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 実際、自界反逆難や他国侵逼難を含む末法思想も
> この頃に熟成されましたね。
日蓮の「立正安国論」ですね。災害や元寇などの数々の国難が、鎌倉仏教が成立する一つのきっかけになったのかもしれません。
> 様々な鎌倉仏教の祖も、まさか本来の小乗仏教には
> 実はそんな末法思想なんかなかった事も知らずに
> 成立させてしまい、
> そのまま現代につながってる事を知ったらどう思うんでしょうね(笑)、
> そのあたりも歴史の皮肉さを感じます。
確かにそうですね。本来の上座部とは全く異なる大乗仏教なうえに、神仏習合や本地垂迹説などの大きな変化をとげた我が国の仏教ですから、日本という国は不思議です(笑)。
元寇の後、北条時宗が精神力を使い果たしたかのように、1284年に34歳の若さでなくなると、時宗の子の北条貞時(ほうじょうさだとき)が13歳で第9代執権となりましたが、御内人の代表(内管領=うちかんれい、ともいいます)である平頼綱(たいらのよりつな)が、1285年に貞時の外祖父(がいそふ、母方の父のこと)である有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)を滅ぼしました。
この事件は、旧暦の11月(=霜月、しもつき)に起きたことから、霜月騒動(しもつきそうどう)と呼ばれています。騒動の後は平頼綱が政治の実権を握(にぎ)りましたが、成長した貞時によって1293年に頼綱が滅ぼされると、以後は得宗が絶対的な権力を手に入れるようになり、御内人や北条氏一門が幕政を独占するという得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)がますます強まっていきました。
こうして幕府内の権力争いが激しくなる一方で、一般御家人の生活状況は、元寇をきっかけとしてより一層悪化することになりました。なぜ元寇が御家人の生活の足を引っ張ることになってしまったのでしょうか?
その原因は、鎌倉幕府を支えていた「御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)」のシステムの崩壊(ほうかい)にありました。




いつも有難うございます。
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りら 今日は久しぶりの日曜休日です
でも気分が優れず家にいます
11月は霜月と言うのですね
綺麗な言葉で魅かれます
歴史だけでなく 言語も豊富になります
文章を書くのが好きなので
楽しいです 紅茶花物語に
素敵なコメントありがとう
お時間おありの時私のホームページ
ご覧下されば幸いです
ブログからジャンプして小説クリックして下さい
今 杏の題名で小説書き始めた処です
りらさんへ
黒田裕樹 旧暦の月名はどれも風情がありますからね。
師走というように分かりやすいものもありますが(^^♪
ご紹介有難うございます。
HPも拝見させていただきますね(^o^)丿
.
ぴーち こんばんは!
「御恩、奉公」ですか。
今の時代でも、以前ある知り合いの看護師が
お世話になった病院に「お礼奉公」しなくちゃいけないのよ
なんて、言ってましたが、
世話になったら、その人の家に奉公しなければいけないと言った、半ば強制的なそういう制度が今はどうなのかは存じませんが、同じ様な意味合いだったのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 鎌倉幕府における「御恩と奉公」は、幕府が御家人の所領を保障するという「御恩」に対して、命がけで幕府のために働くという「奉公」の関係、という意味です。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-377.html
強制的という面よりも、「御恩」を感じているので自然と「奉公」するといった意味が当初はあったのですが、様々な理由で「御恩」が不完全になる一方で、御家人に対して幕府が命令することが増えてきたので、システムそのものが崩壊してきたというわけです。
では、その理由はなんでしょうか…については、明日(29日)の更新で明らかにしていきます。
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HANA子 鎌倉幕府の失墜は元寇における勝利の時にすでに始まっていた・・・・・・
そう言ってしまったら暴論でしょうか?
実の所日露戦争の勝利に沸いていた時、日本は後の太平洋戦争での敗北が運命付けられてしまっていたように考えたことがあるんです
それにしても、当初上手く働いていたシステムが時を重ねて動作不良を起こし始め、破滅の到来を見る
歴史の中ではよく起きてしまうことですがまさに諸行無常
いつか自分達の時代もそのように語られる時がくるのかと思うと・・・なんだか言葉に出来ないような怖さを覚えてしまいます
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 鎌倉幕府の失墜は元寇における勝利の時にすでに始まっていた・・・・・・
> そう言ってしまったら暴論でしょうか?
> 実の所日露戦争の勝利に沸いていた時、日本は後の太平洋戦争での敗北が運命付けられてしまっていたように考えたことがあるんです
暴論というよりは、むしろ慧眼(けいがん)だと思いますよ。
勝利に沸く一方で、思想面はともかく、今後のビジョンをしっかりと見極める具体的な姿勢が見られませんからね。
> それにしても、当初上手く働いていたシステムが時を重ねて動作不良を起こし始め、破滅の到来を見る
> 歴史の中ではよく起きてしまうことですがまさに諸行無常
> いつか自分達の時代もそのように語られる時がくるのかと思うと・・・なんだか言葉に出来ないような怖さを覚えてしまいます
確かに怖いですね。先人たちはあらん限りの智慧をしぼって危機を回避してきましたが、現代の私たちに同じような離れ業ができるでしょうか…。
幕府への義務を果たす「奉公」は出費がかさむため、やがては借上(かしあげ)や土倉(どそう)から借金をすることになります。借金を返すことができればいいのですが、返せなければ、御家人は借上や土倉に自らの所領を奪われてしまいました。さらに、元寇による負担が、こうした流れに拍車(はくしゃ)をかけてしまったのです。
通常の場合、御家人は負担した軍役(ぐんえき)の結果、滅亡した相手方の所領から褒美(ほうび)がもらえることで、それなりの収入を得ることができました。しかし、海を渡ってやって来た元軍が国内の所領を持っているわけがありません。従って、九州まで自己負担で遠征して、命がけで戦ったにもかかわらず、褒美でもらえる所領がないという、御家人たちにとっては極めて深刻な事態となってしまったのでした。
困窮(こんきゅう)する御家人の増加に対して、幕府も手をこまねいたわけではありませんでした。執権北条貞時は、1297年に永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)を発布(はっぷ)して、御家人に対して所領の売買や質入を禁じるとともに、既に売却したものについては無償(むしょう)で元の持ち主に返却させることや、御家人が関係する金銭の訴訟(そしょう)を幕府が受け付けない、といったことを定めました。平(ひら)たく言えば「借金の棒引(ぼうび)き」です。
借金がなくなったり、所領が元に戻ったりしたことで、御家人たちは一息(ひといき)つくことができましたが、皮肉なことに、徳政令によって御家人たちはますます追い込まれていくことになったのです。なぜでしょうか?
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紗那 当時の分割相続は、まだ女性も絡むことができていたのでしょうか? どのあたりから、男尊女卑になっていったのかがいまいちよくわかりません(汗
徳政令のはあれですよね。今でいう、貸し渋りをしたんでしたっけ。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 当時の分割相続は、まだ女性も絡むことができていたのでしょうか? どのあたりから、男尊女卑になっていったのかがいまいちよくわかりません(汗
当初は女子も均等に相続していましたよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-389.html
男尊女卑というか、相続方法が変わったのはこの頃です。次回(30日)には明らかにできるでしょう。
> 徳政令のはあれですよね。今でいう、貸し渋りをしたんでしたっけ。
よくご存知ですね(^^♪
なぜ「貸し渋り」になるのか。実に皮肉な流れがからんでいるんですよね(´・ω・`)
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ぴーち こんばんは!
ここで10分くらい考えていたのですが、最後の問いの答えがどうしても判らずに、
ギブアップさせていただきます^^A
赤点、確実ですね(笑)
明日の記事でまた、勉強させてくださいね^^
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ここで10分くらい考えていたのですが、最後の問いの答えがどうしても判らずに、
> ギブアップさせていただきます^^A
分かりました。明日を楽しみにお待ち下さいm(_ _)m
> 赤点、確実ですね(笑)
> 明日の記事でまた、勉強させてくださいね^^
いえいえ、ここから巻き返せば大丈夫ですよ(^^♪
.今晩は
りら 一言で御家人と言っても
はかなか難しい問題を含んで
いたんですね 借金の棒引をされた
相手に恨まれたことでしょう
それが心配です
明日楽しみにしています
りらさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
「借金の棒引き」の結果がどうなるのか。
確かに気がかりですね。
右翼と左翼とフェミニストの誤解。
晴雨堂ミカエル よく「日本の伝統」をめぐって保革とフェミニストが対立しますが、その「伝統」の殆んどは長い日本の歴史の中では最近のもの、さらにかなりの部分は明治に入ってから確立したもの。
これら誤解がこの講座で氷解することを願っています。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに「伝統」というものほど、時代によって変節しているものはないかもしれません。
ただ、過去の我が国では、そうすることで「国民のため、ひいては国益のため」になると確信して新たな伝統をつくりだして、それが定着しているという面もあります。
保革やフェミニストを問わず、結果として国益にかなうものであれば私たちは賛同し、そうでなければ声をあげて反対する。これが一般的な国民に求められる姿勢でしょう。
そういった判断が下せやすくなっているかどうか分かりませんが、歴史ブログを運営している以上は、心がけていくべきだとは思います。
消費税増税反対 もうひとつあるので、今度はこちらに書き込みします。
元寇が防衛戦争だから勝っても領地が増えず、鎌倉武士の活躍に酬いることができなかった。
一面では正しいと思いますが、全ての戦で領地が増えるわけではない。守りきることも立派な勝利だと思うのです。
武士が領地を与えられているのは軍役を果たすためであって、全ての戦で必ずしも恩賞が貰えるわけではないと武士もわかっていたのではないでしょうか。負ける戦もありますし。
元寇から鎌倉幕府滅亡まで50年もありますし、元寇と徳政令が鎌倉幕府滅亡の要因とは思えないのですが。
これも「通説」に納得がいかないところなので、コメントさせてもらいます。このブログの趣旨が通説の紹介だとはわかっているのですが。
消費税増税反対さんへ
黒田裕樹 鎌倉幕府の衰亡の原因が、仰るとおり「元寇による恩賞がなかった」「徳政令による混乱で御家人がさらに窮乏した」だけではないのは確かです。
その根本は、当該文章の前半にもあるように「分割相続による所領の細分化」にあります。ただでさえ御家人が窮乏している際に、元寇による負担増が追い打ちをかけたといえるでしょう。
その一方で、この先にも載せておりますが、北条氏は得宗専制政治を行い、自分たちの守りを固めようとするが、御家人への対策が徹底されていない以上は現状は変わらず、かえって御家人たちの不満を高めることになる。
これらは「直接の原因」でなくても、幕府をじわじわと追い込むことになります。
そして、やがて後醍醐天皇が挙兵されると、それまでの不満が爆発した御家人たちが幕府を見限ったことで、滅亡への道を歩むのです。
このように、通説「だけ」で考えるのではなく、数々の事象をつなぎ合わせて「大きな歴史の流れ」を導き出し、鳥瞰的に考える手助けをする。
以上が拙ブログの使命であると常々思っております。
一方、御家人たちも徳政令によって一息ついたものの、依然(いぜん)として厳しい財政状況であることに変わりはありません。時が流れると、やがては生活に困るようになり、再び借上や土倉に借金を申し込むことになります。
しかし、国家権力によって一度痛い目にあっている借上や土倉たちは、余程(よほど)のことがない限り今までどおりにお金を貸してはくれません。永仁の徳政令は、結果として御家人たちの経済活動をかえって阻害(そがい)するという結果をもたらしてしまったのでした。
御家人の窮乏化(きゅうぼうか)の原因に分割相続があったことで、鎌倉時代の後期までには、惣領(そうりょう)が所領のすべてを相続するという単独相続が一般的になり、庶子(しょし)は惣領によって扶養(ふよう、養ってもらうこと)されるようになりました。また、女子に与えられる財産も減少し、相続を本人一代限りとして死後には惣領に返却するという一期分(いちごぶん)が多くなりました。
また、畿内(きない)やその周辺を中心として、武力に訴えて年貢の納入を拒否するなど、荘園領主や幕府に対抗する武士団が多く見られるようになりました。彼らは悪党(あくとう)と呼ばれ、その勢力はやがて各地に拡大して、得宗専制政治を強化した幕府を次第に悩(なや)ませるようになりました。
※明日(3月31日)からは第12回歴史講座の内容の更新を開始します。




いつも有難うございます。
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紗那 ふぅ、良かった。貸し渋りの流れはちゃんと合ってました♪
そして、このころから、単独で相続していくようになるのですか。
この悪党は、鎌倉幕府の討幕の際に活躍した、楠木正成などの悪党と同じ部類のものなんですか?
紗那さんへ
黒田裕樹 > ふぅ、良かった。貸し渋りの流れはちゃんと合ってました♪
ハイ、合ってましたよ(^_^)v
さすがですね(^^♪
> そして、このころから、単独で相続していくようになるのですか。
そういうことです。分割相続は一見公平ですが、結局は一族のためにならないんですよね。
だからといって、誰が相続するかでも揉(も)めるのですが…。
> この悪党は、鎌倉幕府の討幕の際に活躍した、楠木正成などの悪党と同じ部類のものなんですか?
そうですね。鎌倉幕府の滅亡もいずれ取り上げますから、しばらくお待ち下さいね(^ω^)
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HANA子 分割相続の弊害と言えば、
遠く欧州のフランク王国の盛衰が思い浮かびます
フランク族の遺産相続が分割相続制だったことから相続争いが頻発して云々と
結果メロヴィンガ朝はカロリンガ朝にとって変わられ、カロリンガ朝も三代と続かず分裂・・・
やはりこの辺は洋の東西を問わないんでしょうね^^;
HANA子さんへ
黒田裕樹 そうですね。分割相続は分裂や弱体化などの弊害を生みますから、おいそれとはできないはずが、気がつくまで、あるいは気がついてもズルズルと続けて自滅する…。
同じように遺産争いが激しい単独相続の方が、基盤がしっかりしている分やはり強いのでしょうか。
いずれにしましても、仰るとおり東西関係なく、人間というのは痛い目にあわないと本当に理解できない生き物なのかもしれません。現状もそうなのかもしれませんが、果たして生き残れるのでしょうか?
.モラトリアム?
オバrev この徳政令は、亀井大臣が打ち上げたモラトリアム法案(骨抜きで可決されましたが)・・+郵貯銀行預け入れ2000万円・・・と同じですね・。
長期的なビジョンのない場当たり的な、今の民○党と似てるような気がします^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この徳政令は、亀井大臣が打ち上げたモラトリアム法案(骨抜きで可決されましたが)・・+郵貯銀行預け入れ2000万円・・・と同じですね・。
> 長期的なビジョンのない場当たり的な、今の民○党と似てるような気がします^^;
確かに似ていますね。
同じモラトリアムでも、高橋是清とは随分違いますし。
ビジョンのない政治は、いつの時代も混乱を生むだけです(´・ω・`)