1232年には、51ヶ条からなる御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定しました。式目は、我が国最初の武家法であり、頼朝以来の先例を基本とした武家の慣習や道理を成文化したものでした。内容としては、守護や地頭の任務や権限を定めたり、御家人の権利義務や所領(しょりょう、領有している土地のこと)の相続の規定、御家人同士や御家人と荘園領主との間の紛争(ふんそう)を処理する基準などが定められたりしました。
式目は、従来の律令(りつりょう)に比べて非常に平易(へいい)な文章で書かれており、内容も実用的なものが多く、後世にまで大きな影響を与えました。ただし、式目の適用は武家社会に限られており、朝廷の支配下では律令の後身(こうしん、もとの形から変わって現在の姿になったもの)である公家法(くげほう)が、荘園領主の支配下では本所法(ほんじょほう)が引き続き効力を持っていました。
なお、御成敗式目は当時の年号にちなんで貞永式目(じょうえいしきもく)とも呼ばれており、また式目が51ヶ条となったのは、聖徳太子の憲法十七条の3倍が由来とされています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
貞永式目は、習った覚えがあります。
この式目も、聖徳太子の影響を受けていたとは、驚きです。
所で、17条の3倍と言う
根拠は何かあるんでしょうか。。
講座、お疲れ様でした!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 貞永式目は、習った覚えがあります。
> この式目も、聖徳太子の影響を受けていたとは、驚きです。
> 所で、17条の3倍と言う
> 根拠は何かあるんでしょうか。。
貞永式目(御成敗式目)については、聖徳太子の憲法十七条にあやかって、それを天地人の三方に配して、3倍の51条にしたと昔から伝えられていますね。聖徳太子の偉人伝説が生んだエピソードと思われます。
> 講座、お疲れ様でした!
有難うございます。
講座の内容は近日中に発表しますね(^_^)v
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
御成敗式目は51ヶ条あってそれが憲法十七条の3倍から来ているの知りませんでした。
勉強になりありがとうございます。
しかし、御家人と荘園領主で法が違うのでは当時の民衆も大変だったと思いますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 御成敗式目は51ヶ条あってそれが憲法十七条の3倍から来ているの知りませんでした。
> 勉強になりありがとうございます。
お言葉有難うございます。今回のような由来を探ることで、皆様のご理解が深まれば幸いです。
> しかし、御家人と荘園領主で法が違うのでは当時の民衆も大変だったと思いますね。
この時代は武士と荘園の二大権力が並存していましたからね。ただ、時代を経るにつれて次第に武士の権力が上回るようになっていきます。
また、翌1247年には有力御家人の三浦泰村(みうらやすむら)を滅ぼし、北条氏の勢力の拡大に成功しました。三浦泰村との戦いは、当時の年号から宝治合戦(ほうじかっせん)と呼ばれています。さらに1252年には第5代将軍の藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)を京都へ追放し、代わりに後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の皇子である宗尊親王(むねたかしんのう)を第6代将軍として迎えました。これ以降、名目(めいもく)だけの皇族将軍(こうぞくしょうぐん)が幕府滅亡まで4代続くことになります。
また、時頼は当時増加していた御家人たちの所領をめぐる訴訟(そしょう)を迅速(じんそく)に処理するため、1249年に評定衆の会議である評定のもとに引付(ひきつけ)という役職を新たに設け、引付衆(ひきつけしゅう)を任命して評定衆を補佐させました。なお、幕府の求めによって、朝廷でも同時期に後嵯峨上皇によって院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)が置かれましたが、院評定衆は幕府の承認を得て任命されたため、結果的に幕府が朝廷の政治に深く関わるようになりました。
1256年、時頼は病気のため30歳で執権の地位を一族の北条長時(ほうじょうながとき)に譲(ゆず)って出家しましたが、政治の実権は握り続けました。時頼のように北条氏の嫡流(ちゃくりゅう、正当な血筋を持つ家柄のこと)の当主である得宗(とくそう)が政治を指導することを得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)といい、鎌倉幕府はこの頃に全盛期を迎えました。




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まり姫 黒田さんこんにちは☆
どうもご心配いただきありがとうございました。
せっかく温かいコメントいただいたのに、お返事が書けなくて申し訳ありませんでしたゴメンなさい・・・(´_`illi)
少し入院していました^^
昨日退院してきたばかりなので、今日お詫びと御礼にお邪魔しましたです^^
また今日からよろしくお願いしますねσ(゚ー^*)
伯父が余計なことを書いたようで・・・・``r(^^;)ポリポリ
久しぶりのポチです(*^_^*)
.信じられないのですが・・
伝次郎 別件ですが、お邪魔させて下さい。
ブログ 老兵の独り言より引用
http://neyama.blog31.fc2.com/
先日大阪府下公立学校における外国籍教員が135人を数えるとされています。
八尾市教育委員会人事総務課より以下の回答。
八尾市立学校における外国籍教員について(平成22年1月25日現在)
大韓民国籍 9名
大丈夫なのでしょうか?
ブログ楽しみに見ています。
まり姫さんへ
黒田裕樹 ご退院おめでとうございます。
何かと大変だったみたいですが、良かったですね。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。
伝次郎さんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます。
お言葉の件ですが、外国籍の人も地方公務員になれるという規定がある以上は、こういった事態も十分考えられるではないか、と思います。
それよりも大きな問題としては、外国籍だからといってそれだけで差別するのではなく、国籍に関係なく、我が国の公教育のために力を尽くしてくれるのか、という一点に尽きると考えております。
今後ともよろしくお願いいたします。
.
HANA子 こうして見てみると、幕府成立から50年あまり、北条氏は権力確立のための行動に余念がなかったのだなということがはっきりわかりますね
内部体制の基盤固めに敵対する有力な勢力の排除。体制の組織作りetc
読み進んでいてふと思い浮かんだのはマキアベッリの「国家論」の文言たち
なるほど、真理は時や場所の違いはあっても変わらないものだということなんでしょうね
HANA子さんへ
黒田裕樹 確かに北条氏の発展のためには手段を選ばないあたりがマキャヴェリズムを感じさせますね。
それでも大勢の御家人の支持を受けたのは、北条氏の政治の手法が上手かったからなのでしょう。
次回(26日)以降の更新では、北条氏から産まれた一つの伝説を紹介することになります。
.
紗那 執権政治全盛ですねー。
北条氏もやるもんです。
まぁ、ここから北条氏も地味に没落していくってことですかねー。
正直鎌倉時代は、幕府開く⇒承久の乱⇒御成敗式目⇒元寇⇒永仁⇒倒幕 くらいしか、授業でもやってないもんですから。
ここでしっかり勉強していきます。
なんか出家しても実験握るって、院政みたいですねw
紗那さんへ
黒田裕樹 > 執権政治全盛ですねー。
> 北条氏もやるもんです。
> まぁ、ここから北条氏も地味に没落していくってことですかねー。
北条氏による執権政治は、時頼の頃が全盛期といって差し支えないでしょう。
時頼の息子の頃に「大事件」が起きて以降は後退期に差し掛かりますね。
> 正直鎌倉時代は、幕府開く⇒承久の乱⇒御成敗式目⇒元寇⇒永仁⇒倒幕 くらいしか、授業でもやってないもんですから。
> ここでしっかり勉強していきます。
随分アッサリとした授業ですね。中学生ならば仕方がないかな…。
しばらく休憩をはさむことになりますが、鎌倉時代はまだまだ続きますよ!(^^♪
> なんか出家しても実権握るって、院政みたいですねw
確かにそうですね(^^ゞ
我が国には引退したり、あるいは役職についていないにも関わらず、政治の実権を握る人が多いのはなぜでしょうか?
将軍
オバrev 藤原氏の摂関政治のようなことを北条氏はやっていたんですね。
でも、北条氏自身が将軍になって権力を握る方がシンプルだと思うのですが、何故そうしなかったんでしょうか?
その方が好都合ということなんでしょうが、どうもよく分かりません。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 藤原氏の摂関政治のようなことを北条氏はやっていたんですね。
天皇を将軍、摂関家を得宗に換えれば、形式的には全く同じですね。
> でも、北条氏自身が将軍になって権力を握る方がシンプルだと思うのですが、何故そうしなかったんでしょうか?
> その方が好都合ということなんでしょうが、どうもよく分かりません。
その大きな理由は、ズバリ「身分の壁」です。
天皇には皇室の身分の方々しかなれないように、将軍にも源氏のように武士といえども身分の高い人間しかなれなかったのです。北条氏は平氏の流れをくむとはいえ、頼朝に比べればはるかに身分が低かったので、当時は将軍になることは考えられませんでした。そこで、摂関家のように実権のない将軍を立てることによって、政治の実権を握る方法をとったのです。
このあたりが、諸外国のように革命的に政治の頂点を奪い取ってしまう方式とは一線を画す我が国の政治手法ですね。
上野国佐野(こうずけのくにさの、現在の群馬県高崎市)に住む貧しい老いた武士である佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求めました。僧の話によれば、信濃国(しなののくに、現在の長野県)から鎌倉へ向かおうと旅をしてきたのですが、大雪のために先へ進むことができなくなってしまったらしいのです。
源左衛門は自分が貧しいために、旅人をもてなそうにも何もしてやることはできないと思って、一度はその僧の願いを断りましたが、雪の中で難儀(なんぎ)しているのを見捨てることもできず、結局は泊めることにしました。
源左衛門は旅の僧のために粟飯(あわめし)を出すなどの心ばかりのもてなしをしましたが、夜が更(ふ)けて寒さが身にしみる頃には、旅の僧に暖をとってもらうための薪(まき)さえなくなってしまいました。そこで源左衛門は、大事に育てていた盆栽(ぼんさい)の「梅」「松」「桜」の鉢の木を惜しげもなく切って、囲炉裏(いろり)にくべました。
(つづく)




いつも有難うございます。
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まり姫 こんにちは☆
北条の得宗政治の最後、北条高時まではもう少し時間がかかりそうですか(*^_^*)
「鉢の木」の話は超有名だけど、私たちの世代では教えられていないから、黒田さんの講座で詳しく書いてもらえば今の高校生もわかるかもしれませんね。
ぽち
当時の侍の生活。
晴雨堂ミカエル 子供用の日本昔話にもなっている有名な話ですね。
当時の武士の生活水準がわかる貴重な資料でもあります。
上級武士でも今の庶民より驚くほど粗末・質素。執権でさえも、醤や塩を肴に酒を飲んでいたとか。
味噌汁は鎌倉時代に成立したらしいですが、当時はご馳走だったでしょうね。
まり姫さんへ
黒田裕樹 > 北条の得宗政治の最後、北条高時まではもう少し時間がかかりそうですか(*^_^*)
応援有難うございます(^o^)丿
北条高時ですか…。しばらく休憩をはさむことになりそうなので、まだまだ時間がかかるかもしれませんが、いずれは取り上げますよ。
> 「鉢の木」の話は超有名だけど、私たちの世代では教えられていないから、黒田さんの講座で詳しく書いてもらえば今の高校生もわかるかもしれませんね。
そうですね。今日(26日)から3回に分けて紹介しますので、皆さんにご理解いただければ幸いです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 子供用の日本昔話にもなっている有名な話ですね。
> 当時の武士の生活水準がわかる貴重な資料でもあります。
そうですね。当時の武士は貧しくとも日頃の鍛錬を欠かさない勇敢さも持っていました。
武士の生活については、近日中に取り上げることになりますよ。
> 上級武士でも今の庶民より驚くほど粗末・質素。執権でさえも、醤や塩を肴に酒を飲んでいたとか。
> 味噌汁は鎌倉時代に成立したらしいですが、当時はご馳走だったでしょうね。
私もそのようなエピソードを聞いたことがあります。
平安貴族の贅沢三昧とは大きな違いですよね。
.
ぴーち こんばんは!
まあ!(@@
ここまでお話を伺っただけでも、何だか心がほわっと、温かくなった気がしましたよ^^
大切にしていた鉢の木を惜しげもなく切ってしまうなんて、なかなか出来ないものですものね(TT)
続きを楽しみにしています♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
確かになかなかできることではありませんね。
明日以降も続きますので、お楽しみに!(^o^)丿
.
馬人 これだけの文章でも、充分暖かくなりますw
寒い冬にもってこいの話ですね^^
人を思いやって大切な盆栽を燃やしてしまうなんて…。
心優しい方なんですね~v
私もそのような心優しい人になりたいです^^
.黒田裕樹さん
りら 今日は鎌倉繋がり
私は写真の為の寺院巡りだけど
の黒田裕樹さんの説明は勉強になります
これからも宜しくお願いね
馬人さんへ
黒田裕樹 > これだけの文章でも、充分暖かくなりますw
> 寒い冬にもってこいの話ですね^^
意識してませんでしたが、確かに仰るとおりですね(^^ゞ
タイムリーでした(^^♪
> 人を思いやって大切な盆栽を燃やしてしまうなんて…。
> 心優しい方なんですね~v
> 私もそのような心優しい人になりたいです^^
私もなりたいです(笑)。
実際には不惑を超えてもまだまだですが…。
りらさんへ
黒田裕樹 鎌倉つながりでしたね。
私は実際には行ったことがないので、非常に勉強になりました。
有難うございます。
こちらこそよろしくお願いしますね。
「私は佐野源左衛門常世と申します。かつてはこのあたり一帯を治めておりましたが、一族の者に領地を奪われ、今はごらんの通りに落ちぶれてしまいました」。
源左衛門の話を聞いていた旅の僧が周囲を見渡すと、立てかけられた大きな薙刀(なぎなた)や、鎧(よろい)が入っていると思われる大きな箱を見つけました。僧の視線に気がついた源左衛門は、力を込めて話を続けました。
「しかしながら、我が身がいかに落ちぶれたとはいえ、この源左衛門は鎌倉殿の御家人。いざ鎌倉に一大事があらば、古ぼけた鎧であってもこれを身につけ、さびたといえどもあの薙刀を持ち、やせ馬にむち打って、誰よりも早く鎌倉にかけつけて、生命を懸けて戦うつもりでござる!」
源左衛門の見事な覚悟ぶりに、旅の僧は黙って何度もうなずきました。そして翌朝、旅の僧は丁重(ていちょう)にお礼を述べて、源左衛門の家から旅立ちました。
(つづく)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
ド素人の質問で大変恐縮ですが、
「佐野源左衛門常世」という名前は、佐野・源左衛門・常世 と分解されるのでしょうか?例えば、外国人のように、
ファースト・ミドル・ラストネーム
という区分がされているんですかね?
それとも、佐野・源左衛門常世と区切るのかしら・・・
それにしても、黒田さんのお話は、その情景が克明に浮かんでくるようですね^^
続きが楽しみです♪
では、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ド素人の質問で大変恐縮ですが、
> 「佐野源左衛門常世」という名前は、佐野・源左衛門・常世 と分解されるのでしょうか?例えば、外国人のように、
> ファースト・ミドル・ラストネーム
> という区分がされているんですかね?
> それとも、佐野・源左衛門常世と区切るのかしら・・・
昔の日本人は、本名(=イミナ)の他に通称(=アザナ)を持っていまして、生存中はよっぽどのことがない限りアザナで呼び合うしきたりでした(死亡後は本名が使われます)。例えば、西郷隆盛が生存中はアザナで「吉之助どん」と呼ばれていたり、遠山の金さんが本名の景元(かげもと)ではなくアザナの「金四郎」と呼ばれたりしています。
従って、佐野源左衛門常世さんの場合も、通常は「源左衛門」と呼ばれていたわけです。なお、この習慣は明治以降はなくなっています。
> それにしても、黒田さんのお話は、その情景が克明に浮かんでくるようですね^^
> 続きが楽しみです♪
有難うございます(^o^)丿
次回がいよいよ最終回になりますので、お楽しみに!(^_^)v
.黒田裕樹さん
りら 高橋大輔の先輩と聞いて
羨ましいです
一緒に応援出来ますね
宜しくです
りらさんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます。
高橋選手は我が国の宝であると同時に、大学の後輩であることを私は誇りに思っております。
世紀の大舞台で、自身の実力を出し切ってもらいたいですね。それさえできれば、結果は後からついてくると信じております。
.ごぶさたしております。
星月冬灯 お久しぶりです!!
ようやく時間ができたので、
遊びにきました ^^
また通わせて頂きますね☆
これからも宜しくお願いしますw
ゆっくり記事読ませて頂きます。
まずはごぶさたしておりました
ご挨拶をww
では ^^
星月冬灯さんへ
黒田裕樹 お久しぶりです。お元気でしたか?
時間ができてまたお越しいただけるとのこと、有難く思います。
よろしければ、またご意見を仰っていただければ幸いです(^^♪
「源左衛門、よくぞまいった。いつぞやの大雪の日には大変世話になったな」。そう話しかけてきた旅の僧は、実は鎌倉幕府の最高実力者である、前の執権の北条時頼だったのです。
時頼は源左衛門の忠義(ちゅうぎ)を称(たた)えるとともに、奪われていた彼の領地を取り戻しただけでなく、梅田(うめだ)・松井田(まついだ)・桜井(さくらい)という鉢の木にちなんだ三ヶ所の領地を新たに与えたということです。
以上の話は時頼よりも後の時代につくられたとされており、創作の可能性が高いですが、たとえ「つくり話」であったとしても、時頼であれば似たような行動をしてもおかしくないと当時の人々に思われ続けたからこそ、長く語り継がれてきたのでしょう。また、鎌倉時代の「御恩と奉公」の仕組みや「一所懸命」の思いなどがよく分かる伝説でもあります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
人に対して、「平ら」にお付き合い出来るというのは、なかなか
出来ないものですよね。どうしても、相手の方の姿、形を見て、人は判断しがちですものね。
どんなに身分が卑しくても、態度を変えない。。そういう人になりたいものです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 人に対して、「平ら」にお付き合い出来るというのは、なかなか
> 出来ないものですよね。どうしても、相手の方の姿、形を見て、人は判断しがちですものね。
> どんなに身分が卑しくても、態度を変えない。。そういう人になりたいものです。
本当にそうですね。我が国の昔話には、人間の理想たるべき姿が生き生きと描かれているような気がします。まさに私たちに勇気を与えてくれるお話ですね。
.
馬人 良い恩返しのような話ですね(´;ω;`)
優しさは後になって報われるような気がします。。。
やっぱり身だしなみじゃなくて中身だということが改めて実感します。
身なりだけ威張っていても何もありませんしね…^^;
馬人さんへ
黒田裕樹 > 良い恩返しのような話ですね(´;ω;`)
> 優しさは後になって報われるような気がします。。。
私もそう思います。無償の優しさ、見返りを求めない心。こういった思いやりが、後々になって実を結ぶことを信じたいものです。
> やっぱり身だしなみじゃなくて中身だということが改めて実感します。
> 身なりだけ威張っていても何もありませんしね…^^;
これもそのとおりですね。人間は中身が勝負です。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
互いに見返りを求めない事こそが
素晴しい御恩と奉公のあり方だと
改めて感じさせて貰いましたね。
御恩と奉公もずっとこんな感じの
ものであれば良かったと思いますが
中々そうはいかないものですね。
.黒田裕樹様
りら 時頼であれば
こんなこともあったのでは
と思わせるような時頼は人物だったんですね
納得です
見習いたいです 中々ですが
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 互いに見返りを求めない事こそが
> 素晴しい御恩と奉公のあり方だと
> 改めて感じさせて貰いましたね。
素晴らしいお話ですよね。日本人がいかにも好きそうな伝説だからこそ、途切れることなく現代にまで伝わっていると思います。
> 御恩と奉公もずっとこんな感じの
> ものであれば良かったと思いますが
> 中々そうはいかないものですね。
理想と現実のギャップに悩み、苦しむのは現代も過去もないですね(´・ω・`)
でも、その葛藤(かっとう)がまた人間らしさをつくるのだと信じています。
りらさんへ
黒田裕樹 時頼や、祖父の泰時は当時の武士にとって頼りがいのある棟梁(とうりょう)だったと伝えられていますからね。執権自身の人徳も、政治を行ううえでは重要だったのでしょう。
確かに見習いたい人物ではありますね。今はまだはるかに遠いですが、少しでも近づきたいものです。
.
Masa コメントありがとうございました。
いつも、黒田先生のblogを楽しみに拝見させてもらってました。
よろしければ、リンクに追加させていただけないでしょうか?
Masaさんへ
黒田裕樹 > コメントありがとうございました。
> いつも、黒田先生のblogを楽しみに拝見させてもらってました。
こちらこそコメント有難うございます。
このたびは良かったですね(^o^)丿
> よろしければ、リンクに追加させていただけないでしょうか?
もちろんOKですよ!
こちらからもリンクさせていただきますね(^_^)v