1195年、頼朝は東大寺の再建供養(くよう)に出席した際に京へ向かい、娘を後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の妃(きさき)にしようとしました。頼朝にしてみれば、自分が朝廷の縁続きとなることで後ろめたさを解消するとともに、娘に皇子が生まれ、将来天皇に即位することがあれば、源氏政権の強力な後ろ盾になると考えたのですが、これは絶対にやってはいけない「禁じ手」でした。
「自分の娘を天皇の妃として、生まれた皇子が天皇に即位して自分は外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となる」。これは平氏政権のやり方と全く同じです。ということは、源氏が貴族化する道を開くことになり、武士の権利が再び朝廷に奪われるかもしれない―。結果的に頼朝の思惑は失敗に終わりましたが、鎌倉の武士団からすれば、頼朝の行為は重大な裏切りであり、許すべからざるものでした。
その後の頼朝は、落馬事故が原因で1199年1月に死亡したことになっていますが、いかに戦争が不得意であったとはいえ、武家の棟梁(とうりょう)ともあろう者が生命に関わる落馬事故を起こすとは思えません。史料にも頼朝の死の前後の記載があやふやになっているなど、頼朝の詳しい死因は現在も分かっていません。
ただ、はっきりといえることは、頼朝の死後、源氏の運命は一気に暗転したという事実です。平氏の滅亡後に源義経が歴史の表舞台から退場したように、征夷大将軍となって幕府を開いた段階で、頼朝ならびに源氏の役割は終わりを告げていたのでした。




いつも有難うございます。
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馬人 頼朝さんも失敗はあったんですね。
(当たり前かw)
それにしても、落馬事件で死亡はどうしても引っかかります。
世間に公開してはいけない「何か」があると私は考えていますが…。
死因は未だに分からないんですね。
馬人さんへ
黒田裕樹 > 頼朝さんも失敗はあったんですね。
> (当たり前かw)
完全な人間なんて存在しませんからね。
それにしても頼朝は最悪の選択をしてしまいました…。
> それにしても、落馬事件で死亡はどうしても引っかかります。
> 世間に公開してはいけない「何か」があると私は考えていますが…。
> 死因は未だに分からないんですね。
許されざる「裏切り行為」によって武士たちから見放された頼朝が、「御用済み」とばかりに始末された…とも思えそうですね。公式の歴史書に死因がはっきり書いていないのはどう考えても怪しいです。
こんばんは
スカイラインV35 義経は軍事的天才であった為に頼朝の本意が理解出来ず、頼朝は政治的天才であった為に御家人等の本意が理解出来ず、といった感じですかねぇ。
あまり知識はないのですが、ナポレオンにしても、何かしらそのような星の元に生まれた的な、歴史的な役割を果たす的な、天命のようなものを感じる歴史上の人物はいますね。感慨深いです。
そして、この後は北条氏の登場ですか。本姓っていうんですかね、(滅亡したはずの)平ですよね。後から考えると北条氏が一番利益を享受したように見えたりして、面白そうな所ですね。
.
ぴーち こんばんは!
ほほ・・っ。。
頼朝さん、そんな後ろめたさを感じながら、政治を行っていたとは、存じませんでした。
黒田さんの記事を読ませていただいていると、下手なドラマを鑑賞しているよりも、よりリアルにその当時の様子が浮かんで来るようです。
いつもありがとうございます^^
落馬事故という説で、隠ぺいされて
しまったんですね。
何か大きな力が働いたのでしょうか。そういえば、イギリス、元ダイアナ妃の死の真相も、うやむやのままにされて、葬られてしまっていますよね。
事件に関わったとされた人物は謎の死を遂げていたりと。。恐ろしいことです。
それでは、応援凸
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 義経は軍事的天才であった為に頼朝の本意が理解出来ず、頼朝は政治的天才であった為に御家人等の本意が理解出来ず、といった感じですかねぇ。
> あまり知識はないのですが、ナポレオンにしても、何かしらそのような星の元に生まれた的な、歴史的な役割を果たす的な、天命のようなものを感じる歴史上の人物はいますね。感慨深いです。
歴史上の人物の中で、一般的に天才と呼ばれる人は、一部の分野では超人的な能力を発揮できるのに対して、別の分野では一般人並みか、それ以下ということが良くありますね。まさに「天は二物を与えず」…。
> そして、この後は北条氏の登場ですか。本姓っていうんですかね、(滅亡したはずの)平ですよね。後から考えると北条氏が一番利益を享受したように見えたりして、面白そうな所ですね。
仰るとおりでして、平氏の「先祖がえり」が実現してしまうのですから、世の中というのは本当に分かりませんよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ほほ・・っ。。
> 頼朝さん、そんな後ろめたさを感じながら、政治を行っていたとは、存じませんでした。
> 黒田さんの記事を読ませていただいていると、下手なドラマを鑑賞しているよりも、よりリアルにその当時の様子が浮かんで来るようです。
> いつもありがとうございます^^
有難うございます。
歴史というのは流れが重要ですから、その筋書きをドラマ仕立てで著(あらわ)すことができれば、より理解が深まると常々思っております。
頼朝については、どれだけ武士仲間から棟梁と仰がれても、やはり昔日の「貴族時代」を忘れることができなかったのでしょう。
> 落馬事故という説で、隠ぺいされて
> しまったんですね。
> 何か大きな力が働いたのでしょうか。そういえば、イギリス、元ダイアナ妃の死の真相も、うやむやのままにされて、葬られてしまっていますよね。
> 事件に関わったとされた人物は謎の死を遂げていたりと。。恐ろしいことです。
確かに大きな力が働いているようですね。そして、その力は頼朝の息子たちにも…。
.
紗那 へぇ・・・・・・あれほどの人物の死因があやふやなんて、なにかあったと勘ぐりたくなりますね。
確かに、平氏とやり口が一緒では武士団にとっては、逆戻りですものね。確かに言い分も理解できる気がします。
てか、この後鳥羽天皇って承久の乱のあの人ですか?
紗那さんへ
黒田裕樹 > へぇ・・・・・・あれほどの人物の死因があやふやなんて、なにかあったと勘ぐりたくなりますね。
そうなんですよ。おそらくは公表できる様な死因ではなかったと考えられますよね。
> 確かに、平氏とやり口が一緒では武士団にとっては、逆戻りですものね。確かに言い分も理解できる気がします。
武士団からしてみれば、頼朝は最後の最後で裏切った許せない存在。だとすれば…ですね。
> てか、この後鳥羽天皇って承久の乱のあの人ですか?
そのとおりです。乱については、近日中に詳しく紹介しますよ。
頼家は有力御家人である比企能員(ひきよしかず)の娘を妻としており、頼家は自分の後ろ盾として比企氏(ひきし)を頼りとしていました。しかし、頼家と比企氏の接近に危機を感じた北条氏は、1203年に比企能員を滅ぼし、返す刀で頼家を伊豆の修善寺(しゅぜんじ)に幽閉(ゆうへい、閉じ込めること)したうえで暗殺しました。
北条時政は頼家の弟である源実朝(みなとものさねとも)を第3代将軍として立てると、自分は政所(まんどころ)の別当となりました。さらに、後に時政の後を継いだ子の北条義時(ほうじょうよしとき)は、1213年に侍所(さむらいどころ)の別当だった和田義盛(わだよしもり)を滅ぼし、侍所の別当も兼ねることになりました。
これ以降、幕府の主要機関である侍所と政所の別当を北条氏が代々世襲(せしゅう、子孫が代々受け継いでいくこと)するようになり、その地位は執権(しっけん)と呼ばれ、名ばかりの将軍と化した源氏に代わって、北条氏が幕府の実権を握るようになりました。




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ぴーち こんばんは!
いよいよ北条氏の登場ですね!
とは言うものの、詳細についての知識は全くの
素人ですので、また、黒田先生の詳しい解説を期待します♪
しかし、頼家がもう少し、しっかり
していたら、歴史が変わっていたのかも知れないですね。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > いよいよ北条氏の登場ですね!
> とは言うものの、詳細についての知識は全くの
> 素人ですので、また、黒田先生の詳しい解説を期待します♪
分かりました!
責任重大ですね(^^ゞ
これからの流れでご理解いただければ幸いです。
> しかし、頼家がもう少し、しっかり
> していたら、歴史が変わっていたのかも知れないですね。
頼家はあまりにも「お坊ちゃま」過ぎましたね。
苦労人でないと世情が分からないのは、今も昔も同じだと思います。
こんばんは
スカイラインV35 滅亡した平家にしても、源義仲、義経、頼朝などにしても、その時代に必要とされた何かがあったのかもしれませんね。そして歴史的使命を果たして消えていく・・・後知恵かも知れませんが (^_^;
それにしても北条氏の登場の仕方は、若干ブラックなイメージが醸し出されてしまいますが、専制君主的な独裁者を好まない日本人の特質を良く把握していたのかもしれませんね。識者でも北条氏の治世を評価する人も多いので、今後の歴史講座の展開も合わせて注視して勉強させて頂きたいと思います。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 滅亡した平家にしても、源義仲、義経、頼朝などにしても、その時代に必要とされた何かがあったのかもしれませんね。そして歴史的使命を果たして消えていく・・・後知恵かも知れませんが (^_^;
歴史的使命というのは確かに存在すると思います。平家から北条氏までの一連の流れで、武士の政権がいかにして誕生したかが良く分かりますし。それだけに、先駆者の使命は大きく、またお役御免となれば容赦なく退場させられたというところでしょうか…。
> それにしても北条氏の登場の仕方は、若干ブラックなイメージが醸し出されてしまいますが、専制君主的な独裁者を好まない日本人の特質を良く把握していたのかもしれませんね。識者でも北条氏の治世を評価する人も多いので、今後の歴史講座の展開も合わせて注視して勉強させて頂きたいと思います。
有難うございます。
北条氏の政治については近日中に紹介することになりますが、結果的に専横であっても、表向きは「話し合い」中心にしているところが、スカイラインV35さんが仰るような「独裁者を好まない」我が国の体質によくあっていると思います。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
北条氏が登場してきましたね。
北条氏による執権政治と元寇で活躍した北条時宗は知っていますが
それ以外の事は余り知らないので、北条氏の事をもっと知れたらと思います。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 北条氏が登場してきましたね。
> 北条氏による執権政治と元寇で活躍した北条時宗は知っていますが
> それ以外の事は余り知らないので、北条氏の事をもっと知れたらと思います。
確かに北条氏は比較的地味な印象がありますからね。私の講座が皆様のご理解のお役に立てれば幸いです(^^♪
まずは鎌倉時代の中盤まで時間をかけて進むことになりそうですね。
.
智里 しかし、いつ聞いても北条って悪いですよね(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
そこまでして実権を握りたかったのか!?って思います。
やっぱり、力のあるものが死ぬと、次に力のあるものが出てくるんですね。
今後の北条の悪行をしっかり学びたいと思います。
.政権の維持
オバrev 政権を奪うのと、その政権を安定して維持するのは、また別物だんでしょうね。
戦争を得意とし、新たなシステムを構築するまでは見事でしたが、政権安定を皇室との姻戚関係に求めるというところで思慮が足りなかったということかもしれません。
それにしても、北条氏が長く権力を維持できたポイントは何だったんだろうか?今後の展開を読めば分かるかもしれませんね ^^;
智里さんへ
黒田裕樹 確かに北条氏は源氏から政治の実権を奪った簒奪者(さんだつしゃ)のイメージが強いですね。力関係も厳しい世の中でしたし。
北条氏がどのようにして悪行(?)を極めたかについても注目いただければ幸いです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 政権を奪うのと、その政権を安定して維持するのは、また別物だんでしょうね。
> 戦争を得意とし、新たなシステムを構築するまでは見事でしたが、政権安定を皇室との姻戚関係に求めるというところで思慮が足りなかったということかもしれません。
権力を持つまでは一生懸命であっても、いざ権力を我が物にすると、いつ失いやしないかと絶えず不安になるらしいですね。頼朝の場合はただでさえ後ろめたさもあったでしょうから、拙速に事を起こして判断を過ったのでしょう。
それにしても権力の地位というのは人間をおかしくさせるようですね。現代にも言えるかもしれませんが…。
> それにしても、北条氏が長く権力を維持できたポイントは何だったんだろうか?今後の展開を読めば分かるかもしれませんね ^^;
そうですね。今後はいかにして北条氏が政治の実権を握っていったかの過程が重要な局面になると思います。朝廷も巻き込んでややこしくなりますが(^^ゞ
なお、西面の武士は、9世紀末に設けられた滝口の武士(たきぐちのぶし)や、11世紀の北面の武士(ほくめんのぶし)と非常に間違えやすいので注意が必要です。
これに対して、政治の実権を北条氏に奪われた将軍の源実朝は、京都の公家(くげ)から妻をもらった影響もあって、和歌を趣味として日々を送っていました。これに目をつけられた後鳥羽上皇は、ご自身の腹心を政所の別当として送り込まれ、幕府を事実上の朝廷の支配下にしようと計画されました。
しかし、1219年1月に実朝は鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、頼家の遺児(いじ、親と死に別れた子のこと)であった僧の公暁(くぎょう)によって暗殺されてしまいました。この直後に公暁も殺されたことによって、頼朝以来の源氏の血はついに絶えてしまったのでした。
ちなみに、実朝を暗殺したとされる公暁ですが、暗殺の現場で「我こそは公暁なり!」と叫んだという記録が残っているだけで、その後にすぐ討ち取られていることから、本物の公暁だったかどうかという確証がありません。実朝の暗殺で、いったい誰が一番得をしたことになるのでしょうか?




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MAHHYA 時代が時代とはいえ、子どもを殺されても、実家についていった北条政子は、どんな気持ちだったのかと思ってしまいます。
尼将軍といわれますが、本当にそんな鬼のような心を持てたのか…今となっては想像するしかありませんが。。。
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 同じ女性、そして母親のMAHHYAさんだけに、お考えも深いのではないかと思います。
夫や我が子より「家」を選んだ政子の決断は、長い目で見ればそれでよかったのかもしれませんが、内心はどうだったのでしょうか…。
いずれにせよ、彼女の一世一代の大舞台が目前に迫っていますね。
.
ぴーち こんばんは!
あくまで
私の偏見かも知れませんが、
仮にも仏に仕える身である僧侶が、
暗殺に関わる本人になるという事は、有り得るのでしょうか。
それが事実とすれば、公暁自身も
天罰が下るのは必至だったのかも知れませんが、僧侶だとて、人の子。
哀しいかな、恨みや怒りなどの煩悩(三毒)を完全に消し去るという事は、無理だったのかも知れませんね。
応援です凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考えもごもっともだと思います。
いかに元武士といえども、僧侶の公暁が仇討ちをするとは考えられません。
しかも、本文で紹介したとおり、実行犯は「我こそは公暁だ」と名乗りこそすれ、本物の公暁がどうかは分かりません。
だどすれば、我々の常識では考えられない大きな力が働いているような気もしますね。
.政治を動かすもの
オバrev >なお、西面の武士は、滝口の武士や北面の武士と非常に間違えやすいので注意が必要です。
もちろん・・・???間違える以前に違いがさっぱり分かりません(>_<)
しかし政治には、表と裏というか、本音と建て前で動いているんですね。昔も今も^^;
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
暗殺の裏には何の為にやったのかがいつも話題になりますね。
今回は暗殺した人物が本物の公暁でないかもしれない当たりが
余計にミステリー性を漂わせていますね。
源氏の血もここで途絶えたんですね。
そして前に栄えていた血筋が滅びる時は
実朝のようにあっさり滅びるもの何だと思いましたね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > もちろん・・・???間違える以前に違いがさっぱり分かりません(>_<)
「○○の武士」は、いずれも朝廷付きのガードマンみたいなものですが、時期や目的がそれぞれ異なります。本文の下線からリンクできるので、参考になさって下さいね(^o^)丿
> しかし政治には、表と裏というか、本音と建て前で動いているんですね。昔も今も^^;
本当にそうですね。実朝暗殺に動いた裏の勢力と、表の北条氏の台頭と…。両面が安定してこその政治だとすれば、それはそれで恐ろしいような気がします…(´・ω・`)
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 暗殺の裏には何の為にやったのかがいつも話題になりますね。
> 今回は暗殺した人物が本物の公暁でないかもしれない当たりが
> 余計にミステリー性を漂わせていますね。
意外と知られていないですが、頼朝・実朝親子の死にまつわるミステリーは十分研究に値すると思います。この親子を殺して得になる勢力といえば、やはり…でしょうか?
> 源氏の血もここで途絶えたんですね。
> そして前に栄えていた血筋が滅びる時は
> 実朝のようにあっさり滅びるもの何だと思いましたね。
血筋を絶やさないようにと周囲が懸命になっても、終わるときは本当にアッサリしていますよね。それだけに大事にしたいものだと思います。
.
kikuzi 黒田さんへ
コメントありがとうございました。
本当にうれしかったです。
北条氏は、本当にすごい一族ですよね。こんな形で政権を握ったのは、彼らだけじゃないんでしょうか。
盛者必衰の理を体現した一族ではなかったかと、個人的に思っております。
kikuziさんへ
黒田裕樹 > 黒田さんへ
> コメントありがとうございました。
> 本当にうれしかったです。
いえいえ、kikuziさんこそ丁重なお言葉、有難うございます。
お互いに自分たちができることからやり遂げたいものですね。
> 北条氏は、本当にすごい一族ですよね。こんな形で政権を握ったのは、彼らだけじゃないんでしょうか。
> 盛者必衰の理を体現した一族ではなかったかと、個人的に思っております。
確かに「既存の勢力」を事実上乗っ取る形で、しかも1世紀以上も勢力を保つことができたのは、戦国時代を除けば北条氏くらいですからね。もっとも、お言葉どおり末路は哀れではありますが、その話はいずれ日を改めて紹介させていただきます。
期待されていた実朝の暗殺に気落ちされていた後鳥羽上皇でしたが、源氏の血が絶え、摂家将軍を迎えるという不安定な状態にある現在こそ幕府を倒す好機と考えられ、1221年に北条義時追討(ついとう)の院宣(いんぜん、上皇からの命令書のこと)を出されました。
関東の御家人たちの多くは、自身が朝敵(ちょうてき、朝廷にそむく敵のこと)となってしまったことに動揺(どうよう)しましたが、一人の女性が一世一代の演説をしたことによって、逆に結束(けっそく)を固めることになりました。
「皆さん、心を一つにして聞きなさい。これが最後の言葉です。今は亡き頼朝殿から皆さんが受けた恩義は山よりも高く、海よりも深いはずです。今私たちは、不正な命令によって反逆者の汚名を着せられたことで、つぶされようとしています。武士の名誉を重んじるならば、断固(だんこ)として戦うべきです!」。
頼朝の未亡人であり、息子二人を失った後も北条氏を支え続けた、「尼将軍」(あましょうぐん)と呼ばれた北条政子によるカリスマ性あふれる名演説に、頼朝以前の武士の悲惨な待遇を思い出した御家人たちは、涙ながらに団結して朝廷と戦うことを決意したのでした。




いつも有難うございます。
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馬人 女性がリーダーだったんですね…!
この言葉によって御家人たちが団結したんですかー。
何かとややこしい時代なんですね。
あと、歴史講座に参加したいものの
私の身分が「中学生」ということもあり、説得しても親が許してくれなさそうで行けなくて残念です。
.
ぴーち こんばんは!
カリスマ性のある演説が得意な
方は、いつの世にでも存在するんですね^^黒田さんも、現代が誇る?
カリスマ性を湛えた教師ですもんねっ^^
明日、またまた頑張ってください!
喉の調子は大丈夫ですか?
それでは、応援凸
馬人さんへ
黒田裕樹 > 女性がリーダーだったんですね…!
> この言葉によって御家人たちが団結したんですかー。
> 何かとややこしい時代なんですね。
歴史を動かすのは何も男性とは決まっていません。
古くは天照大神(あまてらすおおみかみ)や神功皇后(じんぐうこうごう)もそうでしたし、聖徳太子に思い切った政治をさせた推古天皇(すいこてんのう)の功績も大きいですよね。
> あと、歴史講座に参加したいものの
> 私の身分が「中学生」ということもあり、説得しても親が許してくれなさそうで行けなくて残念です。
確かに中学生で、しかも女子では難しいかもしれませんね。
当面は映像で勉強していただくとして、いずれは私がもっと有名になれば実現できるかな(笑)?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > カリスマ性のある演説が得意な
> 方は、いつの世にでも存在するんですね^^黒田さんも、現代が誇る?
> カリスマ性を湛えた教師ですもんねっ^^
え゛! 私がカリスマですか!?
いつかはそんな風に思われてみたいものですねぇ(^^♪
もっとも、こういうのは自分ではなく、他人が評価するものですけれども。
差し当たって今は「黒田節」と呼ばれているようですが(笑)。
> 明日、またまた頑張ってください!
> 喉の調子は大丈夫ですか?
ご心配いただき有難うございます。
違和感が多少は残っておりますが、講義には問題ない程度まで回復できました。
明日も「黒田節」全開で頑張りますよ!(^_^)v
.お見事
オバrev 何と、4代将軍は藤原氏から、それもわずか2才とは初めて知りましたぁ。
そりゃぁ、後鳥羽上皇もチャンスと考えますよ。
でも北条政子の方が一枚上手でしたね。
夫に平氏を討たせて将軍にし、幕府の危機も見事に乗り越えて、北条氏による支配を盤石のものにしたその手腕は、お見事としか言いようがないです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 何と、4代将軍は藤原氏から、それもわずか2才とは初めて知りましたぁ。
> そりゃぁ、後鳥羽上皇もチャンスと考えますよ。
源氏の血が絶えた後も将軍が置かれていた、という事実はあまり知られていませんからね。
しかし、ここまで来ると本当の「飾り物」になってしまいますね。
それにしても後鳥羽上皇は、期待していた将軍が殺されるは、チャンスと思って兵を挙げたら自分より上手の女性の政治家がいたはと、とことんツキをお持ちでないですね(´・ω・`)
> でも北条政子の方が一枚上手でしたね。
> 夫に平氏を討たせて将軍にし、幕府の危機も見事に乗り越えて、北条氏による支配を盤石のものにしたその手腕は、お見事としか言いようがないです。
まさしくそのとおりです。
頼朝の大活躍も、ひょっとしたら政子による入れ知恵があったのかもしれない―。
そう思わせるほどのカリスマ性を持った女性ですね。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
この時代に藤原氏が将軍におかれた居た事があった事が驚きですね。
しかし2歳で将軍に置かれるとはどんなものなのでしょうね
まあ当人は2歳ですし実感はなかったと思いますが。
北条政子の名演説が出てきましたね。
日本の国会にもこんなカリスマあふれる女性に国を救って欲しいものです。
3日連続でコメントしてしまいます
スカイラインV35 こんばんは。
北条政子ですか。一字一句史実では無いかもしれませんが、このような場面で、そのような精神を示された事は事実なんでしょうね(参考までに、確かこのころの遺産の相続は男女問わず均等だったような記憶が薄らとあります)。
それにしても歴史を動かすものは、普遍的な事象や合理的な根拠と共に人間の精神であると思っています。後鳥羽上皇も英邁なお方と思っていますが、北条政子も良い物を残してくれましたね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > この時代に藤原氏が将軍におかれた居た事があった事が驚きですね。
> しかし2歳で将軍に置かれるとはどんなものなのでしょうね
> まあ当人は2歳ですし実感はなかったと思いますが。
確かに2歳の子に政治ができるはずがありませんよね。
さらに、いずれは紹介しますが、将軍が成長して政治に口を出すようになればどうなるのかといいますと―。
> 北条政子の名演説が出てきましたね。
> 日本の国会にもこんなカリスマあふれる女性に国を救って欲しいものです。
閉塞感漂う今の世の中ですから、仰るような素晴らしい女性に、この国を良い方向へグイグイと引っ張ってもらいたくもなりますよね。個人的には候補者がいないこともないと思っておりますが…。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 3日連続でコメントしてしまいます
どうぞお気になさらずに。当ブログはコメント大歓迎です(笑)。
> 北条政子ですか。一字一句史実では無いかもしれませんが、このような場面で、そのような精神を示された事は事実なんでしょうね(参考までに、確かこのころの遺産の相続は男女問わず均等だったような記憶が薄らとあります)。
確かに、残っている記録がすべて真実とは限りませんが、北条政子が表舞台に出てきそうなカリスマ性を持っていたからこそ、こういう「伝説」が残されているのだと思います。これも歴史の流れの一つですね。
後者のご意見については、確かにそのとおりですね。当時は男女同権の時代でもありました。我が国は有史以来、女性に対しては非常に寛容な姿勢が目立つという特性がありますね。
> それにしても歴史を動かすものは、普遍的な事象や合理的な根拠と共に人間の精神であると思っています。後鳥羽上皇も英邁なお方と思っていますが、北条政子も良い物を残してくれましたね。
後鳥羽上皇と北条政子。地位や立場は全く異なりますが、時代を創ることが出来るだけの器量を持ったもの同士の戦いだったからこそ、勝ち抜いた北条氏の歴史が長く続くことになったのでしょうね。
他のコメントにも書かせていただきましたが、後鳥羽上皇はあまりにもツキをお持ちでなかったのが大きな誤算でしたね。世が世なら、歴史をまき戻す可能性も十分にあったと思われるのですが―。
乱の後、後鳥羽上皇と子の土御門上皇(つちみかどじょうこう)、ならびに順徳上皇(じゅんとくじょうこう)は、北条氏によってそれぞれ隠岐(おき)、土佐(とさ)、佐渡(さど)へと流されました。皇族が武士によって処罰を受けるのは無論初めてのことであり、朝廷は大きな衝撃(しょうげき)を受けました。また順徳上皇の子で4歳の仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は、わずか81日で天皇を退位させられ、代わりに後堀河天皇(ごほりかわてんのう)が第86代天皇として即位されました。
ちなみに、在位期間の短かった仲恭天皇は長い間ご即位が認められず、九条廃帝(くじょうはいてい)と呼ばれ続けました。仲恭天皇と追号されたのは明治になってからのことです。また、後堀河天皇はご即位時に10歳と若かったため、父で出家されていた行助法親王(ぎょうじょほうしんのう)が還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)されて上皇となられ、院政を行われました。「天皇ご即位の経験のない上皇」は前代未聞(ぜんだいみもん)のことです。なお、上皇は崩御後に後高倉院(ごたかくらいん)と追号されています。
幕府は、乱後の京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を置き、朝廷を監視するとともに西国の御家人の裁判や軍事などの統轄(とうかつ、多くの人や機関を一つにまとめて管轄すること)にあたらせる一方、上皇の味方をした公家や武士の所領の3,000余ヶ所を没収し、戦功のあった御家人らをその地の地頭に任命しました。
なお、乱後の地頭は新たな給分(きゅうぶん、給付される領地や米、銭などのこと)を定めた新補率法(しんぽりっぽう)に基づく新補地頭(しんぽじとう)と呼ばれ、従来の地頭は本補地頭(ほんぽじとう)と呼ばれました。これらによって、従来は東国が中心だった幕府の勢力範囲は畿内(きない)や西国にも及び、また幕府が朝廷よりも優位に立つことで、皇位の継承や朝廷の政治にもかかわるようになりました。




いつも有難うございます。
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馬人 うーん。天皇やら上皇やら、同一人物なのに名前が変わるのが覚えるのに一苦労ですw
行助法親王が還俗→白河上皇でしたっけ?
確か院政は白河上皇だったような…。
4歳でも天皇になれるんですね!
授業では歴史人物の年齢など公開していないので分かりませんでした…^^;
.
ぴーち こんばんは!
この頃は、前代未聞の出来事が
多発していたのですね~。
一度出家したものが、元へ戻ることを環俗と言うのは、存じませんでした!(@@
またまた、勉強になりましたm(_)m
応援です!凸
.
k65.y こんばんわ。
いつも仕事の合間とかに「ふむふむ。」と勉強させて頂いてます。
馬人さんへ
黒田裕樹 > うーん。天皇やら上皇やら、同一人物なのに名前が変わるのが覚えるのに一苦労ですw
> 行助法親王が還俗→白河上皇でしたっけ?
> 確か院政は白河上皇だったような…。
確かに天皇→上皇→法皇という流れはややこしいかもしれませんね(^^ゞ
行助法親王は、本文のとおり「後高倉院」と呼ばれておられます。
院政を開始されたのは白河上皇であっていますよ。平安時代後期ですね。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-293.html
> 4歳でも天皇になれるんですね!
> 授業では歴史人物の年齢など公開していないので分かりませんでした…^^;
今回の場合は、順徳上皇が承久の乱に参加されやすいように、子の仲恭天皇に譲位されたという説がありますね。いずれにせよ、天皇ご即位に年齢は関係なくなっている時代でもありました。
歴史人物の年齢を考慮した授業の方が分かりやすいと思いますよ(^^♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃は、前代未聞の出来事が
> 多発していたのですね~。
歴史の転換期の頃は、得てして「前代未聞」の出来事が起こりやすいものですね。
そして、それが前例となって歴史が繰り返されていくことになります。
> 一度出家したものが、元へ戻ることを環俗と言うのは、存じませんでした!(@@
> またまた、勉強になりましたm(_)m
有難うございます。還俗(げんぞく)という言葉は、これからも歴史上に出てくることがありますので、ご記憶されて損はないと思いますよ(^_^)v
k65.yさんへ
黒田裕樹 いつもご訪問くださって有難うございます。
お仕事がお忙しいとは存じますが、今後ともよろしくお願いします。