義経が去った後の1185年11月、頼朝は舅(しゅうと、自分の妻の父のこと)である北条時政(ほうじょうときまさ)を筆頭とする大軍を京へ送り、後白河法皇に以下のように迫りました。
「法皇様の命令によって平氏滅亡に尽力したこの頼朝を、こともあろうに討てとはどういうおつもりですか?」
後白河法皇をはじめとする朝廷は恐怖に震(ふる)え上がり、頼朝をなだめるためにやむなく二つの権利を認めました。後世に名高い「守護(しゅご)・地頭(じとう)の設置」です。
このうち守護は、設置当時は追捕使(ついぶし)といいました。後白河法皇に「義経追討」の院宣を出させることに成功した頼朝が、行方(ゆくえ)の分からない義経を捕まえるため、という名目で全国に追捕使を置くことによって、軍事・警察権を事実上握ることになりました。
また地頭とは公的に認められた土地の管理人ですが、任命権は(守護を含めて)頼朝側にあるために、武士が初めて自分の土地を公的に所有できる道を開くことになりました。この他にも、全国の土地から一反(いったん)ごとに五升(ごしょう)の米、すなわち収穫量全体の5%を兵糧米(ひょうろうまい)として徴収(ちょうしゅう)できる権利を獲得しました。これにより、公領や荘園にも武士の手が伸びることになり、将来の下地中分(したじちゅうぶん)や半済(はんぜい)につながっていくことになります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
守護・地頭という言葉は、確かに習った記憶はあります^^;
けれど、黒田さんの今日の記事で、それぞれの役割や、内容が
私の中で、それまで明解では無かったのですが、お蔭さまですっきりしました^^
ありがとうございます!
所で、野暮な質問かもしれませんが、この頃の「守護」は、現代にも存在する「駐在所」と同じような規模のものなのでしょうか。
それとも、もう少し規模が大きい、都道府県毎に存在する「警察本部」くらいに値するものなんでしょうか・・?
それとも、全く関係ない別物なのでしょうか。。?
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 守護・地頭という言葉は、確かに習った記憶はあります^^;
> けれど、黒田さんの今日の記事で、それぞれの役割や、内容が
> 私の中で、それまで明解では無かったのですが、お蔭さまですっきりしました^^
> ありがとうございます!
有難うございます!(^o^)丿
そうおっしゃっていただけると、記事にした甲斐があるというものです(^_^)v
鎌倉幕府の成立までに2週間以上かかっているというゆっくりとしたスピードですが、その分きめ細やかな説明ができているようで何よりです。
> 所で、野暮な質問かもしれませんが、この頃の「守護」は、現代にも存在する「駐在所」と同じような規模のものなのでしょうか。
> それとも、もう少し規模が大きい、都道府県毎に存在する「警察本部」くらいに値するものなんでしょうか・・?
> それとも、全く関係ない別物なのでしょうか。。?
守護は基本的に国ごとに置かれましたから、鎌倉時代の頃はどちらかといえば「警察本部」というべきでしょうか?
もっとも、時代が移るにつれて守護の役割が様変わりして、室町時代には権力が大きくなって大名化するのがややこしいですね。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
守護・地頭はなんとなく言葉では
覚えていましたが内容まではよく知らなかったので
勉強になりましたありがとうございます。
そして今回の記事では北条氏の名前も出てきていますね。
この時代の北条氏と言えば個人的に
北条政子と北条時宗を真っ先に思い付きますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 守護・地頭はなんとなく言葉では
> 覚えていましたが内容まではよく知らなかったので
> 勉強になりましたありがとうございます。
お言葉有難うございます。
言葉は覚えていても、内容となると覚えていない…。
昨今の歴史教育の典型的な悪弊(あくへい)を見る思いがしますね(´・ω・`)
> そして今回の記事では北条氏の名前も出てきていますね。
> この時代の北条氏と言えば個人的に
> 北条政子と北条時宗を真っ先に思い付きますね。
北条政子はしばらくしたら再び表舞台に出てきますね。
北条時宗といえばやはり元寇でしょうか。鎌倉時代の一つのクライマックスですね。
.大義名分
オバrev やはりまつりごとには大義名分が大事ですね。それがないと理屈で問われたときに返答できないです。
後白河法皇は、まんまと頼朝にしてやられましたね。
・・・しかし今の政局は、数が多けりゃ道理は引っ込むという感じで、大義名分うんぬんは通用しなくなってしまっているのようにも見えます(>_<)ザンネン
オバrevさんへ
黒田裕樹 > やはりまつりごとには大義名分が大事ですね。それがないと理屈で問われたときに返答できないです。
> 後白河法皇は、まんまと頼朝にしてやられましたね。
大義名分を与えたり、相手にスキを与えてはいけないということですね。これも歴史に学ぶ教訓といったところでしょうか。
> ・・・しかし今の政局は、数が多けりゃ道理は引っ込むという感じで、大義名分うんぬんは通用しなくなってしまっているのようにも見えます(>_<)ザンネン
まさしくそのとおりですね。ただ、「数の論理」という無茶な話のきっかけをつくってしまったのは、選挙で選んだ国民の産物ともいえるわけでして、そのあたりを「歴史に学ぶ」べきかもしれません。もっとも、次があればの話ですが…。
.
紗那 あぁ、こういう流れで守護地頭が設置できたんですか。そりゃ、何も無いのに朝廷が認めるわけ無いですものねー。これで、合法的(?)に設置できたと。
農民にとっては苦しいでしょうね。調停にも武士にも年貢が要りますし。
.おはようございます^^
waravino 1春1000冬。waravinoです。
12/26から冬休み。ということで。
しばらく更新お休みします。
いつも。ご訪問・拍手など。
ありがとうございます^^
1/7以降には再開予定です。
こちらには。
いつものように訪問させていただきますので。
よろしくお願いします。
頼朝は冷徹漢のような気がしていましたが。
そういうことでもなかったようですね^^;
兄弟同士とは言え。頼朝の理想のためには。
義経を切らざるを得なかったのでしょう。
頼朝にとっても。断腸の思いだったのかもしれませんね。
世評では。そうではありませんが・・・
それでは。
よい年をお迎えください^^)/
.
ケンシロウ こんにちは。
年末の慌しい時期となりましたね。
5%の兵糧米は現在の消費税のようなものでしょうが
昔から権力のあるものが得をする仕組みは
変わらないって事ですね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > あぁ、こういう流れで守護地頭が設置できたんですか。そりゃ、何も無いのに朝廷が認めるわけ無いですものねー。これで、合法的(?)に設置できたと。
そういうことです。相手のミスにつけ込んで合法的に権利を獲得するあたりがいかにも政治家ですよね。
> 農民にとっては苦しいでしょうね。朝廷にも武士にも年貢が要りますし。
収穫量の5%ですから大きな負担というわけではないんですが、今後は様々な手段を用いて朝廷や貴族の取り分を奪っていくんですよね。朝廷公認という「錦の御旗」に武力が加われば、まさに「鬼に金棒」といったところでしょうか。
秀衡の後を継いだ子の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は、頼朝からの「義経を殺せば藤原氏の安泰は保証する」という言葉を真(ま)に受けて、1189年に義経を自害に追い込みましたが、その行為は同時に頼朝への切り札を自らの手で失ったことを意味していました。事実、待っていましたとばかりに同じ1189年7月、後白河法皇の院宣なしで頼朝は自(みずか)ら大軍を率いて泰衡を攻め、約100年続いた奥州藤原氏を滅亡させました。
自分に対抗する勢力をすべて滅ぼした頼朝は、1190年11月に自ら上洛(じょうらく、京都へ向かうこと)を果たすと、後白河法皇と二人でトップ会談を行いました。この場で何が話されたかの記録は残っていませんが、事後の展開から、おそらく頼朝は自らを征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命するように後白河法皇に迫ったと考えられます。
なぜ頼朝は征夷大将軍という官職(かんしょく)を要求したのでしょうか。そこには「幕府」の誕生とも密接にかかわる、頼朝の最高傑作ともいうべき発想がありました。




いつも有難うございます。
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とまと いつもご訪問&温かいコメントをありがとうございますm(__)m
今年も、残すところあと数日となりました。
何かと、用事の多い年末ですが、お体にお気をつけて…
どうぞ、明るい年をお迎えください。
この一年の、感謝の気持ちを込めて、ぽち♪ ヾ(*´∀`*)ノ
記事とは関係のないコメントですので、読後は、管理人様のご判断で、削除くださいm(__)m
とまとさんへ
黒田裕樹 心のこもったお言葉ならびにポチ有難うございます(^o^)丿
削除するなんてとんでもないです。
とまとさんも良い年をお迎えくださいね(^_^)v
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ロベルト・ジーコ・ロッシ 黒田 様
こんばんは。
ご無沙汰しております。
さて、頼朝ですが、日本史上最高の政治家だと非常に高く評価しています。
彼なくしては、武家社会の到来はなかったでしょう。
最も、頼朝は単なる神輿で実際は鎌倉幕府は北条親子の傑作だったのかもしれませんが。
ちなみに、ベスト3は、源頼朝、織田信長、伊藤博文です。
今後とも宜しくお願いします。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
いよいよ鎌倉時代に始まり間近になりましたね。
そして藤原氏はここで完全に歴史の舞台から姿を消したんですね
勉強になります。
そしていつも不思議に思うのは
頼朝も家康も征夷大将軍と武士の頂点と取ったものは
ほとんどこの役職を要求しているいのですが
それ程意味がある役職なのか気になる所ですね。
ロベルト・ジーコ・ロッシさんへ
黒田裕樹 > ご無沙汰しております。
こちらこそ読み逃げばかりで申し訳ないですm(_ _)m
> さて、頼朝ですが、日本史上最高の政治家だと非常に高く評価しています。
> 彼なくしては、武家社会の到来はなかったでしょう。
> 最も、頼朝は単なる神輿で実際は鎌倉幕府は北条親子の傑作だったのかもしれませんが。
> ちなみに、ベスト3は、源頼朝、織田信長、伊藤博文です。
なるほど、ロベルト・ジーコ・ロッシさんにとっての歴史上の三大人物ですね。
私の場合は聖徳太子と…残りはいずれご紹介する機会があると思います。
頼朝に対する私の見解は、来月には発表できますので、今しばらくお待ち下さい。
> 今後とも宜しくお願いします。
有難うございます。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > いよいよ鎌倉時代に始まり間近になりましたね。
> そして藤原氏はここで完全に歴史の舞台から姿を消したんですね
> 勉強になります。
有難うございます。鎌倉幕府の成立が目前に迫ってきましたね。
確かに藤原氏などの朝廷が持っていたはずの政治の実権は風前の灯ですが、ダメを押したのが…。
> そしていつも不思議に思うのは
> 頼朝も家康も征夷大将軍と武士の頂点と取ったものは
> ほとんどこの役職を要求しているのですが
> それ程意味がある役職なのか気になる所ですね。
スポーツ猫さんもそう思われるんですね。
確かに「将軍=幕府」という図式はご存知でも「なぜ?」かは一般には知られていませんからね。
明日(29日)の更新で、おそらくその答えが出せると思いますよ(^^♪
こんばんは
スカイラインV35 征夷大将軍ですか。。。
最近でも、先の大戦での南方諸地域を占領した軍司令官や日本に君臨したマッカーサーなど、軍政を施行するため、本国から許可を得なくてもある程度総合的な権限を行使出来る存在として”将軍”と呼称される場合がありますが。。
明日のブログを拝見して考えを整理整頓したいと思います。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 さすがにスカイラインV35さんは鋭いですね。
本日(29日)の正午の更新までお待ちいただければ、ご自身のお考えがさらにまとまると思います。
気になる
JJSG 鎌倉幕府の誕生。
征夷大将軍というのは頼朝が最初でしたっけ?
続きが楽しみになってきました。
頼朝の思惑に気づかれた後白河法皇は、征夷大将軍の代わりに頼朝を右近衛大将(うこのえたいしょう)に任じられましたが、遠征のできない右近衛大将では頼朝は幕府を開けません。そこで頼朝は喜んで任官を受けたふりをすると、すぐに辞任しました。このあたりにも頼朝の「大物政治家」ぶりがうかがえます。
トップ会談から2年後の1192年3月に後白河法皇が66歳で崩御されると、頼朝が改めて朝廷に迫ったことによって、同1192年7月、頼朝はついに征夷大将軍に任じられました。この段階で、初めて鎌倉幕府(かまくらばくふ)が名実ともに成立したのです。そして、これ以降の時代は鎌倉時代(かまくらじだい)と呼ばれています。
ところで、最近の歴史教育では鎌倉時代がいつ成立したかということについて様々な説が出されているようですが、朝廷が頼朝を征夷大将軍に任命したことによって、鎌倉の軍事政権が初めて公認されたという幕府成立の事情を考えれば、やはり「いい国つくろう鎌倉幕府」の1192年こそが成立の年にふさわしいと私は思います。
頼朝が鎌倉幕府を開いたことで、朝廷が政治の実権を失うと同時に、いよいよ「武士による政治」が本格的にスタートすることになったのですが、それと同時に、頂点を極めた一族の「役目」が終わっていたことが、当の本人には全く気がついていませんでした。
(※明日(30日)からは第8回歴史講座の内容を更新します)




いつも有難うございます。
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
幕府や征夷大将軍にはそんな意味があったんですね
勉強になりありがとうございました。
確かに武力を完全に掌握してしまえば強引ではありますが
国を支配をする事は不可能ではないですからね。
しかしそれと同時にやっぱり
今の時代と比べると恐ろしい時代だったと思いますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 幕府や征夷大将軍にはそんな意味があったんですね
> 勉強になりありがとうございました。
いえいえ、ご理解いただけて何よりです。
> 確かに武力を完全に掌握してしまえば強引ではありますが
> 国を支配をする事は不可能ではないですからね。
> しかしそれと同時にやっぱり
> 今の時代と比べると恐ろしい時代だったと思いますね。
「力あるものが勝つ」という意味では武力至上主義は恐ろしいものがあるのは事実ですが、その一方で「大人しく従えば守ってやる」という心意気もあった時代だと思います。
今とどちらが良いかと言われればやはり今だとは思いますが…。
.
ぴーち こんばんは!
そうなんですか。。
私などは、全く疑いもなく、
鎌倉幕府は「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」だと思っていました(苦笑)
なんにでも通じる事だとは思いますが、余りにもその事を深く追求し、知り過ぎてしまうと、かえってそれが足かせになり、色々な知識、情報が邪魔する場合があるものですよね。
たまには、シンプルに
考える事も大切ナのかも知れませんね^^;
それでは昨日はコメント残せずに
ゴメンなさいね(><)
応援凸
また、お邪魔しま~す☆
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歴史研究が進むことは良いことなんですが、最近はどうも物事を複雑に考えることが多すぎるような気がしますね。
鎌倉幕府の場合も、頼朝が東国の支配権を認められたり、守護や地頭が置かれたり、あるいは奥州藤原氏を滅ぼして敵対勢力がいなくなったりという「事実上」の出来事ばかりに目を取られて、それまで非合法的な存在だった幕府が朝廷から始めて公認された「征夷大将軍の就任」という歴史的な出来事を軽視しているような気がします。
政権をスタートさせようと思えば、一番大切なのはやはり「正当性」なのですから、どう考えても1192年が鎌倉時代の最初の年だと考えて問題ないと思うのですが、ぴーちさんの仰るように、シンプルに考えられないのが不思議ではありますね。
.
まり姫 こんばんは☆
コメントありがとうございました。
激動の年もあと2日ほどになりましたね。
来年はどんな年になるでしょうね~
黒田さんもよいお年をお迎えくださいませ。
まり姫さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございました。
毎年言っているような気がしますが(苦笑)、来年こそはいい一年であってほしいものですね。
.
miwa >そこで頼朝は喜んで任官を受けたふりをすると、すぐに辞任しました。
頼朝は武士と言うよりは
狡猾な政治家タイプですね。
兵士を滅ぼした立役者である、しかも弟でもある義経を討ち、
安泰は保証すると約束しながら藤原氏も滅ぼし、
その後も頭に描いた通りに事を進めていく。
きっちり絵が出来ていたから邪魔されたくなかったのでしょうね。
.腹の探り合い
オバrev 本日仕事納めで、先ほどまでバタバタしておりました。
鎌倉幕府設立に向けた、頼朝と後白河法皇の駆け引きは、どちらも譲らず、表だっては笑顔で会話しながら実は腹の探り合いですかね?
中々見応えありますね(;^_^A アセアセ…
幕府設立が色々説があるとは知りませんでした。でもやはり公認された年という先生の考えが納得しやすいです。
それにしても、盤石と思われた源氏政権が、あれだけ早くくずれるとは、いったい裏で何があったんでしょうか。楽しみです(^o^)・・・エェッ!もしかしてここでいったん中断ですかΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン イイトコナノニ
miwaさんへ
黒田裕樹 頼朝については仰るとおりだと私も思います。
自分の目標に向かって綿密に計画し、キッチリと結果を出す。そこには幸運もありましたが、歴史をつくる人間というのは、時として非情に、時として狡猾にならないとならないと、自分の目標を達成することができないのでしょう。
信長や秀吉、家康あたりもそうですね。
そして非情になれなかったがゆえに混乱をまとめきれなかったのが足利尊氏あたりでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 本日仕事納めで、先ほどまでバタバタしておりました。
お疲れ様でした。私は昨日でしたが、年内最後の日というのは慌しいものですね。
> 鎌倉幕府設立に向けた、頼朝と後白河法皇の駆け引きは、どちらも譲らず、表だっては笑顔で会話しながら実は腹の探り合いですかね?
> 中々見応えありますね(;^_^A アセアセ…
そのとおりだと思います。今回は一国の主権をかけた話し合いだったわけですが、考えてみれば国同士の外交でも全く一緒ですよね。○愛だのと言っている場合ではないと思うのですが…。
> 幕府設立が色々説があるとは知りませんでした。でもやはり公認された年という先生の考えが納得しやすいです。
以前は1192年で一致していたのに、いかに自由な論議が重要とはいえ、何ゆえに混乱させるようなことを言うのかが私には分からないです。まさか朝廷=天皇の権威をおとしめるために1192年を認めたくないわけではないと思うのですが…。
> それにしても、盤石と思われた源氏政権が、あれだけ早くくずれるとは、いったい裏で何があったんでしょうか。楽しみです(^o^)・・・エェッ!もしかしてここでいったん中断ですかΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン イイトコナノニ
スミマセン(´・ω・`)
19日の講座についても更新しなければいけませんし、年末年始の慌しさに加えて1月は業務多忙なので、復活は1月17日(予定)までしばらくお待ち下さいm(_ _)m
源氏政権は崩れましたが、武士の政権はそのままですよね。このあたりにヒントが隠されていると思いますよ(^^♪