また、西洋医学の解剖書(かいぼうしょ)を訳した解体新書(かいたいしんしょ)が前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって完成した(1774年)のも田沼時代の頃ですし、エレキテルを復元するなど物理学の研究を進めた平賀源内(ひらがげんない)や、江戸時代の俳諧(はいかい)の巨匠(きょしょう)の一人であり、また画家でもあった与謝蕪村(よさぶそん)もこの頃の人物です。
このように画期的かつ斬新(ざんしん)な政治を行ったことで経済や文化を発展させ、幕府財政の好転をもたらした意次でしたが、これらの政策の展開を苦々(にがにが)しい思いで見ている人々がいました。
彼らは商人の力を借りることは恥(はじ)であるとする「儒教と商行為」の呪縛から逃れられない人々や、元々は紀州藩の足軽に過ぎなかった家の男が老中まで出世しやがるとは何事だ、この「成り上がり者」めがと意次を嫉妬(しっと)の炎で見つめる旧来(きゅうらい)の身分の高い人々でした。
また、田沼時代の政権末期の頃までに意次は庶民(しょみん)から大きな反発を受けていたのです。なぜそんなことになったのでしょうか。賄賂の横行(おうこう)によって政治が腐敗(ふはい)したからだと思いがちですが、意次個人がその原因とするにはあまりにも酷(こく)な「自然現象」が本当の理由でした。




いつも有難うございます。
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クラチー だんだんクライマックスに近づいてますね。
うおお~、最後の一文嫌だよぅ悲しいよぅ。
田沼さんは奇人変人が好きだから、
「個性的な人が自由に表現できた→様々な文化登場」
みたいな流れかな、と思いますね。
(^w^)
しかし、源内さんとの絡みは資料によってバラバラなんですよね。
「殺人で捕まった源内をコッソリかくまった」とか「顔見知りになったが、さほど交流しなくなっていた」とか…。
どっちかハッキリしないと妄想できないだろー!
(▼3▼)←
クラチーさんへ
黒田裕樹 > だんだんクライマックスに近づいてますね。
> うおお~、最後の一文嫌だよぅ悲しいよぅ。
そうですね(´・ω・`)
事実は曲げられませんから、この後に悲しい結末が待っています…。
> 田沼さんは奇人変人が好きだから、
> 「個性的な人が自由に表現できた→様々な文化登場」
> みたいな流れかな、と思いますね。
> (^w^)
言われてみれば確かにそうですね。
一般とは少々違う感覚だからこそ、あれだけの改革ができたのかもしれません。
> しかし、源内さんとの絡みは資料によってバラバラなんですよね。
> 「殺人で捕まった源内をコッソリかくまった」とか「顔見知りになったが、さほど交流しなくなっていた」とか…。
> どっちかハッキリしないと妄想できないだろー!
> (▼3▼)←
平賀源内自身も謎の多い人物ですからね。
以前に水戸黄門の枠で西○敏行が源内を演じていたのには笑ってしまいましたが(爆)。
ぴーち こんにちは!
そうですか。。田沼意次の悪名高き噂というのは、
彼の活躍をよく思わなかった周りの輩の手によっていわば、隠蔽された訳なんですね。
自然現象とは。。ぐらぐら・・・の事でしょうか?それともどっかーーーん!?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
「出る杭は打たれる」のはいつの時代も変わりませんね(´・ω・`)
自然現象は…実は世界規模なんですよね…。
この飢饉は当時の年号から天明の大飢饉(てんめいのだいききん)と呼ばれ、1782年から1788年まで長く続きました。なお、浅間山と同じ年の1783年にはアイスランドのラキ火山が同じように噴火しており、天明の大飢饉の理由の一つになったとともに、北半球全体が冷害(れいがい)になったことで、1789年のフランス革命の遠因(えんいん)にまでなったと考えられています。
いずれにせよ、天明の大飢饉によって東北地方を中心におびただしい数の餓死者(がししゃ)が出てしまいました。また、飢饉によって年貢(ねんぐ)が払(はら)えない農民による一揆(いっき)や、都市部での米の売り惜しみに対する打ちこわし(=天明の打ちこわし)が多発しました。
この当時は「天災が起きるのは政治を行っている人間のせいである」という考えが信じられていたので、これらの責任の一切を意次が背負わなければならなかったのです。




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ぴーち こんにちは!
そうでしたか。やはりどっか~んの方でしたか(^_^;)
それにしても、今も昔も自然災害があると時の権力者に怒りのはけ口が向けられてしまうとは、理不尽な話ではありますが、成り行き上、仕方のない事なんでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうでしたか。やはりどっか~んの方でしたか(^_^;)
> それにしても、今も昔も自然災害があると時の権力者に怒りのはけ口が向けられてしまうとは、理不尽な話ではありますが、成り行き上、仕方のない事なんでしょうね。
不運としか言いようがないですね。
仰るとおり不満のはけ口としてやり玉に挙げられるのは致し方ないかもしれませんが、それが必ず正しい行動とも限りません。過去の歴史がそれを証明しています。
オバrev これって、綱吉の時と同じ展開ですか?
しかし此頃物流はどうだったんでしょうか。
東北で飢饉があれば、他の地方から食料を送ることができていたら、その被害もかなり防げた気がします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > これって、綱吉の時と同じ展開ですか?
残念ながらその通りですね。
自然現象で政権を去らねばならないことがどれだけ無念だったでしょうか…。
> しかし此頃物流はどうだったんでしょうか。
> 東北で飢饉があれば、他の地方から食料を送ることができていたら、その被害もかなり防げた気がします。
意次は実際に米の物流に神経を配っていました。ところが、それをぶち壊しにした人間がおりまして…。
いずれまた紹介します。
さらに、1786年に後ろ盾(だて)になっていた将軍家治が死去してしまうと、政治に対する非難が殺到(さっとう)していた意次は老中をやめさせられ、失意のうちに1788年に亡くなりました。
15歳で11代将軍となった徳川家斉(とくがわいえなり)を補佐(ほさ)するかたちで、意次に代わって1787年に老中となったのが松平定信(まつだいらさだのぶ)でした。定信は吉宗の孫にあたり、将軍の後継者となる可能性もあったのですが、複雑な事情の末に白河藩(しらかわはん)の松平家(まつだいらけ)の養子となりました。
定信は自分が他家の養子となって将軍後継の地位を失ったのは、当時の権力者であった意次のせいであると邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)し、個人的に深く恨(うら)んでいました。そして自らが政治の実権を握ると、意次が幕府や我が国のために続けてきた様々な政策をことごとく打ち切りにしてしまったのです。
※哀(あわ)れにも老中を辞めさせられてしまった田沼意次ですが、その心情を「蓼食う虫も好き好き」でおなじみのクラチーさんが秀逸(しゅういつ)に描かれております。

(※明日[8月1日]からは第25回歴史講座の内容の更新を開始します)




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ぴーち こんにちは!
確かに意次という方は不運続きの人生で
幕を降ろしてしまったのでしょうけれど
政治的な押しは利いても、周りに対する配慮という点では欠如している部分があったのでは無いでしょうかね?
いくら政策的には正しい事を実行しようと
しても、人間的に信頼できない人物では
敵となる人が多く存在してしまうのも事実だとは思います。
その辺の意次という人物がどんな人なのか
存じませんので、興味が湧きました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに意次という方は不運続きの人生で
> 幕を降ろしてしまったのでしょうけれど
> 政治的な押しは利いても、周りに対する配慮という点では欠如している部分があったのでは無いでしょうかね?
「成り上がり者」に対する周囲の冷たい目は相当なものだったと思います。
その中で配慮不足があった可能性も見られますが、家柄重視の面々との調和は、意次ほどの傑物であっても不可能だったといえるのかもしれません。
> いくら政策的には正しい事を実行しようと
> しても、人間的に信頼できない人物では
> 敵となる人が多く存在してしまうのも事実だとは思います。
> その辺の意次という人物がどんな人なのか
> 存じませんので、興味が湧きました^^
仰る一面は確かにありますね。政策がうまくいっている時には口にチャックをして、衰えだしたら「ほら見たことか」と言わんばかりに叩きまくる…。
信頼関係を築くのは、いつの世も大変ですよね。
ひゃー!
クラチー また貼られているー!
あばばばば…申し訳ないです!
ありがとうございます!
{{(0Д0)}}
大規模な天災があって、恨みや嫉妬を買って、
当時の風習や考え方に左右されて…。
運の強さも人生のうちという感じですよね。
…お、ついに「元祖・ポルポトくん」の登場ですか。
さぁて、どう料理されるのかなぁ。
(▼▼#)←
クラチーさんへ
黒田裕樹 > また貼られているー!
> あばばばば…申し訳ないです!
> ありがとうございます!
> {{(0Д0)}}
せっかくの力作ですから、有効に活用させていただきましたよ(^ω^)
> 大規模な天災があって、恨みや嫉妬を買って、
> 当時の風習や考え方に左右されて…。
> 運の強さも人生のうちという感じですよね。
仰るとおりと言わざるを得ないですね。
意次にはツキがなかった。そして、それがそのまま幕府のみならず我が国にも暗い影を落とすことになりました…つД`)・゚・。・゚゚・*:.。..。.:*・゚
> …お、ついに「元祖・ポルポトくん」の登場ですか。
> さぁて、どう料理されるのかなぁ。
> (▼▼#)←
いよいよ登場ですが、明日(8月1日)からは第25回歴史講座の更新を開始しますので、しばらくお休みをいただきます。ご了承下さいm(_ _)m
例えば、田沼意次(たぬまおきつぐ)による通貨統一の悲願が込められた南鐐弐朱銀(なんりょうにしゅぎん)を発行停止にし、さらに蝦夷地の開発も中止してしまいました。ちなみにこれらの政策は定信が失脚(しっきゃく)した後に形を変えて再開されています。つまり、定信が打ち切りにした分だけ幕府は無駄な時間と労力を費(つい)やしていることになります。
また1791年には、工藤平助(くどうへいすけ)と親交があった林子平(はやししへい)が我が国における海岸防備の必要性を説いた海国兵談(かいこくへいだん)を著(あらわ)しましたが、定信は「世間(せけん)を騒(さわ)がす世迷言(よまいごと、わけの分からない言葉のこと)を言うな」とばかりに直ちに海国兵談を発禁処分にし、ご丁寧(ていねい)に版木(はんぎ)まで燃やしてしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。だとすれば、我が国は現実より半世紀以上も前に開国し、幕末に黒船に迫(せま)られて相手の言われるままに欠陥(けっかん)だらけの不平等条約を結ばずに済んだかもしれません。それを思えば、海国兵談の発禁処分は定信による幕府の痛恨の失政でした。
ちなみに定信は海国兵談の他にも政治を風刺(ふうし)したり、批判したりする書物の発行を禁じるとともに、黄表紙(きびょうし)や洒落本(しゃれぼん)なども風俗を乱すという理由で発禁処分にしました。これらの命令は出版統制令(しゅっぱんとうせいれい)と呼ばれています。




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ぴーち こんにちは!
確かに社会を風刺したり、批判的な言動を
封じてしまえば、そこからその言動に賛同する声も集まらず、結果暴動を防ぐことが出来、国内は平和が保たれるでしょうけれど、何事にも万能であるもの(法など)は存在しないように、違った視点から見た貴重な意見を揉み消してしまう事は、結果的にブレーキを失ったトロッコに乗っている様なものだと思います。
すみません、抽象的な物言いで(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、反対を許さぬ言論弾圧は、国を滅ぼす方向へと傾いた場合に何の歯止めもなく、一気に奈落の底へと突き落とされる危険性が極めて高いです。そのような指導者や言論機関が存在することが、我が国にとって非常に危機的な状況であることは言うまでもありません。
抽象的なことはありませんよ(^^♪
十分理解できると思います。
オバrev 定信は吉宗の孫だったんですか(゚Д゚)
そりゃ吉宗の政策が是で、それ以外は否となるでしょうね。
でも、時代によって是となる政策は異なりますから、そのあたりを見誤ったんじゃないでしょうか。
特に平和な時代に出版統制なんて、すごく息苦しい感じがします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 定信は吉宗の孫だったんですか(゚Д゚)
> そりゃ吉宗の政策が是で、それ以外は否となるでしょうね。
> でも、時代によって是となる政策は異なりますから、そのあたりを見誤ったんじゃないでしょうか。
定信の場合は吉宗の政治を理想とするあまり、他の手法を全く考えていなかったきらいがありますからね。
見誤りはかなりの範囲にわたっていると思います。
> 特に平和な時代に出版統制なんて、すごく息苦しい感じがします。
平和な時代にこそ、実は出版統制のような言論弾圧が多いんですよ。
例えば現代でも、昨日(21日)の大規模デモが海外で大きく報道されているのに、国内では黙殺していますから(´・ω・`)
定信は吉宗同様に庶民(しょみん)にまで厳(きび)しい倹約令(けんやくれい)を強制させました。先述した出版統制令などとあわせて、これらはせっかく田沼時代に花開いた町人文化の衰退(すいたい)を招(まね)いたほか、庶民の反発を呼ぶなど経済的に失政でした。
享保の改革の際と同じように「寛政文化」と呼ばれるものが存在しない大きな原因となりましたが、その一方で節約で浮(う)いた町費(ちょうひ)の七割を積み立てさせ、江戸町会所(えどまちかいしょ)に運用させることで飢饉(ききん)の際などの非常時の貧民(ひんみん)の救済(きゅうさい)に利用しました。これを七分積金(しちぶつみきん)といいます。
また寛政の改革が始まった頃には天明の大飢饉(てんめいのだいききん)がまだ続いており、庶民の暮らしは不安定になっていました。そこで、定信は飢饉に備えて各地に社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)をつくらせて穀物(こくもつ)を蓄(たくわ)えさせました。これを囲米(かこいまい)といいます。
この他、定信は現代の刑務所(けいむしょ)の原点ともいえる無宿人(むしゅくにん)への職業訓練施設として石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば)を設置しました。もっとも、これは定信自身の案ではなく、池波正太郎(いけなみしょうたろう)の小説「鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」で有名な火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)が考えたものです。




いつも有難うございます。
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わろ 14万ヒットおめでとうございます!
14万人の兵力があれば、黒田さん関ヶ原に殴りこめそうですね^^
定信って、熱心に色々やっているのですね。
現状維持よりもたちが悪い気がします。
歴史において、懐古主義って成功したことあるのでしょうか??
わろさんへ
黒田裕樹 > 14万ヒットおめでとうございます!
> 14万人の兵力があれば、黒田さん関ヶ原に殴りこめそうですね^^
有難うございます。
その発想はなかったですね(^^ゞ
天下を取るにはまだまだ力不足ですが(爆)。
> 定信って、熱心に色々やっているのですね。
> 現状維持よりもたちが悪い気がします。
> 歴史において、懐古主義って成功したことあるのでしょうか??
「昔に返れ」といっても、当時とは環境から何から異なりますからね。
そこまでの対策を何も講じてないとすれば、仰るとおり「たちの悪い」話になってしまいますし、定信の場合はまさにそのとおりなのが何ともはや…(´・ω・`)
ぴーち おはようございます!
昨日は娘を駅まで送り届ける為に
お昼休みに帰宅出来ませんでしたので、黒田さんの記事へコメントに伺うことが出来ずに、不義理をしてしまい、申し訳ありませんでしたm(__)m
14万ヒットですか!おめでとうございます!
今まさに歴史を学ぶ事への大切さの気運が次第に高まり、日本全国広がりを見せている中、黒田さんの様に積極的に本物の歴史と向き合い、流布して行こうと思われる姿に皆さんも共感されている事でしょう。
これからも頑張ってください!
応援凸
また午後からの記事にお邪魔させてくださいね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 昨日は娘を駅まで送り届ける為に
> お昼休みに帰宅出来ませんでしたので、黒田さんの記事へコメントに伺うことが出来ずに、不義理をしてしまい、申し訳ありませんでしたm(__)m
いえいえ、どうぞお気になさらずに。
お忙しい中いつも有難うございます。
> 14万ヒットですか!おめでとうございます!
> 今まさに歴史を学ぶ事への大切さの気運が次第に高まり、日本全国広がりを見せている中、黒田さんの様に積極的に本物の歴史と向き合い、流布して行こうと思われる姿に皆さんも共感されている事でしょう。
> これからも頑張ってください!
お言葉感謝です。
2年半弱での14万HITは大変な数字だということを自覚して、これからも頑張ります!
オバrev 14万HITおめでとうございます。
歴史を様々な角度から検証し、ご自分の意見を交えて事実をできるだけ正確に記事にしておられることが、多くのリピーターを生んでこの数字になっていると思います。
定信も、一生懸命やっていたことは確かそうですね。ただ大きな方向を見誤っていたということでしょうね。
しかし当時の価値観では、意次のような柔軟な考え方ができる人間が幕府にはほとんどいなかったか、いたとしても民間人にしかいなかったんではないでしょうか。
それと現在の歴史教育についての疑問ですが、我々の習った歴史では定信の寛政の改革をむしろ評価していたように思います。
それは意図的ではなく歴史的事実への焦点の当て方が異なっていたということか、あるいは事実の検証が足らなかったということなんですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 14万HITおめでとうございます。
> 歴史を様々な角度から検証し、ご自分の意見を交えて事実をできるだけ正確に記事にしておられることが、多くのリピーターを生んでこの数字になっていると思います。
有難うございます。毎日200~250人の皆様がご訪問くださいますので、これからも歴史の事実を分かりやすく自分の言葉で説明できればと考えております。
> 定信も、一生懸命やっていたことは確かそうですね。ただ大きな方向を見誤っていたということでしょうね。
仰るとおりですね。どれだけ努力を重ねようが、国民、あるいは国益と離れてしまっていてはどうしようもありません。
> しかし当時の価値観では、意次のような柔軟な考え方ができる人間が幕府にはほとんどいなかったか、いたとしても民間人にしかいなかったんではないでしょうか。
唯一の柔軟な発想家であった意次を裸同然で追放し、その後の残忍な仕打ち(後述します)を行った直後ですからね。頭の固い連中しか残っていないのも道理ですし、民間人も声を上げれば林子平のように処分を受けるとあっては誰も政治に貢献しようとは思いません。最悪の状態ですね。
> それと現在の歴史教育についての疑問ですが、我々の習った歴史では定信の寛政の改革をむしろ評価していたように思います。
> それは意図的ではなく歴史的事実への焦点の当て方が異なっていたということか、あるいは事実の検証が足らなかったということなんですかね?
幕府の公的学問であった朱子学からすれば、定信の考え方こそが「究極の理想」であって、意次のようにどれだけ有能であっても「異端児」として徹底的につぶされるんですよ。そんな幕府の基準がそのまま歴史の見方と化してしまって、現代においても本流として存在してしまっているというのが真相だと思います。もっとも、ようやく最近になって意次や綱吉に対する評価が変わりつつあるのは喜ばしいことではありますが。
しかし、棄捐令はいわゆる徳政令(とくせいれい)と同じですから、旗本や御家人の収入を増やすといった抜本的(ばっぽんてき)な改革がない限り、結局は一時しのぎに過ぎないばかりでなく、再び借金をする際には、棄捐令で痛い目にあった札差から断られる可能性もあり、逆効果に終わってしまうという一面もありました。
定信は田沼時代に進められた重商主義(じゅうしょうしゅぎ)を徹底的に否定し、吉宗の時代よりも厳しい重農主義(じゅうのうしゅぎ)の政治を行いました。その中の一つに旧里帰農令(きゅうりきのうれい)があります。これは、地方から江戸に流れてきた農民を無理やり元の農村に帰すという法令ですが、そのままの政策で農村へ帰されたところで、待っているのは今までと同様の苦しい生活の日々でしかありません。
重農主義に戻すということは、吉宗の時代と同じく現実には不可能な米本位制(こめほんいせい)を続けるということですから、いくら農村に帰したところで、いずれは再び江戸へ出て来ざるを得なくなるというわけです。かくして旧里帰農令は失敗に終わり、後の天保の改革(てんぽうのかいかく)の際に再び同じような法令である人返しの法(ひとがえしのほう)を出す結果になってしまいました。




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ぴーち こんにちは!
何事もその場限りの付け焼刃的な政策では
いづれ行き詰まる事になってしまうといういい例だった訳ですか。やはり抜本的に改革を考えていかなければ、堂々巡りを繰り返すだけの愚策なんですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何事もその場限りの付け焼刃的な政策では
> いづれ行き詰まる事になってしまうといういい例だった訳ですか。やはり抜本的に改革を考えていかなければ、堂々巡りを繰り返すだけの愚策なんですね(^_^;)
仰るとおりです。理想のみを追求して具体性がなければ、単なるスローガンを繰り返しているだけであり、それこそ「絵に描いた餅」です。同じことを繰り返し、しかも連続して失敗している段階で、幕府の政治力に限界が来ていたと考えて差し支えないと思われますね。
もちろん現代においても例外ではありませんが。
こんにちは
ryo お久しぶりです。でも先生のブログは毎日見ていますよぉ。
さて、定信の政治ってやることなすこと失敗ばかりに思うのですが、これも意次への個人的な恨みがそうさせてしまっているのでしょうか^^;
ryoさんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです。でも先生のブログは毎日見ていますよぉ。
いつもご覧いただきまして有難うございますm(_ _)m
> さて、定信の政治ってやることなすこと失敗ばかりに思うのですが、これも意次への個人的な恨みがそうさせてしまっているのでしょうか^^;
仰る一面は確かにありますね。所詮、感情だけで政治はできないということでしょうか。
こんばんは
わろ 帰農令で、はたして無事に故郷に帰れたのでしょうか?
村社会日本だと、一度捨てた故郷に帰っても村八分にされそうな気がします^^;
それとも農村では、人手が足りずに歓迎されたのでしょうか??
あと出稼ぎ農民が、都市になじめずにスラム街を形成するってよく聞くのですが、江戸時代もスラム街ってあったのですか??
わろさんへ
黒田裕樹 > 帰農令で、はたして無事に故郷に帰れたのでしょうか?
> 村社会日本だと、一度捨てた故郷に帰っても村八分にされそうな気がします^^;
> それとも農村では、人手が足りずに歓迎されたのでしょうか??
私もそこまではあまり存じ上げませんが、確かに帰る故郷があったか心配ですね。夜逃げ同然や一家離散で食い詰めて江戸に迷い込んだ人々もいたでしょうし…。何しろ飢饉でしたからね。
> あと出稼ぎ農民が、都市になじめずにスラム街を形成するってよく聞くのですが、江戸時代もスラム街ってあったのですか??
ありましたよ。有名なのは芝新網町(現在のJR浜松町駅付近)ですね。他にも何ヵ所かあるようです。
HANA子 現実を直視せずに理想に拘泥して行われる政治が状況の破綻を導くのは古今東西・和と洋の違いなく歴史の語るところですが、
この松平定信の前政権の行いを全否定して自分のやりかたのみを盲目的に推進する→政治の破綻に行き着くというプロセスがどうしても現政権に重なってしまいます
そんな風に思ってしまうのは現政権と与党へのわたしの偏見がなせるわざなんでしょうか……
しかし松平定信は白河藩主だった頃に自藩の飢餓対策に手腕を発していたはずなのですけど、
やはり権力を手にしてしまうと色んなものが曇ってしまうものなんでしょうか?
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 現実を直視せずに理想に拘泥して行われる政治が状況の破綻を導くのは古今東西・和と洋の違いなく歴史の語るところですが、
> この松平定信の前政権の行いを全否定して自分のやりかたのみを盲目的に推進する→政治の破綻に行き着くというプロセスがどうしても現政権に重なってしまいます
> そんな風に思ってしまうのは現政権と与党へのわたしの偏見がなせるわざなんでしょうか……
偏見だけではないと思いますよ。
多くの国民が(できるはずもない)美辞麗句を並び立てた某政党に陶酔して夢を見て、覚めればとんでもない悪夢だった…。現代に限らず、よくある話です。
> しかし松平定信は白河藩主だった頃に自藩の飢餓対策に手腕を発していたはずなのですけど、
> やはり権力を手にしてしまうと色んなものが曇ってしまうものなんでしょうか?
飢餓対策ですか…。いずれ紹介しますが、これこそが定信の出世につながる「政治」だったわけですが、その実像は―。
寛政異学の禁によって、諸藩(しょはん)も幕府にならって朱子学のみを教えるようになったので、それ以外の学問、特に西洋の蘭学(らんがく)が衰退(すいたい)する原因となってしまいました。漢訳洋書の輸入を許可した吉宗の孫とは思えない愚策(ぐさく)ぶりです。
ちなみに湯島聖堂は定信が老中を退任した後の1797年に幕府の直営となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)と称(しょう)されました。昌平坂学問所はもともと幕臣の子弟の教育所として発足(ほっそく)しましたが、後に藩士(はんし)や牢人(ろうにん)の受け入れも許したことで全国からの英才を集めて活気にあふれました。
なお、昌平坂学問所は現在の東京大学(とうきょうだいがく)の流れにつながるほか、明治以降に同じ場所に設立された東京師範学校(とうきょうしはんがっこう)や東京女子師範学校(とうきょうじょししはんがっこう)は、現在の筑波大学(つくばだいがく)やお茶の水女子大学(おちゃのみずじょしだいがく)の源流となっています。




いつも有難うございます。
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HANA子 朱子学の弊害の一番大きな部分はその強過ぎる保守性と排他性と思います。
それが及ぼす影響の最たるものは朱子学を国学としていたお隣の李氏朝鮮の堕落と衰亡を見れば一目瞭然ですよね。
歴史家の中には幕末に幕府から新政権(天皇)への主権譲渡がすみやかに行われたのは朱子学の尊王思想が広く浸透していたからと主張されてる方が少なくありませんが、
定信の朱子学推進が明治維新が成功した一因というのはなんとも皮肉的に思います。
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 朱子学の弊害の一番大きな部分はその強過ぎる保守性と排他性と思います。
> それが及ぼす影響の最たるものは朱子学を国学としていたお隣の李氏朝鮮の堕落と衰亡を見れば一目瞭然ですよね。
保守性や排他性は古来の文化を守るという利点はありますが、外来物をうまくミックスして生き残ったのもまた我が国独自の手法ですからね。こだわり過ぎていては自滅の道を歩んでしまいます。ところが…
> 歴史家の中には幕末に幕府から新政権(天皇)への主権譲渡がすみやかに行われたのは朱子学の尊王思想が広く浸透していたからと主張されてる方が少なくありませんが、
> 定信の朱子学推進が明治維新が成功した一因というのはなんとも皮肉的に思います。
仰るとおり、これもまた事実なんですよね。
もっとも、朱子学者は新井白石などもいますから、定信がどこまで加担していたかは微妙なところですが。
わろ 確か、朱子学って滅亡寸前の宋の皇帝が現実逃避して体系化させた儒教の一つですよね。
朱子学の影響で、武士道は盲目的に主人に服従するものになったと個人的には、考えています。
明治維新の一因になったと思いますし、2次大戦中のナショナリズムに繋がるものがあると思います。良くも悪くも、朱子学は、今の日本人のモラルに影響を与えてるのではないでしょうか?
あと、東大と昌平坂が繋がってるのには驚きました!!
わろさんへ
黒田裕樹 > 確か、朱子学って滅亡寸前の宋の皇帝が現実逃避して体系化させた儒教の一つですよね。
> 朱子学の影響で、武士道は盲目的に主人に服従するものになったと個人的には、考えています。
> 明治維新の一因になったと思いますし、2次大戦中のナショナリズムに繋がるものがあると思います。良くも悪くも、朱子学は、今の日本人のモラルに影響を与えてるのではないでしょうか?
仰ることは確かに一理ありますね。
朱子学が我が国に与えた影響は、予想以上に大きいかもしれません。
> あと、東大と昌平坂が繋がってるのには驚きました!!
意外ですよね。結構こういう流れはありますよ。
こんばんは
ryo まったく関係ない質問なんですが。。
今日TVで聖徳太子の写真を中学生ぐらいの子に見せたら、みんな聖徳太子とは言わないんです。忘れましたが、聖徳太子に本名があったんですね。そこで先生に質問なんですが、どうして本名で教えるようになったのでしょうか。
ryoさんへ
黒田裕樹 > まったく関係ない質問なんですが。。
> 今日TVで聖徳太子の写真を中学生ぐらいの子に見せたら、みんな聖徳太子とは言わないんです。忘れましたが、聖徳太子に本名があったんですね。そこで先生に質問なんですが、どうして本名で教えるようになったのでしょうか。
最近の学説では「聖徳太子」は後世のつくり話であり、厩戸皇子(うまやどのおうじ)という本名で呼ぶべきだ、という考えがあるようです。確かに過去の書物でしか記録に残っていませんが、1000年以上も国民から慕われ続けた「聖徳太子」の称号をそう簡単に変更してよいものか、と私自身は非常に違和感を感じております。
一万円札から聖徳太子が姿を消したのは昭和59(1984)年ですが、この2年前(昭和57年)に起きた教科書誤報事件をきっかけに、近隣諸国条項という名のもとに我が国の教科書の内容に偏向が見られるようになりました。聖徳太子の外交上の大きな功績に、遣隋使に託した国書によって我が国が中国(当時は隋)の冊封体制から脱出するきっかけをつくったことが挙げられますが、これは裏を返せば日本が中国の「奴隷」でなくなったということであり、中国側からすれば「大悪人」になりますよね。同じように韓国から見れば悪人扱いされる伊藤博文が聖徳太子と同じ時期に千円札から排除されており、このあたりの事情と無関係ではないと思います。
いずれにせよ、我が国の歴史は諸外国に配慮しながらも自国の立場にたって教えるべきであり、諸外国への過度のおもねりは無用と考えております。
なお、今回の見解については平成21年6月の講座でも紹介しておりますので、リンク先を示しておきます。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-88.html
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-89.html
ぴーち おはようございます!
定信はいわゆる唯一神教的な考えの元での妄信的な信者であったのでしょうか。
やはりある程度広い範囲で色々な宗教のあり方を
学んだ上で、拝一神教的であったのなら、まだ救いようがあったのかも知れませんが。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 定信はいわゆる唯一神教的な考えの元での妄信的な信者であったのでしょうか。
> やはりある程度広い範囲で色々な宗教のあり方を
> 学んだ上で、拝一神教的であったのなら、まだ救いようがあったのかも知れませんが。
「熱心な○○者」の場合、他の宗教や学問も熟知したうえで、いろんなエッセンスを加えたうえでさらに発展させる人間と、自分の殻に閉じこもって他を認めようとしない心の狭い人物とに分かれることが多いですが、定信の場合は典型的な後者のパターンでしたからね(´・ω・`)
「優秀であった」というところがさらに問題であったのかもしれません。
寛政の改革の当時に在位されておられた第119代の光格天皇(こうかくてんのう)は閑院宮家(かんいんのみやけ)からご即位されましたが、天皇の父君であられる閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)のお立場が、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の規定によって摂関家(せっかんけ)より下となっていました。
このため、天皇の御尊父(ごそんぷ)が摂関家を目上にしなければならないという奇妙なことになっており、事態を重く見られた光格天皇は、父君に太上天皇(たいじょうてんのう、いわゆる上皇のこと)の尊号を贈られようと考えられました。
「皇位についていない皇族に尊号を贈る」というのは、鎌倉時代の後高倉院(ごたかくらいん)と室町時代の後崇光院(ごすこういん)という先例が過去に2回もあり、特に問題はないだろうと思って朝廷側は幕府にお願いしたのですが、定信によって問答無用で拒否されてしまいました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
2段落目の解説がどうも歴史に疎い私には
少々理解しがたいものを感じますが、
やはり天皇家が摂関家を目上にみなければいけない事態というのは、確かに奇妙な図式ですね(^_^;)
朝廷が幕府にお願いするということ自体も前例があまりない
異例な事と言って良いのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 2段落目の解説がどうも歴史に疎い私には
> 少々理解しがたいものを感じますが、
> やはり天皇家が摂関家を目上にみなければいけない事態というのは、確かに奇妙な図式ですね(^_^;)
皇族の皆様のお立場は、通常はどう考えても摂関家より上ですし、ましてや天皇のご尊父であればなおさらでしょう。摂関家を優遇して朝廷をコントロールしようとした江戸幕府の思惑がもたらした奇妙な図式と言えます。
> 朝廷が幕府にお願いするということ自体も前例があまりない
> 異例な事と言って良いのでしょうか?
確かに異例ですね。本来ならば朝廷の決めることに誰も口出しできないはずなのですが、これも禁中並公家諸法度によって厳しく制限されているんです。しかし、本文にもあるように前例が二度もあるのですから、通常はOKでも問題ないはずなのですが、定信は何を考えていたのでしょうか…。
つまり、尊号一件における定信の行動が結果として幕府の運命を暗転させたのですが、そればかりでなく、定信自身が政権の座から転がり落ちるきっかけをもつくってしまいました。
11代将軍である徳川家斉は、吉宗が御三家と同じように「血のセーフティーネット」として自身の血統から新たに設立した御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の出身でした。
家斉は親孝行の思いから、父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)に対して前の将軍を意味する「大御所(おおごしょ)」の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて1793年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は六年で幕を閉じました。なお、定信の失脚後も老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが「寛政の遺老(かんせいのいろう)」として政治を行っています。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 日本の不思議は天皇です。なんで民主主義の現代でも象徴などとあいまいな表現でごまかし学校時代からズートその存在が疑問でした。
現在の自分は、公には反天皇とは言いません。
あいまいなまま存在を認めてるだけです。
そういう日本人は多いと思います。
俵総一郎は徳川家康にもし会えたなら
なぜ天皇を打倒しなかったのかとききたいそうです。日本が何でもあいまいになる原因は天皇にあると思う。
明治維新も天皇のカリスマ性を利用したあいまいな近代化、殖産興業富国強兵のまま突き進みその延長に原発事故もあると思う
なぜ徹底的に賛否両論を闘わせ膿を出さないのか
これが日本史の最大の疑問のネックになってる
高校時代からこういうことをいうとある時は同級生に「非国民」と罵られた。
こういう書きよごしてすいません。でもみんな言わなけど思ってないのかなぁ
ぴーち こんばんは!
やはり立場を弁えて物事を判断する大切さというのを
改めて考えさせられるお話ですね(^_^;)
応援凸
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 「非国民」ですか。言論の自由は保障されなければいけませんね。
ろっぽんさんのお考えを、堂々とご自身のブログでご披露いただければと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり立場を弁えて物事を判断する大切さというのを
> 改めて考えさせられるお話ですね(^_^;)
そうですね。まさか自分に火の粉が降りかかるとは思ってもみなかったのでしょう。
「自分は天才だ」と思い込んでいる人間が陥りやすい罠だと思います。
おひさしぶりです♪(〃▽〃人)
まり姫 黒田さんこんにちは☆
パソコンの故障で窓7に交換しました(o´ェ`o)ゞ
本日やっと記事の更新にたどり着きましたです(o´ェ`o)ゞエヘヘ
まだ新製品の使い方をマニュアルとにらめっこしながらですが、そのうちおバカでも何とか使いこなせるかと思っています。
今後ともよろしくお願いしますね( ´゚ω゚`):;*.':;ブッ
まり姫さんへ
黒田裕樹 復活おめでとうございます(^o^)/
Win7は私も使っていますが、慣れれば結構便利ですよ。
こちらこそよろしくお願いしますm(_ _)m
では、そんな定信がなぜ田沼意次を押しのけて老中にまで出世できたのでしょうか。実は、定信は東北の白河藩(しらかわはん)の藩主でもありますが、多くの人々が被害(ひがい)を受けた天明の大飢饉(てんめいのだいききん)の際に白河藩では一人の餓死者(がししゃ)も出さなかったということで、その政治ぶりが評価されたのも原因の一つです。
確かに餓死者がいなかったことは素晴らしいことかもしれません。しかし、大飢饉が続いていたうえに、当時は鎖国(さこく)と呼ばれた状態で大きな輸出入もできなかったのですから、国全体のコメの生産量が少ないことに何ら変わりはないのです。
そんな中で、一つの藩だけがコメを集めまくったら、他の藩のコメの流通量がますます少なくなりはしないでしょうか。また、定信によるコメの独自の買い占(し)めを、果たして幕府が黙(だま)って許可するでしょうか。
実は、定信の行為は重大な法令違反だったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは^^
松平定信という人物の愚行を知れば知る程
滑稽にさえ思えてきますね(^^ゞ
今で言う所の、売名行為という一つの
パフォーマンスをやって
のけただけの話ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりのパフォーマンスです。
しかも、自分のことだけを考えて、他がどうなっても全く構わないというトンデモなのです。
詳しくは次回を是非ご覧下さい。
こんばんは
梵天丸 こんばんは。いつもお世話になっています。
事後報告で申し訳ないのですが、私のブログにリンクを
貼らせて頂きました。勝手にやっちゃったんですが、問題
なかったでしょうか?
何か不都合がありましたら、ご連絡下さい。
梵天丸さんへ
黒田裕樹 こちらこそお世話になっております。
リンクの件、全く構いませんよ。
こちらからもさせていただきましたので、今後ともよろしくお願いします。
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飢饉で生産量が減ったコメを可能な限り全国に分散して、凶作の地域での餓死者を一人でも減らそうとした意次の苦心の政策だったのですが、そんな意次をあざ笑うかのように定信は大坂の米市場に人を派遣(はけん)してコメを買い占め、自分の領地まで運びました。
この結果、白河藩では確かに一人の餓死者も出しませんでしたが、無理に買い占めに走った分、米価が異常につり上がってしまい、他の藩は米が買えずに餓死者の数がさらに増えてしまいました。白河藩における「餓死者が一人もいなかった」という成果は、他の藩やそこで暮(く)らす多くの領民の犠牲の上に成り立っていたのです。
国内全体のことを一切考えず、自分が治(おさ)める白河藩さえ良ければ後はどうなってもかまわない―。このような人物のどこが「名君」なのでしょうか。しかも、定信は意次を失脚(しっきゃく)させた後で、常識では考えられない酷(むご)い仕打ちを行っているのです。




いつも有難うございます。
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ろっぽん うちの近所に元白河藩の殿様の子孫がいるけど
関ヶ原以後伊達が管理してたのでは?
それ以後、幕府の親藩になったのかな
天明の飢饉、なんか世界的飢饉でアイスランドの火山が噴火して空が黄色くかすんだとか日本は浅間山が噴火し同じく噴煙が覆い陽を遮り植物の生育に影響があり恐ろしい飢饉で、フランス革命の起爆剤になった飢饉でしょう。
ぴーち こんばんは!
今回の大震災にも当てはまるような内容ですね。
被災地の産物を皆が消費していく事で、その地に住む人々の生活を少しでも支えていこうという気持ちなら、復興の道も早まっていくでしょうけれど、
自分欲や、自分自身の保身の為に
懸命になり、回りに目を向けることすら
おろそかになっている政治家さんと境遇が重なりますね(^^ゞ
応援凸
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 白河藩はもともと会津若松城の領地でしたが、寛永年間に外様の丹羽氏が白河藩として入城し、以後は親藩・譜代大名が入れ代わり立ち代わり領主となっています。
天明の大飢饉については仰るとおりですね。
当ブログでも少し前に紹介しております。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-981.html
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考え、私も全く同感です。
与党の民主党では新しい代表が決定しましたが、震災後の復興へ向けてしっかりとした政策を行ってくれるのでしょうか。もし不可能であれば潔く下野すべきでしょう。
HANA子 勉強不足と言えばそれまでなのですが、この件……そういえば見聞きした覚えがなくもないのですが、うーん……やっぱり知らなかったかもしれません。
暫く前の更新の際のコメント、こういう意味だったのですね
あぁ……なんかため息が出てきます
HANA子さんへ
黒田裕樹 結果はご存じでも、その内実までについては知らない人が多いのではないでしょうか。米の全体量を考えれば分かりそうなものですが、普通はそこまでは考えさせずに結果だけを教えますからね。
仰るとおり、ため息が出ます。こんな人物のどこが名君なのでしょうか…(´・ω・`)
しかも定信は、主(あるじ)がいなくなった相良城を石垣ひとつに至(いた)るまで徹底的に破壊(はかい)したのです。城というものは一度建てれば公有財産になりますから、普通はそんな無駄(むだ)なことはしませんし、そもそも取り壊(こわ)す費用も馬鹿(ばか)になりません。
それなのに、なぜ定信はこんな暴挙(ぼうきょ)を行ったのでしょうか。思い当たる理由としては、相良城が意次自身によって建てられた新しい城だったからであり、田沼家を追い出しただけでは飽(あ)き足らず、まさに「坊主(ぼうず)憎(にく)けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」とばかりに意次の痕跡(こんせき)をこの世から抹消(まっしょう)したかったからに違(ちが)いありません。
定信は熱心な朱子学者でしたが、朱子学の由来は儒教(じゅきょう)にあります。すべてがそうであるとは限りませんが、儒教の信徒はネチネチとした陰湿(いんしつ)で粘着質(ねんちゃくしつ)な性格を持っていることが多く、定信による信じられないような意趣返(いしゅがえ)しもその一環(いっかん)だといえるのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
まさに坊主憎けりゃ・・・ですね(^^ゞ
確かに儒教の発祥の地?とも言える某大陸にある国も
いつまでも、
一つの歴史上で起きた争いごとに対して
ネチネチと事あるごとに言い掛かりを付けて来ますよね。
粘着体質も、良い方面に活用できれば、それこそ粘り腰で頑張る底力に結びつくでしょうけれど、人を恨んだり、憎んだりする悪意に結びついたりすると、それこそ、手が付けられないですね(T_T)
応援凸
とさを商店 野だいこは左ききではないようでね。奸よりましか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね(´・ω・`)
定信もそうですが、現実に起きていることを思えば笑い話では済まされないのが、悲しいかな事実でもあります。
とさを商店さんへ
黒田裕樹 > 野だいこは左ききではないようでね。奸よりましか?
う~ん、どうでしょうか…。
まずはお手並み拝見といきたいですが、過度の期待はしない方がいいかもしれませんね。
キキコ 白河の水は清すぎて・・・。
なのに、やることはエグいですね;;
キキコさんへ
黒田裕樹 > 白河の水は清すぎて・・・。
> なのに、やることはエグいですね;;
仰るとおりですよね。私たちは定信に対する「植え付けられたイメージ」に目くらましされているようです。
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意次は老中を追われてからわずか数年で亡くなり、自己(じこ)の非難に対する弁解の機会が永久に失われてしまいました。一方、定信は老中を辞めさせられた後も白河藩主として30年以上も生き続けて、その間に多くの著作を残して田沼時代を徹底的に非難することができました。
さらに幕府は身分による秩序(ちつじょ)を重視していたので、低い出自(しゅつじ)から成り上がった意次よりも、将軍吉宗の孫という血筋を持つ定信の主張を優先する傾向があり、加えて定信が幕府の公式学問である朱子学の優秀な学者であったことも、定信によって意図的(いとてき)につくられた意次の「悪人像」が後世(こうせい)にまで残ってしまう原因となってしまったのです。
さて、一時は意次による政治を激(はげ)しく憎んだ民衆(みんしゅう)も、定信による寛政の改革が失敗したことで田沼時代を懐(なつ)かしみ、以下の狂歌(きょうか、日常を題材に洒落=しゃれや風刺=ふうしを盛り込んだ短歌のこと)を残しています。
「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁(にご)りの 田沼こひしき」




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
いくら嘘で塗り固めようとしても、人の目というのはやはり欺けないものですね。
一時はその言葉に踊らされる事はあっても、やはり
本当に良いもの、正しい事というのは、永遠に不動のものであり、いづれはまた見直される宿命にあるのだと思いました。意次が存命中は、その良さが世間に認められず、評価されなかったのは、本人にとって悔いが残るものであったかも知れませんが、懸命に世に尽くしたという思いだけを心の支えにその使命を終えたものと信じたいものです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、一時期は国民の目を欺くことができても、時が経てば真理は必ず現れ、後世の厳しい審判を受けることになります。
最晩年は不遇であった意次の名誉を回復することは、本人の為であると同時に、混迷する昨今の政治に対する絶好の処方箋になるのではないでしょうか。
HANA子 まったくもって「勝者が作る歴史」以外のなにものでもない感じですね
結局昨今の情報化社会への警鐘と同じ、虚偽と真実をきちんと見分ける眼を持たなければ何も出来ないのと同じだってやつですか
知らないってことは本当に怖いことだと思います
学校の授業では社会風刺の一例としてしか取り上げられない「白河の~」の狂歌ですけど、これにはもっと切実な民衆の声が込められていたのかもしれまえんね
HANA子さんへ
黒田裕樹 現代のような情報化社会だからこそ、メディアリテラシーが重要になってくるでしょうね。知らないことや騙されていることが罪になる時代は御免です。
狂歌は洒落が主流ですが、仰るようにそんな中にも庶民の悲鳴が隠されているのかもしれませんね。
ろっぽん コミック乱 2006 年4月号に掲載された、江戸時代の戯作師・山東京伝をモチーフにした短編。寛政の改革で処罰された京伝は断筆を決意するが――。例の都条例の騒動を4年前に予見したかの...「はぐらし京伝」というPaboo電子書籍の紹介文ですが
それに「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁(にご)りの 田沼こひしき」という
狂歌が白壁に落書されてるラストです。
私はこのコミックから水が清いとかえって魚がすめないと解釈していましたが言論の自由を統制した
田沼意次の狂歌と勘違いしていました。
黒田さんも電子書籍を出版してみては紙の書籍のようにリスクはありません。
15万ヒットも出してるブログだもキット1000部位は売れるよ
自分はたった10部しか売れませんでした
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 なるほど、電子書籍ですか。
いつかは売れるような物語作家になりたいものですね。
Naoko 目からうろこの事実です。いつの時代も情報統制を計る輩がいるのですね。
わが国に対する汚名もいつか晴らすために私もがんばります。
Naokoさんへ
黒田裕樹 残念ながら情報統制は時代を超えていつも行われる危険性が高いです。
真実を見極めることが仰るとおり我が国の汚名を返上できる絶好の機会ですから、私も頑張ります。
将軍になっても政治を行えなかった家斉でしたが、将軍にとってもう一つの重要な責務である「子孫を残す」ための時間はありました。このこともあって、家斉は死去するまでに50人以上の子をもうけました。
1817年に松平信明が死去した頃から自分の思いどおりの政治を行えるようになった家斉は、水野忠成(みずのただあきら)を老中にして、質の落とした貨幣を大量に流通させて、大奥(おおおく)の経費などを増大させました。
貨幣の質を落としたことで物価が上昇しましたが、同時に商人の経済活動の活発化をもたらし、全体の金回りが良くなったことで好景気となり、後述(こうじゅつ)するような華(はな)やかな文化が生まれることになりました。
家斉は1837年に将軍の地位を子の徳川家慶(とくがわいえよし)に譲(ゆず)った後も大御所(おおごしょ)として政治の実権を握り続けました。家斉が活躍した時代のことを大御所時代、または当時の元号から文化文政時代(ぶんかぶんせいじだい)ともいいます。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
家斉には50人以上もの子どもが居たんですか!
驚きました(゚д゚)!
確かに時間の余裕と食べていく事に不安がなければ、
子作りに専念する事が出来ますものね(^^ゞ
人類が子孫を増やそうとする理由には他にもあるでしょうけれど、
特に後継者が出来なければ、お家が断絶してしまうような危機と常に隣り合わせの家柄なら、子孫が多いということは一番の強みになる事なんでしょうね。
しかし、余りに多すぎるにも、トラブルの原因には
ならなかったのかしら・・(苦笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 政治の実権が与えられていない以上、子孫の繁栄以外に「仕事」がなかったのかもしれませんね(^^ゞ
50人以上は確かに多すぎますね。成人したのは約半分らしいですが、それでも30人近くですから。家斉の子の多くは他家に養子に出されたり、将軍の娘として大名に嫁いだりしましたが、その際の支度金としてかなりの出費があったそうです。幕府財政の破たんは家斉の「頑張り」がもたらしたといっても過言ではないようですね(´・ω・`)
とさを商店 .........となると
安直ながら
一部経済評論家が言うように
造幣局の輪転機をブン回すのが良いのかな?
とさを商店さんへ
黒田裕樹 現状の不景気はデフレが原因ですからね。
デフレは物価が下がることで、国内の通貨量も減少する傾向にあります。
経済の世界において、通貨量は血液に例えられます。
身体の血液が不足して流れが途絶えてしまっては、人間は死んでしまいます。
しかし血液の量を、すなわち通貨量を増やせば人間の体力を回復することにつながります。
そう考えれば、通貨量を増やすことが景気回復につながるという意見には筋が通っているのではないか、と個人的には思えますね。
また、江戸近辺の関東の農村はもともと所領が複雑に入り組んでおり、無宿人(むしゅくにん)や博徒(ばくと)がはびこって治安が悪化しました。このため、家斉は1805年に関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく、または「でやく」)を新設して、江戸周辺の警察機能を強化しました。
さらに1827年には、幕府の直轄地や私領、あるいは寺社領を問わずに数十ヵ所の村々を組み合わせた寄場組合(よせばくみあい)を編成させて、農村の秩序を維持するとともに地域の治安や風俗への対策を行いました。
なお、関東取締出役は関東の八つの国、すなわち八州をくまなく巡察(じゅんさつ)したことから八州廻(はっしゅうまわ)りとも呼ばれており、その活躍(かつやく)ぶりが現代においても時代小説の題材としてよく取り上げられています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
いつの時代も捕物や、刑事ドラマは
不動の人気を博していますね(^^)v
「八州廻り~」何とかという時代劇、
北大路欣也さんが主演で放送されているのを
母がよく見ていたのを思い出しました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 刑事ドラマのエッセンスをとり入れた時代劇は人気がありましたからね。
北大路欣也さんも八州廻りを演じられてますね。
あとは西郷輝彦さんとか…。
社会の変化
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
徳川家斉は、あまり、知名度はありませんが、
ある意味で、評価できることをしていたんですね。
しかし、驚いたことに
貨幣経済が農村まで、浸透していて、豪農が出現していたことです。
農村でも、そういう状況ということは、この当時の豪商の力は、小さな大名を上廻るものだったんでしょうね。
武士は、米で、給料をもらい、石高も増えないので、どんどん、貧しい武士も増えたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 貨幣経済は怒涛の勢いで浸透していきましたからね。
豪農が出現した、という事実が貧農史観の間違いを証明しています。荒廃地は確かに増えましたが、農村全体が貧しかったわけではないのですから。
武士の経済事情は仰るとおりですね。武士の困窮は身分秩序の崩壊をもたらし、ひいては幕府の存続すら危うくしていきます。なぜなら、幕府は表向き貨幣経済を認めなかったことで、抜本的な改革ができなかったからです。田沼意次の政策がもっと長続きしていれば…。
時代劇の舞台
晴雨堂ミカエル 文化文政期は時代劇の典型的な舞台ですね。ぶっ飛んだ奇人変人を輩出した時代なので好きです。
おみよの方の生涯に興味があります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 文化文政期は時代劇の典型的な舞台ですね。ぶっ飛んだ奇人変人を輩出した時代なので好きです。
> おみよの方の生涯に興味があります。
銭形平次も文化文政期ですからね。時代劇の設定としてはふさわしいのでしょう。
おみよの方といえば、中野碩翁(なかのせきおう)の娘ですね。父親とともに悪役として時代劇によく出てきます。
淀屋
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
以前、講義中に幕府から、取り潰された豪商の
代表として、『大阪の淀屋』とおっしていたので
ウィキペディアで、調べて驚きました。
凄い、したたかで、スケールの大きい商人の一族だったんですね。しかも、最後もカッコイイ。
(以下ウィキペディアから抜粋)
淀屋(ウィッキペディアより)
◆◆◆◆◆◆◆◆
幕府より闕所(財産没収)処分にされた。
没収された財産、金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、
北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。
また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、
現代の金額に換算しておよそ100兆円)にも上った。
しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、
後の世代に再び元の大坂の地で再興した。幕末になり討幕運動に身を投じ、
殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
財産没収になったのが、1705年の六代将軍家宣の時代ですが、もし、綱吉の元禄時代が続いていれば、財産没収にはならなかったでしょうね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、淀屋は他の商人とは全くスケールが違います。
淀屋の闕所は1705年ですが、これは綱吉政権の末期です。元禄文化に陰りが見えて幕府財政が傾いた頃ですから、見せしめと財政立て直しの一環として処分されたのかもしれませんね。
大阪の人間なら、淀屋の名は知らなくても淀屋橋の地名はみんな知っているでしょう。
改革に際しては農村の復興を主な目的として、新田を開発して年貢収入の増加を図(はか)ったり、地方の特産物の生産を奨励(しょうれい)して藩の専売制(せんばいせい)としたりしました。また、各地で藩校(はんこう)を創設して新たな人材を積極的に育成しました。
改革に成功した各藩主は名君として評判を集めることになりました。肥後(ひご)の細川重賢(ほそかわしげたか)や、秋田の佐竹義和(さたけよしまさ)、あるいは米沢(よねざわ)の上杉治憲(うえすぎはるのり、別名を鷹山=ようざん)らの名前を挙げることが出来ます。
特に上杉治憲は破綻(はたん)寸前であった米沢藩の財政を立て直したことでその名が広く知られており、藩主の座を後継者に譲(ゆず)った際の伝国の辞(でんこくのじ)や、その際に贈ったとされる「生(な)せば生(な)る 成(な)さねば生(な)らぬ 何事(なにごと)も 生(な)らぬは人の 生(な)さぬ生(なり)けり」の歌が有名です。
なお、治憲の歌は「何事もやればできるし、やらなければ何も始まらない。何もできないのは自分がやらないからである」という意味です。必死になってやれば出来ないことは何もない、ということですね。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
私が子どもの頃、「成せばなる成さねばならぬ何事も・・・」などというアニメソングがありましたが、タイトルを忘れてしまいました(^_^;)
確かに何もやらずに後悔するよりも、やって後悔する方が
はるかに良いですものね^^
今の世の中にも通じるありがたい言葉ですね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 アニメソングですか!?
う~ん、私も覚えていないなぁ…。
仰るとおり、現代にも通じる有難い言葉だと思います。苦しいときに背中を押してくれる、そんな感じですよね。
ぴーち おはようございます!
思い出しました!
ロボコンという子供向け番組の中の
歌でした(^^ゞ
ご参考までに(笑)
http://www.youtube.com/watch?v=eiWhYN7v1jw
応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 有難うございます!
私も思い出しました。毎週見ていたよなぁ…。
こんなところにも上杉鷹山の精神が生きているんですね。
田沼時代に発達した文化は松平定信の寛政の改革(かんせいのかいかく)によって一旦(いったん)は冷え込みましたが、徳川家斉が政治の実権を握(にぎ)った大御所時代に再び栄えました。後者の文化については、当時の元号(げんごう)である文化(ふんか)や文政(ぶんせい)から、化政文化(かせいぶんか)と呼ばれています。
化政文化を迎える頃には教育や出版の普及(ふきゅう)によって中央の文化が地方にまで広がるとともに、都市生活の多様化によって文化の内容も多方面に広がりました。特に、値段の高かった書籍(しょせき)を庶民(しょみん)に安価で貸し与えることを商売としていた貸本屋(かしほんや)の活動には目覚ましいものがありました。
一方、寛政の改革などによる厳しい統制(とうせい)を受けたことで、反発した庶民が風刺(ふうし)の効いた多くの作品を残したり、幕府政治の長期化で限界が見えつつあった幕藩体制(ばくはんたいせい)に対して、新しい体制を模索(もさく)しようとする動きもあったりしました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
今でも東京は書籍出版会社が
集中して多いのは、この頃からの文化の
急速な発達があったからこそなんですね^^
公営、或いは私設の図書館などとは
別に個人の商売として貸本屋が流行っていたわけですね。
今は貸本屋さんという存在は、滅多にみられなく
なった様に思いますが、あるところのはまだまだ存在しているのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに書籍に関する文化が根付いたことが出版会社の相次いだ設立をもたらしたといえますね。
貸本屋は1950年代までは繁盛していたようですが、図書館の全国的な普及や著作権の問題で今ではほとんど残っていないようです。
山東京伝(さんとうきょうでん)は洒落本の仕懸文庫(しかけぶんこ)や黄表紙の江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)などの写実的な作品を著(あらわ)しましたが、松平定信の寛政の改革によって幕府からの弾圧(だんあつ)を受けました。
文化文政時代の頃になると、滑稽本(こっけいぼん)や人情本(にんじょうぼん)が庶民の人気を得るようになりました。庶民の日常生活を生き生きと描(えが)いた滑稽本は、浮世風呂(うきよぶろ)・浮世床(うきよどこ)の式亭三馬(しきていさんば)や、東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)の十返舎一九(じっぺんしゃいっく)らが有名です。
なお、浮世床は髪結(かみゆ)い床(どこ)に集まる庶民の会話を通じて当時の生活を描写(びょうしゃ)した作品です。また、東海道中膝栗毛は弥次喜多(やじきた)の珍道中(ちんどうちゅう)として知られており、現代においても映画化されるなど大きな影響を与えています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
今でも確かに床屋さん、美容室と言われる場所は
地域の人たちが集まる社交場としての機能は
まだまだ残っている所が多いようですよね^^
弥次喜多道中なども、今でも語り継がれている
コメディとして有名なのがすごいですね(^^)v
応援凸
アングラ文化全盛。
晴雨堂ミカエル 文化文政期はアンダーグランドの庶民文化が発達した事でも知られていますね。だから私はこの時代が好きです。
春画は印刷技術を世界最高へと押し上げ、色彩やデフォルメは西洋の絵画に大きな影響を与えました。そしてこの文化の直系子孫が現代の漫画メディアです。
いま政府は天保の改革と同じ漫画メディア規制を始めています。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、最近は短時間でできる店も増えていますが、社交場としての床屋や美容室もまだまだ存在しています。
弥次喜多珍道中は今世紀になっても映画が二本もつくられています。東海道中膝栗毛が発表されてからおよそ300年ですから、もの凄いロングセラーですよね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るような文化もまた歴史ですね。
規制しようというのもまた歴史なのでしょうか…。
また、黄表紙の流れをくむ絵物語の長編は合巻(ごうかん)と呼ばれ、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)が有名となりましたが、これも天保の改革によって処罰(しょばつ)を受けました。
一方、黄表紙のように挿絵を使用せず、文章を主体として歴史や伝説を題材にした物語である読本(よみほん)も人気を集めました。例えば、大坂の上田秋成(うえだあきなり)は、田沼時代の頃に怪奇小説を集めた雨月物語(うげつものがたり)を著しました。
この他、江戸の曲亭馬琴(きょくていばきん、別名を滝沢馬琴=たきざわばきん)が、文化文政から天保の頃に勧善懲悪(かんぜんちょうあく)や因果応報(いんがおうほう)の思想が込められた長編の南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)を著しましたが、この作品は近代から現代においても映画やテレビドラマ、あるいは漫画やゲームの世界にまで幅広く影響を与えています。




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ぴーち こんにちは!
封建的な社会では作家といえども
命がけでしたね(^_^;)
南総里見八犬伝の映画は、私が
一番最初に観賞した時代劇でした^^
今でもわくわくして観賞した気持を
覚えていますよ♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり命がけでした。中には弾圧を受けたショックで亡くなられたと思われる作家もいます。
南総里見八犬伝が我が国に与えた影響は計り知れないものがありますね。弥次喜多同様、何百年も続く大ベストセラーだと思います。
画家でもあった蕪村は、「菜の花や 月は東に 日は西に」のように詠(よ)んだ句がそのまま絵画の情景に使用できるような内容の句が多く、「雀(すずめ)の子 そこのけそこのけ お馬が通る」のような動物や子供、あるいは農村の日常を詠んだ一茶の句には現代においても親近感を感じるものが多いです。なお、蕪村は蕪村七部集(ぶそんしちぶしゅう)、一茶はおらが春の句集がそれぞれ有名です。
一方、町人の社会では世情(せじょう)を風刺(ふうし)したり、あるいは皮肉(ひにく)ったりした狂歌(きょうか)や川柳(せんりゅう)が流行しました。狂歌は短歌、川柳は俳諧をモチーフとしており、代表的な作者としては狂歌に大田南畝(おおたなんぽ、別名を蜀山人=しょくさんじん)が、川柳には名称の由来となった柄井川柳(からいせんりゅう)らがいます。
なお、先述の「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁(にご)りの 田沼こひしき」という狂歌は大田南畝の作です。また、当時の川柳を集めた作品集として誹風柳多留(はいふうやなぎだる)があり、「役人の 子は にぎにぎを よく覚え」などの作品が有名です。ちなみに「にぎにぎ」とは、賄賂(わいろ)をこっそりと手で握(にぎ)って受け取るという風刺の意味が込められた言葉です。
この他、和歌では僧の良寛(りょうかん)が子供との日常などの生活感情あふれる作品を残しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」
この一文を読ませていただくだけでも
何一つ妨げるものが無い
広々とした大地の様子が目に浮かぶ様ですよね~
私も好きな俳句の一つです(^^)v
また小林一茶の方も
仰るとおり、「やれ打つな、蝿が手をする足をする」などと蝿が命乞いでもしているのでは無いかと思うように見える様子がまた面白くもあります。
また「たはむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」は涙さえ誘う描写です。
どちらも好きな俳人でもあります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 蕪村も一茶も、それぞれの個性を生かした素晴らしい句を残していますね。
芭蕉とはまた一味違うような思いがします。
> 「たはむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」
これは石川啄木だったと記憶しているのですが…。
ちなみに下の句が「力みなぎり一本背負い」という笑い話もあるようです。
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その後、浄瑠璃は人形操(あやつ)りから分離(ぶんり)した一中節(いっちゅうぶし)や常盤津節(ときわづぶし)・清元節(きよもとぶし)・新内節(しんないぶし)などの座敷(ざしき)で唄(うた)われた唄浄瑠璃(うたじょうるり)が盛んになりました。
浄瑠璃に代わって18世紀後半から江戸を中心に大流行となった歌舞伎では、七代目市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)などの歌舞伎役者によって数々の名作が演じられました。
例えば、文政期には鶴屋南北(つるやなんぼく)が東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)などの怪談物を完成させたり、幕末(ばくまつ)には河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が盗賊(とうぞく)を主人公にした白浪物(しらなみもの)を残したりしました。この他、先述した義経千本桜や仮名手本忠臣蔵も歌舞伎として上演されています。
歌舞伎の劇場(げきじょう)ではせり上げや廻(まわ)り舞台など様々な工夫を凝(こ)らして豪華(ごうか)な演出を見せましたが、その派手(はで)さが仇(あだ)となり、やがて天保の改革で厳しい規制を受けることになってしまいました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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晴雨堂ミカエル けっこう小悪党だったらしいですね。伊右衛門は自分がモデルだったとか。
ぴーち こんにちは!
前記事では失礼致しましたm(__)m
訂正くださり感謝致します^^
歌舞伎は今でも人々の娯楽として
脈々と受け継がれていますね^^
やはりいつの時代も、余り過激になりすぎたり、
派手になり過ぎると、批判の対象になってしまうものなんですね(^^ゞ
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 芸術家など一芸に秀でている人物は、一般の常識とは異なる考えを持つことが多いらしいですからね。鶴屋南北も例外ではなかったということでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歌舞伎の隆盛は現代につながっていますね。ただ、派手すぎると叩かれるのはいつの世も同じなのでしょうか…。
> 前記事では失礼致しましたm(__)m
> 訂正くださり感謝致します^^
いえいえ、私も間違えることがありますし、お互い様ですよ。
ケレン
ろっぽん 派手な宙釣りや仕掛けはケレンといって
私が舞台監督の時代によく子ども芝居で多様しました。基本の舞台装置の仕様は現代でも使われています。それはニューヨークのミュウジカルでも採用される世界標準で結構高度な技術で日本が世界に誇る技術文化です。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 なるほど、我が国仕様の技術はこんなところにも生かされているんですね。
なぜ天保の改革で弾圧しようとしたのか…。朱子学の毒の根は深いです。