紀元前5000~4000年頃までには、北方の黄河(こうが)中下流域の黄土地帯(こうどちたい)でアワやキビなどの畑作がおこり、南の長江(ちょうこう、揚子江=ようすこう、ともいいます)下流域でも稲作(いなさく)が始まって、農耕社会(のうこうしゃかい)が成立しました。
紀元前1500年頃の殷(いん)王朝ではすでに青銅器(せいどうき)の鋳造(ちゅうぞう)が始まり、紀元前6世紀頃には青銅器にかわって鉄器(てっき)が普及し始め、農業生産の向上(こうじょう)を基礎とする高度の文明が発展しました。
尚、青銅とは銅と錫(すず)との合金です。




いつも有難うございます。
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ツクヨミ 河姆渡遺の写真を見ると、日本の弥生式とそっくりと思った事があります。
殷の青銅器についた饕餮文が、凄くて。
中国って広いから、南と北では随分違うんでしょうね。
ツクヨミ様
黒田裕樹 河姆渡(かぼと)遺跡が発見されてから、中国大陸では黄河文明と長江文明という二つの文明が存在したと考えられていますね。新たな遺跡の発掘で定説が覆されるのはよくあることです(三内丸山遺跡とか)。
弥生時代の頃は、まだまだ大陸の文化の方が先行していますから、土器や青銅器が類似しているのは十分考えられますね。
こんばんは^^
のらねこみゅー 黒田裕樹 様
わかりやすい説明なのでしっかり今は頭に入っていきます♪
中学の頃は何??~~みたいな感じで頭に入りませんでした^^;
のらねこみゅー様
黒田裕樹 コメント有難うございます。
今の私には励みになるだけでなく、一番嬉しい「お褒めの言葉」です!
今後もできるだけわかりやすい文章を書いていきますので、いつでもご訪問下さいね。
buyan スケールの大きさを感じさせる古代中国の歴史と文化。
大陸文化が日本に影響をもたらすところまでちょっぴり近づいて、でもまだ先は長そうですね。
でもさすがに先生です。興味をもたせるための工夫が表現方法にも出ています。
久しぶりに勉強になりました(^-^)/
清家淳子 私は縄文時代から弥生時代テストめちゃくちゃ頑張って勉強したので、すごい懐かしかったです(^O^)/
またお邪魔させて頂きたいです
buyan様
黒田裕樹 お褒めに預かりまして光栄です(^^ゞ
おっしゃるとおり、先はまだ長いですね。いずれ書かせていただきますので、しばらくお待ち下さいませ(笑)。
清家淳子様
黒田裕樹 はじめまして。コメント有難うございます。
テストで頑張って勉強されたのも大事な思い出のひとつですね。それで歴史に興味をお持ちになったのであれば素晴らしいことだと思います。
この講座の命題でもあるのですが、「古代史」とか「現代史」とかの枠を設けるのではなくて、我々が暮らすこの国の歴史が、過去から現在、そして未来へとすべてつながっているんだという思いで細々とブログを続けております。
まだ弥生時代が始まったばかりですが、今後ともぜひお付き合いいただければ幸いです。
ちなみに、中国の英語である「China」は秦の国名が語源とされています。
漢は大陸統一後も勢力の拡大を続け、武帝(ぶてい)の紀元前108年には朝鮮半島北部を中心に直轄地(ちょっかつち、直接支配する地域のこと)とし、楽浪郡(らくろうぐん)以下の四郡を置きました。
「楽浪郡」は後でまた学習しますので、しっかり理解しておきましょう。
広大な領土を持つ漢の文化は次第に周辺の諸民族へと及び、やがては我が国にも少なからず影響を与えていくのです。
ここまで中国大陸の話ばかりでしたね(笑)。次回からようやく我が国の歴史の話に戻ります。




いつも有難うございます。
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bunyan 漢までくると私も少しだけわかる部分がありますが、中国史から日本史に戻っちゃうんですね。もう少しだけ続けてほしかったのがホンネ。
でもお互い日本人ですからね。
弥生文化書いてください。
bunyan様
黒田裕樹 中国史も面白いんですが、とりあえず日本史を先行、ということでご理解下さい。
日本史と密接に関わってくる場面では、今後も断片的に中国史に触れることになると思うので、そちらも宜しくお願いします。
この文化は水稲耕作(すいとうこうさく)を行い、金属器(=青銅器や鉄器)が広まり、また縄文土器とは種類の異なる土器である弥生土器(やよいどき)が使用されました。
これらの文化を弥生文化といい、この時代(=3世紀頃まで)を弥生時代といいます。
尚、金属器や土器については別の機会に改めて学習することにします。
ところで、弥生文化の及んだ地域は、日本列島のほぼ全域に及んだ縄文文化とは異なり、東北地方から九州南部までにとどまりました。
なぜか分かりますか?
答えを解くカギは、縄文時代晩期から広がったとされる「アレ」です。ここにも書いてましたっけ?




いつも有難うございます。
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bunyan コメントありがとうございました。
連載文にくわしく書けない部分もあり、説明不足かもしれませんが、コメントの返事に少しだけ書き込みしましたのでお読みください。
弥生文化の内容は高校生以下でも理解できるよに工夫されてますね。
丁寧な気配りだと思います。
bunyan様
黒田裕樹 こちらこそ有難うございます。
貴ブログ拝見しました。歴史上の細かい出来事ひとつにしても謎だらけですね。
基本的に高校生レベルの内容のブログですが、いわゆる受験対策ではなく、将来の教養として身につけてほしい内容になるよう心がけているつもりです。
そう! 水稲耕作(すいとうこうさく)です!
水稲耕作は気候条件が適した西日本一帯にまもなく普及し、やがて東北地方までに及んだのですが、北海道や南西諸島までには広まりませんでした。
なぜなら、これらの地域は水稲耕作に向かない気候だったからです。そのかわりに独自の文化が広まっています。
例えば、北海道では狩猟(しゅりょう)や漁撈(ぎょろう)に基礎をおいて、サケやマスなどを採集する続縄文文化(ぞくじょうもんぶんか)が、南西諸島では貝類などを採集する貝塚文化(かいづかぶんか)がそれぞれ栄えました。
ところで、水稲耕作の開始によって人々の生活は食物採取から食物生産への段階へと入っていきました。すなわち、それまでは狩猟や漁撈などの自然環境に依存(いぞん)する生活から、水稲耕作が可能となったことによって、食糧を計画的に生産できる安定した経済生活へと移っていったのです。




いつも有難うございます。
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清家淳子 北海道とかでは、ずっと冷害に苦しめられてきました。
今では、品種改良されるし、地球温暖化によって、北海道の米はおいしいとまで
言われるようになりました(^◇^)
お米を作れることに感謝感謝ですね(*^。^*)
清家淳子様
黒田裕樹 いつもコメント有難うございます。
昭和初期に「農林1号」が開発されるまでは、北海道や東北、北陸では米が出来にくく、味も良くなかったんですよね。
品種改良によっていつでも美味しい米が食べられる現代の私たちは、とてつもなく幸せであるという現実を忘れないようにしたいものです。
bunyan 歴史の先生に大変失礼ですが、水稲耕作が拡大していったのは列島平野部で山間部には拡大しておらず、弥生時代は狩猟と水稲が混在していたのではないでしょうか。
素人が生意気なことを言ってすみません。
間違っていたらごめんなさい。
さすらい こんばんは。
なるほど勉強になります。
応援していきますね。
bunyan様
黒田裕樹 沖積平野で稲作が盛んになったのは、意外にも江戸時代以降のことです。
平野部は傾斜が少なく、排水しにくいので水はけが悪いうえに、河川の氾濫が多くてせっかく育ったイネが流されてしまうリスクがありました。
江戸時代になって土木技術が上昇し、利根川の付け替えなどの大規模な工事によって本格的な灌漑や治水ができてから、平野部でも米づくりが本格的にできるようになりました。
従って、江戸時代以前は台地や河岸段丘に棚田をつくるのが一般的でした。
なお、弥生時代でももちろん狩猟や漁撈を行ってますよ。近いうちに書かせていただきます。
さすらい様
黒田裕樹 有難うございます。こちらも貴ブログの更新を楽しみにしております。
耕作用の農具には木製の鋤(すき)や鍬(くわ)が用いられ、収穫の際には石庖丁(いしぼうちょう)による穂首刈り(ほくびがり=稲が実った部分のみを直接刈り取ること)が行われました。
もみがらを取り去る脱穀(だっこく)の際には竪杵(たてぎね)や竪臼(たてうす)が用いられ、収穫された稲を保存するための高床倉庫(たかゆかそうこ)もつくられました。
ところで、なぜ収穫物を高床、すなわち床を地面より上にして保存したかわかりますか?
理由は2つあります。




いつも有難うございます。
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のらねこみゅー こんにちは^^
ねずみからコメを守る為??とか何とか先生が話していたような記憶が^^;
のらねこみゅー様
黒田裕樹 正解です!
詳しくは明日に書かせてもらいますね。
もうひとつは分かりますか?
bunyan いよいよ高校生が喜びそうなテーマに入ってきましたね。
黒田さんの腕のみせどころ。
日本史の試験問題が頭に浮かんできます(爆)
bunyan様
黒田裕樹 確かにその通りですね。
試験にもよく出題される箇所が多くなってきます。
それだけに、「なぜ」そうなるのかという流れを重視して進めて生きたいと思っております。
風通しをよくするためと、ネズミによる害を防ぐためです。
収穫物を地面に直接置くと、風通しが悪くなって腐敗(ふはい)してしまいますよね。高床式にして風通しをよくすれば、収穫物も乾燥して腐敗を防ぐことができます。
また、高床倉庫にはネズミの侵入を防ぐためのねずみ返しがついています。倉庫を支える柱に板状のものを取り付けてあるのですが、実は21世紀の現代でも電柱などにねずみ返しが使われている例もあるそうですよ。
尚、神社建築様式のひとつである神明造(しんめいづくり)は、この高床倉庫から発展したものと考えられています。
そういわれてみれば、掘立柱(ほったてばしら)に萱葺屋根(かやぶきやね)が大きな特徴の伊勢神宮の神明造は、高床倉庫の外観とどこか似ていますよね。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
なるほど、ねずみ返しですか。
勉強になりました。
応援ポチッとしていきます。
こんばんは^^
のらねこみゅー そー言えば風通しのことも話してました^^
私の記憶も風化しつつあります;;
コメント有難うございます。
黒田裕樹 さすらい様
応援有難うございます。ネズミは弥生時代から人々を悩ませていたんですね。それにしても現代でもネズミ返しが有効とは驚きです。
のらねこみゅー様
いえいえ、思い出せれば風化しません(笑)。
弥生時代から、人間は様々な知恵を使って生活してきたんですよね。
それからこちらでコメントさせていただきますが、人生色々なことがあります。次の機会が良い結果を生むことをお祈りします。
高床式倉庫見に行ったことあります!(^^)!
清家淳子 奈良に遠足がすごく多くて、それで歴史が好きになりました(^◇^)
でも、ほんと奥が深い!!!!
どこでしたか、和泉市でしたっけ?
弥生時代の実生活を体験できるの。
今度子供達連れて行こうかな(笑)
父親が山が好きで、一緒に山で拾ってきた石を割って石包丁にして、葉っぱを刻んでおままごとごっこをした記憶があります(笑)
めっちゃ懐かしくなりました(^◇^)
清家淳子様
黒田裕樹 いつもコメント有難うございます。
大阪府立弥生文化博物館のことですね。
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/index.html
恥ずかしながら、私はまだ行ったことがありません。今度のGWにでも行こうかな。もっとも、私は独身ですが(笑)。
石庖丁のおままごととは微笑ましいですね。弥生時代はまだしばらく続きますので、清家様の懐かしい思い出が増えるかもしれませんね。
弥生初期の湿田は地下水位が高く、水の補給を必要としないのですが、その分、土壌(どじょう)の栄養が少ないこともあって生産性が低いのが欠点でした。
一方、乾田は地下水位が低く、灌漑(かんがい)施設を必要とするのですが、それさえクリアできれば、用水の出入りを行うことによって土壌の質がよくなり、生産性も高まったのです。
乾田の開発によって、水田は湿田の頃のような小規模なものから、整然と区画された大規模なものへと大きく変化していきました。静岡県の登呂遺跡(とろいせき)などには、そんな広大な水田のあとも発見されています。
尚、農耕と平行して狩猟(しゅりょう)や漁撈(ぎょろう)も盛んに行われており、弥生時代の遺跡の中に骨が残っていたことから、意外にもブタの飼育が行われていた可能性が指摘されています。




いつも有難うございます。
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♪もふ♪ こんばんは^^
はじめてコメントさせてもらいます~!!
日本史すごく好きです!!
縄文、弥生時代に弱いので勉強になりました^^
これからも勉強させてくださいね♪
♪もふ♪様
黒田裕樹 コメント有難うございます!
日本史好きとは心強い限りです。
拙いブログではありますが、今後も是非ご訪問下さい!
bunyan おはようございます。
昨日はありがとうございました。
熱も下がり楽になりました。
失礼します。
前向きに考え進んでいきます^^
のらねこみゅー 豚の飼育ですか!!知らなかった~^^;
凄いですよね。
コメント有難うございます
黒田裕樹 bunyan様
ご回復よかったですね。
今日はこちらが花粉症の悪化で頭がボーっとして大変でした。これじゃ仕事になりませんよ(涙)。
のらねこみゅー様
そうなんですよ。遺跡の中からは時として不思議なものが発掘されますね。
前向きの気持ち、何よりです。私も色々ありますが、のらねこみゅー様に負けないように頑張っていきますよ。
人々は水田の近辺で生活した方が便利なので、平地に定住するようになりました。住居も縄文時代の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)から、やがて掘立柱(ほったてばしら)の平地式建物が多くなり、住居が集まってつくられた集落の規模も、住居が増えることによって次第に大きくなっていきました。
集落が大きくなるにつれて問題になるのは、いかにして集落全体を外敵から守るかということです。そこで人々は、集落の周りに深い濠(ほり)や土塁(どるい)をめぐらしました。このような集落のことを環濠集落(かんごうしゅうらく)といいます。
また、農業は狩猟(しゅりょう)や漁撈(ぎょろう)以上に気候に左右されやすいことから、人々は太陽や月などの自然に霊(れい)が宿ると信じており、豊かな収穫を祈り、また収穫を感謝する祭りを重んじました。これらの祭りに用いられたのが青銅製祭器(せいどうせいさいき)です。
尚、青銅製祭器については後日改めて学習します。




いつも有難うございます。
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とまと こんにちは(^O^)
いい加減にならってきた歴史のやり直しに、ピッタリですね♪
コツコツ、読ませて頂いております。
ありがとうございますm(__)m
ランキング。ぽち~
とまと様
黒田裕樹 ご訪問&クリック有難うございます!
毎日少しずつ更新していきますので、末永くお付き合い宜しくお願いしますね。
こちらもコツコツ「ポチッ」とさせていただきます。
bunyan こんばんは
ホント歴史の授業に出ているような錯覚に陥る表現ですね。
やはり先生に花〇ひとつです~
ついでにポチしときます。
bunyan様
黒田裕樹 いつも有難うございます♪
ブログをご覧になるお一人お一人が大切な教え子のつもりで更新しています。
bunyan様を見習って(?)、もう一つのランキングも始めました。少しでも近付きたいですね。
カンゴウ集落って習った?
清家淳子 只今歴史得意だったのにとへこんでます(*u_u)
やっと法隆寺の前ですよ(*u_u)
いやぁ、黒田先生にお見せしたいけど真っ暗(笑)
中宮寺もあるらしいっす(^O^)/
今度明るいうちに行って、アップしますね(^-^)/
黒田先生、花粉症大丈夫ですか?
私今目がかゆくて死にかけです(*u_u)
共に花粉症の季節乗り切りましょ(=^▽^=)
清家淳子様
黒田裕樹 花粉症は家に帰ってやっと落ち着きました。
最近は鼻も目も薬でやっと症状を止めてますが、その薬がなぜか今日は鼻だけ効かなかった…花粉多かったのかな?
花粉症自体は峠を越しそうですが、清家様もマクドという「峠」を越えて無事目的地に着いて下さいね♪
法隆寺や中宮寺のUP,楽しみにしてます(笑)。
また、方形(ほうけい)の低い墳丘(ふんきゅう)の周りに溝(みぞ)をめぐらした方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)も各地でつくられ、後期には大規模な墳丘墓(ふんきゅうぼ)も出現しました。大型の墳丘墓の中には、大量の青銅製の武器などの副葬品も見られます。
こうした墓の出現から考えられることは何だと思いますか?
そもそも農作業というものは簡単に一人でできるものではなく、共同作業がどうしても必要になりますよね。効率よく共同作業をやろうと思えば、一定のルール、すなわち秩序が必要です。水田の開発や灌漑(かんがい)、治水(ちすい)など、共同作業が大規模になればなるほど秩序が重視され、集落の中でもっとも優秀な人が指導者として作業を引っ張ることになります。
こうして人々の間に集落の統一者が現れることにより、統一者の死後の墓も、それまでの簡素なものからやがて外観・内部ともに大きく進化していくのです。




いつも有難うございます。
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bunyan こんばんは
古代史は専門でないので(もちろん近現代史も)難解なことはムリだけど、この頃の共同生活や作業に指導者が必要になったことはわかりますが、まだ上下関係はなかったのじゃないかしら。
さすらい こんばんは。
すみません
少しバタバタしてまして
講義に来れませんでした(笑)
にもかかわらず
ウチの講義には来ていただいて
ありがとうございます。
歴史の時間
私も好きなので
出来る限り受講したいと思います。
さてウチの近所にも
東京では珍しい古墳があります。
時の支配者の権力の
象徴だったんですね。
エジプトにはピラミッドもありますし
中国にもまだまだ発見されていない
古墳がたくさんあります。
先生の講義
また聞きにきます。
では応援していきます。
2ポチッと♪
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コメント有難うございます。
黒田裕樹 bunyan様
本文に書いたとおり、弥生後期の大規模な墳丘墓からは大量の副葬品が見つかっています。たった一人の墓のためにそれだけの外観や内部を充実させるということは、指導者が単なるリーダーではなく、事実上の支配者として君臨していたと考えられ、そこから身分の差が広がっていったと思われます。
さすらい様
いつも応援有難うございます。古墳の話もいずれこの講座で詳しく行いますので、またお越し下さい。
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金属器は、まず銅と錫(すず)の合金である青銅器が広まって、その後に鉄器が使用されるようになるのですが、我が国では青銅器と鉄器がほぼ同時に伝来しています。
このため、通常では まず青銅器が主流となった(=青銅器時代)後に青銅器よりも硬さなどの優れた金属である鉄器が用いられる(=鉄器時代)ようになるのですが、我が国においては鉄器が実用的な道具としてすぐに広まりました。
つまり、我が国では石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり鉄器時代に移行したと考えられています。
このあたりは世界史を勉強している人には大変ややこしいので、注意が必要です。




いつも有難うございます。
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とまと こんにちは(^O^)
青銅器と鉄って、ほとんど同時だったんですか。
またひとつ、勉強になりました♪
お礼のランキングぽち~×2
さすらい こんばんは。
コメントありがとうございます。
リンクよろしくお願いします。
青銅器時代を飛び越えて
いきなり鉄器時代なんですか。
我々の祖先は慌しかったんですね(笑)
応援です♪
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やっぱり歳でしょうか?
清家淳子 黒田先生、こんばんはぁ(^◇^)
青銅器と鉄って同時期だったんですね。
正直習ってて忘れてしまったのか、それとも授業を受けてないか、聞いてないか(笑)
こういう生徒やっかいですよね(笑)
これからも講義お願い致します!(^^)!
コメント有難うございます!
黒田裕樹 とまと様
さすらい様
清家淳子様
コメント&応援有難うございます。
詳しくは次回に書きますが、我が国に残っている青銅器と鉄器を比べると、実用性は鉄器のほうが圧倒的に高いんですよね。
青銅器に実用性がほとんど見られないということは、青銅器より優れている鉄器がほぼ同時に使用されていた可能性が高い…というわけです。
文化の伝来が遅かった分、我々の祖先は得をしているのかもしれませんね。もっとも、当時の人々はさすらい様のおっしゃるように慌しかったかもしれませんが(笑)。
初めて知ったとしても、忘れていたとしても、これから理解して下されば鬼に金棒だと思いますので、今後とも宜しくお願いします♪
青銅器は、当初は朝鮮半島から輸入されましたが、すぐに国産されるようになりました。国産の青銅器としては銅鐸(どうたく)や銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・平形銅剣(ひらがたどうけん)などがあり、いずれも朝鮮半島のそれよりも大きく、また幅広い形でつくられています。
これら国産の青銅器のうち、銅鐸は近畿地方を中心に、銅矛・銅戈は北九州を中心に、平形銅剣は東瀬戸内海を中心に分布しており、青銅器が広まった地方は、いずれも文化の先進地域として栄え、祭祀(さいし)を中心とした大きな連合体が作られていたと考えられています。
尚、島根県の荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、大量の青銅製祭器が発掘されたことで有名です。




いつも有難うございます。
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車寅三郎 ときどき覗かせていただいています。
質問が1点。
「縄文時代の人口はどれくらでしたでしょう」。
どうぞご教示を。
車寅三郎様
黒田裕樹 はじめまして。お越し下さいまして有難うございます。
ご質問の件ですが、様々な説がありまして一概には言えませんが、この当時は寿命が短かったこともあったのか、数万人~十数万人で推移していたという説が有力なようですね。
これからも宜しくお願いします。
bunyan こんばんは~
いつもコメントありがとうございます。
黒田さんのフアンが増えるといいですね。
ランキングアップに応援してポチッ三回しておきますね。
bunyan様
黒田裕樹 いつも応援有難うございます!
ここ数日でアクセスが急増して有難い限りですが、多くの方がご覧になるということで自分の書く文章に責任も感じております。
お互いに頑張りましょう。
bunyan様の次の更新も楽しみにしております!
♪もふ♪ こんばんは!!
いつも勉強させてもらっています^^
応援PPさせてもらいました^^
またお邪魔させてもらいます(^o^)丿
さすらい こんばんは。
最初に青銅を調合し
青銅器を発明した古代人は凄いですよね。
それが朝鮮半島を渡り
我が国に来て、すぐに国産ですか。
我々の祖先は器用だったんですね。
青銅製祭器
勉強になりました。
応援♪
♪もふ♪様
黒田裕樹 いつも有難うございます!
♪もふ♪様のように「身につく」内容の書き込みができますよう頑張りますね。
また訪問させていただきます!
さすらい様
黒田裕樹 こんばんは、いつも有難うございます。
おっしゃるとおり、青銅の技術を発明した古代人は凄いです。
また、輸入した青銅器を直ちに国産化してしまう我が国の技術力も素晴らしいものがありますね。
昔から手先の器用さ、加工の上手さは折り紙つきの我が国ならではだと思います。
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ところで、弥生時代の大きな特徴の一つに、土器の進化があります。この時代の土器は、縄文土器に比べて薄手(うすで)で赤褐色(せっかっしょく)を帯(お)びており、また良質の粘土を高温で焼いているために堅いものが多いです。
弥生土器は主として煮炊き用の甕(かめ)や貯蔵用の壺(つぼ)、食物を盛るための鉢(はち)や高杯(たかつき)などに用いられました。
ところで、皆さんは この時代のことをなぜ「弥生時代」と呼ぶかご存知ですか?
弥生土器が最初に発見された場所にヒントが隠されています。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
3月に弥生さんという方が
文京区弥生で土器を発掘した
からです(笑)
日本の祖先も
段々進化してきましたね。
明日の講義も楽しみです。
お祝いコメありがとうございました。
また色々助かりました。
応援です♪
こんばんは^^
のらねこみゅー 思わず調べてしまいました^^;
調べてついでに他のこともわかって為になりました~♪
さすらい様
黒田裕樹 もしもし、答えを先に言わないで下さい(笑)。
さすらい様は本当に正解されたのか、すべては明日(15日)の正午頃に判明します。
次回をお楽しみに(って、ドラマじゃないんだから)!
また是非お越し下さい♪
のらねこみゅー様
黒田裕樹 講義の楽しみは、聞くことはもちろん、疑問に思うことがあれば自分で調べることにもあります。
自分で調べた知識はそう簡単に忘れないものですからね(私がそうですし)。
お喜びいただいてこちらも嬉しいです!
bunyan こんばんは
コメントがおくれました。
ごめんなさいね。
明日史跡めぐりに行く準備のために史料あさりをしていたのと、明日の記事の下書きをしていて、黒田さんのブログをのぞけませんでした。
二つともポチッしていきます。
黒田さんの歴史講座は、もっとたくさんの若い人たちに読んでもらえるといいですね。
応援しますよ。
bunyan様
黒田裕樹 いえいえ、お忙しいときでもご訪問下さって感謝しております。
一応高校生向けの内容にしておりますし、若い人々にたくさん見ていただきたいのはもちろんですが、いろんな年齢層の皆様に様々な評価をいただけるのも楽しみですね。
いずれにせよ、ここ数日の訪問される方々の急増は有難い限りです!
bunyan様のブログにもまた伺いますね♪
答えはまだ言わないで(;_;)
清家淳子 私すごい気になります(*u_u)
答え聞く前に調べたい(*u_u)
でも本日携帯のみなので、調べるのも時間かかりそう(ノ_・。)
しかも伊賀に今向かってます(→o←)ゞ
帰って時間に余裕あれば調べます
清家淳子様
黒田裕樹 平日は業務の関係上、予約投稿をしているので間に合いませんでした。どうぞご理解下さい。
今後とも、当ブログを宜しくお願いします。
1884(明治17)年3月2日、東京都本郷区向ヶ岡弥生(やよい)町(現在の文京区弥生二丁目)の向ヶ岡貝塚(むこうがおかかいづか)で今までにない様式の壷(つぼ)が発見されました。この土器は発見された地名から「弥生土器」と命名され、やがて弥生文化、弥生時代とその名が広まっていくことになったのです。
…今の文章をさらっと読んだ人、何か気がつきませんでしたか?
弥生土器が発見されたのは、1884(明治17)年の3月2日…
そう! 弥生に発見されているんですよ!
なんという偶然!
ところで、縄文土器と弥生土器の違いを下記にまとめておきましたので、よろしければ参考にして下さい。
縄文土器 → 厚手・黒褐色・低温・もろい
弥生土器 → 薄手・赤褐色・高温・硬い
それから、弥生時代の代表的な遺跡としては、これまでに挙げた静岡県の登呂遺跡(とろいせき)や島根県の荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)のほかに、福岡県の板付遺跡(いたづけいせき)や、佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)があり、板付遺跡や吉野ヶ里遺跡では大規模な環濠集落(かんごうしゅうらく)が有名です。
また、最初に土器が発見された向ヶ岡貝塚を含む地域は、現在では「弥生二丁目遺跡」という名で史跡(しせき)に指定されています。




いつも有難うございます。
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歴史は必然?
オバrev 黒田様 コメントありがとうございました。
学生時代、日本史は得意ではなかったけど、好きでした(^^;)
決して偶然ではなく、時代背景や複雑な人間関係や支配者の強欲などによって必然的に動いていたんじゃないかと思ってます。
しかし弥生の名前の起源は知りませんでした。
弥生時代の遺跡って、西日本が多いですよね。米作りが西日本でしかできなかったからですかね?
おぉ、板付遺跡も弥生時代の遺跡なんですね。
息子が福岡にいるので今度行ったときに訪れてみます。
オバrev様
黒田裕樹 こちらこそコメント有難うございます。
おっしゃるとおり、一見偶然に見える出来事も、一本の線でつながっていることが多いのが歴史です。
その謎を解き明かすのも、実に楽しい作業でもあります。
弥生時代の遺跡が西日本に多いのは、以前の講座にも書かせていただきましたが、稲作に向いているか否かというのが大きな理由になります。
遺跡の旅もなかなか楽しいものですよね。是非お勧め致します。
また是非お越し下さい。こちらも伺わせていただきます。
このような環濠集落や高地性集落がなぜ広まったと思いますか?
これらの集落は、いわゆる軍事的な緊張が高まったからつくられたのです。
全国各地に大きな集落がたくさんできると、その中には例えば収穫が少なかったりするのも出てきますね。隣の集落は大豊作でうるおっているというのに。
皆さんがその集落の指導者だったらどうしますか?
現代のように秩序がしっかりしていなければ、結局は収穫物を求めて争うことになってしまいますね。こうして我が国も争いの時代に入っていくのです。




いつも有難うございます。
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およよのよ こんにちは。記事と関係ないコメントごめんなさい。
リンクの件、OKです。此方からもしておきます。
詳しくは私のブログみてくれると嬉しいです。
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およよのよ様
黒田裕樹 コメント&リンク有難うございます。
今後とも宜しくお願いします。
bunyan こんばんは~
記事なしにコメントをいただいちゃってありがとうございました。
ある方のブログ閉鎖の通知がありましたけど
残念ですね。
私は何とかガンバローかなと思ってます。
弥生時代の関西は渡来人の攻撃にさらされ、緊張が高まったこともひとつの要因じゃなかったかしら。
先生に失礼かな。間違ってたらごめんなさいね。
bunyan様
黒田裕樹 こんばんは。
まだ起きてました(笑)。
渡来人の攻撃よりも、ブログに書いたとおり日本列島内の権力争いの方が要因としては大きいですね。当時は海という「天然の防壁」がありましたから。
「権力争い」の詳細についてはいずれ書かせてもらいます。
ブログの閉鎖、本当に残念ですよね。私たちは今後もお互い頑張りましょう!
さすらい こんばんは。
争いの時代ですか。
人間はそういう歴史を繰り返すのですね。
応援♪
さすらい様
黒田裕樹 有難うございます。
おっしゃるとおり、人間がやることは太古から変わっていません。
集落の跡から争いがあったと考えられるんですよね。綺麗事では片付けられない、歴史の必然性でもあります。
そうだったんだぁ
清家淳子 もうそんなこと、歳のせいか習ってないか・・・。
環濠集落って習ってないよぉ・・・・?
(たぶん習ってなかったような・・・・)
確かに集落で収穫できる量がものすごく
違ってきたら、荒そう要因になりますよね(;_:)
とってもかしこくなりました(^◇^)
自分があたかも知ってるように、わが子に
話をして、尊敬のまなざしで見てもらえるようにします(笑)
清家淳子様
黒田裕樹 環濠集落はこの講座で学習しましょう(笑)。歳のことはお互い気にしない、ということで(^^♪
争いごとが起きるのにもちゃんとした理由があるんですよね。人間、闇雲に戦うことはありえないんですから。
子供の前で尊敬されるのは大人の特権ですね\(^o^)/
はじめまして
しのぶもじずり NHKの番組で、
狩猟採集生活から農耕生活に移行したことにより、定住が始まったせいで、土地争いから戦争が始まった。
と言ってました。
堀を持った集落……当然争いが絶えなかったという事なのでしょうね。
農耕が始まり、食料の確保が容易になったことが、争いを増やすことになるなんて皮肉ですよね。
ところで、当時の中国の歴代の皇帝は、自国こそが政治や思想、文化の中心であり、他の地域はすべて劣っていると見なしていました。これを中華思想(ちゅうかしそう)といいます。
皇帝は周辺民族の長に対して自己に従うことを求め、逆らえば有無を言わさずに滅ぼしました。こうした力関係の元で、服属した長には「王」などの称号(しょうごう)を与えて現地の支配を認めるかわりに、自己を支配者として尊敬させる(=君臣関係を結ぶ)とする、いわゆる朝貢関係(ちょうこうかんけい)を強制しました。
このような体制を冊封(さくほう)といい、古代の東アジアの国際秩序はこれによって構成されたと考えられています。




いつも有難うございます。
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清家淳子 黒田先生、授業楽しいっす(^O^)/
何となく日本史思い出してきました\(^_^)/
さすが淳子ちゃん(笑)
今やっと天理東インターです(^O^)/
これから名阪国道のります(^-^)/
黒田先生、どうぞごゆるりとお休みを=^▽^=
bunyan こんばんは
黒田さんの生徒さんが増えてきたみたいですね。
先生へ応援のポチッと拍手のおまけ!
清家淳子様
黒田裕樹 眠いなか、コメントを下さって有難うございます\(^o^)/
明日も早いけど、充実した講座内容にするために頑張っております。
清家様も本業をしっかりこなして下さいませ♪
bunyan様
黒田裕樹 いつもコメント有難うございます。
最近は毎日20名以上の多くの方々にお越しいただいており、ただただ感謝です。
一日一回の更新を目指してこれからも頑張ります!
さすらい こんばんは。
今見れば当時の皇帝たちも
お山の大将でしたね(笑)
ローマやエジプトも
似たようなものだったんでしょうから
地球全体でまだまだ
発展途上だったんですかね。
応援です♪
さすらい様
黒田裕樹 おっしゃるとおり、当時はどこもかしこも「自分たちの世界」がすべてでしたからね。
そんな「冊封体制」にいつまでも従わされてはたまったものではない…というのは話が早過ぎました(笑)。
いつも有難うございます!
朝貢関係今も
オバrev こんばんは。
中華思想、朝貢関係、冊封体制
どれも、今だにありそうな気がします。
この頃の日本の情勢って、中国の歴史書に記述があるんですね。
日本にはまだ文字がなかったんですかね?
オバrev様
黒田裕樹 おはようございます。
確かに今でもありそうですね(笑)。
このブログが現代史まで続いたら紹介できそうです。
今日の更新あたりから、我が国に対する中国の歴史書の記述が始まりますので、是非お越し下さい。
我が国に漢字が伝わるのはもう少し先になります。
例えば、前漢の歴史を述べた『漢書』地理志(かんじょちりし)によれば、紀元前1世紀頃の「倭人(わじん) 」社会は百余国、つまり100余りの国に分かれ、楽浪郡(らくろうぐん)に使者を送ったとされています。
楽浪郡とは朝鮮半島に置かれた四郡の一つで、当時は前漢の直轄地(ちょっかつち)でした。こちらで学習しましたね。
尚、「倭」は中国から見た当て字で、なぜ我が国にその名がつけられたかについては様々な説があります。ちなみに私は、おそらく日本人が大切にする「和」から伝わったのではないかと考えています。
「倭」には本来悪い意味が込められているとされており、そうだとすれば中華思想による差別意識が感じられますね。




いつも有難うございます。
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とまと こんにちは(^o^)
いつもご訪問&コメントをありがとうございます。
ゆっくりお伺いできなくて、申し訳ありません。
感謝のぽち~♪
とまと様
黒田裕樹 いつも有難うございます。
私もとまと様の「講義」でしっかり「勉強」させていただいております♪
今回はもちろん、とまと様の次回の更新も楽しみにしております。
bunyan こんにちは
コメントありがとうございました。
黒田さん、早とちりされましたよ。
行くのは明日です(笑)
bunyan様
黒田裕樹 …失礼しました<m(_ _)m>
ついつい早合点してしまったようで…。
明日もいい天気のようですので、良い写真が撮れますようお祈りします。
さすらい こんばんは。
中国と我が国は
古くからの付き合いですよね。
現代でも、もっと仲良くしたいものです。
応援♪
さすらい様
黒田裕樹 おっしゃるとおりと思いますが、中華思想の国とのお付き合いは今も昔も大変ですね。
またお越し下さい。
.
山田 「ワ」は単純に自分たちの民族を表す語なんじゃないですかね。
ワタシ、ワレ、ワガ、なんていうように、自分自身を示す日本語が「わ」の活用で言われますから、そのような意味を言ったのではないでしょうか。
民族学の世界では常識かと思いますが
自国の名前を表現する語を持たない民族は、大抵自分らや人そのものを示す彼らの語を持って、他国からは呼称されるようになります。
そもそも他国と外交関係の無い民族は、自分ら以外の国は無いので、示す語を持たないことが多いのです。
「倭」「わ」というのは、日本語から察するに、自己を示す日本語のことだろうと思います。
それをもって当時の中国人は日本列島に住む民族の名前としたのではないかと。
「和」を国名にしていくのは、その後他国との外交関係が盛んになりナショナリズムが高まりそう自国でも定義していったのではないかと。
あとは日本語で「わ」というと「輪」があります。これの可能性もありますが、
そもそも「輪」、円環を示す「わ」は太陽から来てるのかなとも思われ、自分自身の「わ」と根本では通じてるような気もしています。
山田さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
確かにそのような説もありますね。
当時の我が国には文字がありませんでしたから、自分たちを指すのに「ワ」を用いたり、つながりや日輪を現す「輪」も十分に考えられます。
後者の場合は「太陽の国=日本」にも通じますし、様々な考えがあって良いですね。
奴国は今の福岡市付近にあった小国の一つとされ、同市の志賀島(しかのしま)からは、奴国王が光武帝から授かったとされる「漢委奴国王」(かんのわのなこくおう)と刻(きざ)まれた金印(きんいん)が江戸時代に発見されています。
こうして、弥生中期以後に北九州から本州の各地に分立した小国の王たちは、漢王朝の先進文化を積極的に取り入れて、自らの地位を高めようとしたと考えられています。




いつも有難うございます。
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オバrev 出ましたね、志賀島の金印。
きっちり、後漢書に書いてあるんですね。
確か福岡博物館に展示してあるらしいので、息子のところへ行ったときに見に行こうと思います。
オバrev様
黒田裕樹 金印が見つかったことは歴史上の奇跡ですね。後述する卑弥呼の金印も見つかればよいのですが。
ところで、金印を見つけた農民の名前はご存知ですか?
かつて有名私大の入試に出たそうですよ。何というか、重箱の隅をつつくような問題ですよね。
海豚 コメントありがとうございました。
なんか読んでると懐かしいです。
これからも読ませてもらいます☆
よろしくです~。
海豚様
黒田裕樹 こちらこそお越し下さって有難うございます。
そうですね。中学校の歴史でもこの辺は学習しましたからね。いずれ高校でも勉強しますし、受験にも何らかの手助けになるかもしれませんから、これからも是非ご訪問下さい(^^)/
さすらい 日本と中国の交流は古いんですよね。
今も仲良くしたいものです。
応援♪
さすらい様
黒田裕樹 この当時の外交は、本文でも述べたように朝貢形式でした。当時は国力に大きなへだたりがあったために止むを得なかったのですが、その後対等外交に切り替わります。
誰がそうしたのかは今後のお楽しみということで(笑)。
現代の対中外交は「対等」でしょうかねぇ…。
また是非お越し下さい♪
『三国志』(さんごくし)の『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)によると、2世紀後半から倭国では大きな争乱が続いたため、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)が諸国の同意によって立つと、ようやく争乱は治まり、30国ほどを従えた邪馬台国を中心とする連合政権が生まれました。
卑弥呼は「鬼道」(きどう)に優(すぐ)れ、宗教的な権威(けんい)によって国を治めており、また邪馬台国は大人(たいじん)や下戸(げこ)などの身分差があり、ある程度の統治組織や租税(そぜい)・刑罰(けいばつ)の制度も整った国であったとされています。
尚、邪馬台国や卑弥呼は「倭」と同じく中国から見た当て字で、それぞれ「大和(やまと)の国」「日の巫女(ひのみこ)」がなまって伝わったと考えられています。「倭」同様、中華思想が色濃く反映されていますね。また、鬼道については様々な説があり、呪術(じゅじゅつ)や祈祷(きとう)ではないかともいわれています。




いつも有難うございます。
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とまと こんにちは(^o^)
ご訪問&コメントをありがとうございます。
感謝のポチ~
さすらい こんばんは。
この時代、魏には華佗(かだ)という
我々鍼灸師の祖先の先生がいたのですが
その技術が日本へ渡ったかどうかは
新説ミステリーなんです。
様々な説があり
唐の時代になって
ようやく日本の鍼灸の基礎になる学問が
渡ってきたとされますが
それもあやふやで
それ以前の何かしらの文献が
あるのではないかと
発掘されるのを期待しているところです(笑)
応援♪
いつも有難うございます!
黒田裕樹 とまと様
いつもコメントを下さって有難うございます。
本当に励みになります!
さすらい様
華佗の名前は三国志で知っていましたが、そんな新説があったんですね。中国の長い歴史の中に埋もれた真実はまだまだたくさんありそうです。
応援有難うございます!
スズメちゃん こんばんは~

ご訪問、コメントありがとうございました。
少しお勉強させていただきました。
感謝と応援のぽち、ぽち~
邪馬台国はどこに
オバrev 卑弥呼、そして邪馬台国でましたね。
このころは仏教がまだ伝来してなかったし、アニミズム的考えが強かったのでしょうから、卑弥呼さんは、ちょっと怪しい?霊能力者みたいな、おばあさんじゃなかったかと思いますが。
しかし、邪馬台国ってどこにあったか、まだ決め手がないんですかね?
清家淳子 卑弥呼様、ご登場(●^o^●)
あぁ、めっちゃ懐かしいけど、
「かんのわのなのこくおう」っていつの
やつでしたっけ?
何か勘違いしてました・・・・?
あぁ、歳をとるって恐ろしい・・・。
歴史はめっちゃ点数よかったわたくし・・・。
かなりショックです・・・。
銅鏡を歴史の教科書で見た記憶は蘇りましたが・・・・。
黒田先生、ちなみに邪馬台国って九州と
奈良どっちにあったんでしたっけ?
それとも全然別の場所でしたっけ?
コメント有難うございます!
黒田裕樹 スズメちゃん様
ようこそ当ブログへ!
今後とも宜しくお願いします。
こちらもちょくちょく伺いますね♪
オバrev様
そうですね。本文にも書いてあるように、当時は呪術的な方法で人々を支配していたようです。
卑弥呼の年齢は不詳ですが、どちらかというと「老婆」の印象がありますね。
邪馬台国の位置は…今日(4月21日)の本文に書いてあります。ちなみに私はどちらを支持しているかというと…いずれ分かります(笑)。
また是非お越し下さい。
清家淳子様
「漢委奴国王」の金印は19日に書いたとおり、紀元57年当時のものとされておりますよ。
邪馬台国の位置は…(以下オバrev様と同じ。…手抜きではありませんよ)。
卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争った後に死亡し、その後に男の王が立ったが国内は乱れました。そこで卑弥呼の一族の女性である壱与(いよ、別名として台与=とよ)を新しい王として立てると、争いはようやく治まったそうです。
そして266年、魏にかわった晋(しん)の首都である洛陽(らくよう)に倭国の女王(=壱与か?)が使者を遣わしたと『晋書』(しんじょ)に書かれたのを最後に、約150年間、倭(=我が国)に関する記載は中国の歴史書から姿を消します。この時代以降、中国大陸では政治の混乱が続き、歴史書をまとめる余裕がなかったからだと考えられています。
ところで、邪馬台国の記載がある『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)の内容にはさまざまな解釈があり、現代でも研究や論争が続いています。邪馬台国(やまたいこく)の位置についても、九州説と畿内説(きないせつ)があり、それによって、日本側の伝承(でんしょう)にある大和朝廷(やまとちょうてい)との関係についても説が分かれています。




いつも有難うございます。
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清家淳子 私ってやっぱり賢かったんですね(笑)
覚えてた覚えてたぁ(^◇^)
九州説あったんだぁ(^◇^)
ちょっと自慢したくなってコメントしました(笑)
さすらい こんばんは。
これだから
歴史はミステリーで面白いですよね。
研究や論争に
決着は付かない気がします。
仮に九州説を証明するものが
出てきたとしても
「いやいや畿内説も出てくる!」
ってなるでしょうし(笑)
ピラミッドや万里の長城でさえも
新説がどんどんでてくるのですから
日本もまだまだ謎だらけですよね。
また面白いお話聞かせて下さい。
応援♪
コメント有難うございます!
黒田裕樹 清家淳子様
さすがに知的な女性は仰ることが違いますね(笑)。
ちなみに、ずんこ様は九州と畿内のどちらの説が正しいと思われますか?
さすらい様
応援どうもです♪
古代史はミステリーを一つ一つ解いていくのも醍醐味ですね。もうすぐ、我が国の古代史最大のミステリーの謎を解き明かす話(他人様の説の支持ですが)になりますのでお楽しみに!
らくようと言えば
オバrev らくようと聞くと、洛陽よりも、吉田拓郎の落葉が頭に浮かびます・・・年がバレそうですが(汗)
この中国の混乱期って、劉備玄徳や諸葛孔明らが活躍した、いわゆる三国時代ですか。
戦争に明け暮れて、日本のことなんかどうでもよかったのかな?
オバrev様
黒田裕樹 大変失礼ながら、吉田拓郎は「落陽」ではなかったでしょうか…私も年がバレそうです(笑)。
ここでいう中国の混乱期は、三国時代よりも後の、晋がいったん統一した後の五胡十六国~南北朝時代のことです。
この時代は、中国大陸のあちこちで戦乱が相次ぎ、外交問題に取り組んだり、歴史書をまとめたりする余裕がなかったんですよ。
仰るように、他所の国のことなんかどうでも良かったわけです(笑)。
実は、中国大陸の混乱が理由で我が国の歴史が大きく変わってしまた可能性があるのですが…この話はいずれしましょう。
また是非お越し下さい。
私はやっぱり理想は畿内でしょうか?
清家淳子 でも、現実はなんか九州説のほうが
濃いような気がします・・・。
何か決定的なものが早く見つかれば、
また歴史の教科書書きなおし?
私の時代に習ったことでも
新たな発見により、変わってるでしょうね。
これぞ女性に歳を聞けない時、判別するのにいいかも(笑)
なぜそんなことが分かるかというと、3世紀後半から大和地方を中心に巨大な古墳(こふん)がつくられているからです。
その後も大和地方と同じ形の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が各地につくられたことから、大和朝廷の支配が順次拡大していったと推定されます(古墳については後日改めて詳しく学習します)。
そして、おそらく4世紀半ばまでには、関東地方から九州北部までの我が国の広い範囲が大和朝廷の支配下に入ったと考えられています。
それでは、大和朝廷と邪馬台国との関係はどうだったのでしょうか?
尚、大和朝廷については、最近の教科書では「ヤマト政権」と書かれている例が多いようです。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
「ヤマト政権」ですか。
デスラーとか出てきそうですが(笑)
学校の教科書もテスト的な教えではなく
先生のように楽しい歴史の話にして
もらいたいですよね。
応援♪
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bunyan こんにちは~
ネット障害でブログが開けなかったのでお邪魔できませんでした。
大和政権で思い出したのですが、日本書紀と古事記に天皇の年齢が書いてあったのだけど、100歳を超える人が何人もいたってことが信じられません。
いまの歴史でも教えるのでしょうか。
素朴な疑問です。
失礼しました。
さすらい様
黒田裕樹 なぜ「ヤマト政権」かというと、誕生当時は「大和」という表記が使われていないことと、「朝廷」の呼び方も相応しくない、といういかにも杓子定規的な理由からです。
仰るとおり、こんな表現で楽しく歴史が学べるはずがありませんよね。私の話が楽しいかどうかは皆様次第ですが…。
bunyan様
黒田裕樹 さすがbunyan様、鋭いご質問ですね。
100歳を超える年齢をどう解釈するかですが、問答無用で「つくりごと」と切り捨てるか、当時の我が国が春と秋に二度年をとる方式だったとか、様々な考え方があります。
ちなみに私は後者の説が有力であると思っております。
古事記や日本書紀の内容については、近日中に講座の中で紹介できると思います。
海豚 え、カタカナでしたっけ・・・。
ウチの教科書は漢字だったよーな??
ま、2年程前のですけどね。
いつもコメントありがとうございます。
相リンしてもらってもいいですか・・・?
お願いします。
海豚様
黒田裕樹 こちらこそコメント有難うございます。
高校の教科書ではカタカナで書かれているのが多いんですよ。もちろん漢字で書かれている教科書もありますけどね。
個人的には、自分の国の話なんですから、よそよそしいイメージのあるカタカナではなく、ちゃんと漢字を使ってほしいと思います。
リンクのお話、有難うございます。こちらこそ宜しくお願いします。
仁徳天皇陵
オバrev 前方後円墳といえば、 仁徳天皇陵ですね。
私は大阪に住んでいたことあるんですが、
行ったことはないです(^^;)
前方後円墳見にいきました(^◇^)
清家淳子 堺の名前が出てこない。。。。。
うーん。。。。
日本最大だったような・・・。
仁徳天皇陵でしたっけ??????
何かとっても緑の木々に囲まれた
きれいな古墳だった記憶が・・・・。
私は高校の行きしなにも、小さな古墳がいくつかあって、よく見てました(^◇^)
何かすんごいお宝が眠ってるんではないかなぁといつも思ってて・・・。
お濠を泳いで渡ってみたかったです(笑)
そして、発掘してみたかったですね(笑)
そして、テレビに出たかったですね(笑)
コメント有難うございます!
黒田裕樹 オバrev様
仁徳天皇陵は我が国最大の前方後円墳として有名ですね。私は小学校の頃に遠足で行ったことがあります。でも、最近は「仁徳天皇陵」と言わないんですよね…。何と言うかはいずれ講座で紹介します。
清家淳子様
天皇陵は宮内庁が管理していますので、立ち入りは禁止されております。従って、お濠で泳ぐことはもちろん、発掘なんてもっての外です。違う意味でテレビに紹介されないようにしましょう(笑)。
だとすると大和朝廷と邪馬台国とは別の組織と考えたほうがよいのかもしれません。大和朝廷が現在の皇室のルーツだとすれば、邪馬台国はどこへいってしまったのでしょうか?
この謎を解くカギは、我が国最初の歴史書である「日本書紀」(にほんしょき)や「古事記」(こじき)の内容と、それに中国の歴史書に書かれた「狗奴国」(くなこく)の男王である「卑弥弓呼」(ひみくこ)の存在です。
そこで、次回からしばらくの間、我が国の建国に関する神話(しんわ)を振り返りながら、大和朝廷と邪馬台国との関係を探(さぐ)ってみたいと思います。
(これで弥生時代は終了です)




いつも有難うございます。
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清家淳子 私は歴史が得意なのは、マンガで覚えたからです(笑)
だから娘にも歴史のマンガ買い与えてましたが、読んでないようです・・・。
この壱与ちゃんが、けっこうかわいかった記憶があります!(●^o^●)
黒田先生のブログに立ち寄ると、なんだか
若返る気がします・・・・。
若返るっていうか若いんですけど・・・・。
こんにちは~
スズメちゃん
毎日、黒田先生のブログに立ち寄ることで
歴史が苦手!を克服できるかもしれませんね!
応援ポチ!ポチ!ポチ~♪
コメント有難うございます!
黒田裕樹 清家淳子様
壱与は10代の少女の頃に女王になったという説がありますから、その影響でしょう。
私も子供の頃は歴史マンガが好きで、その影響は大きかったですね。あ、そうそう、私も(気だけは)若いですよ(笑)。またお越し下さい!
スズメちゃん様
歴史が苦手なのはもったいないですよ。でも、暗記ばかりの詰め込み教育だと、嫌いになるのは仕方がないかもしれないですね。
私の講座で苦手が克服できれば、こんなにうれしいことはないです!
応援クリック有難うございます\(^o^)/
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bunyan こんばんは♪
いよいよですねー
黒田先生の本領発揮のとき !
展開を楽しみにしてまーす。
ことぶきのこめや はじめてコメントさせていただきます。
私の日本史の知識のほとんどは「逆説の日本史」なんですが、歴史は好きです★
狗奴国に卑弥弓呼という男王がいたんですか?
初耳です!
コメント有難うございます!
黒田裕樹 bunyan様
はい、いよいよ明日から展開が大きく変わります。bunyan様や他の皆様がどう評価されるのか、正直言って武者震いの思いです。
明日の正午に更新しますので、是非ご覧になって下さい!
ことぶきのこめや様
はじめまして、コメント有難うございます。とまと様のご紹介で一度ブログへお邪魔させていただきました。
「逆説の日本史」いいですよね。この本で私の歴史に対する見方が180度変わりましたし、この講座にも大きな影響を与えています。
「狗奴国」の「卑弥弓呼」は魏志倭人伝に載っているのですが、なぜか取り上げられることが少ないんですよね。その正体は…おっと、いずれこの講座で紹介しますので、今しばらくお待ち下さい(笑)。
今後とも宜しくお願い致します。
さすらい こんばんは。
今日は遅くなってしまいました。
大和朝廷と邪馬台国とは
別の組織ですか。
権力の二分構造!?(笑)
神話の世界
楽しみにしています。
応援♪
さすらい様
黒田裕樹 返信遅れてすみませんでした。
本日(正確には昨日)の講座はいかがでしたでしょうか?
これからも宜しくお願いします♪