白河法皇(しらかわほうおう)の子であった堀河天皇(ほりかわてんのう)が、在位中の1107年に29歳の若さで崩御(ほうぎょ)されると、白河法皇は堀河天皇の子で、まだ5歳と幼かった鳥羽天皇(とばてんのう)を第74代天皇として即位させ、引き続き院政を行われました。そして鳥羽天皇が16歳のとき、白河法皇のご紹介で絶世の美女といわれた藤原璋子(ふじわらのしょうし)が鳥羽天皇の后(きさき)となりました。
鳥羽天皇と璋子との間に顕仁親王(あきひとしんのう)がお生まれになると、白河法皇は曾孫(ひまご)にあたる顕仁親王を大変可愛がられ、1123年に親王が5歳になられると、鳥羽天皇は白河法皇によって天皇を退位させられ、顕仁親王が第75代の崇徳天皇(すとくてんのう)として即位されました。
白河法皇によって半ば無理やり退位させられた鳥羽上皇でしたが、「治天の君」たる白河法皇がいらっしゃる限りは、上皇になられても何の実権もお持ちになれませんでした。鳥羽上皇は内心ご不満ではあったものの、ご辛抱なさるしかありませんでした。
祖父の白河法皇によるご自身への仕打ちをお怒(いか)りに思われていた鳥羽上皇は、いつしか我が子であるはずの崇徳天皇をも、退位の原因として深く憎まれるようになられました。そんな中、1129年に白河法皇が43年間の院政の後に崩御され、鳥羽上皇が待望久しい「治天の君」になられました。




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オバrev 白河法皇は、、堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇と、曾孫までの43年間の院政をやったということは、自分が天皇の時を加えると、一体何年支配したんですかね。
だけどこういうカリスマ的な支配者がなくなった後って、混乱しやすいですよね。次にうまく引き継ぐのは非常に困難だと思います。その長い支配の間に、色々不満や膿がたまっていたんじゃないでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 白河法皇は、、堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇と、曾孫までの43年間の院政をやったということは、自分が天皇の時を加えると、一体何年支配したんですかね。
白河法皇は、父君の後三条天皇に21歳で皇位を譲り受けられましたが、翌年には後三条上皇が崩御されました。それ以降は親政を行われてますから、77歳で崩御されるまで、実に55年間も政治の実権を握り続けられたんですね。
> だけどこういうカリスマ的な支配者がなくなった後って、混乱しやすいですよね。次にうまく引き継ぐのは非常に困難だと思います。その長い支配の間に、色々不満や膿がたまっていたんじゃないでしょうか。
仰るとおりだと思います。次の鳥羽上皇(法皇)による院政の間はともかく、その次の後白河法皇の頃には、朝廷の権力はかなり武士に乗っ取られていますからね。そのあたりの経緯についてもご紹介することになると思います。
ぴーち こんばんは!
鳥羽上皇。半ば、お飾り状態で即位させられた「上皇」だったんですね^^;
それでも、歴史音痴の私でさえ、鳥羽上皇の名前だけは存じておりましたので、白河上皇崩御以後は、ご活躍されたのでしょうかね?
権威を与えられても、実権を握ることが出ないのは、
さぞ、苦しく、屈辱的な日々だった事でしょうね。。
それでは、黒田上皇に、応援です(笑)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 鳥羽上皇。半ば、お飾り状態で即位させられた「上皇」だったんですね^^;
> それでも、歴史音痴の私でさえ、鳥羽上皇の名前だけは存じておりましたので、白河上皇崩御以後は、ご活躍されたのでしょうかね?
> 権威を与えられても、実権を握ることが出ないのは、
> さぞ、苦しく、屈辱的な日々だった事でしょうね。。
そのとおりです。上皇になったとしても、治天の君と称された祖父の白河法皇がご健在である限り、単なる上皇に過ぎないのですから、それならば現役の天皇でいらっしゃった方が遥かに良いですよね。それだけに、無理やり天皇の地位から引きずりおろした白河法皇や、その原因となられた実子の崇徳天皇に対するお怒りが、憎しみに変わられたのも無理もないと思います。
しかし、白河法皇が崩御されれば、ご自身が治天の君となられて、思う存分の政治ができるわけですから、果たしてどうなるのでしょうか?
> それでは、黒田上皇に、応援です(笑)
え゛? 私も引退ですか(笑)!?
権力の魅力
JJSG こんばんは。
権力って、そんなに魅力的なんですかねぇ。。。
やっぱり、世の中、自分の思い通りにできるから、楽しいのかな。
私もそうなってみたら、わかりますね、きっと。
でも、なれるわけないし、今のところ、なりたいともおもわないんですけどねぇ。
会社でも、出世より、お気楽な平社員がいいと思ってしまう私って。。。
ダメちんですよねぇ。 v(^^)
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 権力って、そんなに魅力的なんですかねぇ。。。
> やっぱり、世の中、自分の思い通りにできるから、楽しいのかな。
> 私もそうなってみたら、わかりますね、きっと。
私も経験がないので分かりませんが、確かに心地よいもののような気はしますね。
> でも、なれるわけないし、今のところ、なりたいともおもわないんですけどねぇ。
> 会社でも、出世より、お気楽な平社員がいいと思ってしまう私って。。。
> ダメちんですよねぇ。 v(^^)
いえいえ、人間にとっては何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」だと思いますよ。下手に権力を持ってしまうと、かえって守ろうとして自滅してしまうような気もします。
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その後、1139年に得子との間に待望の躰仁親王(なりひとしんのう)がお生まれになると、鳥羽上皇は1141年、崇徳天皇を強引に退位させて、躰仁親王が第76代の近衛天皇(このえてんのう)となられました。鳥羽上皇(後に法皇)は、近衛天皇の血筋がこのまま後世にまで伝わって欲しいと強く願われました。
しかし、近衛天皇は1155年に17歳の若さで崩御(ほうぎょ)されてしまいました。次の天皇を誰にするべきなのか。鳥羽法皇は熟慮(じゅくりょ)された末、璋子との間にお生まれになり、崇徳上皇の弟にあたる雅仁親王(まさひとしんのう)を皇位につけられました。こうして誕生された第77代の後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、兄が弟を相続するという珍しいかたちでのご即位となりました。
一方、この結果をお知りになった崇徳上皇は激怒されました。なぜなら、崇徳上皇の子である重仁親王(しげひとしんのう)にも皇位の継承権があり、そちらが有力視されていたからです。我が父であるはずの鳥羽法皇による、我が子であるはずのご自身への冷たい仕打ちに、崇徳上皇のお怒りは爆発寸前でしたが、鳥羽法皇がご健在の間はご辛抱されておられました。そして、1156年7月に、27年間の院政の後に鳥羽法皇が崩御されました―。




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えめる 全くもうねっ。男ってのは美人に弱いんだからニャッ!
ふんふん。
ん?先生もですかニャ?……^@ω@^いえ。答えなくていいんでスニャ。
ところで、このあと、ひと波乱あるんですにゃね?
明日を楽しみに待つニャ。
馬人 うーん。色々ややこしいものですね・・・。
色々、鳥羽上皇が政治をして有力になった末、
ご自身が崩御してしまったのですか…。
崇徳天皇の怒り、分からなくもないです^^;
みにくい
JJSG こんばんは。
みにくい人間模様ですね。
今も昔も変わらず。。。
さて、どうなるやら!!
二人の美女
オバrev 美形に弱いオバです。でもきつい美女は苦手です。何か二人ともきつそうですね(^^;
しかし藤原璋子は、夫である鳥羽上皇が、多分藤原璋子よりももっと若くて美人だったのではないかと推察されます藤原得子に夫を奪われ、さらに息子である崇徳上皇や後白河天皇が仲が悪い・・・後に争いになりそうですが・・・と、まあ、時代にもてあそばれたような感もありますね。
それとこの時代に関して言えば、白河上皇や鳥羽上皇より、むしろ後白河上皇や後鳥羽上皇の名前のほうが記憶にあります。と言うか、白河上皇や鳥羽上皇ってこういう人だったのかと、初めて知ったかも(^^;∂ポリポリ
ぴーち こんばんは!
この頃と言うのは、上皇の勝手な私情で
皇位の継承が罷り通っていたんですね~。
今は、しっかりと王位継承順位通りに
継承されているように思うのですが、どうなんでしょうか。。
歴史に詳しい方からは、笑われてしまうかもしれませんが^^;
それでは、応援凸
えめるさんへ
黒田裕樹 > 全くもうねっ。男ってのは美人に弱いんだからニャッ!
> ふんふん。
> ん?先生もですかニャ?……^@ω@^いえ。答えなくていいんでスニャ。
ではお言葉に甘えて、ノーコメントとさせていただきます(笑)。
> ところで、このあと、ひと波乱あるんですにゃね?
> 明日を楽しみに待つニャ。
えめるさんも鋭いですね(^_^)v
明日から明後日にかけて、色々とありそうですよ(^^♪
馬人さんへ
黒田裕樹 確かに今回あたりの話はややこしいですね。
女性が絡んでいるので余計に複雑なのかもしれません(^^ゞ
> 崇徳天皇の怒り、分からなくもないです^^;
その怒りが爆発される日がやってくるんですよね…(´・ω・`)
JJSGさんへ
黒田裕樹 > みにくい人間模様ですね。
> 今も昔も変わらず。。。
権力のみならず、異性がからんでいますので、余計にそう感じますね。
> さて、どうなるやら!!
明日(20日)以降に色々とありそうですよ(・∀・)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 美形に弱いオバです。でもきつい美女は苦手です。何か二人ともきつそうですね(^^;
確かにそんなイメージがありますね。でも、美女といえばキツイ人が多いのはなぜでしょう?
> しかし藤原璋子は、夫である鳥羽上皇が、多分藤原璋子よりももっと若くて美人だったのではないかと推察されます藤原得子に夫を奪われ、さらに息子である崇徳上皇や後白河天皇が仲が悪い・・・後に争いになりそうですが・・・と、まあ、時代にもてあそばれたような感もありますね。
藤原璋子も考えてみればお気の毒な人ですね。人間の幸せとは何なのか、とついつい考えてしまいそうです。
> それとこの時代に関して言えば、白河上皇や鳥羽上皇より、むしろ後白河上皇や後鳥羽上皇の名前のほうが記憶にあります。と言うか、白河上皇や鳥羽上皇ってこういう人だったのかと、初めて知ったかも(^^;∂ポリポリ
「後」がつくかつかないかでずいぶんイメージが変わるものですからね。ただ、オバrevさんが仰った四人の天皇は、いずれ劣らぬ個性派ぞろいといっても差し支えないでしょう。良くも悪くも、我が国の歴史に名を残され、少なからぬ影響を与えられたお方だと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃と言うのは、上皇の勝手な私情で
> 皇位の継承が罷り通っていたんですね~。
実は、このことが院政の最大の欠点だったのです。相手が父親もしくは祖父だっただけに、絶対に逆らえないということで、時として独裁的な政治になってしまう側面がありましたからね。
強引な手法は、後に必ずといっていいほど混乱や争いごとが起きてしまうものです。そして今回も…。
> 今は、しっかりと王位継承順位通りに
> 継承されているように思うのですが、どうなんでしょうか。。
> 歴史に詳しい方からは、笑われてしまうかもしれませんが^^;
現代は皇室典範(こうしつてんぱん)で、継承順位がしっかりと定められていますからね。ちなみに、秋篠宮殿下は2番目、悠仁(ひさひと)親王殿下は3番目の順位となられています。
一方、鳥羽法皇も、ご自身の崩御後に崇徳上皇がクーデターを起こすとお考えになり、後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備され、結果として源為義の子である源義朝(みなもとのよしとも)や、鳥羽法皇の信頼が厚かった平忠盛(たいらのただもり)の子で、平忠正の甥(おい)でもある平清盛(たいらのきよもり)らが参集しました。
こうして、鳥羽法皇が崩御された1156年7月に、兄弟や親子、さらには叔父(おじ)と甥という血族同士が相争う事態となってしまったのです。この戦いを当時の年号から保元の乱(ほうげんのらん)といいます。
戦いそのものは、機先を制して夜襲をかけた後白河天皇側が一日で勝利を収めました。崇徳上皇は出家されたものの許されずに讃岐国(さぬきのくに、現在の香川県)に流罪(るざい)となられ、藤原頼長は戦いの際に流れ矢に当たって亡くなり、源為義や平忠正らは処刑され、810年の薬子の変(くすこのへん)以来、346年ぶりに死刑が復活しましたが、その方法があまりにも過酷(かこく)でした。




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えめる 骨肉の争い?
人間の欲って、身近な人間に対して働くときが一番みにくくて残酷って事なのかニャア……。
なるなる。
歴史は人間ドラマだニャ。
一体どんな死刑の方法だったのか……。
明日を待ってるニャー。
(ここでこんな猫言葉。でもいいよねっ?脳みそはまじめニャよっ)
何てこった!
オバrev 何ということでしょうか。
戦国時代は、家を守るために親子・兄弟が敵味方に分かれて戦うことは戦略的にあったけど、それ以外でこれほどの身内同士の争いって、日本の歴史上でも珍しいんですかね、えっ!珍しくない!!
・・・そういえば壬申の乱は、親戚同士だったし、天皇を巡る争いは身内同士が多かったような気もするなぁ・・・既に忘れている(^^;?
しかしあまりに過酷な処罰って、強烈な恨みを残しますよね。
貴族というと優雅な生活を送っていたと言うイメージですが、権力闘争に明け暮れてたのかもしれませんね。
えめるさんへ
黒田裕樹 > 骨肉の争い?
> 人間の欲って、身近な人間に対して働くときが一番みにくくて残酷って事なのかニャア……。
近親憎悪といいますが、身内同士だとかえって収拾がつかなくなることが良くありますよね。相続の争いなどは、周囲が目を背けたくなるようなみにくさが顔を出すことも…。
> なるなる。
> 歴史は人間ドラマだニャ。
> 一体どんな死刑の方法だったのか……。
> 明日を待ってるニャー。
> (ここでこんな猫言葉。でもいいよねっ?脳みそはまじめニャよっ)
過酷さでは、おそらく歴史上で一、二を争うものだと思います。
脳みそは真面目に、言葉はネコで今後もよろしくお願いします(^ω^)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 何ということでしょうか。
> 戦国時代は、家を守るために親子・兄弟が敵味方に分かれて戦うことは戦略的にあったけど、それ以外でこれほどの身内同士の争いって、日本の歴史上でも珍しいんですかね、えっ!珍しくない!!
> ・・・そういえば壬申の乱は、親戚同士だったし、天皇を巡る争いは身内同士が多かったような気もするなぁ・・・既に忘れている(^^;?
仰るとおり、身内同士の争いは結構ありますよね。近親憎悪の方が争いのもとになりやすいのでしょうか。
> しかしあまりに過酷な処罰って、強烈な恨みを残しますよね。
人間の生死にかかわりますから、余計に恨みが増幅されますね。また、今回の場合は執行人にも過酷な運命が待ち受けることになります。しかし、そのことが原因で新しい時代の幕開けにもつながるのですから、歴史というのは本当に分かりません。
> 貴族というと優雅な生活を送っていたと言うイメージですが、権力闘争に明け暮れてたのかもしれませんね。
藤原氏がそうであったように、華やかさの裏には血みどろの権力闘争がありますからね。いつの時代も、人間のやることは変わらない、といったところでしょうか。
昔は僻地と呼ばれた場所から・・
ぴーち こんばんは!
昔は讃岐が「流罪」の地だったのですか?
四国そのものが、そうだったんですかね?
そういえば、新潟の佐渡なども、流罪には適した?
環境だったのかもしれませんね^^;
死刑と言えば、先程、映画鑑賞をしていたのですが、
外国では、昔だったら、子供の前で親が不義の話などをしたら、両手首を切られて、市中引き回しの上、刺殺された所なんだよ。。という内容の会話を観ていて、
昔の死刑は人々への戒めでもある為か、かなり残酷だったんだなと思っていた所なんですよ^^;
それでは、応援凸
全人類
JJSG こんばんは。
歴史をひもとくに、人間、縁さえ来たら、どんなことするかわかったもんじゃありません。
これが、人間の本性ですね。
「さるべき業縁の催せば、いかなる振る舞いもすべし」
(歎異抄)
親鸞聖人のお言葉です。
私とて、縁が来たら、どんな恐ろしいことをしでかすかわかりません。
歴史からも、それは疑いようのない真実だとわかります。
歴史から私自身の本性、真実の姿がかいまみえます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 昔は讃岐が「流罪」の地だったのですか?
> 四国そのものが、そうだったんですかね?
> そういえば、新潟の佐渡なども、流罪には適した?
> 環境だったのかもしれませんね^^;
四国の場合は都から近いので、どちらかといえば文化が栄えた方です。ただ、そうであっても都の暮らしに慣れた人からすれば不便な場所ではあったようで、ましてや皇族、それも元天皇がお住まいになるとすれば、やはり流罪という言葉がふさわしいかと思われます。
> 死刑と言えば、先程、映画鑑賞をしていたのですが、
> 外国では、昔だったら、子供の前で親が不義の話などをしたら、両手首を切られて、市中引き回しの上、刺殺された所なんだよ。。という内容の会話を観ていて、
> 昔の死刑は人々への戒めでもある為か、かなり残酷だったんだなと思っていた所なんですよ^^;
はるか昔のバビロニアのハムラビ法典のように、「目には目を、歯には歯を」という復讐法もありましたからね。ただ、今回の場合は死刑の種類よりも、むしろ方法が過酷であった、ということになりそうです。すなわち、誰が刑を執行したのか…。
JJSGさんへ
黒田裕樹 人間の本性は確かに恐ろしいものがあります。特に、独裁政治を行うものは、歯止めが利かないがゆえに、常識外のことを平気で行う傾向がありますからね。
今回の乱に至る経緯も、人間の強欲がもたらしたものであったともいえます。今回の場合は、それが戦後処理にも当てはまっているといえるでしょう。
紗那 あぁ、保元の乱ってこういう流れだったんですねー。
でも、武士に頼りすぎるのってよくないですっ。
結局、最終的に実験握られちゃいますもんね。
なんか、やっぱり強い者勝ちって感じです。
ここで死刑が復活ですか。伏線から長かったです!
紗那さんへ
黒田裕樹 > あぁ、保元の乱ってこういう流れだったんですねー。
そのとおりです。少し前フリが長すぎたかもしれませんが、ご理解いただければ幸いです。
> でも、武士に頼りすぎるのってよくないですっ。
> 結局、最終的に実験握られちゃいますもんね。
> なんか、やっぱり強い者勝ちって感じです。
そもそもの原因は、桓武天皇の時代に朝廷が軍隊を廃止してしまっていたので、争いごとがあれば武士を利用せざるを得なかったからなんですよね。ある意味では「自業自得」な一面もあると思います。
> ここで死刑が復活ですか。伏線から長かったです!
346年ぶりですからね。当時の人々は驚かれたことでしょう。
叔父を斬った平清盛はまだしも、この世に命を与え、育ててくれた恩人である父親に対して、自らの手でその首をはねなければならなかった源義朝の心中(しんちゅう)はいかばかりだったでしょうか。
一方、讃岐国(さぬきのくに)に流された崇徳上皇は、自らの行いを反省される意味も込めて、膨大(ぼうだい)な数の写経(しゃきょう)を行われました。写経を完成された崇徳上皇は、しかるべき寺に納めてほしいと願われ、経典(きょうてん)を都へと送られました。ところが、朝廷では「写経に呪(のろ)いが込められているのでは」と邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)して、無情にもそのまま送り返してしまいました。
朝廷のあまりにも冷たい仕打ちに崇徳上皇は激怒され、ご自身の指を食い破り(舌の先を噛み切った、ともいわれています)、流れ出た血で写された経典のすべてに「日本国の大魔王(だいまおう)となって、皇室を没落させて平民をこの国の王にしてやる」という呪いの言葉を書かれました。その後は髪もツメもヒゲも伸ばし放題のお姿となり、1164年に46歳で崩御されました。ご遺体が火葬(かそう)された際に、その煙が都の方角へ向かってたなびいていったという伝説が残されています。
崇徳上皇の崩御からわずか数年後には平民である武士が太政大臣(だじょうだいじん)となり、さらに30年弱の後には武士による本格的な政権が誕生し、朝廷が政治の実権を完全に失ってしまう事態となるなど、崇徳上皇がかけられた「呪い」は、やがては現実のものとなってしまったのでした。




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えめる ひどい方法を取ったものニャね……。
このときの権力者、勝者とは、実に心がすさんだものニャね。
崇徳上皇の無念、胸にせまるものがありますニャ……。
力を持った途端、人が変わるのは、人間の常ニャ。
でも、偉い立場だから何をしても許されるなんてこと、ないですよね。
本当に偉い人は、常に自分を戒めて生きているはずです。あ。なんだか聖徳太子を思い出した。
宝くじ当たったら。えめるも人が変わるのだろうか。
変わるのだろうか……。いいほうにかわるならいいね。
変なたとえでわからないこと言ってスミマセン。(^^
えめるさんへ
黒田裕樹 > ひどい方法を取ったものニャね……。
> このときの権力者、勝者とは、実に心がすさんだものニャね。
> 崇徳上皇の無念、胸にせまるものがありますニャ……。
死刑の執行を身内にやらせたのは「自分たちの手でけがれたことをしたくない」というわがままと武士に対する差別意識がありました。また、崇徳上皇のせっかくの経典を送り返したのも、呪いに対する恐怖感がありました。両方とも、いくら当時の事情があるとはとはいえ、やるせなさを感じる話ですね。
> 力を持った途端、人が変わるのは、人間の常ニャ。
> でも、偉い立場だから何をしても許されるなんてこと、ないですよね。
> 本当に偉い人は、常に自分を戒めて生きているはずです。あ。なんだか聖徳太子を思い出した。
私もそう思います。聖徳太子が後世の人間によって「聖人化」されたのも、個人の資質はともかく、裏表ない政策が評価されたからでしょう。
> 宝くじ当たったら。えめるも人が変わるのだろうか。
> 変わるのだろうか……。いいほうにかわるならいいね。
> 変なたとえでわからないこと言ってスミマセン。(^^
こればっかりは分かりませんが、働かなくなってしまって人生が暗転するいう話も聞きますので、精神力が強いほうがいいかもしれません(^^ゞ
ぴーち こんばんは!
おお!黒田さん、ご自分のイメージカラーにされましたね^^
今までも明るく活気があるテンプレでしたが、今回は
とっても落ち着いた雰囲気で、素敵です。
それにしても、今日のお話は、壮絶ですね^^;
崇徳上皇への仕打ちも、勿論酷いものですが、まるで「末法思想」そのもののような地獄絵図を連想させる末路だったんですね(><)
人の想念とは、命が絶たれる寸前に一番強い念となって、想いが残るそうですが、
そんな恨みの思いが、その後の政治に本当に影響していくなんて、
まさに「事実は小説より奇なり」・・。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > おお!黒田さん、ご自分のイメージカラーにされましたね^^
> 今までも明るく活気があるテンプレでしたが、今回は
> とっても落ち着いた雰囲気で、素敵です。
有難うございます、と言いたいのですが…(^^ゞ
実は変更した直後に「プラグイン非対応」や「コメントの題名が出ない」などという不具合が見つかりましたので、結局元に戻しました。ご了承くださいm(_ _)m
> それにしても、今日のお話は、壮絶ですね^^;
> 崇徳上皇への仕打ちも、勿論酷いものですが、まるで「末法思想」そのもののような地獄絵図を連想させる末路だったんですね(><)
> 人の想念とは、命が絶たれる寸前に一番強い念となって、想いが残るそうですが、
> そんな恨みの思いが、その後の政治に本当に影響していくなんて、
> まさに「事実は小説より奇なり」・・。
崇徳上皇のお立場からしてみれば、「そこまで自分をコケにするのか」という絶望感が、果てしないお怒りに転じられたのでしょう。元天皇というお立場の方に、そこまでの激しい感情を抱かせる時点で、平安末期の朝廷には為政者としての価値があったのか、と疑問に思わざるを得ません。
オバrev 平安時代とは言いながら権力争いは全然平安じゃありませんね。惨すぎて、いったいどのような心理状態だったのか想像もつきません。
保元の乱という名前は知っていましたが、そこでこれほどの骨肉の、惨い争いがあったとは驚きです。
しかし、これが歴史の事実なんですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 平安時代とは言いながら権力争いは全然平安じゃありませんね。惨すぎて、いったいどのような心理状態だったのか想像もつきません。
仰るように、現代に生きる私たちには想像を絶する世界ですよね。いくら価値観が違うとはいえ、まともな人間にできることとは思えないのですが…。
> 保元の乱という名前は知っていましたが、そこでこれほどの骨肉の、惨い争いがあったとは驚きです。
> しかし、これが歴史の事実なんですね。
冷徹ではありますが、そのとおりです。そして、この後の展開はさらにややこしくなっていくのです。
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なんと
JJSG 実の父親を自らの手で処刑させられるとは。。。
なんともむごい。
呪いによって、なにかが起こる、というのは完全な迷信です。
たとえ、それが現実のこととなったとしても、それが原因ではありません。
ここを間違えると、大変なことになります。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 実の父親を自らの手で処刑させられるとは。。。
> なんともむごい。
本当にそうですよね。源義朝の気持ちになってみると、一層のやるせなさを感じます。
> 呪いによって、なにかが起こる、というのは完全な迷信です。
> たとえ、それが現実のこととなったとしても、それが原因ではありません。
> ここを間違えると、大変なことになります。
現実は仰るとおりですし、現代に生きる私たちなら自覚できるかもしれませんが、当時の人々はそう考えていなかったのも事実です。それゆえに、崇徳上皇はこの後も「怨霊」として恐れられるようになります。
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一方、保元の乱の戦功によって、平清盛や源義朝にも恩賞が与えられましたが、北九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられて、中国の宋(そう)との貿易である日宋貿易(にっそうぼうえき)にかかわるようになり、経済的実力が高まった清盛に比べれば、義朝には十分な恩賞が与えられなかったばかりか、父である源為義を自らの手で処刑したことで、周囲から「父殺し」とさげすまれるなど、不満が高まっていました。
義朝は、同じように信西に不満を持っていた藤原信頼とやがて結びついて、1159年に清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけた隙(すき)をついてクーデターを起こし、後白河上皇や二条天皇を軟禁(なんきん、身体は自由にしておくが、外部との接触を許さない状態におくこと)したうえで、信西を追い込んで自害させることに成功しました。
しかし、急を聞いて京へ戻った清盛によって後白河上皇と二条天皇が脱出に成功されると、信頼や義朝は一転して賊軍(ぞくぐん)となり、清盛軍と戦って敗れた義朝は再起を期して逃亡し、逃げ切れないと思った信頼は後白河上皇を頼って自首しましたが、結局は処刑されました。この戦いを当時の年号から平治の乱(へいじのらん)といいます。




いつも有難うございます。
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JJSG こんばんは。
なんだか、とっても、なつかしいといいますか。
とっても、勉強になりました。
日本史は、苦手なんですけどね。
こうして、勉強すると、なんか、すごくわかりやすい。
JJSGさんへ
黒田裕樹 いつも励ましのお言葉をいただきまして有難うございます。
日本史が苦手と思われていらっしゃる方にも、是非私の講座でご理解いただければと常に感じております。今後ともよろしくお願いします。
後白河天皇との思い出
清家淳子 後白河天皇様。
試験の時、後を抜かし、白河天皇に早変わりさせてペケをくらいました思い出が…。
すごい嫌な思い出を思い出しました(Θ_Θ)
ここら辺は、何か歴史の中でも点数悪かったなぁ…。
自分が興味がないとなかなか覚えられない(*u_u)
だから興味津々な戦国時代は大好き(^O^)/
でも三十路越えすると忘れていく…
黒田先生の戦国時代のご講義の時には、更にど忘れしてそう…
清家淳子さんへ
黒田裕樹 > 試験の時、後を抜かし、白河天皇に早変わりさせてペケをくらいました思い出が…。
> すごい嫌な思い出を思い出しました(Θ_Θ)
確かに間違えやすいですね(^^ゞ
白河天皇と後白河天皇のご健在の時期が、100年ほどしか違わないことも、ややこしさに拍車をかけていると思います。
> ここら辺は、何か歴史の中でも点数悪かったなぁ…。
> 自分が興味がないとなかなか覚えられない(*u_u)
> だから興味津々な戦国時代は大好き(^O^)/
自分の得意分野というのは誰しもが持っているものです。ただ、歴史はすべてがつながっていますので、時代背景をつかむためにも、ある程度の理解はできたほうがいいですよ。そのための講座でもありますし(笑)。
> でも三十路越えすると忘れていく…
> 黒田先生の戦国時代のご講義の時には、更にど忘れしてそう…
四十路の私にできるんですから大丈夫ですよ(^o^)丿
紗妃ママ 義明かわいそうと思っちゃいました。
歴史って奥がものすごく深いんですね~
うちの父親が 歴史が大好きなのがよくわかります。
旦那さんも話しだしたら長いし、 これは一様に語れませんね。
それがおもしろいところなんですね♪
紗妃ママさんへ
黒田裕樹 清盛と比べれば出世はできず、進んでやったわけでもない「父殺し」の汚名を着せられ、クーデターを起こせば失敗する…。義朝は確かに気の毒でもありますね。しかも、逃亡したその後で…。
お父様も旦那様も歴史好きなんですね。それぞれに思われることがおありでしょうし、確かに話し出したら止まらないでしょうね。仰るとおり、それが歴史の面白さなんですよ。
紗那 やはり、権力握ると対立するのですか。藤原氏と変わりませんね。 変わったのは、武士が介入してることくらいですか。
でも、それが、今までとは全然違った感じになってます。
義朝さん、すごく不憫です。親殺しと言われても、自分がやりたくてやったわけでもないでしょうに・・・ クーデターも結局は失敗とは、悲しいことです。
確かにここまで平家との扱いが違うと、確執が起こるのも頷けますねー。
歴史は川の流れ
オバrev 保元の乱と平治の乱という名前だけしか覚えていませんが、欲と欲がぶつかり合う壮絶な争いがあったんですね。
そして武士である平氏が、いよいよ天下を取るわけですか。
その武士も突然ではなく時代の流れの中で必然的に台頭してきた。
こうしてじっくり歴史を教えていただいていると、事件や年号だけを覚えていた頃と違い、歴史は川の流れのように繋がっていて流れているものだと実感しますね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > やはり、権力握ると対立するのですか。藤原氏と変わりませんね。 変わったのは、武士が介入してることくらいですか。
> でも、それが、今までとは全然違った感じになってます。
確かにやることは同じですが、武士が直接かかわってきたことで、今後の展開が全く異なっていきます。彼らには自前の武力がありますからね。
> 義朝さん、すごく不憫です。親殺しと言われても、自分がやりたくてやったわけでもないでしょうに・・・ クーデターも結局は失敗とは、悲しいことです。
> 確かにここまで平家との扱いが違うと、確執が起こるのも頷けますねー。
上手くいかないときは、何をやっても上手くいかないものですね。ただ、この当時の平家と源氏とはただでさえ大きな差がありましたから(昇殿が許された平家と、乱を起こしてから落ち目の源氏)、仕方がない面もありました。それゆえに、クーデターを起こすという無理を通さざるを得なかった義朝の悲しさもあります。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 保元の乱と平治の乱という名前だけしか覚えていませんが、欲と欲がぶつかり合う壮絶な争いがあったんですね。
政治の実権をめぐっての、仰るような壮絶な争いでしたね。勝ち残ったのが誰かといいますと…。
> そして武士である平氏が、いよいよ天下を取るわけですか。
> その武士も突然ではなく時代の流れの中で必然的に台頭してきた。
> こうしてじっくり歴史を教えていただいていると、事件や年号だけを覚えていた頃と違い、歴史は川の流れのように繋がっていて流れているものだと実感しますね。
全く同感です。流れは着実に武士に向かっています。ただ、一度流れてそれで終わり、というほど単純でなかったのがまたミソなんですよね。いずれ明らかにできると思います。
義朝には多くの子がいましたが、平治の乱で戦死したり、あるいは捕らえられたりして壊滅(かいめつ)状態となりました。長男の源義平(みなもとのよしひら)も、父の最期を知ると平清盛を暗殺しようとしましたが果たせず、捕らえられて処刑されました。その他にも、三男で当時14歳だった源頼朝(みなもとのよりとも)や、九男でまだ赤ん坊だった源義経(みなもとのよしつね)らも捕らえられ、清盛の前に引き出されました。
選挙という民主的な手段がある現代とは違って、昔は政敵(せいてき)とみなされた人物は、本人のみならず、子供であろうが一族もろとも殺されるのが常(つね)でした。なぜなら、身内を殺されたことで残った恨みは消えることなく、当時の子供がそのまま大人になれば、復讐のために自分の生命を奪おうとするのが十分考えられたからです。
こうした原則から考えれば、清盛によって捕らえられた頼朝や義経らの運命も風前の灯(ふうぜんのともしび)であり、いつ殺されてもおかしくないはずでした。しかし、清盛は、結果として彼らを処刑することはありませんでした。なぜ清盛は頼朝や義経らの生命を助けたのでしょうか?




いつも有難うございます。
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馬人 >本人のみならず、子供であろうが一族もろとも殺される
なんてひどい!!
人権なんか関係なしの時代ですもんねorz
でも、どうして清盛が一族を殺さなかったのか気になります。。。
智里 うわ~、なんで殺さなかったんだろう?
いままでのクエスチョンの中で1番興味深いっすね。
この時義経を殺していたら、未来は全然違うものになったんだろうな~。
歴史の1ページが変わるくらいの出来事、すっごく気になります!!
馬人さんへ
黒田裕樹 人権という概念ができたのは早くても近世~近代ですからね。「力あるものが勝つ」世の中では仕方がないことだったんです。
清盛の謎については、明日以降に紹介できると思いますよ(^^♪
智里さんへ
黒田裕樹 半分がクエスチョン形式で終わるとんでもない講座(笑)ですが、やはりインパクトがありましたようですね(^^♪
頼朝も義経も殺せなかった理由。ヒントを挙げれば、政治の世界では「非情」も重要な要素の一つです。それができなければ…。
えめる ヒントもらってもわからニャイにゃー。
なんにせよ、利用価値があったから。どんな利用価値なのー?
そして、とってもひどいことなわけニャね?
あうーきになるきになるー。
次回を楽しみに待つニャ。
えめるさんへ
黒田裕樹 > ヒントもらってもわからニャイにゃー。
> なんにせよ、利用価値があったから。どんな利用価値なのー?
> そして、とってもひどいことなわけニャね?
「利用価値」ですか。上手いこと仰いますね(^^ゞ
どちらかはそのとおりで、結果もそのとおりかもしれません。
> あうーきになるきになるー。
> 次回を楽しみに待つニャ。
明日(24日)の正午までお待ちくださいm(_ _)m
刑事A 続きが気になります。
義朝をだましたのは誰かのお母さんじゃありませんでしたか?
管理人のみ閲覧できます
-
刑事Aさんへ
黒田裕樹 義朝を殺害したのは、家来であった長田忠致(おさだただむね)で、記事のとおり義朝が入浴中に、長田父子がだまし討ちで倒しています。
続きは明日(24日)にUPしますので、また是非お越しください。
あわれ
JJSG こんばんは。
あわれ、自因自果でござる。
歴史から学んだか。
清盛はどうするのか、明日を楽しみに。
しかし、前回のような理由で、頼朝をこのまま生かすことは危険極まりありません。清盛が無視して頼朝を処刑しようとしていることが分かると、池禅尼は「夫(清盛の父である平忠盛=たいらのただもり)が生きていれば、こんなつれないことは言わないだろうに」と泣き叫んだり、一説には断食(だんじき)まで始めたりするなど、清盛に対して激しく抗議しました。
こうなると、継母だけに実の母以上に押し切ることもままならず、清盛は仕方なく頼朝を生かして伊豆国(いずのくに、現在の静岡県の一部)へ流罪(るざい)としました。
一方、赤ん坊だった源義経(みなもとのよしつね)も、本来なら処刑されてもおかしくなかったのですが、こちらは義経の母であった常盤御前(ときわごぜん)が絶世(ぜっせい)の美女であったことで、常盤御前が清盛の愛人となることを条件に義経が助命された、と伝えられています。
いずれにせよ、この時に頼朝・義経兄弟を生かしてしまったことが、やがては平家の将来に暗い影を落とすことになるのですが、当時は日の出の勢いであった清盛が、そのことに気づくはずもありませんでした。




いつも有難うございます。
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華 お久しぶりです!
最近BLOG訪問できてなくて
すいません。
そしてコメとか拍手とかいつも
ありがとうございます∩^ω^∩
これからも頑張るのでよろしくお願いしますっ
華さんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです!
> 最近BLOG訪問できてなくて
> すいません。
お元気そうで良かったです(^o^)丿
大事な時期ですから仕方がないですよ。お気になさらないで下さいね。
> そしてコメとか拍手とかいつも
> ありがとうございます∩^ω^∩
> これからも頑張るのでよろしくお願いしますっ
後もう少しの辛抱ですからね。夢がかなうよう祈ってます。
ぴーち こんばんは!
いつの時代も、絶世の美女は、それだけで
命拾いをして来たんですね!
当時の美女というと、何となく、百人一首に登場するような
女性を思い浮かべてしまいますが、
その時代、時代に美人として生まれて来ることが出来るのも、その方が持つ運なのでしょうね!
昔、ある授業で先生が、ある女生徒がブス!と言われて
泣いていたのを取り上げて、説明してくださったことがありました。。
誰が言われたとは一切公言はしませんでしたが、
女性はキレイな順に
「佳人」「麗人」「美人」「バックシャン(後ろ姿美人)」「ブス」「鬼瓦」「夕日の鬼瓦」「7人3化け」「3人7化け」
に分類されるそうです。(その先生の説)
従って、「ブス」はキレイな順番からすると、5番目にあたるので、落ち込むことは無い。
その下には、お化けなんだか、人なんだか区別がつかないくらいの顔の人もいるし、夕陽に照らされた鬼瓦は、
格別に怖いんだそう・・・^^;
まあ、それが本当かどうかは、知りませんが、
その先生の生徒への愛情だけは、私達にも伝わりました^^
私も・・・・良かったww(?)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 (こんなこと書いたら男女同権推進者に怒られそうですが)「女性の武器」はいつの時代も健在のようですね。一説によれば、義経だけでなく、母親の命を助けるためでもあったらしいです。
美女の概念は昔と今では違いますし、ましてや個人の好みの問題でもありますから、一概には言えませんからね。
私の好みは…そんな贅沢は言えません(笑)。
そうであったか
JJSG こんばんは。
そうだったんですねぇ。。。
助ける動機が不純ですな(笑)
もっと、真剣でマジメで、あたたかな気持ちから助けたならば、結果はまた変わっていたかも。
こみー 久しぶりのコメントですね(^_^;)
歴史ってなんかすごいですね。。。
最初の方見てたら、
「やっぱ母の力ってすごいな~」
って思ってたんですけど、後に
この母の力によって平家が衰退?していくなんて・・・
面白いような恐ろしいような、です(>_<)
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 助ける動機が不純ですな(笑)
確かに頼朝の場合はともかく、伝えられている義経の場合の動機はあまり好ましくないですね(^^ゞ
> もっと、真剣でマジメで、あたたかな気持ちから助けたならば、結果はまた変わっていたかも。
その可能性もありますが、父や兄を殺されていますからね。「憎しみの連鎖(れんさ)」がどこで止まってくれるのかにもよるかもしれません。
こみーさんへ
黒田裕樹 > 久しぶりのコメントですね(^_^;)
そうですね(笑)。まぁ毎日のようにブログを行き来していますけど(^^ゞ
> 歴史ってなんかすごいですね。。。
> 最初の方見てたら、
> 「やっぱ母の力ってすごいな~」
> って思ってたんですけど、後に
> この母の力によって平家が衰退?していくなんて・・・
> 面白いような恐ろしいような、です(>_<)
母の力にはやっぱり逆らえませんよね。でもその「甘さ」が平家の命取りになるんですから、確かに「面白いような恐ろしいような」だと思います。
miwa 歴史の陰に女性あり。いつの世も同じですね^^
どんな権力がある武将でも、お母さんには逆らえなかったり、綺麗な女性には甘かったり。
昔はしもぶくれの顔が美人の定義だったそうですが、
常盤御前はどんな美女だったのでしょう。見てみたい。
miwaさんへ
黒田裕樹 > 歴史の陰に女性あり。いつの世も同じですね^^
> どんな権力がある武将でも、お母さんには逆らえなかったり、綺麗な女性には甘かったり。
全くそのとおりですね。いつの時代も男性は女性に弱いようで(笑)。
> 昔はしもぶくれの顔が美人の定義だったそうですが、
> 常盤御前はどんな美女だったのでしょう。見てみたい。
この頃もおそらく「おかめ」顔が主流だったでしょうからね。しかし、子供を何人も産んだ女性が愛人になるんですから、ある意味たくましくもあります。