清和源氏は、10世紀前半の武将で藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の鎮圧(ちんあつ)に参加して名をあげた源経基(みなもとのつねもと)が始祖(しそ)とされています。経基の子である源満仲(みなもとのみつなか)は摂津国多田(せっつのくにただ、現在の兵庫県川西市多田)に土着(どちゃく)していましたが、969年に起きた安和の変(あんなのへん)で謀反(むほん)を密告して、源高明(みなもとのたかあきら)を失脚(しっきゃく)させた功績によって摂関家に接近しました。
源満仲の子のうち、源頼光(みなもとのよりみつ)は各地の国司(こくし、別名を受領=ずりょう)を歴任し、その際に蓄(たくわ)えた財産を利用して藤原道長(ふじわらのみちなが)の側近として仕えることによって、武家の棟梁(とうりょう)としての地位を高めました。
そして、頼光の弟にあたるのが、平忠常の乱を鎮圧した源頼信でした。忠常の反乱によって平氏の勢力が衰えた一方で、源氏は頼信の活躍によって、東国における勢力を広げるきっかけをつくったのでした。
平安時代の後半から武士が少しずつ実力を蓄(たくわ)え、東国をはじめとして各地で勢力を広げていったわけですが、これらは突然に起こったのではなく、今回紹介したように、様々な出来事が重なりあって自然と拡大していったのです。こんなところでも、歴史の流れを実感することができますね。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
冒頭のお名前を拝見して
心臓がピくっとしてしまいました(汗、汗
そうですね、、何ごともある日突然起こると言う事ではなく、潜水艇のように、海面下で着々と進んでいた事柄が
たまたま海面上に浮上しただけの事だと思いますね。。
私の歴史音痴も、今、始まった事ではないということでもありますw
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 冒頭のお名前を拝見して
> 心臓がピくっとしてしまいました(汗、汗
平将門ですね。首塚伝説は21世紀の現代でも残っているかもしれませんよ(恐)。
> そうですね、、何ごともある日突然起こると言う事ではなく、潜水艇のように、海面下で着々と進んでいた事柄が
> たまたま海面上に浮上しただけの事だと思いますね。。
そういうことです。武士は突然変異のように現れたわけでも、貴族から政治の実権を奪ったわけでもないんです。今回からはそういった流れをたどっていくことになるかもしれません。
> 私の歴史音痴も、今、始まった事ではないということでもありますw
それはこれからの流れで改善していきましょう(笑)。
佐佐木あつし こんにちは
いつも楽しく拝見させていただいてます。
いよいよ武士の台頭ですね。昨今の
歴史ファンにとっては
待ってましたと言わんばかりの事でしょう(笑)
佐佐木的には貴族文化がどのように武士や
庶民に広がっていったのか、
食べ物一つでも
源氏と平氏でご飯の盛り方まで違ってた気がしたんですが、
そういった文化の流れなどにも
興味をひかれます。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます(^o^)丿
そうですね。武士の台頭や活躍というのは、何かしら人々の心を動かすようです。閉塞感(へいそくかん)漂(ただよ)う世の中を変革したいと言う気持ちのあらわれでしょうか。
武家社会の文化についても、いずれは紹介できる機会があると思います。
こうした豊富な経済力に支えられて、東北地方では現在の太平洋側を安倍氏(あべし)が、日本海側を清原氏(きよはらし)が地方豪族として支配し、その力は次第に強大になっていきました。
1051年、安倍氏の棟梁(とうりょう)であった安倍頼時(あべのよりとき)が反乱を起こしました。朝廷では源頼信(みなもとのよりのぶ)の子である源頼義(みなもとのよりよし)を陸奥守(むつのかみ)・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任じて、頼義の子である源義家(みなもとのよしいえ)とともに鎮圧(ちんあつ)を命じましたが、当初は朝廷側についていた、平将門(たいらのまさかど)を滅ぼした藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫とされる藤原経清(ふじわらのつねきよ)の寝返りもあって朝廷側は苦戦し、戦いは長期化しました。
源頼義は同じ陸奥の豪族である清原氏に協力を求めると、清原氏がこれに応じたことで戦局は一変し、1062年に安倍氏や藤原経清が滅ぼされて、戦いは終結しました。1051年から1062年まで続いた安倍氏による一連の反乱は、前九年の役(ぜんくねんのえき)と呼ばれています。
反乱の後、安倍氏の領地は清原氏に与えられ、清原氏が事実上の東北地方(陸奥)の覇者(はしゃ)となりました。尚、滅ぼされた安倍氏の中で流罪(るざい)となり、生き残った安倍宗任(あべのむねとう)の子孫が九州で松浦党(まつらとう)と呼ばれる武士団として活躍したと伝えられ、その血脈は現代にまで残り、21世紀には内閣総理大臣にまで登りつめました。
安倍晋三(あべしんぞう)衆議院議員のことです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
JJSG こんにちは。
安倍さんの先祖には、そんな歴史があったのかぁ。
私が今、存在しているということは、両親があり、そのまた両親があり、そのまた両親があり、・・・・、とさかのぼっていくと、2の乗数で増えていき、ものすごい数になります。
その中の一人でも欠けたら、私は存在していない。
そう考えると、私が生まれた、という事実は、ものすごい確率です。
先祖とは、有り難いことです。
活躍の有無にかかわらず、存在したことそのものが、すごいことです。
JJSGさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、数え切れないほどの先祖の方々の存在のもとに私たちが成り立っているんですよね。
こうしたエピソードひとつにも考えさせられることが多いですし、また生命の大切さを改めて思い知らされます。
日本列島は・・・
オバrev へ~ぇ、安倍晋三は前9年の役の安部氏の子孫だったんですね。フィギアスケートの織田信成も織田信長の子孫らしいし、現代の我々は、遙か昔の先祖からそのタスキを受け継いできて存在していることを改めて思います。
鳩山総理は「日本列島は日本人だけのものではない」と言ったけど、そうではなくて「日本列島は現代に生きる日本人だけのものではない」と言った方がいいんじゃないでしょうか。
即ち「日本を独立国家として守り、現在の経済的に豊かな国をつくりあげてきた、過去の我々の先祖のものでもあるし、未来の子供達のものでもある」
それにしても、前9年の役といいながら、1051年から1062年までとなっていますが、前11年の役とは呼ばないんですね(^^;)?
紗那 武士さん・・・!
待ちわびましたよ、将門さん。
前九年の役の流れは大丈夫だ。
でも、安倍晋三は、知らなかったです。ちゃんとした出自があったんだ・・・!
もう、武士さんわっふーです(ぇ
そういえば、今国語で「奥の細道」をやっています。
ちょうど奥州藤原氏の平泉も出てきたりして、楽しかったです。
お久しぶりです
h.hamauzu こんにちは!
末裔があれでは・・・
先祖も成仏できませんね!
ではでは
miwa すごいですね!!
家系図を残す事の重要さをあらためて考えさせられました。
誰かが書いて、それを残そうと意図しなければ、続かないものです。
ご先祖様が何代にも渡って保存しようという意思を持ち続けていなければ、存在しなかったのですよね。
何も書いていなければただの紙切れです。そこに筆をおけば、昔の人と手をつなぐ事が出来るのですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 鳩山総理は「日本列島は日本人だけのものではない」と言ったけど、そうではなくて「日本列島は現代に生きる日本人だけのものではない」と言った方がいいんじゃないでしょうか。
> 即ち「日本を独立国家として守り、現在の経済的に豊かな国をつくりあげてきた、過去の我々の先祖のものでもあるし、未来の子供達のものでもある」
オバrevさんのお言葉の方が鳩山首相よりも名言ですね。
安倍元首相や織田選手のように、血のつながり、すなわち先祖とのつながりを意識しながら、次代にそれを伝えていくことこそが我々に課せられた課題であり、義務なのでしょう。
> それにしても、前9年の役といいながら、1051年から1062年までとなっていますが、前11年の役とは呼ばないんですね(^^;)?
これについては、もう一つの戦いと一緒に考察してみたいと思います。
紗那さんへ
黒田裕樹 武士の本格的な登場に大喜びの紗那さんの表情が目に浮かぶようですね(^^♪
> そういえば、今国語で「奥の細道」をやっています。
> ちょうど奥州藤原氏の平泉も出てきたりして、楽しかったです。
「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」ですね。
奥州藤原氏についても近いうちに取り上げますよ。
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しておりますm(_ _)m
仰るとおり、2年前の参議院選挙における自民党の大敗時の首相ですから、責任は重大であると思います。まだ50代と若いので、復権の可能性があるのなら是非とも返り咲いて、今度こそ我が国のみならず、ご先祖のためにも頑張って欲しいものですね。
miwaさんへ
黒田裕樹 家系図については出自があやしいものがあるのは確かですが、我々と先祖とを結びつける大事なものですからね。我が国を護ろうとした先祖の息遣いや苦悩が見える気がします。
私たちもいずれは「先祖」になるわけですから、子孫に対して恥ずかしくない生き方を心掛けたいものですね。
武貞には既に嫡子(ちゃくし、跡継ぎ=あとつぎのこと)である清原真衡(きよはらのさねひら)がいましたが、未亡人と藤原経清との間の連れ子である清原清衡(きよはらのきよひら)を養子とし、また未亡人との間に清原家衡(きよはらのいえひら)が生まれました。武貞の子はいずれも父親もしくは母親が異なるという複雑な関係となり、兄弟同士の不仲をもたらしました。
こうした兄弟同士の不仲が、やがて清原氏の内紛(ないふん)を引き起こし、ついには兄弟同士で大きな戦乱になってしまいました。1083年から1087年まで続いたこの戦いのことを、後三年の役(ごさんねんのえき)といいます。さて、この内紛に乗じて源氏による陸奥の支配を目指した源義家(みなもとのよしいえ)は、朝廷から陸奥守(むつのかみ)を拝命(はいめい、官職を受けること)して後三年の役に積極的にかかわりました。
戦いは1087年に藤原経清の遺児(いじ)である清原清衡が勝利して終わりましたが、言わば清原氏の私闘(しとう)に参加しただけの源義家には朝廷から何の恩賞も与えられず、陸奥守の官職も1088年に辞めさせられました。
途方に暮れた義家は、自腹を切って部下に恩賞を与えましたが、皮肉にもこのことで義家は東国の武士たちの心をとらえ、源氏を棟梁と仰(あお)ぐ深い信頼関係が生まれました。
尚、前九年の役は11年、後三年の役は4年続いているのになぜ「九年」「三年」と名づけられているかについては、様々な説が挙げられていますが、正確には分かっていません。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
JJSG こんばんは。
歴史は、やっぱりくり返されてますね。
人間関係模様は、細かいことを抜きにして、抜本的には、同じようなことで争ったり、くっついたり、してる。
現代になっても、さほど変わりませんね。
人間とは、学習能力のない生き物なのかもしれません。
いや、学習はしているけれども、どうにもならない業を持っているということなのでしょうねぇ。
わかっちゃいるけど、やめられない。
そういうことなのでしょう。
やられました
オバrev なんと後三年の役に勝利したのは、藤原氏か!って摂関家とは違う藤原氏ですか?
>尚、前九年の役は11年、後三年の役は4年続い>ているのになぜ「九年」「三年」と名づけられているか>については・・・
おぉ、いよいよその訳が、キタ━━━☆。:+ヾ(*゚∀゚*)ノ+:。☆━━━ッ!
>様々な説が挙げられていますが、正確には分かっていません
☆ミ( ノ_ _)ノ=3 ドテッ!!・・・ヤラレマシタ
JJSGさんへ
黒田裕樹 確かに、同じことを繰り返すのが、人間の業なのかもしれませんね。
人が複数いれば、争いが起きる。人類の歴史はこの繰り返しといってもいいでしょう。
ただ、そんな中、少しでも前を向いていける道しるべが存在するのであれば―。
歴史教育が、その助けの一つになるかもしれません。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なんと後三年の役に勝利したのは、藤原氏か!って摂関家とは違う藤原氏ですか?
藤原秀郷の血を引いているとされていますから、摂関家とはかなり縁遠い藤原氏といって差し支えないでしょう。歴史のややこしいところでもありますが(^^ゞ
> >様々な説が挙げられていますが、正確には分かっていません
>
> ☆ミ( ノ_ _)ノ=3 ドテッ!!・・・ヤラレマシタ
期待させてすみません(´・ω・`)
実際に様々な説があるんですが、これといった決定的なのがまだ出ていないんですよね。
紗那 あ、勘違いしてました。
後三年は単なるお家騒動だったんですね。
なんかまた、清原氏が反乱したんだ、と勝手に思い込んでました・・・ 先入観怖いです。
源義家が、慕われたのは「怪我の功名」というやつでしょうか。違うか。そうですか←
でも、自腹を切って恩賞とはすばらしい人物ですねー。
やはり、前九年と後三年の命名の由来は不明ですか。
紗那さんへ
黒田裕樹 > あ、勘違いしてました。
> 後三年は単なるお家騒動だったんですね。
> なんかまた、清原氏が反乱したんだ、と勝手に思い込んでました・・・ 先入観怖いです。
そうですね。「この事件はこれが原因だろう」「こういう話を聞いたことがある」と思い込んだ場合、それが間違った知識であれば要注意です。講座を開設している私も気をつけなければいけません。
> 源義家が、慕われたのは「怪我の功名」というやつでしょうか。違うか。そうですか←
> でも、自腹を切って恩賞とはすばらしい人物ですねー。
義家としては完全に「思惑が外れた」格好になりましたからね。でも結果としてそれで源氏が慕われる訳ですから、何が幸いするか分かりません。ここは「怪我の功名」でいいと思いますよ。
> やはり、前九年と後三年の命名の由来は不明ですか。
残念ながら、これといった有力な説がないんですよね。おそらくは年数を読み間違えたのがそのまま定着したような気がしますが…。ただ、年数が違うことで、かえって覚えやすいような気がします。
馬人 「きよはらのきよひら」って面白い名前だt(ry
「三年」とか「九年」の語源って気になります…。
正確にはわかってないんですか^^;
馬人さんへ
黒田裕樹 > 「きよはらのきよひら」って面白い名前だt(ry
たしかに「きよ」が二つ続きますからね。もっとも、今日(17日)の更新にあるように、この名前は後三年の役の後に藤原姓に戻してしまうんですが、この理由って、ひょっとしたら「きよ」が二つ続くのが嫌だったからとか(笑)。あ、もちろん冗談ですよ(^^♪
> 「三年」とか「九年」の語源って気になります…。
> 正確にはわかってないんですか^^;
色んな理由があるんですよ。例えば、前九年の役が1051年から62年まで足掛け12年なんですが、これを「前九年」「後三年」と分けてしまっているとかですね。
藤原清衡(ふじわらのきよひら)は奥州(おうしゅう)の平泉(ひらいずみ、現在の岩手県平泉町)を本拠地として陸奥を完全に手中に収め、清衡の子である藤原基衡(ふじわらのもとひら)、さらに基衡の子である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の三代、約100年にわたって奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)が全盛を極める礎(いしずえ)を築きました。
さて、平忠常(たいらのただつね)による反乱以来ふるわなかった平氏でしたが、桓武平氏(かんむへいし)の流れをくむ伊勢平氏(いせへいし)が次第に頭角を現しました。源義家の子である源義親(みなもとのよしちか)が1107年に出雲(いずも、現在の島根県東部)で反乱を起こした際に、義親を滅ぼした平正盛(たいらのまさもり)は、白河法皇(しらかわほうおう)の厚い信頼を受けて北面の武士として登用され、正盛の子の平忠盛(たいらのただもり)も瀬戸内海の海賊を討ったことで鳥羽法皇(とばほうおう)に信頼され、武士として初めて昇殿(しょうでん、朝廷の内部深く入ること)を許されました。
忠盛が主として西国を中心に多くの武士を従えて、平氏が繁栄(はんえい)する基礎をつくった一方で、源義親の乱が起きてからの源氏の勢力は衰えを見せ始めていました。こうした背景の中で、二つの大きな事件が起きたことによって、昇殿を許されるまで成長した武士の実力が天下に示されることになるのでした。




いつも有難うございます。
トラックバック(1) |
urbanarrows いつもいつも来てくださり本当にありがとうございます。
僕のようなお粗末ブログを読んでくださりまして…
読みぐるところが多々ありますがお許しください。
僕も時折お邪魔してまとめて拝見させていただく事が
あります。いつもわかりやすく書かれてて関心します。
これからもお邪魔させていただきます。
urbanarrowsさんへ
黒田裕樹 いえいえ、こちらこそ「読み専」状態で申し訳なく思っております。
お言葉有難うございます。これからもよろしくお願いします(^^♪
むずかしい~
JJSG 難しくて、難しくて、楽しくないです。。。
JJSGさんへ
黒田裕樹 申し訳ありませんm(_ _)m
歴史の講座は、時としてはどうしても事実を並べるだけの場合もあります。また、次回の新たな展開に繋ぐために、あえて謎かけで残すこともありますので、次回以降をお読みになってご理解いただくこともありまので、ご容赦いただければと思います。