ご即位の際に35歳と働き盛りであられた後三条天皇は、学問好きで個性の強い性格をお持ちであり、天皇自らが意欲的に政治の刷新(さっしん)を行われました。
後三条天皇は、摂関家の勢いに歯止めを掛けるには、彼らの財産である荘園を押さえることが一番の近道とお考えになり、1069年に延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を出され、まず1045年以降に新たにつくられた荘園を全面的に停止しました。
また、学者の大江匡房(おおえのまさふさ)らを起用して記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)を設置されました。記録荘園券契所ではすべての荘園の券契(けんけい、いわゆる権利書のこと)を調査し、書類上不備があったり、国政上の妨(さまた)げとみなされたりした荘園もすべて停止処分にされました。ちなみに、停止された荘園は国衙領(こくがりょう)として国の領有とされました。
延久の荘園整理令は、摂関家や寺社が所有する荘園にも例外なく適用され、かなりの成果を挙げました。尚、延久の荘園整理令は、醍醐天皇(だいごてんのう)によって出された902年の延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)と非常に紛(まぎ)らわしいので注意が必要です。




いつも有難うございます。
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えめる せんせい。
平成の荘園整理令も、必要ですよね。
これ、国民のほとんどが願うんじゃニャいでしょうかニャ。
あ。えめるネコだけどーっ。
えめるさんへ
黒田裕樹 確かに不条理なことが多い世の中です。正当な手段ならともかく、不正に蓄財している人々に対する視線は厳しくなる一方ですからね。
今の内閣にできるでしょうか…。
藤原氏の巻き返しは?
オバrev あれだけの栄華を誇った藤原氏も、娘が皇子を生まなかっただけでこうなるんですね。一寸先はわかりませんねぇ。
しかし後三条天皇の即位に向けて、藤原氏の抵抗はかなりあったんじゃないでしょうか。それでも後三条天皇が即位されたのは、それだけ藤原氏への不満が貯まっていたということですかね。
でも今まで幾度となく蘇った藤原氏の巻き返しもありそうな気がしますが、何となくこのあたりから藤原氏の印象がほとんどないんですよ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 外戚というのは、皇子が生まれなければ成り立たないんですよ。ただ、藤原頼通の娘に皇子が誕生しなかったのは、永年の外戚関係で藤原氏の血が濃すぎたせいもあるのではと思います(専門家ではないので推量ですが)。
藤原氏の抵抗は確かにあったと考えられます。なぜなら後三条天皇が、35歳という当時ではかなり高い年齢でご即位されたということは、それまで藤原氏がご即位に「待った」をかけていたと思われるからです。
藤原氏は今回も巻き返せるのでしょうか?
カギを握るのは「摂関政治を陰から支える基盤」ですね。
ぴーち こんばんは!
後を継ぐ者が出来ないというのは、お家断絶の危機ですものね。今も昔も、一番肝心な事だと思います。
延喜の荘園整理令・・。確かに、混乱しそうなくらい良く似ている言葉ですね^^
私には、そういう言葉があった事自体、知り得ませんでしたから(笑)世の中には、こういう人間も一応は居ると言う事で(恥)
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。あれだけ栄華を誇った摂関政治も、藤原氏の血を引く皇子が誕生しなかっただけで崩壊の危機を迎えてしまう…。いつの世も後継者というのは重要です。
「延喜」と「延久」。一文字しか違いませんからね。うろ覚えだと必ずといっていいほど間違えます。その点、ぴーちさんは今回が初めてですから、あっさりと理解されたことと思います(^_^)v
marihime 黒田さんこんばんは☆
毎日綱吉の記事を楽しみに読ませていただいておりましたが、中途で仕事に追われることになりお邪魔できなくなってしまいました。
今日、続きを読ませていただきましたが、終わりの部分が少し物足りなく思いました。
綱吉の政策を六代将軍家宣から八代将軍吉宗の時代に完全にひっくり返し、庶民の暮らしをさらに悪化させる原因を作った徳川幕府中枢の実権を牛耳っていた輩にも焦点を当ててもらえたらよかったなと思います。
綱吉の後継六代将軍選びにも焦点を当てていただけたらもっと良かったような``r(^^;)
新井白石と対立した林羅山の孫林 鳳岡のことにふれられなかったことがが少し残念です。
marihimeさんへ
黒田裕樹 いつも有難うございます。
綱吉公の講座については、治世の間の説明に時間をかけすぎて、最後に時間がなくなってしまった感があるのは否めませんので、次の吉宗の講座で少しでも紹介できればと思っております。
1073年に即位された、後三条天皇の子である第72代の白河天皇(しらかわてんのう)も、引き続き天皇による親政(しんせい)を行われましたが、1086年に、白河天皇は8歳と幼い実子の善仁親王(たるひとしんのう)に突然譲位されました。そして、即位された第73代の堀河天皇(ほりかわてんのう)を後見されるという名目で、新たに白河上皇(しらかわじょうこう)として政治の実権を握られたのでした。
こうして、それまでの摂関家にかわって、天皇の父(あるいは祖父)が上皇として天皇を後見する制度が新たに誕生しました。上皇の住居が院(いん)と呼ばれ、その後に上皇自身が「院」と称されることになったことから、この制度のことを院政(いんせい)といいます。
院政は、荘園整理の断行によって国司(別名を受領=ずりょう)や、それまで摂関家に半強制的に支配されていた地方豪族や開発領主(かいはつりょうしゅ)たちに歓迎され、彼らを支持勢力に取り込むことによって、荘園という経済的基盤が減少した摂関家の勢力を抑え込むことに成功しました。




いつも有難うございます。
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馬人 上皇の住居が院といったから「院政」!
そんなところまで知りませんでした^^;
それにしても住居の名前が上皇の名前として付けられるって不思議です…。
うーん。といっても上皇の別名が「院」というだけだからそんなに珍しくもないのかなw
馬人さんへ
黒田裕樹 ご住居の名前がそのまま称号になる、というのは珍しくないですよ。例えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれていましたから。
院政の間に上皇が何度か交代されていますから、この方が呼びやすいかもしれませんね。
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marihime こんばんは☆
お邪魔するたび無意識にポチしてましたが、たくさんポチしてくれる人があるんですねσ(゚ー^*)
私は無頓着で気にもとめなかったんだけど、今日しげしげと見たら急降下してました(⌒▽⌒)アハハ!
黒田さんは上位キープで応援のしがいがあります。
ポチしときますね(*^_^*)
marihimeさんへ
黒田裕樹 いつも応援有難うございます(^o^)丿
marihimeさんのように、ご訪問のたびにポチ下さる皆様のご協力が、この上ない励みにもなっております。今後も「相互ポチ(?)」でお互いのブログを盛り上げていきましょう!(^_^)v
藤原氏を研究していた?
オバrev 後三条天皇や白河天皇は、昔の藤原氏をよく研究していたのかもしれませんね。
経営基盤をしっかりさせていくあたりも、なかなかのやり手だと思います。
また、白河天皇が8才の実子に譲位して、上皇として院政を始めたのも、藤原氏を参考にしたような気もしますがいかがでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 後三条天皇や白河天皇は、昔の藤原氏をよく研究していたのかもしれませんね。
> 経営基盤をしっかりさせていくあたりも、なかなかのやり手だと思います。
> また、白河天皇が8才の実子に譲位して、上皇として院政を始めたのも、藤原氏を参考にしたような気もしますがいかがでしょうか。
仰るとおりだと考えられます。藤原氏によって政治の実権を事実上奪われてきた皇室の巻き返しといったところでしょうか。大げさかもしれませんが、「敵に学ぶ」ことは今も昔もそう変わらないと思います。
経済基盤については、今後の更新でもう少し詳しく説明していくことになります。
紗那 升といえば、秀吉さんは、ますの大きさを変えることで年貢を多く取ったんですよね。 なんかつながってます。
親政?なんか初めて聞いた気がする・・・・
藤原氏の時代はここで終了ですかね?まぁ、そろそろ世代交代してくれないと面白くないですし←
武士!武士がry
紗那さんへ
黒田裕樹 > 升といえば、秀吉さんは、ますの大きさを変えることで年貢を多く取ったんですよね。 なんかつながってます。
そのとおりです。枡の大きさを「京枡(きょうます)」に統一した際に、一反(いったん、約1アール)をそれまでの360歩(ぶ)から300歩に変えました。理由としては増収のためと、技術の進歩で米の生産量が上がったためという二つが考えられています。
全国各地で枡の大きさがバラバラだったら不公平ですからね。後三条天皇も豊臣秀吉も、為政者は考えることが同じというわけです。
> 親政?なんか初めて聞いた気がする・・・・
約2ヶ月前に醍醐天皇による親政を紹介していますので、参考にして下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-219.html
> 藤原氏の時代はここで終了ですかね?まぁ、そろそろ世代交代してくれないと面白くないですし←
> 武士!武士がry
確かに「武士の世の中」が近づいていますが、もう少し時間がかかりますよ。決してじらしているのではなく(笑)、色々と説明することがありますので…(^^ゞ
お久しぶりです
徳薙零己 前九年の役終結から藤原師通の死去までの30年間の院政成立までの過程をまとめた「次に来るもの」の公開がやっと終わりました。
藤原師通の死去から白河法皇の逝去までの28年間の白河院政についての公開をを今月からはじめましたので宣伝までに。
院政のもとでは、上皇からの命令を伝える院宣(いんぜん)や、院庁から発せられる公文書(こうぶんしょ)である院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)が国政に対して大きな影響力を持つようになりました。
また、白河上皇は直属の警備機関として北面の武士(ほくめんのぶし)を組織されました。北面の武士については、9世紀末の滝口の武士(たきぐちのぶし)や、13世紀の西面の武士(さいめんのぶし)と間違えやすいので注意が必要です。
ところで、上皇が天皇を後見されるというのは、制度化されていた摂政や関白と異なってあくまで私的なものでしたが、その分、法や慣例にこだわらずに上皇がフリーハンドな立場で政治を行えるという利点がありました。院政は、白河上皇が43年間続けた後にも、鳥羽上皇(とばじょうこう)が27年、後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が32年と、合計約100年間という長期にわたって続けられ、これらは院政時代(いんせいじだい)と呼ばれました。




いつも有難うございます。
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東洋劇場 こんにちは!
いつも『なるほど~』とか『そうやったね~』なんて
思いながら読ませていただいてます。
最近は読み逃げばかりしておりました。m(__)m
またお邪魔します。
甍 初めて書き込みを致します。
漢字にふりがなを振って下さるのが助かります。
歴史上の文物は読み方が現代と大分違っていますので、先生の文を音読しますと語彙が確かになると思っています。
marihime ゴメンなさい・・・(´_`illi)
今日はポチ逃げです。
馬人 白河上皇は手下(?)っぽいのを使ってたんですね~
って、上皇って何でしょうか…^^;
東洋劇場さんへ
黒田裕樹 有難うございます(^o^)丿
いえいえ、足跡でいつも確認させていただいております。
こちらこそあまりコメントできずに申し訳ありませんm(_ _)m
甍さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
日本史の場合はどうしても難しい漢字が登場しますので、便宜上ふりがなを振っております…私が読めない、というのもありますが(笑)。
今後ともよろしくお願いします。
marihimeさんへ
黒田裕樹 いえいえ、ポチ下さって有難うございます(^_^)v
こちらからもお邪魔しますね。
馬人さんへ
黒田裕樹 > 白河上皇は手下(?)っぽいのを使ってたんですね~
そうですね。一人ではなかなか政治ができませんから、優秀な部下にある程度任せるのは良くある話です。
> って、上皇って何でしょうか…^^;
上皇(じょうこう)とは、退位された天皇のことをいいます。尚、正式な名称は「太上天皇(だいじょうてんのう)」です。
下の記事にも書いていますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-177.html
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院政
JJSG まさに、淫政、隠政の時代だったかと。。。
院政が盛んとなった頃には、皇族や上級貴族に一国の知行(ちぎょう、領地を支配すること)を任せて、そこから収益を得る知行国(ちぎょうこく)の制度や、院自身が知行国を支配する院分国(いんぶんこく)の制度が広まりました。国の領地である国衙領(こくがりょう)は、次第に院や知行国主(ちぎょうこくしゅ)、あるいは国司の私領と化して、院政を支える経済的基盤となりました。
また、かつては摂関家に集中していた寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)が、新たに政治の実権を握った院に集中し、不入(ふにゅう)の権に警察権の排除も含まれるなど、不輸(ふゆ)や不入の特権が強化されることによって、荘園の独立性が強まりました。
一方、院と同様に荘園の寄進が集中した大寺院では、自衛のために下級僧侶(そうりょ)や荘園の農民を僧兵(そうへい)として組織しました。大寺院では僧兵を使用して国司と争い、また自らの要求を通すために、奈良の興福寺(こうふくじ)では春日大社(かすがたいしゃ)の神木(しんぼく、神社の境内に植えられた神聖な木のこと)を、比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)では日吉大社(ひよしたいしゃ)の神輿(しんよ、神社の祭礼に使用する「みこし」のこと)を先頭に立てて京都へ乱入し、朝廷へ強訴(ごうそ)することもありました。
朝廷は自前の軍隊を持っていなかったので、これらの圧力に対抗するために源氏や平氏といった武士を用いて警護や鎮圧にあたらせましたが、このことがやがて武士の中央政界への進出をもたらすことになりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
源氏と平氏はここ辺りから、登場したんですか・・
いつも勉強になりますm(_)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 源氏と平氏はここ辺りから、登場したんですか・・
そうですね。院政が始まる頃には源氏も平氏も歴史の表舞台にはっきりと登場していました。このあたりの話はもうすぐ講座でも紹介できると思いますよ(^o^)丿
> いつも勉強になりますm(_)m
有難うございます(^o^)丿
いつものお言葉、そのたびに励みになります。
ケンシロウ こんにちは。
(‥ )ン?と思いながら
不輸を不倫と読んだおいらは
完全に負け組みだと自覚しましたw
黒田裕樹さんへ
りら 始めましてりらです。私はかねてより、院政をなぜするのか不思議でした。天皇のままでいれば良いのに退位して、天皇の位を譲りながら、権力を持ち続ける、その意味が黒田さんの説明で理解できました。ありがとうございました。「歴史は面白い」ですよね。これからも宜しくお願いします。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 不輸を不倫と読んだおいらは
その発想は全く存在しませんでした(笑)。
不輸の権も不入の権も、荘園が繁栄する原因となった大事な権利ですので、今回を機会に是非理解なさって下さいね(^o^)丿
りらさんへ
黒田裕樹 こちらこそはじめまして。ご訪問ならびにお言葉、有難うございます。
仰るとおり、院政は一見なぜ行われたのか理由をつかみにくい政治制度です。しかし、摂関家によって奪われた政治の実権を取り戻すため、まず彼らの経済的基盤である荘園を整理令を出して奪い、続いて「天皇の父」という権威を利用し、新たに開発領主たちの支持勢力となるために、皇室が院政を始められた、という「歴史の流れ」さえ理解できれば大丈夫なのです。
こういった大きな流れさえつかむことができれば、仰るとおり「歴史は面白い」のです。拙いブログではありますが、今後も是非お越し下さい。
役者が揃い過ぎ?
オバrev おっと~!ここで源平がでてきますか。
院に大寺院に藤原氏(どこへいっちゃたの?)に武士と役者が増えて、ますます複雑になってきますね。どうなっていくんでしょうか。
でも歴史は、必然の方向へ流れ、その結果には必ず原因があるような気がします。だから流されないようにその時々で事実を検証することは大事ですよね。今現在もそうだと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 ハイ、源平が登場です(笑)。いよいよ武士の世の中が近づいてきますね。
確かにこのあたりから役者がそろって、それぞれの思惑で歴史を動かしますから、ややこしくはありますが、面白くもなってきます。
仰るとおり、時代が求める体制に自然に収束していくのが歴史の流れだと思います。現在の我が国は、どの方向へ向かっているのでしょうか…。
紗那 ここで、法皇さんの登場ですね?出家した天皇ですよね。うん、大丈夫だ。
あれ?荘園の支配者が変わっただけ・・・ 貴族も天皇も考えることは一緒なのですねー。
僧兵さん出ましたね。 どこぞの天皇さんが、「さいころと加茂川と僧兵以外のことなら何でも出来る」と仰ってましたが・・・ 当時は、やはり朝廷側が武装していなかったのが、朝廷が怖がる原因だったんでしょうか?
PS
親政、分かりました! 自ら政治を行うってことなんですね!てか、あの記事読んだことある気がするorz
歴史の必然性
kenちゃんマイド 世の中の流れには何事もその必然性がありますね。今回の自民から民社への移行も後世からみると必然性があるのでしょう。後の後醍醐天皇もこの時期をめざしたのですか?世にいう「建武の新政」はこの時期を理想としたのですか?
また、院に経済的基盤(きばん)が集中したことによって、治天の君と称された上皇(または法皇)の権力は飛躍的(ひやくてき)に高まり、さらに「天皇の父」という強い立場もあって、院の権力は歯止めがかからないほどの独裁的な色彩(しきさい)を見せるようになりました。
例えば、「賀茂川(かもがわ)の水と、双六(すごろく)の賽(さい、サイコロのこと)の目、それに山法師(やまほうし、延暦寺の僧兵のこと)だけは自分の意にならない」という白河法皇のお言葉が有名ですが、裏を返せば、先述の三つ以外については自己の思いのままに動かせる、という意味でもあるわけです。
白河法皇や鳥羽法皇は、やがては皇位の継承についても意見されるようになり、結果として政治の混乱を招くことになりました。また、土地制度に大きな変化がなかったことが、一部の身分の者にとっての不満を高めることとなり、来るべき新しい時代へ向けての大きな原動力と化していったのでした。




いつも有難うございます。
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オバrev これって、道長の時と言葉が変わっただけで、独裁的な権力構造は同じとちゃいますか。
さらにこの権力の集中は、議員立法を原則禁止、地方からの陳情はO幹事長の幹事長室に一括するという、今のM党のO沢氏をみているようだ(^^;)
結局歴史は繰り返すんですかねぇ。人間の考えることはいつの時代も一緒かも?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > これって、道長の時と言葉が変わっただけで、独裁的な権力構造は同じとちゃいますか。
今日も鋭いですね(^^ゞ
仰るとおりです。「天皇の父」という立場がありましたから、むしろ独裁制は強くなっているかもしれません。それだけに院政が始まったばかりの頃はともかく、時代が下れば下るほど「ある層」の不満が大きくなっていくんですよね。
> さらにこの権力の集中は、議員立法を原則禁止、地方からの陳情はO幹事長の幹事長室に一括するという、今のM党のO沢氏をみているようだ(^^;)
そのくせ議員立法の方が都合がよければ、舌の根も乾かぬうちに「ある法律」を無理やり通そうとしましたからね。多くの国民が現状打破を期待して投票したのに、むしろ悪化していると気づいたときの不満がどうなるのか…。
> 結局歴史は繰り返すんですかねぇ。人間の考えることはいつの時代も一緒かも?
為政者として最高の地位にある人間よりも、その陰に隠れてやりたい放題。これって、まさに「院政」ですよね。まさに「歴史は繰り返す」!
馬人 >「賀茂川の(略)山法師だけは自分の意にならない」
>裏を返せば、先述の三つ以外については自己の思いのままに動かせる、という意味でもあるわけです。
それほど権力に自信があったんでしょうか…。
完璧な人が思い通りにならないものを見つけるとそれが嫌に感じるものなのでしょうかね^^;
端からみると、わがままのような感じですがw
馬人さんへ
黒田裕樹 > 完璧な人が思い通りにならないものを見つけるとそれが嫌に感じるものなのでしょうかね^^;
> 端からみると、わがままのような感じですがw
鋭いですねぇ( ̄ー ̄)ニヤリ
どんな政治にも光と影があります。摂関家から政治の実権を奪い返すという悲願を達成したものの、院の権力があまりにも強かったがゆえに、様々な問題もあったんですね。その一方で着実に実力を蓄えてきた「ある勢力」が、いよいよ表舞台に登場してくるんです。