こうした動きの中で、平安時代の中期から後期には我が国独自の文学や美術などが数多く生まれ、後世の文化にも多大な影響を与えるようになりました。10世紀から11世紀にかけての我が国における新しい文化は、国風文化(こくふうぶんか)と呼ばれています。
国風文化の大きな特徴の一つに、仮名文字(かなもじ)の発達がありました。仮名は、奈良時代の万葉仮名(まんようがな)の草書体(そうしょたい)から変化した平仮名(ひらがな)と、漢字の扁(へん)や旁(つくり)の一部からとられた片仮名(かたかな)とに分かれ、それぞれ10世紀頃にはほぼ形が一定するようになりました。
平仮名と片仮名の使用によって、日本人特有の感情や感覚を生き生きと表現することが可能になり、和歌や物語の隆盛をうながし、結果として文学における飛躍的(ひやくてき)な発展をもたらしました。




いつも有難うございます。
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文化、文字
JJSG 文化はとっても大切。
文字は発達、ひらがな、カタカナは、とっても大切。
平安時代の中期~後期にかけて、発達、発展したんですねぇ。
親鸞聖人がお生まれになられた時代が平安末期。
文字、ひらがな、カタカナが発達、発展したなればこそ、親鸞聖人のお言葉が、今の私にも伝わり、今の私にもわかる。
感動です♪
大発見
オバrev 平仮名も片仮名も、もっと簡単にということで、いくつかの変遷を経ながら生まれたんでしょうけれど、これで、漢字だけではできない繊細な表現が多くの人に可能になったし、まさにニュートンが重力を発見したくらいの大発見だと思います。
日本独自の国風文化ですね、枕草子やら源氏物語やら・・・他に何かあったけ(;^_^A アセアセ…
JJSGさんへ
黒田裕樹 本当にそうですね。仮名文字の発達は我々日本人にとって何物にも換えがたい文化だと思います。
仰るとおり、親鸞聖人の有難いお言葉も、仮名文字があればこそ理解できるのですから。
> 感動です♪
私もそう思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 平仮名も片仮名も、もっと簡単にということで、いくつかの変遷を経ながら生まれたんでしょうけれど、これで、漢字だけではできない繊細な表現が多くの人に可能になったし、まさにニュートンが重力を発見したくらいの大発見だと思います。
私もそう思います。インド人による「0(ゼロ)」の発見にも負けない大転換ですよね。
> 日本独自の国風文化ですね、枕草子やら源氏物語やら・・・他に何かあったけ(;^_^A アセアセ…
次回(21日)から次々と紹介していきますので、楽しみにお待ち下さい(^_^)v
佐佐木あつし こんにちは。
漢字で思い出したんですが、
司馬遼太郎先生の本の中に
本来「いじめ」という漢字は中国本土にはなく
後の当て字として「苛め」や「虐め」が作られたと
いう話を読んだ記憶ががあります。
平かなと、漢字の間に流れる文化の深みを感じた一文でした。
ほかにもそういった言葉もあるんでしょうか?
もしご存知でしたら教えてください。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 恥ずかしながらお話下さったことは初耳でしたm(_ _)m
漢字の世界にも逆輸入があったんですね。他の漢字といえば…詳しくは存じませんが、「辻」とか「峠」とか「働」などの国字は、ひょっとしたら同じように逆輸入されているものがあるかもしれません。
古今和歌集に見られる歌風は繊細(せんさい)かつ技巧的(ぎこうてき)であり、古今調(こきんちょう)と呼ばれて長く和歌の模範とされました。また、この頃には優(すぐ)れた歌人が次々と登場し、特に在原業平(ありわらのなりひら)、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、小野小町(おののこまち)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、大伴(大友)黒主(おおとものくろぬし)、喜撰法師(きせんほうし)らは後世には六歌仙(ろっかせん)と称(たた)えられました。
平安時代の頃までには、和歌は貴族の教養や社交になくてはならないものとされましたが、和歌そのものに人智(じんち)を超える力があると信じられたことにより、以前に述べたように和歌さえ詠(よ)んでいればこの世で平和が続くという迷信を生む原因となってしまいました。しかし、言葉に霊魂(れいこん)が宿るとされる、いわゆる「言霊」(ことだま)を信じていた古来の日本人からすれば、むしろ自然と抱かれるようになった感情でもありました。
朝廷が政権を奪われた中世以後になると、和歌は貴族たちの数少ない心の支えになったことでさらに発展し、政治の世界から離れたことで和歌の神秘性がむしろ高まったこともあって、現代に至るまで和歌は我が国の伝統文化として広まっています。
尚、古今和歌集から鎌倉時代(かまくらじだい)の初期に完成した新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)まで、合計8回にわたって勅撰和歌集が編集されており、これらを総称して八代集(はちだいしゅう)といいます。




いつも有難うございます。
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えめる お久し振りのコメントニャからっ。
湯治、和歌にそんな力を期待していたとはね~。
ほんと。ビックリの事実でした。
っでも、茶の湯だって、ちょこっと似たようなものでしょ?
文化と政治のふかーい関係。
あ。宗教と政治ってのもあるニャ。
またきまーす。
えめるさんへ
黒田裕樹 和歌も茶の湯も我が国固有の文化ですよね。
歴史の真実はどこに隠れておるか分かりません(笑)。
次回(22日)以降の「物語」でも「え?」と思われるかもしれませんよ(^^♪
政治と宗教についても、いずれご紹介できると思います(^_^)v
イルカ お久しぶりです。
前ブログ「自分らしくあれ」ではお世話になりました。
ご迷惑おかけしてスイマセン汗
とある事情により新たに作り直しましたので…。
コピペ失礼いたしましたm(_ _)m
あーーー!!
万葉集・古今和歌集・新古今和歌集じゃないですかっ。
今国語でやってます。
イルカさんへ
黒田裕樹 お帰りなさいませm(_ _)m
心機一転頑張りましょう!
> あーーー!!
> 万葉集・古今和歌集・新古今和歌集じゃないですかっ。
> 今国語でやってます。
国語(古典)でも勉強しますよね。いい機会ですからしっかり理解しておきましょう(^_^)v
ぴーち こんばんは!
>和歌さえ詠(よ)んでいればこの世で平和が続くという迷信。。
そうですよね。
とある宗派は、歌って、踊れば、極楽浄土へ行けるという教えがありますが、まさにこのことかもしれません。
それと、言霊を信じていた古来の日本人。。とありますが、確かに「信じるものは救われる」そういう確固たる信心深さがあるのなら、それはそれで、自分への心の支えにもなりうるので、昨日の私のコメントの中の、元旦に一度だけお参りに行く行為云々の様に、それによって自分には、災難が降りかからず、一年中、健康、安全でいられるんだという暗示を掛ける事が出来たのなら、それはそれで、一理ある行為なのかもしれませんよね。
「病は気から」と言うように、絶対大丈夫という暗示も時には必要であるという気もしますね。勿論、過信はいけませんし、それだけで平和や幸せは決して約束されるものではないものだとも思います。
それでは、凸
はじめまして!
nyaaomi 「言霊」いまでもあると思っています。
日本の言葉、漢字にしても使いこなすのほんと難しいですよね。
それを繋いで気持ちを表す=心を表すものだと。
いつでもそういう文章を書ける人でありたいと思います。(まだまだ修行中。)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > とある宗派は、歌って、踊れば、極楽浄土へ行けるという教えがありますが、まさにこのことかもしれません。
鎌倉仏教の一つである、一遍(いっぺん)が広めた時宗(じしゅう)ですね。宗教の究極のかたちの一つだと思います。
> それと、言霊を信じていた古来の日本人。。とありますが、確かに「信じるものは救われる」そういう確固たる信心深さがあるのなら、それはそれで、自分への心の支えにもなりうるので、昨日の私のコメントの中の、元旦に一度だけお参りに行く行為云々の様に、それによって自分には、災難が降りかからず、一年中、健康、安全でいられるんだという暗示を掛ける事が出来たのなら、それはそれで、一理ある行為なのかもしれませんよね。
何事にもウラとオモテがあるように、言霊にもオモテの素晴らしい部分があるということですね。
暗示をかけることで心の支えになるのであれば、それはそれで良いと私も思います。やはり私も日本人ですね(^^ゞ
> 「病は気から」と言うように、絶対大丈夫という暗示も時には必要であるという気もしますね。勿論、過信はいけませんし、それだけで平和や幸せは決して約束されるものではないものだとも思います。
自信と過信は紙一重ですし、平和に限らず何かをなそうと思えば、まず自分から行動を起こすべきでしょうね。
nyaaomiさんへ
黒田裕樹 > 「言霊」いまでもあると思っています。
私も思います。何かを実現したいときに、自分の努力以外に求めるものがどうしてもあるんですよね。
> 日本の言葉、漢字にしても使いこなすのほんと難しいですよね。
> それを繋いで気持ちを表す=心を表すものだと。
> いつでもそういう文章を書ける人でありたいと思います。(まだまだ修行中。)
良いお言葉を有難うございます。
仰るような日本の言葉を見事に使いこなせるような本当の日本人に、私もなりたいものです。
ケンシロウ こんにちは。
ご無沙汰しちゃって申し訳ないです。
ちとバタバタしているのが現実ですが・・・。
朝晩冷えるようになりました。
良からぬ病気も流行の直前でしょうか?
お体には十分お気をつけ下され。
ブログに関係ないコメントで申し訳ないです。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > ご無沙汰しちゃって申し訳ないです。
こちらこそ、いつも読み逃げばかりで申し訳ないですm(_ _)m
> ちとバタバタしているのが現実ですが・・・。
> 朝晩冷えるようになりました。
> 良からぬ病気も流行の直前でしょうか?
> お体には十分お気をつけ下され。
> ブログに関係ないコメントで申し訳ないです。
いえいえ、お言葉有難うございます。ケンシロウさんもご自愛くださいね。
平安時代の中期に入ると、紫式部(むらさきしきぶ)によって源氏物語(げんじものがたり)が生み出され、また清少納言(せいしょうなごん)によって枕草子(まくらのそうし)が書かれました。
源氏物語は、作者が藤原道長の娘で第66代の一条天皇(いちじょうてんのう)の中宮(ちゅうぐう、皇后と同じ意味)でもある藤原彰子(ふじわらのしょうし)に仕えた体験と、作者個人の豊かな教養とをもとにして、当時の宮廷貴族の生活を見事に描き切った世界最大級の長編小説です。
一方の枕草子は、作者が道長の兄である藤原道隆(ふじわらのみちたか)の娘で一条天皇の皇后であった藤原定子(ふじわらのていし)に仕えた体験を随筆風に記しており、簡潔かつ軽妙な表現の中にも鋭い観察力が見られます。また、枕草子は鎌倉時代の随筆である方丈記(ほうじょうき)や徒然草(つれづれぐさ)とともに日本三大随筆の一つと称されています。
ところで、源氏物語には私たちが普段気づかない「大きな謎」があるのですが、皆さんはご存知ですか?
実は、源氏物語は世界の常識では「存在することがあり得ない」作品でもあるのです。




いつも有難うございます。
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h.hamauzu ご無沙汰しております。
わたくし思うのですが、
学校の古文で、源氏物語とかやりますよね?
なんでまず、「現代語訳」で
やらないのですかね~
そのあと、古文で読んだ方が、
ああ、なるほど!ってなると、
たった今思ったのですが・・・
ライバル
オバrev う~ん、何だろう?・・・と言うより、源氏物語なんか読んだことないしヾ(・∀・;)オイオイ・・・分かりません(汗)
しかし、紫式部と清少納言は同じ時期、道長~一条天皇繋がりで、当然名前も知っていたでしょうし、どう見てもライバルだったんではないでしょうか。
およよのよ 源氏物語、小さいころから歴史物が好きでしたがつい二年ほど前まで読んだことがありませんでした。
「源氏物語って当時でいう恋空みたいなもんでしょ?日本初の小説ってだけで補正かかってるんじゃないの。」って思っていました。
しかし源氏物語1000年季の際に読んでみたところ面白い面白い。偏見よくないですね。
「ありえない」所…よくわからないですね。
自分の仕えてる所や天皇をネタにしたからですか?
読んでていいのか?と思ってました。
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 確かに、現代語訳から入れば理解はしやすくなりますが、それは本物ではありません。なぜなら、それは「答えの分かっている問題集」を解いているようなものだからです。
例えば、数式は自分で解くことによって応用力を身につけますよね。ということは、答えから入っていって数式を「暗記」しただけでは、試験などの本番で応用力を発揮することは難しいでしょう。
同じように、現代語訳から学んだ場合は、古文の微妙な言い回しや掛け言葉などの風流さなどが理解できないので、古文について本当の理解ができるとは言い難いのです。
もちろん歴史も同じです。教科書に書かれたことを事務的に覚えているだけでは、当時の人物がどのように考えて行動したかなどが分からないまま、現代の見方で理解してしまいます。これは良くありません。
私の講座では、当時の人々がどう行動したのかを、皆さんに理解していただくために「なぜ?」「どうして?」をあえて多用しています。そして今回も、一見何でもなさそうな「源氏物語」の秘密を意外な面から取り上げることによって、皆さんにより理解できるようにと考えている訳です。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > う~ん、何だろう?・・・と言うより、源氏物語なんか読んだことないしヾ(・∀・;)オイオイ・・・分かりません(汗)
長編物語ですからね。私も全部読んだことはないです(^^ゞ
> しかし、紫式部と清少納言は同じ時期、道長~一条天皇繋がりで、当然名前も知っていたでしょうし、どう見てもライバルだったんではないでしょうか。
紫式部が自分の日記で清少納言を痛烈に批判している記載がありますが、紫式部が宮仕えを始めた頃には清少納言は朝廷から離れていますので、両者が面識があったとは考えにくいと思います。ちなみに清少納言は(当たり前といえば当たり前ですが)紫式部に対して何の評価も残していません。
およよのよさんへ
黒田裕樹 > 源氏物語、小さいころから歴史物が好きでしたがつい二年ほど前まで読んだことがありませんでした。
> 「源氏物語って当時でいう恋空みたいなもんでしょ?日本初の小説ってだけで補正かかってるんじゃないの。」って思っていました。
> しかし源氏物語1000年季の際に読んでみたところ面白い面白い。偏見よくないですね。
そうですね。自己判断は時として危険なことがありますから要注意です。
> 「ありえない」所…よくわからないですね。
> 自分の仕えてる所や天皇をネタにしたからですか?
> 読んでていいのか?と思ってました。
最後の文章は当たっていますね(笑)。
詳しくは次回(23日)の更新をお楽しみに(^_^)v
難しいです
スカイラインV35 う~ん。難しいですね。源氏物語は世界最古の小説、そして紫式部は世界初の女流作家、というのは何かの本で読んだ記憶がうっすらとあるのですが。。。
何れにしても、私も実は古典の原文は学校の教科書以外で触れた事はなく、これを機会にちょっと興味を持ってみようかなぁ、と思います。
智里 源氏物語って世界最大級の長編小説だったの?!Σ(゚Д゚;≡;゚Д゚)
全然知らなかった・・・orz
確か50冊くらいって聞いてたけど、そこまでだったとは!!
実は、光源氏のただの恋愛物語としか記憶してないんだよね。
ちなみに竹取物語もいま一つで、かぐや姫程度しか分からない自分に完敗(〃 ̄ω ̄〃ゞ
それにしても、世界の常識では「存在することがあり得ない」作品ってのも気になりますね(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
こんにちは。
TEAMぎらてぃーぬ いつも訪問してくださりありがとうございます。
TEAMぎらてぃーぬ一同です。
このたびは、ぜひ我々のブログと
相互リングしていただけませんか?
中学生のくせに生意気ですいません…。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > う~ん。難しいですね。源氏物語は世界最古の小説、そして紫式部は世界初の女流作家、というのは何かの本で読んだ記憶がうっすらとあるのですが。。。
源氏物語や紫式部については仰るとおりですよね。カギを握るのは、物語そのものよりも「中味」でしょうか…?
> 何れにしても、私も実は古典の原文は学校の教科書以外で触れた事はなく、これを機会にちょっと興味を持ってみようかなぁ、と思います。
温故知新は歴史の勉強に必要不可欠ですからね。私も偉そうなことはいえませんが…(^^ゞ
光源氏が様々な恋愛を経ながら出世を重ね、准太上天皇(じゅんたいじょうてんのう、天皇を退位した上皇に準じる地位のこと)にまでなるというサクセスストーリーが物語中盤までの構成ですが、源氏物語が書かれた当時、実際に政権を握って栄華の頂点に立っていたのは他ならぬ藤原氏でした。
藤原氏の天下の時代に、源氏出身の貴族が大出世をする物語を書くということは、A党が絶対多数の与党であり、支持率も高くて負ける要素がない時代に、弱小野党であるB党が総選挙で大勝してA党をコテンパンにやっつけるという、現実にはあり得ない話を勝手にでっち上げることと同じ意味であり、藤原氏にとっては面白いはずがありません。ということは、物語の執筆を無理やり中断させられて、作品自体が処分されてもおかしくないのが普通です。
ところが、実際には藤原道長は源氏物語の執筆に対して文句を言うどころか、作者の紫式部に当時は貴重品であった紙や硯(すずり)を与えていたという説が残されているのです。
なぜ道長は紫式部に対してこのような態度をとったのでしょうか?
この謎を解くカギは2つあります。藤原氏が摂政や関白を独占するきっかけになった「ある事件」と、追放されて亡くなった後に「神様」として祀(まつ)られた「ある人物」です。




いつも有難うございます。
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智里 またまた気になる終わり方ですね~(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
神様になったのって誰?
ある事件って何?
ちゅーか、紫式部って藤原さんの愛人だったの?
気になるわ~!!
智里さんへ
黒田裕樹 > またまた気になる終わり方ですね~(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
どうもすみませんm(_ _)m
明日(24日)には謎(?)が解けると思いますよ(^_^)v
> 神様になったのって誰?
> ある事件って何?
> ちゅーか、紫式部って藤原さんの愛人だったの?
>
> 気になるわ~!!
上の2つは今までの講座で紹介してますよ(^^♪
紫式部が道長の愛人…あるかもしれませんが、それが理由ではないんですよね。
ぴーち こんばんは!
この部分、興味が無かっただけに、
暗中模索しても、無理ですわw
と言いつつ、追放?神様?
菅原道真かしらん(^0^
応援凸
To be continued
オバrev う~む、ある人は確かに菅原道真だろうけど、ある事件ってのが思い出せないというか、もともと覚えてない(´・ω・`;A)アセアセ
いずれにしても、道真の怨念か何かを恐れていたんじゃないでしょうか?
しかし、こういう終わり方・・・うますぎます(^^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この部分、興味が無かっただけに、
> 暗中模索しても、無理ですわw
> と言いつつ、追放?神様?
> 菅原道真かしらん(^0^
さぁ、どうでしょうか?(笑)
意外なところにヒントが隠されているものですよ。何と言っても「源氏物語」ですからね(^^♪
オバrevさんへ
黒田裕樹 > う~む、ある人は確かに菅原道真だろうけど、ある事件ってのが思い出せないというか、もともと覚えてない(´・ω・`;A)アセアセ
そうですか? 藤原氏の「単独支配」のきっかけとなったということは、「他の勢力」に止めを刺した、ということですよね。「他の勢力」って何でしたっけ?(^^ゞ
> いずれにしても、道真の怨念か何かを恐れていたんじゃないでしょうか?
鋭いですね(^^♪
さすがはオバrevさんです。
> しかし、こういう終わり方・・・うますぎます(^^;)
有難うございます。でもここ数日間は引っ張りすぎかもしれませんね(笑)。
miwa 面白いですーー^^
続きが早く知りたいです。
そんな考え方があったんですね。
今までサラッと勉強しただけだったので、そこまで考えた事がありませんでした。
源氏物語のサイドストーリーですね。
夜分遅く失礼します
スカイラインV35 う~ん。今回も難しいですね。菅原道真の叶わぬ夢を光源氏に託して、そんれが慰霊や鎮魂の意味を伴うものだったんでしょうか?
「ある事件」とは”承和の変”でしょうか?それが、光源氏や菅原道長につながっていく???
今日の更新を楽しみにしています。
miwaさんへ
黒田裕樹 有難うございます(^o^)丿
サイドストーリーも、物語本来の面白さや真実を理解するのに役に立ちます。
色んな角度から歴史を探ってみたいものですね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 道真については「なぜ彼が神として祀(まつ)られたか」よいうことが大きなポイントですね。
「ある事件」については、「被害者」の「名前」がポイントでしょうか?
続きは是非「本編」をご覧下さい(笑)。
一方、同じく謀略によって北九州の大宰府(だざいふ)に追放され、亡くなってから怨霊(おんりょう)と化して大きなタタリをもたらした後に「天神様」として祀(まつ)られたのが菅原道真(すがわらのみちざね)でした。
栄華の頂点を極めた藤原氏ではありましたが、源高明など、自分の一族が蹴落としたライバルたちが亡くなった後に、道真と同じように怨霊としてタタらないか心配していました。そこで、架空の物語で大活躍をさせることによって、怨霊に気分良く穏(おだ)やかに振舞(ふるま)ってもらおうと考えたのです。
そういえば、菅原道真は神様として丁重(ていちょう)に祀られたほかに太政大臣(だじょうだいじん)の地位を贈られていますし、没後に子孫が繁栄(はんえい)できなかった在原業平(ありわらのなりひら)も、伊勢物語の主人公として活躍していますね。
源氏物語には、源高明らの「藤原氏によって没落させられた貴族たち」が怨霊としてタタらないように鎮魂(ちんこん)するという隠された目的もあったと思われ、またそう考えることによって 「藤原氏が栄華の頂点に立っていたのと同じ時期に、藤原氏のライバルが出世をする物語」がなぜこの世に残ったかが初めて説明できるのです。




いつも有難うございます。
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JJSG なるほど~。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > なるほど~。
ご理解いただけましたでしょうか?
今回のように、歴史に関する教育のなかで「なぜ?」「どうして?」という感覚や思いを大事に、これからも学んでいきたいと思います。
kazu 源氏物語がなぜ藤氏物語にならなかったかは、いろんな説があって私も混乱していたのですが、
祟りを恐れたというのは、核心かもしれませんね。
百人一首でも藤原定家が後鳥羽院の祟りをおそれて暗号をしくんだという説もありますからね。
ぴーち こんばんは!
菅原道真の首塚が大手町に存在していますが、
この墓にまつわる奇妙な話は、現代でもあるようですが
(工事作業員が急死したなど)、やはり「火のない所に、煙は立たぬ」と言いますように、本当なんでしょうか。。それとも
ツタンカーメン。ファラオの墓の呪いの様に、単なるマスコミのでっち上げ話と同じなのかしら。。とふと、思いました^^
それでは、応援凸
書かされていた?
オバrev なるほど~(○_○)スゲー
もしかして紫式部は、源高明を意識して書いていた?
いや、普通の神経ならとても書けません。
むしろ、源高明を主人公に、立身出世する小説を書くように言われていたのかもしれませんね?
佐佐木あつし 怨霊信仰の果てに稀代のプレイボーイが
誕生したとは・・・
なにか、新しい作品のきっかけになりそうです。
出雲の大国主之命も色男だったりして。
大国主之命で思い出しましたが
いわゆる古事記の「因幡のウサギ」に出てくるウサギの表記は「ウサギのようなもの」となってたと記憶してますが、いったいなんだったんでしょうか?
kazuさんへ
黒田裕樹 > 源氏物語がなぜ藤氏物語にならなかったかは、いろんな説があって私も混乱していたのですが、
> 祟りを恐れたというのは、核心かもしれませんね。
有難うございます。源氏物語に対するちょっとした疑問に気がついてから、様々な資料を読みあさった末にたどりついた結論でもあります。
> 百人一首でも藤原定家が後鳥羽院の祟りをおそれて暗号をしくんだという説もありますからね。
さすがはkazuさんですね。私はそこまで存じませんでした。崩御後に贈り名が変更となった後鳥羽上皇ですから、失礼ながら「ただ者ではない」と思っておりましたが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 大手町に現存する首塚は平将門ですね。首塚にまつわる話は私も聞いたことがあります。
長い長い人類の歴史をたどれば、科学的に証明し得ない歴史の不思議はいくらでもあると思います。だからこそ、怨霊の存在を当時の人々は固く信じていたのでしょう。
平安時代にはマスコミは存在していませんでしたが、仰るような「でっち上げ」には、時代に関わらず注意した方が良いと思います。いわゆる「メディア・リテラシー」というやつですね(^_^)v
オバrevさんへ
黒田裕樹 > もしかして紫式部は、源高明を意識して書いていた?
> いや、普通の神経ならとても書けません。
正直言って、その発想はなかったです(^^ゞ
オバrevさんのお考えは、いつお聞きしても鋭いですね。
> むしろ、源高明を主人公に、立身出世する小説を書くように言われていたのかもしれませんね?
その可能性はあるかもしれませんね。怨霊封じに躍起になっていた、当時の藤原氏の「焦り」が目に浮かぶようです。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > なにか、新しい作品のきっかけになりそうです。
それは光栄です。その際には原案として私の名を…
> 出雲の大国主之命も色男だったりして。
現代でも、水死体として発見された女性を「美人」というらしいですね。実際には水分でふやけて二目と見られない容姿らしいですが…。
> 大国主之命で思い出しましたが
> いわゆる古事記の「因幡のウサギ」に出てくるウサギの表記は「ウサギのようなもの」となってたと記憶してますが、いったいなんだったんでしょうか?
不勉強で申し訳ないんですが、私にも良く分かりません。ただ、白兎が一般化したのは近世以降であり、神話の時代ではありえなかったので、何らかの「神聖なもの」という扱いとされていた可能性はあると思います。
このような仮名文学は、紀貫之のような初期の例外を除けば、藤原氏などの貴族たちが天皇の後宮(こうきゅう、后=きさきのこと)とした娘たちの教育係として競ってつけた、細(こま)やかな感情や優れた才能を持つ女性たちによって磨(みが)き上げあれ、国風文化の頃に隆盛を迎えることになりました。
一方、貴族による公式の場としては、従来に引き続き漢文が使用されました。この頃の漢文学としては、藤原明衡(ふじわらのあきひら)が編さんした漢詩文集である本朝文粋(ほんちょうもんずい)や、源順(みなもとのしたごう)が編さんした辞書である和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)などがあります。
この他にも、藤原公任(ふじわらのきんとう)によって和歌と漢詩文が同時に収められた和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)が編さんされました。ちなみに藤原公任は、刀伊の入寇(といのにゅうこう)が起きた際に、海賊を撃退した藤原隆家(ふじわらのたかいえ)に対して、褒賞(ほうしょう)を与えなかったばかりか叱責 (しっせき)すらした、当時の官僚の一人です。
(国風文化についてはこの後も続けますが一旦中断して、明日からは第6回歴史講座の内容を、6時と18時の二回に分けて更新します)




いつも有難うございます。
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瑠荷 元空茄です。
移転しました★!
URLをたよりに来て下さい!!
とまと ちゃんと読んだ覚えがあるのは、「土佐日記」だけです。
恥ずかしい(>_<)
反省のぽち。
休暇中は、温かいコメントを下さり、ありがとうございます♪
とても励みになりました。
感謝しておりますm(__)m
瑠荷さんへ
黒田裕樹 分かりました(^^♪
早速訪問させてもらいますね。今後ともよろしくお願いしますm(_ _)m
とまとさんへ
黒田裕樹 いえいえ、今回の私の記事がきっかけでとまとさんの知識が広がれば、こんなに嬉しいことはありませんよ。
ご復活、おめでとうございます。どうやら二重以上のめでたいことがおありのようで、何よりです(^o^)丿
生きもの
JJSG こんにちは。
文化、文学は、生き物ですね。
歴史の中で、どんどんと変化していく。
そして、その変化は、歴史とも深いかかわりがある。
文化、文学から歴史をみると、また違った見え方がするのでしょうね。
面白いです。
JJSGさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、文化や文学からたどる歴史もまた味わい深いものがあります。
過去と現在、さらには未来ともつながる歴史ですから、様々な切り口や角度から、別の顔を見せるんですよね。文学の世界で第一線だった人物が、官僚でありながら政治のセンスが皆無だったというのも不思議な事実ではあります。
紀貫之
オバrev 紀貫之の土佐日記は女性を装って平仮名で書かれていたと思うのですが、紀行文ということは、都だけでなくその頃の地方の様子もよく分かる貴重な資料でしょうね・・・読んだこと無いですが >_<
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 紀貫之の土佐日記は女性を装って平仮名で書かれていたと思うのですが、紀行文ということは、都だけでなくその頃の地方の様子もよく分かる貴重な資料でしょうね・・・読んだこと無いですが >_<
土佐日記は「男もすなる…」という書き出しが有名ですね。紀貫之が女性になぞらえて平仮名で書いたという説が有力ですが、最近は全く違う説もあるようです。
紀行文ですから、仰るような内容かもしれませんね…私も全部読んだことがないので良く分かりませんが(´・ω・`)
また、天台宗(てんだいしゅう)や真言宗(しんごんしゅう)の厳しい山岳での修行と、我が国古来の山岳信仰とが融合(ゆうごう)して、山林での修行の際に密教的な儀礼を行って霊験(れいげん、神仏によるご利益=ごりやくのこと)を得ようとする修験道(しゅげんどう)も生まれました。
名高い修験道の道場としては、和歌山の熊野三山(くまのさんざん)があります。熊野三山とは、熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の三つの神社の総称であり、真言宗の聖地である高野山(こうやさん)などとともに、平成16年(2004年)に「紀伊山地の霊場と参詣道」(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)として世界遺産に登録されています。
尚、この頃までに盛んになった怨霊(おんりょう)を祀(まつ)ることでタタリを鎮(しず)めようとした考えは、疫病(えきびょう)や飢饉(ききん)などの災厄(さいやく)から逃れようとする御霊信仰(ごりょうしんこう)をもたらし、儀礼としての御霊会(ごりょうえ)が定着しました。




いつも有難うございます。
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馬人 宗教っぽいことですね~^^
霊とか神とか、そういう文化でもあったんですね。
って、「国風文化=仏教」という考えが執着してしまっていますw
日本らしい文化っていっても、主に仏教や十二単を着た貴族くらいしか思い浮かばないですね~
管理人のみ閲覧できます
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馬人さんへ
黒田裕樹 > って、「国風文化=仏教」という考えが執着してしまっていますw
なるほど、馬人さんにとってはそういう印象になるわけですね。仏教については、明日(6日)に紹介できると思いますよ。
> 日本らしい文化っていっても、主に仏教や十二単を着た貴族くらいしか思い浮かばないですね~
十二単ももうすぐ出てきますが、これは通称なんですよ。では本当の名前は何かというと…。
ぴーち こんばんは!
先程から、アクセス集中に弾かれっぱなしで、なかなか入れませんでした(><)
世の中が乱れて、飢饉や疫病に襲われるようになると、
人の怨霊や、恨みなどと言う想念的な驚異現象から、より現実的な脅威に関心が移って行くところが興味深いですね・・
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 先程から、アクセス集中に弾かれっぱなしで、なかなか入れませんでした(><)
あっちゃ~、またですか…(´・ω・`)
私の所属するblog10のグループは、以前からなぜかアクセスが集中しやすいんですよ。
ご迷惑をおかけします。他の皆様も同じでしょうか?
> 世の中が乱れて、飢饉や疫病に襲われるようになると、
> 人の怨霊や、恨みなどと言う想念的な驚異現象から、より現実的な脅威に関心が移って行くところが興味深いですね・・
人間としては、漠然(ばくぜん)とした恐怖よりも、やはり身に迫った「今、そこにある危機」への回避の方に関心が向くのは、ある意味当然であるといえますね。そのための御霊信仰であり、御霊会であるわけです。
えめる 八百万の神?
それはあれだにゃね。千と千尋に色々出てきたニャねー。
あ。マイケル様の映画観たい。←映画つながりなだけ
日本にはどうしてこんなに沢山の神様がいるのニャ?
自由の国って感じはしますニャね。
自然を大切に思う心が生み出したのかなとも思うニャし。
自由の国、日本ばんざーい。でも何となく不自由な毎日。ネコだから?(笑)
えめるさんへ
黒田裕樹 我が国では、縄文時代からあらゆるものに霊魂が存在するというアニミズムが信じられてきましたからね。霊魂に対する畏(おそ)れが祀(まつ)ることへと転化して、やがてはあらゆるモノに神様が存在すると考えられるようになったわけです。
もちろんそこには、仰るような「自然を大切に思う心が生み出した」神様も存在します。
自由の国ですか。この国では憲法によってかなりの自由が保障されていますからね。でも、大切なのは、自由に伴う責任を国民が果たすことと、国民を自由に暮らさせるように導く政治家の力です。どちらが欠けても「不自由な思い」をするのは国民自身だと思います。
外道、邪教
JJSG こんばんは。
それら、一切を、外道、邪教として徹底的に廃されたのが、仏教を説かれたお釈迦様であり、平安末期~鎌倉時代の法然上人、親鸞聖人であります。
仏教の結論は、
「一向専念無量寿仏」
です。
「無量寿仏」とは、阿弥陀仏のことです。
阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ、念じよ。
そのお釈迦様の教えを、命懸けで、徹底的に潔癖に守りぬかれたのが、法然上人、親鸞聖人です。
それで、死刑・流刑にまでなられています。
浄土真宗のことを一向宗とまで呼ばれるようになったのは、ここから来ているんですよね。
私は、コメントで、なにを書いてるんだろう。。。
失礼しました!!
日本人のDNA
オバrev この八百万の神という考えは、日本には昔からアニミズムというものあったから、まあ日本人の根本的考え方でDNAでもあるような気もします。
ところで、今は何時代だったっけ(;^_^A アセアセ…
JJSGさんへ
黒田裕樹 いつもながらの宗教に関するご見識、素晴らしいですね。有難うございます。
次回(6日)は国風文化の宗教に関する更新ですが、お手柔らかにお願いします(笑)。
浄土教が広まった背景には、末法思想(まっぽうしそう)の存在がありました。仏教の開祖(かいそ)である釈迦(しゃか)の死後に、正しい仏法(ぶっぽう)の行われる正法(しょうぼう)の時代から、仏法と修行者は存在するが、悟りを開く者が存在しない像法(ぞうぼう)の時代を経て、釈迦による教えのみが存在し、やがては通用しなくなっていくとされる末法(まっぽう)の世が1052年にやってくると当時は信じられていました。
末法思想が広まった頃には、治安の悪化による様々な災厄(さいやく)が発生しており、貴族たちは災厄の原因が(自身たちの政治にあるとは思わずに)末法の世に向かいつつある世情(せじょう)にあると信じて、競って寺院の建立(こんりゅう)や仏像の造立(ぞうりゅう)を行いました。
当時の代表的な寺院としては、藤原道長(ふじわらのみちなが)による法成寺(ほうじょうじ)や、藤原頼通(ふじわらのよりみち)による平等院(びょうどういん)などがあります。このうち、平等院の一部である鳳凰堂(ほうおうどう)は、10円玉に描かれていることで有名ですね。




いつも有難うございます。
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JJSG こんばんは。
私の専門分野ですね♪
(ただのサラリーマンですけど。。。笑)
正法、像法、末法については、『大集経』をはじめ、その他多くの経典に釈尊が説かれています。
「我が末法の時の中の億億の衆生、行を起し道を修せんに、未だ一人も得る者有らず」と。当今は末法にしてこれ五濁悪世なり、唯浄土の一門有りて通入すべき路なり。
”末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも
ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまえ”
”大集経にときたまう この世は第五の五百年
闘諍堅固なるゆえに 白法隠滞したまえり”
いずれも、親鸞聖人が経典を引用されて教えておられることです。
浄土教とは、阿弥陀仏の本願のことです。
それは、お釈迦様のみならず、大宇宙のすべて仏方が、教え勧められていることです。
阿弥陀仏の本願に導くために、方便として法華経などの聖道教を教えられたのです。
「一向専念無量寿仏」
これが仏教の結論、お釈迦様が45年間教えられたことの結論です。
今日もついつい書いてしまった。。。
ぴーち こんばんは!
末法の世の中、何が起きても不思議じゃないと言われているように、天変地異が起り、殺伐とした世の中になるという筋書き通りになっているのが、正直、怖いですね。。
応援凸
JJSGさんへ
黒田裕樹 う~ん、今日も深いお話ですね。
末法の世にいることを恐れて、多くの経典に記載されているなかで、親鸞聖人が引用なさっておられる。尊い教えなんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 末法といわれた世から1000年近くになりますが、今の世の中こそ末法のような気がしますね。人類に英知での救いの道があるのでしょうか…。
定朝による仏像は、女性的な柔和(にゅうわ)で円満な和様彫刻(わようちょうこく)が大きな特徴であり、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像(びょうどういんほうおうどうあみだにょらいぞう)などの多くの名作を残しました。また、この頃には浄土に往生しようとする人々を迎えるために仏が来臨(らいりん)するという阿弥陀来迎図(あみだらいごうず)も盛んに描かれました。
国風文化によって、貴族の生活も日本的な特徴が次第に広まっていきました。例えば、貴族の住宅は白木造(しらきづくり)で檜皮葺(ひわだぶき)の寝殿造(しんでんづくり)と呼ばれる建物と池のある庭園とを組み合わせた、優雅な雰囲気を漂(ただよ)わせるものになりました。
建物内部の襖(ふすま)や屏風(びょうぶ)にも、それまでの唐絵(からえ)に対して我が国の風物や物語を題材にした、なだらかな線と上品な彩色(さいしき)が特徴の大和絵(やまとえ)が描かれました。屋内の調度品(ちょうどひん)にも、漆(うるし)や金銀の粉を利用した蒔絵(まきえ)の手法が多く用いられました。




いつも有難うございます。
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馬人 寄木造のほうが効率いいですねw
一本の木から一体の仏像を彫りおこすって、想像できません…。
「仏像=巨大」じゃなくて、小さい仏像だったのでしょうか?
それとも大きい木からほりおこしたら、大きい仏像ができるのでしょうかね…?^^;
馬人さんへ
黒田裕樹 一木造の場合は一本の木でつくりますから、仰るように小型の仏像が多いです。以前にブログで紹介した薬師寺(やくしじ)の僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)などは、高さが約40cmしかないですし。もっとも、神護寺(じんごじ)の薬師如来像(やくしにょらいぞう)のように約170cm(私の身長とほぼ同じですが)と大きなものもありますから、巨木を利用したものもあります。
佐佐木あつし こんにちは
いつも楽しく拝見させていただいてます。
佐佐木は京都出身なので
宇治の平等院などは
小学校の遠足でよく行ってましたが、
灯台もと暗しで、
その頃にはなにもその凄さがわかりませんでした。
金閣寺も一回しか行ってないし
祇園祭も二回くらいで人ごみの多さに負けて
以来、行かなくなりました。
もっと、あの頃ちゃんと見ておけばよかったなぁ(笑)
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、いつも有難うございますm(_ _)m
本当の意味での素晴らしさというのは、やはり歴史を知らないと理解できないのかもしれませんね。そして、そういった歴史を伝えるのが教師の大事な務めではないかと思います。
熱心に勉強している生徒も、いわゆる「詰め込み一辺倒」では、平等院や金閣寺、あるいは祇園祭の真の素晴らしさを実感できないことでしょう。
もっとも、歴史を学ぶのに重ねた年月は無関係ですから(笑)、機会を見つけて是非再びお出かけになられればと思いますよ(^_^)v
えめる 貴族の華やかな生活様式なんですね。
庶民は仏像を拝んで心の平安をねがっていたのですね。
この頃の文化が、日本文化の基礎、そんな感じでしょうか?
えめるさんへ
黒田裕樹 綱吉公の講座の際にも触れましたが、文化というのは生活に余裕がないと生まれません。有り余るほどの荘園を持っていた大富豪の貴族だからこそなしえた文化だったわけですが、時代が下って民衆の生活も向上した際のモデルにもなっています。
従って、えめるさんが仰るように、この当時の国風文化が以降の我が国の文化の基礎となった、と考えて間違いないものと思われます。
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紗那 やっと、仏像も効率的な作り方になりましたね。
これなら、大きい仏像でも安心です。
しかし、これ以前のものでも、ある程度の大きさのものがあった気が・・
いったいどんな大きい木を使ったんでしょうね?
紗那さんへ
黒田裕樹 > しかし、これ以前のものでも、ある程度の大きさのものがあった気が・・
> いったいどんな大きい木を使ったんでしょうね?
馬人さんへのコメ返にも書きましたが、神護寺(じんごじ)の薬師如来像(やくしにょらいぞう)は約170cmもありますからね。かなり大きな木を使ったと思われます。
平安時代の貴族の男性の正装は束帯(そくたい)か、それを簡略にした衣冠(いかん)であり、女性は衣装を重ねた女房装束(にょうぼうしょうぞく)が主流でした。これらは奈良時代の唐風の衣装を日本人向きに改良したものでした。尚、一般的によく知られている十二単(じゅうにひとえ)は後世の俗称であり、女房装束が正式な名称になります。また、貴族の食事は仏教の影響で獣肉(じゅうにく)が用いられなかったため意外に質素で、回数も一日に2回が基本でした。
貴族の子供は10~15歳くらいで男子は元服(げんぷく)、女子は裳着(もぎ)の式を挙げて成人とみなされ、男子は朝廷に出仕しました。また、結婚はまず男が女の家に迎えられて同居する婿入婚(むこいりこん)が行われ、やがて庶民にも広まりました。また、生まれた子は妻の家で育てられました。
朝廷の官職は世襲化(せしゅうか)が進み、業務も先例や儀式が重んじられるようになり、年中行事(ねんじゅうぎょうじ)が発達しました。貴族たちは自然災害などを恐れることによって自らの運命や吉凶(きっきょう)を非常に気にかけて、日常の生活にも吉凶に基づく多くの制約を設けていました。この背景には陰陽道(おんみょうどう)や怨霊信仰(おんりょうしんこう)があったとされています。




いつも有難うございます。
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馬人 十二単の本当の名が女房装束だったとは…。
後世につけられた名が教科書に載っているのって不思議な感じです。
結婚は今と反対だったんですね!
婿入婚なんて想像つきません^^;
それに成人とみなされるのが早いですね~
この時代だったら私はもう成人ということになっているw
馬人さんへ
黒田裕樹 > 十二単の本当の名が女房装束だったとは…。
> 後世につけられた名が教科書に載っているのって不思議な感じです。
十二単の方が「いかにも重ね着している」という印象が強いからでしょうか?
最近の教科書では「女房装束(十二単)」と紹介されることが多いみたいです。
> 結婚は今と反対だったんですね!
> 婿入婚なんて想像つきません^^;
今でも時々ありますよ。例えば「サザエさん」のマスオさんとか(笑)。
> それに成人とみなされるのが早いですね~
> この時代だったら私はもう成人ということになっているw
そうなんです。成人の時期が早いのは、平均寿命が短かったこともあるかもしれませんね。
ちなみに今の私の年齢だと、当時なら老いが始まる頃でしたから(´・ω・`)
ぴーち こんばんは!
昔は食事が2回であったと言うのは、聞いたことがあります^^
その代わり、咀嚼する回数は、今よりもはるかに多かったようで、少しの量でも満腹感を得られていた様ですね!
今のお子さんは、顎が細いですよね。やはり、咀嚼する回数が減っているので、顎の骨が細くなっているのかもしれませんね。段々、使わなくなって来る箇所は、退化しているのでしょうかね^^;
それと、結婚の年齢は上の黒田さんのお返事の中で既に語られていますが、寿命が短い為だと私も思いました^^昔ならば、私も、既に「棺桶に片足、突っ込んでるわよ!」なんて、陰口を叩かれる?年齢と言う事になるでしょうか~・(え?24歳なのに、それはあり得ないって?w)それと、現代では女性が男性の家に嫁ぐというのが、一般的ですが、当時は全てが、女性の家にだったんですね。。時代が移ると、そのしきたりも次第に変化するものも、あるのですね~。
まあ、人の気持ちも、常に変動するのと同じかしら^^
それでは、応援凸
うーん
JJSG こんばんは。
やはり、迷信は根が深い。。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、少ない食事を咀嚼を繰り返すことによって満足感を得ようとしたわけですね。現代人とはアゴの力がかなり異なっているかもしれませんね。
しきたりも、時代によって常に変化するものではありますが、日本人らしさまでは失って欲しくないですね。
JJSGさんへ
黒田裕樹 そうですね。平安時代は特に「迷信の宝庫」のようなものでしたから、現代人では考えられないくらいに信じていたんでしょうね。
しかし、迷信を信じない側からすれば滑稽にしか写りません。あらゆるものに縛られて身動きが取れなくなっていくことで、貴族による政治は自然と衰えていった、とも考えられそうです。
紗那 紛らわしいといえば、中国の漢詩の人にも、詩聖・詩仏とかいました。なんか、もう覚えるのが面倒になってきました←
も、もう少し、ネーミングセンスをry
なんか貴族の生活って、意外ですね。もっと優雅かと思っていました。 というより、十二単が正式名称じゃないことにびっくりです。このブログって、実は雑学を集める場所ではないでしょうか!
年中行事もこのころからなんですねー
紗那さんへ
黒田裕樹 詩聖(しせい)とは杜甫(とほ)のことですね。詩仏ですか…。詩仙(しせん)なら李白(りはく)のことをさします。
いずれにせよ、確かに紛らわしいですね(笑)。
歴史は雑学の宝庫でもありますからね(^_^)v
楽しみながら学ぶことも、歴史の醍醐味ですよ。