北家は藤原四兄弟の房前(ふささき)の子孫で、810年に起きた薬子の変の際に、嵯峨天皇の秘書長官である蔵人頭(くろうどのとう)として活躍した藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の一族です。なぜ藤原北家が台頭することになったのでしょうか。その裏には、皇室のややこしい後継問題がありました。
嵯峨天皇はご自身の皇子や皇女を臣籍降下(しんせきこうか、皇族の身分を離れて一般の貴族になること)させた後に、実子の正良親王(まさらしんのう)ではなく、実弟の大伴親王(おおともしんのう)に譲位されました。第53代の淳和天皇(じゅんなてんのう)の誕生です。ちなみに、淳和天皇は在位中に令義解(りょうのぎげ)の作成を命じられています。
実子ではなく実弟であるご自身に譲位された嵯峨上皇にご遠慮されたのか、淳和天皇は実子の恒貞親王(つねさだしんのう)ではなく、先述の正良親王に譲位されました。こうして正良親王は第54代の仁明天皇(にんみょうてんのう)となられましたが、今度は仁明天皇が淳和上皇にご恩をお感じになって、実子の道康親王(みちやすしんのう)ではなく、恒貞親王を皇太子に立てられました。
いわば嵯峨天皇と淳和天皇との間で、キャッチボールのように交互に皇位の継承が行われたわけですが、本来の原則である実子に継承させない方法にはやはり無理がありました。結局、そのスキをついて「ある人物」が政治の実権を握ることになるのです。




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座布団1枚!
オバrev おぉ、まさに皇位継承のキャッチボールですね。
黒田先生、う・ま・い~!
山田くん、座布団1枚!!
やはり政権運営も、緊張感がなくなって形式的になると崩壊していくのかもしれませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > おぉ、まさに皇位継承のキャッチボールですね。
> 黒田先生、う・ま・い~!
> 山田くん、座布団1枚!!
お蔭様で(?)お尻が痛くなくなりました(笑)。
有難うございますm(_ _)m
> やはり政権運営も、緊張感がなくなって形式的になると崩壊していくのかもしれませんね。
仰るとおりかもしれません。ただ、新しい刺激が果たして国民のためになるのかどうかが、今後のカギを握ると思います。
しかし、冷静になって考えてみれば、皇太子としての身分が保証されている恒貞親王が、わざわざ東国まで行って謀反を起こすことに何の益もありません。一方、新たに皇太子に立てられた道康親王の母は、藤原冬嗣の子である藤原良房(ふじわらのよしふさ)の妹でした。つまり、承和の変は藤原良房らが自己の血を引く道康親王に皇位を継承させるためにでっち上げられた可能性が高いのです。
その後、道康親王が即位されて第55代の文徳天皇(もんとくてんのう)となられると、藤原良房は文徳天皇と自己の娘である明子(あきらけいこ)との間に産まれたばかりの惟仁親王(これひとしんのう)を皇太子に立てました。生後わずか数ヶ月の赤ん坊が皇太子になったのです。
良房は857年に太政大臣(だじょうだいじん)となり、858年に文徳天皇が崩御されて9歳の惟仁親王が第56代の清和天皇(せいわてんのう)として即位されると、天皇の外戚(がいせき、皇室の母系の一族のこと)として政治の実権を完全に握りました。
余談ですが、承和の変の首謀者とされる伴健岑はかつての大豪族である大伴氏(おおともし)の一族です。淳和天皇のご即位前のお名前が大伴親王であったため、遠慮して改姓していました。また、同じ首謀者であるとされる橘逸勢が嵯峨天皇、空海とともに三筆(さんぴつ)と称された人物であることは以前に書いたとおりです。
尚、清和天皇の治世中には貞観格式(じょうがんきゃくしき)がつくられ、866年には最澄に伝教大師(でんぎょうだいし)の名が贈られました。また、清和天皇の子孫の多くが臣籍降下して貴族となり、彼らは後に「清和源氏」(せいわげんじ)と呼ばれました。そして、その一族の中から後に鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が誕生しています。




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海豚 おぉーっと・・・ここらへんは知ってる名前が空海と最澄と源頼朝ぐらいしか・・・ry
まぁ、まだまだ知らない事は沢山あるという事ですね(苦笑
ぴーち こんばんは!
生まれたばかりの赤ん坊が皇太子にですか(@@
人として生まれたのなら、自分の意思が無くても
周りの思惑に利用されてしまったんですね。
この方が皇太子としては最年少記録になる訳ですか?
それでは、応援凸
海豚さんへ
黒田裕樹 > おぉーっと・・・ここらへんは知ってる名前が空海と最澄と源頼朝ぐらいしか・・・ry
> まぁ、まだまだ知らない事は沢山あるという事ですね(苦笑
そうですねぇ…このあたりは高校で学ぶ範囲がほとんどですからね。
いずれは勉強する範囲ですから、藤原氏が政治の実権を我が手に握るまでの流れだけでも理解しておきましょう。必ず役に立ちますよ(^_^)v
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 人として生まれたのなら、自分の意思が無くても
> 周りの思惑に利用されてしまったんですね。
現代でも良くある話ですね。地位などの関係で仕方がない面もありますが…。
> この方が皇太子としては最年少記録になる訳ですか?
清和天皇は生後8ヶ月で皇太子となられていますが、奈良時代の聖武天皇の子の基皇子は生後1ヶ月で皇太子ですから、こちらの方が早いですね。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-171.html
いずれにせよ、いわゆる「オムツの取れない」皇太子というのは極めて珍しいですね。
紗那 とうとう藤原氏の台頭ですね!
まぁ、これくらいなら戦いが無くても我慢しよう。うん。
しかし、藤原氏も権力を握るためにいろいろやってるんですね・・・・・・
生まれたばかりの子を皇太子にしたりとか。
そういえば空海は金剛峰寺ですか?で、生きてるって言う設定なんですね。なんか、この前塾の先生が言ってました。
紗那さんへ
黒田裕樹 > とうとう藤原氏の台頭ですね!
> まぁ、これくらいなら戦いが無くても我慢しよう。うん。
戦いがなくても、歴史は結構面白いものでしょう?(^^♪
> しかし、藤原氏も権力を握るためにいろいろやってるんですね・・・・・・
> 生まれたばかりの子を皇太子にしたりとか。
権力を握るためには手段を選ばないわけです。
現代でもよくある話かもしれませんが…(^^ゞ
> そういえば空海は金剛峰寺ですか?で、生きてるって言う設定なんですね。なんか、この前塾の先生が言ってました。
はい、そのとおりです。私のブログでも最近紹介しましたよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-211.html
参議以上の議政官は各氏族に1人 なぜ大伴親王は大伴と名付けられたのでしょうか。私は藤原氏による大伴氏への嫌がらせだと思うのですが、黒田さんはどうお考えですか。後世の堂上公家の大半が藤原氏であるのが残念でなりません。大伴氏や石上氏(物部)の氏上が清華家クラスに残っていれば、我が国ももう少し風通しの良い風土になったのかなと思います。
参議以上の議政官は各氏族に1人さんへ
黒田裕樹 確かに藤原氏の力が動いた可能性もあり得ますね。
平安時代は、藤原氏の天下への流れが良く見えてきます。もっとも、その藤原氏もやがては時代の波に押し流されるのですが…。
伴善男は、この事件が自己の政敵でもあり、嵯峨天皇の実子でもあった左大臣(さだいじん)の源信(みなもとのまこと)による放火であると訴えましたが、事件を調査した太政大臣の藤原良房によって否定され、伴善男こそが事件の首謀者であるとして逆に捕らえられました。
伴善男は無実を訴えましたが受けいれられず、他の貴族とともに流罪となり、伴氏は完全に没落しました。これら一連の事件を応天門の変(おうてんもんのへん)といいます。何かと謎の多い事件でしたが、同じ866年に藤原良房が皇族以外で初の摂政(せっしょう)に正式に任命されています。また、源信も869年に亡くなり、後に残ったのは藤原氏の栄華ばかりとなりました。
事件の実行犯を捜索(そうさく)する際の原則である「事件後に一番得をした人物を疑え」からすれば、藤原氏による陰謀と考えられなくもありませんね。尚、応天門の変の様子は、およそ300年後である平安末期の12世紀後半頃に「伴大納言絵巻」(ばんだいなごんえまき)として描かれています。




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てっちゃん中尉 なかなか奥が深いですね。
藤原氏の知略によるものかも知れませんね。藤原氏はそこまで優れた才能の持ち主であったんですね。
したたかやね~
オバrev 何とも用意周到でしたたかな藤原氏ですね。
まさに手段を選ばないやり方で権力を握っていったんですね。
今の日本の政治家を見ていると、こういう陰謀や策略が飛びかっている世界の中で、日本の国益を守れるのかと思ってしまいます(^^;)
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > なかなか奥が深いですね。
> 藤原氏の知略によるものかも知れませんね。藤原氏はそこまで優れた才能の持ち主であったんですね。
謀略を使って政敵を陥(おとしい)れるのが藤原氏の大きな特徴ですね。かといって、皇室を出し抜くわけではなく、必ず前面に押し立てようとする。自らの「悪巧み」を隠すためなのでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 何とも用意周到でしたたかな藤原氏ですね。
> まさに手段を選ばないやり方で権力を握っていったんですね。
本当にそうですよね。昨日の「赤ん坊皇太子」といい、謀略の天才ですよ(@_@;)
> 今の日本の政治家を見ていると、こういう陰謀や策略が飛びかっている世界の中で、日本の国益を守れるのかと思ってしまいます(^^;)
今日(16日)、新しい首相が誕生しましたが、果たしてどうなることでしょうか。前任者より悪ければ、何のための政権交代か分からなくなりますよね。
ぴーち こんばんは!
うわ~
刑事の感と言われる部分ですね~^^;
「事件で一番得した人物」「犯人は必ず現場に戻る」
とか^^
それにしても、藤原氏、汚い手を使いますね。。
でも、上にのし上がると言う事は、そう言う事でしょうからね。
でも人を泣かせて来れば、それなりの報いは必ずありますよね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > それにしても、藤原氏、汚い手を使いますね。。
> でも、上にのし上がると言う事は、そう言う事でしょうからね。
確証がなくても、それまでの経緯や結果を考えた場合に「怪しい」と思えることはいくらでもあります。
現代でも我々の見えないところで密かに行われているのでしょうか…。
> でも人を泣かせて来れば、それなりの報いは必ずありますよね。
承和の変や応天門の変ではありませんでしたが、そのうち「強烈な」報いがやってきますよ。
その前に藤原氏の「闇」が表舞台に登場しますが…。
応天門燃ゆ
徳薙零己 ただいま公開中の「応天門燃ゆ」をまとめると、これだけの短さになってしまうのですね。
「承和の変」から「応天門炎上事件」までの23年も描いているので、単純に比較はできませんが。
徳薙零己さんへ
黒田裕樹 > ただいま公開中の「応天門燃ゆ」をまとめると、これだけの短さになってしまうのですね。
> 「承和の変」から「応天門炎上事件」までの23年も描いているので、単純に比較はできませんが。
毎日お疲れ様です。
私の場合は歴史的な事件の簡単な解説で、徳薙零己さんは長編小説ですからね。
読み応えは段違いですから、それぞれの立場で楽しめるのではないでしょうか。
皇族以外で初の摂政になったのが藤原良房であり、我が国で初めて関白になったのが藤原基経です。摂政も関白も天皇の代わりに政治を行うことに変わりはありませんが、摂政が主に天皇の幼少時に代わって政治を行うのに対して、天皇の成人後に政治を代行するのが関白です。両者は非常に紛らわしいので注意して下さい。
さて、藤原基経は光孝天皇の子である宇多天皇(うだてんのう)が887年に第59代天皇としてご即位された際に正式に関白に任命されましたが、宇多天皇が基経に出された勅書(ちょくしょ、天皇からの命令書のこと)に、「基経を阿衡(あこう)に任ずる」と書いてあったことから、大問題になってしまいました。
「阿衡」とは中国の古典から引用したものでしたが、基経は「『阿衡』という言葉には地位はあっても実職が伴っていないから、その意味どおりに今後は一切政治を行わない」と宣言して朝廷への出仕をやめてしまったのです。驚かれた宇多天皇は基経を説得されましたが、基経は首を縦に振ろうとしませんでした。
基経の不出仕により政治の混乱が生じてしまったことで心痛された宇多天皇は、勅書を起草(きそう、原案を書くこと)した橘広相(たちばなのひろみ)を失脚させることでようやく事態を収拾されました。この事件は阿衡の紛議(ふんぎ)と呼ばれ、基経は自己の権力の強さを宇多天皇に知らしめたのでした。




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えめる 基経はツンデレっ?!
と思ってしまったのニャ(^ω^;
えめるさんへ
黒田裕樹 > 基経はツンデレっ?!
> と思ってしまったのニャ(^ω^;
なるほど、言われてみればそう受け取れますね(^^ゞ
実際には基経が宇多天皇に対して「黙って俺の言うことに従え」という無言の圧力だったかもしれませんが。でも宇多天皇も「やられっぱなし」というわけではないんですよ。そのあたりは次回の更新で…。
ぴーち こんばんは!
摂政は、確か聖徳太子もでしたよね!
(唯一、この方しか知らないと言う^^;)
関白と言えば、豊臣秀吉かしら。。
有名人ばかりしか知らなくって、ごめんなさい^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 摂政は、確か聖徳太子もでしたよね!
> (唯一、この方しか知らないと言う^^;)
> 関白と言えば、豊臣秀吉かしら。。
> 有名人ばかりしか知らなくって、ごめんなさい^^;
摂政と関白で有名な人々ですよね。平安時代は藤原氏ばかりが摂政・関白に就任していますよ。
これからしばらくの間は出てくることになりますが、おそらくぴーちさんがお聞きになった人々も登場すると思いますので、楽しみに待っていて下さいね(^o^)丿
オバrev 基経って、方光寺の鐘の文言にケチをつけた家康みたいですね。やり手だろうけど、嫌な奴(`Д´)
目的は、ライバルである?橘広相を失脚させて、自分が権力をにぎるためですか??
宇多天皇も「あっそう、仕事しないなら君はもう出廷しなくていいよ。関白は橘君にやってもらうからね。」と言えなかったんだろうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 基経って、方光寺の鐘の文言にケチをつけた家康みたいですね。やり手だろうけど、嫌な奴(`Д´)
「言いがかり」という点ではよく似ていますよね。「阿衡」の解釈の仕方が気に入らないなんて、子供じゃないんだから…。
> 目的は、ライバルである?橘広相を失脚させて、自分が権力をにぎるためですか??
直接の証拠はありませんが、そう考えて差し支えないでしょう。同時に宇多天皇への「圧力」にもなったと思われます。
> 宇多天皇も「あっそう、仕事しないなら君はもう出廷しなくていいよ。関白は橘君にやってもらうからね。」と言えなかったんだろうか。
藤原氏の皇室への食い込み方が尋常ではありませんから、切りたくても切れなかったのでしょう。もっとも、この後で宇多天皇による「逆襲」が始まります。
アキ がっ!
も、もう藤原の名が!(結構この時代から興味アリ)
普段は毎日更新されていると、楽しみ!と嬉々としてお邪魔していましたが、
今回のようにしばらくお邪魔できない日が続くと、進むスピードについていけず
『そんな毎日更新しないで~』
と思ってしまう・・・人間とはなんとも勝手なものでございます(オマエだけだよ)
これからじっくり過去ログ拝読いたします♪
アキさんへ
黒田裕樹 > がっ!
> も、もう藤原の名が!(結構この時代から興味アリ)
そうです、もう藤原氏ですよ(笑)。まぁ本格的な摂関政治はまだ先の話(11世紀)ですが…。
> 普段は毎日更新されていると、楽しみ!と嬉々としてお邪魔していましたが、
> 今回のようにしばらくお邪魔できない日が続くと、進むスピードについていけず
> 『そんな毎日更新しないで~』
> と思ってしまう・・・人間とはなんとも勝手なものでございます(オマエだけだよ)
いえいえ、その気持ちはよく分かります。俗にいう「浦島太郎」状態ですからね(笑)。
私もそれが嫌ですから、わざわざネカフェまで出張することがありますし(^^ゞ
> これからじっくり過去ログ拝読いたします♪
はい、どうぞごゆっくりご覧下さい(^o^)丿
過去記事でのコメントも歓迎しますよ♪
「摂政基経」
徳薙零己 お久しぶりです。
弊ブログ「いささめ」にて、2作品を並行して後悔しております。
一つは、応天門の変から藤原基経が摂政となり陽成天皇が元服するまでを描く「摂政基経」。
もう一つは、マンガを使っての平安時代の解説です。
「摂政基経」で取り上げる時代は、「藤原北家の台頭 その4」の冒頭2行だけという狭い時代ですが、当時の歴史書を紐解いてみますと結構面白いことが色々と出てきました。
恒例により、今回の作品も原稿用紙500枚超という長編となっておりますが、よろしければお立ち寄り願います。
徳薙零己さんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。
貴ブログは拝見しておりますよ。京子先生の漫画は楽しいですが、時々身につまされる話もあります(笑)。
長編物語の執筆、いつもお疲れ様です。通史をまんべんなく紹介するのも重要ですが、一つの時代を深く掘り下げる作業はもっと大切だと思います。
菅原氏は代々学者の一族でしたが、特に優秀であった道真は宇多天皇のご信任を受けて要職を歴任しました。894年には遣唐使の大使に任命されましたが、道真は唐の勢力が衰えていることを理由に遣唐使の中止を進言し、認められました。その後907年に唐が滅亡したため、遣唐使は二度と派遣されることはありませんでした。
897年、宇多天皇は実子で母が藤原冬嗣の血を引く第60代の醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位されましたが、宇多上皇は醍醐天皇に菅原道真を引き続き重用するよう強く求められました。そして899年、道真はついに右大臣となり、同時に左大臣となった藤原時平と肩を並べることになりました。
「このままでは道真率いる菅原氏によって藤原氏が築いてきた栄光を乗っ取られてしまう」。焦った時平は、901年に醍醐天皇に対して 「道真が自分の娘婿である斎世親王(ときよしんのう)を皇位に就けようとしている」というデタラメな密告をしました。
この讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用された醍醐天皇は、直ちに道真を北九州の大宰府(だざいふ)の役職である大宰権帥(だざいごんのそち)へと左遷(させん)されました。2年後の903年、道真は左遷先の大宰府で失意のうちに亡くなりましたが、この事件がやがて我が国全体を揺るがす大騒動へと発展することになるとは、当時の誰もが予想できないことでした。




いつも有難うございます。
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marihime 黒田さんこんにちは♪
留守中にコメントいただきありがとうございました。
またこれからもよろしくねσ(゚ー^*)
marihimeさんへ
黒田裕樹 > 留守中にコメントいただきありがとうございました。
> またこれからもよろしくねσ(゚ー^*)
お帰りなさいませm(_ _)m
またこちらからも訪問させていただきます。
ウミタク 初めまして!ご訪問とわざわざコメントまでありがとうございました!<(_ _*)>
いつもちらちら見させていただいてます!
またうかがわせていただきますね!
ウミタクさんへ
黒田裕樹 > 初めまして!ご訪問とわざわざコメントまでありがとうございました!<(_ _*)>
いえいえ、日本史好きという記事を拝見しましたので、応援させていただきました(^^♪
科目の好き嫌いは先生次第といいますからね。良い先生にめぐり会えてよかったですね(^_^)v
> いつもちらちら見させていただいてます!
> またうかがわせていただきますね!
有難うございます。こんな講座で宜しければ、いつでもご訪問下さいm(_ _)m
NoTitle
徳薙零己 原稿用紙320枚の小説(http://ameblo.jp/tokunagi-reiki/theme123-10008744135.html#main)がこうまとまると、小説の募集に提出する梗概はこう書けば良かったのだなと思わせられます。
徳薙零己さんへ
黒田裕樹 お久しぶりです。
小説、一気に読ませていただきました。素晴らしい力作ですね。
ブログをご覧の皆様にもお勧めします。
http://ameblo.jp/tokunagi-reiki
> 原稿用紙320枚の小説(http://ameblo.jp/tokunagi-reiki/theme123-10008744135.html#main)がこうまとまると、小説の募集に提出する梗概はこう書けば良かったのだなと思わせられます。
梗概=あらすじは簡潔さが要求されますから、徳薙さんのような長編小説は大変ですよね。小説とは展開が全く異なりますが、ご参考になれば光栄に思います。
また、この頃には全国的に天災や疫病(えきびょう)が立て続けに発生し、これらの不幸が道真の怨霊(おんりょう)によって起きたと判断された醍醐天皇は、923年に道真の左遷を取り消されて生前と同じ右大臣の地位を追贈(後の993年にはさらに太政大臣を追贈)されましたが、930年には平安京の清涼殿(せいりょうでん)に落雷が発生して炎上し、かつて左遷後の道真の動きを監視していた役人を含めて多数の死傷者が出てしまいました。
ご自身の居所で発生した惨劇に強い衝撃を受けられた醍醐天皇は体調を崩され、落雷から数ヶ月後に子の第61代の朱雀天皇(すざくてんのう)に譲位されると、程なく崩御されました。「道真公の怨霊が天皇様の御生命まで奪った」。恐怖におびえた当時の人々は、道真の怨霊を鎮めるのに躍起(やっき)になりました。
919年、道真が亡くなった大宰府の墓所に社殿が建てられたのを皮切りに、947年には京都の北野にも社殿を建てて道真を祀(まつ)るなど、全国的に道真を祀った神社が建立されました。道真は、落雷を起こしたことで雷の神であった火雷天神(からいてんじん)と同一視され、やがて「天神様」と称されました。また、「雷神となった道真公の怨霊が天に満ちた」ことから、道真を祀った社(やしろ)は「天満宮」(てんまんぐう)と称されるようになり、先述の社も後世には太宰府天満宮や北野天満宮などと呼ばれるようになりました。
やがて時代が下り、怨霊から穏(おだ)やかな御霊(みたま)へと変化した道真に対して、人々は自然と信仰心を抱くようになり、江戸時代の頃には道真が生前に著名な学者や歌人であったことから「学問の神様」として信仰されるようになりました。こうした菅原道真をめぐる「天神信仰」は、21世紀の現代においても国民から絶大なる支持を受けているのです。




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mee; 天満宮の所以とても興味深く拝見しました
おもしろいですね~
天満宮をお参りする楽しみが増えました
ケンシロウ こんにちは。
今日は第5回の講座の日でしたね。
お疲れ様です。前回に続き好評だったことと思います。
カウンターも10,000Hitをオーバーしたようで
おめでとうございます。
これも先生の努力の結果でしょうね。
これからも皆から愛されるブログ更新を
頑張って続けて下さい。
紗那 道真さんだ!
受験生にとっては、心強い味方ですー
うちの叔母が北の天満宮の周辺に住んでるから、北の天満宮のお守りをもらうことにしましたー
この辺の道真ののろいのあたりは知ってました。
mee;さんへ
黒田裕樹 > 天満宮の所以とても興味深く拝見しました
> おもしろいですね~
> 天満宮をお参りする楽しみが増えました
成立の経緯や名前の由来にも色々あるんですよね。
仰るように、それらが分かればお参りする楽しみが増えるものです(^^♪
そういえばお彼岸の季節ですね…
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 今日は第5回の講座の日でしたね。
> お疲れ様です。前回に続き好評だったことと思います。
講座は無事終了しました。詳細は別記事で書かせていただきます。
> カウンターも10,000Hitをオーバーしたようで
> おめでとうございます。
> これも先生の努力の結果でしょうね。
> これからも皆から愛されるブログ更新を
> 頑張って続けて下さい。
有難うございます。皆様に支えられてこその10000HITですから、これからもご期待に添えるよう頑張ります。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 道真さんだ!
> 受験生にとっては、心強い味方ですー
そうですよね。季節には少し早いですが、何といっても「受験の神様」ですからね。
> うちの叔母が北の天満宮の周辺に住んでるから、北の天満宮のお守りをもらうことにしましたー
北野の天神さんですか。ご利益があればいいですね。
> この辺の道真ののろいのあたりは知ってました。
結構有名ですからね。天皇陛下まで犠牲になられたという「事実」が、当時の人々には余程ショックだったと思います。
また、法令の整備として延喜格式(えんぎしゃくしき)の作成を命じられたり、六国史(りっこくし)の最後である日本三代実録(にほんさんだいじつろく)を完成させたり、我が国最初の勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編さんすること)和歌集である古今和歌集(こきんわかしゅう)を成立させたりするなど、文化事業も積極的に行われました。ちなみに、真言宗を広めた空海に対して921年に弘法大師(こうぼうだいし)の名を贈られたのも醍醐天皇です。
930年に醍醐天皇が崩御されると、藤原時平の弟である藤原忠平(ふじわらのただひら)が朱雀天皇のもとで摂政や関白となりましたが、彼の死後は朱雀天皇の弟である第62代の村上天皇(むらかみてんのう)が、父の醍醐天皇と同様に摂政や関白を置かれずに親政を行われました。
醍醐天皇と村上天皇による親政は、当時の年号から延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)として後世に称えられました。その後、鎌倉時代末期に醍醐天皇の治世を目標とされ、本来は崩御後に贈られる追号(ついごう)を、生前からお決めになられた天皇がおられました。第96代の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)のことです。
(明日からは第5回歴史講座の内容を、6時と18時の二回に分けて更新します)




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
弘法大師といえば蒲郡の弘法大師像を思い出します。
三谷温泉という温泉街の頂上にありますが
今ではラグーナ蒲郡なども出来て
新しい観光地になったのかな?
仕事の際にもたまに通りますが
山頂へ行った記憶は子供の頃。
正式には子安弘法大師になるのかな?
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 貴重な情報有難うございます。
早速調べましたが、結構大きな像ですね。
空海には安産の伝説もありますから、仰るとおり子安大師として親しまれているようです。
後醍醐天皇
オバrev 黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
このまえのコメントで、一つ大事なことを忘れてました~(^_^;)アチャー
それは、まず失敗するのは当たり前と思うことと、覚悟です。
8の覚悟しかできてない人は、12の覚悟ができている人には叶わないと言われていました。
わかちゃいるけど、できないオバです(T_T)
ところで本題ですが、あの建武の新政でしたか、で有名な後醍醐天皇は、醍醐天皇を目標にしたんですか。
後醍醐となっているから、どこかに醍醐天皇がおられると思ってました。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
有難うございますm(_ _)m
> このまえのコメントで、一つ大事なことを忘れてました~(^_^;)アチャー
> それは、まず失敗するのは当たり前と思うことと、覚悟です。
> 8の覚悟しかできてない人は、12の覚悟ができている人には叶わないと言われていました。
> わかちゃいるけど、できないオバです(T_T)
確かにそうですね。失敗を恐れずに、失敗したとしても次回の成功に導いていく努力が必要ですね。
かく言う私も色々失敗したからこそ、今のようにブログを続けているようなものです。
手前味噌ですが、「失敗」に関してはブログの一番最初に書いてあります。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-1.html
> ところで本題ですが、あの建武の新政でしたか、で有名な後醍醐天皇は、醍醐天皇を目標にしたんですか。
> 後醍醐となっているから、どこかに醍醐天皇がおられると思ってました。
仰るとおりです。500年前の天皇親政を理想とされたからこそ、追号をあらかじめご自身で決めておられたんです。建武の新政については、当ブログではいつ紹介できるでしょうか…(^^ゞ