豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、政治の実権を握(にぎ)ったのは徳川家康(とくがわいえやす)でした。家康は、幼い頃(ころ)から織田家(おだけ)、次いで今川家(いまがわけ)に人質として預けられるという厳(きび)しい人生を過ごしましたが、1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いを契機(けいき)に織田信長(おだのぶなが)と同盟を結び、先祖伝来(せんぞでんらい)の三河(みかわ、現在の愛知県東部)を中心に勢力を広げました。
信長が1582年に本能寺の変で倒されると、家康は秀吉と争った後に従(したが)い、1590年に北条氏(ほうじょうし)が滅(ほろ)ぼされて秀吉が天下を統一すると、家康は北条氏の旧領である関東の6ヵ国を秀吉から与えられ、250万石を支配する大大名になりました。そして、秀吉の晩年には五大老(ごたいろう)の筆頭となり、秀吉の死の直前には跡継(あとつ)ぎの秀頼(ひでより)の将来を託(たく)されました。
しかし、家康には秀吉の遺言(ゆいごん)を守る意思はありませんでした。下剋上(げこくじょう)といわれた戦国の世のならいそのままに、秀頼の後見人(こうけんにん)としての地位を利用しての専横(せんおう、好き勝手にふるまうこと)ぶりが目立ち始めるようになったのです。
そんな家康の様子を苦々(にがにが)しく思っていたのが秀吉の家臣であった石田三成(いしだみつなり)でした。三成は家康を倒して豊臣政権の安泰(あんたい)を図ろうとしたのですが、そんな彼には致命的(ちめいてき)な弱点があり、彼の決起はかえって豊臣家の将来に暗い影を投げかける結果をもたらしてしまいました。




いつも有難うございます。
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HANA子 江戸時代から明治にかけて、奸臣・悪人とされ、秀吉の威をかる狐だったと低評価を受けてきた三成はその実、優秀な行政官僚であった
そんな説は最近では優勢になってきましたけど、
反面豊臣氏政権下で絶大な権勢を誇ったがゆえに敵が多かったのも事実のようですね
資料・文献によって評価が分かれるこの人物が江戸時代に及ぼした影響とは?
次回も楽しみにしていますね^^
石田三成の凄さ
青田です。 こんにちは
黒田先生
青田です。
いよいよ、私の好きな『関ヶ原の戦い』に
話が進みそうですね。
この『関ヶ原の戦い』は、結果を知っているから
徳川家康の圧勝だと思ってしまいますが、
よく、考えたら、24万石の石田三成が
250万石の徳川家康にたいして、
それに対抗できる勢力をプロデュースしたという点では、かなり、有能だったと思います。
明治時代の日本の陸軍の教官だった
『メッケル少佐』が、関ヶ原の戦いの布陣を観た時、『西軍の圧勝』だと言ったのは、有名ですよね。
この石田三成について、不思議なのは、
石田三成の子供は、全員、助かっているということです。
嫡男の石田重家は、1686年まで生きています。
二男の石田重成は、1641まで生きています。
娘の辰姫は、津軽藩の藩主の室で、1623年まで生きています。
そう考えると、これは、私の想像の世界ですが
徳川家康自身、石田三成を武将として、官僚として
忠義の人間だと認めていたように思うのですが
黒田先生は、どう思われますか。
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、江戸幕府から見た一方的な評価しかされてこなかった三成の真実の姿が明らかになりつつありますね。
次回(11日)で三成に対する客観的な評価をするとともに、その後の戦いについても紹介したいと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 関ヶ原の戦いについては通常の更新では簡単に紹介することになりますが、いずれ時期を見て「本物の歴史講座」で取り上げたいと考えております。
仰るとおり、三成本人はともかく子を罰しなかったことは、三成の実力を家康が認めていたからかもしれませんね。逆に言えば、それだけ三成本人を極悪人に仕立てる必要もあったのかもしれません。
関ヶ原の戦い
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
関ヶ原の戦いで、
徳川家康以外の五大老は、みんな西軍に属しています。
これは、勝てると思ったから、西軍に属したんですよね。
(単なる石田三成の策略だけではなく)
ただ、結果として、負けたから、歴史のドラマでは、石田三成が敗因の原因のように描かれることが多いように思います。
何だか『秀吉の朝鮮出兵』の講座内容と似ている気がします。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かに一方的な考えは朝鮮出兵に通じる面がありますね。
今回の更新では通説を基本としていますが、以前にも申しあげたとおり、いずれ機会を設けてじっくりと検証してみたいと思います。
しー あ、明治からと書きましたが、
江戸をちょっとやってからでしたw
あれ、でもなんでだろう…
全く覚えてなry
いや、きっと、まだまともな授業を1時間もやってないからで(殴
…笑。
クラパートには、
部名に徳川家康が入っていて(それにミドルネームがw)
先輩はミドルネームで呼ぶのですが、
うちら2年は「家康ー」と呼んでいる子がいるので非常に変な感じです^^;
(あ、他には先輩で直江兼続がいるんですヨw)
しーさんへ
黒田裕樹 > あ、明治からと書きましたが、
> 江戸をちょっとやってからでしたw
> あれ、でもなんでだろう…
> 全く覚えてなry
> いや、きっと、まだまともな授業を1時間もやってないからで(殴
…(^^ゞ
まぁ、まだ4月ですからね。
でも、インパクトある授業をしないと存在感が(ry
> …笑。
> クラパートには、
> 部名に徳川家康が入っていて(それにミドルネームがw)
> 先輩はミドルネームで呼ぶのですが、
> うちら2年は「家康ー」と呼んでいる子がいるので非常に変な感じです^^;
> (あ、他には先輩で直江兼続がいるんですヨw)
凄い名前ですね。
直江兼続なんて渋すぎる…。一昨年の大河の影響かな?
私だったら「官兵衛」かな…って、そのまんまやがな(´・ω・`)
特に軍事面に強い武将とは相性が悪く、自分と同じく秀吉に忠実な家臣であった加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らといつしか不仲となるとやがて対立し、三成が家康に対して兵を挙げると、彼らは家康に従うようになってしまったのです。
1600年の旧暦9月15日、家康率いる東軍と三成率いる西軍が美濃(みの、現在の岐阜県南部)の関ヶ原(せきがはら)で激突(げきとつ)しました。戦いは西軍の優位で進みましたが、小早川秀秋(こばやかわひであき)が三成を裏切って家康側につくと形勢は一気に逆転して、三成はその日のうちに敗走しました。
世にいう関ヶ原の戦いに勝利した家康は、やがて西軍側の大名を次々と処分しました。例えば三成や小西行長(こにしゆきなが)らは京都で処刑され、宇喜多秀家(うきたひでいえ)は流罪(るざい)となるなど多くの大名が領地を没収(ぼっしゅう)されるとともに、西軍の総大将であった毛利輝元(もうりてるもと)や上杉景勝(うえすぎかげかつ)らが大幅に領地を削(けず)られました。
また豊臣家も、それまで所有していた金山などの豊富な資金源を徳川家に没収されたことで、大坂城(おおさかじょう)を中心とする65万石の一大名に転落し、この結果、家康は豊臣家に代わって天下取りに名乗りを挙げるようになったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ここが、私の一番、好きな内容です。
というのが、
徳川家康が、この『関ヶ原の戦い』の後
豊臣家を滅ぼさず、15年間も裏工作をした
理由を考えた時、
① 関ヶ原の戦いの主力は、豊臣恩顧の大名で
その戦いの後も、大幅加増をしなければいけなかった。
② そうなった原因は、徳川秀忠の徳川本隊の
3万8000人の軍勢が、関ヶ原の戦いに遅参した。
そこで、歴史のifを考えた場合、
徳川秀忠の徳川本隊が、もし、『関ヶ原の戦い』に間に合ったとします。
そして、徳川の主力の力だけで、東軍を打ち破ったとしたら
① 豊臣恩顧の大名への大幅加増はなかった。
もっと早い段階で、豊臣家を滅ぼしていた。
と考えますが、黒田先生は、どう思われますか?
青田さんへ
黒田裕樹 興味深いifですね。こういう考察は、実社会でも必要だと思います。
私も基本的に青田さんと同意見です。ただ、加藤清正などの勢力を温存したまま大坂城を攻めていれば徳川家にとっては危険ですから、何らかの裏工作が行われた可能性もありますね。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
このifは、非常に可能性が高かったifなのですが
二代将軍は、徳川秀忠でしたが
ここで、忘れてはいけないのは
徳川秀忠は、三男だったという事実です。
長男の信康は、切腹。
次男の秀康は、結城家に養子に出されました。
ただ、徳川家康が家臣に誰が、後継ぎとして
適しているかを尋ねた時
大久保忠隣以外は、知勇に優れた秀康推す家臣が
大勢いたそうです。
もし、秀康が二代将軍になって、徳川家康が
関ヶ原の戦いの後、間もなく死ぬと
豊臣家への処遇もかなり、違っていたと思いますが
黒田先生は、どう思われますか?
青田さんへ その2
黒田裕樹 結城秀康は家康に血筋を疑われていたこともあり、嫌われていましたね。
また、どう考えても自分以上のカリスマが有り得ない子であれば、家臣を信頼して政治を任せられる秀忠の方が徳川家のためには良かったと思います。
勇猛果敢と伝えられる秀康では、先走り過ぎるあまり家臣との不協和音をうみ、幕府が持たなかったかもしれません。また豊臣家も生かしていたかもしれませんが、そうなると毛利家や島津家以上の爆弾を抱えることになり、やはり幕府は短期間で崩壊していたでしょう。
徳川家康の子供
青田です。 こんにちは
黒田先生
青田です。
徳川家康は、関ヶ原の戦いの後に生まれた後の
御三家の息子達は、可愛がりましたが
それ以前の息子達には、非常に過酷な父親だった
気がします。
長男の信康は、切腹
次男の秀康は、養子に出される。
六男の忠輝は、改易。
もちろん、それぞれ、理由はあると思いますが
関ヶ原の戦いの後に生まれた子供とは、格段の
差があったような気がします。
幕府内での、いろいろな思惑があったのかもしれませんが。。。
青田さんへ その3
黒田裕樹 関ヶ原の戦いの前後では、家康自身の立場も子の運命も全く異なりますからね。
関ヶ原以前はまだ家康の天下とは決まっていなかったし、長男の信康は信長の命令に従って切腹させたという特殊な事情がありました。
一方、関ヶ原以後は「自分の血のセーフティネット」という明確な目的がありましたから、御三家の基礎として大事に育てています。
天下人にとっては、自分の子もチェスの駒のような存在だったのでしょう。
官僚の鏡
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
今、日本では、何かあると
『官僚が悪い。』と官僚批判ばかりしますが
豊臣政権、徳川政権でも、有能な官僚が
いたから、飛躍したと思います。
今度、講座を開く時
逆説~官僚の鏡:石田三成
という題で、官僚の力という切り口から
歴史講座を開催されると面白いと思います。
勝負師(徳川家康)
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、考えたら、関ヶ原の戦いは、徳川家康に
とって、ギリギリの非常に危険な戦いだった
気がします。
① もし、大阪城の豊臣秀頼が出馬すれば、
豊臣恩顧の大名(福島正則など)が、西軍につく。
② 関ヶ原の戦いの中盤で、徳川家康は、本陣を
前線に移動させましたが、南宮山の吉川広家に
いくら根回しをしているといっても、非常に
危険である。(ヒトの心がどう転ぶか、わからないことを家康自身わかっている。)
③ 小早川秀秋の陣に鉄砲を撃ちかける。
結果的に、裏切ったから、良かったが
非常に危険。
こう考えると、この戦いは、本当にギリギリの
戦いだった気がします。
青田さんへ その4
黒田裕樹 何かあれば批判の矢面に立たされる官僚であっても、その官僚がいなければ世の中が回らないということは、石田三成あっての太閤検地ということが証明していますからね。
確かに興味深い企画ですね。ご助言有難うございます。
青田さんへ その5
黒田裕樹 関ヶ原に対して私たちは結果から見ていますから、どうしても「東軍有利」の視点で考えてしまいますが、実際には仰るとおりどちらが勝ってもおかしくなかったですからね。
家康には勝算があったといっても、秀忠が遅参した段階で非常に危険だったと思います。
よくぞ勝ったものですよね。
信長は自らを神として祀(まつ)ることで天皇を超えようとして、また秀吉は天皇の権威(けんい)を利用して関白(かんぱく)となりましたが、家康は自分の本拠地(ほんきょち)が東国の江戸であることも考えて、かつての鎌倉幕府や室町幕府のように自身が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になることで政治を行うことにしました。
征夷大将軍になるためには源頼朝(みなもとのよりとも)や足利尊氏(あしかがたかうじ)のように源氏(げんじ)の血を引いている必要がありましたが、そこは抜(ぬ)け目のない家康は、自分が源氏の子孫であることを以前から朝廷に公認されていたのです。
かくして1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸幕府(えどばくふ)を開きました。しかしながら、この頃にはまだ豊臣家に従う大名も少なくなかったので、家康は以後も時間をかけて徳川家による安定した天下への道を進むことになります。




いつも有難うございます。
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なおまゆ 家康は、歴史をよく学んでいたみたいですね。
それ故に、安定政権を作れたんでしょうね。
、家康の行動を見ていると歴史を学ぶ意味がよく分かります。
豊臣秀頼を殺し、その子国松も処刑したのは残酷という評価もありますが、平清盛の温情が平家を滅ぼしたことを教訓としていますし、部下の使い方は、先輩大名を参考にしていると思えます。
歴史は本当に教訓に満ちて素晴らしい。
「歴史っていいなあ」と思います。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
昨年8月の第17回歴史講座でも紹介しましたが、家康ほど歴史に学んだ人物はいないでしょう。
安定政権には大きな理由がある、ということですね。
だからこそ、歴史は流れでとらえないといけないんです。
偉大なる平凡人
青田です。 黒田先生、なおまゆさん
こんにちは
青田です。
私は、徳川家康は、本当は、かなり、勝負師
だったと思います。
◆ 三ヶ原の戦いでは、劣勢なのに武田信玄に
戦いを挑んで、負ける。
武田の抑えとして、その後も武田の相手をしなければいけない。
◆ 徳川家康が5カ国を領有する天正壬午の乱では、北条氏53000vs徳川10000
◆ 小牧・長久手の戦いでは、
結果的には、徳川軍が勝っていますが
羽柴軍11万にたいして、織田・徳川18000
私は、徳川家康は、石橋を叩いても渡らない忍の
イメージがあったのですが
豊臣秀吉の臣下になるまでは、いつも、少数の徳川軍で、大きな相手と戦っています。
徳川家康の癖は、『爪を噛む』ことであり、
馬の鞍を殴っていたことだと聞いたことが
ありますが
もの凄い、ストレスに耐えていたんでしょうね。
普通にヒトなら、完全にうつ病になりますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
一見慎重に見える家康も、実は博打的な要素を持っており、生死の境をさまよわなければいけないことが多かったのです。
よくぞ70を過ぎるまで耐え抜きましたよね。
幼少の頃からの悲惨な境遇が、ストレスをやり過ごすテクニックを自然と身につけさせていたのかもしれません。
家康は駿府(すんぷ、現在の静岡)に移りましたが、前の将軍を意味する大御所(おおごしょ)として政治の実権を握り続けました。やがて関ヶ原の戦いから10年以上が経過して、加藤清正など豊臣派の大名が次々と死亡する一方で、秀頼が成人してその影響力を高めることで、徳川家の将来に支障(ししょう)をきたす可能性も考えられるようになりました。
すでに70歳を超え、自分に残された時間が少ないことを悟(さと)った家康は、それまでの律義者(りちぎもの)の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪(ろうかい、色々経験を積んでいて悪賢いこと)ぶりで豊臣家を追いつめました。
1614年、秀頼は家康の勧(すす)めで秀吉ゆかりの京都の方広寺(ほうこうじ)を再建し、新たに梵鐘(ぼんしょう、いわゆる鐘のこと)をつくったのですが、その銘文(めいぶん)に記載された文字が、その後の豊臣家の運命を決定づけることになってしまったのです。




いつも有難うございます。
しかし、家康は「君臣豊楽と書いて豊臣家の繁栄(はんえい)を願う一方で、国家安康と書くことで家康の名を二つに割って呪(のろ)いをかけている」と言い出して豊臣家を非難したのです。常識的に考えてそんな解釈(かいしゃく)があるはずがなく、言いがかりも甚(はなは)だしいものでした。
ところが当時の学者や学僧(がくそう)が次々と家康の説を支持したことによって、話が大きくなってしまったのです。豊臣家は弁明の使者として家臣の片桐且元(かたぎりかつもと)を家康のもとへ駿府まで送りましたが、家康が会おうとしなかったために、且元はそのまま駿府に留(とど)め置かれました。
且元がいつまで経(た)っても帰ってこないのを不審(ふしん)に思った豊臣家が別の使者を送ると、家康はすぐに面会して「豊臣家と対立する意思はない」と伝えて使者を返し、その後に家臣を通じて且元に自身の怒りを伝えたうえで「豊臣家が徳川家に逆らう意思がないのであれば誠意(せいい)を示せ」と脅迫(きょうはく)しました。
この結果、豊臣家は先に帰ってきた使者と且元とで全く違う家康の考えを聞いたことになってしまいました。疑心暗鬼(ぎしんあんき)となった豊臣家は且元を追放するなど混乱してしまい、それを好機と見た家康は豊臣家に対して宣戦布告(せんせんふこく)しました。世にいう大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)の始まりです。




いつも有難うございます。
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HANA子 家康の強みは人という存在について誰よりも知っていることだったと思っています
誰よりも人を見ることをしてきたからこそ、誰よりも人の心の動きを知ることが出来た
彼を知り己を知れば百戦皆危うからず、ですか
実の所、徳川家康という人物と漢の高祖劉邦は色んな面で似ている人物ではなかったかとか妄想しています
どれだけ苦渋を舐めても、最後に勝てばそれでいいという思考の面とか
うぅん・・・我ながらちょっと無理のある解釈かも^^;
HANA子さんへ
黒田裕樹 なるほど、鋭い観察眼が他人の心の動きを見ることができた、ということですね。
家康が高祖ですか…。
言われてみれば、辛抱に辛抱を重ねた末に最後で大逆転するあたりは確かに似ていますね。
その後に長期政権(漢は前後に分かれますが)を築いたあたりも同じですし。
決して無理な解釈ではないと思いますよ(^^♪
高祖
青田です。 黒田先生、HANA子さん
こんばんは
青田です。
私のイメージでは、高祖(劉邦)=豊臣秀吉
です。
◆ 劉邦も豊臣秀吉も貧しい農民の出身
◆ 劉邦には、張良と陳平という軍師がいた。
豊臣秀吉には、竹中半兵衛と黒田官兵衛と軍師がいた。
◆ 劉邦は、謙虚に頭を下げることもでき
泣くこともできた。
豊臣秀吉も、謙虚で、泣き落し、誉めることが
得意。
◆ 劉邦は、気前よく、領土を与えて、敵を味方にした。(韓信、鯨布など)
豊臣秀吉もかつての、織田信長の敵を家臣団に
組み入れた。
(上杉氏、毛利氏、長宗我部氏など)
ただ、高祖は、天下を取った後、独裁者病になり
功臣を次々と粛清しました。
これは、仕方ないことなんでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、仰るとおり確かに秀吉のイメージもありますね。
高祖の晩年も、秀吉による秀次に対する仕打ちに似ているような気がします。
独裁者の「毒」は、すべての人間に共通する病のようなものですね。
淀殿
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
淀殿は、父親(浅井長政)、母親(お市の方)
兄弟(兄?)を秀吉に殺されています。
もし、秀吉にたいする深い、恨みがあるとすると
淀殿の行動は、納得できます。
① 秀頼を生むことにより、側室の身分でしかない澱殿が豊臣家を乗っ取る。
→ 淀殿には、何の官職もなく、しかも、単なる側室でしない。
* 豊臣秀吉には、側室が多くいて、年齢的にも
高齢であるのに、淀殿だけに子供が2回も生まれるのは、どう考えてもおかしい。
② 大坂の陣で、憎い豊臣家を滅ぼす。
→ 豊臣秀吉在名中に豊臣秀吉の一族は、ことごとく、
追放、もしくは、死亡。
・秀吉の死亡後、正室の北の政所は、大阪城から、退去。
・ 甥の豊臣秀次は、その一族まで、斬首。
・ 北の政所の親戚の養子の秀秋は、小早川家に
養子に出される。
・ 甥の豊臣秀保が不審死。
つまり、豊臣家は、澱殿が秀吉の側室になった時期から
歯車がおかしくなったわけです。
この当時、女性が復讐する方法としては
澱殿のようなやり方しかないと思います。
これって、考えすぎですかね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 淀殿の視線で見れば、確かに考え過ぎでないような思いもします。
ただ、彼女の復讐が彼女自身の破滅にもつながることが見えていなかった。
そう考えれば復讐の炎は恐ろしいですし、また「英雄色を好む」は決して英雄のためにはならないこともよく分かりますね。
作戦が功を奏(そう)して、家康は大坂城の外堀(そとぼり)を埋(う)めるという、徳川家にとって有利な条件で講和に持ち込むことに成功すると、その工事の際にどさくさにまぎれて内堀(うちぼり)まで埋めてしまいました。いかに巨大な大坂城といえども、堀がなくては裸(はだか)も同然です。
翌1615年5月、再び徳川家に攻められた大坂城は、豊臣方の各兵の奮戦(ふんせん)もむなしく落城し、秀頼と母親の淀殿(よどどの)は自害しました。世にいう大坂夏の陣(おおさかなつのじん)です。なお、この後に秀頼の子で8歳になる男子も捕えられて首をはねられ、豊臣家は完全に滅亡(めつぼう)しました。
1614年から1615年にかけての二度にわたる戦いを、併(あわ)せて大坂の役(おおさかのえき)ともいいます。この戦い以降、徳川家に表立って対抗(たいこう)する勢力はいなくなり、江戸幕府は19世紀後半まで約260年以上も続きました。この時代を江戸時代(えどじだい)といいます。




いつも有難うございます。
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オバrev 確かに世の中は平和となり安定したのですが、この大阪の役の家康の姑息なやり方は、あまり好きじゃないんですよ。
それに、確かに若い時に苦労しているのは分かりますが、往年があまり完璧すぎに見えることに、日本人独特の?判官贔屓も手伝ってでしょうか、この場面だけは豊臣を応援したくなります(^_^;)
HANA子 秀吉が一代で築き上げた豊臣の「正に歴史絵巻」というべきストーリーにはある種のカタルシスを強く感じます。
平家物語のそれもそうですが、
勃興し隆盛を極め、やがて衰退していくその花のような、栄枯盛衰の姿がやはり日本人の感情・・・感傷でしょうか? に強く訴えるからなのかなと。
疑問点
青田です。 黒田先生、皆さん
こんばんは
青田です。
この大阪の陣ですが、疑問があります。
それは、淀殿です。
澱殿が、豊臣家に固執する理由が?です。
① 淀殿にとって、豊臣秀吉は、父親の浅井長政、義父の柴田勝家を殺した憎い敵。
② そもそも、豊臣家も、秀吉が死に、大政所が
死に、甥の秀次が死に、北の政所も京都で、出家していて、秀頼以外、完全に崩壊状態。
そう考えると、澱殿の守りたい豊臣家自体?である。
本当は、豊臣家を守りたいのではなく、過去のトラウマで、自分の居場所がなくなるのが、怖かったのでは。。
③ 淀殿の妹は、お江で、二代将軍秀忠の正室だった。
ドラマでは、仲がイイと描かれていたが、それなら、もっと宥和策が取れたのでは。。。
④ あの(武田信玄、豊臣秀吉と互角に渡り合えた)
徳川家康なら、わざわざ、大阪の陣を起こさなくても
秀頼と淀殿しかいない大阪方を倒すのは、もっと
簡単だったのでは。。
皆さんは、どう思いますか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大坂の役以前からの家康の行動は決してほめられたものではありませんし、大阪在住の私としては家康の汚い手段は絶対に許すことはできません。
しかしながら、この頃の豊臣家に全国を支配するだけの実力があったかといえば、どう考えても疑問符を付けざるをえませんし、家康は結果として江戸時代として200年以上の平和を保っていますから、やはり家康側に軍配を上げざるをえません。
とはいえ、これも仰るとおり、日本人独特の判官贔屓の感情は、源義経がそうであるように、滅びた豊臣家を慕うようになりますね。これが歴史の複雑なところでもあります。
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るような感情や感傷は、日本人独特のものであり、それがまた日本人の感性を高めているのでしょうね。
平家物語のような「敗者の歴史」がつづられているというのも考えてみれば不思議な話ですが、豊臣家の歴史も同じように語り継がれるあたりが、いかにも我が国という感じがします。
青田さんへ
黒田裕樹 淀殿にとって、秀吉という存在は愛憎ともに深かったのではないでしょうか。そんな複雑な感情が、秀吉亡き後の豊臣家の運命を翻弄(ほんろう)したような思いがします。
また、淀殿は秀吉に引き取られるまでに二度の落城を経験していますから、そんな彼女の運命がトラウマとなった可能性は十分考えられますね。ちなみに、淀殿は生涯の最期において三度目の落城(大坂城)を経験するというのも皮肉な話ですが。
大坂の役については、本文にもあるように残り少ない家康の寿命がこのような結果になったと思われます。確かにもう少し違った展開があっても良かったかもしれませんが…。
大阪城
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
あれから、浮かんだことですが、
徳川家康が、恐れていたのは
豊臣家でも、秀頼でもなく、
本当は、難攻不落の大阪城だった気がします。
というのも、徳川家康は、
大阪の陣になる前に、国替えの条件を
豊臣方に出しているからです。
しかも、大阪の冬の陣で、結局、決着が着かず
大阪夏の陣まで、持ち越しています。
歴史のif・・大阪冬の陣で、和議を結ばなければ
◆ 徳川方は、大軍勢で、長引くほど、食糧が不足し、外様大名から、不満が膨れ上がる。
やがて、厭世ムードになるのでは。。
◆ 徳川家康は、夏の陣の翌年に死亡している。
徳川秀忠は、娘の千姫が豊臣秀頼の正室、自分の
正室がお江で、強硬策を取れないのでは。。。
◆ 大阪城には、金銀が豊富にあり、かなりの
期間、籠城できる。
どちらにしろ、大阪城は、正攻法では、落とせませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
難攻不落の大坂城を恐れたがゆえに、国替えさえ認めれば豊臣家は存続できたかもしれません。
大砲で昼夜を問わず攻撃し、外堀だけの約束のはずが内堀までも強引に埋めた。
これらの流れを考えても、大坂城の攻略に家康が神経をとがらせていたのが想像できますね。
なおまゆ 黒田先生、青田さんおはようございます。
青田さんが喝破したように、淀殿は謎です。
父の仇、義父の仇、弟の仇である秀吉の側室になった経緯も不明。
権力者の妻が妹なのに何も情状酌量なし。
淀殿には出生の秘密があったという説もあります。(俗説でしょうが、織田信長とお市の間の近親相姦の子という物です。もしそうなら、秀吉に対する憎しみがないのは説明がつきますし、妹との交流がそれほど親密ではなかったことも説明がつきます。)
いずれにしても、家康は、豊臣家を徹底的に滅亡させなければ、徳川が危ないと知っていました。
平清盛が源頼朝を助命した為、平家が滅んだことをを歴史の教訓として学んでいたのでしょう。
平和を維持する為に、あくどいやり方も時には必要だと現代の政治家が学んでくれればよいのでスガ。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 淀殿の俗説は以前からなおまゆさんがご指摘されておられますね。
家康が歴史に学んで豊臣家を徹底的に叩き潰したことは確かに正しかったです。
平和は綺麗事だけで達成できるものではない。そんな当たり前の常識を理解できない素人な政治家が多すぎます。
さらに幕府は同じ1615年に武家諸法度(ぶけしょはっと)を制定して、新たに城を築(きず)くことや勝手に城を修築(しゅうちく)することを禁止したほか、大名間の婚姻(こんいん)も幕府の許可を必要としたり、大名同士で相互に行動を監視(かんし)することを命じたりするなどの厳しい統制を行いました。
武家諸法度に違反した大名に対して幕府は厳罰(げんばつ)に処しました。例えば、1619年には福島正則が居城である広島城(ひろしまじょう)を幕府に無断で修築したことを秀忠に咎(とが)められ、領地の没収(ぼっしゅう)を意味する改易(かいえき)の処分を受けています。
1623年、秀忠は子の徳川家光(とくがわいえみつ)に将軍職を譲(ゆず)ると、家康にならって大御所として影響力を持ち、幕府権力の基礎固めを続けるとともに、家光によって武家諸法度の一部が改正され、以後も将軍の代替(だいが)わりの度(たび)に少しずつ修正されました。




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なおまゆ 徳川秀忠はもっと評価されるべき将軍だと思います。家康・家光の陰に隠れて目立ちませんが、たいした力量と思います。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 徳川秀忠はもっと評価されるべき将軍だと思います。家康・家光の陰に隠れて目立ちませんが、たいした力量と思います。
そうですね。秀忠自身は凡庸だったかもしれませんが、有力な家臣を自由自在に動かすことができたのは秀忠の能力が高かったからこそですからね。
また、関ヶ原の戦い以前から徳川家に従っていた、旧来(きゅうらい)の家臣出身の大名は譜代(ふだい)と呼ばれ、関ヶ原の戦い以降に従った大名は外様(とざま)と呼ばれましたが、外様は領地こそ広かったものの、江戸から遠くに配置され、政治に参加できませんでした。
その一方、親藩や譜代は徳川家にとって防衛上(ぼうえいじょう)などの重要な場所を領することが多く、また譜代の中からは幕府の政治の中心となって活躍した多くの大名が生まれましたが、彼らの領地は多くても10万石前後に留(とど)まっていました。
つまり、政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えたのです。これは、かつて守護大名が財力と権力とを同時に持っていたがゆえに、室町幕府の言うことを聞かなくなってしまったという失敗の教訓を生かした、徳川家による「大名の権力と財力との分散」でした。




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クメゼミ塾長 外様を、江戸から遠くに配置
⇒これが明治維新の土壌になったのですから
何がどう影響するのか ですね。
でも、少なくとも260年以上は徳川政権を維持したのですから成功なのでしょうね。
いつも毎日コツコツと纏められ感心しています。
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ぴーち こんにちは!
室町幕府の失敗が再び現代の政治家体質に
反映されてしまっているかのように感じました。
財力と権力を同時に持ちあわせてしまうと
政治家さん達は、国民の意見を蔑ろにする・(^_^;)
凸・
クメゼミ塾長さんへ
黒田裕樹 こちらこそいつもご訪問下さり、またこの度はお褒めのお言葉をいただきまして有難うございます。
仰るとおり、外様の配置は明治維新の遠因となった一方で、江戸時代が260年以上も続いた主因になったのですから、成功であるといえますし、また物事には表と裏の両面が存在する好例にもなっていますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、これは私も気づきませんでした。
現代の政党政治は様々な意味で制度疲労を起こしているようですね。
再び「一から出直す」時期に来ているのかもしれません。
御三家。
晴雨堂ミカエル 私が聞いた話では、当初の御三家は宗家と尾張と紀伊の三家だったのが、水戸が格上げを政治的に突き上げた結果、いつの時期から宗家を神棚にあげて尾張と紀伊とで御三家になったとか。
水戸は他の二家に比べて石高も家格も一段下です。さらに宗家が絶えたさいのスペアにもされていません。
水戸家は幕府にとっては厄介者ですかな?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私が仕入れた情報では、水戸家は徳川家が将来朝敵になった際に、家名を残すためにわざと朝廷と親しくなるように家訓を授けたらしいのです。
だから将軍後継から外されるとともに、尊王の水戸学が隆盛するきっかけになったとか。
最後の将軍が水戸家出身の慶喜というのも因縁かもしれませんね。
オバrev なるほど~!素晴らしい~!
これらは戦国時代を終わらせ、徳川時代を確立するための決定打ですね。
野球で言えば昭和50年10月15日、カープが初優勝を決めた対巨人戦、8回を終わって1対0カープリードの緊迫した試合で、9回表に出た勝負を、いや優勝を決めたホプキンスの3ランホームランと同じ感じですかね(^0^;)
それにしても、特に親藩、譜代、外様の石高と権限については、ただただ感心です。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~!素晴らしい~!
> これらは戦国時代を終わらせ、徳川時代を確立するための決定打ですね。
仰るとおり、平和な江戸時代の到来のためのダメ押し打ですね(^^♪
> 野球で言えば昭和50年10月15日、カープが初優勝を決めた対巨人戦、8回を終わって1対0カープリードの緊迫した試合で、9回表に出た勝負を、いや優勝を決めたホプキンスの3ランホームランと同じ感じですかね(^0^;)
何とまたコアな例えを…(^^ゞ
残念ながらこの頃のカープを私は知らないんですよね(´・ω・`)
ギャレットとライトルなら良く知っているのですが…。
> それにしても、特に親藩、譜代、外様の石高と権限については、ただただ感心です。
本当にそうですね。家康は歴史をよく勉強しています。
翌1635年には新たな武家諸法度となる寛永令(かんえいれい)を発布(はっぷ)して、諸大名に妻子を江戸に残して人質としたうえで、江戸と国元(くにもと)とを1年おきに往復する参勤交代(さんきんこうたい)を義務づけました。
参勤交代は大勢の供(とも)を連れて長い道中を移動しなければならず、水陸交通の発達などをうながす一方で、諸大名は多大な出費を負担しなければいけませんでした。この他にも、普請役(ふしんやく)として江戸城などの修築や各地の河川(かせん)などの土木工事を幕府が強要したことによって、多くの大名が経済的な負担に苦しむようになりました。
これは、諸大名に多大な負担を押し付けることによって倒幕への軍備などを整えさせないようにするための、江戸幕府による作戦でもありました。こうして、家光の頃までには将軍と諸大名との主従関係が確立しました。なお、将軍と大名、すなわち幕府と藩(はん)によって全国を支配する体制を幕藩体制(ばくはんたいせい)といいます。




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ぴーち こんばんは!
幕府も考えるものですねぇ。
主従関係と独裁政治は同義語だったのかしら・・と錯覚を起してしまいそうになりました(^^ゞ
それにしても、諸大名からは経済的に苦しむようになっても、不平不満は出なかったのでしょうか。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 幕府も考えるものですねぇ。
> 主従関係と独裁政治は同義語だったのかしら・・と錯覚を起してしまいそうになりました(^^ゞ
確かに間違えそうですね(´・ω・`)
平和のためとはいえ、ここまでやりますか…。
> それにしても、諸大名からは経済的に苦しむようになっても、不平不満は出なかったのでしょうか。
もちろん出たと思います。
しかしながら、幕府の武力には誰も逆らえません。
そう、武力がにらみを利かしている間は。しかし、それが無くなれば…。
HANA子 中央政府の統制がきいている間はよし
その統制と強制力が弱まった時には・・・
それは日本のみならず世界中の歴史が示しているところですものね
日本においては、それが幕末──黒船の来航であったとされていますが、実の所「黒船来航」はその引き金に過ぎず、幕末の足音はそれ以前から忍び寄りつつあった……と考えています
先生のその辺の考察も伺ってみたいな~と
それはさておき、その後260年も続いた幕藩体制の土台というか、そのものが既に初期の段階でほぼ完成しているということには、やはり家康からの徳川三代の凄さが際立つというものですね
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 中央政府の統制がきいている間はよし
> その統制と強制力が弱まった時には・・・
> それは日本のみならず世界中の歴史が示しているところですものね
> 日本においては、それが幕末──黒船の来航であったとされていますが、実の所「黒船来航」はその引き金に過ぎず、幕末の足音はそれ以前から忍び寄りつつあった……と考えています
> 先生のその辺の考察も伺ってみたいな~と
仰るとおり、世界の歴史がこの流れを証明していますね。
政権発足当時は将来の統制の緩みをなかなか想像できないものです。
幕末については以前に本物の歴史講座で断片的に紹介してきましたが、通史でもいずれ紹介しますよ。
ただ、いつごろできるが定かではありませんが…。
> それはさておき、その後260年も続いた幕藩体制の土台というか、そのものが既に初期の段階でほぼ完成しているということには、やはり家康からの徳川三代の凄さが際立つというものですね
これも仰るとおりです。
家康のみならず、秀忠と家光の功績(老中に政治を任せたことも含む)は大きいものがありますね。
幕府は、産出した金銀を使用して貨幣(かへい)の鋳造権(ちゅうぞうけん)を独占(どくせん)して財政をコントロールするとともに、江戸や京都・大坂・長崎・堺などの主要都市を直轄とし、商工業や貿易を統制することで財源を確保しました。
設立当初の幕府は強大な軍事力を持っており、その主体となったのは将軍直属の家臣団である旗本(はたもと)や御家人(ごけにん)でした。彼らは1万石未満の直参(じきさん)と呼ばれ、将軍に謁見(えっけん、目上の人に会うこと)を許される(=旗本)のと許されない(=御家人)との身分の違いがありましたが、いずれも江戸に住み、石高や才能に応じて様々な役職に就(つ)きました。
なお、享保(きょうほう)年間の1722年の調査において、旗本は約5,200人、御家人は約17,400人いたとされています。これらに旗本の家臣を合わせて、俗に「旗本八万騎(はたもとはちまんき)」と称されました。




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ぴーち こんにちは!
江戸時代の推定人口は3000万人だと
言われている中の8万人ですか。
現代の日本人口約1億2000万人に換算すると4倍なので32万人くらいの割合でしょうか(すみません、勝手な憶測です)
現代の自衛隊の総数が約24万人という事ですので
それよりも大勢居たという事ですか・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、言われてみれば確かに仰るとおりですね。
そう考えれば、設立当初の幕府軍の層の厚さがうかがえます。
ただし、この層の厚さは時間が経つとともに…。
時の流れは残酷なこともあります。
旗本八万騎
晴雨堂ミカエル よく旗本八万騎は虚構という話を耳にしますが、そこそこの旗本なら槍持ちや従卒が従えていましたし、大身旗本ともなれば数十人の家臣がいた事でしょう。
これらを合わせれば、八万騎は誇張にしても八万兵はいたと思いますが、そのあたりのデータはお持ちですか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 残念ながらそこまでの資料は入手しておりません。
ただ、仰るように八万兵は少なくともいたと考えて良さそうです。
幕府の設立当初は大いに役立ったことでしょうね。
なぜなら、我が国では憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)での「和の精神」に象徴(しょうちょう)されるように、何事も多数の人間の話し合いで決めるという慣習が昔から存在するからです。多数決の論理が我が国でもてはやされる一方で、独裁政治が長続きすることが好まれないということが、過去の歴史から学んだ家康には分かっていました。
そこで、家康は将軍の下に数人の年寄(としより)を置いて、彼らの合議制(ごうぎせい)によって政治上の重要な決裁(けっさい)を行う方式を考案し、やがて家光の頃までには、年寄が老中(ろうじゅう)と名を変えて定着しました。
このシステムによって、将軍は老中が決めたことを承認するだけで済み、将軍自身の資質に関係なく幕政がうまく機能するようになったのです。家康の没後に始められた「独裁者を出さないシステム」が定着したことで、幕政の安定化が図(はか)られることになりました。
なお、老中の上には臨時職として大老(たいろう)が置かれることもあり、通常は重要事項の決定のみ合議に参加しました。




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ぴーち こんにちは!
現代の政治体制も元はといえば、聖徳太子の「十七条憲法」からの和の精神を脈々と受け継いで来ている訳だったんですね!
そして家康の時代に「独裁者を出さないシステム」理論が出来上がったのですか。
確かに独裁政治は、さして苦労なくすぐに法案が成立してしまうというメリットはあるでしょう。けれど、何事も多人数の意見を聞いて法案を決定させようとすると、なかなか決まりづらいデメリットはあるものの、大勢の異なる角度からの意見で推し進めるという事は慎重に論議された分、失敗も少なく済みますものね。
それが本当の意味の前向きな論議であって欲しいですけれど(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国の風土には合議制の方があっていますね。
ただ、今回のような非常時の場合には、多少は強引であっても独裁政治のような即決の方が良いかもしれません。
もっとも、即決した事案に問題があってはもっと大事(おおごと)になってしまいますが…。
J時永 合議制と日本古来の和の精神を結びつけるとは流石です!なるほど!やっぱり根付いたやり方でやった方が長く続くんですね。
合議制の良い点は複数人で決めるのでそれぞれの有利不利が極端にならないところですかね。その反面決断を出すのに時間がかかる、という短所もあります。
一代目はそのカリスマ性で独裁政治を行い、二代目以降は将軍の資質を考慮して合議制…こう思うと鎌倉幕府の政治体制を思い出します。鎌倉幕府は実朝の代で終わってしまったので北条氏の力が大きくなってしまいましたが、徳川家は嫡流だけでなく御三家御三卿もあったのでそれが旗本御家人の進出をある程度抑え込んだのかと思います。こうした幅広い「部下に対する対策」が260年の歴史を生み出したのでしょう。途中で少し狂ったりしましたが・・・。
現在では…確かに時間も迫ってますしトップの即決力が必要ですね!どうなるんでしょうねー。
それでは!
J時永さんへ
黒田裕樹 有難うございます。
我が国に根付いた手法は、仰るとおり組織を長持ちさせますからね。
鎌倉幕府は頼朝亡き後の源氏がガタガタだったのが響きました。徳川家は家康が鬼籍に入るころまでに盤石になっていましたから、この差は大きいと思います。
現状の場合は、やはりトップの迅速かつ的確な判断が待たれるところですね。
合議制
青田です。 黒田先生、J時永さんへ
こんばんは
青田です。
私は、合議制について、非常にネガティブな
イメージを今まで持っていました。
日本の組織で、
根回し、談合、癒着、無責任、派閥
これらを、よく、観るからです。
しかし、民意を反映させるというのは、
やはり、合議制ですね。
合議制は、時間もかかるし、面倒なことも
多くあります。
しかし、組織を長続きさせるには、最適なんでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 合議制は根回しに通じますから、確かにネガティブなイメージがありますね。
ところが、いざ自分がその場に立つと「事前に聞いていない」と拒否反応を示すことになる。
日本人の特性がよく表れていると思います。
HANA子 日本と古代ローマの奇妙な類似性については塩野七生先生の著書以外にもよく聞かれる説ですが、
ここでもそれを強く感じるように思います。
巨大な国家の運営をしていく中で、一人の人物に多大な権限と責任が重くのしかかる状況を回避する仕組みということで、帝政ローマと徳川幕藩体制は似ていないでしょうか?
徳川家は記事の通り年寄り(後老中)の合議制によって将軍を補佐する仕組みを作り、その下に巨大な官僚組織を作って国家全体を見通す仕組みを構築していきました。
帝政ローマは共和制ローマの仕組みを上手く使い、元老院・官僚組織をより時代にあわせて構築しなおして、元首=皇帝を頂く仕組みをつくって巨大な国土を運営していきました、と
ま、殆ど人の受け売りの話なんですが悪くないんじゃないかなと。
そうそう、全然関係ないですが、古代ローマ人と日本人って温泉好きって共通項もあるんだそうですw
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、確かに共通点が多いですね。
いくら歴史に学んだ家康でも、まさか古代ローマのことは知っているとは思えませんから、過去の失敗から学んだ人間がたどり着く道が同じだったということかもしれません。
目付は若年寄の下に置かれて旗本・御家人を監察し、大目付は老中の下に置かれて大名を監察するのが業務でした。この二つは区別が非常にややこしいので注意が必要です。
幕政における実務の処理は、老中の下に置かれた寺社奉行(じしゃぶぎょう)・江戸の町奉行(まちぶぎょう)・勘定奉行(かんじょうぶぎょう)のいわゆる三奉行(さんぶぎょう)が担当しました。
これらの幕府の役職には原則として数名の譜代大名や旗本らが就任し、1ヵ月で交代する月番交代制(つきばんこうたいせい)で政務が行われました。また重要な政務事項については、評定所(ひょうじょうしょ)において役職をまたいで合議されました。
なお、地方の組織としては京都所司代(きょうとしょしだい)を置いて朝廷の統制や西国大名の監視を行い、大坂や駿府(すんぷ、現在の静岡)には城代(じょうだい)が置かれました。また長崎や奈良・佐渡・日光(にっこう)などの要地には遠国奉行(おんごくぶぎょう)が配置され、天領には関東・飛騨(ひだ)・美濃(みの)などに郡代(ぐんだい)が、その他には代官(だいかん)が置かれました。




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ぴーち こんばんは!
そうですね(^^ゞ
頭が固い私は
既に冒頭の部分で、訳が判らなくなってしまったので、ご説明に沿って図式にしてみましたら、何とか理解出来ましたm(_ _)m
日光は今でこそ、そう遠くない所ですが、当時としては随分と遠い場所として認識されていたんでしょうね。
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですね(^^ゞ
> 頭が固い私は
> 既に冒頭の部分で、訳が判らなくなってしまったので、ご説明に沿って図式にしてみましたら、何とか理解出来ましたm(_ _)m
申し訳ございませんm(_ _)m
図式が難しいのがブログの欠点ですね。
私にもう少し絵の才能があれば…。
> 日光は今でこそ、そう遠くない所ですが、当時としては随分と遠い場所として認識されていたんでしょうね。
遠国奉行の意味は、天領のうち重要な場所の奉行の総称だったようです。
もっとも、ぴーちさんの仰るように遠くて目の届かない場所だからこそ、奉行職を置く必要があったと考えられますね。
十三人の刺客
晴雨堂ミカエル 昨秋、「十三人の刺客」リメイクが封切られました。
チャンバラ・アクション娯楽大作なので、時代考証云々をいっても野暮なのですが、やはり気になる点は多々あります。
その一つに、主人公は御目付役の旗本なのですが、老中に呼び出されて某藩主の暗殺を命じられる場面があります。
目付の支配は若年寄なのに、若年寄の頭越しに老中が命じた例は史実にありますか?
また主人公は知行七百石、たしか目付は役料千石のはず、これもありえますか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、時代考証の細かいところは結構いい加減なところがありますよね。
事例のお話も、いずれも通常では有り得ない話です。ただし、後者は足高の制が適用されていれば考えられないこともないですが…。
HANA子 こうして見ると、これまでの鎌倉・足利幕府のころの体制の足りない部分をキチンとカバーしているところがよくわかりますね。
ある程度地方の裁量の自由を認めつつ、力を蓄えて反抗に出るようなことのないよう目を光らせる監視体制を図っているところなど特に。
それにしても、江戸時代の日本って封建体制であると同時にガッチガチの官僚国家でもあったんですね~
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと私も思います。歴史に学んだ家康の終着点が今回のような体制を作ったといえるでしょう。
官僚国家についてもそのとおりだと思います。思えば我が国は昔から官僚支配に慣れているからこそ、55年体制が長続きしたのかもしれませんね。
柳生宗矩
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
時代劇で、有名な柳生宗矩は、一介の剣法指南役から
大目付にまで、出世したのは、異例のことですね。
しかも、門弟は、全国の大名の剣法指南役です。
まるで、江戸時代のCIAですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに柳生宗矩は大出世ですね。
武断政治が色濃く残っていた時代ならではでしょう。
大目付という言葉がピッタリな気がします。
江戸時代初期の大名は、領国の一部を有力な家臣に分け与え、その支配を認める地方知行制(じかたちぎょうせい)が行われていましたが、やがて有力な家臣を城下町(じょうかまち)に集住(しゅうじゅう)させたうえで、領内全体を大名が直轄(ちょっかつ)して蔵入地(くらいりち)とし、そこからの年貢を藩士に与えるという俸禄制度(ほうろくせいど)が行われるようになりました。
こうして藩の体制を強化させた大名でしたが、彼らの領地は一代ごとに将軍から与えられるものであったことから、武家諸法度に違反したり、あるいは後継の子に恵まれず血統(けっとう)が断絶したりした大名は、領地没収を意味する改易(かいえき)や、領地の縮小を意味する減封(げんぽう)、あるいは領地の変更を意味する転封(てんぽう)などの厳しい処分を受けました。
江戸時代の初期には数多くの大名が改易処分を受けたことで大量の牢人(ろうにん、別名を浪人)が発生し、彼らの存在はやがて治安上の深刻な問題となっていきました。




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タカシ☆TZR 当時,「藩」という呼称は正式な行政用語でないので,
> 大名が支配する領地や、その支配組織は藩(はん)と呼ばれました。
というとちょっと違和感がありますが,
どうお考えですか?
大名の取り潰し
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。徳川家康
徳川秀忠、徳川家光までの間に取り潰された
大名は126です。
しかも、
外様大名
最上57万石
福島49万石
加藤52万石
親藩でも
松平忠輝75万石
譜代でも
本多正純
大久保忠隣
が改易されています。
親藩であろうと、譜代であろうと
外様の大藩であろうと、おかまいなしです。
この状況で、取り潰されなかった伊達政宗が
不思議です。
(あれだけ、黒い陰謀の噂が絶えなかったのに)
やはり、伊達政宗の場合、徳川秀忠、徳川家光の
お気に入りというのが、大きかったのかもしれませんね。
ぴーち こんにちは!
武家諸法度に違反したからという理由ならまだしも、血統が途絶えたという理由で厳しい処罰を受けたのですね。なかなか厳しいですね(^^ゞ
当時は何がなんでも「お家」第一だったんですね。
応援凸
サクラ 幕藩体制というのは、どちらかというと連邦制みたいなものだったのですね。(正確には封建制でしょうが)
ということは、生類憐みの令が出たときも、幕府の直轄外では普通に魚や兎を食べてもよかったのでしょうか?
タカシ☆TZRさんへ
黒田裕樹 ご指摘有難うございます。
仰るとおり、藩の呼称は当時は一般的には用いられませんでした。
誤解を招く文章であると考えられますので、訂正させていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。
青田さんへ
黒田裕樹 江戸幕府の当初は、親藩であろうが外様であろうが、幕府に対抗すると思われる勢力は片っ端から取り潰しました。
その様子を見た各藩、特に外様大名は恐怖におびえ、前田家などは鼻毛を伸ばしてバカ殿のふりをしていたというエピソードが残っています。
伊達政宗も晩年は福島正則といきなり相撲を取り出すなど、乱心のふりをしていたといいますから、こうした涙ぐましい努力が伊達家を生きながらえさせたのかもしれませんね(もっとも、この後すぐに伊達騒動が起きるわけですが)。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 武家諸法度に違反したからという理由ならまだしも、血統が途絶えたという理由で厳しい処罰を受けたのですね。なかなか厳しいですね(^^ゞ
> 当時は何がなんでも「お家」第一だったんですね。
そうですね。
跡継ぎがいなくなるということは、仰るとおり「お家」が無くなることでしたから、幕府にとっては取り潰しの口実になりますからね。
でも世の中は厳しすぎると…。後に幕府は強烈なしっぺ返しを食らうことになります。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 幕藩体制というのは、どちらかというと連邦制みたいなものだったのですね。(正確には封建制でしょうが)
> ということは、生類憐みの令が出たときも、幕府の直轄外では普通に魚や兎を食べてもよかったのでしょうか?
さすがはサクラさんですね。仰るとおりです。
幕府による法令は基本的に天領でのみ通用しましたから、生類憐みの令も他領では強制力がありませんでした。
もっとも、大都市の江戸における生類憐みの令による効果(人命尊重の社会への劇的な変化)は他領にも広がることになったと考えられています。
近代国家
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
幕末で、日本を一つにして、欧米のような
先進国にしようと幕末の志士は、頑張りましたが
よく、考えると
◆ アメリカは、各州が独自の政治・経済を持ち
政治は、ワシントン州、経済は、ニューヨーク、
シカゴ、カリフォリニアと分散しています。
◆ イギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドと分散しています。
そう考えると
江戸時代は、
① 政治は江戸、経済は大阪、権威は京都
と分散。
②各藩が独自の政治・経済を有する。
こう考えると
江戸時代の国のカタチというのは、諸外国と
比べて、特別、いびつではないという気がします。
但し、明治政府としては
①国防という面での国の統一性。
② 急激な近代化の促進。
を進めるうえでは、仕方なかったのでしょうね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、江戸幕府による幕藩体制はごく普通の政治機構です。
ただ、帝国主義の食うか食われるかの世の中においては、国民が一つとしてまとまるためにも中央集権国家にする必要がありました。
しかし首都機能のあまりもの集中ぶりが、今日の震災のような非常時に機能不全を起こす原因となってしまいます。
今こそ、単なる「遷都」ではない、首都機能の分散が求められているのかもしれません。
しかしその後、関ヶ原の戦いを経て新たな権力者となった家康の意向によって、第3皇子の政仁親王(ことひとしんのう)を新たに後継とされることになりましたが、後陽成天皇のご本意は弟にあたる八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)への譲位であり、天皇と良仁親王や政仁親王とのご関係は決して良くなかったと伝えられています。
1611年、後陽成天皇から譲位された政仁親王は直ちに即位(そくい)され、第108代の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)となられました。このことは家康、すなわち江戸幕府の持つ強い権力は天皇をも交代させることができるという現実を天下に示したと同時に、朝廷が持つ伝統的な権威(けんい)を幕府が自身のために利用するという意味も込(こ)められていました。
そして1615年、幕府は禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定して、幕府による朝廷への統制をより一層強めることになりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この頃の幕府の権力というのは天皇をも
足元に置くという破竹の勢いがあったんですね。
朝廷も「長いものには巻かれよ」という考えであったからこそ、今日まで長く天皇制は続いていたという解釈はいかがなものでしょうか。
所で来月「プリンセス・トヨトミ」という大阪を舞台にした歴史ファンタジー映画が封切られます。また楽しみが増えました♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の幕府の権力というのは天皇をも
> 足元に置くという破竹の勢いがあったんですね。
> 朝廷も「長いものには巻かれよ」という考えであったからこそ、今日まで長く天皇制は続いていたという解釈はいかがなものでしょうか。
仰ることは一理ありますね。
権力者に逆らって滅ぼされるよりは、むしろついていくことで皇室を将来の我が国に残す。
このような「柳に風」のしなやかさが、2670年も続いている一つの理念かもしれません。
ただし、このときはあまりにもひど過ぎた…。いずれ紹介します。
> 所で来月「プリンセス・トヨトミ」という大阪を舞台にした歴史ファンタジー映画が封切られます。また楽しみが増えました♪
色々な映画がありますよね。大阪の舞台、私も楽しみです(^_^)v
調停工作
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
1615年の
禁中並公家諸法度の制定が、『大阪の陣』の年というのは、意味が深い気がします。
なぜなら、
徳川家康は
関ヶ原の戦いの後、豊臣家をスグ滅ぼせない理由として
豊臣秀頼の官職も影響していた気がします。
内大臣、右大将と調停では、非常に高い官職です。
徳川家康は、関ヶ原の合戦で勝利をおさめ、
実質的な武門の首座となったものの、後陽成天皇によって征夷大将軍に任命されるまで
3年待たなくてはならず、その地位も位階が正二位から従一位になったのみで、
官職は内大臣のままでした。
とういうことは、征夷大将軍になるまでは、官位としては、豊臣秀頼を
疎かにできなかったように思います。
その証拠に大阪の陣になるまでに、豊臣秀頼は、内大臣、右大臣の職を
辞しています。
徳川家康は、調停工作でも、豊臣家よりも、一枚上手でしたね。
ただ、朝廷を完全に利用できるくらいの力を持つまで、15年掛かったということでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに豊臣家を滅ぼさない限り、大名工作も朝廷工作もできなかったでしょう。
朝廷の場合には、仰るとおり関白経験者の豊臣家が目の上のこぶだったかもしれません。
また、摂関家(せっかんけ、摂政や関白に昇進できる家柄のこと)の地位を天皇の皇子である親王(しんのう)よりも上位と定めた一方で、幕府は将軍の正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)を摂関家から迎えるなど関係を強化することで、摂関家を通じて朝廷を幕府の意のままにコントロールしようとしました。
このため、幕府は京都所司代を通じて朝廷に幕府からの指示を伝えられるように、公家(くげ)から2人を選んで、幕府と朝廷との窓口となる武家伝奏(ぶけてんそう)に任じました。武家伝奏は京都所司代と連絡を取りながら、幕府の意向(すなわち命令)を朝廷に伝えました。
この他にも、朝廷の領地である禁裏御料(きんりごりょう)が幕府によってわずか1万石(後に3万石まで加増)と定められたり、本来であれば天皇自らが行うことのできる行為が禁中並公家諸法度によって制限されたりしたことで、やがて朝廷と幕府との関係が一気に緊張化する事件が起こることになりました。
なお、同じく禁中並公家諸法度によって武家の官位、すなわち幕府が大名や旗本などに与える官位は朝廷からの官位とは別に定めることができるようになっていました。後に南町奉行となった大岡忠相(おおおかただすけ)が「越前守(えちぜんのかみ)」と名乗っていたのは、このことが由来です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
武家伝奏などという言葉は、初めて伺いました。またひとつ勉強になりました!ありがとうございますm(_ _)m
所で大岡忠相の件ですが、ドラマや映画では
毎回の様にお白州が開かれ←(言い方が間違っていたら、ごめんなさい)ていますが、実際の所は、たった3回しか開かれなかった(しかも実際に大岡忠相が立ち会ったのは1度とか)というのを昔本で読んだことがありましたが、水戸黄門同様、
史実が後の人間によってオーバーに表現されてしまうというのも、いいのか、悪いのか(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 武家伝奏などという言葉は、初めて伺いました。またひとつ勉強になりました!ありがとうございますm(_ _)m
あまり聞きなれない言葉ですからね。高校日本史ではよく出てくるので、今回の記事にも追加しました。
> 所で大岡忠相の件ですが、ドラマや映画では
> 毎回の様にお白州が開かれ←(言い方が間違っていたら、ごめんなさい)ていますが、実際の所は、たった3回しか開かれなかった(しかも実際に大岡忠相が立ち会ったのは1度とか)というのを昔本で読んだことがありましたが、水戸黄門同様、
> 史実が後の人間によってオーバーに表現されてしまうというのも、いいのか、悪いのか(^^ゞ
「正義のヒーロー」にはつくられた部分が多々ありますからね。
娯楽と割り切ればそれまでですが、史実となると難しいかもしれません(^^ゞ
オバrev 禁中並公家諸法度によって、完全に武士による支配が法的にも確立しましたね。
しかし、これに対する反発はなかったんですか?
また此頃の摂関家ってのは、やはり藤原氏の家系なんでしょうか??
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 禁中並公家諸法度によって、完全に武士による支配が法的にも確立しましたね。
> しかし、これに対する反発はなかったんですか?
もちろんありました。
次回(25日)から詳しく紹介します。
> また此頃の摂関家ってのは、やはり藤原氏の家系なんでしょうか??
そのとおりです。政治の実権はなくても朝廷での地位が向上しましたから、当初の幕府と摂関家との関係は良好だったようですね。
公家の暮らし
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
朝廷は、3万石の領地しかないですが、
ということは、この当時の天皇や公家の暮らしぶりは
どうだったんでしょうか。
当然、平安時代のように華やかな生活ではないとは思うのですが、
関白より下の身分の公家は、そんな石高で、
本当に生活できたのか、不思議です。
青田さんへ
黒田裕樹 三万石とはいえ所領をお持ちの天皇はともかくとして、下級の公家の生活は決して楽ではなかったようですね。
様々な内職をしていたようで、中には屋敷内で博打を黙認していた公家もいたようです。そんな環境だったからこそ、幕府に対する恨みが受け継がれて、幕末に一気に爆発したとも言えますね。
なぜなら、これらは僧にとっての最高の栄誉(えいよ)であるとともに、朝廷にとっての収入源のひとつでもあったからです。しかし、このように幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例に従われて、独自に十数人の僧侶(そうりょ)に紫衣の勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)を与えられました。
後になって事実を知った将軍徳川家光は激怒(げきど)して、再調査を行ったうえで1627年に禁中並公家諸法度に違反した勅許を取り消し、紫衣の没収を命じました。これを紫衣事件(しえじけん)といいます。
幕府の強硬な態度に対して朝廷や寺院は反発し、特に大徳寺(だいとくじ)の住職(じゅうしょく、寺の長である僧のこと)であった沢庵(たくあん)は激(はげ)しく幕府に抗議しましたが、2年後の1629年に出羽(でわ)へ流罪(るざい)となってしまいました。この事件によって「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」ことが嫌(いや)でも思い知らされることとなり、後水尾天皇も深く気分を害されました。
ちなみに沢庵は現在のダイコンを漬(つ)けた「沢庵漬け」との関わりが深いとされ、また吉川英治(よしかわえいじ)の小説「宮本武蔵(みやもとむさし)」での活躍ぶりが有名です。なお、大阪市営地下鉄の谷町線(たにまちせん)のラインカラーが紫色なのは、沿線(えんせん)に四天王寺(してんのうじ)などの寺院が多いので、僧侶にとって最高の栄誉である紫衣の色が由来になっています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
何も流罪に処するほどの重罪でも無かったようにも思いますが・・・見せしめと考えても余りに酷いですね。。
そういえば、冠位十二階でも一番位の高い色は紫でしたね!
昔から紫は高貴な色だったんですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何も流罪に処するほどの重罪でも無かったようにも思いますが・・・見せしめと考えても余りに酷いですね。。
そうですよね。
幕府の仕打ちは激しく抗議した沢庵和尚だけでなく、後水尾天皇に対する強烈な嫌味のような気がします。
> そういえば、冠位十二階でも一番位の高い色は紫でしたね!
> 昔から紫は高貴な色だったんですね^^
そのとおりですね。紫色には昔から独特の優雅さを感じます。
通常であれば、お福のように無位無官(むいむかん)の人間が昇殿できるはずがありません。ところが、幕府はお福を無理やり公家の身内とし、従三位(じゅさんみ)の位と「春日局(かすがのつぼね)」の称号を与えたうえで後水尾天皇への拝謁(はいえつ、身分の高い人に会うこと)を実現させました。
幕府のこうした強引な手法に堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れた後水尾天皇は、幕府に無断で徳川秀忠の娘との間にお生まれで7歳の興子内親王(おきこないしんのう)に譲位されました。奈良時代以来859年ぶりの女帝(じょてい)となる第109代の明正天皇(めいしょうてんのう)の誕生です。
突然の譲位に対して幕府は激怒しましたが、いくら何でも既(すで)に行われた譲位を幕府が取り消すことができるはずがありません。こうしてかつての藤原氏(ふじわらし)や平家(へいけ)のように、徳川家が天皇の外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となった訳ですが、その裏には後水尾天皇の幕府に対する巧妙(こうみょう)な意趣返(いしゅがえ)しがありました。




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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
春日局の件は、あまりにも、幕府の横暴ぶりに
怒りを感じます。
これは、天皇でなくても、幕府内部、他の大名からも、内心、納得できないと思う人間が
多数いたような気がします。
歴史上、正室でもない単なる乳母が、
昇殿して、従三位というのは、あまりにも、理不尽です。
従三位というのは、相当有力な大名にしかもらえない官位です。
しかも、春日局の息子は、大名になっています。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、春日局に関する今回の件はあまりにも強引すぎます。
それだけ当時の幕府には権力があったのかもしれませんが、天皇をないがしろにしすぎたことは、幕末における尊王攘夷運動への大きな流れの基本となってしまいましたね。
今回の後水尾天皇のお怒りを考えれば、次回(27日)以降の流れも理解できるというものです。
ぴーち こんばんは!
さすがに朝廷もこのまま黙って幕府の言いなりにはなっていませんね。
物語はこれから佳境に入るのですね!
黒田さんの書かれている話の流れが非常に巧みで
いらっしゃるので、ハラハラさせられます。
さてさて、天皇の巧妙な意趣返しとは何でしょうか^^楽しみにさせていただきます♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
ぴーちさんのご期待に添えるかどうかわかりませんが、明日(27日)以降の展開をお楽しみに!(^^♪
実際、後水尾天皇は頭脳明晰なお方だと思いますよ。
しー 紫衣事件!!!!
知ってます。
授業中、
そこらへんを資料集でパラパラ見てましたもんでw
…思うんですけど、
授業でやんない所も受験のことを考えたら今からやるべき、、、ですよね??^^;
しーさんへ
黒田裕樹 > 紫衣事件!!!!
> 知ってます。
> 授業中、
> そこらへんを資料集でパラパラ見てましたもんでw
多くの教科書にも載っていますし、当時の朝廷と幕府との力関係を知ることができる重要な事件ですからね。
> …思うんですけど、
> 授業でやんない所も受験のことを考えたら今からやるべき、、、ですよね??^^;
やって損はありません。いや、むしろどんどんやるべきでしょう。
縦の歴史だけでなく、横のつながりを知るにはこの講座は効果的ですよ(^^♪
春日局
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
今、NHKの大河ドラマ『~江~』を観たのですが、
かなり、創作の部分も多いとは、思いますが
春日局について、どうも納得できません。
家光の生母は、お江で、しかも、将軍の御台所なので、ドラマで、描かれている
お江VSお福(春日局)
だと、お江が乳母を辞めさせるくらい簡単にできたと思うのですが、乳母というのは、その当時、
正室、側室よりも、力があったのでしょうか。
私が 記憶しているかぎりでは、乳母で、歴史に名を残した女性は、いない気がするのですが。。
青田さんへ その2
黒田裕樹 春日局については様々な説があるようですね。
私はドラマを見ていませんが、少なくともお江とお福はライバル関係でも何でもないと思います。
さすがは「ファンタジー大河」の面目躍如といったところでしょうか。
さらに「女性天皇は終生独身」という不文律(ふぶんりつ、文章で表現されていない法のこと)があったため、皇室における徳川家の血筋は明正天皇で途絶(とだ)えることになってしまったのです。
「葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」
上記の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を遺(のこ)された後水尾天皇は、4人の天皇の院政を続けた後に1680年に85歳で崩御(ほうぎょ)されました。これは、後に昭和天皇(しょうわてんのう)に破られるまで神話の時代を除く歴代天皇の最長寿でした。なお、昭和天皇は記録更新の際に「当時の平均寿命の短さを考えれば後水尾天皇の方が立派な記録です」とお言葉されておられます。
ところで後水尾天皇の追号(ついごう)である「後水尾」は、天皇ご自身が生前にお決めになられたものでした。実は、この追号にも後水尾天皇の強いご意思が込められているのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!人生50年と言われていた時代に85歳とは、本当に素晴らしい事ですし、天命を全うされたのだと思います。けれど、生涯独身で過ごさなければならないという決まりは、今でこそ意図的に独身を貫き通す女性も大勢いらっしゃいますが、もしもご本人のご意思とかけ離れていたしたら、厳しいものを感じますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんにちは!人生50年と言われていた時代に85歳とは、本当に素晴らしい事ですし、天命を全うされたのだと思います。けれど、生涯独身で過ごさなければならないという決まりは、今でこそ意図的に独身を貫き通す女性も大勢いらっしゃいますが、もしもご本人のご意思とかけ離れていたしたら、厳しいものを感じますね。
後水尾天皇が長生きされたことは仰るとおり素晴らしいですね。壮年のころから様々な病気に悩まされておられたようですが、持病をお抱えの分、健康には注意されておられたとも言えます。
「女性天皇は生涯独身」である理由は、かなり以前ですが私の講座でも書かせていただいております。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-178.html
明正天皇はご即位の際にわずか7歳ですから、成人後のご本人のご意思とはかけ離れておられたかもしれませんね。
凄い知恵
青田です。 黒田先生、ぴーちさん
こんにちは
青田です。
後水尾天皇の意趣返しは、執念に近いものが
ありますね。
しかし、それを実現できたのは
長寿という強みだったと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、後水尾天皇が85歳まで長生きされたからこそ、幕府に対して長い間にらみを利かすことができたと思います。
家康同様、寿命の長さが歴史を動かすこともありますね。
ぴーち こんにちは!
お返事にリンクを貼ってくださり
恐縮です(^_^;)
そうですね昔は、女性は男性に守られるのが当たり前であったので、元からそういうものだと思っていれば、何も抵抗もなく過ごせるものですね。
それに仰る通り、持病があったからこそ、無理をせずに体をいたわりながら過ごせたのでしょうね^^
すっかり忘れておりました(^_^;)
またこの機会に思い出させていただき
ありがとうございますm(_ _)m
凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 > お返事にリンクを貼ってくださり
> 恐縮です(^_^;)
いえいえ、お役に立てて嬉しく思います。
> そうですね昔は、女性は男性に守られるのが当たり前であったので、元からそういうものだと思っていれば、何も抵抗もなく過ごせるものですね。
> それに仰る通り、持病があったからこそ、無理をせずに体をいたわりながら過ごせたのでしょうね^^
> すっかり忘れておりました(^_^;)
> またこの機会に思い出させていただき
> ありがとうございますm(_ _)m
こちらこそ丁寧なお言葉有難うございます。
女性天皇については仰るとおりですね。昔には昔の良さがありましたし。
何の病気もしない人より、病気持ちの人の方が普段から健康に気を遣う、というお話がありますからね。私も花粉症にかかっている今の方が長生きできるかな!?
征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた源頼朝は清和天皇の血を引く「清和源氏」の子孫であり、室町幕府(むろまちばくふ)を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)や、江戸幕府を開いた徳川家康も同じく清和源氏の子孫か、もしくは子孫と朝廷に認められています。
清和天皇は言わば「武家の棟梁(とうりょう)の元祖(がんそ)」であり、後水尾天皇はお自らが「徳川家の上に立つ」というご意思でご自身の追号をお決めになられた可能性が高いのです。
ちなみに、後水尾天皇の父君である後陽成天皇の追号には、清和天皇の子でありご乱行(らんぎょう)のために若くして退位に追い込まれたと伝えられる陽成天皇(ようぜいてんのう)にちなんで後水尾天皇が贈られました。皇室にとって不吉ともいえる追号を、しかも親子関係を逆転(清和→陽成、後陽成→後水尾)させて贈ったことになりますが、この背景には先述した後陽成天皇と後水尾天皇との関係の不和があるのかもしれません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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クラチー ほへ~、全員が後醍醐さんみたいな名称パターンじゃないんですね。
でも、「後水尾天皇」って語呂悪いというか、言いにくいというか…。
ちなみに世界史では、
「スウェーデンのカール皇帝は8~15世はいるが、7世以前は誰もいない」という、変な状態になってますよ。
人数偽造…じゃないとは思いますけど。
(-w-;)
サクラ 水尾天皇とは清和天皇のことだったのですか!
皇室の系図を見て、「水尾天皇っていないよね?」と思っていたんですよ。
思うだけで、特に何もしませんでしたが。
っていうことは結構、清和源氏の子孫って日本全国に残ってるんですか?
クラチーさんへ
黒田裕樹 > ほへ~、全員が後醍醐さんみたいな名称パターンじゃないんですね。
> でも、「後水尾天皇」って語呂悪いというか、言いにくいというか…。
確かにそうですね。でも、清和天皇とあからさまにしないところがまた凄いと思います。
> ちなみに世界史では、
> 「スウェーデンのカール皇帝は8~15世はいるが、7世以前は誰もいない」という、変な状態になってますよ。
> 人数偽造…じゃないとは思いますけど。
> (-w-;)
世界の王朝には色々ありますからね。
それだけに我が国の天皇の素晴らしさが突出しています。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 水尾天皇とは清和天皇のことだったのですか!
> 皇室の系図を見て、「水尾天皇っていないよね?」と思っていたんですよ。
> 思うだけで、特に何もしませんでしたが。
私もここまで詳しく調べようと思わなければ分からないままでした。
日本史は意外なところでつながっているものですね。
> っていうことは結構、清和源氏の子孫って日本全国に残ってるんですか?
調べれば案外いろんなところで残っているかもしれませんね。
皇室のようにはっきりと系図が残っているかどうかですが…。
まさぼ~ 初めまして('-^*)/
訪問履歴からやってきました。
日本史の教師をされているんですね。
征夷大将軍とか鎌倉幕府とか、懐かしいです。僕も学生の時は、日本史が大好きで教科書読むのが楽しみでしたよ~
そういえば、模擬試験では、日本史だけは早稲田や慶応も楽々A判定でしたよ。(英語と国語がダメで3流大学に行きましたが・・汗)
教師という職業は、大変だと思いますが、頑張って下さいね~
ではっ!!
まさぼ~さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございます。
私も昔から日本史が大好きでした。
その一方で英語と数学が苦手で、私も進学には苦労しましたね(^^ゞ
教師を本格的に始めてから一か月が過ぎました。
毎日大変ではありますが、楽しみながら頑張っておりますよ。
今後ともよろしくお願いいたします。
なおまゆ 天皇家と幕府の戦いは壮絶だったんですね。後水尾天皇のことは初めて知りました。隆慶一郎の小説に出てきて、それを読んだ程度だったので。
血統を遺す為の努力、それに介入しようとする権力者。常に勝者は天皇だったんですね。
おもしろいです。有難うございます。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
仰るとおり、後水尾天皇の壮絶なるご執念がこのような流れを生みましたから、歴史を学ぶことは重要ですね。
幕府といえども皇室には結局かなわなかった。後の明治維新への源流を見る思いがします。
寺院に対しては、その宗派ごとに寺院法度(じいんはっと)を発令し、本山(ほんざん)や本寺(ほんじ)の地位を保障するとともにその下に末寺(まつじ)を組織して、全体に対して厳しく統制しました。これを本末制度(ほんまつせいど)といいます。
その後、第4代将軍の徳川家綱(とくがわいえつな)の頃の1665年には、宗派に関係なく寺院や僧侶全体を共通に統制するために諸宗寺院法度(しょしゅうじんはっと)を出し、同年には神社や神職(しんしょく)に対しても同じように統制するために諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)を発令しています。
なお、先述のとおり江戸幕府の設立の以前から、キリスト教(カトリック)に対する弾圧(だんあつ)が厳しくなっていました。その詳細(しょうさい)はいずれ後述しますが、幕府はカトリックの禁止を確実なものとするために、1664年に寺請制度(てらうけせいど)を設けました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
今でこそ政教分離が謳われていますが
この当時は、完全に宗教は国の支配下に
置かれていたんですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今でこそ政教分離が謳われていますが
> この当時は、完全に宗教は国の支配下に
> 置かれていたんですね。
この当時はキリシタン(カトリック)を排除するという大きな目的がありましたからね。
ところが、この目的を達成する過程で、皮肉にも「政教分離」の本質が達成されてしまうという逆説を生んでしまうのが歴史の面白いところです。
これからの更新を引き続きお楽しみ下さい!
- 今日は、イギリス王室のロイヤルウェディングにフィギュアスケート女子SP、そしてカープが同じ時間に重なってしまい、バタバタしています(^_^;)
しかし、ヨーロッパでも王制が残っている国はそんなに多く無いそうですがし、このイギリス王室の権威はやはり特別な感じがします。
日本も今でこそそういう階級制はほとんどなくなっているように思いますが、当時はやはり皇族や摂関家というのは特別だったんでしょうか。
日本の天皇制は、時代がどう変わっても日本人の心の拠り所であり宝として存続して欲しいと思っています。
名無し(?)さんへ
黒田裕樹 ホスト先から見てほぼ間違いなく常連の方だと思いますが、万が一のために名前は伏せておきます(^^ゞ
イギリスの王朝も特別な存在ですからね。ただ、我が国と決定的に違うところは男系の血が何度か断絶していることでしょうか。その重みを知っていられるからこそ、エリザベス女王陛下は昭和天皇がお越しになられた際に上座をお譲りされておられますし。
仰るとおり、皇室の血筋は我が国にとって何物にも替え難い重要なものです。歴史の勉強を重ねるたびに、私たち日本人が日本人として暮らしていけることの有難みを感じますね。そんな今日は「昭和の日」でした。
寺請制度によって、全国民が在住する周辺の寺院の檀家(だんか)として、寺院への参詣(さんけい)や父祖(ふそ)の法要(ほうよう)、あるいは付け届けを義務付けられ、これらに応じなければキリシタンとみなされるようになってしまいました。
檀家として登録された国民は原則として離脱(りだつ)を許されず、また婚姻(こんいん)や転居(てんきょ)の際には、所属する檀那寺(だんなでら)の証明書である寺請証文(てらうけしょうもん)が必要とされました。このように全国民が信仰する宗教を幕府が把握(はあく)することによって、カトリックの禁止を徹底させたのです。
なお、この頃までにカトリック以外にも幕府によって禁止とされた宗教があることを皆さんはご存知でしょうか。
それは日蓮宗(にちれんしゅう)の不受不施派(ふじゅふせは)です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
キリスト教は外来という事で
納得出来ますが、日蓮宗は仏教であるので
幕府から禁止される原因は何処にあったのでしょうか。
お体のお加減はいかがですか?
どうぞご自愛くださいね^^
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > キリスト教は外来という事で
> 納得出来ますが、日蓮宗は仏教であるので
> 幕府から禁止される原因は何処にあったのでしょうか。
確かに不思議に思えますね。
ヒントを挙げるとすれば、日蓮宗の多宗派とは全く異なる性格でしょうか。
それを突き詰めていくと…。
> お体のお加減はいかがですか?
> どうぞご自愛くださいね^^
有難うございます。
はやく全快といきたいですね。
オバrev 昨日はHNなしのコメントを送ってしまい、失礼しました(*_*;
寺請制度って、結果的に現在の住民基本台帳を当時から作っていたことになっていたんじゃないでしょうか。
それまでは、住民の情報を正確に把握できていたんですかね、どうなるんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 昨日はHNなしのコメントを送ってしまい、失礼しました(*_*;
いえいえ、どうぞお構いなく。
おそらくはそうでないかと思っておりました。
> 寺請制度って、結果的に現在の住民基本台帳を当時から作っていたことになっていたんじゃないでしょうか。
> それまでは、住民の情報を正確に把握できていたんですかね、どうなるんでしょうか?
仰るとおりの流れですね。当初は住民の信仰調査が目的だったのですが、いつの間にか戸籍や現在でいうところの住民調査の性格を持つようになってしまいました。それまではこれだけの大規模なものはなかったと思われます。