平安時代の貴族の教養として漢詩文を作ることが重視されたために、漢文学(かんぶんがく)が盛んになりました。この時代には、大陸の文化にもひけをとらぬほどの文人が多く輩出(はいしゅつ)しました。例えば、嵯峨天皇や空海(くうかい)、小野篁(おののたかむら)、菅原道真(すがわらのみちざね)らが知られています。
嵯峨天皇は漢詩文にすぐれ、最古の勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編さんすること)漢詩集である凌雲集(りょううんしゅう)や文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)には、嵯峨天皇の御製(ぎょせい、天皇がつくられた歌や詩のこと)による漢詩が多く収められています。
また、空海は詩文集である性霊集(しょうりょうしゅう)を著(あらわ)すなどの優れた文才を示しました。空海は唐風(とうふう、別名を唐様=からよう)の書道の達人としても知られており、嵯峨天皇や橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆(さんぴつ)と称されています。尚、空海については別の機会に詳しく紹介します。




お蔭様でカウンターが9000を突破しました! いつも有難うございます!
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海豚 もぉ9000ですかっ。
(ちなみに9050でした、ウチ)
おめでとうございますッ☆
お、菅原道真ですかー。
頭良かったんですよね・・・(尊敬ww
ぴーち こんばんは!
菅原道真は、学問の神様と崇められている様ですが、
生前は、「英雄色を好む」のタイプだったと聞いたことがありました~。
しかも、あのナポレオンと同じように、
胃の痛みの持病があったので、常に手を胃のあたり
を押さえるように歩いていたとか、いないとか?
ナポレオンの逸話も、本当だったのかしら(肖像画の彼の手は、胃のあたりを押さえているのは、胃痛が原因だったからという説)
そういう意味では、世に名前を残す人物には、国を問わず、共通点が存在するんでしょうかね?
黒田さんは、胃痛とかは大丈夫ですか?w
では、では♪
海豚さんへ
黒田裕樹 有難うございます(^o^)丿
ちょっとしたキリ番ですね。10000HITが実現した場合には是非踏んでください(^_^)v
菅原道真は今回は名前だけの登場ですが、いずれは詳しく紹介します。なぜ彼が「学問の神様」として祭られているのか、ご存じない人にはあっと驚く理由かもしれませんね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 死後に「学問の神様」と祭られた菅原道真も、生前は普通の貴族ですからね。平安時代きってのプレイボーイである在原業平(ありわらのなりひら)と親しかったそうですから、推して知るべし、といったところでしょうか(^^ゞ
胃痛で苦しんでいる人というのは、歴史上の人物では確かによく聞きますね。私は(飲みすぎのときを除いて)胃が丈夫な方ですよ。ただ、今は問題ありませんが、神経性の痛みは昨年度はひどかったですね(´・ω・`)
ぴーち こんばんは!
お返事ありがとうございました^^
所で、遊び人と言えば、よく時代劇でおなじみの
「遠山の金さん」は実際に、遊び人で、刺青まで
していた人物だったんでしょうか?
それとも、水戸黄門が実際には諸国漫遊など
しなかったように、でっちあげられた話だったんでしょか?
いづれにせよ、世の中の英雄になんてならなくても良いから、
奥さんを泣かせないで、奥さんだけを大切にしてくれる人、居ないかな~ww
と。。。記事と関係ないコメントで失礼しました^^;
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ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 遠山の金さんが若い頃には放蕩無頼の日々を送っていたことは事実のようです。刺青については、夏でも袖襦袢をつけていたという逸話がありますから事実のようですが、どうやら桜吹雪ではないみたいですよ。いつかは講座で紹介してみたい人物ですね。ちなみに私はテレビ時代劇の「遠山の金さん」シリーズが大好きです(No.1は中村梅之助ですかね)。
> いづれにせよ、世の中の英雄になんてならなくても良いから、
> 奥さんを泣かせないで、奥さんだけを大切にしてくれる人、居ないかな~ww
> と。。。記事と関係ないコメントで失礼しました^^;
女性の切実な視点ですね。
私の場合は…独身だからなんともいえませんが、奥さんだけを大切に出来る夫婦生活には憧れますね(^^♪
主な大学別曹としては、藤原氏の勧学院(かんがくいん)や和気氏(わけし)の弘文院(こうぶんいん)、在原氏(ありわらし)の奨学院(しょうがくいん)、橘氏(たちばなし)の学館院(がくかんいん)が知られています。一方、空海は庶民への教育を目指した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設けています。
奈良時代の初期に我が国の歴史書として古事記(こじき)や日本書紀(にほんしょき)が編さんされましたが、この時代には日本書紀の続編として、漢文での国史の編さんが相次いで行われました。順番に続日本紀(しょくにほんぎ)、日本後紀(にほんこうき)、続日本後紀(しょくにほんこうき)、日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)、日本三代実録(にほんさんだいじつろく)が編さんされています。
日本書紀をあわせたこれら6つの歴史書は六国史(りっこくし)と呼ばれ、古代の我が国の律令国家が編さんした一連の正史(せいし、国家による正式の歴史書のこと)として扱われています。




いつも有難うございます。
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オバrev もしかして、この時代の大学ってのが日本初の大学ですか?
それとも名前が同じだけ??
それにしても藤原氏、和気氏、在原氏、橘氏、空海など有名人ばかりですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > もしかして、この時代の大学ってのが日本初の大学ですか?
> それとも名前が同じだけ??
平安時代の大学制度は末期には衰退してしまうのですが、大学という名前自体はその後も使用され続けました。江戸時代の幕府お抱えの儒学者は「林大学頭」でしたよね。従って、今の大学との直接の関わりは薄いですが、流れはくんでいると考えた方が良いのかもしれません。
> それにしても藤原氏、和気氏、在原氏、橘氏、空海など有名人ばかりですね。
一流どころばかりですよね。やはりそれだけの実力があったというべきなのでしょうか。
てっちゃん中尉 大学別曹ですか、そんなのは聞いたことないですね。そんなに昔から大学が存在していたとは知りませんでした。いまさらながら歴史の知識再構築のいい勉強になります!
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます(^^♪
別の方へのコメントでも書きましたが、当時の大学は現代の大学とは内容が異なりますが、言葉のルールにはなっています。大学別曹は、自分の家系から官吏を養成したいと思った有力貴族の自然な発想が生んだ施設といえるでしょう。今で言えば「「寄宿舎施設つきの私塾」みたいなものですね。
そんな施設を民間でも、と考えた空海の構想もまた素晴らしいと思います。
紗那 あうー。なんかいきなり難しくなった?!
しかし、有名人が並んでいますね。僕も知ってる(ぇ
六国史とか初めて聞きました!
紗那さんへ
黒田裕樹 > あうー。なんかいきなり難しくなった?!
今日の内容は主に高校時代で学ぶ範囲ですからね(´・ω・`)
まぁ理解しておいて損はないですよ。大学別曹の意義はけっこう重要ですから。
> しかし、有名人が並んでいますね。僕も知ってる(ぇ
有名な貴族だからこそ、一族を昇進させるのに躍起になって大学別曹を競って設けたんですよ。
> 六国史とか初めて聞きました!
歴史書は古事記と日本書紀だけではない、ということですね。
天台宗や真言宗は、深遠(しんえん)な呪術(じゅじゅつ)の取得や厳しい修行によって仏教の奥義(おうぎ)を究めるという密教(みっきょう)であり、加持祈祷(かじきとう)を中心とする儀式が、タタリを鎮(しず)めたり、怨霊(おんりょう)封じをしたりするのにふさわしいと考えられました。尚、真言宗の密教を東密(とうみつ)といい、天台宗の密教を台密(たいみつ)といいます。
最澄と空海は804年に遣唐使に従って入唐(にっとう)しました。先に帰国した最澄は、都から離れた近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)の比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)をひらき、大陸の流れをくみながらも我が国独特の天台宗を広めました。
延暦寺は、平安京から見て東北にあり、災いが起きやすいとされた鬼門(きもん)にあたります。そんな重要な位置に延暦寺がおかれたこと自体が、桓武天皇の最澄に対する「タタリ封じ」への期待感がうかがえますね。




いつも有難うございます。
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スカイラインV35 後の徳川幕府も平安京の長所は大いに意識していたらしく、江戸の鬼門の方角に日光東照宮を建立したらしいですよね。
それにしても、延暦寺にしても日光東照宮にしても現代でも現役バリバリというのは、驚くとともに有難くも感じますね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 後の徳川幕府も平安京の長所は大いに意識していたらしく、江戸の鬼門の方角に日光東照宮を建立したらしいですよね。
そうですね。日光東照宮は家康が神となって徳川の繁栄を見守り続けましたが、江戸のすぐ近くにもうひとつ、鬼門に建てられた宗教施設がありますよ。ご存知ですか?
ヒントは…延暦寺と同じく、当時の「年号」をいただいたお寺です。
> それにしても、延暦寺にしても日光東照宮にしても現代でも現役バリバリというのは、驚くとともに有難くも感じますね。
鬼門に建てられたことで、かえって厄除けになっているのかもしれませんね。
悠 最澄と空海は習いましたー
けど、どっちが何を広めたか覚えてなかったんですよね
最澄が天台宗ですね・・・?
空海が真言宗ですね・・・?
あってます?
悠さんへ
黒田裕樹 > 最澄と空海は習いましたー
> けど、どっちが何を広めたか覚えてなかったんですよね
> 最澄が天台宗ですね・・・?
> 空海が真言宗ですね・・・?
> あってます?
あってますよ(^^♪
確かに紛らわしいですね。二人の話はしばらく続きますので、これを機会に是非理解して下さいね(^_^)v
スカイラインV35 > ヒントは…延暦寺と同じく、当時の「年号」をいただいたお寺です。
寛永寺であってますよね(去年、一躍有名になった天璋院篤姫も眠っていますね)。
「17世紀半ばからは日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇り、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした」のは、調べて今初めて知りました・・・(^^;ゞ
スカイラインV35 度々、すいません。調べてみたら、日光は江戸の鬼門の方角じゃないようですね。真北なんですかね?守護や鎮護の意味合いはあるのでしょうが、方角は間違えちゃいました。弘仁・貞観文化とも外れてきちゃって。ごめんなさい<(_ _)> どうしましょう。
スカイラインV35さんへ その2
黒田裕樹 > > ヒントは…延暦寺と同じく、当時の「年号」をいただいたお寺です。
> 寛永寺であってますよね(去年、一躍有名になった天璋院篤姫も眠っていますね)。
正解です。さすがですね(^_^)v
> 「17世紀半ばからは日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇り、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした」のは、調べて今初めて知りました・・・(^^;ゞ
仰るとおりです。平安京と同じ鬼門の位置に、「比叡山」に対して「東叡山」、「延暦寺」に対して同じ年号の「寛永寺」と、明らかに朝廷を意識していますよね。
余談ですが、日光東照宮における神格化された家康の別名である「東照大権現」も、皇室の祖先と伝えられる「天照大神」の「アマテラス」に対する「アズマテラス」という意味があるらしいですよ。
スカイラインV35さんへ その3
黒田裕樹 コメントが前後しましたね(^^ゞ
> 度々、すいません。調べてみたら、日光は江戸の鬼門の方角じゃないようですね。真北なんですかね?守護や鎮護の意味合いはあるのでしょうが、方角は間違えちゃいました。弘仁・貞観文化とも外れてきちゃって。ごめんなさい<(_ _)> どうしましょう。
いえいえ、お構いなく(^_^)v
日光東照宮は確かに江戸から真北の位置にありますが、これは「関八州全体の鬼門」であるはずの日光が、「江戸城の鬼門」と混同されたのが理由のようです。そんなわけですから、本当の位置はともかく、鬼門という考えは決して間違えていないと思います。
記事の内容と異なってきていることをお気になされておられるようですが、ここはコメント欄ですから、自由な議論があってもいいのではないでしょうか。寛永寺の設問をふったのも私の方ですしね(^^ゞ
これからも機会があれば、お気軽にコメントして下さいね(^^♪
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ぴーち こんばんは!
昔から、方角に関しては色々と拘りを持ちながら
日本人は生活していたんですね~。
よく北まくらは良くないと言いますが、
わざと北を頭にして就寝される方がいらっしゃいますが、
かえって、頭が冴え冴えとする。と全く気になさらないという
その性格が幸運を引き寄せているようなw
下のコメントのお返事です。
遠山の金さんの件、お答えいただき、恐縮です。
私は、流し眼の杉良太郎が印象的ですね~^^
黒田さんも、是非、「流し眼」を一つ(笑)
それでは、応援凸
最澄の動きは南都の宗派からの激しい攻撃を受けましたが、最澄は「顕戒論」(けんかいろん)を著(あらわ)して反論しました。大乗戒壇は最澄の死後に設立が公認され、延暦寺はやがて仏教教学の中心となっていきました。
平安後期に浄土教(じょうどきょう)を広めた源信(げんしん)や、浄土宗(じょうどしゅう)の法然(ほうねん)、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の親鸞(しんらん)、日蓮宗(にちれんしゅう)の日蓮(にちれん)、臨済宗(りんざいしゅう)の栄西(えいさい)、曹洞宗(そうとうしゅう)の道元(どうげん)といった鎌倉新仏教の開祖(かいそ)たちの多くも、若い頃に延暦寺で学んでいるのです。
最澄は死後の866年に清和天皇(せいわてんのう)によって伝教大師(でんぎょうだいし)の名が贈られました。また、最澄の教えは弟子の円仁(えんにん)や円珍(えんちん)によって広められ、本格的に密教が取り入れられましたが、後に教理上の争いから分裂し、円珍派は園城寺(おんじょうじ、別名を三井寺=みいでら)に下って寺門派(じもんは)と呼ばれ、延暦寺に残って山門派(さんもんは)と呼ばれた円仁派と対立しました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
延暦寺は高僧達が学んだ母体寺(こういう言い方を
するのかどうかは判りませんが^^;)だった訳ですね。
ここから、それぞれの独自の教えを広めていったという意味では、日本の仏教の発展にはなくてはならないお寺だった訳ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 延暦寺は高僧達が学んだ母体寺(こういう言い方を
> するのかどうかは判りませんが^^;)だった訳ですね。
> ここから、それぞれの独自の教えを広めていったという意味では、日本の仏教の発展にはなくてはならないお寺だった訳ですね。
仰るとおりです。鑑真が苦労の末に来日して広めた戒律ですが、日本人が守るには厳しすぎて、かつ細かい内容でした。それに対して、最澄が設置しようとした戒壇は、簡単に言えば「仏への信心を重要視した我が国にふさわしい戒律を」という意味があったんです。
大乗戒壇が我が国の風土にあったことで、天台宗を母体として、海外の影響を受けながらも我が国独自の宗派が次々と生まれていったのです。
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てっちゃん中尉 延暦寺ってそんな歴史があったんですね。知らなかったです。光秀が信長の延暦寺焼き討ちを拒んだのもなんか解るようなきがしますね。
ところで、リンク張ってもよろしいですか?
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > 延暦寺ってそんな歴史があったんですね。知らなかったです。光秀が信長の延暦寺焼き討ちを拒んだのもなんか解るようなきがしますね。
延暦寺の長い歴史と伝統はこれまで述べたとおりですが、信長の焼討ちが「とんでもない」ことだったのかどうかというのとはまた別問題なんですよね。いずれはご紹介できると思いますが。
> ところで、リンク張ってもよろしいですか?
もちろん大歓迎です。こちらからもリンクさせていただきますので、今後ともよろしくお願いします。
経営者 最澄
オバrev 法然も親鸞も日蓮も栄西も道元も、延暦寺で学んでいたとは驚きです。
それだけの影響力が、最澄にはあったんですね。
最澄は、仏教徒としても優れていたけれど、経営者としても優れていたのかもしれません。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 法然も親鸞も日蓮も栄西も道元も、延暦寺で学んでいたとは驚きです。
> それだけの影響力が、最澄にはあったんですね。
> 最澄は、仏教徒としても優れていたけれど、経営者としても優れていたのかもしれません。
最澄は空海のように個人崇拝されるまでの尊敬を受けることはありませんでしたが、自身は円仁や円珍といった優秀な弟子を育て、また彼の教えがやがては鎌倉新仏教の道標となるなど、我が国の仏教繁栄への功績は計り知れないものがあります。
最澄は人を育てる天才の言わば「名コーチ」であり、経営の世界で例えれば、仰るとおり「優秀な経営者」であったといえるでしょう。
講座の成功を祈りますσ(゚ー^*)
marihime 黒田さんこんにちは☆
歴史講座まであと一週間ですね。
前回以上の受講者があり、大盛況になることを祈っています。
少々質問ですが、記事中の「浄土真宗の親鸞」というのは何かの間違いではありませんか?
私の知る限り浄土真宗の開祖は親鸞の子孫蓮如上人と記憶しています。
当時僧侶の結婚は禁じられていて、破戒僧として扱われていた親鸞がすがったのは師の法然であったこともあり、浄土宗の教えを布教した事実はあります。
親鸞は亡くなるまで浄土宗の僧侶だったと思いますが?
浄土真宗の教義には親鸞が開祖の先祖であるということで、特別の扱いをしていることは間違いないと思いますが、浄土真宗を開いたわけではないと思うのですが違うでしょうか。
また、変なことを質問してごめんなさいね。
marihimeさんへ
黒田裕樹 歴史講座へお言葉、有難うございます。
親鸞についてですが、没後はその存在が忘れられるほどに彼の教えは衰退し、その後に蓮如によって再び大衆に広まったのは確かですから、仰るとおりになるのかもしれません。
ただ蓮如は、むしろ滅びかけた親鸞の教えを復活させた「中興の祖」と呼ぶべきであって、悪人正機説などの親鸞の教えは、やはり彼自身が編み出したものと考えられます。
また、「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽浄土へ行けると説いた法然に対して、念仏を唱えるよりも信心こそが重要であると説いた親鸞の説は、明らかに法然と異なるものであり、この点からも浄土真宗の事実上の開祖者であるといえると思います。
さらに、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍し、本願寺を成立させた親鸞の曾孫の覚如(かくにょ)によって、「親鸞が浄土真宗の開祖である」と定められているという逸話もあります。
これらの事実を総合的に判断して、私は親鸞が浄土真宗の開祖であると定義して差し支えないものと考えております。
その後、空海は835年に死去し、921年には醍醐天皇(だいごてんのう)によって弘法大師(こうぼうだいし)の名が贈られましたが、高野山においては、空海はこの世を救うために留身(るしん、身をこの世に留めること)しており、「弘法大師様は生きている」ことになっています。このため、高野山では今でも毎朝弘法大師のところまで食事を運んでいるそうです。
多くの弟子を育てるとともに、その後の新しい仏教の基本となった天台宗の最澄とは対照的に、空海は自身の存在そのものが信仰の対象になりました。一般的には本名の空海よりも「弘法大師」としての名が広く知られており、毎年全国で五本の指に入る初詣客を集める神奈川県川崎市の平間寺(へいけんじ)は、通称の「川崎大師」(かわさきだいし)の方が有名になっています。
また、空海が書道の達人であることは先述しましたが、空海による書は大師流(だいしりゅう)と呼ばれて後世にまで深い影響を与えました。そのためか、ことわざとして「弘法にも筆の誤り」(=どんな名人にも間違いはあると言う意味)や「弘法筆を選ばず」(=本当に上手な人は道具に頼ったりしない)が現代でも残っています。
余談ですが、実際の空海は慎重に筆を選んでいたという説もあります。また、「弘法にも筆の誤り」は、空海が平安京の応天門の額を書いた際に、「応」の一番上の点の字を書き忘れたまま門に掲げられてしまったという事実が由来です。ちなみに間違いに気づいた空海は、あわてることなく筆を額に投げつけて点を打ったそうです。名人は書き直し方も違うものなんですね。




いつも有難うございます。
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オバrev 空海、空と海という何て雄大な名前だろうと思います。
最澄もどこまでも澄み渡っているという素晴らしい名前ですね。
それにしても、想像を絶する偉大な人ですね。いったいどれだけ厳しい修行や勉強をしたんでしょうか。
現代に生きておられたら、是非お会いしたいです。
ちょうど同じ時期に、最澄と空海が存在しましたけど、気になるのは二人は仲が良かったのか悪かったのか。
おそらく二人ともそういう次元のことは越えていたでしょうね。
スカイラインV35 最澄や空海だけではないでしょうが、当時の航海は正に命懸け。仏教というと”静”などをイメージしてしまいますが、気概も高い次元にあったのでしょうね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かに素晴らしい名前ですし、偉大な人だけにお会いしたいとは思いますが、あまりにも偉大すぎてかえって失礼になってしまいそうです(^^ゞ
最澄と空海は同じ遣唐使の留学僧として面識がありました。多忙の身であった最澄は空海よりも密教の知識が十分に得られなかったので、密教の経典をしばしば空海から借用していました。最澄の求めを最初のうちは応じていた空海でしたが、回数の多さにやがては拒絶します。時代のうねりの中で、新しい仏教を目指そうとした最澄と、あくまで密教にこだわった空海との間には、いつしか越えられない溝が出来ていたのでしょう。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 最澄や空海だけではないでしょうが、当時の航海は正に命懸け。仏教というと”静”などをイメージしてしまいますが、気概も高い次元にあったのでしょうね。
私もそう思います。別記事のコメントにも書きましたが、最澄と空海が遣唐使として唐に渡った際、彼らを乗せた船以外はすべて遭難してしまったという厳しい現実がありますからね。一つしかない生命を差し出してでも得なければならないものがある。最澄と空海の気概は、現代人がもっとも忘れてしまっているものなのかもしれません。
けん爺ちゃん こんばんは(^ワ^)
空海の意外なエピソード、勉強になりました。
何て豪快な修正だろう(笑)
弘法大師として、全国に様々な伝説があるようで
熊本でも、独鈷山やその他様々な伝承があるようです。
教義よりも、人が信仰の対象になるという箇所…
社会主義におけるスターリンや毛沢東、某近隣国のファミリーを
思い起こしました…。
MAHHYA うわあ、筆を投げて直したとは・・・。
すごいですねー、初めて知りました!
さすが、今でも厚い信仰を集める弘法大師様です!
てっちゃん中尉 なるほど、弘法も筆の誤りにはそんな話があったんですね。初めて知りました。川崎大師ですか、神奈川に住んでいる分際でまだ行ったことがないですね。きっと行ったら何か発見が出来そうですね。夏休みが終わる前に行って見たいと思います。
話は変わり、リンクの件になりますが、相互リンクをしていただきありがとうございます。若輩ながら、これからもがんばります。今後ともどうぞよろしくお願いします。
けん爺ちゃんさんへ
黒田裕樹 > 空海の意外なエピソード、勉強になりました。
> 何て豪快な修正だろう(笑)
> 弘法大師として、全国に様々な伝説があるようで
> 熊本でも、独鈷山やその他様々な伝承があるようです。
確かに豪快です(笑)。
仰るとおり、空海の伝説は全国にありますね。この講座ではさすがに全部は紹介しきれませんが…。
> 教義よりも、人が信仰の対象になるという箇所…
> 社会主義におけるスターリンや毛沢東、某近隣国のファミリーを
> 思い起こしました…。
「人々から自然な崇拝を集めた」空海と、「自分を神格化するよう強制した」スターリンなど。
下からなのか、上からなのかによって、両者は似て非なるものでもありますね。
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 ことわざ自体は知っていても、その由来まではなかなか手が届かないものです。
今回のようなエピソードを知ることによって、国語と歴史の両方の知識を一度に得られるのではないかと考えております。
確かに「さすがは大師様」ですよね(^_^)v
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > なるほど、弘法も筆の誤りにはそんな話があったんですね。初めて知りました。川崎大師ですか、神奈川に住んでいる分際でまだ行ったことがないですね。きっと行ったら何か発見が出来そうですね。夏休みが終わる前に行って見たいと思います。
私も川崎大師には行ったことがありません。東京へ行くことは何度かあるのですから、途中下車するのも悪くはないですよね。
> 話は変わり、リンクの件になりますが、相互リンクをしていただきありがとうございます。若輩ながら、これからもがんばります。今後ともどうぞよろしくお願いします。
丁寧なお言葉、有難うございます。お互いにブログを盛り上げていければいいですね。
密教は美術の方面でも影響を及ぼして、神秘的な作品が数多くつくられました。彫刻では密教とかかわりのある如意輪観音(にょいりんかんのん)や不動明王(ふどうみょうおう)などの仏像が、一本の木から一体の仏像を彫りおこす一木造(いちぼくづくり)でつくられました。薬師寺(やくしじ)の僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)や、神護寺(じんごじ)の薬師如来像(やくしにょらいぞう)などが有名です。
密教に関する仏画としては、神護寺や教王護国寺(きょうおうごこくじ)の両界曼荼羅(りょうかいまんだら)など、仏の世界を視覚的や象徴的にあらわした曼荼羅(まんだら)が多く描かれました。また、当時の寺院は、室生寺(むろうじ)の金堂(こんどう)などのように山地に建てられたこともあり、地形に応じた自由な伽藍配置(がらんはいち)でつくられました。
この時代までに、仏教の広まりによって神祇信仰(じんぎしんこう)と仏教とが次第に調和し融合するようになりました。これを神仏習合(しんぶつしゅうごう)といいます。神仏習合によって、神社の境内(けいだい)に神宮寺(じんぐうじ)を建てたり、寺院の境内に守護神(しゅごしん)をまつり、神前で読経(どきょう)したりする例も多くなりました。




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
今週末は第5回目の講座ですね。
前回を上回る成果が得られるといいですね。
かげながら応援させていただきます。
おいらは生き物を飼う難しさに凹んでおります。
人間のエゴで可愛そうなことを繰り返す自分が
嫌になることもあります。
記事に関係のないコメントで申し訳ないです。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 いつも講座へのお気遣い有難うございます(^o^)丿
> おいらは生き物を飼う難しさに凹んでおります。
> 人間のエゴで可愛そうなことを繰り返す自分が
> 嫌になることもあります。
こちらのサジ加減一つで生き物の今後が決まってしまいますからね。不可抗力で生命を奪ってしまうこともありますし。ただ、誤解を恐れずに言えば、ある意味は「仕方がない」ところもあると思いますよ。
> 記事に関係のないコメントで申し訳ないです。
いえいえ、また機会がございましたらコメントして下さいね(^^♪
ranran おはようございます。
で
はじめまして。ranranと申します。
「密」を視ることは、既に中国メインランドでは不可能になっております。
毛さんって、よっぽど"漢"が大嫌いだったんでしょうね、徹底的に中国国内にある漢文化を破壊しつくしています。
おかげで全く辿れない旧き文化が、あの国には大量にございます。しまいには、漢字まで破壊しようとした毛さんですが・・簡体とか言ってますが・・
なんともはや・・としか言いようがございません。
先日ですが、ある機会があって日本に農学を学びに来ている中国の方と話をする機会がありました。
そのとき、その方が言っておりました。
中国の本草を学ぶには日本に来るしかない。中国は、中国の古典を失ってしまった、と。
ranranさんへ
黒田裕樹 はじめまして、ご訪問並びにコメント有難うございます。
毛沢東氏といえば文化大革命が有名ですが、漢文化の破壊もあったんですね。
それにしても中国の本草を学ぶのにわざわざ我が国へ来なければならないとは、本末転倒も甚だしいですね。
貴重な情報を有難うございました。また是非お越し下さい。