桓武天皇は道鏡による政策などで大きくなり過ぎた仏教勢力との決別や、天武系の天皇が造営した平城京からの心機一転をはかるために、784年に山背国(やましろのくに、現在の京都府南部)の長岡京(ながおかきょう)に遷都されました。
長岡京の造営には天皇の側近の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が任じられましたが、785年、種継が造営中に暗殺されるという事件が起きました。種継の暗殺には、実行犯のほかに大伴家持(おおとものやかもち)や桓武天皇の弟で皇太子の早良親王(さわらしんのう)が関わったとされ、関係者は厳罰に処せられました。早良親王は無実を訴え続けましたが受けいれられず、最期には絶食して亡くなりました。
早良親王の憤死(ふんし)後、朝廷では不幸な出来事が続発しました。疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が大流行し、桓武天皇の母親や妃(きさき)が次々と亡くなったのです。早良親王の替わりに皇太子に立てた息子の安殿親王(あてしんのう)も病気がちとなり、事態の深刻さに慌てられた桓武天皇は、これらの「早良親王のタタリ」とも思える現状を打破するために、794年に平安京(へいあんきょう)に遷都されました。
桓武天皇は、平安京への遷都と同時に、都が置かれた山背国を「城で守る」という意味から「山城国」と名を改められました。以後、鎌倉幕府成立までの約400年間を平安時代(へいあんじだい)といいます。




いつも有難うございます。
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marihime 黒田さんこんばんは☆
奈良時代が終わって、いよいよ平安時代の始まりですね。
平安文化と武家勢力の台頭の話が楽しみになってきました。
応援してますよ。頑張ってくださいねσ(゚ー^*)
ポチがたくさん並んでますから全部おしときますねo(^-^)o
ぴーち こんばんは!
うわ~っ!ここでも、「タタリ」が勃発したんですね!
とはいうものの、「タタリ」と受け取る人間側の
良心の呵責が「タタリ」であるという気持ちに
拍車を掛けて、
駆り立てるのでしょうね。
結局は、早良親王は無実だったのでしょうかね・・。
哀れな話です。
marihimeさんへ
黒田裕樹 ブログを始めて今日でちょうど5ヶ月になるんですが、ようやく(?)平安時代に入りました。平安文化も武家勢力の台頭の話ももちろん詳しく取り上げていく予定ですので、今後ともよろしくお願いしますね(^_^)v
ポチ下さって有難うございます!\(^o^)/
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「タタリ」という概念は、仰るとおり心にやましいところのある人間が、良心の呵責に耐えかねて思い込むものとも言われていますね。今回の桓武天皇といい、かつての藤原四兄弟といい、古代の為政者はタタリにあってばかりです。
早良親王はもともとは東大寺などの僧だったんです。兄の桓武天皇のご即位時に、光仁天皇のご意向で還俗して皇太子になったんですが、仏教界に強い影響を持つ弟と、仏教界とのしがらみを断ち切って新しい政治を行いたい兄との間には次第に溝が深まっていく最中に暗殺事件が起きたことで、これを奇貨として弟の皇太子としての地位を奪いたかったという考えもあります。
いずれにせよ、早良親王は新しい時代へと移りゆく中での犠牲者だといえるのかもしれませんね。
紗那 よ、よし!一番苦手な時代。しっかり頑張ろう。うん。
でも、このタタリの話が聞いたことあります。良いことだ(ぇ でも山背だったとは知らなかった・・・・・・ このときに改められたんですねー
なくよ うぐいす へいあんきょう なら覚えています・・・・・?だからなんだと言うのだろうry
紗那さんへ
黒田裕樹 しっかり頑張って下さい(^_^)v
タタリの話は結構有名ですからね。その一方でずっと「山城」だったと思われている人は多そうです。
「年号から入る歴史」もありますよ。すべてはこれからです!
たたりか~
h.hamauzu こんばんは。
たたりで遷都。
う~ん、今でも引越しの
ひとつの理由にはなっていますね!?
情報のすくないこの時代では、
とくにタタリなどは信じられたでしょうね。
まあ、現代のように、情報はたくさんあっても、
記者クラブによる、情報統制があっては、余計にわるいですが
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 > たたりで遷都。
> う~ん、今でも引越しの
> ひとつの理由にはなっていますね!?
> 情報のすくないこの時代では、
> とくにタタリなどは信じられたでしょうね。
そうですね。タタリというのがひとつの立派な理由になった時代でしたから。
現代においては非科学的なことでも、当時では科学的だったといえます。
> まあ、現代のように、情報はたくさんあっても、
> 記者クラブによる、情報統制があっては、余計にわるいですが
仰るとおり、こちらの方がよっぽど性質(たち)が悪いですね(´・ω・`)
選挙の際の報道も、公正中立であってほしいのですが…。
解由状は、前任者の国司が任期中に不正を行わなかったことを後任者が証明するものであり、これがないと前任者は別の職につけないこととなり、結果として国司の交代の際の事務の引継ぎを厳しく監督することになりました。
次に、桓武天皇は農民の困窮(こんきゅう)などによって質が低下した兵士の改革を行われました。それまでの徴兵制による軍団(ぐんだん)の制度を見直し、792年には東北や九州など一部の地域を除いて軍団と兵士を廃止しました。その代りに地方行政官の郡司(ぐんじ)の子弟や有力農民の志願制による健児(こんでい)制度を設けました。
また、農民への対策としては、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)における班田を、それまでの6年に一度から実情に合わせて12年に一度に改め、国司の命令で働く労役制度である雑徭(ぞうよう)も、60日間から30日間に半減され、農民の負担を軽減しました。




お蔭様でカウンターが8000を突破しました! いつも有難うございます!
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オバrev 桓武天皇 なかなかやり手ですね。
勘解由使を新設したということは、国司の不正が相当はびこっていたんでしょうね。
また徴兵制から有力者師弟の志願兵制に変えたのも見事なタイムリーヒットだと思います。
アメリカも志願兵制だそうですが、やはり兵士のモチベーションも高いしレベルは上がると思います。
ただ班田(税金を決めるために田んぼをチェックすることですか?)12年は長いような気がしますがどうなんでしょうか。
でもいずれにしても、国民の状態をよく把握して政策を実行していると思います。それだけ国民の不満が高まっていたのか、情報収集がうまくできてたかですね?
海豚 8000!!!!
おめでとうございます♪
班田収受法と
墾田永年私財法(?)がいつも混乱してます・・・(汗
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こんにちは
安眠癒しグマ こんにちは
カウントすごいですね~おめでとうございます。
私は昨日から喉がいがいがしていて、昨日はおじゃまできませんでした<(_ _)>
応援ぽち
班田収受法
kenちゃんマイド この法の内容を教えてください。大体オカミが法律を変えるときは国民の為と言いながら実際は自分たちの都合のよい方へ改悪します。小泉改革が良い見本です。派遣法にしろ、郵政民営化にしろ、みなさん何か良いことがありましたか?選挙前のコメントとしてはよくないかも。よく考えて投票しましょう。
<賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ>ボクは後者ですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 勘解由使を新設したということは、国司の不正が相当はびこっていたんでしょうね。
> また徴兵制から有力者師弟の志願兵制に変えたのも見事なタイムリーヒットだと思います。
> アメリカも志願兵制だそうですが、やはり兵士のモチベーションも高いしレベルは上がると思います。
国司の不正には次の国司をもってあたらせたわけですから、効果的だったことでしょう。ただ、健児の制度は年々廃(すた)れていくんですよね。蝦夷の平定が終了して我が国に面と向かって攻めてくる存在がなくなってからは、軍隊が廃止されてしまいますので…。
> ただ班田(税金を決めるために田んぼをチェックすることですか?)12年は長いような気がしますがどうなんでしょうか。
班田とは民衆に国の口分田を分け与えることです。当初は6年に一度を目標に行われていたんですが、農民の浮浪・逃亡や初期荘園の増加で人口などが把握しづらくなったことで、班田を正確に行うために期間を延ばしたんです。しかし、それでも班田が難しくなり、やがては行われなくなりますが、そのあたりについては今後の講座で紹介させていただきます。
> でもいずれにしても、国民の状態をよく把握して政策を実行していると思います。それだけ国民の不満が高まっていたのか、情報収集がうまくできてたかですね?
前者も後者も当てはまると思います。タタリを起こしてしまった是非はともかくとして(笑)、桓武天皇の政治に関しては、評価できることは多いと思います。
海豚さんへ
黒田裕樹 > 8000!!!!
> おめでとうございます♪
有難うございます!\(^o^)/
> 班田収受法と
> 墾田永年私財法(?)がいつも混乱してます・・・(汗
班田収授法は「公地公民制を守るための制度」で、墾田永年私財法は「公地公民制を破るための制度」と理解すれば、後の学習が楽になりますよ(^^♪
安眠癒しグマさんへ
黒田裕樹 > こんにちは
> カウントすごいですね~おめでとうございます。
有難うございます。ブログ開始5ヶ月で8000という数字に到達できたことに感謝しております。
> 私は昨日から喉がいがいがしていて、昨日はおじゃまできませんでした<(_ _)>
> 応援ぽち
インフルエンザも流行っていますからね。体調にはくれぐれもお気をつけ下さいm(_ _)m
kenちゃんマイドさんへ
黒田裕樹 班田収授法を一言で言えば、公地公民制のもとで行われる、農地の支給や収容に関する制度のことです。当初は公地公民制度が厳守されていたのですが、年貢の負担に耐えかねて農地を捨てて浮浪・逃亡する農民が続出し、また人口が増加して口分田が不足したこともあり、新田の開発などを積極的に行うために、最終的には農地の私有を認める墾田永年私財法を施行しました。
仰るとおり、政府の都合のよいように法制度を変えるのはいつの時代も同じですね。選挙後の内閣も、我が国を根底からくつがえす悪法を制定しなければよいのですが…。
> <賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ>ボクは後者ですね。
それは私も同じです(笑)。でも、政府は前者であってほしいですし、そうでないと我々が困りますね。
ケンシロウ こんにちは。
カウンター8000HITおめでとうございます。
これも先生の講座を楽しみにしている方が
多いことを物語っていますね。
明後日の講座も頑張って下さいな。
桓武天皇は789年に紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)に任命して蝦夷の征伐を命じられましたが、蝦夷側の指導者である阿弖流為(アテルイ)に大敗しました。ちょうど長岡京で天然痘が流行していた時期で、この敗北も「早良親王のタタリ」のひとつとされました。
平安京に遷都後の797年、桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて、再び蝦夷の征討を目指されました。坂上田村麻呂は桓武天皇のご期待に応えて蝦夷を征服し、802年に胆沢城(いさわじょう、現在の岩手県奥州市)を築いて鎮守府を多賀城から移し、翌803年には志波城(しわじょう、現在の岩手県盛岡市)を築き、東北地方の前進拠点としました。
しかし、これらの東北地方での戦いは平安京の造営と並行しており、国の二大政策が同時に行われたことは結果として国家財政や農民にとって大きな負担となりました。桓武天皇は、805年にこの二大事業をそろって中止することを宣言されると、翌806年に70歳で崩御されました。




いつも有難うございます。
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スカイラインV35 後世の解釈かもしれませんが、「傍系」という事で”より以上に積極的”な御方だったのかもしれませんね。江戸時代の光格天皇もそのような評価を受けていますし。「傍系」ゆえのハングリー精神なのか、「傍系」であった為に広い視野と才覚が備わったのか、鶏が先か卵が先かみたいな議論ですが。。。
平安京は未完成?
オバrev 坂上田村麻呂って、日本初の征夷大将軍だったと記憶してますが、東北を制圧したんですね・・・そこは覚えてない~(;^ω^)アレレ?。
それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)
でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 皇室に限らず、傍系の場合はどうしても一段低く見られがちですから、自己を積極的にアピールする傾向にあるようですね。それが必ずしも有効とは限りませんが、少なくとも今回の桓武天皇や、仰った光格天皇の場合は成功例といえると思います。
> 鶏が先か卵が先かみたいな議論ですが
確かにそうですね(^^ゞ
ただ、仰ったお考えは私も同感ですよ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 坂上田村麻呂って、日本初の征夷大将軍だったと記憶してますが、東北を制圧したんですね・・・そこは覚えてない~(;^ω^)アレレ?。
坂上田村麻呂の征夷大将軍が、本来の意味での将軍です。後に拡大解釈されて、源頼朝や足利尊氏、徳川家康などにつながっていくんですよね。
> それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
> しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)
当時はタタリが正当化された時代でしたから、度重なる遷都にも一応理由があっただけ、現代よりもマシかもしれませんね。なにしろ無意味にハコモノをつくりすぎますから…。選挙後の政権も同じ轍を踏まなければよいのですが。
> でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?
いわゆる政庁としての機能は完成しており、首都にふさわしい周辺の整備が途中で打ち切られたと思われます。桓武天皇の新都への意気込みは相当なものであられたようですから…。