奈良時代に目指された中央集権的な国家体制は、必然的に国家意識を高めることとなり、天武天皇の時代に着手された歴史書の編さんが積極的に続けられました。まず712年に「古事記」(こじき)が、720年には「日本書紀」(にほんしょき)が相次いで完成しました。両者は「記紀」(きき)と併称(へいしょう)されることが多いですが、「記」と「紀」の違いには要注意です。
古事記は、古くから朝廷に伝えられてきた「帝紀」(ていき)や「旧辞」(きゅうじ)をもとに、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に詠(よ)み習わせた(=暗記させた)内容を、太安万侶(おおのやすまろ)が漢字の音訓を用いて筆録したもので、神話伝承の時代から推古天皇までの物語となっています。
日本書紀は、天武天皇の子である舎人親王(とねりしんのう)が中心となって編さんし、中国の歴史書の体裁(ていさい)にならって漢文の編年体(へんねんたい)で、神代から持統天皇までの歴史が記載されています。
尚、編年体とは年代を追って出来事を記述していく方法であり、歴史全体の流れがつかみやすくなっています。これに対して、人物や国ごとの業績を中心に記述していく方法を紀伝体(きでんたい)といい、中国の「史記」(しき)などがこの方法で記されています。私の歴史講座に関しては、通常のブログでの更新が「編年体」で、原則月一回の本物の講座が「紀伝体」ということになりますね。




いつも有難うございます。
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オバrev 素朴な疑問として、古事記の記と日本書紀の紀は、同じく「き」と読みますが、意味が違うのでしょうか?
それと、古事記は稗田阿礼に暗唱させたものをが記録したとされますが、何故そのような2度手間をしたのでしょうか。
最初から太安万侶に編纂させれば良かったのではないかと疑問に思います。
紗那 この辺りは文科なのに詳しかったり♪
文化史は次の塾で小テスト入りますので、がんばります。
記と紀は描き間違えたことないんです。ケアレス多いのに^^
確かによく考えると、編集の方法も弐種類あるんですね。
有名な人だと、紀伝体ということなるんでしょうか。人名事典とかは変則的な紀伝体って感じですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 素朴な疑問として、古事記の記と日本書紀の紀は、同じく「き」と読みますが、意味が違うのでしょうか?
「記」が単なる歴史を記した書物なのに対して、「紀」は中国でいう編年体の歴史書という意味があるらしいです。
> それと、古事記は稗田阿礼に暗唱させたものをが記録したとされますが、何故そのような2度手間をしたのでしょうか。
> 最初から太安万侶に編纂させれば良かったのではないかと疑問に思います。
稗田阿礼に「帝紀」や「旧辞」を暗誦させたのは天武天皇ですが、このとき稗田阿礼は28歳だったと伝えられています。その後、稗田阿礼が高齢になって、このままではせっかく憶えた大事な記録が失われることを惜しんだ元明天皇が、太安万侶に筆録を命じたのではないかと思われます。
紗那さんへ
黒田裕樹 > この辺りは文科なのに詳しかったり♪
> 文化史は次の塾で小テスト入りますので、がんばります。
得意分野があるのはいいことですね(^^♪
> 記と紀は描き間違えたことないんです。ケアレス多いのに^^
書き間違いはもったいないですからね。これもいいことです。
> 確かによく考えると、編集の方法も弐種類あるんですね。
> 有名な人だと、紀伝体ということなるんでしょうか。人名事典とかは変則的な紀伝体って感じですね。
中国の史記の場合は、人物ごとに「○○伝」というようにまとめられているんですよ。従って、仰るとおりと考えてよいと思います。
人名事典の発想はなかった…(^^ゞ
いわれてみればそのとおりですね。
こんばんは
スカイラインV35 それが務めだったとはいえ稗田阿礼の暗記力はすごいですね。私もウン十年前の受験期に、その何分の一かの記憶力があれば今頃は・・・
それにしても古事記は江戸時代には判読不能になっていて、それを本居宣長はじめ国学者の驚異的な努力で判読可能にしたと聞きました。
先人の御苦労には頭が下がりますねぇ。
さすらい こんばんは。
天平文化
この辺で思い出すのは「天平の甍」ですね。
井上靖は私の好きな作家で
かなり読みました。
黒田さんならご存知かと思いますが
彼はたくさん歴史小説を書いていますよね。
「天平の甍」は映画にもなりましたし
この時代の話はそこから興味を持ちました。
「史記」などは仕事の関連で使ってます。
遅くなりましたが応援済みです♪
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > それが務めだったとはいえ稗田阿礼の暗記力はすごいですね。私もウン十年前の受験期に、その何分の一かの記憶力があれば今頃は・・・
私も同じ思いです(笑)。ずば抜けた記憶力を持った稗田阿礼はもちろん、その実力を遺憾なく発揮させた天武天皇のご実力も素晴らしいですね。
> それにしても古事記は江戸時代には判読不能になっていて、それを本居宣長はじめ国学者の驚異的な努力で判読可能にしたと聞きました。
> 先人の御苦労には頭が下がりますねぇ。
「古事記伝」は本居宣長のライフワークともいえる大作ですし、現代でも十分通用しますからね。国学者による学問は、尊皇攘夷思想ともつながってますし、民俗学の源流にもなっていますから、その影響力は計り知れないものがありますね。
さすらいさんへ
黒田裕樹 「天平の甍」は力作ですね。
井上靖の歴史小説は、その多くが映画化もしくはテレビドラマ化されました。一昨年の大河ドラマもそうでしたね。
「史記」は、21世紀の現代に至るまで、2000年以上も読まれ続ける歴史書の大作ですよね。我々が日常使うことわざの多くの語源にもなっています。
応援有難うございます。
空茄 めっちゃくわしいんですね。
初コメです!!
ってか、ウチのポチとコメしてますか!?
空茄さんへ
黒田裕樹 > めっちゃくわしいんですね。
有難うございます!(^_^)v
> 初コメです!!
> ってか、ウチのポチとコメしてますか!?
ランクリはPCに向かうことがあればいつもさせてもらってますよ(^^♪
コメントもできる限りさせてもらいますね。
この時代には、鎮護国家の思想によって仏教が国家の保護を受けて大いに発展したことにより、様々な仏教理論の研究が進められ、南都六宗(なんとろくしゅう)と呼ばれる学派が形成されました。南都六宗とは三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・法相宗(ほっそうしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りっしゅう)のことです。このうち律宗は唐の高僧であった鑑真が、我が国に戒律を伝えたのが始まりとされています。
また、仏教とともに儒教(じゅきょう)の経典(きょうてん、宗教の基本的な教義などを記した書物のこと)も重んじられました。これらは官吏(かんり)の養成のために用いられるようになり、中央に大学(だいがく)、地方には国学(こくがく)が置かれました。尚、入学者には経書(けいしょ、中国の古代の教えを記した書物のこと)や律令、書道、算術などが教授されました。
奈良時代は、貴族や官人(かんじん)に漢詩文(かんしぶん)の教養が必要とされた時代でもありました。石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)や天智天皇の子孫である淡海三船(おうみのみふね)が著名な漢詩文の文人(ぶんじん)として知られており、751年には現存最古の漢詩集である「懐風藻」(かいふうそう)が成立しています。
我が国古来の和歌(わか)も天皇を始め兵士や地方の農民に至るまで幅広く詠(よ)まれました。「万葉集」(まんようしゅう)には、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や山上憶良(やまのうえのおくら)、山部赤人(やまべのあかひと)、大伴家持(おおとものやかもち)らの宮廷の歌人のほか、東国の民衆たちが詠んだ東歌(あずまうた)、九州沿岸の守りについた防人(さきもり)たちが詠んだ防人歌(さきもりうた)などの約4,500首が収録されています。
万葉集の歌には心の動きを素直に表現したものが多く、我が国の民族の心情がよく示されています。また、万葉集は漢字の音訓を巧(たく)みに組み合わせて日本語をあらわした万葉仮名(まんようがな)で表記されているのも大きな特徴です。




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セイケジュンコ この人は覚えてるけど、どんな歌をうたったかはわからないですね(笑)
やまのうえのおくらっていうけど「の」が入ってるのに
漢字で書くとどうしてこれなんだろうって不思議に思ってた過去の若い私がいました。
今も疑問ですが・・・・(笑)
セイケジュンコさんへ
黒田裕樹 > この人は覚えてるけど、どんな歌をうたったかはわからないですね(笑)
山上憶良の有名な歌には、下級農民の困窮を歌った「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」の他に、下記の歌などがあります。
「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも」
> やまのうえのおくらっていうけど「の」が入ってるのに
> 漢字で書くとどうしてこれなんだろうって不思議に思ってた過去の若い私がいました。
> 今も疑問ですが・・・・(笑)
基本的には「姓」と「苗字」の違いです。今ではあいまいになっていますが…。
「姓」は天皇から与えられたもので、苗字は自分で名乗るものです。例えば「藤原」や「源」は前者に当たりますから「○○の」と「の」がつきます。一方、同じ「源」姓でありながら地域に土着して地元の地名を名乗った「足利」や「新田」のような苗字には「の」がつきません。
山上憶良の「山上」は天皇より与えられた姓なので、「やまのうえの」となるわけです。
ぴーち こんばんは!
上の方のコメントで思い出しました。
割り込んでしまって御免なさいね!
「億良らは 今はまからむ 子泣くらむ. そを負ふ母も 吾を待つらむそ 」という歌が好きです。
皆が酒の席で賑わっている最中、
一人退席したい時、周りの雰囲気を白けさせないように配慮する為に咄嗟に出たこの歌は
本当に素晴らしの一言だなと思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、コメント下さって有難うございます(^^♪
山上憶良の歌は自己の感情を素直に表現した名作が多いですよね。1300年以上経っても変わらずに愛されているのが素晴らしいと思います。
風土記
h.hamauzu こんばんは!
風土記・・・何のために書かれたのでしょうか・・・
やはり、統治のためですか・・・?
全国食べ歩きのためではないでしょうがw
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 風土記の編さん理由については、律令政治の確実な実施のために地方の状態を把握したかったからだという説もありますが、正確な理由は分かっていません。
「全国食べ歩き」といういかにも平和な理由だったら、それはそれで素晴らしいことなのですが(笑)。
紗那 風土記はちゃんと覚えてました♪とりあえず出雲のくだりを。
このころに、もうこんなに宗教が会ったとは・・・ 全部、仏教はとはいえ、多いですね。。。
万葉集の歌はちゃんと覚えてますよ! ほ、ほら。あれとかあれとk・・・ あ、あれ?何で出てこないんだろう(汗
紗那さんへ
黒田裕樹 > 風土記はちゃんと覚えてました♪とりあえず出雲のくだりを。
それは良かった(^^♪
いい機会ですから、出雲以外の部分的に残っている国の名前も理解しましょうか(^^ゞ
> このころに、もうこんなに宗教が会ったとは・・・ 全部、仏教はとはいえ、多いですね。。。
南都六宗は高校の日本史で学習しますからね。基本的には鑑真の律宗を理解すればよいと思いますよ。
> 万葉集の歌はちゃんと覚えてますよ! ほ、ほら。あれとかあれとk・・・ あ、あれ?何で出てこないんだろう(汗
他の方へのコメントで何首か紹介しましたが、他にも有名な歌がいくつもありますよ。良かったらご自身で調べてみてはどうでしょうか?(^_^)v
お~!!!!そうだったんだぁ(^◇^)
セイケジュンコ とってもよくわかりました!(*^。^*)
ちょっと賢くなった気がします!(^^)!
子供達が歴史を習った頃に、自分の知識のように教えます(笑)
でも、さすが黒田先生!
さすが歴史の先生(笑)
何か山上憶良って百人一首に出てましたっけ???
うーん、・・・・・・。
分からん・・・・(笑)
歴史は得意だったのになぁ・・・・(;_:)
セイケジュンコさんへ
黒田裕樹 これはまたお褒めの言葉を頂戴いたしまして…(笑)。
山上憶良は残念ながら百人一首には選ばれておりません(´・ω・`)
同時代の歌人としては柿本人麻呂、山部赤人、猿丸大夫、大伴家持、阿倍仲麻呂などが選ばれています。
彫刻では、表情豊かで調和の取れたものや、写実的ながらも宗教的な雰囲気をかもし出すものが多く造られました。造像(ぞうぞう)の技術も発達し、従来の金銅像(こんどうぞう)や木像のほかに、木を芯(しん)として粘土を塗り固めた塑像(そぞう)や、原型の上に麻布(あさぬの)を漆(うるし)で塗り固めた後に原型を抜き取るなどの技法を用いた乾漆像(かんしつぞう)が用いられました。
塑像には東大寺法華堂の日光・月光菩薩像(にっこう・がっこうぼさつぞう)が、乾漆像には興福寺(こうふくじ)の阿修羅像(あしゅらぞう)や唐招提寺の鑑真和上像(がんじんわじょうぞう)があり、中でも鑑真和上像は我が国最初の肖像彫刻として有名です。
絵画も唐の影響を強く受けており、聖武天皇の時代の宝物(ほうもつ)が寄進された正倉院(しょうそういん)に伝わる鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょびょうぶ、または「とりげだちおんなびょうぶ」)や、薬師寺(やくしじ)の吉祥天女像(きちじょうてんにょぞう)が有名です。また、前述の正倉院には多数の宝物が完全な状態で今日まで伝えられており、螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)などの工芸品の様式や製作技術には、唐ばかりでなく遠くペルシアやローマなどの要素が取り入れられています。
(これで奈良時代は終了です)




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
奈良時代の講座お疲れ様です。
歴史は不得意の分野ですが
この頃の記憶は ??(゜o゜; )ドコドコ( ;゜o゜)??
次の講座も自信なしですが
楽しく拝見させていただきますね。
阿修羅像
オバrev 奈良時代の文化は唐の影響が大きいんですね。
またその唐へは、シルクロードを通ってペルシャやローマの文化が伝わっていたとは何ともグローバルです。
仏像が結構多いですが、気になるのは興福寺阿修羅像。
仏像って、仏頂面したものが多いけど、この阿修羅像の顔は3つとも凄く人間的です。是非実物を見てみたいものです。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 奈良時代は今日で終わりですが、次回からは平安時代が始まりますし、まだまだ続きます。
今後ともよろしくお願いしますねm(_ _)m
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 奈良時代の文化は唐の影響が大きいんですね。
> またその唐へは、シルクロードを通ってペルシャやローマの文化が伝わっていたとは何ともグローバルです。
奈良時代のほうがある意味国際的だったのかもしれませんね。ペルシャやローマの文化も、後の国風文化の基礎になったと思えば、歴史の深さと重みを実感します。
> 仏像が結構多いですが、気になるのは興福寺阿修羅像。
> 仏像って、仏頂面したものが多いけど、この阿修羅像の顔は3つとも凄く人間的です。是非実物を見てみたいものです。
確かに独特の風貌をしていますよね。
阿修羅像ですが、現在(平成21年8月)は福岡で展示されているようですね。
http://www.asahi.com/ashura/
ぴーち 奈良時代の美術品、宝物など
多分一度くらいは、修学旅行などで
見ていると思うのですが、
何しろ、通り一遍で時間も制限されての旅行ですので、
どんな彫刻であったかも、すっかり忘れています。
名前と美術品が頭の中で一致しません^^;
今度機会がありましたら、ゆっくりと見て周りたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 天平文化に限らず、数多くある美術品や宝物は限られた時間で見るのはとても不可能です。
仰るとおり、腰を落ち着けてじっくりと見物したいものですね。
奈良の場合であれば、やはり大仏がある東大寺を中心に周られるのがよいかと思われます。