カギを握るのは、政治の実権を握った者が「藤原氏」か「反藤原氏」かということだったのです。
1.藤原不比等(ふじわらのふひと) [藤原氏]
飛鳥時代の末期から奈良時代の初期にかけては、皇族や中央の有力貴族が協力しあって、律令制度の確立を目指していましたが、その中で一歩抜け出した存在となったのが、藤原鎌足の息子である藤原不比等でした。
不比等は701年に大宝律令、718年には養老律令の編さんに携(たずさ)わり、朝廷からの厚い信任を受けました。また、文武天皇(もんむてんのう)の崩御後は元明天皇(げんめいてんのう)、次いで元明天皇の娘で文武天皇の妹でもあり、皇室の血を引く第44代の元正天皇(げんしょうてんのう)と女性天皇が続いたこともあり、彼が政治の実権を握るようになりました。
その力を背景に、不比等は娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)を文武天皇に嫁がせて、二人の間に産まれた首皇子(おびとのみこ)に、自分の娘で宮子の異母妹(いぼまい、母親のちがう妹のこと)にあたる藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)を嫁がせることに成功し、皇室と密接な関係を築きました。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
ここでも天皇を利用して
皇室との関係を築くのですね。
政略結婚は現代でもありますから
歴史的には指して珍しくもないですが
我々庶民にとっては
やはりわからない感覚ですよね(笑)
うらやましい感覚だったり?(笑)
応援♪
悠 ほぉー
藤原不比等とかは聞いたことないですね
大宝律令の編さんに携わってたのに知りませんでした
大宝律令ってのはよく聞くんですけどね
でた~!
オバrev でましたね、藤原氏。
不比等から、天皇家との姻戚関係を結んで支配力を強めていったのか、なるほど~。
でも確か最高潮に達したのは、平安時代の藤原道長、頼通親子のときだと思いますから、その権力は随分長い間続くんですね。
さすらいさんへ
黒田裕樹 藤原氏の方法は、基本的に蘇我氏と変わりませんからね。政略結婚は、言うなればお互いの家の利害の一致で実現するもので、個人の感情が一切無視されますから、本人同士は幸せだったのかどうか…。
それでもやはりうらやましく思ってしまうのが人情なのでしょうか(笑)。
ぴーち こんばんは~^^
はっきり分かるだけでも6回・・という事は
はっきりしない部分を混ぜると相当な数になるんですね~(^^A
今日の記事を読ませていただくだけでも、頭の中が
混乱して来ました

なんだか、使えるものは何でも使えみたいな
精神が渦巻いている感じで、嫌な時代に感じます。
女性がある意味、政治の道具としてだけに使われているようで
憤りを感じますね~。(あくまで女性目線ですが)
たろー 奈良時代ってそんなに短かったんですねぇ
悠さんへ
黒田裕樹 藤原不比等は高校日本史で勉強しますからね。悠さんが本格的に勉強されればすぐに出てきますよ。
大宝律令については以前に当講座でも取り上げています。よろしければご参考にして下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-145.html
オバrevさんへ
黒田裕樹 > でましたね、藤原氏。
> 不比等から、天皇家との姻戚関係を結んで支配力を強めていったのか、なるほど~。
はい、今回からついに藤原氏が登場です。皇室との姻戚関係を結んで支配力を強めるのって、実はあの蘇我氏とやり方が同じなんですよね。
> でも確か最高潮に達したのは、平安時代の藤原道長、頼通親子のときだと思いますから、その権力は随分長い間続くんですね。
仰るとおり、藤原氏は長い間政治の世界に君臨しますが、道長の時代に至るまでには様々な紆余曲折(うよきょくせつ)があったんです。この奈良時代だけでも…。詳しくはこれからの展開をご覧下さい。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 たった80年余りの奈良時代だけで、政治の主役が目まぐるしく変わっているんです。従ってややこしくなるのも当然ですので、なるべく分かりやすくなるように心掛けてはいますが、果たしてどうなるのでしょうか…?(^^ゞ
「使えるものは何でも使えみたいな精神」は言い得て妙ですね。それだけ厳しい時代でもあったわけなんです。女性の地位も政治の道具にされがちに見えますが、逆に言えば後継者は女性に産んでいただくしかないわけで、ある意味女性が次代の流れを決定づける意味もあったとも思います…って、やっぱり男性目線ですかね?
たろーさんへ
黒田裕樹 > 奈良時代ってそんなに短かったんですねぇ
平安京に遷都されるまでの80年余りですからね。全部8世紀の出来事というのも短く感じられます。でも、中味は非常に濃いんですよ(笑)。是非学習して下さいね!
720年に藤原不比等が死ぬと、皇族で天武天皇の孫にあたる長屋王が右大臣となりました。不比等には4人の息子がいましたが、まだ政治の表舞台に登場するには器量不足だったこともあり、長屋王が政治の実権を握ることになりました。
722年の百万町歩の開墾計画や、723年の三世一身法は彼の時代に制定されています。また、724年には首皇子が第45代の聖武天皇(しょうむてんのう)として即位されましたが、長屋王は同じ日に左大臣に出世し、政治への発言権をますます強めました。
この事態が面白くない藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)は、妹の光明子を聖武天皇の皇后にしようと計画しました。皇后は天皇の代わりに政治ができたり、次の天皇を誰にするかに対する発言権もあったり、場合によっては自らが天皇として即位できたりするという大変重い地位でした。
しかし、律令では「皇后は皇族に限る」と明記されており、藤原氏出身の光明子には本来は皇后になれる資格はなく、長屋王もそれを理由に光明子が皇后になることに猛反対でした。長屋王と藤原四兄弟との仲は次第に険悪になっていきました。
そんな中、皇室や藤原氏にとって喜ばしい出来事がありました。727年、聖武天皇と光明子との間に待望の男子が誕生したのです。光明子は718年にも聖武天皇との間に子を産んでいましたが、女子だったこともあり、それだけに後継者の誕生に対する聖武天皇のお喜びはひとしおでした。




いつも有難うございます。
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空茄 リンクしてもいいですか?
できれば、返事は空茄のブログで・・
いつも見てくれてるようなので・・・
あと、ランクリ毎回お願いします。
空茄さんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます。リンクの件、喜んでお受けします。
早速訪問しますね(^_^)v
さすらい こんばんは。
「この事態が面白くない・・・」の方々
また現われてしまいましたね(笑)
「後継者の誕生に対する聖武天皇のお喜び」
は良き方向に行くと良いのですが。
「この事態が面白くない民主党は自民党を倒し政権を奪取。国民の期待に添う政治をしました」
この夏の変化で
後世の歴史教科書には
こう書かれるのでしょうかね(笑)
応援♪
でた~!
オバrev でましたね、聖武天皇!
私が奈良時代で覚えているのは聖武天皇のみなんです(^_^;)
確か、奈良の大仏建立の詔を出された方だと思います。そのため全国から労働者が集められ、特に山口美東町の長登鉱山の銅を使っていたという話を読んだことがあります。
人力のみで、よくぞあの大仏ができたものだと感心します。昔の人の知恵って凄いですねぇ。
悠 毎回すごいですね
教科書みたいです
毎回勉強になります!
さすらいさんへ
黒田裕樹 「この事態が面白くない・・・」という表現はよく読んだら時代劇の悪役みたいですね(^^ゞ
この場合は実際にそうなるのでしょうか…。
> 「後継者の誕生に対する聖武天皇のお喜び」
> は良き方向に行くと良いのですが。
これに関しては明日のお楽しみ、ということでお願いしますm(_ _)m
選挙に関してはどちらが勝つにせよ「国民の期待に添う政治」をしてくれれば何の問題もないのですが、果たしてどうなるんでしょうね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > でましたね、聖武天皇!
> 私が奈良時代で覚えているのは聖武天皇のみなんです(^_^;)
そうなんですね。聖武天皇は奈良時代の政治の激変のカギを握られています。明日以降の展開でご理解いただけると思います。
> 確か、奈良の大仏建立の詔を出された方だと思います。そのため全国から労働者が集められ、特に山口美東町の長登鉱山の銅を使っていたという話を読んだことがあります。
> 人力のみで、よくぞあの大仏ができたものだと感心します。昔の人の知恵って凄いですねぇ。
本当にそうですよね。大仏に関しても、近日中に紹介しますよ(^o^)丿
悠さんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます。悠さんの勉強に大いに役立てられるような講座を今後も目指しますよ!
華 遅れてすいません…
コメありがとうございましたっ!
地震、大阪わ少しゆれたんですか><
宮城わあまりゆれませんでしたっ!
華さんへ
黒田裕樹 > 遅れてすいません…
> コメありがとうございましたっ!
いえいえ、こちらこそご訪問&コメント有難うございます!(^o^)丿
> 地震、大阪わ少しゆれたんですか><
> 宮城わあまりゆれませんでしたっ!
大阪は震度1~2だったようですね。少しゆれただけなんですが、阪神淡路大震災を経験しているものにとってはそれでも恐怖を感じるんですよね(´・ω・`)
また是非訪問して下さい!(^_^)v
しかし、好事魔多し(こうじまおおし)。基皇子は翌728年に病のために、生後1年足らずで亡くなってしまったのです。基皇子の死は藤原四兄弟にとっても大きな痛手でした。実はこのとき、聖武天皇は光明子以外の藤原氏の血を引いていない女性に男子を産ませていたのです。
このままでは藤原氏は外戚の地位どころか、政治の実権を完全に奪われてしまう…。追いつめられた四兄弟は、不幸を逆手にとっての大きな陰謀をめぐらしました。
愛する我が子を亡くされ、悲しみに肩を落とされた聖武天皇のもとに、ある日、悪魔のようなささやきがもたらされました。
「基皇子が亡くなられたのは、長屋王がそうなるように呪ったからですよ」。
余りの悲しみで判断能力が弱られていた聖武天皇は、この讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用されてしまいました。と同時に、長屋王の運命も暗転してしまったのです。
729年2月、天皇に対する反逆の罪で邸宅を軍勢に取り囲まれた長屋王は無実を訴えましたが、結局は一族とともに自殺しました。この事件を「長屋王の変」といいます。




いつも有難うございます。
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ちゃてれ こんにちはー。
blogram、歴史書ランキングでダントツの1位ですね。
すごいですー。
他のボタンも応援ポチっ。
毒殺?
オバrev 昔は、医療水準も低いし、平均寿命も短かったんでしょうが、それにしても若くしてなくなる人が多いように思います。
ひょっとして、権力争いが激しかったこともあって、毒殺などもあったんじゃないかと疑ってしまいます。
さすらい こんにちは。
ああ、やはりまた陰謀ですか。
呪いのせいにされてはたまりませんなあ(笑)
まあまあ、こういうのを繰り返しながら
頑張ってみますか。
歴史とはかくたるものです(笑)
応援♪
ちゃてれさんへ
黒田裕樹 有難うございます(^o^)丿
歴史書そのものがあまり取り扱わないとは思いますが(笑)、1位というのは励みになりますね(^_^)v
オバrevさんへ
黒田裕樹 乳幼児の死亡率は、最近までは今とは比べ物にならないほど高かったと聞いておりますし、だからこその「七五三」だという話もありますね。その一方で、激しい権力争いのさなかで、そのあおりを食らって毒殺された人物がいることは否定できないと思います。
ただ、今回の基皇子の場合は病死の可能性が高いと思います。その理由は、「無実の罪」をかぶせられて自殺した長屋王の…おっと、ここから先は明日の講座をお楽しみに(笑)。
さすらいさんへ
黒田裕樹 「陰謀」だの「呪い」だのはいつも目にしますよね(苦笑)。
確かに歴史はこういったことの繰り返しでもあります。そして今回の場合も…ですね(^^ゞ
ぴーち こちらにも失礼しま~す^^
そうですか。
昔は、子供がはやり病なので命を落とす事が
非常に多かったんでしょうね><
七五三のお祝いも、この年まで子供が生き延びて
無事に成長出来たことへのお祝いと、
この年くらいにまで生きたのなら、体の抵抗力も
ついて来ているので、その先はまずは一安心という意味合いもあったのかもしれませんね。
呪いの言葉は昔の方がより信じられていたんですね。
今では科学での証明の方が先行して、こんな事を口にした者の方が、精神病棟へ押し込められそうですけれどね^^
そういう意味合いでは、昔の方が、得体の知れないものへの恐怖心が高く、子供などへの道徳教育の
効果は得られていたかもしれませんね。
(悪い事をすれば、地獄へ落ちるぞ!。閻魔様に舌を抜かれるぞ!とか)あくまで子供の話ですがw
大人がこれをまともに信じていたというのも、時代なんですかね・・。
それでは、また、お邪魔しますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 七五三が単なる行事の一環となり、医学が急速に発達した現代では乳幼児の多くが無事に成長できますが、昔は大変だったらしいですからね。
呪いの件は仰るとおりだと思います。もっとも、我が国の場合は「呪い」よりももっと恐ろしい言葉がありますが…。詳しくは明日の講座をご覧下さい。とんでもない「どんでん返し」が待っておりますので(^^ゞ
何かこのお話みたような・・・・
セイケジュンコ 思い出しました!
マンガの歴史で見ました(^◇^)
でもそれよか讒言って言う漢字、今日生まれて初めて見ました・・・・・(+_+)
しかも意味も・・・・・。
自分のおつむが悪すぎて、恥ずかしかったです(-.-)
セイケジュンコさんへ
黒田裕樹 どうしてお名前がカタカナに!?(^^ゞ
…それはともかく(笑)、
> 思い出しました!
> マンガの歴史で見ました(^◇^)
私も小学生時代に読んだことがあります。そこから歴史に興味を持つってことはよくありますよね。
> でもそれよか讒言って言う漢字、今日生まれて初めて見ました・・・・・(+_+)
> しかも意味も・・・・・。
> 自分のおつむが悪すぎて、恥ずかしかったです(-.-)
讒言という言葉は普段あまり使いませんからね(意味を書いたのもそのためです)。でもこの場合はこの言葉がピタリと当てはまります。長屋王は無実の可能性が非常に高かったんですから。なぜそんなことが分かるのかというと…。
長屋王の変の直後に、光明子は聖武天皇の皇后となりました。皇族以外の人間が皇后になったのは、我が国史上初めてのことでした。これ以降の彼女は「光明皇后」(こうみょうこうごう)と呼ばれることになります。
藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は、武智麻呂(むちまろ)が南家(なんけ)、房前(ふささき)が北家(ほっけ)、宇合(うまかい)が式家(しきけ)、麻呂(まろ)が京家(きょうけ)のそれぞれの始祖となり、藤原氏の繁栄の基礎となりました。尚、阿倍仲麻呂を帰国させようとした遣唐大使の藤原清河(ふじわらのきよかわ)は、房前の子にあたります。
まさに我が世の春を迎えた藤原四兄弟でしたが、その繁栄は永くは続きませんでした。四兄弟には過酷な運命が待っていたのです。
737年、九州地方から発生した疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が、平城京でも大流行しました。そして、藤原四兄弟も相次いで天然痘にかかり、何と全員がそろって病死してしまったのです。あまりの凶事、そしてあまりの偶然に、当時の朝廷では「長屋王のタタリだ」と恐怖におびえました。




いつも有難うございます。
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オバrev 長屋王一族を自殺に追い込んだ謀略は、
聖武天皇も光明皇后も知っていただろうし、
藤原4兄弟と全く同罪でしょう。
特に兄たち4人が亡くなった光明皇后は、気が気じゃなかったんじゃないでしょうか。
それでも生き延びている光明皇后に生命力の強さを感じます(^^;)
たたりと言えば、菅原道真を思い出しますが、長屋王のたたりの方が怖そうですね ガクガク(((n;‘Д‘))ηナンダカコワイワァ
オバrevさんへ
黒田裕樹 光明皇后はどうやらかなりの野心家だったようです。何といっても不比等の娘ですからね。しぶとく生き残った彼女は、慈善事業の伝説を残す一方で、○沢一郎並みの「フィクサー」ぶりを遺憾なく発揮します。詳しくは今後のブログで紹介しますね。
そんな彼女も、やはり長屋王のタタリは恐ろしかったようで、実はあの「大事業」もタタリ封じの一環だったようなんです。このあたりは明日にも紹介できると思います。
個人的には、菅原道真よりも長屋王のタタリの方がよっぽど影響力があったと思いますね。なぜなら…(今回はこればっかりでスミマセンが)いずれご紹介できる日が来るでしょう(^^ゞ
ケンシロウ こんにちは。
まだまだ残暑が厳しいですね。
体調の管理には気を付けて下され。
藤原四子政権という言葉だけ記憶にあります。
情けなくなってきますよ (´・ω・`)ショボーン
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。お気遣いいただいて有難うございますm(_ _)m
いえいえ、これから記憶を呼び戻していただければ十分ですよ。
ここ数日の講座はかなり中味が濃いので(笑)、印象に残ると思いますし(^^ゞ
人を呪わば、穴二つ。
ぴーち こんばんは~!
そうですか。
自らの野望を推し進め、程なく頂点に立つという事は
その影には、何人の人の涙が流され、そして何人の犠牲が
払われた事か・・・。
心当たりを探したら、それこそ、あちらこちらに原因らしきものが思い当たって仕方が無かった程ではないでしょうか。。
人はその生命を失う瞬間に思っていた想念が一番強力な
エネルギーとして残るそうですから、ましてや、自害という事で、死にたくない思いと共に、恨む気持ちも有り余るほどだったに違いありませんね。藤原4兄弟の心にも
その思いは十分に伝わっていた事でしょう。
悪因悪果・・人を泣かせるような事をして来たものは、それと同等の報いを受けてしまうという教訓の様なお話、ありがとうございました^^
では、またお邪魔します!
(今頃、最高潮かしらw?)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりで、藤原四兄弟の最期には「因果応報」の言葉がピッタリですね。
それだけに、生き残った者のうちスネに傷を持つ人々にとっては、いつ自分にたたるか気が気ではなかったでしょう。その恐怖が、明日以降紹介する「流れ」をつくり、ひとつの「結果」をもたらすのです。
最高潮だったかどうかは、明日のぴーちさんのブログに書かせていただきますね(^^♪
相次いで病死した藤原四兄弟の子孫たちがまだ若かったこともあり、皇族出身で臣籍降下(しんせきこうか、皇族の身分を離れて一般の貴族になること)した橘諸兄が右大臣(後に左大臣まで昇進)となって政治の実権を握りました。
橘諸兄は、唐から帰国した留学生の吉備真備(きびのまきび)や玄ボウ(げんぼう・※注)を重用しましたが、これに反発した藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、740年に北九州の大宰府(だざいふ)で大規模な反乱を起こしました。これを「藤原広嗣の乱」といいます。
乱自体は間もなく平定されたものの、長屋王のタタリとも思える相次ぐ凶事や政情不安に動揺された聖武天皇は、この後平城京から山背国相楽郡(やましろのくにそうらくぐん、現在の京都府木津川市)の恭仁京(くにきょう)、摂津国難波(せっつのくになにわ、現在の大阪市中央区)の難波宮(なにわのみや)、近江国甲賀郡(おうみのくにこうかぐん、現在の滋賀県甲賀市信楽町)の紫香楽宮(しがらきのみや)と相次いで都を遷(うつ)されました。
そして、長屋王のタタリを鎮(しず)め、政情不安をなくすためには仏教への信仰を深めることが大切と考えられた聖武天皇は、仏教に国家を守る力があるとする鎮護国家(ちんごこっか)の思想のもとに、仏教の興隆(こうりゅう)を政策の最重要課題とされました。
741年、聖武天皇は全国に国分寺(こくぶんじ)や国分尼寺(こくぶんにじ)を建てるとする国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)を出され、国府(こくふ)の近くに次々と国分寺が建てられました。全国の至るところに「国分」に関する地名が残っている由来でもあります。
※注:玄ボウの「ボウ」の字は正しくは「日+方」ですが、機種依存文字のためにカタカナで表記しています。




お蔭様でカウンターが7000を突破しました! いつも有難うございます!
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オバrev 藤原不比等~長屋王~藤原4兄弟~橘諸兄とコロコロ権力が移り変わってますね。
武力による2大政党の政権交代みたいです。
となるとこの後はまた藤原氏ですか?
それにしても政権交代もですが、聖武天皇の時代、平城京から恭仁京~難波宮~紫香楽宮と相次いで都を遷されました、って、たたりを恐れるというのは分かるけど、何か受験生泣かせみたい(^_^;)
ただ、あの巨大な奈良の大仏、盧舎那仏は長屋王のたたりを鎮めるためだったとは知りませんでした。よほど恐れていたというのが良く分かります。
国分寺は私の住んでいる近所にも安芸国分寺というのがありますよ。
ちょっと恐れで肝っ玉は小さかった?かもしれないけど、盧舎那仏を建てたり、全国に国分寺、国分尼寺を建てたり、権力はかなり強かったんですね。
度重なる遷都
kenちゃんマイド 次からつぎへ、度重なる遷都は単にタタリを恐れての事でしょうか。いったい誰のタタリなのか藤原4兄弟なのか、それとも長屋王なのか、いまいち解せません。確かに当時は現代よりタタリを過剰に信じられていたと思いますがそんなにタタリが怖いのなら悪いことをしなければいいのに、と思います。遷都の理由はほかにありませんか。聖武天皇の性格的なものか、このへんが不思議でなりません。黒田先生のお考えはいかがですか?ただ単に遷都を繰り返した、で歴史書は終わるのが残念でなりません。先生の所感をきかせてください。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 藤原不比等~長屋王~藤原4兄弟~橘諸兄とコロコロ権力が移り変わってますね。
> 武力による2大政党の政権交代みたいです。
いわれてみればそのとおりですね。もっとも、平和的な選挙ではなく、命のやり取りを伴うのが何とも…。
> となるとこの後はまた藤原氏ですか?
さぁ、どうでしょう?(笑)
「奈良時代の政治」の項目はもうしばらく続きますので、お楽しみに(^_^)v
> それにしても政権交代もですが、聖武天皇の時代、平城京から恭仁京~難波宮~紫香楽宮と相次いで都を遷されました、って、たたりを恐れるというのは分かるけど、何か受験生泣かせみたい(^_^;)
項目重視の受験日本史にはもってこいの材料ですからね。それで「知ったつもり」になってもらっては困りますが…。
> ただ、あの巨大な奈良の大仏、盧舎那仏は長屋王のたたりを鎮めるためだったとは知りませんでした。よほど恐れていたというのが良く分かります。
一般的には「天災や政情不安をなくし、平和を達成するため」といわれていますが、そもそも「天災や政情不安」を引き起こした原因は何だったのか、ということを考えれば導き出せる結論です。ただ、「タタリで造った」なんてみっともなくて歴史書に書けませんから、記録には残っていませんが。
> 国分寺は私の住んでいる近所にも安芸国分寺というのがありますよ。
> ちょっと恐れで肝っ玉は小さかった?かもしれないけど、盧舎那仏を建てたり、全国に国分寺、国分尼寺を建てたり、権力はかなり強かったんですね。
私の近所にも「国分寺」という地名が残っています。
当時の朝廷は、聖武天皇のご器量はともかくとして(笑)、何といっても我が国最大の権力者という面もありましたからね。そうでなければ大仏造立なんて大事業はできませんよね。
kenちゃんマイドさんへ
黒田裕樹 ご質問の件ですが、まずタタリに関しては長屋王のものと断定できると思います。長屋王の変の後に藤原四兄弟が疫病で「殺されて」大騒ぎになった翌年、長屋王の反逆を密告したとされる人物が暗殺されています。犯人は長屋王ゆかりの者で、人物も動機もはっきりしているのに罪に問われませんでした。殺人という大罪を犯しながら放免されたということは、その当時から「長屋王は無実だった」と思われていたからとしか考えられません。
「タタリが怖いのなら悪いことをしなければいいのに」というお考え、至極ごもっともです。ただ、人間というもの、邪魔な存在はこの世から消し去りたいという欲望が芽生えてしまうという非情な一面もあります。そして、そんな無茶なことが可能であり、さらにもみ消すこともできる地位にある人間がそんなことを思えばどうなるのか…。心理学の問題でもありますが、恐ろしいですね。
遷都の理由ですが、恭仁京への遷都については、自己の本拠地に近いからという理由で橘諸兄が勧めたのではないか、といわれています。一方、そうはさせじと藤原氏らの勢力が動いて一種の綱引き状態になり、結果として短期間に次々と遷都したのではないか、と私は見ております。いずれにせよ、タタリを恐れられた聖武天皇の「心の隙」を重臣たちが突きまくっての身勝手な出来事、という印象がありますね。
尚、以上の件については、話が複雑になるのと、あまりにも専門的になってしまうので、講座本文では敢えて触れずにいたことをお断りします。
スカイラインV35 啓蒙思想の影響か何か知りませんが、怨霊信仰(思想?)も歴史学でタブー視されてきましたよね。これも偏見無く、きちんと理路整然と学問的に研究されれば、日本史もかなりすっきりすると思うのですが。。。 歴史は奥が深いですね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 仰ることは私も同感です。我が国に古くから伝わる「怨霊信仰」を除外した段階で、歴史の研究は訳が分からなくなってしまったところがあると思います。何でも幾何学や唯物論で片付けようとする今の考えは、私に言わせれば異常としか思えないですね。そんな研究では歴史の奥深さなど理解できるはずがないでしょうに。
ぴーち こんばんは!
今日は外出しておりましたので、遅くなりすみません^^;
私の県にも「国分寺」という地名がございます
そうですか、この頃の名残が今も脈々と受け継がれているんですね^^
そういえば「国分」という名字の方がいらっしゃいますが、
やはり何らかの因果関係があるのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、私もよく遅くなりますので、お気になさらないで下さいね(^^♪
やっぱり「国分寺」や「国分」に関する地名は至るところにあるようですね。人名は…どうなんでしょうか? 関連性が全くないとはいえないとは思いますが…。
よっしー ちゃ、ちゃんと読んでるんですよ!ただコメントする時間が無いだけで・・・(ぉぃ
今度はまた藤原氏ではなくなってしまいましたね。 とはいえ同じ党の中にも派閥があるみたく、反藤原同士で争うかもしれないかな、一概にも次は藤原氏とはいえないか。これは次が楽しみです。
にしても都を移す理由はよく分かりますが、こうも移されると覚えるのが大変>< 受験生を苦しめますね、これは。平和な時代を希望します←
やはりあの国分は、国分寺でよかったんですね。結構見るので気になってました。。。
よっしーさんへ
黒田裕樹 > ちゃ、ちゃんと読んでるんですよ!ただコメントする時間が無いだけで・・・(ぉぃ
足跡で分かってますからお気になさらないで下さいね(笑)。
> 今度はまた藤原氏ではなくなってしまいましたね。 とはいえ同じ党の中にも派閥があるみたく、反藤原同士で争うかもしれないかな、一概にも次は藤原氏とはいえないか。これは次が楽しみです。
「派閥同士の争い」ですか。確かに今の政党みたいなところがありますよね。次はどちらでしょうか?
> にしても都を移す理由はよく分かりますが、こうも移されると覚えるのが大変>< 受験生を苦しめますね、これは。平和な時代を希望します←
そうですね。でも受験向きということは、今回でしっかりと理解できれば逆にチャンスですから、ぜひお役に立てていただければとも思います。
> やはりあの国分は、国分寺でよかったんですね。結構見るので気になってました。。。
「国分」という地名は多いですからね。細かいのを含めれば、大阪だけでも結構ありますし。
当初は紫香楽宮で計画が進められた金銅仏(こんどうぶつ)の造立は、745年に平城京に都が戻ると、場所を移して再開されました。8世紀当時の世界最新の技術によって造られた大仏は、約10年の歳月を費やして752年にようやく完成し、僧侶(そうりょ)1万人が参列した盛大な開眼供養(かいげんくよう)が行われました。
大仏の造立には巨額の費用と多数の人員(延べ260万人といわれています)が投入されましたが、この国家挙げての大事業に協力したのが僧の行基(ぎょうき)でした。行基は橋を架けたり道路を整備したりするなどの土木事業の指導や、貧しい人々に対する社会事業を行っていました。
朝廷は行基に対して当初は厳しい姿勢で臨みましたが後に和解し、大仏造立の際には僧侶の最高職である大僧正(だいそうじょう)に任命しました。行基は大仏造立に積極的に関わったとされていますが、惜しくも大仏完成前の749年に死去しました。
尚、同じ749年に聖武天皇は退位され、光明皇后との間に産まれた娘の孝謙天皇(こうけんてんのう)が第46代天皇として即位されています。従って、752年の大仏の開眼供養の儀式に関わった天皇は孝謙天皇となりますので、間違えないように注意が必要です。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
8世紀当時の世界最新の技術が
今日にも継がれているのですから
その文化は凄いものです。
奈良の大仏
しばらく行ってませんので訪れたいです。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 仰るとおりで、当時の世界最新の技術が今でも色あせずに残っていることは素晴らしいことですね。
ただ残念なのは、大仏の大部分は後世の再建ということでしょうか。一部でも当時のものが残っていることだけでも凄いんですけどね。
奈良の大仏はいつ見ても荘厳さに圧倒されそうです。是非ご覧になって下さい。
urbanarrows 僕のようなブログを見てくださりありがとうございます。
奈良の大仏というより京都や奈良古の建造物が大好きなので写真を撮影しに出かけたりします。
またお邪魔します。応援させていただきます。
よっしー あぁ、なるほど。こんな風に大仏と、墾田永年私財法が同じ年だというように、リンクさせて覚えればいいんですね!
8世紀の最大技術が今にも残っているとは、当時の技術力の高さがよく分かりますねー。今度、それを意識して見に行くとさたに実感が湧くかもしれません。
ややこしい。建立しろといったのは、聖武さんですが、実際に閑静に立ち会ったのは次の天皇さんですか。
そんなややこしいことを><
逸れとひとつ。行基はなぜ、朝廷から厳しい態度で望まれたのでしたっけ?何かで読んだ気がしたのですが、忘れてしまいました。。。
urbanarrowsさんへ
黒田裕樹 こちらこそご訪問&コメント&応援有難うございます。
この時代の建造物には特に古(いにしえ)のロマンが感じられますよね。
私の講座では、文化面に関しても取り上げる機会がありますので、また是非ご覧になって下さい!
よっしーさんへ
黒田裕樹 > あぁ、なるほど。こんな風に大仏と、墾田永年私財法が同じ年だというように、リンクさせて覚えればいいんですね!
仰るとおりです。別々に覚えるのではなく、つながりを持たせることで一気に理解させればいいんです。
> 8世紀の最大技術が今にも残っているとは、当時の技術力の高さがよく分かりますねー。今度、それを意識して見に行くとさたに実感が湧くかもしれません。
現在の大仏の大部分は後世の補修によるものですが、それでも当時のロマンは十分感じられますからね。また一味違った感覚になるのではないでしょうか。
> ややこしい。建立しろといったのは、聖武さんですが、実際に完成に立ち会ったのは次の天皇さんですか。
> そんなややこしいことを><
大仏完成前に譲位されておられるので、こればっかりはどうしようもないですね。でもこれは引っ掛けとして出題される可能性が高いので、これを機会に覚えてしまいましょう!(^o^)丿
> それとひとつ。行基はなぜ、朝廷から厳しい態度で望まれたのでしたっけ?何かで読んだ気がしたのですが、忘れてしまいました。。。
奈良時代の仏教は、鎮護国家の思想のもとに国家の統制下におかれていました。つまり、国の許可なしで勝手に宗教活動を行うことを禁止されていたのです。その一方で行基は社会事業や土木事業を(国から見れば)勝手に行ったのみならず、彼を慕って国の許可もなく勝手に僧になる(私度僧=しどそう、といいます)者が続出しました。僧籍の者は税が免除されますから、これは立派な脱法行為でした。
これらの行為に業を煮やした朝廷は、行基に対して「寺から外へ出るな」などの弾圧を加えましたが、三世一身法や墾田永年私財法が施行され、土木事業が重要視されていくうちに、彼の行動は結果として社会のニーズに合うことになり、朝廷もやがて態度を軟化させ、大仏造立などの国家事業に対して、行基の実力を逆に積極的に利用するようになりました。行基が大僧正にまで昇進したのもその一環と考えられています。
…行基の紹介だけで講座が一つできたかもしれませんね(^^ゞ
天平ロマン
オバrev この大仏建立は、まさに国家的事業だったでしょうから、ものすごい多くの人が関わり、それぞれに様々なドラマがあったと思いますし、まさに天平ロマンですね。
私はかつて奈良の大仏建立の作業をした若者について書かれた「国銅」という本を読みましたが、その話で上下2巻1000ページありました・・・汗。
しかし、建立の詔は聖武天皇が出されてますが、開眼供養をやったのは娘の孝謙天皇なんですね。
聖武天皇は、大仏完成を見ることなく亡くなったのでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この大仏建立は、まさに国家的事業だったでしょうから、ものすごい多くの人が関わり、それぞれに様々なドラマがあったと思いますし、まさに天平ロマンですね。
そうですね。国家の威信を賭けた一大事業でしたし、当時の世界最新技術を駆使した「ハイテク」事業でもありましたから、その裏側では様々なドラマがあったと思われます。
> 私はかつて奈良の大仏建立の作業をした若者について書かれた「国銅」という本を読みましたが、その話で上下2巻1000ページありました・・・汗。
超大作ですね(笑)。私も時間があれば読んでみたいです。
> しかし、建立の詔は聖武天皇が出されてますが、開眼供養をやったのは娘の孝謙天皇なんですね。
> 聖武天皇は、大仏完成を見ることなく亡くなったのでしょうか?
聖武天皇の崩御は756年ですから、開眼供養の年(752年)はまだご健在でしたので、上皇として出席されています。ちなみに、聖武天皇は存命中に初めて出家された天皇(=上皇)であると伝えられています。
ヒヨ 黒田裕樹さん、こんばんは
ブログ村からやってまいりましたヒヨと申します
京都や奈良がとっても好きで
8/15の萬灯供養会に行ってきました
大仏様を見るたびに圧倒されて感動してます
奈良も歴史の宝庫で行きたい所がいっぱぃで
行く度、体力の限界まで走りまわってます
黒田裕樹さんのブログは興味深い記事ばかりなので
お勉強させてくださいまし( *'∀'人)
749年に即位された孝謙天皇の母親である光明皇太后(こうみょうこうたいごう、皇太后とは先代の天皇の皇后という意味)は、自分を補佐する役所である紫微中台(しびちゅうだい)を新設して、その長官に藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)の子である藤原仲麻呂を就任させました。
この結果、政治の実権は藤原仲麻呂が握るようになり、仲麻呂は自分のライバルを次々と倒していきました。755年には、朝廷を誹謗(ひぼう、悪口を言うこと)したという密告によって、橘諸兄(たちばなのもろえ)に左大臣を辞職させました。また757年には皇太子であった道祖王(ふなどおう)をその地位から引きずり下ろし、仲麻呂の長男の未亡人と結婚させた大炊王(おおいおう)を皇太子に立てました。
これらの動きに反発した橘諸兄の子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、同じ757年に仲麻呂を除こうと反乱を企(くわだ)てましたが、事前に発覚して失敗しました。この事件を「橘奈良麻呂の乱」といいます。こうして自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した仲麻呂は、ますます自己の権力を高めていきました。尚、757年は、仲麻呂の祖父に当たる藤原不比等が編さんを始めた養老律令が施行された年でもあります。
758年に孝謙天皇が退位され、仲麻呂と縁の深い大炊王が第47代の淳仁天皇(じゅんにんてんのう)として即位されますと、淳仁天皇は仲麻呂に貨幣の鋳造権や税の徴収権とともに「恵美押勝」(えみのおしかつ)の名を与えられました。天皇に準ずる権力をもつことになった恵美押勝は、朝廷の官職を中国風に改め、自らは太政大臣(だじょうだいじん)に相当する太師(たいし)に、皇族以外で初めて就任しました。




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
早いもので盆休みも今日で終わりとなり
アパートまで帰る日が来ました。
2週間後に控えた講義の準備に忙しいと思いますが
まだまだ残暑が厳しいので無理をなさらず頑張って下さい。
記事と関係ないコメントで申し訳ないです。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 本当に盆休みなんてあっという間ですね。せめて後1日くらいはゆっくりしたいのですが…(´・ω・`)
お気遣い有難うございます。今月は何かと忙しいのですが、体調に気を配りながら準備を進めたいと思っております。
ぴーち こんばんは!
藤原仲麻呂。
やはり蛙の子は蛙。。。という印象を受けました。
政治の実権を握った途端に、凄まじい暴君ブリですね^^;
757年の養老律令はそういえば、以前に登場しましたよね^^
それでは、講座資料作りお疲れ様でした^^
(○^ω^)_旦~~♪ お茶どうぞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仲麻呂は四兄弟の息子ですから、やっていることは全く同じですね(^^ゞ
でも、やりすぎると叩かれるのがこの世の常ですね。明日の講座でそのあたりが明らかになると思いますよ。
忘れかけた頃にやってくる(笑)養老律令。これでまた理解が広がればいいですね。
> (○^ω^)_旦~~♪ お茶どうぞ
美味しくいただきましたm(_ _)m
紗那 ここで、藤原の登場何ですね!
しかしドロドロですねー・・・・・・
すごい暴君だ。
はむかう人がいなくなると、増長するのはどこの時代でも一緒ですね^^;
行基さんの話、読ませていただきました。ありがとうございます。
紗那さんへ
黒田裕樹 人間には必要以上の権力を持つと、人を人とも思わぬとんでもない暴君が登場することがよくありますが、奈良時代にはこんな暴君じみた人間が短期間に何度も(?)登場するところが凄いです。
> 行基さんの話、読ませていただきました。ありがとうございます。
お役に立てて何よりです(^^♪
しかしこの政策は、仮に新羅征討に成功したとしてもやがて勢力を立て直した唐によって巻き返されるのは必至なうえに、我が国が唐に攻め込まれる口実を与えてしまいかねないという極めて危険なものでした。およそ100年前に起きた白村江の悲劇をまた繰り返すのか、と恵美押勝に対する批判の声が次第に高まりました。
こうした中で、最大の後ろ盾であった光明皇太后が760年に死去すると、恵美押勝の勢力は急速に衰えていきました。その一方で、病に倒れられた孝謙上皇(上皇=じょうこうとは「退位された天皇」という意味)が、僧の道鏡(どうきょう)の祈祷(きとう)によって健康を回復されると、恵美押勝に対する批判が集まる中で、次第に影響力を高められました。
あせった恵美押勝は、道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑えようと764年に反乱を企てましたが未然に発覚し、逆に攻められて滅ぼされました。また、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位となり、淡路国(あわじのくに、現在の兵庫県淡路島)に追放されました。これらの事件を「恵美押勝の乱」といいます。
天皇の位には、孝謙上皇が重祚(ちょうそ、一度退位された天皇が再び即位されること)されて第48代の称徳天皇となられました。尚、淳仁天皇は称徳天皇によって崩御後も贈り名を与えられず、長らく「淡路廃帝」(あわじはいたい)と呼ばれました。「淳仁天皇」と追号されたのは明治になってからのことです。




いつも有難うございます。
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アキ あ・・・あれっ(汗)
今までのお話は、何かしら聞いたことがあって、点と点がやっとつながった!って感じだったのですが、
今回は「新羅」しか知ってるワードがありません。
そうです、さっぱり内容が飛んでおります。
んー?この時、学校休んでたのかなー?
毎日お邪魔しておりますが、しっかりランキング応援×4しておりますよー!!
こんな面白くて勉強になるブログは、もっともっと知れ渡って、みんなに読んで欲しいですもの!
さぁーみんなでクリックだー!!
え?ウザイ?私、ウザイ?
アキさんへ
黒田裕樹 新羅と我が国には根が深い因縁があるんですよ。もともと朝鮮半島には高句麗・新羅・百済の3ヶ国と我が国との関わりが深い地域である任那(みまな)に分かれていたんですが、その任那を新羅が滅ぼしてしまったんです。
当然新羅に対して我が国は怒りますよね。ところが、(我が国にとっては)よりによってその新羅が7世紀に朝鮮半島を統一してしまうんです。その最中に友好国であった百済も新羅に滅ぼされた我が国は、百済の復興を目指して新羅と戦いますが、大国の唐を味方に付けた新羅に大敗してしまい(白村江の戦い)、あわや亡国の一歩手前まで行ってしまいました。
ここで我が国がとるべき道は二つありました。恨みの深い新羅を滅ぼすために唐と同盟するか、あるいは恨みを水に流して、唐への防波堤の意味も込めて新羅と同盟するかでした。前者は天智天皇、後者は天武天皇がお考えだったのですが、新羅が滅ぼされたことで唐と我が国が事実上隣同士になり、いつ攻められてもおかしくないという危険性を考えれば、後者の方が我が国の「生き筋」でした。
壬申の乱の結果、勝利した天武天皇の外交策が優先され、我が国は新羅と同盟を結びますが、唐との友好関係が復活すると、我が国と新羅との仲は再び悪化しました。しかし、だからといって新羅を滅ぼしてしまっては、白村江の悲劇が再び繰り返される恐れがあったんです。恵美押勝と孝謙上皇とが対立して、恵美押勝が倒されたのも、我が国の「生き筋」が優先されたからなんです。
…以上、長くなってしまいましたが、ご理解いただけましたでしょうか?
もしよろしければ、検索フォームで「新羅」と入力されれば、もう少し詳しくお分かりいただけると思いますよ(^^♪
ウザイだなんてとんでもない!
ご宣伝いただき、感謝しておりますm(_ _)m
たか 最近読めてなかったので
前の記事とか読んで
すこしづつでも理解が
深まればいいです^^
↑のコメントも参考に
させてもらいますw
たかさんへ
黒田裕樹 そうですね。一つ一つの記事はそれほど量が多くないと思いますので、たかさんご自身のペースで気軽に進めて下さいね(^^♪
…たしかに参考になりそうですね(^^ゞ
ぴーち こんばんは!
>およそ100年前に起きた白村江の悲劇をまた繰り返すのか・・・・
この時代からすれば、100年前かもしれませんが、
私にとってはホンの30日前に、ここでお勉強させていただいた事件でございますが、ほぼ、どういう内容だったかという事が88%くらい、この暑さで蒸発してしまっています(^-^A
また、過去記事から復習させていただかないと(^0^ノおほほ~♪
昔は一度天皇の地位を退位した後、再び
即位することがあったのですね~^^
それでは、また~♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 毎日暑いですからね。氷とともに記憶も溶けてしまうのでしょうか…
冗談はともかく(笑)、ブログ画面の右上にあります検索フォームをご使用になれば、復習しやすいと思いますので、是非ご利用下さい。
重祚された天皇は、称徳天皇のほかにもうお一人おられますよ。これに関しても「重祚」で一度検索してみて下さいね
さすらい こんばんは。
なるほど、明治なるまで葬られていたのですね。
いかにも歴史らしいです。
後々によってわかることや
認められることが多々あるから面白い。
新しい発見や解読は
これからもどんどんあって欲しいですね。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 そうですね。淳仁天皇のように追号されなかった天皇は3人おられることとか、意外と知られていない現実が多いのも歴史の大きな特徴ですから、そのあたりの開拓や、また古文書の発見などによる新たな発見も大きな魅力だと思います。
仰るとおり、新しい発見が増えることで、歴史に対する興味がますます深まって欲しいですね(^^♪
祈祷で治る?
オバrev こんばんは 黒田先生 トラックバックの件、どうぞどうぞ。よろしくお願いします。
ところで、本当に奈良時代は権力者が次々変わっていきますね。
道鏡は結構悪名高い人物と理解していますが、実際はどうなんでしょうか。
以前読んだ、奈良の大仏建立の話が書かれた本「国銅」に出てくる僧侶は、慕ってくる若者に、文字を教え、薬草についても教えていました。
道鏡も薬草の知識があったんじゃないでしょうか。いくら何でも祈祷だけでは治らんでしょう?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > こんばんは 黒田先生 トラックバックの件、どうぞどうぞ。よろしくお願いします。
有難うございます。よろしければこちら側からもお受けしますので、お気軽にお声をかけて下さい(^_^)v
> ところで、本当に奈良時代は権力者が次々変わっていきますね。
> 道鏡は結構悪名高い人物と理解していますが、実際はどうなんでしょうか。
そのあたりについては18日以降の講座で詳しく紹介できると思いますのでお楽しみに!
ただ、道鏡に関する記述に関しては「あれ?」と思われるかもしれませんね(^^ゞ
> 以前読んだ、奈良の大仏建立の話が書かれた本「国銅」に出てくる僧侶は、慕ってくる若者に、文字を教え、薬草についても教えていました。
> 道鏡も薬草の知識があったんじゃないでしょうか。いくら何でも祈祷だけでは治らんでしょう?
仰るとおりだと思います。奈良時代の僧は当時のエリートでもありましたから、学問以外でもあらゆる知識に長けていたといわれています。唐から来日した鑑真も薬草の詳しい知識を持っていましたから、道鏡が薬草に詳しかった可能性は十分にあります。
つまり、精神面と技術面の両方で称徳天皇(=孝謙上皇)を助けたわけなんですね。ただ、祈祷というイメージが、彼の本当の姿を大きくゆがめたような気がします。
称徳天皇は、自分の病を治した道鏡を信任し、彼に政治の実権を委(ゆだ)ねられました。道鏡は、仏教勢力を背景に勢力を伸ばし続け、765年に太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)となり、翌766年には法王(ほうおう)に任じられました。
西大寺(さいだいじ、奈良市)などの寺院の造営や造仏などが行われたほか、765年には、それまでの墾田永年私財法によって過熱していた私有地の拡大を防ぐために、寺社を除く墾田の私有を禁止しました。この禁止令は、率先して墾田開発を推し進めていた藤原氏に対して特に大きな打撃を与えました。
称徳天皇は、母の一族である藤原氏による政治の専横や、それを黙認した淳仁天皇などの皇族に対して、冷ややかな目で見ておられました。かといって、ご自身の子孫に天皇の地位を譲ることもできませんでした。なぜなら、称徳天皇は生涯独身でいらっしゃったからです。
女性天皇には「結婚してはならない」という不文律(ふぶんりつ、文章として成り立っていないが、暗黙のうちに守られている約束事のこと)がありました。21世紀の現代ならばともかく、当時の女性は男性によって「支配される」ことが一般的でした。ということは、仮に女性天皇に夫君(ふくん)がおられる場合には、「天皇」を支配する「天皇」が存在することになり、律令政治に支障が出るからでした。




いつも有難うございます。
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智里 道鏡って、日本のラスプーチンって言われてる人ですよね?
結局、道鏡は天皇の座を狙ってたのかな。
あまりいい話の無い人ですよね。
智里さんへ
黒田裕樹 古代史では、道鏡ほど過って伝えられている人物はないと思います。
仰られたことも「俗説」ですからね。今回の講座で、本当の「道鏡」の姿を紹介できればと思います。
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ぴーち 前回にも書かせていただきましたが、
女性天皇の件で、仮に
今現在、女帝が誕生したとして、
やはり、その際にも、女帝は男性と
結婚してはならないという事を順守していかなければ
ならないのかしら・・。
こういうことを思うと、一般人に生れて
良かったと思うぴーちですw
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今回の講座は8世紀の話ですから、現在とは事情が異なることも多いので、どちらが良いのかという結論は簡単には出せないと思います。
ただ、仮に現代の女性天皇が皇室と全く縁のない男性と結婚されて、お生まれになった子が天皇となられた場合には、神武天皇以来といわれる長い歴史を持つ皇統が崩れ去り、まったく別の血統による天皇の誕生ということになってしまい、皇室の価値が問われることになりかねない状態となってしまう恐れが十分にあります。
そうなると世界に誇るべき皇室の価値が(場合によっては)なくなってしまった我が国の今後がどうなってしまうのか…私には想像がつきません。
いずれにせよ、一般人に生まれてよかったというのは私も同感です。
さすらい こんばんは。
「太政大臣禅師」ですか。
また覚えないといけない単語(笑)
古今東西、世の指導者の呼称は様々ですね。
現代の日本でも総裁、党首、代表幹事
委員長等色々ありますものね(笑)
歴史上も後に出てくるでしょう征夷大将軍や関白等
政治を動かす人々の名は多いものですから
変遷があって、面白いと言えば面白いのですが。
覚える方は大変です(笑)
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 もともとは「太政大臣」だったのが、仲麻呂が中国風に名称を変更して「太師」になり、道鏡が僧であったために「太政大臣禅師」になったり…。それぞれ事情があるとはいえ、やはりややこしいですね。
ある政党のように「代表」「代表代行」という、別な意味でややこしいのもありますが(笑)。
仰るように、この後は太政大臣ばかりでなく様々な職名が出てきますが、それぞれが時代を感じさせるところが、歴史の面白さでもありますね。
現在も引き継がれている権力争い
オバrev 奈良時代の権力争いを見ていると、その様は脈々と現在の日本の政界の政権争いに引き継がれているような気がします。
権力と血縁関係でいうと、麻生総理の父太賀吉は元衆議院議員、祖父は、吉田茂元首相、妻の父親は鈴木善幸元首相。さらに祖母の祖父は大久保利通という超豪華ラインアップ。
そして方や鳩山由紀夫代表の父威一朗は元外務大臣、祖父は吉田茂を総理の座から追い落として首相についた鳩山一郎。母方の祖父はブリジストン創業者の石橋正二郎。
二人とも政財界の大御所を縁戚に持っています。
こういう財力と血縁を持った人物が政権争いをしている・・・歴史は繰り返すというか、人間の本性なんでしょうか(^_^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かにこのラインナップを見るとごもっともという気がしますね。
奈良時代の政治の移り変わりを見てみますと、選挙という手段によって合法的な政権交代が可能な現代の方がまだマシなのかもしれません。むかしはそれこそ相手を蹴落とすためには手段を選びません…って、命のやり取り以外はあまり変わらないかも…(^^ゞ
紗那 えっと、確かこの道鏡さんとかが政治をしたことも、長岡京、平安京への遷都につながる・・・っとこれは以降の講座の内容ですね←
法王であって、法皇ではない・・・・ ん~、まぁ大政大臣禅師よりは覚えやすいかな。頑張って覚えないと・・・
確かに女性天皇が結婚してはいけないのは、理屈では分かりますが。やはり男尊女卑が【根強い時代だったんですね。ま、今はそもそも女性天皇がいないというのもありますが。
そのような自らのご事情と、藤原氏や皇族に対する冷淡なご感情とによって、称徳天皇は天皇の後継として僧である道鏡を指名する決意をされました。ちょうどその頃、769年に北九州の大宰府から「道鏡が天皇の位につけば天下は太平になる」との宇佐八幡宮(うさまちまんぐう、大分県宇佐市)からの神託(しんたく、神からのお告げのこと)があったとの報告がありました。
称徳天皇は大いに喜ばれ、ことの真偽を和気清麻呂(わけのきよまろ)に確認させました。しかし、和気清麻呂は称徳天皇のご期待に反して「皇位は神武天皇以来の皇統が継承すべきである」との神託を持ち帰りました。
称徳天皇の逆鱗(げきりん)に触れた和気清麻呂は、名前を「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と無理やり改名させられたうえに大隅国(おおすみのくに、現在の鹿児島県東部)に追放されてしまいました。これらの出来事を「宇佐八幡宮神託事件」といいます。
道鏡への皇位継承の夢が破れた称徳天皇は、そのショックが尾を引かれたのかやがて重い病となられ、770年に53歳で崩御されました。称徳天皇の崩御によって後ろ盾をなくした道鏡は下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)に追放となり、その地で亡くなりました。




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アキ えぇ~っ!?
期待に添わない結果だったからって、むちゃくちゃしますねー。鬼嫁でもそんな惨いことはしませんぜ(笑)
それは和気清麻呂が故意的にやったことだからですか?
本当に神託だったとしたら浮かばれませんねぇ。
ここでもまた「おつげ」に左右されるのですね(苦笑)
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アキさんへ
黒田裕樹 「清麻呂」が「穢麻呂」ですからあんまりですよね(笑)。
神託については八幡宮側が「道鏡を天皇に」とでっち上げた説もありますが、真相ははっきりしていません。ただ、この事件をきっかけに「皇位は神武天皇以来の皇統が継承する」という原則が確立したのは事実といえます。また、清麻呂は称徳天皇の崩御後に、名誉を回復されています。
8世紀の時代ですから、「お告げ」にもそれなりの大義名分があったんですね。
MAHHYA 「穢麻呂」に改名って、本当スゴイですね、完全に感情的になってますね…(^_^;)
和気清麻呂は第二次世界大戦中は、皇統をお守りしたとして高い人気があったと聞きます。
最近は、あまり知っている人も少ないのでしょうかねー…。
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます。私の方はいわゆる「読み逃げ」が多くて申し訳ないですm(_ _)m
> 「穢麻呂」に改名って、本当スゴイですね、完全に感情的になってますね…(^_^;)
ヒステリックな感情がうかがえますね。ご自身の夢が破れて、怒りが頂点に達しておられたのでしょう。
> 和気清麻呂は第二次世界大戦中は、皇統をお守りしたとして高い人気があったと聞きます。
> 最近は、あまり知っている人も少ないのでしょうかねー…。
大戦中は特に国民の精神をひとつにまとめる必要がありましたから、昔からの我が国の至宝である皇統におすがりした一面があります。和気清麻呂の行動は、楠木正成とともに当時は高い評価を受けました。ただ、その反動のせいなのか、現在は教えられなくなったことが寂しくもあります。
さすらい こんばんは。
時の権力者の皇位継承とは
なかなか思うようにいかないものですね。
また、その繰り返しも歴史なのでしょうか。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 権力者の交代がスムーズに行かないことによって、また新しい歴史が動くことがよくありますね。
奈良時代に目まぐるしく権力者が変化したのは、スムーズに行ったことがなかったからかもしれません。しかし、そんな歴史も最後には…。次回の講座でひと段落となりそうですね。
称徳天皇は後継者をお決めにならずに崩御されたため、次の天皇に誰を即位させるかについて朝廷で協議が行われました。右大臣の吉備真備(きびのまきび)は天武天皇の血を引く、臣籍降下した元皇族を推挙しましたが、土壇場(どたんば)で藤原百川や藤原永手が支持する白壁王(しらかべおう)が第49代の光仁天皇(こうにんてんのう)として即位されました。
光仁天皇はもちろん皇室の血を引いておられましたが、実は天智天皇の孫にあたられました。壬申の乱以来、天武系で占められていた天皇の地位が、約100年ぶりに天智系に復帰したことになります。そして、天智天皇の血脈は現代の皇室においても引き継がれているのです。
光仁天皇は、白壁王の時代に他の皇族が権力闘争で次々と生命を落としていくのを横目にしながら、自らは飲酒を続けて野心のないことをアピールし続けていたという苦労されたご経験の持ち主で、ご即位されたときには既に62歳になっておられました。
ご自身ではお考えにもならなかった天皇に即位された光仁天皇は、感謝のお気持ちもあって藤原百川や藤原永手などの藤原氏の一族を重く用いられ、以後は光仁天皇とその信任を受けた藤原氏によって律令政治の再建が目指されました。尚、藤原百川は藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子で、藤原永手は房前(ふささき)の子にあたります。
こうして100年にも満たない短い間に繰り広げられた勢力争いは、最終的には藤原氏の手に引き継がれ、以後も藤原氏は政治に積極的に関わっていくことになるのです。ちなみに、称徳天皇と道鏡によって禁止された墾田の私有は、光仁天皇のご即位後に再開されています。また、仏教勢力を排除する傾向は、やがて迎える「新たな時代」に向けての大きな流れのひとつとなったのでした。




いつも有難うございます。
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オバrev 再度、というか何度目か忘れましたが、また藤原氏がでてきましたね。
これ以降は、ついに藤原氏の天下ですか。
貴族の反発もあったんでしょうが、盤石の構えで押さえ込んだんでしょうね。
でも四家もあったら、その中で権力争いがおこるんじゃないかと思います。兄弟や親戚だからといって必ずしも仲が良いわけでもないですからね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 再度、というか何度目か忘れましたが、また藤原氏がでてきましたね。
不比等から数えたら藤原氏→反藤原氏→藤原氏→反藤原氏→藤原氏→反藤原氏→藤原氏ですから四回目です(笑)。ホンマに替わりすぎ!
> これ以降は、ついに藤原氏の天下ですか。
> 貴族の反発もあったんでしょうが、盤石の構えで押さえ込んだんでしょうね。
藤原氏が中心となりますが、まだライバルたちが出てきます(例えば天神さん)ので、藤原氏の独占までにはまだしばらく時間がかかります。いずれ紹介できると思いますよ。
> でも四家もあったら、その中で権力争いがおこるんじゃないかと思います。兄弟や親戚だからといって必ずしも仲が良いわけでもないですからね。
そのとおりです。四家のうちどれが生き残るのでしょうか?
ぴーち よくは解りませんが、
光仁天皇は、徳川家康のようなタイプの
方だったのでしょうか?
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう ほととぎす」
本当に家康という人物は、この句の通りの人物
だったのでしょうか・・。
または、赤穂浪士の大石内蔵助のように
まるで仇討とは縁も無いような顔を
し続けていたように、辛抱強い人物だったのでしょうかね。。
今日は質問ばかりになってしまいました^^;
では、では♪
ケンシロウ こんにちは。
またか!先生の講義が近付くと
インフルエンザが猛威を振るう。
無事に開催出来るとを願います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「長生きすることによって天下を取った」点については共通していますが、自分から動いた家康と、周囲から勧められるまで動かなかった(というより動けなかった)光仁天皇という違いはあると思います。
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう ほととぎす」は有名な句ですよね。ある意味待ち続けた点は上記のとおりですが、水面下で工作をしっかりしていたからこそ、豊臣家を完全に滅ぼすことができたと思います。現実には「果報は寝て待て」とはなかなかいかないようですね。
光仁天皇が辛抱強い点は当たっていると思います。殺されないようにするために飲酒をして敵意がないことをアピールし続けることは、ある意味屈辱的ですからね。
質問ばかりは大いに結構です(^^♪
次回のご質問をお待ちしておりますね(^o^)丿
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 お気遣い有難うございます。前回のように毒性が分からず、まさに「得体が知れない」ということはないと思いますので、今回は大丈夫だと思っています。
いずれにせよ、着々と準備を進めていきますね(^^♪
さすらい こんばんは。
またも藤原氏ですか(笑)
後の藤原氏紀香は
陣内を婿に迎えるが早々に離婚。
芸能界の女帝に君臨するのであった。。。
さて、やがて迎える「新たな時代」とは?
紀香はどうなるのであろうか。。。
失礼しました(笑)
でも光仁天皇は62歳ですか。
そして血脈が現代の皇室に
引き継がれているのは凄い事です。
世界に誇れますよね。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 なるほど、紀香氏には「女帝」の言葉がピッタリですね(笑)。
天智系と天武系に分かれた皇統は、しばらくは天武系から天皇が誕生していたのですが、この時点で逆転してしまうんですよね。ひょっとしたらこれも「長屋王のタタリ」かもしれません。
光仁天皇の段階でも、皇統は1200年以上も続いていることになります。まさに「世界に誇る皇室の伝統」ですよね。我が国にとってかけがえのない皇室は、いつまでも続いてほしいと思います。
紗那 ここで藤原氏の登場なのですか。
藤原氏の押した天皇ですから、当然藤原氏が権力を握るわけですね。
ここから!僕の嫌いな平安時代がはじまるのか・・・・
正直平和な時代が覚えるのが難しいです。
もっと合戦とかやってください←
しかし今の天皇が天智天皇の血を引いているとは初耳です。
紗那さんへ
黒田裕樹 > ここで藤原氏の登場なのですか。
> 藤原氏の押した天皇ですから、当然藤原氏が権力を握るわけですね。
仰るとおりです。藤原氏の場合は天皇を前面に押し立てたうえで、政治の実権は自分たちが握る、というのが基本的なパターンですね。
ところで「押して」ではなく「推して」ですのでよろしくお願いしますm(_ _)m
> ここから!僕の嫌いな平安時代がはじまるのか・・・・
> 正直平和な時代が覚えるのが難しいです。
> もっと合戦とかやってください←
「平安=平和」だと普通は思いますよね。ところが実際には合戦に負けず劣らずの「ドロドロした」権力争いも見ものなんですよ。そちらの方にご期待下さい(?)。
> しかし今の天皇が天智天皇の血を引いているとは初耳です。
天智天皇はもちろん、神武天皇の血脈までたどり着きますからね。2000年近くも男系ばかりがまるでバトンリレーのように続いているというのは世界史でも奇跡なんですよ。皇室の凄さですよね。
俗説として一般的に有名なのは、「称徳天皇は、始めのうちは藤原仲麻呂と愛人関係にあったが、自分の病を治してくれた道鏡とも関係を持つようになり、振られた仲麻呂が腹いせに乱を起こしたが滅ぼされ、その後は称徳天皇の愛を一身に受けた道鏡が天皇になろうという野心を持った」というものですが、私はこのような話は「有り得ない」と考えます。
まず、称徳天皇と藤原仲麻呂の関係ですが、これまでに書いたように、両者はむしろ対立関係にありました。藤原仲麻呂は光明皇太后の信任を得ることによって、称徳天皇を差し置いて政治の実権を独占していたからです。ついには無謀ともいえる新羅征討まで試みるようになった仲麻呂に対し、亡国の危機を救うために称徳天皇が立ち上がられて政界に復帰した、というのが本来の姿です。
それと、称徳天皇と道鏡の関係についても当時の「常識」として有り得ません。なぜそのように断定できるのでしょうか?
当時の我が国の仏教で不足していたのは 「戒律」であり、それを補うために唐の高僧であった鑑真が来日したのは以前に書いたとおりですが、様々な戒律の中でもっとも重要なもののひとつに「異性と通じてはならない」というのがあります。




いつも有難うございます。
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オバrev な、なんとそんな噂話があったんですか(((゚д゚;)))マジデスカ
孝謙天皇は聖武天皇の娘で、大仏が完成して開眼供養をやった天皇ですよね。
女性で天皇に即位、それも二度即位するというと、女性とはいえかなりのやり手だったんだろうと推測します。
藤原仲麻呂の愛人はあり得んでしょう。むしろ敵だし、孝謙天皇の母、藤原系の光明皇太后のお気に入りですよね?
ただ道鏡に関しては考えられなくもないと思います。
しかし道鏡は戒律を破るようなことはしないでしょうから、称徳天皇の一方的な思いだったんではないでしょうか。
また、道鏡に天皇になるという野心があったのかどうかも疑わしいと思います。
普通に考えたら、まず考えつきすらしない話ですよね。
でもこういう色恋話があったほうが歴史は面白い?と思います(^^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > な、なんとそんな噂話があったんですか(((゚д゚;)))マジデスカ
結構昔から有名ですよ。江戸時代にはここには書けないくらい破廉恥な内容の川柳も作られていますからね(´・ω・`)
> 孝謙天皇は聖武天皇の娘で、大仏が完成して開眼供養をやった天皇ですよね。
> 女性で天皇に即位、それも二度即位するというと、女性とはいえかなりのやり手だったんだろうと推測します。
そのとおり、女性天皇では一、二を争う能力者でいらっしゃいます。ただ、「男尊女卑」が常識だった時代には、それ故に不当な差別を受けられたと思うんですよ。
> 藤原仲麻呂の愛人はあり得んでしょう。むしろ敵だし、孝謙天皇の母、藤原系の光明皇太后のお気に入りですよね?
常識で考えれば当然ですよね。それなのにこんな噂が流れてしまうんですから…。もっともこれは、道鏡との「有り得ない関係」からの類推とも思えますが。
> ただ道鏡に関しては考えられなくもないと思います。
> しかし道鏡は戒律を破るようなことはしないでしょうから、称徳天皇の一方的な思いだったんではないでしょうか。
> また、道鏡に天皇になるという野心があったのかどうかも疑わしいと思います。
> 普通に考えたら、まず考えつきすらしない話ですよね。
このあたりにつきましては、明日の更新をご覧いただければと思いますm(_ _)m
> でもこういう色恋話があったほうが歴史は面白い?と思います(^^;)
今回は完全な誤解ですが、男女を逆にした(つまり、男性の天皇による)「色恋話」は、今月中には紹介できると思いますよ(^^♪
ぴーち こんばんは!
そんなお噂、初めて伺いました(@@
まあ、この世は男と女しか存在しないのですから、
いくら高貴な立場の方たちでも、そういう感情は
度外視は出来ない事でしょうけれどね。
それにしても、「通じてはならない」昔の隠語とも言うべき
言葉には奥ゆかしさがありましたよね。
現代のように露骨に表現する言い方は、私は抵抗感がを感じるので、この時代の日本人の奥ゆかしさは、憧れます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 最近は男女同権が定着しつつあることからか、以前ほどこの噂を耳にすることはなくなったのかもしれませんね。私も感情を度外視できないとは思いますが、あくまでも「天皇と臣下」の関係であり、百歩譲っても「親愛」の域を出ないと思っております。
奥ゆかしさは我が国の伝統でもありますよね。最近は何でも「開けっぴろげ」こそが望ましいというとんでもない傾向がありますから(特に性教育で)、嘆かわしい限りです。
さすらい こんばんは。
こういう倫理的なものは
現代のそれとはかなり違うのでしょうね。
歴史物ど映画やドラマは
当時の背景を描きつつも
今の倫理感で人間模様を描く傾向にあるので
ちぐはぐな動きも出てくる気がします。
まあ、フィクションですと言ってしまえば
それまでですが
史実はまた別の世界かもしれませんね。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の倫理観は現在とは違うと思われますし、歴史を学ぶ際の最大の欠点は、今の倫理感で人間模様を描く傾向にあることです。
当時には当時の考え方があり、それを理解せずに物語をつくることは、歴史に対する冒涜でもあります。
ただ、今回の場合は、倫理観(という言葉が問題あるとすれば、宗教観)からみても、俗説は有り得ないと考えており、そのあたりを次回の講座で詳しく紹介できればと思っています。
紗那 そもそもそういう話があるということ自体初耳です。
うん、勉強になりますな。。。
むー。道鏡さんがその戒律を破ったという可能性は・・・ないですかね。やはり。
紗那さんへ
黒田裕樹 他の方へのコメ返でも書きましたが、最近はあまり知られていないようですね。
まぁ、そういうウワサがあったことも含めて歴史なわけですが。
道鏡本人も、とんでもない濡れ衣を着せられたものですよね。
それに、称徳天皇が崩御された後に道鏡は下野国に追放されていますが、もし彼が称徳天皇と愛人関係になっていれば、ここぞとばかりに戒律を破った罪で彼の僧籍を剥奪(はくだつ)するか、場合によっては殺害されてもおかしくないのに、現実には彼は僧のままこの世を去っているのです。
また、以前に書いたように「道鏡が天皇になろうとした」のではなく、「称徳天皇が道鏡を天皇後継に指名された」のが正しい表現ですし、その称徳天皇の場合にしても、もし男性と深い関係におちいるような女性であれば、当時の我が国の風潮として、いかに実力があっても称徳天皇として重祚(ちょうそ)されることや、寺社を除く墾田の私有を禁止するという思い切った政治などを許すことはなかったでしょう。
ではなぜ後世にこのような「伝説」が残されてしまったのでしょうか?
考えられる理由のひとつは、称徳天皇と道鏡が「藤原氏に対抗する勢力」であったことです。時代の勝者となった藤原氏にとって、仏教勢力を背景に墾田の私有を禁じた政治を行った二人は「敵」であり、悪役として印象付けるために二人の間に「そういう関係」があることを暗示したのがきっかけと推定されています。
歴史は正しく残されるのが大前提ですが、時代の勝者によって筆が書き換えられることは、現代でもよくある話です。私たちは歴史を学ぶ際に、当時の背景や勢力争いなどに加えて、歴史の大きな流れを慎重に見極めながら、真実を導き出していきたいものですね。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
なるほど、そうですよ。
正しい歴史認識こそが
人類発展の糧になるものですよね。
単純に「本当のことが知りたい」だけなんですがね。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 まさしく仰るとおりです。
架空の物語ならともかく、我々は歴史の真実を知りたいのですから。
いい加減な捏造で、我々ばかりでなく子孫にも悪影響をもたらすのは勘弁願いたいものです。
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えめる 素直な子ども達、もちろん大人も、書かれている事を真実だと思ってしまうものです。
過去の陰謀を暴くと、いろんなことが覆されそうですね。
MAHHYA 私も、「歴史は勝者が作るもの」と、いつも感じています。
なるほど、藤原の対抗勢力だったからですね、
納得です!
えめるさんへ
黒田裕樹 「勝者による歴史」が真実を伝えているとは限りませんからね(むしろ逆かも)。
今回の道鏡のような陰謀が、他の歴史にも隠されている可能性は十分にあります(特に近現代史には要注意です)。
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 いわゆる「藤原史観」からみると、道鏡は「とんでもない奴」ですからね。
ただ、ウワサは所詮ウワサです。今回のように公平かつ冷静に考えれば、有り得ないことだとすぐに分かります。
歴史を学ぶことは、だまされないように(?)慎重な姿勢を身に付けることでもあるのかもしれません。