造船や航海技術の未熟もあって、遣唐使による航海は命がけであり、海上での遭難(そうなん)も度々ありました。それでも大陸の先進的な政治制度や文化を学ぶために多くの留学生が唐へ渡り、特に吉備真備(きびのまきび)や玄ボウ(げんぼう・※注)は、帰国後に我が国の政界で活躍しました。
7世紀には我が国との国交を回復させた新羅でしたが、8世紀に入ると、新羅が我が国と対等の態度を示すようになり、従前から属国扱いしていた我が国との関係に緊張が走りました。しかし、貿易の利を求めて民間商人たちによる交易が引き続き行われました。
また698年、旧高句麗領を含む中国東北部に渤海(ぼっかい)が建国されました。渤海は唐や新羅と対立することが多く、支援を求めて我が国とは友好的な関係が結ばれ、日本海では交易が活発に行われました。いわゆる「敵の敵は味方」ですね。
※注:玄ボウの「ボウ」の字は正しくは「日+方」ですが、機種依存文字のためにカタカナで表記しています。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
日本にとって
唐や新羅との交流は
良きものが多かったですね。
現代でも仲良くできれば良いですね。
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さすらいさんへ
黒田裕樹 この時代は唐とは文化の交流(というより吸収かもしれませんが)、新羅とは対唐路線での協調という重要なテーマがありましたので、友好関係が不可欠でもありました。
現代のようなギクシャクした(?)関係ではなく、利害がからんでいたとしても「大人」の関係でいてほしいものですね。
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717年に吉備真備らが入唐(にっとう)した際に同行していた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、唐の超難関の試験である科挙(かきょ)に合格し、後に唐の高い役職を歴任しました。詩人の李白(りはく)と親交を持ち、また唐の皇帝の玄宗(げんそう)の厚い信任を得ましたが、才能が高かったゆえに、玄宗がなかなか仲麻呂の帰国を許しませんでした。
753年に遣唐大使(けんとうたいし)の藤原清河(ふじわらのきよかわ)の要請によって、ようやく仲麻呂の帰国が許されますが、清河と共に彼を乗せた船は無情にも暴風雨に難破して、安南(あんなん、今のベトナム)に漂着しました。命からがら長安まで戻った仲麻呂は、その後もついに帰国することなく、770年に唐で73歳の生涯を閉じました。
そんな彼が残した望郷の和歌は、百人一首にも取り上げられ、長く我が国で知られています。
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
ところで、阿倍仲麻呂が帰国しようとして失敗に終わった際に、別の船に乗っていたため、無事に我が国にたどり着いた唐の高僧がいました。その名を鑑真(がんじん)といいます。




いつも有難うございます。
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オバrev 科挙って、名前だけで難しそうなイメージです(^^;)
阿倍仲麻呂は、相当な秀才だったんだろうな。
よく出てくる名前だし、日本で活躍した人かと思えば、唐で一生を終えたんですね。
唐で見る月を見て、春日の三笠山を思い出してたんでしょうね。
アキ 「天の原~」の歌、知ってますー(って、アホなコメント)
阿倍仲麻呂のそんな背景があっての歌だったんですね。
歴史のおもしろさって大人になってから気付き、何で学生時代にもっと勉強しておかなかったんだろう と悔いています。
こんなに楽しい「勉強」があったなんて。
いつも訪問&応援ありがとうございます。
コメントできない時でも必ず応援させて頂いておりますのでー(*^_^*)
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ついに鑑真ですね
kenちゃんマイド 鑑真の何回も渡航に失敗したと聞いてます。当時は朝鮮経由の渡航ですか?それともダイレクトで東シナ海をわたったんでしょうか?
たろー 科挙はこないだ学校でならいましたよ!
ランクリしときました!
ボクのブログにきてください!
初コメントです
つれづれ いつもご覧いただきましてありがとうございます。
歴史っていろんな見方があるんですね。
勉強になります。
また来ます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 科挙って、名前だけで難しそうなイメージです(^^;)
> 阿倍仲麻呂は、相当な秀才だったんだろうな。
ある意味東大入試や司法試験よりも難しいとされる中国の最難関の試験ですからね。よく合格できたものです。仰るとおり、仲麻呂は相当の切れ者だったようですが、それが仇になって帰国できなくなってしまうのですから皮肉ですよね。
> よく出てくる名前だし、日本で活躍した人かと思えば、唐で一生を終えたんですね。
本来は我が国で活躍が期待された留学生ですからね。彼が帰国できなかったのは、我が国にとって大きな損失だといえますが、かといって帰国したらしたで天寿を全うできたかどうか…。このあたりはいずれ後に紹介することになるでしょう。
> 唐で見る月を見て、春日の三笠山を思い出してたんでしょうね。
仰る説と、帰国を前に胸躍る仲麻呂の気持ち(もうすぐ故郷で同じ月が見られる)を表している、とも言われていますね。
アキさんへ
黒田裕樹 今回紹介した和歌は百人一首で有名ですが、一つ一つに色々な背景があるものですね。
学校で勉強する歴史というものは、受験対策のために「ただ覚える」だかの無味乾燥なものであったり、教える先生の資質に左右される(例えば、特定の思想を押し付けられる)ことが多かったりするので、とっつきにくいんですよね。しっかりと学べばこんなに面白いのに。
でも、社会人になってからでも決して遅くはありません。是非分かりやすい歴史を学んでいただき、今後のお役に立てて下されば幸いと思っております。
私も欠かさすクリックはさせていただいているものの、いわゆる「読み逃げ」状態が多くて申し訳ないです。今後もお互いにブログを盛り上げていければいいですね!
kenちゃんマイドさんへ
黒田裕樹 > 鑑真の何回も渡航に失敗したと聞いてます。当時は朝鮮経由の渡航ですか?それともダイレクトで東シナ海をわたったんでしょうか?
鑑真が渡航に挑戦した頃は、後者の「ダイレクトで東シナ海をわたった」のが通常でした。朝鮮半島経由の航路は、白村江の戦いによって新羅との関係が悪化してからは使えなかったんです。8~9世紀の時期に長期間も陸地に寄らずに航海を続ける訳ですから、当時の苦労がうかがえますね。
たろーさんへ
黒田裕樹 > 科挙はこないだ学校でならいましたよ!
世界史でしょうか。中国の有名な試験ですからね。学習のお役に立てればこちらも嬉しいです(^_^)v
> ランクリしときました!
> ボクのブログにきてください!
有難うございます。是非訪問しますね(^^♪
しかし、鑑真のような高僧が日本へ渡るということは大変な苦難を伴いました。弟子たちの密告などによってことごとく失敗し、ようやく船に乗ったと思ったら、嵐にあって難破してしまいました。5度にわたる渡日に失敗するうちに、鑑真の両目は失明状態になったと伝えられています。
752年に遣唐大使の藤原清河らが来唐し、翌年に帰国する際に、鑑真は船に同乗させてくれるよう依頼しましたが、渡日を許さない玄宗皇帝の意を受けた清河はこれを拒否しました。しかし、副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の機転で密かに別の船に乗ることができた鑑真は、清河と阿倍仲麻呂を乗せた船が難破した一方で、無事に我が国にたどり着き、ついに悲願の渡日を果たしました。
鑑真は我が国に戒律の他に彫刻や薬草の知識を伝え、唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建して我が国に留まり、763年に76歳の生涯を終えました。彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう)は、我が国最初の肖像彫刻とされています。
余談ですが、大伴古麻呂は唐における753年の新年の儀式の際に、我が国の席次が新羅より下になっていることに対して猛烈に抗議して、結果的に席次を入れ替えさせたというエピソードが残っています。席次の件といい、鑑真を密かに渡日させたことといい、当時の外交官は気骨(きこつ)ある人物でないと務まらなかったのかもしれませんね。




いつも有難うございます。
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kenちゃんマイド 彼は何故日本に来たかったのですか?彼の渡日への情熱はどこから出てきているんでしょうか。戒律をさずけるのはそんなに大切なことでしょうか。
たろー 鑑真が目が見えなかったとは知りませんでした
よければ相互リンクしませんか?
さすらい こんばんは。
なるほど、外交は大事ですよね。
それぞれの苦労があって
今があるような気がします。
現代でも気骨ある人物が欲しいものです。
応援♪
智里 何年か前に道立近代美術館で国宝唐招提寺鑑真像を見たことが有ります。
日本仏教と彫刻?だったか忘れたけど、空海の書や運慶、快慶の仏像を見ました。
国宝唐招提寺鑑真像が最初の肖像彫刻とは知らなかったな~。
貴重な1品を見ることができたんですね♪
kenちゃんマイドさんへ
黒田裕樹 戒律とは仏教において守るべきものとされた道徳や規則のことです。仏教が我が国に伝来した際に、戒律の重要度が正しく伝わっていなかったために、不十分なものになっていました。
これではいけないと、我が国の僧2人が唐へ渡り、高僧である鑑真に、我が国に戒律を伝えてくれるよう懇願したのです。
2人の厚い思いに心動かされた鑑真は、弟子たちに日本へ行くよう問いかけましたが、中華思想の影響もあって、野蛮とみなされた我が国へ命がけで渡ろうとする者はいませんでした。
弟子たちの情けなさと、仏法を守るためには死をもいとわない崇高な精神が、鑑真をして「私自らが行く」と言わしめたと考えられています。
たろーさんへ
黒田裕樹 > 鑑真が目が見えなかったとは知りませんでした
そうなんですね。昔から結構有名な話なんですが、最近では完全に失明していなかったという説もあるようです。
> よければ相互リンクしませんか?
有難うございます。喜んでお受けしますので、今後とも宜しくお願いします。
さすらいさんへ
黒田裕樹 いつも有難うございます。
時には我が国の運命をも決定付けてしまう大切な外交ですから、いつの世も外交官には大伴古麻呂のような精神を持ち続けて欲しいものですね。
智里さんへ
黒田裕樹 鑑真像の存在は知っていても、それが最初の肖像彫刻であることは案外知らないんですよね。
北海道でご覧になれて良かったですね(^_^)v
初めまして。
なみなみ ご訪問ありがとうございます。
日本史が解りやすくまとめられてあって、
いつも興味深く読んでおります。
当時世界一の先進国といっていい中国の高僧が、
どうして蛮族の住む日本へ行こうと思ったんでしょう?
彼をそこまで動かしたモチベーションってなんだったんでしょう?不思議です。
現状に満足しない、チャレンジ精神あふれる人だったんでしょうか。
この方の人となりを、知りたくなリました。
なみなみさんへ
黒田裕樹 こちらこそコメント有難うございます。なみなみさんの笑い話はいつも楽しく拝見させていただいております。
別の方のコメ返にも書かせていただきましたが、遠く離れた国から命がけで航海して、自分が得意とする戒律を教えて欲しいという我が国の2人の留学僧の必死の願いに、仏教というひとつの道を究めた人間の使命感がメラメラと燃えたぎったのではないかと考えられます。
このとき既に50代に入っていた鑑真にとって、残りの人生を、自分という存在を待ってくれている我が国にささげよう、という男気もあったのかもしれませんね。
いずれにせよ、彼の来日で我が国の仏教は多大な変化を遂げたばかりでなく、彫刻や薬草の世界でも貢献があったわけですから、鑑真の存在感は、現代の我々が想像するよりも遥かに大きなものなのかもしれません。