7世紀前半までに中国から我が国に伝わったとされており、貴族から武士、そして一般民衆に至るまで幅広く親しまれました。一般的には優雅(ゆうが)な遊びと見られていますが、鞠(まり)を高く蹴(け)り上げるなど、かなりの技術と体力を必要とする競技でもあります。
蘇我入鹿(そがのいるか)が強大な権力を握っていたある日のこと、飛鳥(あすか)の法興寺(ほうこうじ)の広場で、蹴鞠の会が盛大に行われていました。そんな中、一人の若い男性の皇子が高く鞠を蹴り上げたとき、勢いあまって履(くつ)が脱げて鞠とともに宙を舞いました。
履は、ある一人の男性の目の前に落ちました。男はすぐに履を拾い上げると、両手でささげるようにして持ちました。皇子の前まで行くと男はひざまずき、恭(うやうや)しく履を差し出すと、皇子も男の前でひざまずき、互いに目を見合わせ、笑みをかわしました。
これが、我が国の歴史の大きな転換点となった「大化の改新」(たいかのかいしん)を成しとげた二人の男、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)との記念すべき出会いでした。



いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
ご無沙汰しております。
27日の講義はお疲れ様でした。
けまり/しゅうきくは東南アジアの
セパタクローと同じですかね?
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、普段は拝見だけで申し訳ないです。
講座へのお言葉、有難うございます。
。
> けまり/しゅうきくは東南アジアの
> セパタクローと同じですかね?
確かに似ていますね。ただ、セパタクローにはネットがありますので、足を使ったバレーボールといった方がいいかもしれませんね。
ぴーち こんばんは!
蹴鞠の様子は今でもTVdで拝見する時がありますが、
拝見している分には、簡単そうに見えますが
確かに高度な技術を要するようですね!
そうですか。。。
そういう経緯で
よく靴を投げて「お天気占い」をしたりして
靴はお天気まで占う道具とされてますが、
(犬のふんを踏むと、運がつくとか・・^^;)
人の縁まで取り持つ力もあったとは、恐れ入りました^^
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 蹴鞠の様子は今でもTVで拝見する時がありますが、
> 拝見している分には、簡単そうに見えますが
> 確かに高度な技術を要するようですね!
そうなんです。丸いものを蹴るわけですから、基本的にはサッカーとかわらないんですよね。従って技術も必要なわけで…。そう考えると、貴族も単なるひ弱ではなかったということになりますね。
> そうですか。。。
> そういう経緯で
> よく靴を投げて「お天気占い」をしたりして
> 靴はお天気まで占う道具とされてますが、
> (犬のふんを踏むと、運がつくとか・・^^;)
> 人の縁まで取り持つ力もあったとは、恐れ入りました^^
中臣鎌足が中大兄皇子に会える機会をうかがっていたという説もありますが、それにしたって履が偶然に飛んでくるとは限らないわけですからね。
確かに靴には色んな力がありますね。でも同じ運がつくなら、もっと別の方法がいいのですが…(^^ゞ
「なまごみのかたまり」。嘉○○夫ですか?(笑)
いつも有難うございます!
相模守高時 鎌足さんはねらっていたでしょう、やはり。
そしてひたすら念を送る。。。さすれば靴も毬も飛んできますw
相模守高時さんへ
黒田裕樹 > 鎌足さんはねらっていたでしょう、やはり。
> そしてひたすら念を送る。。。さすれば靴も毬も飛んできますw
なるほど、鎌足は超能力者だったのですか(笑)。
「念ずれば通ず」。我が国ならではの思想ですよね。国内においてはそれで十分だと私も思いますよ。
幼少時から優秀かつ果敢な性格を称えられていた中大兄皇子にとっては、自分も将来は山背大兄王(やましろのおおえのおう)のような目にあうかもしれないという思いと、何よりも蘇我氏による専横をこれ以上黙って見ていられないという強い危機感を持っていました。
中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、代々神事を担当した中臣氏の一族でしたが、我が国で仏教を受け入れるかどうかの問題で蘇我氏と対立し、以後は勢力が弱まっていました。彼もまた、蘇我氏のやりたい放題をこのまま見過ごしておけないという使命感に燃えていたのです。
蹴鞠の会によって出会うべくして出会った二人は、留学生として隋へ渡り、唐になってから帰国した南淵請安(みなぶちのしょうあん)から教えを請(こ)うという形で何度も密会し、蘇我氏打倒の作戦を練り続けていました。
二人は、蘇我氏の一族でありながら入鹿の専横を憎んでいた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を味方に引き入れることに成功し、石川麻呂の娘が中大兄皇子の妃(きさき)となりました。



いつも有難うございます。
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ぴーち 蘇我氏にとっては、入鹿は「異端」的な存在でもあり、
「獅子身中の虫」でもあった訳ですね。
それでも、蘇我氏の専横には従えないという物事を冷静に判断し、しかも正義感あふれた人物であったと解釈して良いのでしょうか?
同じ一派だからとか、同じ党に属しているから、すべて
それが正しいことと妄信せずに、物事の本質を冷静に見極める能力に優れていた人物だったのですね!
同じような意見が重複してしまいまいました^^;
それでは、
応援!入鹿はいるかぁ~?
黒田さんダジャレ語録より、引用。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 蘇我倉山田石川麻呂の立場は微妙だったと思われます。
入鹿による専横は、蘇我氏の一族としては栄華のおこぼれに預かることが出来ますが、朝廷や皇室をないがしろにする入鹿の態度には、同じ朝廷に仕える身としては我慢がならぬものがあったでしょうし、何よりも入鹿がもし皇室を抹殺しようものなら、大逆の罪を自分もかぶるわけですから、気が気でなかったとも考えられます。
「物事の本質を冷静に見極める能力に優れていた人物」であった可能性はありますね。ただ、石川麻呂のその後は…おっと、ここから先は後日にまた紹介しましょう(^_^)v
> 入鹿はいるかぁ~?
> 黒田さんダジャレ語録より、引用。。
ぴーちさん、私にそんな語録なんてありませんよ。
え? なぜかって?
ダジャレ語録なんて、そんなもん「いるか~!」…失礼しましたm(_ _)m
さすらい こんばんは。
「現在アクセスが集中しています」で
2度コメントが打ち消されてしまいました(泣)
3度目の正直!
同じギャグを3回言うのも何なんで。。。
中臣鎌足と藤原の鎌足が同一人物だと
初めてわかった小学生の時の話
をしていたのですが。。。
いけ~応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 > 「現在アクセスが集中しています」で
> 2度コメントが打ち消されてしまいました(泣)
ご迷惑をおかけしますm(_ _)m
私のブログが所属(?)する「blog10」は、なぜか以前からつながりにくいんですよ。
私もコメ返がはね返されることがよくあるので、念のためにコピーをとってから送信しています…。
> 同じギャグを3回言うのも何なんで。。。
> 中臣鎌足と藤原鎌足が同一人物だと
> 初めてわかった小学生の時の話
> をしていたのですが。。。
これって、意外と盲点なんですよね。
歴史上では「中臣鎌足」としょっちゅう出てきますからね。一方「藤原鎌足」は事実上、死後に与えられた名前ですから…。聖徳太子と違って、中臣鎌足の名前の方が有名だからこうなってしまうんでしょうね。
応援、有難うございます!
因果やなぁ
オバrev 蘇我氏に滅ぼされた中臣氏の子孫によって蘇我氏が滅ぼされるとは、あの平家物語の、諸行無常の響きや、盛者必衰の理を思い出します。
でも、後に鎌足の子孫も、蘇我氏と同じようなことをやってると思うんですけど(^^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 蘇我氏に滅ぼされた中臣氏の子孫によって蘇我氏が滅ぼされるとは、あの平家物語の、諸行無常の響きや、盛者必衰の理を思い出します。
まさしく「因果はめぐる」ですね。世の中、実にうまく出来ているものです。
> でも、後に鎌足の子孫も、蘇我氏と同じようなことをやってると思うんですけど(^^;)
そうなんですよね…。真の意味の「勧善懲悪」は実在しない、ということなんですよね、残念ながら…。
MAHHYA 以前、川合敦先生の本を読んでたら「蘇我氏は仏教で政治を変えようとしていた改革派の側面もあった」って書いてあったのを思い出しました。
しかし、因果はめぐるですね。ほんと、歴史を学んでいると、勧善懲悪はこの世にはないのかって思っちゃうこと、あります(>_<)
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 > 以前、川合敦先生の本を読んでたら「蘇我氏は仏教で政治を変えようとしていた改革派の側面もあった」って書いてあったのを思い出しました。
我が国に仏教を広めるきっかけとなった蘇我氏の功績は大きいものがあると思います。しかし、彼らはあまりにも大きくなりすぎました…。
> しかし、因果はめぐるですね。ほんと、歴史を学んでいると、勧善懲悪はこの世にはないのかって思っちゃうこと、あります(>_<)
勧善懲悪の、完全無欠も夢物語ということでしょうか…。しかし、果たせそうもない理想だからこそ、人々は引き付けられるのかもしれませんね。
朝廷にとって重要な行事ですから、大臣(おおおみ)の蘇我入鹿も必ず出席します。これを好機と見た二人は、儀式の途中で入鹿を暗殺することとし、当日までに刺客(しかく)を二人準備して、彼らとともに儀式が行われる大極殿(だいごくでん)の物陰に隠れました。
こうしてすべての準備を終えた645年6月12日、大雨が降る中で儀式が始まりました。朝鮮半島からの上表文(じょうひょうぶん)を蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が読み始めました。計画では、上表文を読んでいる途中で刺客が飛び出し、入鹿を暗殺する手はずでした。
しかし、刺客たちがなかなか出てきません。極度の緊張と、入鹿の尊大さに怖気(おじけ)づいてしまっていたのでした。 「このままではまずい」。中臣鎌足の顔に焦(あせ)りが浮かんできました。
なかなか出てこない刺客たちに、上表文を読んでいた石川麻呂も焦り出しました。上表文に残された文字は、あと数行分しか残されていません―。



いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
おお、まさにアクションドラマの
ワンシーンのようですね(笑)
改革とはなかなかうまくはいかないものです。
応援♪
海豚 あああ。
もう「いるか」殺されちゃうとこですかー。
(なんかショック・・・。)
まぁ、歴史だからしょうがないですけどねぇ(笑
智里 いよいよ入鹿が・・・・(*≧艸≦)
645年、歴史が変わる瞬間ですね!!
ちゅーか、もっと前にヤレなっかたのか!?
明日の講座が楽しみです(≧∇≦)b
ヒロキ 是非続きを芝居形式にやってもらえたら嬉しいです(*^_^*)
そろそろ入鹿が斬られる頃ですねwww
およよのよ >蘇我倉山田石川麻呂
名前長っ!山田か石川かどっちかにしてほしいですな。
入鹿が暗殺されたのは645年ですけどその時の授業で教わったごろ合わせがなかなか強引だったのを覚えてます。
虫殺しでしたっけ。そのままで行くと64564…(笑)
他にも語呂と言えばイチゴパンツ(1582)明智光秀とか…ホント、誰が考えるんでしょうね。
さすらいさんへ
黒田裕樹 > おお、まさにアクションドラマの
> ワンシーンのようですね(笑)
はい、そうです(笑)。
こういう場面はドラマ形式の方が盛り上がりますからね。
> 改革とはなかなかうまくはいかないものです。
そうですね。ただ、それだけに上手くいったときは感慨深いというものです。今回はどうでしょうか?
応援有難うございます!
海豚さんへ
黒田裕樹 > あああ。
> もう「いるか」殺されちゃうとこですかー。
> (なんかショック・・・。)
う~ん、こればっかりは史実ですからねぇ…(´・ω・`)
> まぁ、歴史だからしょうがないですけどねぇ(笑
まぁそういうことで。明日以降も来て下さいね!
智里さんへ
黒田裕樹 > いよいよ入鹿が・・・・(*≧艸≦)
> 645年、歴史が変わる瞬間ですね!!
智里さんにとっては、まさに「お待たせしました」という展開でしょうか?(^^ゞ
> ちゅーか、もっと前にヤレなっかたのか!?
確かに、山背大兄王の一族は可哀想ですよね…(´・ω・`)
> 明日の講座が楽しみです(≧∇≦)b
ハイ。ご訪問をお待ちしております!
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 是非続きを芝居形式にやってもらえたら嬉しいです(*^_^*)
いつものことながら鋭いですねぇ…(と、いうことは?)。
> そろそろ入鹿が斬られる頃ですねwww
詳しくは明日までお待ち下さいね!(^^♪
およよのよさんへ
黒田裕樹 > >蘇我倉山田石川麻呂
> 名前長っ!山田か石川かどっちかにしてほしいですな。
蘇我倉山田石川麻呂は日本史で屈指の(?)名前の長さですからね。
坂上田村麻呂も真っ青、というところでしょうか(笑)。
> 入鹿が暗殺されたのは645年ですけどその時の授業で教わったごろ合わせがなかなか強引だったのを覚えてます。
> 虫殺しでしたっけ。そのままで行くと64564…(笑)
私が学生の頃は「蒸し米(ムシゴメ)で祝う大化の改新」でした。時代によって変わるんですかね?
> 他にも語呂と言えばイチゴパンツ(1582)明智光秀とか…ホント、誰が考えるんでしょうね。
イ、イチゴパンツ…。
リンク先の「ミツヒデスト」さんが聞いたら激怒しそうですね…(@_@;)
入鹿「どうして震えているのだ!」
麻呂「へ、陛下の御前(ごぜん)ですから、ふ、不覚にも緊張しまして…」
しどろもどろで返答する石川麻呂に対して、入鹿がさらに不信感を持ちました。このままでは計画が失敗するどころか、すべてが発覚してしまうのが目に見えていました。
「だめだ。もはやこれまでか」。中臣鎌足が観念したその瞬間でした。
「ヤーッ!」
凄まじい気合とともに、手に剣を持った一人の若者が飛び出しました。この若者こそが、中大兄皇子その人でした。皇子が入鹿に向かって突進すると、はじかれたように刺客たちも駆け出しました。入鹿は皇子を含んだ三人がかりで攻められ、激しく斬りつけられました。
瀕死(ひんし)の重傷を負った入鹿は、皇極天皇に向かって命乞(いのちご)いをしました。
「なぜ俺がこんな目に…。何の罪があるというのだ…」。



いつも有難うございます。
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さすらい 歴史とは
こういう繰り返しですよね。
現代の倫理観念で見ると
おかしい場面も多数ありますが
中大兄皇子はこの頃の
ヒーローでしたか。
クーデターも時代とその瞬間では
正義にもなりますね。
応援♪
1,2秒の差で歴史は変わっていた?
オバrev まるで、手に汗握るドラマのような演出ですね。
中大兄皇子が飛び出すタイミング、その1秒か2秒の違いで歴史は変わってたかもしれない。まさにギリギリ、紙一重の差だったのでしょう。
歴史の変わり目ってそんなちょっとした事がきっかけで大きく動くのかもしれません。
こみー 大化の改新でそんなことがあったんですね・・・
今までずっと蘇我入鹿が非常でもの凄く悪い
人っぽいと思ってたんですが、最後の文で
ちょっと見方が変わりましたね(^_^;)
やっぱ人間なんですねぇ。
ぴーち こんばんは!
今日は昨日にも増して、緊迫する場面展開!
それにしても、
無鉄砲というか、いざと言うときの
瞬発力は若者の特権なんでしょうけれど、
入鹿も、さぞ、驚きと共に観念した事でしょう。
もう、こんな所にいるかァ~~~!
と立ち去れない場面まで来てしまいましたね^^;
天皇の言葉が気になる所です。
黒田氏ダジャレ語録、再び引用させていただきました^^;
それでは、応援凸
さすらいさんへ
黒田裕樹 出る杭は打たれるのが世の中の常ですからね。聖徳太子並みの頭脳をもたない限りは、杭を排除するとすれば、この時代はクーデターを起こすしかなかったんでしょう。仰るとおり、現代の倫理観で当時の歴史を見てはいけません。
中大兄皇子は、大化の改新当初においてはまぎれもなくヒーローでしょう。ただ、その後は…。
応援有難うございます!
オバrevさんへ
黒田裕樹 > まるで、手に汗握るドラマのような演出ですね。
> 中大兄皇子が飛び出すタイミング、その1秒か2秒の違いで歴史は変わってたかもしれない。まさにギリギリ、紙一重の差だったのでしょう。
まさにギリギリでしたからね。これ以上のドラマチックなシーンはないでしょう。
今回のクーデターが失敗していれば、現代の皇室はどうなっていたのか…。恐ろしくもありますね。
> 歴史の変わり目ってそんなちょっとした事がきっかけで大きく動くのかもしれません。
坂本龍馬の場合も、頭を斬られなければ助かっていたかも…。確かにほんのちょっとしたきっかけで、歴史が大きく動くんですよね。
こみーさんへ
黒田裕樹 > 大化の改新でそんなことがあったんですね・・・
入鹿の暗殺シーンは意外と知られていませんからね。こんな興味のある場面を教えない歴史なんて…いや、愚痴はやめましょう。
> 今までずっと蘇我入鹿が非常でもの凄く悪い
> 人っぽいと思ってたんですが、最後の文で
> ちょっと見方が変わりましたね(^_^;)
> やっぱ人間なんですねぇ。
自分の寿命がまさに尽きようとするときは、素直な感情を取り戻すのかもしれませんね。
遅すぎたわけですが…(´・ω・`)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今日は昨日にも増して、緊迫する場面展開!
そうですね(^^ゞ
中大兄皇子や中臣鎌足にとっては、まさに紙一重の展開でしたからね。
> 入鹿も、さぞ、驚きと共に観念した事でしょう。
> もう、こんな所にいるかァ~~~!
> と立ち去れない場面まで来てしまいましたね^^;
意識が薄れていく中で、入鹿はこう思ったそうです。
「俺みたいな目にあう奴が、他にいるかァ~~~!」
…。
> 天皇の言葉が気になる所です。
鋭いですね(^^♪
明日の更新をお楽しみに!(^_^)v
応援感謝です!
えめる ドラマ仕立てのような大化の改新、面白く読ませていただきました。
悪者というイメージの蘇我入鹿でしたが、チョッと気の毒(^^
ヒロキ 目の前で人が殺されたのを見た皇極天皇もビックリ立ったんでしょうね!
このあとは蘇我倉山田石川麻呂の悲劇が待ってるのか。。。
「何事ですか、これは!」
天皇の息子でもある中大兄皇子は、母でもある皇極天皇の前へ進み出ると、きっぱりと理由を述べました。
「蘇我入鹿は皇族を滅ぼして自分が皇位につこうとした大悪人ですから、誅殺(ちゅうさつ)したまでのことです」。
理由を聞かれた皇極天皇は、黙って席を立たれました。その間に刺客たちが入鹿に止めを刺し、ついに入鹿は暗殺されてしまいました。
入鹿の死は、直ちに父親の蘇我蝦夷にも伝えられました。配下の者が逆賊になるのを恐れて次々と朝廷に投降していく姿を見た蝦夷は抵抗をあきらめ、翌日に屋敷に火をかけて自殺しました。こうして栄華を極めた蘇我氏の本家は、わずか一昼夜で滅亡してしまったのです。
なお、蝦夷・入鹿親子が滅ぼされた一連の政変については、最近では「乙巳の変」(いっしのへん)と特に呼ばれています。



いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
「乙巳の変」ですか。
私らが子供の頃は習わなかったですよね?(苦笑)
習っても忘れてます(笑)
どうもこの辺は
「大化の改新」としか認識してませんでした。
また勉強になりました。
応援♪
海豚 あら~←
いるか殺されちゃいましたねぇ。
そういや、夏に補修会があるんですけど・・・
社会は「1年地理」に行くことにしました~。
でもやっぱり、歴史とか2年のとかも行った方が良いですかね?
さすらいさんへ
黒田裕樹 ご安心下さい(?)。 「乙巳の変」は我々が子供の頃には学んでいません。最近になって、「クーデター」と「政治改革」は別物だ、ということになった使われだした言葉ですから。
もっとも、今回の事変と政治改革を含めて 「大化の改新」というべきではないか、と私は考えております。
応援感謝です♪
海豚さんへ
黒田裕樹 > あら~←
> いるか殺されちゃいましたねぇ。
はい…(´・ω・`)
まぁ、それまでがひどすぎましたからね。漢字が違うと、性格もまるで変わってしまう、といったところでしょうか(!?)。
> そういや、夏に補修会があるんですけど・・・
> 社会は「1年地理」に行くことにしました~。
> でもやっぱり、歴史とか2年のとかも行った方が良いですかね?
今までの復習か、高校の予習のことでしょうか?
いずれにせよ、高校に入れば社会は一科目だけではなくなりますから、何にでも挑戦してみる価値はあると思いますよ。
marihime 黒田さんこんばんは☆
いつも訪問&コメントありがとうございますσ(゚ー^*)
また、講座を開かれるんですねo(^-^)o
講座まで日数が少ないからお忙しいと思います。
頑張ってくださいね!
marihimeさんへ
黒田裕樹 こちらこそいつも有難うございます。
事情があって一週間早くせざるを得ませんでしたからね。
気がつけばもう10日を切っています(笑)。
頑張りますよ!(^_^)v
ぴーち こんばんは!
これはその場に居合わせた皇極天皇はさぞ、肝を潰すほどに驚いた事でしょうね。。
それにしても、「乙巳」とは、年号かしら。。
それとも「巳」という事で、十二支の意味でしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > これはその場に居合わせた皇極天皇はさぞ、肝を潰すほどに驚いた事でしょうね。。
そうですね。皇極天皇は女性でいらしたから尚更だったのではと思われます。
> それにしても、「乙巳」とは、年号かしら。。
> それとも「巳」という事で、十二支の意味でしょうか?
十干十二支が「乙巳」、つまり「きのとみ」なんですよ。仰るとおり、巳年に起きています。
ちなみに、今後学習します壬申(じんしん)も同じ十干十二支です。
応援有難うございます!
皇極天皇の本意は?
オバrev やっぱり乙巳の変は最近言い出したんだ。確かに我々が習った頃は大化の改新でしかたらね。
しかし、中大兄皇子と皇極天皇は親子だったんですね。
そうなると、皇極天皇が黙って席を立たれたというのは、どういう意味をもつんでしょうか。我が子ゆえ見ないことにしたかったか、我が子とは無関係に、蘇我氏の横暴振りから、天誅として正当である認めたのか、その両方を足して、よくぞやってくっれた我が子よと微笑んだのか?
ただ、筋を通すためにはいくら我が子とはいえ、何らかの処罰はあってしかるべきだとは思いますが、どうなんでしょうか。
えめる 「645年大化の改新」という断片的記憶に、やっと人の姿がはめ込まれました。
この講座って、何だかすごいです。
これからも楽しみにしていま~す。
中大兄皇子は都を難波(なにわ、現在の大阪市)に移すと、我が国史上初めての元号となる「大化」(たいか)を制定し、645年は「大化元年」となりました。
続いて朝廷内の役職の改革に着手した中大兄皇子は、それまでの大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)の制度を廃止し、新たに左大臣・右大臣・内臣(うちつおみ)の制度を設けました。そして、左大臣には阿部内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂、内臣には中臣鎌足がそれぞれ任じられました。
また、隋から唐の留学生として新知識を身につけ、帰国した高向玄理(たかむこのくろまろ)と僧旻(みん)とを、国博士(くにのはかせ)に任じました。同じ留学生で、中大兄皇子と中臣鎌足に教えた南淵請安が国博士に任じられていませんが、詳しい理由は分かっていません。おそらくは乙巳の変以前に亡くなっていたものと思われます。



いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
645年「大化の改新」
刷り込みのように覚えましたね(笑)
留学生が現地でどういう生活をして
どう我が国に伝えたか
スピンオフ企画を聞きたいですが
時間があればいずれお願いします。
応援♪
たか ?大化の改新=645年?
しか知らなかったので
ためになります^^
中大兄皇子は色々
やってたんですね

強力な政権
オバrev 皇極天皇は乙巳の変の責任をとってやめたんでしょうかね。
それにしても、実力で政権を奪い取った中大兄皇子政権は、やはり強い。まさに大化の大改革ですね。
現代の日本も、こういう強力な政権が出来ないと
変われないのでしょうか(^^;)
さすらいさんへ
黒田裕樹 > 645年「大化の改新」
> 刷り込みのように覚えましたね(笑)
ここからが現在の教科書で言われているところの「大化の改新」ですからね。
あまりドラマ性がありませんが…(^^ゞ
> 留学生が現地でどういう生活をして
> どう我が国に伝えたか
> スピンオフ企画を聞きたいですが
> 時間があればいずれお願いします。
そうですね。また機会があればやってみたい企画です。
応援有難うございます!
たかさんへ
黒田裕樹 > ?大化の改新=645年?
> しか知らなかったので
> ためになります^^
有難うございます。たかさんが高校で学ぶ日本史とは違いがありますでしょうか?
> 中大兄皇子は色々
> やってたんですね

そうなんです。明日はもっと詳しく紹介できると思いますよ(^^♪
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 皇極天皇は乙巳の変の責任をとってやめたんでしょうかね。
昨日の続きになりますが、おそらくそのとおりだと思います。それまでになかった「生前での譲位」までされての決断でしたからね。中大兄皇子にすぐ後を継がせなかったのも「責任」の取らせ方だったのかもしれません。
> それにしても、実力で政権を奪い取った中大兄皇子政権は、やはり強い。まさに大化の大改革ですね。
仰るとおり、強い政権です。そして、強い政権だからこそ出来ることがあります。詳しくは明日の講座をご覧下さい。
> 現代の日本も、こういう強力な政権が出来ないと
> 変われないのでしょうか(^^;)
混迷深い今のご時世こそ、強い政権が必要なのかもしれませんね。ただ、いずれの世にもいえることですが、強いからといって、国益を損ねるようなことは願い下げです。
ぴーち こんばんは!
ここで大化が初めての元号となる訳ですね~
勉強不足で失礼しました。
(前日に、乙巳は元号?などと的外れな質問してましたね^^;)
それにしても、ここで錚々たる面子が集合しましたね!
まるで、ひななつりの祭壇の上に飾られた面々のような
印象を受けました^^
右大臣、左大臣・・^^(また、的外れな事書いてますw)
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ここで大化が初めての元号となる訳ですね~
> 勉強不足で失礼しました。
> (前日に、乙巳は元号?などと的外れな質問してましたね^^;)
いえいえ、今回の講座で学んで下さればいいんですよ。ぴーちさんは優等生ですから大丈夫!
> それにしても、ここで錚々たる面子が集合しましたね!
> まるで、ひななつりの祭壇の上に飾られた面々のような
> 印象を受けました^^
> 右大臣、左大臣・・^^(また、的外れな事書いてますw)
ということは、蘇我倉山田石川麻呂は白酒の飲みすぎで赤い顔をしているんでしょうか…って、失礼しましたm(_ _)m
応援感謝です♪
まず、豪族が所有していた土地や民衆をすべて国家の所有とし、豪族には代わりに食封(じきふ=現代の給与に相当)などを与えることとしました。これこそが公地公民制(こうちこうみんせい)であり、聖徳太子以来の悲願がついに達成されることになりました。
続いて、中央並びに地方の行政区画をはっきりとさせて、地方の行政組織や交通の制度を整えることが目指されました。
また、戸籍(こせき)や計帳(けいちょう)をつくって民衆の状態をつかんだうえで税を課すという班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)を行うことも詔(みことのり)に記されましたが、これらの実現にはしばらく時間がかかることになります。また、新たな租税(そぜい)制度も確立しましたが、また別の機会に詳しく取り上げます。
「改新の詔」は、それまでに実現しなかった強固な中央集権体制における国家をつくるための大原則をうたったものであり、以後はこれらの実現に向けて政治を行うことになりました。こうした一連の国政の改革を「大化の改新」(たいかのかいしん)といいます。



いつも有難うございます。
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相模守高時 大津市に住んでいたこともあるので
中大兄皇子は親近感がありますが
断片的に知っているだけでして
勉強になります
さすらい こんにちは。
一連の大化の改新
興味深く読ませていただきました。
また新たに勉強になり
ありがとうございました。
応援♪
相模守高時さんへ
黒田裕樹 > 大津市に住んでいたこともあるので
> 中大兄皇子は親近感がありますが
> 断片的に知っているだけでして
> 勉強になります
有難うございます!
大津市ということは後の近江京ですね。
いずれその話もさせていただきますのでお待ち下さい。
さすらいさんへ
黒田裕樹 大化の改新の話は今回で一段落…ですが、まだ続きがあります。
それは、強力な政権であるがゆえの「弱み」かもしれません。
明日以降から中大兄皇子を取り巻く環境が少しずつ悪化していくことになります。
また是非お越し下さい。
応援有難うございます!
ぴーち こんにちは!
やはり聖徳太子のように優れた人物が達成出来なかった事を後生の者がしっかりと跡を継いで達成してくれた事は、
聖徳太子がもしも知ったら、喜ばしい事だったでしょう。
いや、しかし、聖徳太子の事ですから、先を見越した制度を懸命に推し進める行為はいずれ、誰かに阻まれても
誰かがきっと受け継いでくれると信じていたのかも知れません。墾田永年私財法はこの後ですかね?
それにしても食封とは、結構生々しい言い方ですね^^;
私は、「自棄腐」気味ですがww
それでは、応援です凸
MAHHYA 大化の改新・・・完全に、一定以上の年代の人は、クーデターとしてしか記憶していませんよね…。
ほんと、史観が変わった段階で、大々的に知らせて欲しいものです(>_<)
詳しく、ありがとうございました!
橘 満琳 こんばんわ♪
初めて知ることもたくさんあって、とても勉強になります☆;+:。
分かりやすくて見やすいですー♪
ありがとうございます(*´▽`*)
これからも頑張って下さい!!
ケンシロウ こんにちは。
ご無沙汰しております ペコリ(o_ _)o))
大化の改新・・・記憶がぁ~w
> 新たな租税(そぜい)制度
これは 租・庸・調 ?
やはり記憶があいまいです。 (/・ω・\) ハズカシイ♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり聖徳太子のように優れた人物が達成出来なかった事を後生の者がしっかりと跡を継いで達成してくれた事は、聖徳太子がもしも知ったら、喜ばしい事だったでしょう。
自分ができなかったことを達成してくれたのですから、仰るとおり嬉しさもひとしおだったかもしれませんね。
> 墾田永年私財法はこの後ですかね?
公地公民制を根本から覆してしまった墾田永年私財法は、約100年後に公布されています。その経緯はいずれ説明しますね。
> それにしても食封とは、結構生々しい言い方ですね^^;
> 私は、「自棄腐」気味ですがww
なるほど(笑)。では私は「時期父」で、早く父親になりたいということで…失礼しましたm(_ _)m
応援有難うございます!
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 > 大化の改新・・・完全に、一定以上の年代の人は、クーデターとしてしか記憶していませんよね…。
> ほんと、史観が変わった段階で、大々的に知らせて欲しいものです(>_<)
受験重視の現在の学習法では、それ以上の世代への配慮がなきに等しいですからね。
教える側が「自分さえ良ければいい」とでも思っているのでしょうか…。
> 詳しく、ありがとうございました!
恐縮ですm(_ _)m
また是非ご訪問下さい!
理想に燃えた中大兄皇子でしたが、性急な改革は現実とかけ離れることが多く、伝統を重んじる他の有力者との間には、いつしかすきま風が吹き始めていました。
例えば、中大兄皇子が新たな冠位制度を導入した際に、左大臣の阿部内麻呂と右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が新しい冠の着用を拒否しています。これが遠因となったのか、649年に阿部内麻呂が病死すると、その直後に石川麻呂が朝廷への謀反(むほん)を疑われて自殺に追い込まれました。
また、中大兄皇子は孝徳天皇と不和になり、653年に中大兄皇子が飛鳥へ戻ると、有力な家臣が次々とこれに従い、孝徳天皇は難波の都に取り残されて、翌年には寂しく崩御されました。
中大兄皇子は次の天皇に自らが即位せず、母親の皇極天皇に再び皇位についてもらいました。第37代の斉明天皇(さいめいてんのう)の誕生です。尚、一度退位された天皇が再び即位されることを重祚(ちょうそ)といいます。
こうして中大兄皇子が様々な矛盾を抱えながら政治を実行している間に、東アジアの情勢は風雲急を告げていました。



いつも有難うございます。
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オバrev 中大兄皇子は、現代で言うと小沢一郎のような人物ですね。
やっていることは客観的に見ると正しいんだけど、強引に自分の意見を通そうとするし、自分に反対する人を徹底的に非難してたんじゃないかな。
かといって、彼じゃなければ、この大胆な大化の改新はできなかったでしょう。
でも振り返ると、周りをメチャメチャに壊している。
側にいた人達は大変だったでしょうね。そんな中、中臣鎌足はうまくやっていったんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 中大兄皇子は、現代で言うと小沢一郎のような人物ですね。
> やっていることは客観的に見ると正しいんだけど、強引に自分の意見を通そうとするし、自分に反対する人を徹底的に非難してたんじゃないかな。
> かといって、彼じゃなければ、この大胆な大化の改新はできなかったでしょう。
> でも振り返ると、周りをメチャメチャに壊している。
なるほど…言われてみればそうですね。
改革のために一緒に行動した同志も、反対派に回れば容赦なく滅ぼす…。
石川麻呂なんて、自分の妃の父親なのに。
> 側にいた人達は大変だったでしょうね。そんな中、中臣鎌足はうまくやっていったんでしょうか?
鎌足は同志でもありブレーンでもありましたから、皇子にとって唯一の「頭の上がらない」人物だったようですね。同時に周囲の環境を和ませる能力もあったようです。しかし、鎌足が亡くなった後は…。
報道ギャング 中大兄皇子は小中高と教科書に出ずっぱりですねw
歴史の先生が言ってたんですが、最近は中大兄皇子の読み方が変わったとか(なかのおおえのみこ?)
「おうじ」って長年読んできた自分にとってはちょっと……
ぴーち こんばんは!
何事も性急に物事を推し進めようとすると
そこには色々な障害が出現したりとなかなか
思い通りに行かないものですね。
例え、性急に物事が推し進められたとしても、どこかで
ゆがみが生じ、結果的には全部が破滅してしまうことも
ありますしね。
それでも、雨降って、地固まるという事もあり
最初は様々な問題が降りかかって来て、
危うく計画が崩れてしまうかに見えても、
その事があったお陰で、新たに結束が生まれ物事に邁進していくことが出来たということもあるし・・。
国内ばかりではなく、国外でも気を配って行かなければならず、大変でしたね。中大兄さんも・・。
東アジアの動向が気になりますね・
それでは、第二の人生をお迎えになられた黒田さんに応援凸
報道ギャングさんへ
黒田裕樹 > 中大兄皇子は小中高と教科書に出ずっぱりですねw
古代史を語る際に外せない人物ですし、登場の仕方も派手ですからねぇ(笑)。
> 歴史の先生が言ってたんですが、最近は中大兄皇子の読み方が変わったとか(なかのおおえのみこ?)
> 「おうじ」って長年読んできた自分にとってはちょっと……
聖徳太子の件といい、どうして読み方をあっさりと変えるんでしょうねぇ。
私には「これが新しい読み方だ!」と自分を誇示しているようにしか思えません。
現場の人間のみならず、周囲に混乱を招くだけなのですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何事も性急に物事を推し進めようとすると
> そこには色々な障害が出現したりとなかなか
> 思い通りに行かないものですね。
> 例え、性急に物事が推し進められたとしても、どこかで
> ゆがみが生じ、結果的には全部が破滅してしまうことも
> ありますしね。
思い切った改革というものは、独裁者的な性格がないとなかなか出来ません。
しかし、それゆえに周囲との調和が一苦労なんですよね。聖徳太子のような深慮遠謀やカリスマ性がないと、難しいのではないかと思います。
> それでも、雨降って、地固まるという事もあり
> 最初は様々な問題が降りかかって来て、
> 危うく計画が崩れてしまうかに見えても、
> その事があったお陰で、新たに結束が生まれ物事に邁進していくことが出来たということもあるし・・。
独裁者的な人間であっても、他人の言うことを聞く耳を持てば、いざという時に結束できるもんなんですよね。そういう意味でも、中臣鎌足の存在は大きかったと思います。
> 国内ばかりではなく、国外でも気を配って行かなければならず、大変でしたね。中大兄さんも・・。
> 東アジアの動向が気になりますね・
明日の講座からは、我が国にとって大きな試練が続きます。中大兄皇子の判断が、我が国の運命を決めることになるのですが…。
> それでは、第二の人生をお迎えになられた黒田さんに応援凸
切腹して復活しましたからね(笑)。
(コメントをご覧の皆様へ)
ぴーちさんとの下記の愉快な(?)やりとりが元ネタです。
http://toymomo.blog61.fc2.com/blog-entry-1992.html#comment23884
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ナオ 昭和生まれです。海外に住んで12年日本の歴史について質問されることも多く、高校卒業後20数年を経て 改めて勉強させていただいております。 黒田先生感謝!
さて大化改新における様々な政治の実行について、素朴な疑問ですが 時の天皇ではなく中大兄皇子が中心的な役割を果たしたという文献などの証拠はあるのでしょうか。
ナオさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
中大兄皇子(=天智天皇)を含め、当時の文献は日本書紀などの歴史書を基本として史料が残されています。それ以外にも様々な文献がありますが、信ぴょう度によって差があるようですね。