老いてなお盛んであった蘇我馬子は、聖徳太子という後ろ盾(だて)を失われた推古天皇に対して、かつては蘇我氏の所有地で、その後は皇室が支配していた葛城(かつらぎ、現在の奈良県)の地を返還するように迫(せま)りました。
推古天皇は馬子の無茶な要求に対して、下記のようにきっぱりと拒否されました。
「私は蘇我氏の血を引いていますし、貴方(=馬子)は大臣(おおおみ)で私の叔父でもあります。しかし、だからといって公(おおやけ)の土地を私人(しじん)に過ぎない貴方に譲ってしまっては、後世の人に私が愚かな女だと言われるのみならず、貴方も不忠な人間だと後ろ指を指されますよ」。
こうした高い見識をお持ちであった推古天皇も、628年に75歳で崩御(ほうぎょ)されました。馬子もそれ以前の626年に亡くなっており、政治の実権は馬子の子である蘇我蝦夷(そがのえみし)が握ることになりました。



いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
ここにも「ひとつの時代が終わった」があったのですね。
新しい政権も国民が幸せになればと期待します。
もちろん、現代でも。
今日はお疲れ様でした。
ゆっくりして下さいね。
応援♪
sisi 聖徳太子が49歳の若さの生涯でしたね。つまり、織田信長と同じ年齢で生涯を閉じましたよね。
ぴーち こんばんは!
推古天皇、当時としてはかなりの長命だったようですね。
今日は午前中にご訪問くださいまして、ありがとうございました^^
そして、講座もきっと大盛況だったことでしょう^^
お疲れ様でした!
応援させてくださいね^^
凸
mee; 講座お疲れ様でした。
いかがでしたか?
聖徳太子が亡くなったのは49歳だったんですね
推古天皇は素晴らしい女性だったんですね
推古天皇も蘇我馬子も当時としては随分 長く生きられたのではないですか?
ちょっとびっくりしました
ヒロキ 古代で75歳までなんてかなり長く生きていますね!
生活が充実していたのですかね?
いよいよ蘇我蝦夷の登場ですね!
さすらいさんへ
黒田裕樹 > ここにも「ひとつの時代が終わった」があったのですね。
そうですね。聖徳太子の死に続いて、有力者が数年のうちに全員この世から去ってしまいました。
歴史上ではよくあることですね。
> 新しい政権も国民が幸せになればと期待します。
> もちろん、現代でも。
新しい政権ですが、今回の場合は…。
一方、現代では総選挙の後はどうなるのでしょうか?
> 今日はお疲れ様でした。
> ゆっくりして下さいね。
お気遣い有難うございます!
今日(28日)からまた新たなスタートです。
sisiさんへ
黒田裕樹 > 聖徳太子が49歳の若さの生涯でしたね。つまり、織田信長と同じ年齢で生涯を閉じましたよね。
そうですね。我が国の歴史を激変させた二人が、同じ歳で亡くなっているのは不思議な偶然です。
「人生五十年」を見事に使いきった生涯というべきなのでしょうか。
東洋劇場 おはようございます。
聖徳太子なき後の展開に
興味津々です。
とても分かりやすいお話
ありがとうございます。
ポチ!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 推古天皇、当時としてはかなりの長命だったようですね。
当時の寿命を考えれば、75歳は長い方ですね。
摂生をされて、かつ流行病の影響を受けなかったことで、天寿を全うできたのかもしれません。
> 今日は午前中にご訪問くださいまして、ありがとうございました^^
> そして、講座もきっと大盛況だったことでしょう^^
> お疲れ様でした!
時間がなかったので、コメントなしでポチだけさせていただきました。
今日からはまたゆっくりと拝見したいと思います。
別記事に書きましたが、講座も6名の皆様に参加いただき、成功裏に終わりました。
有難いことと感謝しております。
応援有難うございます!
mee;さんへ
黒田裕樹 > 講座お疲れ様でした。
> いかがでしたか?
有難うございます。
お蔭様で6名の皆様に参加をいただき、無事に終了しました。
当日の内容は順次公開していきます。
> 聖徳太子が亡くなったのは49歳だったんですね
そうです。当時の寿命からすれば長い方なのか、それとも短い方なのか、意見が分かれるところだと思います。個人的には、今後の展開を考えれば「もっと長生きして欲しかった」ですね。
> 推古天皇は素晴らしい女性だったんですね
年齢を重ね、また後ろ盾を失くしても毅然とした態度をおとりになるあたり、さすがは最初の女性天皇という感じがします。
> 推古天皇も蘇我馬子も当時としては随分 長く生きられたのではないですか?
> ちょっとびっくりしました
蘇我馬子の生年は不詳ですが、推古天皇よりは早く生まれたと思われますので、やはり長寿ですね。
馬子の場合は、「政権への執着」が長生きさせたのかもしれませんね。天然痘にかかっても乗り越えたほどの生命力の持ち主ですから。
舒明天皇の時代の大きな出来事といえば、初めての遣唐使(けんとうし)が送られたことが挙げられます。久しぶりに大陸の統一を果たした隋でしたが、無謀な外征(がいせい)や内政の混乱もあって、建国後わずか30年足らずで滅亡しました。そして618年に、李淵(りえん)が隋にかわって大陸を統一し、唐(とう)を建国したのです。
我が国は、隋と同じように唐に対しても文化の交流をはかるべく、630年に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを初めての遣唐使として送ったのでした。遣唐使はその後も続きますが、ある出来事をきっかけに一時期中断しています。
さて、舒明天皇は641年に崩御されました。一代待たされた山背大兄王は、今度こそ自分が天皇になると思っていましたが、かないませんでした。この頃、政治の実権は蝦夷の息子(=馬子の孫)である蘇我入鹿(そがのいるか)に移っており、蘇我氏の勢力は、皇室をしのぐほどに強大になっていたのです。



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海豚 歴史講座、お疲れ様でした。
あ、「いるか」じゃないですかー(ぇ
漢字は違くとも親近感が・・・←
ヒロキ あぁー(>_<)山背大兄王は殺されてしまうんですよね。。。
やはり「聖徳太子の子供」だというのも大きいんでしょうかね^^;
海豚さんへ
黒田裕樹 > 歴史講座、お疲れ様でした。
有難うございます!(^_^)v
当面はないでしょうけど、いつの日か海豚さんの地方でも講座ができたら良いんですけどね。
> あ、「いるか」じゃないですかー(ぇ
> 漢字は違くとも親近感が・・・←
…え~と、親近感がわくのも無理はないと思うのですが、明日以降の蘇我入鹿のやることは…。
ショックを受けなければいいんですけど…。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > あぁー(>_<)山背大兄王は殺されてしまうんですよね。。。
> やはり「聖徳太子の子供」だというのも大きいんでしょうかね^^;
そのとおりです。優秀な人物でも、実力がないと…。
明日はかなり「ウツ」な記事になりそうです…。
さすらい こんばんは。
昨日はお疲れ様でした。
御盛況に終わられたようで
おめでとうございました。
次回も応援しております。
さて時代はさかのぼり
何やらキナ臭い感じが。。。(笑)
新政権に期待しますが。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 > 昨日はお疲れ様でした。
> 御盛況に終わられたようで
> おめでとうございました。
> 次回も応援しております。
有難うございます。お蔭様で好評で今回も終えることができました。
次回も頑張ります!
> さて時代はさかのぼり
> 何やらキナ臭い感じが。。。(笑)
> 新政権に期待しますが。
そう、きな臭い雰囲気が…。
新政権よりも、「その後の新政権」に期待した方がいいかもしれません。
今回も応援、有難うございます!
ぴーち こんばんは!
隋はわずか30年足らずで滅びてしまったんですか?
まさに「栄枯盛衰」ですね~。。
遣唐使は何が原因で、中断してしまったのでしょうか・・
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 隋はわずか30年足らずで滅びてしまったんですか?
> まさに「栄枯盛衰」ですね~。。
力で制圧しても、それだけでは長続きしないんですよね。
日本史にも似たような出来事があります。
> 遣唐使は何が原因で、中断してしまったのでしょうか・・
いずれこの講座で紹介しますよ。
おそらく「え!? そんな理由なの?」と思われるかと…。
応援有難うございます!
意外とも言えるこの結末は、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)にしてみれば、今度こそ自分が天皇になると思っていただけに、納得できないものとなりました。
皇極天皇を後継にしたのは、実力者の蘇我入鹿(そがのいるか)でした。入鹿は、自分の意のままになる天皇を選び、政治の実権を我が手に握ろうとしていました。そのためには、優秀な山背大兄王の存在が邪魔だったのです。
643年、父親である蘇我蝦夷(そがのえみし)から大臣(おおおみ)の地位を独断で譲られた入鹿は、返す刀で山背大兄王を攻め立てました。追いつめられた山背大兄王は、一族全員が首をくくって自殺するという非業(ひごう)の最期をとげました。ここに聖徳太子の血は断絶してしまったのです。
あまりの凶事(きょうじ)に、さすがの蝦夷も激怒しましたが、入鹿にとってはどこ吹く風で、新しく建てた自分の家を「宮門」(みかど)と名付けたり、自分の息子を「皇子」と呼ばせたりしました。まさにやりたい放題です。
そんな入鹿に対して、「何とかしなければ」という思いをめぐらす二人の人影がありました。
彼らは一体誰なのでしょうか―。



いつも有難うございます。
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相模守高時 こんにちは。
当方のBLOGにお越しいただきありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします
しかし。。。聖徳太子亡き後の蘇我氏は、源頼朝亡き後の北条氏みたいですw
いよいよ中大兄ちゃんと鎌ちゃんの登場ですか?
sisi ブログ村投票しましたよ。
皇極天皇のまたの名前を斉明天皇と呼びますね。
女性の天皇の活躍が目立ちますね。
そこで、私が描いた皇極天皇http://rekisimizugi.at.webry.info/200903/article_100.htmlと独身女性天皇の元正天皇http://rekisimizugi.at.webry.info/200806/article_48.htmlの似顔絵があります。
こんばんは^^
星月 冬灯 先生、来ました^^
ここで、その二人の名を明かしたら面白く
なくなっちゃいますね。なので、沈黙しています^^
ここが教室なら、大いに手を挙げていた所です(笑)
思うのですが。蝦夷は知らなかったのでしょうかね。
なんだか、一番の黒幕はどうしても蝦夷のような
気がしてしまうのですが。
山背皇子は本当にかわいそうな生涯ですよね。
しかも、一族みなとも。唯一残ったのが太子だけと
いうのも因果を感じます。
今日の授業も面白かったです。では♪
こみー 大化の改新・・・でしょうか?
この辺は高校入試前に詰め込んだ知識の一部・・・かな?
一族全員が首をくくって自殺・・・ですか。
もの凄く追い込まれたんでしょうね。。。
そして今聖徳太子の血を引く者はいないんですね。
少し残念な気がします。(´・ω・`)
えめる いやわたし、日本史わからないので、
答えられないんですけど、次回がとっても楽しみです。
誰でしょうね、勧善懲悪ドラマみたいです。ワクワクです。
相模守高時さんへ
黒田裕樹 > 当方のBLOGにお越しいただきありがとうございます。
> 今後ともよろしくお願いします
こちらこそ宜しくお願いします。
相模守高時さんのブログも、物語的で分かりやすいと思います。
> しかし。。。聖徳太子亡き後の蘇我氏は、源頼朝亡き後の北条氏みたいですw
> いよいよ中大兄ちゃんと鎌ちゃんの登場ですか?
確かに北条氏に似ていますね。
ただ、執権政治のように長続きは…。優秀な人材がいましたからね。
sisiさんへ
黒田裕樹 > ブログ村投票しましたよ。
いつも有難うございます!
> 皇極天皇のまたの名前を斉明天皇と呼びますね。
> 女性の天皇の活躍が目立ちますね。
そうですね。これから約130年の間に次々と即位されますからね。
中には皇極=斉明天皇のように、2度即位された方もおられますが。
> そこで、私が描いた皇極天皇http://rekisimizugi.at.webry.info/200903/article_100.htmlと独身女性天皇の元正天皇http://rekisimizugi.at.webry.info/200806/article_48.htmlの似顔絵があります。
拝見しました。いつもながらの独創的な楽しい絵画ですね。
ご紹介下さって有難うございます!
星月冬灯さんへ
黒田裕樹 > 先生、来ました^^
ようこそお越し下さいましたm(_ _)m
> ここで、その二人の名を明かしたら面白く
> なくなっちゃいますね。なので、沈黙しています^^
> ここが教室なら、大いに手を挙げていた所です(笑)
ご配慮、感謝します。授業で手を挙げて下さるのは大歓迎です(^_^)v
> 思うのですが。蝦夷は知らなかったのでしょうかね。
> なんだか、一番の黒幕はどうしても蝦夷のような
> 気がしてしまうのですが。
なるほど。記紀では蝦夷は聖徳太子の人柄を知っており、太子の一族を滅ぼしたら蘇我氏に災厄が及ぶと思っていたらしく、入鹿の出すぎた行動に激怒したらしいですね。でも、蝦夷が裏で糸を引いていたというのも十分考えられますね。
> 今日の授業も面白かったです。では♪
またのお越しをお待ちしております(^^♪
ヒロキ 中大兄皇子と
蘇我倉山田石川麻呂はいつ頃から出てくるんですかね!?^^;
優秀な人物が殺されてしまうのは何とも悲しいことですよね。。。
こみーさんへ
黒田裕樹 > 大化の改新・・・でしょうか?
> この辺は高校入試前に詰め込んだ知識の一部・・・かな?
さぁ、どうでしょうか?(笑)
続きを楽しみにお待ち下さい(と、言っても明日からしばらく休みますが…)。
> 一族全員が首をくくって自殺・・・ですか。
> もの凄く追い込まれたんでしょうね。。。
追いつめられて、殺されるくらいなら、と一族全員で自決したんでしょうね。一説によると20人を超えていたとか。現場は凄まじかったでしょうねぇ…。合掌。
> そして今聖徳太子の血を引く者はいないんですね。
> 少し残念な気がします。(´・ω・`)
惜しいですよね。聖徳太子の系統がもう少し続いていたら、世の中はもっと変わっていたかもしれません。