さて、この当時は以前に紹介したように、朝廷が屯倉(みやけ)、豪族が田荘(たどころ)と呼ばれる土地や、同じく朝廷が田部(たべ)や名代(なしろ)・子代(こしろ)、豪族が部曲(かきべ)と呼ばれる人民を所有していました。
これらの制度がうまく機能していた時代はまだ良かったのですが、聖徳太子が摂政になった頃には、蘇我氏の支配地が朝廷をおびやかすほどに大きくなっており、政治上のバランスが不安定になっていました。
このまま放っておけば、蘇我氏の勢力が朝廷を大きく上回ることで両者に争いが起こって、罪もない人民が迷惑するばかりでなく、国内の動乱が隋(ずい)などの諸外国の介入を招いて、亡国の危機にもなりかねないという、非常に困った事態になるおそれがありました。
聖徳太子は、これらの政治情勢の不安を打開するには、朝廷がすべての土地や人民を所有するという、いわゆる「公地公民制」(こうちこうみんせい)を目指すという思い切った改革しかない、と考えていました。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
tycoont はじめまして!タイクーンと申します。
毎回ブログ拝見させていただいております。
勢力を増長させる蘇我氏と蘇我氏の血を引きながら
推古天皇を輔弼する立場に立っていた聖徳太子は両者のパワーバランスを保つのに大変だったしょうね!
また、次回も楽しみ読ませていただきます。
あと、私のブログにリンク貼らせてもらっても
い~ですか?
さすらい こんにちは。
試行錯誤の時ですね。
もし聖徳太子が不在ということになれば
これも誰か別な者の政策なんでしょうが
続きのお話を楽しみにしています。
応援♪
tycoontさんへ
黒田裕樹 はじめまして。当ブログへのご訪問&コメント有難うございます。
仰るとおり、朝廷と蘇我氏とのパワーバランスを保つのは至難の業でした。
このバランスを崩すことなく、さらに蘇我氏の力を削ぐという離れ業をやってのけたのが聖徳太子でした。
聖徳太子の内政といえば有名なのがいくつかありますが、それらが行われた経緯にも注目していきたいと思います。
リンクの件、有難うございます。こちらこそ宜しくお願いします\(^o^)/
さすらいさんへ
黒田裕樹 そう、試練の日々です(^^ゞ
聖徳太子でなかったら、バランスを保ちながら改革ができたでしょうか?
「もしも」の世界を想定しながら歴史を学ぶのも、醍醐味のひとつですね。
応援有難うございます(^o^)/
やり手やね~
オバrev 聖徳太子は公地公民も目指していたんですか。
17条憲法や、冠位十二階や、遣隋使など、
ものすごい改革ですよね。
抵抗勢力である蘇我氏の反発はかなりあったんじゃないでしょうか?
相当なやり手ですね オオーw(*゚o゚*)wスゲー
ヒロキ なるほど!公地公民はこの頃から考えられてたのですね!!
そして乙巳の変で蘇我氏を殺害して、改新の詔で公地公民に踏み切ったわけですね。
しかし聖徳太子の力では馬子の力を抑えることはできなかったのですね(>_<)
ぴーち こんばんは!
いつの世でも、内政干渉というのは
ついて回るものなんでしょうかね・・。
今でも、日本が靖国参拝すれば、
東アジア諸国は、蜂の巣つついた騒ぎ
ですものね。。
話は変わりますが、
聖徳太子の頃は
今の日本の人口よりもはるかに少なかったでしょうから、
そういう意味ではまだまだ政治がし易く、まとまりは良かったと思うんですが、これはあくまで私の推測ですが、いかがなものでしょうか・・。
それでは応援です凸
ミュウタント 歴史的に見ても、聖徳太子の実在は疑わしいという見方が大勢を占めてきています。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、聖徳太子が行おうとした改革は蘇我氏にとっては大問題でしたから、そのまま実行しては反発が必至でした。
したがって、究極の理想である「公地公民制」は胸に秘め、いわゆる「からめ手」から、少しずつ蘇我氏の権力を奪っていく作戦を取ったのです。
その作戦とは…具体的にはこの講座で紹介していきますね(^^♪
聖徳太子がいかに「相当なやり手」だったかがご理解いただけるものと思っております。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 公地公民制が実現したのは大化の改新のときですが、いきなり実現できた訳ではなく、その過程に至るまでに様々なステップがありました。
聖徳太子が摂政になった頃の蘇我氏の権力は強大でしたので、その段階で蘇我氏を抑えるのは不可能でした。そこで、ステップを踏んで段階的に蘇我氏の力を弱める作戦に切り替えたのです。
そこで、聖徳太子は公地公民制という究極(きゅうきょく)の目標の実現のために、長い時間をかけて豪族や人民の立場や意識を改革していくという作戦に出ました。603年に制定された冠位十二階(かんいじゅうにかい)もその例です。
冠位十二階は、朝廷に仕える人々に対する新しい身分秩序でした。まずは階級として徳(とく)・仁(にん)・礼(らい)・信(しん)・義(ぎ)・智(ち)という6つを定め、さらに大と小とに分割することで、12段階の区別をつけました。また、それぞれの階級で、冠(かんむり)の色を以下のとおりに分けました。
大徳(だいとく、濃い紫)・小徳(しょうとく、薄い紫)・大仁(だいにん、濃い青)・小仁(しょうにん、薄い青)・大礼(だいらい、濃い赤)・小礼(しょうらい、薄い赤)・大信(だいしん、濃い黄)・小信(しょうしん、薄い黄)・大義(だいぎ、濃い白)・小義(しょうぎ・薄い白)・大智(だいち、濃い黒)・小智(しょうち、薄い黒)



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
bunyan 黒田さんこんにちは~
留守中のコメントありがとうございました。
おかげさまで無事に退院してまいりました(*^_^*)
ご心配をいただきありがとうございます。
明日からまた記事を書き始めますのでよろしくね♪
ぴーち こんばんは!
冠位十二階は、歴史に疎い私も習った覚えがあります^^
それにしても、黒田さんのカラフルな文字が更に分かりやすくて、親切さが滲み出ていますね^^
それとあろうことか、この十二階を拝見させていただいて
「南総里見八犬伝」の8つ玉に刻まれた文字を
思い出してしまいました(^^A
それでは、応援させてくださいね^^
ヒロキ 確か、冠位十二階では蘇我氏には授与外でしたよね^^
投票しました
sisi ブログ村投票しましたよ、2位浮上すごいね。
冠位十二階も、しっかり分けていますよね。
bunyanさんへ
黒田裕樹 お帰りなさい!
お元気そうで何よりです。
またお互いのブログを行き来できる日々を送ることができるのを嬉しく思います(^o^)丿
ぴーちさんへ
黒田裕樹 せっかくの天然色ですから、12の階級を色分けさせていただいたんですよ。
「濃い白」と「薄い白」の区別が大変でしたけど…(^^ゞ
「南総里見八犬伝」ですか!
その発想はなかったですね(^^♪
応援有難うございます!(^o^)丿
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 確か、冠位十二階では蘇我氏には授与外でしたよね^^
そのとおりです!
明日にでも詳しく書きますので宜しくお願いします。
「ヒロキ」同士のせいか、以心伝心が多いですね(^^ゞ
sisiさんへ
黒田裕樹 > ブログ村投票しましたよ、2位浮上すごいね。
いつも有難うございます。応援してくださる皆様のおかげです。
感謝の気持ちも込めて、より良い内容のブログを目指していきたいですね。
> 冠位十二階も、しっかり分けていますよね。
フルカラー(?)のブログですから、特性を思いっきり活かさせてもらいました(笑)。
お褒めに預かり光栄です。
その一方で、蘇我氏は冠位の例外とされていました。おそらくは従来どおりの大臣(おおおみ)として、冠位をもらう側よりも授(さず)ける立場にあったからと考えられています。さすがの聖徳太子も、蘇我氏の立場にまで踏み込んで改革することはできなかったのでした。
しかし、曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことにより、冠位を授ける立場の朝廷の権力は向上し、相対的に蘇我氏の権力が後退する遠因(えんいん)をつくったことにもなったのです。
尚、冠位十二階によって大礼(だいらい、濃い赤の冠)の地位にいたある男性が、後に外交における活躍が認められて、最高位の大徳(だいとく、濃い紫の冠)にまで出世した事実が伝えられています。
その男性の名は、小野妹子(おののいもこ)と呼ばれています。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
さすらい こんにちは。
小野妹子は有名ですね。
何となくすぐ覚えられました(笑)
この制度によって
蘇我氏の権力が後退ですか。
歴史の流れがあったのでしょうね。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 今回のように、きっかけがあれば覚えやすいんですよね。無理に暗記するから残らなくなります。
蘇我氏の権力は突然になくなったわけではなく、何らかのかたちで、大なり小なりの影響があったと考えられます。冠位十二階の制度も、後から考えれば、ボディーブローのように効いているんですよね。
まるで初代のロッキーのように(笑)。
いつも有難うございます(^o^)/
わあ、コメント消してもうた!
h.hamauzu こんにちは!
コメントを書いていたのですが、うっかり消してしまいました。
小野妹子が聖徳太子の制度によって取り立てられたんですね、とか、私は紫が好きです・・・とか、
つまらないことですがw
12色のユニフォーム
tycoont 黒田裕樹さん、こんにちは!
聖徳太子は蘇我氏を冠位の例外としながらも、
(上に祭り上げておきながら)「冠位十二階位」
という別の階級をつくり、蘇我氏をはじめとする、
旧勢力に対抗しうる人材・勢力が出世できる
新たなルートをつくったんですね

しかも、十二の色に分かれているから、
位が明確かつ客観的ですね

(なんとも、心憎い!聖徳太子の苦心の程が
伺えます

h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 > コメントを書いていたのですが、うっかり消してしまいました。
私もたまにやってしまいます(>_<)
一度消されてしまったにもかかわらず、再度コメントを書いて下さって有難いです。
> 小野妹子が聖徳太子の制度によって取り立てられたんですね、とか、私は紫が好きです・・・とか、
小野妹子は聖徳太子のお陰で出世したといっても過言ではないですね。もっとも、そこまでの実力があればこそでもありますが(いずれ講座で紹介します)。
紫は古来より高貴な色とされていますからね。紫色の法衣(ほうい)や袈裟(けさ)は高僧が朝廷より賜(たまわ)りますし、大相撲でも紫の化粧回しは大関以上に許されています。
私は…歳を重ねてからは名前に合わせて(?)黒が好みですね(笑)。
tycoontさんへ
黒田裕樹 こんばんは!
お言葉、まさに我が意を得たりの思いです。
ひとつの政策が行われる背景には、必ずといっていいほど隠された理由があります。その理由を知らずして歴史を学んだり、語ったりしても意味がありません。
昨今の歴史教育に最も欠けている点だと思います。
bunyan こんばんは~
黒田さんの講座を見てると、学生時代を思い出して懐かしくなります。
お返しのポチ&拍手しておきますね。
27日の歴史講座の成功を祈ってますσ(゚ー^*)
ぴーち こんばんは!いつも応援ありがとうございます^^
現代の政治家も、世襲制重視せずに
この時代のように、民間からの実力や才能のあるものを
どんどん登用して行って欲しいと思いますね。
それと・・この「冠位十二階」のように
冠の色分けで階級が一目で分かる方法というのは、柔道などの競技にも応用されているんでしょうか?
なんて、ちょっと思ってしまいました^^;
それでは、応援です凸
歴史の醍醐味
tycoont お褒めの言葉有難うございます

後世の人間は歴史の結末を知っていますからね

黒田裕樹さんが仰るように、
「なぜ、このような政策が必要っだのか?」
と考えることこそが、歴史を学ぶ醍醐味だと思います

凄いぞ聖徳太子
オバrev なるほど、蘇我氏に冠位を授けるとなると蘇我氏よりも上ということになるから、あなたは特別だから冠位十二階の位は授けませんよ、とでも言われたら、確かに自分が下と認めるわけにいかないから、聖徳太子の企みが分かっていても認めざるを得ない。
そして、人事権を握って自分が抜擢してきた優秀な若者をどんどん増やし、蘇我氏の影響力を消していったんだろうな。
蘇我氏も地団駄踏んで悔しがったことでしょう。当然殺害も企てたと思うのですが、どうなんでしょうか。
というよりも、聖徳太子は表で大義名分を述べながら、裏でも色々手を回していたかもしれん。
凄いぞ、聖徳太子!
そしてその中から出てきたのが小野妹子ですか。
でも初の遣隋使ってことしか知りません。
こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法(せいぶんほう)であり、後年の法典(ほうてん)の編さんにも大きな影響を与えたとされる、604年に制定された憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)でした。
憲法十七条は文字どおり17の条文に分かれていますが、このうち最も有名なのは、第1条の「和(わ、または「やわらぎ」)を以(も)って貴(とうと、または「たっと」)しとなし…」の部分ですね。
これは「和の尊重が我が国にとって何よりも大事であり、みだりに争いを起こさないようにしなければならない」という意味です。似た内容の条文が最後の第17条にもあり、こちらは「物事の判断は一人では行わず、皆で話し合って決めなさい」と説(と)いています。
この「和」や「話し合い」を重要視する姿勢は、現代に生きる我々にもつながっていると思いませんか?



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev 17条憲法は、日本最初の憲法ですね。
ということは、ゼロから作ったわけで、それは大変だったろうと思います。
大日本国憲法は、確かドイツのワイマール憲法を元に作ったけど、この17条憲法は、何か元になるものがあったんでしょうか?
さすらい こんばんは。
そうですよね。
和の発想は古来よりなんですね。
我が国の誇りの姿勢
ぜひとも受け継いでいきたいものです。
応援♪
智里 十七条憲法の有名な部分ってみんな知ってるけど、他の文章って知ってる人っているの?
日本最初の憲法なのに、十七条のうち1条も知らないのって問題あるよね。
この質問を中学と高校の社会の先生にしたら逆切れされて、むっちゃ怒られたさ(_≧Д≦)ノ彡バンバン☆
最近はネットで調べられるけど、20年も前の先生方は知らなかったんだろうね。
黒田さんは全部知ってました?
bunyan こんばんは~
昨日拍手ボタンを押そうと思ったら、どこにもないので焦りました(´∵`)
黒田さんはボタンを貼ってないんですね。
ではランキングを余計に押していきますヽ(*’-^*)。
オバrevさんへ
黒田裕樹 憲法十七条は、我が国のしきたりと諸外国の思想の「合作」と言えるでしょう。
我が国のしきたりは第1条や第17条にあるような「和の尊重」や「話し合いの重視」ですね。
諸外国の思想は…明日の講座で紹介しますね(^^♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、604年の段階で聖徳太子は我が国のしきたりをしっかりと把握していたのです。
私たちもしっかりと受け継いでいきたいですね。
それにしても、調べれば調べるほど聖徳太子の凄さには舌を巻く思いがします。
応援ありがとうございます!
ぴーち こんばんは!
十七条憲法のお話ですね!
第一条の「和を以って貴としとなし・・」
なるほど、現在の日本国憲法の九条にも通じる原点を見たように感じました。
九条は最近、再び議論がありましたが、九条無くしては
日本の平和は成り立たないと信じております。
話が脱線してしまい、恐縮です^^;
和、対話は必要不可欠ですよね!
北朝鮮にも教えて差し上げたいです。。
それでは、応援させてください^^
また、お邪魔します♪
智里さんへ
黒田裕樹 > 十七条憲法の有名な部分ってみんな知ってるけど、他の文章って知ってる人っているの?
先生が「本当の歴史好き」か、単なる「受験のための歴史」かどうかで答えが異なりますね。
逆切れした先生は後者ではないでしょうか。「受験に関係ないことを聞くな!」とか(笑)。
> 黒田さんは全部知ってました?
…厳しいご質問ですね(^^ゞ
条文の丸暗記はさすがにできませんが、内容はほとんど頭に入っている
明日の更新で他の条文についても紹介しますので、またご感想をお聞かせくださいね(^o^)丿
bunyanさんへ
黒田裕樹 拍手は有難いんですが、コメ返に集中したいのであえて設けておりません。
焦らせてしまって恐縮ですm(_ _)m
ランキングへのご協力、いつも有難うございます!\(^o^)/
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのブログで熱く語ってしまった黒田です(^^ゞ
「和の尊重」や「話し合い重視」は、我が国のしきたりともいうべき歴史があります。我が国においては立派に通用しますが、しきたりの異なる他国にまで適用できるか、という点が今後のカギを握りそうですね。
また是非お越し下さい\(^o^)/
例えば、第2条では「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え」として、仏教への信仰を説いています。尚、三宝とは仏・法理(ほうり)・僧侶(そうりょ)のことで、仏教の三つの宝物(ほうもつ)とされています。
また、第3条で「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説くなど、儒教(じゅきょう)の道徳思想に基づく心がまえを示している条文もいくつか存在しており、中には第8条のように「役人は朝早く出仕して、遅くなってから退出しなさい」という細かいものまであります。
憲法十七条は、役人として政務をとる者に対して、和の尊重だけでなく、仏教への信仰や、天皇への忠誠など、様々な心がまえを説き、自覚をうながす内容となっています。
それは、国内での無益な争いを避(さ)けるために天皇や朝廷に忠誠を誓わせたり、役人が暴走しないように仏教や儒教の思想で朝廷に従わせたりするという、聖徳太子が蘇我氏などの豪族に対して巧妙(こうみょう)に仕掛けた作戦でした。
「蘇我氏の思うままにはさせない」という聖徳太子の執念が見え隠れしますね。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
さすらい なるほど、聖徳太子のうまさですね。
蘇我氏は改めて自分のもくろみが外れたと
思っていることでしょう。
聖徳太子の執念に勝てなかった。。。
歴史ですねえ。
応援♪
蘇我氏、身動きとれず
オバrev さすがですね。
憲法に天皇への忠誠や役人の心得を書いてしまえば、それに従わざるを得ないし、それを破れば憲法違反として捕らえることもできますね。
これじゃあ蘇我氏もどうすることもできませんね。
聖徳太子は、おそらく摂政になる前から練りに練っていたんじゃないかな?
ヒロキ さすがは聖徳太子ですね!!
役人の心構えというものを示すことで、
蘇我氏の動きも抑えようとしてたんですね♪
智里 曽我氏の思い通り出来なくさせるなんて、やっぱ聖徳太子だよね~(≧∇≦)b
この頃には大陸から儒教が伝わっていたんですね。
孔子も、日本の最初の憲法にかかわってると知ったらビックリするんじゃないかな。
法と冠位
tycoont 黒田裕樹さん、こんにちは

聖徳太子は「冠位十二階」で蘇我氏以外の
者が出世できるルートを作る一方、
憲法十七条では、蘇我氏の独走を法という縛りで
制限したんですね

「和の尊重」とは一見聞こえは良いですが、
裏を返せば、「蘇我氏だけで勝手に行うな、
他のものにも同意を得てから行え」
ということですからね

さすらいさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、蘇我氏の目論見を見事なまでに打ち砕いた聖徳太子の手腕は素晴らしいものがあると思います。政治家には「執念深さ」も必要なのかもしれませんね。
いつも有難うございます!
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 憲法に天皇への忠誠や役人の心得を書いてしまえば、それに従わざるを得ないし、それを破れば憲法違反として捕らえることもできますね。
> これじゃあ蘇我氏もどうすることもできませんね。
そうなんですよね。中国並みの律令国家をつくろうと思えば、憲法が絶対に必要、とでも蘇我氏をなだめすかして成立させて、いざフタを開けたら蘇我氏にとっては「トンデモナイ」やつだった…。でも逆らえない。ホンマにうまいなぁ、聖徳太子は(^_^)v
> 聖徳太子は、おそらく摂政になる前から練りに練っていたんじゃないかな?
天皇陛下を暗殺するような蘇我氏の横暴さには、皇族の一員として許せなかったとも考えられますから、機会があれば蘇我氏をギャフンといわせてやるぞと牙を研いでいた可能性は確かにありそうですね。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 役人の心構えというものを示すことで、
> 蘇我氏の動きも抑えようとしてたんですね♪
仰るとおり、さすがは聖徳太子だと思います。
蘇我氏も(現実はどうあれ)立場上は一役人ですから、こんな憲法をつくられたら黙って従わざるを得ませんからね(^o^)丿
智里さんへ
黒田裕樹 > 曽我氏の思い通り出来なくさせるなんて、やっぱ聖徳太子だよね~(≧∇≦)b
そのとおりです。アンチ蘇我氏の智里さんにも喜んでいただける事実ですね。
> この頃には大陸から儒教が伝わっていたんですね。
> 孔子も、日本の最初の憲法にかかわってると知ったらビックリするんじゃないかな。
そうですよね。孔子の思想が海を越えて他の国にも及んで、現代にも生かされているのですから、孔子はやはり偉大ですね。
tycoontさんへ
黒田裕樹 > 憲法十七条では、蘇我氏の独走を法という縛りで
> 制限したんですね

当時は法治国家になることが一流国の証でもありますから、蘇我氏は当然憲法十七条に反対できない訳ですし、蘇我氏の立場を追い込んだ上で、憲法を認めざるを得ない方向へ持っていった聖徳太子の手腕をほめるべきですね。
> 「和の尊重」とは一見聞こえは良いですが、
> 裏を返せば、「蘇我氏だけで勝手に行うな、
> 他のものにも同意を得てから行え」
> ということですからね

私の申し上げたかったことを仰っていただいて有難うございます!
そのとおりでして、聖徳太子は「和の尊重」という昔からのしきたりを逆手に取ったんですね。鮮やかです(^o^)丿
聖徳太子はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続きました。思い余った聖徳太子は、仏教の四天王に対して勝利を祈願し、「戦闘に勝てば四天王のためのお寺を必ずつくる」と誓いを立てました。
すると、味方の放った矢が物部守屋に命中して、大将を失った物部軍は総崩(そうくず)れとなって敗退しました。
それから6年後の593年、第33代の推古天皇の摂政となった聖徳太子は、約束どおり摂津(現在の大阪府)の地に四天王をまつる寺の造営を始めました。これが現在も大阪市天王寺区に残る四天王寺(してんのうじ)のルーツとされています。
尚、大阪の街で「梅田」(うめだ)「難波」(なんば)と並んで有名な「天王寺」(てんのうじ)は、四天王寺の略称(りゃくしょう)がそのまま地名となったものです。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
さすらい こんにちは。
歴史のルーツをたどるのは面白いですよね。
四天が一同に集まる寺の建立ですから凄いものです。
改めて聖徳太子の手腕に脱帽。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 そうですね。
今から1400年以上も昔の出来事が記録されていて、四天王をまつる寺院のルーツが残されているのは素晴らしいと思います。
聖徳太子が凄いのは、まだ話がこれで終わらないことですね。
応援有難うございます!
ヒロキ 物部守屋と蘇我馬子の争いに聖徳太子が参戦していたんですか!?
言われてみれば、信仰してる聖徳太子からしてみれば反対派の物部氏は敵ですよね。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 物部守屋と蘇我馬子の争いに聖徳太子が参戦していたんですか!?
そのとおりでして、太子がまだ14歳の少年時代の話です。若い頃の命懸けの経験が、その後の政策に何らかの影響を与えたかもしれませんね。
> 言われてみれば、信仰してる聖徳太子からしてみれば反対派の物部氏は敵ですよね。
仏教が禁止されれば、聖徳太子にとっては心の支えを失ったも同然でしょうから、やはり敵だったでしょうね。「和の尊重」も、信仰の自由があればこそかもしれません。
ぴーち >味方の放った矢が物部守屋に命中して、大将を失った物部軍は総崩(そうくず)れとなって敗退しました。
何故か、人の運命って
そんな馬鹿な・・と思うような事態で終息する場合が
ありますよね。さぞや、無念だった事でしょう。。(特に物部氏の味方ではありません)
それにしても、聖徳太子の「有言実行」型の性格は
留まる所を知らないようですね。
素晴らしいです^^
下のお返事の件。
黒田さんのような方に好かれた女性は幸せですねェ~^^
羨ましいです^^
それでは応援です!凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何故か、人の運命って
> そんな馬鹿な・・と思うような事態で終息する場合が
> ありますよね。さぞや、無念だった事でしょう。。(特に物部氏の味方ではありません)
人間の力ではどうすることもできない偶然や必然が、この世にはあると考えます。だからこそ、与えられた天寿を全うしたいと常々思っております。
> それにしても、聖徳太子の「有言実行」型の性格は
> 留まる所を知らないようですね。
> 素晴らしいです^^
そうですね。しかし、まだ「内政」の話しかしておりません。近日中に始まる予定の「外交」で、聖徳太子の本当の「恐ろしいほどの凄さ」を実感していただきたいと思います。
> 下のお返事の件。
> 黒田さんのような方に好かれた女性は幸せですねェ~^^
> 羨ましいです^^
またしても過分なお言葉を頂戴しまして…(^^ゞ
誠に残念ながら、「好いた」ことはいくらでもありますが、「不器用」ゆえか面前で「好かれた」ことはほとんど記憶にありません。普段の「エンターテイメント」ぶりが足を引っ張っているのかもしれませんね。
毎度の応援、有難うございます!
お寺と歴史
オバrev 一昨年、職場の旅行で京都へ行って、ガイドタクシーに乗ってお寺を回ったことがありましたが、色んな所で歴史上の人物と出会いました。
歴史を見ていく上でお寺ってのは貴重ですね。四天王寺には聖徳太子の資料のようなものは何かあるんですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 一昨年、職場の旅行で京都へ行って、ガイドタクシーに乗ってお寺を回ったことがありましたが、色んな所で歴史上の人物と出会いました。
京都にも聖徳太子と関係が深いとされるお寺がありますよ。帰化人出身の秦氏(はたし)が、聖徳太子から賜(たまわ)った仏像を安置するために建てたとされる広隆寺(こうりゅうじ)が、東映の映画村でも有名な太秦(うずまさ)にあります。
> 歴史を見ていく上でお寺ってのは貴重ですね。四天王寺には聖徳太子の資料のようなものは何かあるんですか?
残念ながら、度重なる火災もあって「聖徳太子に直接関係する資料」は残存していないようです。ただ、四天王寺の伽藍(がらん)配置は、当時の大陸の影響を強く受けております。
中でも607年に斑鳩(いかるが、現在の奈良県)の地に建てられた法隆寺(ほうりゅうじ)は、聖徳太子自身が建立(こんりゅう)したことで有名です。法隆寺は7世紀後半に一度火事で消失しましたがその後再建され、寺院の一部は世界最古の木造建築として残っており、寺自体も世界遺産に登録されています。
尚、法隆寺は建てられた地名から、別名を「斑鳩寺」(いかるがでら)といいます。ちなみに、JRの線路(=関西本線)によって(四)天王寺駅と法隆寺駅がつながっているのは面白い偶然ですね。両駅間は直通の快速で約21~24分で行けます。
また、聖徳太子は仏教を信仰するために、みずから高句麗(こうくり)の高僧(こうそう)であった恵慈(えじ)に仏教を学び、後には仏教の法典(ほうてん)の注釈書(ちゅうしゃくしょ)である三経義疏(さんぎょうぎしょ)を著(あらわ)しました。
このとき、聖徳太子が恵慈から学んだのは仏教だけではありませんでした。恵慈の出身国である高句麗などの朝鮮半島の情勢や、高句麗と敵対関係にあった中国の隋(ずい)の情報などを詳しく学んだのでした。
東アジアの国際情勢に関する理解を深めた聖徳太子は、その胸に「重大な決意」を秘めていました―。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ヒロキ 恵慈と言う人物はなぜ日本に来たんでしょうか?
もしかして渡来人だったのですか?
>聖徳太子は、その胸に「重大な決意」を秘めていました
もしかして、遣隋使の派遣のことですか!?
- 聖徳太子の「重大な決意」・・・
気になりますね、なんでしょうか?
歴史がめっきりなんで、見当が・・・(^_^;)
明日の記事を楽しみにしておきます(*^_^*)
さすらい こんばんは。
聖徳太子の政策はどんどん進んでしますね。
「重大な決意」
総辞職会見や解散宣言
はたまた離婚会見なら
面白いんですがね(爆)
応援♪
えめる 記事とチョッと視点がずれますが、歴史的建造物である法隆寺。木の性質をとことん上手く利用して立てられているため、長持ちなんだそうですね。
ひと山まるごと買い取って、南の樹は南の位置に、北の樹は北にというように、生えているとおりに使うんだそうです。
樹の癖を、そのまま生かすって言うことらしいです。
もうその技術も継承者がほとんどいないそうです。
これも、歴史の一幕になるのでしょか。
ぴーち こんばんは~^^
今日は法隆寺の話題なんですね!
それと三経義疏というんですか。
初めてお名前は聞きました。
もしかして、法華経もこのうちの一つでしょうか・?
重大な決意。。
さて、なんでしょうか^^
明日を楽しみにしています!
私の記事にいただいたコメントのお返事は、
明日また、書かせてくださいね!
同心姿の黒田さん、きっとお似合いだと思いますよ~
私は、お姫様タイプよりも、アクティヴに女忍者などが良いですね~(笑
同心に追われて、逃げ惑っています(^0^
(冗談です^^)
それでは、応援凸
いつも脱線してしまい、恐縮です(><)
また、お邪魔します!
グローバリズム
tycoont 黒田裕樹さん、こんにちは

当時、仏教を普及させるという考えは、
世界の最先端の思想や文化を取り入れると
いうことなんですかね~

現代に例えるなら、「グローバリズム」・
「グローバルスタンダード」を取り入れるように・・

報道ギャング 斑鳩寺と飛鳥寺(?)っていうのを勉強したような気が……
2つのお寺にある像がややこしかったですw
何とか如来とか、何とか釈迦とか
……資料集を見直します!w
夢殿
sisi 私も昔は学生時代、
法隆寺夢殿いきましたよ。古き香りがすごいですね。
ブログ村投票しました。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 恵慈と言う人物はなぜ日本に来たんでしょうか?
> もしかして渡来人だったのですか?
恵慈は高句麗の僧で、595年に来日し、615年には帰国しています。従って、我が国に渡来はしているものの、土着した帰化人ではなく、むしろ明治初期に西洋文化を学ぶために招かれた「お雇い外国人」に近いイメージがありますね。
余談ですが、最近の歴史教科書では「帰化人」のことを「渡来人」と書いているのが多いようですが、この表現だと、今回の恵慈のようなパターンにおける区別がつきにくくなって困りますよね。
> もしかして、遣隋使の派遣のことですか!?
さぁ(ニヤリ)?
13日の更新をお楽しみに!
名無し?さんへ
黒田裕樹 ご期待下さり、有難うございます。13日の更新を楽しみにお待ち下さい!\(^o^)/