尚、古墳が盛んにつくられた3世紀後半から7世紀頃にかけての時代を特に古墳時代(こふんじだい)と呼び、古墳の分布・様式・副葬品(ふくそうひん)などから、前期(3世紀後半~4世紀中頃)・中期(4世紀末~5世紀)・後期(6世紀~7世紀)に分けられています。
3世紀後半の頃の古墳は前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)という独特の形をしており、木棺(もっかん)を竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)や、木棺の周りを粘土でつつんだ粘土槨(ねんどかく)におさめました。
古墳の墳丘上には埴輪(はにわ)が並べられました。埴輪は素焼(すやき)の焼き物で、前期には円筒埴輪(えんとうはにわ)や家形埴輪(いえがたはにわ)などが用いられました。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
ウチの近所には
「多摩川台古墳」があります。
古墳は都内では珍しく
東京に住んでいる者ですら
知らない人が多いです。
古墳の話楽しみにしています。
応援♪
海豚 あ、前方後円墳ーッ☆
名前が面白くってすぐ覚えちゃいました・・・。
ひまわり コメントありがとうございました。
興味深いお話ばっかりですね。
私は社会がいまいち点数とれないので
参考にさせてください!
さすらい様
黒田裕樹 「多摩川台古墳」のお話は確か先月にブログで記事にされていましたね。大和朝廷の支配が多摩地方にも及んでいた証拠になると思います。
詳しくはこれから先の講座で紹介しますね♪
海豚様
黒田裕樹 確かに「前方後円墳」という名前はインパクトがありますよね(笑)。
物事を理解するのに、名前を覚えるのはとてもよいことです。これを取っ掛かりにして、古墳時代を楽しく勉強しましょう!\(^o^)/
ひまわり様
黒田裕樹 こちらこそコメント有難うございます。
こんな講座でよければ、是非お役に立てて下さい(^_^)v
何か分かりにくいことがあれば、ご遠慮なくコメントを残して下さいね(^o^)丿
bunyan こんばんは~
古墳といえば私の地方にもあります。
たぶんご存じないかもしれませんが、船木山古墳といってかなり古いものです。
bunyan様
黒田裕樹 お久しぶりです! 温泉旅行お疲れ様でした。
残念ながら船木山古墳は存じ上げません。bunyan様のブログでいずれご紹介いただけたら有難いです。
こんばんは。
ことぶきのこめや うちの近所にも古墳あります。
枚方は遺跡も結構あるみたいですね。
前方後円墳とは、鍵穴のような形で写真が載っていますが、四角が前で、円が後ろなんですよね?
では、逆に写すのが正解なんでしょうか?
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 前方後円墳の名前は、江戸時代の学者である蒲生君平が「前半分が方形で、後半分が円である」古墳の形から名付けたのが由来となっています。
しかし、本当に方形部分が前なのかどうかは明らかではありませんし、円の部分を上にした方が「かぎ穴」みたいで見栄えが良いから、今のような見方になっているのではないでしょうか。
ちなみに、今の意見の後者(「かぎ穴」)は、私のオリジナルです(^^ゞ
3世紀後半といえば、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)が亡くなる前後の頃ですね。『魏志』倭人伝によれば、彼女は鬼道(きどう)、つまり呪術的な力で国を治めていたとされていますから、前期の古墳の特徴と話の辻褄(つじつま)が合います。
尚、3世紀後半につくられたとされる奈良県桜井市にある箸墓古墳(はしはかこふん)は、全長280mの大きな古墳であり、我が国最古級の前方後円墳ですが、卑弥呼の墓ではないかとする説もあります。




いつも有難うございます。
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ヒロキ 古墳とか懐かしいなー(*^_^*)
古墳文化の中期・後期のお話も聞きたいです!!!
小さい古墳は気が付かない?
オバrev 近くに、県内最大の前方後円墳が・・・といっても全長92mとかわいいもんですが・・・あります。
古墳の周りには、埴輪が並べられ、古墳を中心に公園になってます。
広大などの調査で412年頃作られたものだと確定できたそうです。
でもこのくらいの大きさだと、何とか古墳だ!って思うんですが、小さい古墳の場合は気が付かないことがよくあります(^^;)
ケンシロウ こんにちは。
おいら地方の最大前方後円墳は
断夫山古墳
です。
bunyan こんばんは~
古代史のロマンですねー
研究者の色々な仮説が入り混じって、卑弥呼の墓も諸説あるそうですが、黒田さんはどの説をとっていらっしゃるのでしょうか。
東海・関東にも巨大古墳が発見される可能性があるのかも知りたいですね。
ヒロキ様
黒田裕樹 古墳文化の中期・後期はこれから取り上げていきますからお楽しみに!
また、前・中・後期の文化のそれぞれの違いも分かりやすく文章にする予定です(^^♪
オバrev様
黒田裕樹 小さくても古墳は古墳ですからね(^^ゞ
ただ、古墳の大きさによって、現地を支配していた豪族の実力のおおよその見当がつくとよく言われています。
広島あたりに「鯉古墳」という名前の大きな古墳があればよいのですが(笑)。
ケンシロウ様
黒田裕樹 断夫山古墳といえば熱田神宮公園ですね。
日本武尊ゆかりの古墳だったと思います。
皆様の地元のそれぞれに、歴史をもつ古墳がたくさんありますよね。
bunyan様
黒田裕樹 現在は否定説が強いのですが、個人的には卑弥呼の墓だったほうが夢があるような気がします。卑弥呼が亡くなった直後なら、まだ邪馬台国があったのは確実ですし。
東海や関東に巨大古墳が見つかったら、大和朝廷を越えるだけの勢力があったということになりますから、それはそれで大発見になると思うのですが、どうでしょうかねぇ…。
ぴーち こんにちは!
度々ご訪問くださり、ありがとうございますm(_ _)m
歴史には、とても疎い私ですが、
黒田様の記事は、相手の目線にまで腰を落とした、とてもわかり易い解説ですね^^
お人柄が伺えます。
また、お邪魔させてくださいね^^
ランキング、応援させてください!
では、失礼致しました^^
こんにちは~
スズメちゃん 三角縁神獣鏡は黒塚古墳で発掘された頃、
たまたま寄った天理の柿の葉寿司店で
地元の人が撮った写真を見せていただきました。
スズメは明日香村によく行くので、
桜井の箸墓古墳にも行ってみようかな~?
古墳時代も中期に入った5世紀前半には、大阪府羽曳野市にある応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)や、大阪府堺市堺区にある仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)などの巨大な前方後円墳がつくられました。
尚、最近の教科書では応神天皇陵のことを「誉田御廟山古墳」(こんだごびょうやまこふん)、仁徳天皇陵のことを「大仙陵古墳」(だいせんりょうこふん)と記しています。
これらの古墳は、平野のなかに墳丘を盛り上げて、周囲に濠(ほり)をめぐらせた構造をしています。中でも仁徳天皇陵は、全長486メートルと世界最大級の大きさの陵墓(りょうぼ)として有名ですね。
では、なぜこの時期にこれだけの大きな古墳が作られたのでしょうか?




いつも有難うございます。
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スズメちゃん
以前、仁徳天皇陵の周りを歩きましたが・・・
途中で諦めました。
すっごく大きかったです。
難しい漢字
オバrev コンダゴビョウヤマ コフン?
日本史って難しい漢字が結構出てきた気がします。
特に人や制度の名前は難しいのが多かったような?
そうとうな労力が必用ですから、このころの大和朝廷の権力がそれだけ大きかったということですかね??
ヒロキ 仁徳天皇陵って鍵穴のような形してますよねー
かなり不思議な形してます(*^_^*)
でも仁徳天皇陵に仁徳天皇が埋葬されてるかは分かってないんでしたっけ??
確か宮内庁が禁止してるとかどうとかで・・・。
スズメちゃん様
黒田裕樹 長さだけで500m近くありますから、周囲を歩くだけでも大変ですよね。ジョギングにはちょうどいいかもしれませんが…。
オバrev様
黒田裕樹 確かに難しい漢字が多いです。特に古代は当て字などがある上に、読み方が現代とは全く異なりますからなおさらですよね。漢字の分かりにくさゆえに日本史を断念する生徒も多いんですよ。もったいないですよね。
確かにこれだけの古墳を作ろうと思えば相当な労力が必要であり、それが出来るということは為政者に相応の実力があったという証明でもあります。
でも、仁徳天皇の伝説の場合はそれだけではないんですよ。それは…明日の更新をお楽しみに(笑)。
ヒロキ様
黒田裕樹 仰るとおり、最近では仁徳天皇が埋葬されている説が否定される傾向にあります。教科書で「大仙陵古墳」と味気ない名前にされているのもそのせいです。
宮内庁が発掘を禁止しているのが否定説に拍車をかけていますね。残念なことです。
「かぎ穴の形」が前方後円墳の大きな特徴ですよ。
ことぶきのこめや 仁徳天皇陵が大仙古墳と呼ばれるからには、もはや天皇陵ではないというのが、ほぼ確定なんでしょうね。
せっかく世界最大級のお墓なんだから、誰が眠っているか明らかにして、世界に誇るべきだと思います。
ケンシロウ こんにちは。
古墳の大きさでも競っていたのですかね?
もし大きさを競っていたとしたら
後発が有利なわけですが
権力がなければ大きく作れないし。
何故大きな古墳を作ったのか
おいらには分かりません。
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 別のご訪問の方へのコメントにも書きましたが、学術調査は宮内庁の反対で出来ないのです。「天皇の墓」をあばく様な行為は問題があるのかもしれませんが…。
ただ、世界最大級の陵墓が我が国に自然な形で残されているという点に関しては、仰るように世界に誇るべき我が国の財産であると思います。
ケンシロウ様
黒田裕樹 巨大な古墳を作った理由としては、様々な考えがあります。
1.故人の遺徳をしのび、できるだけ立派な墓をたてる。
2.大きな墓を生前中に建てることにより、自分の力を誇示する。
秦の始皇帝の墓は2.の考えが強いようですが、我が国では主に1.の理由で建てられたのではないかと考えております。なぜかというと…明日の講座でお話します。
ある日、天皇が宮殿から人家(じんか)を眺(なが)められると、かまどから煙が立ち上っていないことに気が付かれました。食事時であれば、炊事のためにかまどに火をつけますから、煙が見られるのが普通のはずです。ということは、国民は食事も満足に出来ないほど貧しいのか、と嘆(なげ)かれた天皇は、3年間税を免除することを決意されました。
税が免除される間は、朝廷の収入がなくなるわけですから、天皇は倹約(けんやく)に励まれ、宮殿の屋根が傷(いた)んでもそのままにされていました。
やがて3年が経ち、改めて外を眺めると、人家のあちこちのかまどから煙が立ち上っていました。国民が食事を出来るようになって良かった、と天皇は満足げにその様子を見つめられました。
以上のようなエピソードから、仁徳天皇は仁愛(じんあい)に満ちた天皇として知られています。そんな偉大な支配者だったからこそ、人々は彼の崩御(ほうぎょ)を惜しんで、大きな天皇陵をつくったのかもしれませんね。




いつも有難うございます。
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ヒロキ 仁徳天皇ってそんなイイ人だったのですね(>_<)
国民の生活のためを思っているなんて、そうそういないですよね~。。
智里 黒田さん、いない間のクリックありがとうございます。
休みを思いっきり楽しんできました!!
明日から少しずつ旅のレポートしていきますね。
仁徳天皇の逸話は有名ですよね。
こんな優しい天皇がいっぱいいたら、時代は変わっていたかもしれませんよね。
海豚 仁徳天皇いい人だったんですね。
今、国語で修学旅行のために色々学んでるんですけど・・・
そこで知った、行基(お坊さん?)もいい人でした♪
ぴーち こんばんは!
仁徳天皇のお話、そんな素敵なエピソードが
あったなんて、全然知りませんでした!
今の政治家に聞かせてあげたいお話ですね~。
高速料金1000円、定額給付金などとほんの僅かな甘い汁を吸わせておいて、後でたっぷり税金を引き上げる悪政はこのお話の後に改めて考えると許し難いものを感じます。
それでは、応援させてくださいね^^
さすらい こんばんは。
なるほど、いい話です。
現在の政治家に聞かせたいですね(笑)
応援♪
えば こんばんは!
この間から楽しく読ませてもらってます♪
今回の話には感動しました。
天皇って言ったら堅いイメージがあって
人物像もなかなか掴めないですけど
この仁徳天皇は名前どうりのお方ですね!
名前通り
オバrev 仁徳天皇って、名前の通り、仁と徳のある、素晴らしい天皇だったんですね。
えめる 世界史専攻だった私です。
こんなふうに、人物の人となりも教えてくれる先生にめぐり合えていたら、
きっと日本史も好きになっていたのになァと思います。
またお勉強させていただきにきますニャね。
ヒロキ様
黒田裕樹 歴代の天皇には、為政者としての理想的な姿が垣間見えます。だからこそ、2000年以上の長きにわたって、我が国には皇室が存在されていると思われます。
智里様
黒田裕樹 お帰りなさいませ!
ご旅行はいかがでしたでしょうか?
更新を楽しみにしております!
仰るとおり、125人もいらっしゃる天皇の中にはいろんな方がおられます。この時代にこのような天皇がおられたら…という考えもありますよね。
もちろん、逆に「もしこの時代にこのような天皇がいらっしゃらなかったら…」という話も成り立ちます。
これらのことから、当時の被葬者(ひそうしゃ)に政治的・軍事的支配者としての性格が強まったと考えられます。
また中期に入ると、巨大な前方後円墳は近畿中央部ばかりでなく、筑紫(つくし=福岡)、吉備(きび=岡山)、毛野(けの=群馬)、日向(ひゅうが=宮崎)などの全国各地でも見られるようになりました。これは、巨大な地方勢力が大和朝廷と深いかかわりをもち、朝廷の支配が全国各地に及んだことを間接的に証明するものと思われます。
さて、古墳中期の被葬者、すなわち大和朝廷の支配者である大王(おおきみ)を中心とする豪族(ごうぞく)の副葬品に武具や馬具が多いと書きましたが、実はこれを間接的に証明する「文面」が現代でも遺(のこ)されているのです。
それは何だと思いますか?
この謎を解くために、当時の東アジアの情勢を振り返ってみることにします。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは^^黒田さん。
古墳についての話題ですね!
文中の中に、群馬が毛野とありますが、
上野国という呼び方は、ずっと後の時代だったのでしょうか。
それと問題のお答は、皆目見当が付きません(汗
答えが待ち遠しいです^^
それでは、応援させてください!
ぴーち様
黒田裕樹 応援有難うございます!
古代に「毛野国」と呼ばれた地域が「上毛野国」と「下毛野国」に分かれた後、奈良時代に「上野国」「下野国」と名前が変わったんです。
群馬のことを「上毛」と呼んだり、JRに「両毛線」があったりするのもその名残です。
今日の問題については、1週間近くかけてじっくりと解答しますので、お楽しみに!
こみー こんばんは。
古墳ですか~。
このころの記憶は少し残ってたかな?だったので
結構理解できました(*^_^*)
この後、というか日本史自体があまり・・・なので、
参考&学習させて頂きます!
とてもわかりやすいですし(^-^)b
「文面」・・・ですか。
・・・サッパリですね(^_^;)
答えを楽しみにしています!
ヒロキ 馬具が出てきたっていうことは馬を用いた戦争をしていたってことでしょうかね。。
うーん、、、
高句麗好太王碑文・・・ですかね^^;
これしか浮かばなかったです。。
解答が待ち遠しいです!!^^;
こみー様
黒田裕樹 コメント&お褒めのお言葉、有難うございます!
「文面」…確かに分かりにくかったでしょうか?
単なる「文書」だけではなくて、ある建造物の…おっと、ここから先は明日以降の講座で発表します…と書こうと思ったら、私と同じ名前の方が…(^^ゞ
ヒロキ様
黒田裕樹 貴殿は重要なヒントを二つも提供されておられます。
さすがですね(^o^)丿
詳しくは明日以降をお楽しみに(^^♪
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