また、神武天皇を始め、初期の天皇はいずれも100歳前後まで長生きしているのも不思議な話で、これらも理由の一つとして、現代では神武天皇は実在せず、日本建国の伝承もすべてが作り話である、というのが定説になっています。
しかし、この定説に異議を唱えた人もいます。作家の八木荘司(やぎそうじ)氏がその人で、彼の著作「古代天皇はなぜ殺されたのか」によれば、辛酉(しんゆう)の年は紀元後181年と推定しています。確かに八木氏の説を採用したとすれば、話の辻褄(つじつま)が合いますし、大和朝廷と邪馬台国(やまたいこく)との関係についても一つの推論が成り立ちます。
八木氏の推論のカギを握るのは、以前にも書きましたが、中国の歴史書に書かれた「狗奴国」(くなこく)の男王である「卑弥弓呼」(ひみくこ)の存在です。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
「初期の天皇はいずれも100歳前後まで長生きしている」
ですか。
私の学問もそこが原点(原典)ですし
それを現代に生かそうとするのが
東洋医学ですから
一概に嘘とは言えない立場です。
なるほど、こうしてみると
歴史の専門家からのお話と
我々の学問とでは
掛け合わせてみると面白いものです。
今回も勉強になりました。
応援♪
さすらい様
黒田裕樹 現代の常識や知識で「有り得ない」からとすべてを否定するのが最近の歴史学ですからね。うんざりしますよ(ーー゛)
本当に100歳まで長生きできたのかもしれないし、あるいは年齢の計算方法が今とは違うのかもしれない。その辺りの研究から始めてほしいものです。
さすらい様の仰るような、東洋医学との掛け合わせが、案外謎を解く近道になるのかもしれませんね。
こんばんは
ことぶきのこめや 初期の天皇の話や、それ以前の神話の話は、まったくのデタラメとされていますね。
真実と違うからと言って無視するのではなく、なぜそんな話が出てきたのかと研究するべきですよね。
「卑弥弓呼」の話、気になります(笑)
勝手ながらリンクさせていただきました。
応援ポチ☆
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 ことぶきのこめや様の仰るとおりです。我が国の悠久の歴史をすべて絵空事として切り捨てるなんてもっての外であり、伝説のルーツをたどっていくことこそが本当の歴史研究でしょう。
作家の八木氏はその辺りを実に細かく研究されており、その点でも大いに評価できると思います。
「卑弥弓呼」の正体は明日(27日)の正午頃、ついに明らかにされますよ。お楽しみに!
リンクの件、有難うございます。こちらも早速させていただきました。
今後とも宜しくお願い致します。
店長 黒田さん こんばんは。
コメント ありがとうございました。
受験のために勉強してたときは
歴史が(正直)嫌いでしたが・・
今は、面白いと思ってます。
暗記ではなく、いろいろと想像(妄想?)してみるのが楽しいんですよね。

これからもよろしくお願いします。
では 失礼します。
店長様
黒田裕樹 こちらこそコメント有難うございます。
受験目的の歴史はどうしても暗記物に偏ってしまいますので、店長様のように好きになれないのも仕方がないところがあります。
でも受験を離れれば、それこそ妄想もOKの幅広い学習が出来るのも大きな特徴です。
まだまだ拙いブログではありますが、今後とも宜しくお願い致します。
見方を変えると糸が繋がっている
オバrev ふむふむ紀元前181年というと弥生時代ですね。
ちょっと見方を変えてみると糸がつながることありますよね。
明日の展開が楽しみです♪
オバrev様
黒田裕樹 この講座では詳しく書きませんが、181年の根拠もちゃんとあるんですよ。
そして181年であれば、歴史書の「あの」記載とも一致するんですよね…。
ここから先は本日の講座でどうぞ(笑)。
いつもコメント有難うございます!
清家淳子 でも、昔のその食糧と医療事情で100前後まで生きることは考えられないなぁ・・・。
なんて思っちゃいました(^◇^)
でも、卑弥弓呼って習ったんかな???
全然記憶にすらないんだけど・・・。
先生、私その時授業中寝てたかも(笑)
それか、先生見たく詳しく説明してくれなかったか・・・。
清家淳子様
黒田裕樹 当時の平均寿命は100歳どころか30~40歳まで生きれば大したものでしょうし、確かに変な話ではありますね。個人的には、年齢の数え方が現代とは違うような気がします。
卑弥弓呼はおそらく教えてないと思いますよ。どちらかと言えば受験対策向きではないですからね。
「受験のための日本史」は、大事なことを教えず、その一方で重箱の隅をつつくような内容を問うてきますからね。困ったものです…。
また八木氏によれば、女王卑弥呼(ひみこ)の晩年に邪馬台国と争った「狗奴国」(くなこく)の男王である「卑弥弓呼」(ひみくこ)ですが、「狗奴国」は「くまのこく」、つまり「熊野国」で神武天皇が上陸した場所をあらわし、「卑弥弓呼」は神武天皇など初期の天皇の別名の一部である「彦尊」(ひこのみこと)か、あるいは神武天皇の出身地の日向(ひゅうが)から「日向彦(ひむかひこ)」がなまって伝えられたものと考えられるとのことです。
ところで、初代の神武天皇から第8代の孝元天皇(こうげんてんのう)までは、宮殿は奈良盆地の南部、つまり南大和に設置されていたのですが、第9代の開化天皇(かいかてんのう)の時代になると、現在の奈良市春日(かすが)の地、つまり北大和に移しているのです。
さらに、歴代の天皇は正妃(せいひ)、つまり妻をめとっているのですが、正妃の出身地も、それまではほとんどが南大和の出身だったのですが、孝元天皇の代になると北大和から正妃を迎えたほか、北河内(現在の大阪府北東部)出身の女性を側室(そくしつ=二番目以後の妻女のこと)としています。
八木氏は、これらの状況証拠(じょうきょうしょうこ)から一つの結論が浮かび上がってくるとしています。




いつも有難うございます。
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オバrev なるほど、181年とすると辻褄があうわけですね。
日本書紀に紀元前660年と記載されていたのは、天皇を神格化するためかもしれませんね。
これらの状況から浮かんでくる一つの結論・・・それは開化天皇は結構好き者だった(^^;)
さすらい こんばんは。
現代の日本の倫理では
全く受け付けないものですが
正室の他に側室があるというのは
当たり前の良き(?笑)時代だったんですね。
日本だけではなく
世界がそうでしたから
いかに「男」がイケナイ動物か
なのでしょうね(笑)
応援♪
コメント有難うございます!
黒田裕樹 オバrev様
頭から否定するよりも、辻褄を合わせる方法を考えたほうがよっぽど現実的だと思いますよね。
当時は紀元前660年が縄文時代なんて分かるはずがありませんし、神格化の為にも確かに昔に設定したかもしれません。
好き者ですか(笑)。天皇個人は確かにそうかもしれませんが、結論については明日の講座をお楽しみに!
さすらい様
仰るとおり、当時の世界では征服した領地の女性を側室にするのが常識であり、我が国もその例にならったと思われます。
当時の倫理観と現代の倫理観とは全く異なりますので、その点を注意して歴史を学ぶ必要があるでしょうね。
♪もふ♪ こんばんは^^
久しぶりにコメントさせてもらいます~!!
もうこの時代から側室などの制度があったのですね。
もっと後の時代からなのかと思っていました。
応援していきますね~(^o^)丿
♪もふ♪様
黒田裕樹 ♪もふ♪様のブログではいつも「美味しい」思いをさせていただき、感謝しております!
他の方へのコメントにも書かせていただきましたが、側室制度は結構古くからあるんですよ。
女性の皆様にはあまり気分のいいものではないかもしれませんが、当時の風習は現代とは全く異なりますので、ご理解いただいたうえで、またご訪問下さればと思っております。
応援有難うございます!
店長 黒田さん こんばんは。
店長と申します。
続きが気になりますぅ。
また 明日、おじゃまします。
ではでは
ほんとびっくり!
清家淳子 このころからほんと側室ってあるんですね(-_-メ)
女からすると気持ちのいいもんじゃないですけど(笑)
誰が一体決めたんでしょうね、側室制度。
女の人は反対しなかったんでしょうか?
コメント有難うございます!
黒田裕樹 店長様
お越し下さいまして有難うございます。本日(28日)の正午頃には「結論」を発表(?)しますので、今しばらくお待ち下さい。
清家淳子様
仰るとおり、女性の方にはあまり気分が良いものではないかもしれませんが、征服された(または降参した)地域の女性を側室に迎えることは、その女性の血を引く支配者が誕生する可能性がある、ということで、地元の人々の心を溶かす意味もあったと考えられています。
現代とは全く考えが異なりますので、何度か書かせていただいておりますが、今の歴史観や倫理観で当時を見ないようにしなければなりません。
275年の9年前にあたる266年には、倭国の女王(=邪馬台国の壱与(いよ)ではないかと推定されています)が魏にかわった晋(しん)に使者を遣(つか)わしたと記録されています。すなわち、孝元天皇が即位した頃には邪馬台国はまだ存在していた可能性は高いと考えられます。
しかし、おそらくは孝元天皇の治世の間に邪馬台国は大和朝廷に平定されて歴史上から姿を消し、邪馬台国が勢力を伸ばしていた北大和や北河内の地域は大和朝廷が代わって支配することになりました。
そして、新たに朝廷の領地となった北大和や北河内から孝元天皇が正妃(せいひ)や側室(そくしつ)を迎え、さらに第9代の開化天皇(かいかてんのう)が北大和に宮殿を建てたと結論づけられるのです。
ちなみに、開化天皇は京都府北部の丹波地方の竹野(たけの)から側室を迎えており、彼の治世時に大和朝廷の勢力が日本海に達したと思われます。




いつも有難うございます。
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オバrev ふむふむ、ということは、
邪馬台国は近畿地方の小国で、
北大和を治めていた邪馬台国を、
大和朝廷が平定した。
という説ですね。
丹波地方には古墳がたくさんあるという話を聞いたことがありますので、位の高い人がいたのは確かでしょう・・・って素人がえらそうにすみません(^_^;)
およよのよ 先生!
いつも分かりやすい講座ありがとうございます。
でも一つだけ意見させてもらうと、色が多くてどれが重要なのかよく分からないです。
太字が重要なのは分かるんですけど色でどういう風に分けられているのか分かりません。
例えるならば奇麗好きの女子が12色のラメペンでノートをとって後で読み返したらキラキラすぎて訳が分からなくなっちゃうみたいな。
いや、その女子は別に私じゃないですよ?
重要な用語は緑色にして
重要な年号は赤色にして
重要な人物は青色にする…。
なんて事はできませんか?
オバrev様
黒田裕樹 そうですね。
私も邪馬台国は畿内にあったと考えています。ただ、魏や晋に使者を送るくらいですし、30余りの小国を従えていたと「魏志」倭人伝に書かれていますから、かなりの大国だったと思います。
そんな大国を仮に平定したのだとすれば、大和朝廷の勢力もかなりのものだったではないでしょうか。
仰るとおり、丹波地方だけでなく全国あちこちに古墳が残されています。古墳が作られた時期などを探れば、大和朝廷の勢力がいつ、どこまで伸びたかを知ることも出来ますよ。
およよのよ様
黒田裕樹 なるほど…。
色を多く使うことによって、かえって分かり辛くなってしまうということですか。
考えてみる必要はありそうですね。
有難うございました。
この推論の有力な状況証拠(じょうきょうしょうこ)としては、邪馬台国が魏(ぎ)や晋(しん)という中国大陸の強国と外交を結んでいたことが挙げられます。邪馬台国がいざとなれば中国大陸から援軍を呼ぶことが出来るかもしれないという可能性は、対立する大和朝廷にとって大きな脅威(きょうい)だったと思われるからです。
逆にいえば、中国全体が混乱したことによって、邪馬台国が大陸とのつながりを断ち切られてしまったがために、大和朝廷に征服されてしまったという仮説(かせつ)も成り立つのです。




いつも有難うございます。
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アンリ 黒田様
コメントありがとうございました。また、返信が遅くなり、申し訳ありません。(返信の仕方がよくわからず・・・)歴史年代を簡単に終え、歴史の醍醐味にふれる時間を増やしてあげられればとブログをはじめた次第です。黒田様には歴史の面白さを広げていただければと思っております。
さて「室町幕府滅亡」の件ですが、今の予定では「織田信長 コナミ(1573)に作らす 室町滅亡のゲーム」です。コナミ=ゲームメーカーと小学生でもわかるはずですから。ではまた
bunyan こんにちは~
朝からコメントいただきありがとうございます。
やっと平静にもどりましたので(笑)
コメント有難うございます!
黒田裕樹 アンリ様
「年代から学ぶ歴史」も大切だと思いますので、アンリ様のご発想も重要だと思います。お互い違う形で歴史教育の実践が出来ればいいですね。これからも宜しくお願いします。
bunyan様
どうもお疲れ様でした。
いつも綺麗な花をブログにアップして下さって有難うございます。こちらも負けじと(?)テンプレートを自然なタイプに変更してみました。前回同様宜しくお願いしますね♪
海豚 テンプレ変えたんですね~♪
綺麗です。
智里 黒田さん、いつもコメントありがとうございます♪
この話面白いですね!
もし本当の話だったら、邪馬台国が歴史から消えた理由に納得できますよね。
あんまり古代の歴史は得意じゃないんですが、とっても興味をそそられました!!
コメント有難うございます!
黒田裕樹 海豚様
気に入っていただいて良かったです♪
ブログを始めて1ヶ月経ちますし、これから5月になるということで気分を変えてみました。心機一転再スタートです!
智里様
ここ数日の話はあくまで推論ですが、状況証拠もあるし、結論も納得できるし、信憑性(しんぴょうせい)はかなり高いのではないかと個人的には思っております。
歴史は私たちにとって身近なものです。今後とも私のブログを通じて、もっと歴史に興味を持っていただければ幸いです。
また機会があればコメントを下さいね♪
こんばんは!
ことぶきのこめや テンプレート変わって、明るくなりましたね~。
3回分一気に読ませていただきました。
それほど詳しいわけではありませんが、初めて聞く話が多く、大変興味深かったです。
ふと疑問に思ったのは、大和朝廷が邪馬台国を滅ぼしたのなら、どうして日本書紀にそのことが書かれていないのでしょうか?
(書いてあったらすみません(笑))
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 テンプレートの件でお褒めいただいて光栄です!
疑問の件、ごもっともと思います。実は、古事記・日本書紀ともに、第2代の綏靖天皇(すいぜいてんのう)から第9代の開化天皇(かいかてんのう)まで、系譜(系図のこと。親や妻、子の名前などを記載)はあっても、天皇自身の事績に関する資料が一切残っていないのです。
このため、綏靖天皇から開化天皇までは「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれ、これらの天皇は実在せずに架空の物語がつくられた、ということになっているのです。
しかし、今日までの講座内容をご覧になればお分かりかと思いますが、状況証拠と呼べるものがたくさん残っています。これらに対する満足な回答もせずに、すべてを絵空事と片付けるのは余りに乱暴かと考えます。
この件については、明日の講座でもう一度説明しますので、また是非お越し下さい。
また、日本書紀や古事記に記載されている我が国の神話を、すべてを空想として切り捨てるのは問題がありすぎると思います。
神武天皇による日本建国の伝承のすべてが真実でないにしても、何らかの係わりがあったと推定できます。例えば、八咫烏(やたがらす)や金色のトビの伝説も、それに近い自然現象や人的な協力があり、それに感謝する意味で偶像化(ぐうぞうか)したとも考えられるからです。
世界の民族には様々な神話や伝説があり、古代の人々の考え方や暮らしぶりを知るうえでの貴重な文化遺産となっているというのに、我が国だけが絵空事と切り捨てるのもおかしな話です。
いずれにせよ、祖先が長い時間をかけて伝えてきた我が国の神話を、我々も次世代にしっかりと残したいものです。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
仰る通りですね。
我が国はもっと自国に誇りを持ち
刻んできた歴史を認識してもらい
我々も興味をもっていきたいものです。
応援♪
テンプレ、爽やかでいいですね。
そのとおり(^^♪
清家淳子 私もそう思います!(^^)!
本当に祖先が自然に感謝し、生きてきたように私たちも受け継いでいきたいですね(*^。^*)
黒田先生はその代表的伝達者ですね(●^o^●)
ケンシロウ こんにちは。
おいらのトコへ訪問&カキコ( v^-゜)Thanks♪
今後ともヨロシクです。
歴史について力強く語られていますね。
おいらのお気楽ブログと違って
漢字がいっぱいって思いましたw
こんばんは。
ことぶきのこめや そうですね。
記紀に記されている内容はもっと広く知られるべきですよね。
記紀に記されていない事実、形を変えて伝えようとしている事実など、もっともっと研究されてほしいと思います。
大変勉強になりました!
応援ぽち!
bunyan こんばんは~
だんだん熱が入ってきましたね。
黒田さんのお考えも一理あると思います。
神話を否定するものではなく、何らかの根拠がそこにあることもわかりますが、歴史というのはどんどん新事実が明らかになることがあり、固定観念でみるべきではないと思います。
ただ、二千年近く前のことですから、歴史のロマンとしてみるのなら壮大なものと言えるかと思います。
よく分かってないことがよく分かりました
オバrev この時代は記録が少ないだけに、
日本の歴史でありながら、
まだまだ分かってないことが多いんですね、
ってことがよく分かりました(^^)/
コメント有難うございます! その1
黒田裕樹 さすらい様
そうですね。歴史の重みを感じながら、祖先が積み重ねてきた年輪を大切にして、次代につなげることこそが、現代を生きる我々の役割だと思います。だからこそ、自分が住むこの国に興味を持ち、誇りをもって行動するべきだと実感しております。
書いている本人に似つかわしくない(?)、さわやかなテンプレですからね(笑)。
清家淳子様
清家様のように普段から雄々しき自然に接しておられると、我々が自然に生かされているんだということを、私たちよりも深く実感されていらっしゃるのではないでしょうか。
私が伝達者ですか?
どちらかといえば「芸達者」のような気が…(笑)。
ケンシロウ様
ようこそ当ブログへお越しくださいました。有難うございます!
ケンシロウ様の社会問題に対する鋭い切り口の記事には共感できますし、また勇気あるご発言に敬意を表します。
こちらこそ宜しくお願いします。
コメント有難うございます! その2
黒田裕樹 ことぶきのこめや様
そのとおりでして、記紀に記載されていないことを無視するだけでなく、記載されていることも無視していますからね。先人の歴史学を何と心得ているのか、という気がします。
21世紀の歴史学は、先人が遺したものを重宝しながら、さらなる研究を重ねたうえで成立してほしいと願っております。
bunyan様
やっぱり熱が入っているのが分かりますか(笑)?
固定観念にとらわれると、見えているものも見えなくなりますからね。今回私が取り上げた説以外の学問や、今後出てくるであろう新事実にも視野を広げて、「過ちは改めるにしかず」の精神で柔軟に対応していきたいと思います。
ただ、歴史のロマンだけは見失いようにしたいと思います。歴史は無機質な幾何学ではありませんし。
オバrev様
そうなんですよ。記録が少ない=無視、という図式が成り立ってますので、この時代はまだまだ研究の余地があると思います。
今後新事実が明らかになり、私の考えが成立せずに書き直す必要があるかもしれませんが、それはそれで楽しいかな、とも思ったりします(笑)。
.
hirots こんばんは~^^
ちょっと前の記事へのコメント失礼します★
消えた邪馬台国の謎、楽しく読ませていただきました☆大和朝廷が歴史資料に登場するまでの空白の時間、ロマンですね。笑
また伺います☆応援ぽち
hirotsさんへ
黒田裕樹 > ちょっと前の記事へのコメント失礼します★
いえいえ、どの記事であっても、コメントは大歓迎ですよ(^^♪
> 消えた邪馬台国の謎、楽しく読ませていただきました☆大和朝廷が歴史資料に登場するまでの空白の時間、ロマンですね。笑
> また伺います☆応援ぽち
仰るとおり、邪馬台国~大和朝廷に関する資料がほとんどないことが、古代史の大きなロマンとなっていますね。八木先生の仮説は納得できることが多いのと、過去の資料を側面から分析しているとことがさすがだと思い、講座でも紹介させていただいた次第です。
また是非ご訪問下さい(^o^)丿