このような環濠集落や高地性集落がなぜ広まったと思いますか?
これらの集落は、いわゆる軍事的な緊張が高まったからつくられたのです。
全国各地に大きな集落がたくさんできると、その中には例えば収穫が少なかったりするのも出てきますね。隣の集落は大豊作でうるおっているというのに。
皆さんがその集落の指導者だったらどうしますか?
現代のように秩序がしっかりしていなければ、結局は収穫物を求めて争うことになってしまいますね。こうして我が国も争いの時代に入っていくのです。




いつも有難うございます。
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およよのよ こんにちは。記事と関係ないコメントごめんなさい。
リンクの件、OKです。此方からもしておきます。
詳しくは私のブログみてくれると嬉しいです。
管理人のみ閲覧できます
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およよのよ様
黒田裕樹 コメント&リンク有難うございます。
今後とも宜しくお願いします。
bunyan こんばんは~
記事なしにコメントをいただいちゃってありがとうございました。
ある方のブログ閉鎖の通知がありましたけど
残念ですね。
私は何とかガンバローかなと思ってます。
弥生時代の関西は渡来人の攻撃にさらされ、緊張が高まったこともひとつの要因じゃなかったかしら。
先生に失礼かな。間違ってたらごめんなさいね。
bunyan様
黒田裕樹 こんばんは。
まだ起きてました(笑)。
渡来人の攻撃よりも、ブログに書いたとおり日本列島内の権力争いの方が要因としては大きいですね。当時は海という「天然の防壁」がありましたから。
「権力争い」の詳細についてはいずれ書かせてもらいます。
ブログの閉鎖、本当に残念ですよね。私たちは今後もお互い頑張りましょう!
さすらい こんばんは。
争いの時代ですか。
人間はそういう歴史を繰り返すのですね。
応援♪
さすらい様
黒田裕樹 有難うございます。
おっしゃるとおり、人間がやることは太古から変わっていません。
集落の跡から争いがあったと考えられるんですよね。綺麗事では片付けられない、歴史の必然性でもあります。
そうだったんだぁ
清家淳子 もうそんなこと、歳のせいか習ってないか・・・。
環濠集落って習ってないよぉ・・・・?
(たぶん習ってなかったような・・・・)
確かに集落で収穫できる量がものすごく
違ってきたら、荒そう要因になりますよね(;_:)
とってもかしこくなりました(^◇^)
自分があたかも知ってるように、わが子に
話をして、尊敬のまなざしで見てもらえるようにします(笑)
清家淳子様
黒田裕樹 環濠集落はこの講座で学習しましょう(笑)。歳のことはお互い気にしない、ということで(^^♪
争いごとが起きるのにもちゃんとした理由があるんですよね。人間、闇雲に戦うことはありえないんですから。
子供の前で尊敬されるのは大人の特権ですね\(^o^)/
はじめまして
しのぶもじずり NHKの番組で、
狩猟採集生活から農耕生活に移行したことにより、定住が始まったせいで、土地争いから戦争が始まった。
と言ってました。
堀を持った集落……当然争いが絶えなかったという事なのでしょうね。
農耕が始まり、食料の確保が容易になったことが、争いを増やすことになるなんて皮肉ですよね。
ところで、当時の中国の歴代の皇帝は、自国こそが政治や思想、文化の中心であり、他の地域はすべて劣っていると見なしていました。これを中華思想(ちゅうかしそう)といいます。
皇帝は周辺民族の長に対して自己に従うことを求め、逆らえば有無を言わさずに滅ぼしました。こうした力関係の元で、服属した長には「王」などの称号(しょうごう)を与えて現地の支配を認めるかわりに、自己を支配者として尊敬させる(=君臣関係を結ぶ)とする、いわゆる朝貢関係(ちょうこうかんけい)を強制しました。
このような体制を冊封(さくほう)といい、古代の東アジアの国際秩序はこれによって構成されたと考えられています。




いつも有難うございます。
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清家淳子 黒田先生、授業楽しいっす(^O^)/
何となく日本史思い出してきました\(^_^)/
さすが淳子ちゃん(笑)
今やっと天理東インターです(^O^)/
これから名阪国道のります(^-^)/
黒田先生、どうぞごゆるりとお休みを=^▽^=
bunyan こんばんは
黒田さんの生徒さんが増えてきたみたいですね。
先生へ応援のポチッと拍手のおまけ!
清家淳子様
黒田裕樹 眠いなか、コメントを下さって有難うございます\(^o^)/
明日も早いけど、充実した講座内容にするために頑張っております。
清家様も本業をしっかりこなして下さいませ♪
bunyan様
黒田裕樹 いつもコメント有難うございます。
最近は毎日20名以上の多くの方々にお越しいただいており、ただただ感謝です。
一日一回の更新を目指してこれからも頑張ります!
さすらい こんばんは。
今見れば当時の皇帝たちも
お山の大将でしたね(笑)
ローマやエジプトも
似たようなものだったんでしょうから
地球全体でまだまだ
発展途上だったんですかね。
応援です♪
さすらい様
黒田裕樹 おっしゃるとおり、当時はどこもかしこも「自分たちの世界」がすべてでしたからね。
そんな「冊封体制」にいつまでも従わされてはたまったものではない…というのは話が早過ぎました(笑)。
いつも有難うございます!
朝貢関係今も
オバrev こんばんは。
中華思想、朝貢関係、冊封体制
どれも、今だにありそうな気がします。
この頃の日本の情勢って、中国の歴史書に記述があるんですね。
日本にはまだ文字がなかったんですかね?
オバrev様
黒田裕樹 おはようございます。
確かに今でもありそうですね(笑)。
このブログが現代史まで続いたら紹介できそうです。
今日の更新あたりから、我が国に対する中国の歴史書の記述が始まりますので、是非お越し下さい。
我が国に漢字が伝わるのはもう少し先になります。
例えば、前漢の歴史を述べた『漢書』地理志(かんじょちりし)によれば、紀元前1世紀頃の「倭人(わじん) 」社会は百余国、つまり100余りの国に分かれ、楽浪郡(らくろうぐん)に使者を送ったとされています。
楽浪郡とは朝鮮半島に置かれた四郡の一つで、当時は前漢の直轄地(ちょっかつち)でした。こちらで学習しましたね。
尚、「倭」は中国から見た当て字で、なぜ我が国にその名がつけられたかについては様々な説があります。ちなみに私は、おそらく日本人が大切にする「和」から伝わったのではないかと考えています。
「倭」には本来悪い意味が込められているとされており、そうだとすれば中華思想による差別意識が感じられますね。




いつも有難うございます。
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とまと こんにちは(^o^)
いつもご訪問&コメントをありがとうございます。
ゆっくりお伺いできなくて、申し訳ありません。
感謝のぽち~♪
とまと様
黒田裕樹 いつも有難うございます。
私もとまと様の「講義」でしっかり「勉強」させていただいております♪
今回はもちろん、とまと様の次回の更新も楽しみにしております。
bunyan こんにちは
コメントありがとうございました。
黒田さん、早とちりされましたよ。
行くのは明日です(笑)
bunyan様
黒田裕樹 …失礼しました<m(_ _)m>
ついつい早合点してしまったようで…。
明日もいい天気のようですので、良い写真が撮れますようお祈りします。
さすらい こんばんは。
中国と我が国は
古くからの付き合いですよね。
現代でも、もっと仲良くしたいものです。
応援♪
さすらい様
黒田裕樹 おっしゃるとおりと思いますが、中華思想の国とのお付き合いは今も昔も大変ですね。
またお越し下さい。
.
山田 「ワ」は単純に自分たちの民族を表す語なんじゃないですかね。
ワタシ、ワレ、ワガ、なんていうように、自分自身を示す日本語が「わ」の活用で言われますから、そのような意味を言ったのではないでしょうか。
民族学の世界では常識かと思いますが
自国の名前を表現する語を持たない民族は、大抵自分らや人そのものを示す彼らの語を持って、他国からは呼称されるようになります。
そもそも他国と外交関係の無い民族は、自分ら以外の国は無いので、示す語を持たないことが多いのです。
「倭」「わ」というのは、日本語から察するに、自己を示す日本語のことだろうと思います。
それをもって当時の中国人は日本列島に住む民族の名前としたのではないかと。
「和」を国名にしていくのは、その後他国との外交関係が盛んになりナショナリズムが高まりそう自国でも定義していったのではないかと。
あとは日本語で「わ」というと「輪」があります。これの可能性もありますが、
そもそも「輪」、円環を示す「わ」は太陽から来てるのかなとも思われ、自分自身の「わ」と根本では通じてるような気もしています。
山田さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
確かにそのような説もありますね。
当時の我が国には文字がありませんでしたから、自分たちを指すのに「ワ」を用いたり、つながりや日輪を現す「輪」も十分に考えられます。
後者の場合は「太陽の国=日本」にも通じますし、様々な考えがあって良いですね。
奴国は今の福岡市付近にあった小国の一つとされ、同市の志賀島(しかのしま)からは、奴国王が光武帝から授かったとされる「漢委奴国王」(かんのわのなこくおう)と刻(きざ)まれた金印(きんいん)が江戸時代に発見されています。
こうして、弥生中期以後に北九州から本州の各地に分立した小国の王たちは、漢王朝の先進文化を積極的に取り入れて、自らの地位を高めようとしたと考えられています。




いつも有難うございます。
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オバrev 出ましたね、志賀島の金印。
きっちり、後漢書に書いてあるんですね。
確か福岡博物館に展示してあるらしいので、息子のところへ行ったときに見に行こうと思います。
オバrev様
黒田裕樹 金印が見つかったことは歴史上の奇跡ですね。後述する卑弥呼の金印も見つかればよいのですが。
ところで、金印を見つけた農民の名前はご存知ですか?
かつて有名私大の入試に出たそうですよ。何というか、重箱の隅をつつくような問題ですよね。
海豚 コメントありがとうございました。
なんか読んでると懐かしいです。
これからも読ませてもらいます☆
よろしくです~。
海豚様
黒田裕樹 こちらこそお越し下さって有難うございます。
そうですね。中学校の歴史でもこの辺は学習しましたからね。いずれ高校でも勉強しますし、受験にも何らかの手助けになるかもしれませんから、これからも是非ご訪問下さい(^^)/
さすらい 日本と中国の交流は古いんですよね。
今も仲良くしたいものです。
応援♪
さすらい様
黒田裕樹 この当時の外交は、本文でも述べたように朝貢形式でした。当時は国力に大きなへだたりがあったために止むを得なかったのですが、その後対等外交に切り替わります。
誰がそうしたのかは今後のお楽しみということで(笑)。
現代の対中外交は「対等」でしょうかねぇ…。
また是非お越し下さい♪