紀元前5000~4000年頃までには、北方の黄河(こうが)中下流域の黄土地帯(こうどちたい)でアワやキビなどの畑作がおこり、南の長江(ちょうこう、揚子江=ようすこう、ともいいます)下流域でも稲作(いなさく)が始まって、農耕社会(のうこうしゃかい)が成立しました。
紀元前1500年頃の殷(いん)王朝ではすでに青銅器(せいどうき)の鋳造(ちゅうぞう)が始まり、紀元前6世紀頃には青銅器にかわって鉄器(てっき)が普及し始め、農業生産の向上(こうじょう)を基礎とする高度の文明が発展しました。
尚、青銅とは銅と錫(すず)との合金です。




いつも有難うございます。
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ツクヨミ 河姆渡遺の写真を見ると、日本の弥生式とそっくりと思った事があります。
殷の青銅器についた饕餮文が、凄くて。
中国って広いから、南と北では随分違うんでしょうね。
ツクヨミ様
黒田裕樹 河姆渡(かぼと)遺跡が発見されてから、中国大陸では黄河文明と長江文明という二つの文明が存在したと考えられていますね。新たな遺跡の発掘で定説が覆されるのはよくあることです(三内丸山遺跡とか)。
弥生時代の頃は、まだまだ大陸の文化の方が先行していますから、土器や青銅器が類似しているのは十分考えられますね。
こんばんは^^
のらねこみゅー 黒田裕樹 様
わかりやすい説明なのでしっかり今は頭に入っていきます♪
中学の頃は何??~~みたいな感じで頭に入りませんでした^^;
のらねこみゅー様
黒田裕樹 コメント有難うございます。
今の私には励みになるだけでなく、一番嬉しい「お褒めの言葉」です!
今後もできるだけわかりやすい文章を書いていきますので、いつでもご訪問下さいね。
buyan スケールの大きさを感じさせる古代中国の歴史と文化。
大陸文化が日本に影響をもたらすところまでちょっぴり近づいて、でもまだ先は長そうですね。
でもさすがに先生です。興味をもたせるための工夫が表現方法にも出ています。
久しぶりに勉強になりました(^-^)/
清家淳子 私は縄文時代から弥生時代テストめちゃくちゃ頑張って勉強したので、すごい懐かしかったです(^O^)/
またお邪魔させて頂きたいです
buyan様
黒田裕樹 お褒めに預かりまして光栄です(^^ゞ
おっしゃるとおり、先はまだ長いですね。いずれ書かせていただきますので、しばらくお待ち下さいませ(笑)。
清家淳子様
黒田裕樹 はじめまして。コメント有難うございます。
テストで頑張って勉強されたのも大事な思い出のひとつですね。それで歴史に興味をお持ちになったのであれば素晴らしいことだと思います。
この講座の命題でもあるのですが、「古代史」とか「現代史」とかの枠を設けるのではなくて、我々が暮らすこの国の歴史が、過去から現在、そして未来へとすべてつながっているんだという思いで細々とブログを続けております。
まだ弥生時代が始まったばかりですが、今後ともぜひお付き合いいただければ幸いです。
ちなみに、中国の英語である「China」は秦の国名が語源とされています。
漢は大陸統一後も勢力の拡大を続け、武帝(ぶてい)の紀元前108年には朝鮮半島北部を中心に直轄地(ちょっかつち、直接支配する地域のこと)とし、楽浪郡(らくろうぐん)以下の四郡を置きました。
「楽浪郡」は後でまた学習しますので、しっかり理解しておきましょう。
広大な領土を持つ漢の文化は次第に周辺の諸民族へと及び、やがては我が国にも少なからず影響を与えていくのです。
ここまで中国大陸の話ばかりでしたね(笑)。次回からようやく我が国の歴史の話に戻ります。




いつも有難うございます。
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bunyan 漢までくると私も少しだけわかる部分がありますが、中国史から日本史に戻っちゃうんですね。もう少しだけ続けてほしかったのがホンネ。
でもお互い日本人ですからね。
弥生文化書いてください。
bunyan様
黒田裕樹 中国史も面白いんですが、とりあえず日本史を先行、ということでご理解下さい。
日本史と密接に関わってくる場面では、今後も断片的に中国史に触れることになると思うので、そちらも宜しくお願いします。
この文化は水稲耕作(すいとうこうさく)を行い、金属器(=青銅器や鉄器)が広まり、また縄文土器とは種類の異なる土器である弥生土器(やよいどき)が使用されました。
これらの文化を弥生文化といい、この時代(=3世紀頃まで)を弥生時代といいます。
尚、金属器や土器については別の機会に改めて学習することにします。
ところで、弥生文化の及んだ地域は、日本列島のほぼ全域に及んだ縄文文化とは異なり、東北地方から九州南部までにとどまりました。
なぜか分かりますか?
答えを解くカギは、縄文時代晩期から広がったとされる「アレ」です。ここにも書いてましたっけ?




いつも有難うございます。
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bunyan コメントありがとうございました。
連載文にくわしく書けない部分もあり、説明不足かもしれませんが、コメントの返事に少しだけ書き込みしましたのでお読みください。
弥生文化の内容は高校生以下でも理解できるよに工夫されてますね。
丁寧な気配りだと思います。
bunyan様
黒田裕樹 こちらこそ有難うございます。
貴ブログ拝見しました。歴史上の細かい出来事ひとつにしても謎だらけですね。
基本的に高校生レベルの内容のブログですが、いわゆる受験対策ではなく、将来の教養として身につけてほしい内容になるよう心がけているつもりです。
そう! 水稲耕作(すいとうこうさく)です!
水稲耕作は気候条件が適した西日本一帯にまもなく普及し、やがて東北地方までに及んだのですが、北海道や南西諸島までには広まりませんでした。
なぜなら、これらの地域は水稲耕作に向かない気候だったからです。そのかわりに独自の文化が広まっています。
例えば、北海道では狩猟(しゅりょう)や漁撈(ぎょろう)に基礎をおいて、サケやマスなどを採集する続縄文文化(ぞくじょうもんぶんか)が、南西諸島では貝類などを採集する貝塚文化(かいづかぶんか)がそれぞれ栄えました。
ところで、水稲耕作の開始によって人々の生活は食物採取から食物生産への段階へと入っていきました。すなわち、それまでは狩猟や漁撈などの自然環境に依存(いぞん)する生活から、水稲耕作が可能となったことによって、食糧を計画的に生産できる安定した経済生活へと移っていったのです。




いつも有難うございます。
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清家淳子 北海道とかでは、ずっと冷害に苦しめられてきました。
今では、品種改良されるし、地球温暖化によって、北海道の米はおいしいとまで
言われるようになりました(^◇^)
お米を作れることに感謝感謝ですね(*^。^*)
清家淳子様
黒田裕樹 いつもコメント有難うございます。
昭和初期に「農林1号」が開発されるまでは、北海道や東北、北陸では米が出来にくく、味も良くなかったんですよね。
品種改良によっていつでも美味しい米が食べられる現代の私たちは、とてつもなく幸せであるという現実を忘れないようにしたいものです。
bunyan 歴史の先生に大変失礼ですが、水稲耕作が拡大していったのは列島平野部で山間部には拡大しておらず、弥生時代は狩猟と水稲が混在していたのではないでしょうか。
素人が生意気なことを言ってすみません。
間違っていたらごめんなさい。
さすらい こんばんは。
なるほど勉強になります。
応援していきますね。
bunyan様
黒田裕樹 沖積平野で稲作が盛んになったのは、意外にも江戸時代以降のことです。
平野部は傾斜が少なく、排水しにくいので水はけが悪いうえに、河川の氾濫が多くてせっかく育ったイネが流されてしまうリスクがありました。
江戸時代になって土木技術が上昇し、利根川の付け替えなどの大規模な工事によって本格的な灌漑や治水ができてから、平野部でも米づくりが本格的にできるようになりました。
従って、江戸時代以前は台地や河岸段丘に棚田をつくるのが一般的でした。
なお、弥生時代でももちろん狩猟や漁撈を行ってますよ。近いうちに書かせていただきます。
さすらい様
黒田裕樹 有難うございます。こちらも貴ブログの更新を楽しみにしております。