完新世になって日本が列島化したということは、周りを海に囲まれたということですよね。そうなると日本の各地で入江(いりえ)が発達しますから、魚類が捕りやすくなるのはむしろ当然といえます。
魚類のほかにも貝類の採集が活発化しました。縄文時代の遺跡には、人々が食べた貝の貝殻(かいがら)などが堆積(たいせき)してできた貝塚(かいづか)が数多く残されています。
ところで、皆さんは我が国で最初に本格的に調査された貝塚をご存知ですか?
東京にある大森貝塚(おおもりかいづか)なんです。
この貝塚は、1877(明治10)年にアメリカ人の動物学者であるモースが汽車の車窓から偶然発見しました。後に研究結果をまとめたモースが、貝塚で発見された土器に縄目の文様がついていたことから土器の名前を「cord marked pottery(=縄文土器)」と名づけたのが、今日用いられる「縄文」の名称の由来です。




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その他にも網を用いた漁も行っていました。また、丸木舟(まるきぶね)も各地で発見されており、八丈島(はちじょうじま)や伊豆諸島(いずしょとう)まで渡るなどの航海術も身に着けていたようです。なぜなら、前述した島々にも縄文時代と見られる遺跡が残っているからです。
植物性食料としては、ドングリ・クリ・クルミなどの木の実や、ヤマイモなどの根茎類(こんけいるい)が主に採集され、木の実をすりつぶすには石皿やすり石が、根茎類を掘り起こすためには打製の石斧(せきふ)が使われていました。集められた食料は、集落の一角に設けられた貯蔵穴(ちょぞうけつ)に保存されました。
また、縄文時代の晩期には水稲耕作(すいとうこうさく)が行われた可能性があります。




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とまと こんばんは(^o^)
ご訪問&コメントをありがとうございます。
歴史と言えば、聖徳太子以降の時代のイメージでした。
縄文時代を、こんなに丁寧に説明なさっているのを、はじめて読みました!!
かなり、ジャンルの違うブログですが、勉強させて頂きたいので、リンクさせて下さい。
宜しくお願いします。
有難うございます。
黒田裕樹 早速のご連絡有難うございます。
こちらもリンクさせていただきました。
ブログ自体はまだ始めたばかりですが、「継続は力なり」の精神で少しずつ更新していきますので、今後とも宜しくお願いします。
はじめまして
胡麻むぎ 応援のコメントありがとうございます。
ブログを始めてから初めてのコメントでした。
かなり詳しいブログをされているようなので
これからも参考にさせていただきます。
またよろしくお願いします。
胡麻むぎ様
黒田裕樹 初めてのコメントだったとは光栄です。
こちらも昔の写真等には興味がありますので、これからもブログにお邪魔させていただきたく思います。
リンクさせていただきましたので、これからも宜しくお願いします。
一つの住居には一つの家族が住み、数件の竪穴住居が寄り合って形成された集落には、30~50人前後の人々が住んでいたと考えられています。そんな竪穴住居などが数多く発見された、我が国最大級の縄文時代の遺跡として有名なのが、青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)ですね。
縄文時代の集落では基本的に自給自足の生活を送っていましたが、石鏃(せきぞく)などの材料になる黒曜石(こくようせき)やサヌカイト、装身具用のひすい(硬玉=こうぎょく)などの不足する物資はかなり遠方の集団との交易で手に入れていました。
なぜそんなことが分かるかというと、例えば黒曜石は火山帯でしか産出しないなど、これらはいずれも生産地が限られているにもかかわらず、全国の遺跡で見受けられるからです。




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