大統領の訃報(ふほう)を耳にした鈴木首相は、当時存在した同盟通信社の記者の質問に答えるかたちで「大統領の死がアメリカ国民に対して意味する大きな損失は私にはよく同感できる。深い哀悼(あいとう)の意をアメリカ国民に向けて送るものである」との談話を発表しました。
我が国の同盟国であったドイツのヒトラーが、ルーズベルト大統領の死に際して誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)の言葉を並べ立てたのとは対照的な、敗色濃厚の窮地(きゅうち)に立ちながらも品位と礼節を失わなかった、武士道精神の発露(はつろ)たる鈴木首相の言葉は、世界中から称賛されました。
なお、ルーズベルト大統領の急死を受けて、副大統領のトルーマンが新たにアメリカ大統領に就任しました。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
日本人の考え方に「敵に塩を送る」という
諺が有りますが、今日のお話の様に
アメリカに対しても、また、北朝鮮などに対しても
敵視しながらも、相手国の窮地の際には
手を差し伸べるという大人の対応と言うべき
行動は本当に日本らしいというか、こういう気持ちは
忘れずに居たいものですね。
ただ、相手国によっては
日本のこのような考え方が余りにも崇高過ぎて
自国のそれまでの行いが余りに未熟なものだと
思い知らされる為に、逆に反感を持つ国も
有ることは有りますよね(^_^;)
何処とは言いませんが・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに「何処とは言いませんが」そういう国がありますよね。
今も昔も変わらないところが厄介であり、悲しくもあります。
鈴木内閣は、表向きは本土決戦などの強硬策を唱えながら、その裏では密かに戦争終結を図ろうと努力していました。しかし、交渉がなかなか進まない間に、アメリカのトルーマン大統領とイギリスのチャーチル首相、そしてソ連のスターリンが、7月にドイツのベルリン郊外のポツダムで、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談を行いました。これをポツダム会談といいます。
会談を受けて、7月26日にはアメリカ・イギリス・中華民国の3ヵ国によるポツダム宣言が発表されました。当時はソ連が対日戦に加わっていなかったため、中国を加えることでカムフラージュしようと考えたのです。
なお、鈴木内閣はソ連が参戦の決定をしていたことを見抜けず、ソ連に対して和平の斡旋(あっせん)を要請していました。このあたりにも、当時の我が国の情報戦における決定的な敗北、インテリジェンスの欠如が見受けられます。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど。
耳も目も塞がれたまま、勝利せよというのは
それこそ並大抵の技では有りませんものね(^_^;)
いかに迅速に多くの正確な情報を得る事が
出来るかが勝敗を分けますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 何事にもそうですが、外交戦こそ情報の入手の有無が大きく左右しますからね。
この段階で、我が国の敗戦は濃厚だったのかもしれません。
もりりん シベリア出兵のときに孤児を救われたことなどから親日感情の強かったポーランドはこの時ドイツとソ連に分割占領されていたそうですが、
その独立活動家たちを日本大使館が支援していたそうですね。
彼らは連合国の極秘情報だったソ連の対日参戦の情報を日本大使館に伝えていて、
大使館も当然その情報を外務省に伝えていたそうですけど
外務省のほうで黙殺されてしまったのでしょうかね?
もりりんさんへ
黒田裕樹 仰る件につきましては、以下のURLに詳細が載っていますが、外務省の態度については今もなお詳しいことは分からないようですね。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog323.html
いつの時代であろうとも、天皇なくして我が国の将来は有り得ません。このため、我が国ではポツダム宣言を受けいれるかどうか、態度を明確にしないまま連合国の出方をうかがうことにしたのですが、この裏には、アメリカによるとんでもない謀略が隠されていました。
実は、当初の宣言文には「日本が降伏すれば天皇の地位を保証する」と書かれていたのです。駐日大使の経験者で我が国の実情をよく知っていたグルーによって、我が国が宣言に応じやすいようにつくられていたのですが、土壇場(どたんば)でアメリカ大統領のトルーマンが削除しました。
トルーマンが削除した宣言が発表されたことによって、アメリカは宣言以前に決まっていた計画を実行に移しやすくなったのです。その計画こそが、悪名高い「原子爆弾の日本への投下」でした。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
こう言う話を伺うと、なんとも言えない腹立たしさを
感じるものですが、トルーマンの様に日本に対しては敵意そのものしか感じられなかったアメリカ人が居る一方で、日本の事を少しでも理解してくれていたアメリカ人が一人でも居たという存在は貴重であり、
有りがたく思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 個人ではなく、国家としての我が国への対応がこうであったという厳しい現実ですよね。
これをしっかり受け止め、未来へとつないでいかねばなりません。
我が国が降伏寸前であったにもかかわらず、まるで実験を行うかのように原爆を2つも落としたアメリカによる暴挙は、東京大空襲とともに国際法上でも決して許されることのない、民間人などの非戦闘員を対象とする空前の大虐殺です。
さらには、アメリカの原爆投下に慌てたのか、ソ連がそれまでの日ソ中立条約を一方的に破って8日に我が国に宣戦布告し、9日から満州北部などへの侵攻を開始しました。
このままでは北海道をはじめとする我が国北部の領土がソ連に奪われてしまいます。我が国はまさに絶体絶命の危機に陥(おちい)ってしまったのでした。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
後日談で、広島、長崎の後に中部地方にも
投下される予定になっていたと聞いた事が有りましたが、(多分、その辺り)アメリカという国は、
そこまで非道になれる要素を常に孕んでいる
所があるので、本来はアメリカとの関わりも
程々にしておきたいと個人的には願っています。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お気持ちはよく分かります。
アメリカ抜きで現在の我が国の安全保障が成り立つのか。
このあたりも非常に重要になると思います。
会議は鈴木首相の他に、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣、東郷茂徳(とうごうしげのり)外務大臣など合計7人で行われ、東郷外相は宣言の受諾を、阿南陸相はいわゆる本土決戦も辞さないと徹底抗戦をそれぞれ主張し、いつまで経っても平行線が続きました。
やがて日付も10日に変わり、開始から2時間経ったある時、鈴木首相は立ち上がって昭和天皇に向かい、こう言いました。
「出席者一同がそれぞれ考えを述べましたが、どうしても意見がまとまりません。まことに畏(おそ)れ多いことながら、ここは陛下の思(おぼ)し召(め)しをおうかがいして、私どもの考えをまとめたいと思います」。
首相による発言をお受けになって、昭和天皇はお言葉を発せられました。
「それなら意見を言おう。私の考えは外務大臣と同じ(=ポツダム宣言を受諾する)である」。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
やはり最後の決断は、天(天皇)に任さるを得なかった訳ですね。
この時期の一つ一つの決め事には
大きな意味を持つものが多かったでしょうから
天皇陛下のご心痛、ご心労は相当なもので
あった事でしょう。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、相当なご心痛であったと考えられます。
この後のお言葉が素晴らしいんですよね…。
「念のため言っておく。今の状態で阿南陸相が言うように本土決戦に突入すれば、我が国がどうなるか私は非常に心配である。あるいは日本民族はみんな死んでしまうかもしれない。もしそうなれば、この国を誰が子孫に伝えることができるというのか」。
「祖先から受け継いだ我が国を子孫に伝えることが天皇としての務めであるが、今となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらい、その人々に我が国の未来を任せる以外に、この国を子孫に伝える道はないと思う」。
「それにこのまま戦いを続けることは、世界人類にとっても不幸なことでもある。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちを考え、堪(た)えがたく、また忍びがたいことであるが、戦争をやめる決心をした」。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですよね。
戦争を辞める決断と言うのは、始めることよりも
更に苦しい選択だったと思います。
まさに断腸の思いですね。
それでもこの決断のおかげで、それ以後の
日本には子孫が繁栄し、平和が70年間今日まで
続く事が出来ました。
それを考えると、天皇のこの時の苦渋の判断は
その当時を生きる人達には、非常に悔しい選択では
あったでしょうけれど、未来に生きる私達にとっては
どれほど有り難い選択であった事でしょう・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
だからこそ、私たちは昭和天皇のご聖断を重く受け止めるとともに、陛下に感謝しなければなりません。
もりりん こんばんわ、はじめまして。
久々に乗る電車の待ち時間潰しに読み始め、
そのまま読みふけってしまいました。
保守的な家への反発から地球市民になっていましたが
歴史を趣味とすることで愚かさに気付き、帰化して日本人になった者ですw
かつてナポレオンはフランスの国民的英雄を再評価すること、
つまり歴史を見直して教育を行うことで近代国家のフランス人を作り上げたと言います。
しっかりとした歴史教育こそ、日本人の復活に不可欠のものと思います。
どうぞ、善き話をお聞かせください。
更新を楽しみにさせていただきます
もりりんさんへ
黒田裕樹 はじめまして、拙ブログにお越しくださり有難うございます。
お褒めのお言葉、光栄に存じます。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
我が国の条件に対して、連合国側は8月12日に回答を伝えましたが、その内容は「日本政府の地位は国民の自由な意思によって決められ、また天皇の地位や日本政府の統治権は、連合軍最高司令官に従属する」というものでした。
この条件では我が国が連合国の属国になってしまう危険性があり、また何よりも天皇の地位の保証が不完全なままでした。この内容でポツダム宣言を受けいれるべきか、外務側と軍部側で再び意見が対立しましたが、ソ連による我が国侵略の脅威(きょうい)が間近に迫った現状では、もはや残された時間はありませんでした。
そこで、鈴木首相は14日に改めて御前会議を開きました。会議では自らの意見を述べる者も、またそれを聞く者も、すべてが泣いていました。陛下も意見をお聞きになりながら何度も涙を流され、しばしば眼鏡を押さえられました。そして、昭和天皇による2度目のご聖断が下りました。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
自分の生まれた国を悪く言うものでは
無いかも知れませんが、
客観的に観た時に、
日本がこれだけ外国から苦しめられなければ
ならないという事は、何か日本も
これまでの外国との対応に不十分な
内容が多かったからではないかと
思えてなりません。
日本の良い所、日本が目指しているもの。
或いは、日本の長所をもっと理解して
貰えたなら、もしかしたら
また別な道が開けていたかも知れないと
思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国がここまで追い込まれた理由としては、確かに我が国が早く戦争を終わらせなかったなど落ち度があることは否めません。
戦争は片方だけが悪いわけではない。我が国も外国も同じことです。
ご聖断が下った後、阿南陸相は耐え切れずに激しく慟哭(どうこく、悲しみのあまり声をあげて泣くこと)しました。昭和天皇はそんな阿南陸相に対して優しく声をおかけになりました。
「阿南、お前の気持ちはよく分かっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」。
昭和天皇によるご聖断は下りましたが、それだけでは大日本帝国憲法(=明治憲法)の規定においては何の効力も持たず、内閣による閣議で承認されて初めて成立するものでした。もし閣議の前に阿南陸相が辞任して、後任者の選任を陸軍が拒否すれば、軍部大臣現役武官制によって鈴木内閣は崩壊し、ご聖断をなかったことにすることは可能でした。
陸軍の強硬派は戦争継続のために阿南陸相に辞任を迫りましたが、阿南は以下のように一喝(いっかつ)しました。
「ご聖断が下った以上はそれに従うだけだ。不服の者あらば自分の屍(しかばね)を越えてゆけ!」
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
>不服の者あらば自分の屍(しかばね)を越えてゆけ!」
今の時代、こんなセリフを言うのは、
孫正義氏くらいしか居ないのでは無いでしょうかw
改めてこうして伺うと、男気のある発言ですよね。
勿論、生ぬるい世の中では無かったからこその
生きた言葉がこうして生まれたのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに男気ある発言ですよね。
阿南陸相にはそこまでの覚悟があったということなのでしょう。
想像を絶する痛みや苦しみのなか、阿南陸相は介錯(かいしゃく、とどめを刺して楽にすること)を断り、午前7時10分に絶命しました。以下は血染めの遺書に残された、阿南陸相の最期の言葉と辞世の句です。
「一死以テ大罪ヲ謝シ奉(たてまつ)ル 神州不滅ヲ確信シツツ」
「大君(おおきみ)の 深き恵に 浴(あ)みし身は 言いのこすべき 片言(かたこと)もなし」
阿南陸相の自害をお知りになった昭和天皇は仰いました。
「阿南には阿南の考えがあったのだ。気の毒な事をした」。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
最後はそうなりましたか・・
責任感の人一倍強い方とお見受けしました。
然しながら、いつも思うのですが
自害することで全てがご破算になる
という事は有りません。確かに
一人の命の重さは尊いものですが、
一人の命を失くしただけでは誰も救われません。
それならば、生きて天命を迎えるまで
一人でも多くの心を救える様な努力を
することこそ、自他共救われる道だと
解釈しています。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 生命を大切にする。確かに非常に重要なことです。
ただ、時として、我が身を投げ出さねばならないこともあるのが悲しいところなんですよね。
阿南陸相の自死は、決して無駄にはなりませんでした。次回の更新で詳しく紹介します。
オバrev う~ん、凄まじい最期ですね。
日本男児の生き方としては理解出来るような気がします。
実際に、今現実的に自分は出来ないし、欧米人には理解できないかもしれないけど、心意気だけは分かる気がします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、真の日本男児ですよね。
その生き方と死に方に、日本人の真髄を見る思いです。
陸軍の最高責任者として、戦争への責任などが何かと問題視される阿南陸相ですが、昭和天皇のご聖断を受けて陸軍全体をまとめ上げ、最後にはすべての責任を一人で取ったその潔い姿勢は、立派なものであったというべきでしょう。
また、陛下の侍従長として長く仕えたことで、昭和天皇とまさに阿吽(あうん)の呼吸でご聖断を導き出し、本土決戦による我が国滅亡の危機や、ソ連の参戦による北海道などの侵略をギリギリのタイミングで防ぎきった鈴木首相の政治力も素晴らしいものがありました。
国民のことのみを考え、自らを顧(かえり)みずに下された昭和天皇のご聖断の背景には、こうした「忠臣」による我が国への無私(むし、私心や私欲のないこと)の行動もあったのです。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですね。
確かに日本男児らしい最期だと思います。
然しながら、これも戦争と言う常軌を逸した事態であったからこそ、最期も常軌を逸したもので終わらせないと、示しが付かなかったのかも知れませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに異常事態でしたからね。
できればこのようなことは二度と起きてほしくありません。
象嵌師 アメリカの腹黒さと対照的ですね。
象嵌師さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
我が国は誇ってよいと思います。
「終戦の詔書」は御前会議での陛下のお言葉をもとに起草されましたが、その中で最も重要な部分が、実は最後に記されていることを皆さんはご存知でしょうか。
「爾(なんじ)臣民其(そ)レ克(よ)ク朕(ちん)ガ意ヲ体(たい)セヨ」
(現代語訳:我が国民は以上の私の意思に基づいて行動してほしい)
この最後のお言葉があったからこそ、終戦後に連合国軍が上陸しても、軍人は粛々(しゅくしゅく)と武装解除に応じ、国民も黙って現実を受けいれたのです。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
先日、この玉音放送の原盤が存在したという
内容のテレビを見ていたのですが、実際には
いつもドラマや映画で放送されている声の高低や
速さが幾分違かった様ですね。
それにしても、戦いに関しては
常に司令塔となる存在が絶対不可欠なのですね。
その人物がカリスマ性に富んだ人物であれば
有るほど、求心力が高まる。。そんな気がします。
管理人のみ閲覧できます
-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 玉音放送は当時の国民にあらゆる意味で衝撃的でしたでしょうね。
仰るとおりカリスマ的存在が不可欠であり、それは戦いだけでなく様々な場面で重要な役割を果たしていると思います。
一般邦人の帰国は困難を極め、終戦時にいわゆる外地にあった邦人居留民のうち、ソ連の支配下に入った満州や、北朝鮮からの引揚げの際には多くの犠牲者が出ました。後に横綱に昇進し、国民栄誉賞を受賞した大鵬(たいほう)関も、幼少の頃に命からがら南樺太から引揚げています。
ソ連軍は我が国がポツダム宣言を受けいれた後も侵攻を重ね、8月18日には千島列島の北東端に位置していた占守島(しゅむしゅとう)に攻め込みましたが、樋口季一郎司令官の決断によって日本軍が勇敢に戦ったこともあり、北海道をソ連に占領されることは免(まぬが)れました。
しかし、ソ連の理不尽さはこの後も止まることを知らず、占守島上陸作戦の後も南樺太を占領したほか、択捉島(えとろふとう)や国後島(くなしりとう)なども不法に支配し、我が国固有の領土であるはずの北方領土は、いまだにロシアから返還されていません。
加えて、ソ連軍が侵攻した満州や北朝鮮・南樺太・千島列島で武装解除された軍人のうち、60万人近くがシベリアなど各地の収容所に送られるという抑留(よくりゅう)を受け、長期間の過酷な強制労働によって、約6万人もの人々が亡くなったという悲劇があったことを、私たちは決して忘れてはならないでしょう。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
何処の世界にも居るのでしょうけれど、
どうもこう言う話しを伺うと
ソ連と言う国の姑息さが浮き彫りにされて
アメリカの事をどうのこうのと批判する気持ちが
薄れて来ますね(^^ゞ
ソ連から言わせれば、漁夫の利なのでしょうけれど
他国から見れば、ドサクサに紛れる事でしか
利益を奪えない腰抜け国としか認識されないでしょうね。
まあ、一番良いのは仲良くしていることで
隙を見せない事なのでしょうけれど(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、ソ連も中国も第二次世界大戦で「漁夫の利」を得た国ですからね。
友好関係と言っても、隙を見せたらたちまちやられてしまうのはいつの時代も同じですが…。
開戦前まで長い間アジアを抑圧してきた欧米列強の支配が、大東亜戦争をきっかけに急速に崩壊への道を歩んだからです。緒戦の日本軍の勝利によって、イギリスやアメリカ、オランダの支配から脱出したアジアの諸民族は、日本軍の占領統治を受ける間に独立心を高めました。
そして、我が国の敗戦後に再び植民地として支配しようとした欧米列強と激しい戦闘を重ねた諸民族は、インドネシアのように現地に残った日本軍将兵の協力もあって、次々と独立を果たしたのです。こうした動きはやがてアジアからアフリカ・アメリカ大陸に広がり、多くの国家が独立する流れへとつながっていきました。
大東亜戦争は我が国に敗戦という厳しい結果を課した一方で、戦前からの日本など有色人種の国家にとって悲願でもあった「人種差別の撤廃(てっぱい)」という大きな理想を実現したといえるのではないでしょうか。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに例え残念な結果であっても
そこから何かは得る事も有るでしょうし
無駄な事は1つも無いと言うのはよく言われる言葉ですものね。
それにしても、肌の色1つで人間の上下を
決めるなんて言うのは本来ならばナンセンスな
話しです。
そんな事でしか自分たちを優位に見せる手段を思いつかない人種は、よほど自分の能力に自信が無いのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、ナンセンスです。
人類史上最大の愚行である人種差別の撤廃に大きな役割を果たした我が国は、その後の人類の歴史に大きな足跡を残すことでしょう。
象嵌師 こんにちは 狂った世界秩序が大東亜戦争によって正された事、 西洋諸国は苦々しくて口には出さないものの内心で認めているんだと思います。 日本にとっても戦争に至る主目的ではなかったにしろ、植民地解放は目的(大東亜共栄圏によって自国の防衛力も増す)のひとつだったはずです。 それらの事を世界一認めていないのが敗戦国である日本人ではないでしょうか。 日本人の認識が正しい方向にむかう事が私の悲願なのです。
象嵌師さんへ
黒田裕樹 仰るご見解、私も同感です。
大東亜戦争の正当な評価を当事者の我が国が出来ない矛盾を何とかしなければなりませんね。
「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている」。
「今日、東南アジアの諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁(じん)をなした日本というお母さんがあったためである」。
「十二月八日(=大東亜戦争の開戦日)は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭(と)して重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
いえねこ 天皇が人間宣言をしたと同時に欧米諸国の人たちも同じ人間だということがわかってしまった。そんな戦争だったのでしょうね。
ぴーち こんばんは!
なるほど。
この当時の欧米は「野望」で
富と繁栄を得ようとした様ですが、
アジア諸国は「希望」でその地位を獲得しただけあり、まっすぐな考え方ですね!
更にこれまで虐げられて来た苦労と
いつか必ず叶うという強い思いが心をブレさせなかった事で
感謝の心を忘れずにいられたのも
見習わなければならない事だと感じました。
いえねこさんへ
黒田裕樹 なるほど、仰る見解もあり得ますね。
昭和天皇の人間宣言については、私の別の講演で紹介しております。ご参考までに。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-category-566.html
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
我が国も、真実の歴史としっかり向き合うことで、東南アジアの国々の思いを受けとめなければと思います。
史実において我が国は、昭和天皇の「ご聖断」によって昭和20(1945)年8月15日に終戦を迎えましたが、それ以前に戦争を終わらせることはいくらでも可能だったはずでしたし、何よりも緒戦の段階で講和に持ち込むことができれば、先述したとおり、我が国のみならず世界の運命が大きく変わったことでしょう。
振り返ってみれば、我が国が明治維新によって苦難の末に近代国家として生まれ変わった際も、ペリーの来航以前に江戸幕府が自主的に開国するチャンスがいくらでもありましたし、もしそれが実現できていれば、幕末から明治維新にかけての苦難の道のりを歩む必要すらなかったのです。
この流れは、現代でも全く同じです。尖閣(せんかく)諸島や我が国のEEZ(=排他的経済水域)への執拗(しつよう)な干渉、あるいは南シナ海のあからさまな埋め立てといった、中華人民共和国の我が国に対する脅威(きょうい)が現実になろうとしている最中に、憲法改正はおろか安保法制ですら早急に成立させられないという現状を憂(うれ)えるとともに、暗澹(あんたん)たる思いにさせられます。
我が国はなぜ同じ過ちを何度も繰り返すのでしょうか。それを「民族の特性」であると断ずるのであれば、あまりにも悲しいではありませんか。先人の思いを無駄にしないためにも、日本民族の輝かしい未来のためにも、今こそ私たちは「歴史」に学ばなければならないのです。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。
(※第49回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[10月8日]からは第50回歴史講座の内容の更新を開始します)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
私は歴史民俗学者でも何でもございませんが(^^ゞ
人間の考え方と言うのは、きっと基本的には万国共通なのだと
思いますが、そこにその国の気候やら風土やら
とあらゆる外的要因で変化してしまうのでしょうね・・。
大昔からそうなのかは存じませんが、
日本人は、どちらかというと「変化」を好まない
人種なのかも知れません。
現状が平和であれば、その方法を変えないで居る事に固執し
更にそれがいつまでも続いてくれると信じている部分が何処かに有ると思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにその傾向がありますね。
それが民族のDNAであったとしても、祖国を守るために何らかの動きがあっても良いような気もします。