昭和17(1942)年4月18日、東京の東方海上1,200kmの太平洋上の航空母艦(=空母)ホーネットからアメリカB25爆撃機16機が飛び立ち、東京・名古屋・神戸を爆撃した後に中国の基地へと逃げ込みました。これをドーリットル空襲といいます。
それまでハワイやフィリピン、あるいはインドネシアの海上決戦において、我が国に連戦連敗だったアメリカにとっては、ドーリットル空襲の成功は溜飲(りゅういん)を下げたかたちとなりましたが、本土を空襲された日本海軍の衝撃は大きいものがありました。
屈辱(くつじょく)を味わった日本海軍は、ハワイ諸島の西にあり、アメリカ海軍の中継基地となっていたミッドウェーを攻撃することにしました。いわゆるミッドウェー海戦の始まりです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
詳しくは存じませんが、アメリカは日本軍の
零戦の弱点を
短期間で攻略し、またその作りを盗んだ様ですね。
そういう面は、やはりアメリカの技術の高さや経済力には敵わなかったのかも知れませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 詳しくは存じませんが、アメリカは日本軍の
> 零戦の弱点を
> 短期間で攻略し、またその作りを盗んだ様ですね。
> そういう面は、やはりアメリカの技術の高さや経済力には敵わなかったのかも知れませんね。
零戦の話はそのとおりですね。
今回はどうなるのでしょうか…。
さて、ミッドウェーの開戦当時の戦力は、我が国の主力空母が4隻だったのに対して、アメリカのそれは3隻とほぼ互角でしたが、全体の戦力としては米軍の方が明らかに劣勢であり、通常で考えれば日本軍が圧勝してもおかしくありませんでした。
しかし、日本海軍の暗号が解読されてアメリカ側に筒抜けになっていたことや、相手の諜報を全く傍受(ぼうじゅ)しないなど、事前の索敵(さくてき)活動を十分に行わなかったり、戦闘の作戦にも詰めの甘さが見られたりするなど、これまで連戦連勝を続けていた日本軍には、明らかに驕(おご)りや油断が見られました。
こうした中で始まったミッドウェー海戦は、我が国が誇るべき戦闘機である36機の零戦(ゼロせん、零式艦上戦闘機)が、アメリカの戦闘機のうち約50機を撃墜(げきつい)するなど完全に制空権を握り、また敵空母から襲ってきた雷撃機約70機も落とした一方で、零戦は一機も失われないなど、日本軍は鬼神のごとき活躍を見せました。
ところが、日本軍が攻撃を急ぐあまり、空母の上に護衛の戦闘機を一機も配置しなかったという油断があったために、米軍の奇襲による悲劇が起きてしまったのです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!
何事にも通じる事だとは思いますが、
「慢心」してしまうことが一番の命取りだと
思います。
例えば、これまで点取には慎重に
バントで確実に進めていた試合を
打撃に自信があるからと、極力バントをしなくなった
ある球団のやり方には少々不安を感じるこの頃です。。(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 分かりやすい例えですね(^^;
慢心は大怪我の元。これはいつの時代も変わりません。
米軍による乾坤一擲(けんこんいってき)の奇襲によって、我が国の空母4隻のうち3隻が炎上し、残りの1隻も後に爆撃を受けて沈没するなど、日本海軍は大敗を喫してしまったのです。
もし我が国がアメリカ軍の奇襲を許していなければ、日本海軍が勝利する可能性は高かったでしょう。日本軍がミッドウェーを制すれば、アメリカはすぐ近くにあったハワイを持ちこたえることができず、陸軍を西海岸に集結せざるを得なかったでしょう。
そうなれば、アメリカはヨーロッパにまで手が回らなくなりますから、イギリスを援護することができず、イギリスはドイツの軍門に下った可能性が高いですし、アメリカも我が国と講和を結ぶしかなかったはずです。
ミッドウェー海戦は、結果として大東亜戦争のみならず、第二次世界大戦全体の分水嶺となりました。そして主力空母という物的資源や、少数精鋭のベテラン飛行士が戦死するなど人的資源を失ったのみならず、太平洋における制海権の確保が難しくなった我が国は、この大敗北を境目として劣勢に転じていくことになったのです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると
これまで、アメリカとの戦争に敗れた決定的な敗因は経済的や物質的な面で
明らかにアメリカに劣っていたせいなのかも知れないと思っていましたが、
アメリカの戦いに対するノウハウが日本よりも
上だったことが勝敗を決めていたのかも知れないと
感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こうして伺っていると
> これまで、アメリカとの戦争に敗れた決定的な敗因は経済的や物質的な面で
> 明らかにアメリカに劣っていたせいなのかも知れないと思っていましたが、
> アメリカの戦いに対するノウハウが日本よりも
> 上だったことが勝敗を決めていたのかも知れないと
> 感じました。
結果論ですが、そういわざるを得ませんね。
大変残念な戦いでした。
また同年5月には、北太平洋のアメリカ領アラスカ州西のアリューシャン列島の先にあるアッツ島にて、日本軍の守備隊が全滅するという、いわゆる玉砕(ぎょくさい)の悲劇が初めて起きてしまいました。
なお、アッツ島での玉砕直後に悲報を耳にされた昭和天皇は「最後までよく戦った」という惜別の電報を、二度と聞くことのできない部隊に対して発するように命じられたと伝えられています。
また、アッツ島の玉砕を受け、すぐそばにあったキスカ島の約5,000人の部隊も全滅の危機に瀕(ひん)しましたが、樋口季一郎(ひぐちきいちろう)将軍の指揮によって全員の帰還を達成するという奇跡もありました。
ただし、アメリカ軍はアリューシャン列島の戦いにおいて、我が国の零戦をほとんど無傷の状態で手に入れており、その零戦を徹底的に研究し、新鋭機器の開発と大量生産に没頭したアメリカによって、零戦の優位性は失われ、やがて我が国は制空権すら奪われるようになっていったのです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
状況が劣勢になり、もはやここまでという
所まで追い詰められた時には、退避させるという
判断も勇気が居る決断だったと思いますし、
命を本当に重んじるのであれば、
そのような判断は不可欠だと思います。
生き恥を掻く・・という考え方こそ、今思うと
恥な事では無いかと案じます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お気持ちはよく分かりますが、当時の価値観など様々な事情もありますからね。
一方で、キスカ島の「パーフェクトゲーム」は今振り返っても見事だと思います。
ぴーち おはようございます!
よく戦争関連の番組の中で、仲間は皆戦死をしたのに自分だけが生き残ってしまったことを「恥」と思いながら自分自身を責め続けてこれまで生きてきた方の話を伺ったりすると、やるせない思いを抱いてしまうんですよね。
そう言う方たちに、どうかこれ以上苦しまずに
歴史の生き証人として、堂々と
ご自分が体験した辛い記憶と向き合い、今の世の中に役立つ良い知恵を与えて貰いたいと願うと同時に、恥では無い事を自覚して頂きたいと切に願いたいのです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、恥でも何でもありません。
私自身も元帝国軍人の皆様に何度かお会いする機会に恵まれておりますが、皆様が誇りをもって生きておられます。
同志に対する思いやりや愛情に満ちあふれた素晴らしい方々ばかりです。
日本人としての気概を私たちも学ぶべきですね。
昭和18年11月5日、東條英機首相は大東亜新秩序の建設の方針を協議するため、アジア各地域の代表を東京に集め、世界史上初めて有色人種のみで行われた首脳会議でもあった大東亜会議を開催しました。
大東亜会議には東條首相の他に南京国民政府の汪兆銘(おうちょうめい)行政院長、満州国国務総理の張景恵(ちょうけいけい)、タイ首相代理のワン=ワイタヤコーン、フィリピン大統領のラウレル、ビルマ首相のバー=モウ、またオブザーバーとして自由インド仮政府代表のチャンドラ=ボースが出席しました。
大東亜会議において、各国は「お互いを尊重し、それぞれの民族が歴史や文化、あるいは伝統を活かしながら文化交流を深め、経済関係を強化することで相互に発展し、世界各国とも進んで仲良くすべきである」という内容の大東亜共同宣言を採択しました。なお、戦後の1960(昭和35)年の第15回国連会議で植民地独立宣言が決議されていますが、その内容は大東亜共同宣言とほぼ同じでした。
ところで、戦局の悪化につれて、中国大陸では日本軍が中国共産党のゲリラ戦に悩まされた際、我が国側から「三光作戦」と呼ばれた虐殺(ぎゃくさつ)を行ったり、また中国戦線において毒ガスを使用したり、あるいは捕虜の兵士を細菌の生体実験に利用したりしたという記載が歴史教科書に見られますが、これらはいずれも根拠もない捏造(ねつぞう)であることが明らかになっています。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
捏造した内容が堂々と教科書に記載されているのは
非常に遺憾な事ですよね。
教科書に記載されていれば、それを最初に覚えた子供はそういうものだと認識してしまいますものね。
考えてみれば、怖い話です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもってそのとおりです。
どんなことがあろうと、嘘や捏造を教えることは絶対に許されません。
我が国は絶対国防圏として、千島・小笠原・マリアナ・西部ニューギニア・スンダ・ビルマを含む圏域と定め、この外郭線(がいかくせん)において敵の侵攻を食い止めながら、航空戦力を中心とした反撃戦力を整備し、来襲する敵に対する攻勢を強めようとしました。
その一方で、日本軍はチャンドラ=ボースの自由インド仮政府を支援するために、ビルマ(現在のミャンマー)からインド北東部の要衝(ようしょう)であったインパールを攻略しようとして作戦をたて、昭和19(1944)年3月に行動を開始しました。これをインパール作戦と言います。
絶対国防圏の基本戦略外でもあったインパール作戦において、日本陸軍は倍近くの兵数を擁(よう)したイギリス軍を相手に健闘しましたが、多数の犠牲者を出した末、同年6月に退却せざるを得ませんでした。
ただし、日本軍の鬼気迫る奮闘ぶりはイギリス軍を恐怖に陥(おとしい)れ、作戦後のインドにおけるイギリスの支配に重大な影響を与えるとともに、戦後のインドの独立につながっていったとも考えられています。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち おはようございます!
日本人の気質なのでしょうか。
日本は何事にも一生懸命になれる国なのでしょうね。
それが受け入れる国によって、
様々に変化してしまうものですが
素直にそれを快く受け入れてくれる国とは
これからも友好的な関係を保とうと努力
出来そうですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 素直にそれを快く受け入れてくれる国とは
> これからも友好的な関係を保とうと努力
> 出来そうですね。
経過はどうあれ、大東亜戦争後に次々と独立を果たした東南アジア諸国とは比較的友好を保っていますからね。
分かる国は分かってくださいます。
昭和19(1944)年6月にアメリカ軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸すると、日本軍は同月のマリアナ沖海戦に大敗するなど、圧倒的物量を誇るアメリカ軍の前に次第に追いつめられるようになりました。
そして7月7日には「今ここに米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋(うず)めんとす。勇躍全力を尽くして従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大儀に生きるを悦(よろこ)びとすべし。米鬼(べいき)をもとめて攻勢に前進し、一人よく十人をたおし、以て全員玉砕せんとす」との最後の命令を発して、指揮官が自決しました。
指揮官の命令を受けた我が国の将兵は、同日から8日にかけてアメリカ軍めがけて最後の突撃を敢行して壮絶な玉砕を遂げ、多くの民間人も自決した末に、翌9日にアメリカ軍はサイパン島占領を宣言しました。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
アメリカという国もこうした無念の死を遂げた多数の命の上に今の平和と繁栄が有るという事を
肝に銘じて欲しいと願うばかりです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもって仰るとおりです。
どの国も、戦争の勝利の意味を深く思い知るべきですね。
一方、サイパン島のマッピ岬に取り残された民間人が、アメリカ軍の目前で岬の絶壁から「天皇陛下、万歳!」と叫びながら次々に身を投げて自決したことから、マッピ岬はやがて「バンザイクリフ」と呼ばれるようになりました。
なお、平成17(2005)年6月に、天皇・皇后両陛下が戦没者慰霊の目的でバンザイクリフをご訪問され、岸壁まで歩まれた後に、多くの方々が身を投げた海に向かわれ、黙祷(もくとう)を捧(ささ)げられました。
さて、サイパン島の陥落によって我が国の絶対国防圏が崩壊したのみならず、太平洋全域における制海権並びに制空権をアメリカ軍に奪われました。さらにはサイパン島の基地を飛び立った新開発の長距離重爆撃機B29が、日本本土の工業地帯に爆撃を加え始めるなど、我が国は本土の防衛すらままならない状況へと追いつめられていったのです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
同じ「ばんざい」でも、
この万歳の光景は、想像しただけでも
背筋が凍る光景です。
二度とこのような意味で
万歳をしないようにしたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るお気持ち、お察しします。
戦争は一方だけではできませんから、このような悲劇を起こさないためにも、安全保障の枠組みをしっかりと構築すべきですね。
当初はドイツが優勢だったヨーロッパ戦線は、1943(昭和18)年を境にイギリスやアメリカ・ソ連などの連合国が反攻に転じ、同年2月にはドイツが東部戦線で壊滅的な打撃を受けました。
さらに同年7月にイタリアのムッソリーニが国王に解任され、彼が率いたファシスタ党が解散すると、連合軍がイタリア本土に上陸した9月にはイタリア新政府が降伏し、枢軸国の一角が崩れ落ちました。
その後、同年11月にイランのテヘランでアメリカ・イギリス・ソ連の首脳が一堂に会した初めての会談が行われ(これをテヘラン会談といいます)、ドイツに占領されていた北フランスの上陸作戦が協議されると、これにもとづいて翌1944(昭和19)年4月には連合軍がノルマンディに上陸しました。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
この時まではドイツもイタリアも
日本と同じような結末を歩んでしまった訳ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この時まではドイツもイタリアも
> 日本と同じような結末を歩んでしまった訳ですね。
そういうことになりますね。
イタリアが早くも降伏して、残りの2国は…。
カイロ宣言の主な内容は、第一次世界大戦後に日本が取得した南洋諸島の奪還や、満州・台湾などの中国への返還、朝鮮の独立などに向けた同盟諸国の行動継続を呼びかけたものであり、日本の無条件降伏も求めていました。
カイロ宣言がもたらした影響は、後に昭和20(1945)年に発表されたポツダム宣言において「カイロ宣言を履行(りこう)すべきである」と書かれるなど、決して少なくありませんでした。
ただし、カイロ宣言には3首脳の署名がないこともあり、最近では「カイロ宣言は外交的に有効な宣言ではなかった」とする説も主張されています。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
どうして3首脳の署名が得られなかったのでしょうかね??
非常に素朴な疑問で恐縮ですが
アメリカも中国も無条件降伏までさせて
日本を抑えこんでおきながら、
現代でも日本に対してあらゆる欲求や
言いがかりを寄せて来る某国は
日本に対して今でも多大な恐れを感じている
為なのでしょうか・・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 署名が得られなかったというよりも、そもそも宣言自体が捏造であったという説もあります。
いずれにせよ分からないことだらけですが、はっきりした検証を待ちたいですね。