日本の参戦によって、同盟国であったドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパとアジアを中心として、全世界を巻き込んだ本格的な戦争となりました。
なお、アメリカ・イギリス・ソ連などは連合国と呼ばれ、日本・ドイツ・イタリアは枢軸国(すうじくこく)と呼ばれました。
さて、真珠湾攻撃が行われた同じ昭和16年12月8日未明、マレー半島に上陸した日本陸軍は、山下奉文(やましたともゆき)陸軍中将の指揮の下でイギリスを相手に快進撃を続けた一方で、12月10日には、日本海軍航空隊がマレー沖の航空戦によって、イギリスが世界に誇る新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」並びに巡洋戦艦「レパルス」を撃沈(げきちん)しました。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
先ほど、安倍総理の戦後70年談話に関しての
テレビインタビューの中で
まだ二十歳そこそこのお若い女性が、
「70年前、日本は何処と戦ったのか知らない」
と答えていたのを見て、歴史教育がいかに
疎かになっているのかが伺えました。
それと同時に、70年という年月は
現代に生きる若者の視点から見ると、はるか昔の
出来事で自分たちには関係ない話と
捉えてる人が多いのではないかと懸念しました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も仰ることを懸念しております。
だからこそ、正しい歴史を後世に伝えねばなりません。
そして翌昭和17(1942)年2月15日には、イギリスのアジア支配の拠点であったシンガポールを陥落させ、さらに翌3月にはオランダが支配していたジャワ島バタビア(現在のジャカルタ)を占領し、オランダ軍を降伏させました。
同じ3月にはビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)も占領し、インドに向かって快進撃を続けるなど、日本軍は各地でアメリカ・イギリス・オランダ軍を破り、大東亜戦争の緒戦を制しました。
なお、フィリピンでの戦いに敗れた現地司令官のマッカーサーは、日本軍に追いつめられて敵前逃亡しましたが、軍歴に消すことのできない汚点を残したことで我が国を深く恨み、後のGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による我が国の占領支配に影響を与えたともいわれています。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
マッカーサーはそういう理由で日本を恨んでいた訳ですか。。
逆恨みにも似ていますね(^_^;)
アメリカ大統領候補として株を上げたかった為というのは、やはり本音だったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんの仰ること、おそらくは図星でしょうね。
そしてこの後、マッカーサーは私怨のためにとんでもない行動に出ます(詳しくはいずれ後述します)。
日本軍の快進撃によって、かつての欧米列強の植民地は次々と解放されましたが、搾取(さくしゅ)を中心とした劣悪(れつあく)な環境で過ごしてきた現地の人々は、憎悪(ぞうお)の対象であった白色人種の列強の兵士が、自分たちと同じ有色人種の日本軍によって駆逐(くちく)される様子に歓喜しました。
日本軍が新たに占領した旧植民地に対して、我が国は将来の独立も視野に入れた軍政を展開し、ビルマ(現在のミャンマー)やインドネシアでは、独立のための義勇軍が組織され、軍事訓練が行われました。
また、イギリス軍のインド兵の多くは、日本軍の捕虜(ほりょ)となった後にインド国民軍に加わり、インドの独立をめざして日本軍と共にイギリス軍と戦うようになりました。
なお、日本軍は大多数の地域で、支配者である欧米人から植民地を解放する「解放軍」として受けいれられましたが、その一方で、東南アジアの植民地の分断支配を任され、現地で欧米人に代わって支配階級に置かれていた華僑(かきょう)を中心とする反発もありました。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
この時にインド兵が日本の捕虜となり
国民兵として活力を得たというのは
初めて知りましたが、
今でもインドと日本が比較的友好的で
有るということは、この時期辺りの繋がりから
関係しているのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るお考えで間違いないと思います。
アジアの人々に大きな希望を与えたのも、大東亜戦争が生み出した歴史の流れの一つですね。
この選挙では、阿部信行(あべのぶゆき)元首相を会長とする翼賛(よくさん)政治体制協議会が推薦(すいせん)する候補者が、定員の466人中381議席(全体の8割強)を得て絶対多数となり、協議会に所属する議員は選挙後に翼賛政治会を結成し、政府による政策に協力しました。こういった経緯から、この選挙は翼賛選挙とも呼ばれています。
ところで、この翼賛選挙によって、帝国議会は政府の提案の承認を与えるだけの機関と化してしまったとみなす見解が多いようですが、実際には大日本帝国憲法(=明治憲法)や議会活動は停止したことはありませんでしたし、いわゆる翼賛政治家以外の代議士も85人誕生しているという事実も存在しています。
なお、この選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受けた候補者には、臨時軍事費として計上された機密資金を利用した選挙資金が配られていました。民間からの資金提供を受けていないという点ではクリーンと言えるかもしれませんが、逆に言えば、選挙民や財閥(ざいばつ)などの顔色を一切うかがう必要がないかわりに、資金提供を受けた軍部の意向に逆らいにくいという流れもありました。
かつて国家社会主義思想が我が国で広がりを見せた際に、軍部を中心に「政党政治は腐敗(ふはい)している」と国民に対して喧伝されましたが、表向きは「クリーン」な翼賛選挙も、その裏では「軍部と癒着(ゆちゃく)」していたのみならず、民間の意見が取り入れられない環境にあったのです。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど、
民間から資金を提供しなければ
痛い思いをしないで済む代わりに
民間の意見も反映されなかった訳ですか。
民間の意見は損得勘定の上でしか
反映されないのは少々残念にも思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
民間の意見をしっかり反映させるためにも、バランスの良い政治感覚が求められるでしょうね。
「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」
厚い雲のように世界全体を巻き込んだ戦争が早く終わってほしい、という陛下(へいか)の切実なお祈りのお気持ちを私たちは知ることができますが、現実には大東亜戦争は長期化し、結果として我が国は敗戦となってしまいました。
しかし、先述したとおり、大東亜戦争の緒戦において我が国は快進撃を続け、開戦後わずか半年でアジアにあった欧米列強の植民地のほとんどを占領あるいは支配し、石油などの重要資源も確保しました。
もし我が国が優勢な段階でアメリカなどの連合国と講和が出来れば、その後の歴史が大きく変わったことは間違いありませんが、果たしてそれは可能だったのでしょうか。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
可能だったのでしょうか・?
私には分かりませんが、
可能性は全く断たれていた訳では
なかったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 結論から先に言えば、可能性は十分ありました。
ではなぜ実際にはできなかったのかを、これから総合的に探っていきます。
日露戦争において我が国は様々な戦いを苦労の末に勝ち抜いてきましたが、奉天(ほうてん)会戦を制し、また日本海海戦に勝利したあたりで戦力が限界に達しました。
このまま戦いを続ければ、国力に勝るロシアの逆襲も十分に考えられましたが、国内の政情不安に悩まされたロシアがアメリカの仲裁を受けて講和に応じたことで、我が国は辛くも勝利を収めることができました。
つまり、アメリカの仲裁やロシアの政情不安があったからこそ、我が国は日露戦争を制することができたともいえるのですが、勝利をもたらした背景には何があったのでしょうか。
実は、政治力による「政略」なのです。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど。
武力では他よりも劣っていても
「人間は考える葦である」
の諺通り
頭脳戦で戦えば、何とかなるもの
なのでしょうか^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
戦争は武力行使だけで解決するわけではないですから。
我が国が日露戦争で勝利できたのも、この「大原則」に従ったからであり、明治政府は我が国の国力の限界を見極めたうえで、長期戦と化して日本軍が劣勢(れっせい)となる前に戦争を終わらせるため、ロシアとの開戦前から講和への道を探っていました。
日露両国に対して中立的な立場であったアメリカを我が国が仲介国に選び、当時のセオドア=ルーズベルト大統領と親交のあった金子堅太郎(かねこけんたろう)を特使としてアメリカへ派遣したり、明石元二郎(あかしもとじろう)による諜報(ちょうほう)活動が成果を挙げたりするなど、我が国は少しでも自国に有利な展開になるように、あらゆる努力を重ねました。
開戦前から講和への道を探るなど「政略」を練った政府と、現場において命がけで戦い続けた「戦略」担当の軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割をしっかりと果たしていたからこそ、我が国は日露戦争において戦局が有利なうちにロシアと講和を結ぶことが可能となったのです。
戦争は始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要であり、日露戦争はそれを実現できた代表例だったのですが、日露戦争と大東亜戦争とで大きな違いが出来てしまったのはなぜでしょうか。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに、何事にも言える事なのでしょうけれど
始めることよりも、終わらせる為の見切り。
いわゆる「潮時」というのが大切ですものね。
これら2つの戦いの終わり方の違いを説明せよと
聞かれたら、詳しい事は全く存じませんが、
大東亜戦争の方は、日本の戦力が底尽きるまで
戦いに引きずり込まれてしまった印象が有ります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 大東亜戦争の方は、日本の戦力が底尽きるまで
> 戦いに引きずり込まれてしまった印象が有ります。
確かにそんな印象がありますね。
ただ、我が国側に問題がなかったわけでもありません。
その詳細を次回以降紹介したいと思います。
しかし、昭和に入る頃には元老の多くが死に絶えており、元老の権威が必然的に低下したことで、彼らが推薦して組織された内閣の指導力も同時に低下したのみならず、大日本帝国憲法(=明治憲法)制定時には予期していなかった大きな問題が起きました。いわゆる統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)のことです。
大日本帝国憲法の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書かれており、条文を素直に読めば「統帥権(=軍隊を指揮する権利)は天皇のみが有する」という規定だとも読めますが、もちろん実際に天皇ご自身が指揮を取られることはありません。
そもそも一国の軍備について決定を下すことは統治権の一部であり、統治権は天皇の名のもとに内閣が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃の一つでしかありませんでした。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そういえば、以前に
元老のお話も伺った事が有りました!
すっかり忘れておりましたm(__)m
学習はやはり何度も何度も反復しながら
学ぶ必要が有るという事も再確認
させて頂きました(苦笑)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
私も何度も何度も繰り返して勉強してきた身です(笑)。
今回もぴーちさんのお役に立てれば幸いです。
なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして我が国では軍部の暴走を事実上誰も止められなくなってしまいました。
軍部の暴走はやがて昭和7(1932)年の五・一五事件や昭和11(1936)年の二・二六事件といった大事件をもたらし、また軍部大臣現役武官制が復活したことによって、首相が陸海軍大臣の意向を無視できなくなるなど、我が国の政治は事実上軍部に乗っ取られた状態と化しました。
これでは戦争遂行のための「戦略」を練ることはともかく、外交努力などの「政略」が期待できるわけがありません。結局、我が国は大東亜戦争で戦況が有利なうちに、講和への道を探るための何のイニシアチブも取ることができませんでした。
しかも、こうした問題の根幹となった統帥権干犯は、さらなる悲劇を我が国に及ぼしていったのです。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど、
アクセルだけを搭載した
レーシングカーと化してしまったら
暴走だけで誰にも止められませんね(^_^;)
やはり公道を走る時くらいは、ブレーキ搭載
させなければ、自爆するだけです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
軍部の動きを政治家が止めることができなかった。
これが後々になって我が国に大きな影響を及ぼすことになります。
例えば、陸軍大将でもあった東條英機首相は陸軍大臣も兼任していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東條首相は後に陸軍の軍令機関のトップである参謀総長も兼任して、何とかリーダーシップを一元化しようとしましたが、海軍の軍令機関のトップたる軍令部総長に就任できない以上は同じことでした。
かくして、我が国では終戦を迎えるまで、戦争終結への外交努力に欠かせない「政略」がないがしろにされたのみならず、陸軍と海軍との意見を調整できる人物や機関が存在しないことで、「戦略」すらままならない状況が続いたのです。
すなわち、統帥権干犯問題で実権を握ったはずの軍部自身が動きを封じられたのみならず、最後には国家の統治機関の中心部にまでその影響が及んでしまったばかりか、戦争終結へ向けての「政略」が何もなされぬまま、我が国の戦局が暗転したことで、苦しい状態が続いていた我が国がさらに追い込まれてしまうようになるのです。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど。
戦争に勝利するには、まず
自国の求心力が高い事が求められるのですね。
結束が弱く、連帯感の薄れた国が
勝つことは無いという重い教訓を
残した戦争でもあった訳ですか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 結束が弱く、連帯感の薄れた国が
> 勝つことは無いという重い教訓を
> 残した戦争でもあった訳ですか。
国家の中枢部の意思疎通が上手く行かなければ、仰るとおりの結果となってしまうのはある意味当然ですからね。
国家の未来のためにも、問題点はしっかりと把握すべきかと思われます。
Ms mimi 黒田先生、
人間性を見透かしながら 解り易く指導的立場にある人物たちを描写して見事ですね。
わたしたちはこの現代史をこのように伝えてくださったら、納得!です。
昨今は 甘い気持ちで"戦争反対"と行動している人が多いですが、軍略と政略とは違うこと、そしてわたしたちの国は 今 共産主義の中国と 異様な北朝鮮の核の威嚇に恐れながらも、平和国家としてしっかりと独立しなければならないこと、重大な課題をつきつけられています。
先生のお話が多くの若者たちの力になりますことを
願うものの一人です。
声援を送ります。
Ms mimiさんへ
黒田裕樹 過分のお言葉有難うございます。
今後も「真実に基づいた歴史教育」の啓発に努めますので、よろしくお願いいたします。
大東亜戦争は決して「無謀な戦争」ではなく、当時の軍事力や国力の比較からすれば、日清戦争あるいは日露戦争よりももっと勝てる可能性の高かった戦争だったともいえるのであり、実際にそのような見解も存在しています。
今回のように大きな歴史の流れを見てゆくと、日清・日露両戦争当時と比べ、大東亜戦争においてはいかに我が国の政治家も軍人も、その中枢(ちゅうすう)の人材が払底(ふってい)あるいは堕落(だらく)し、自壊するように負けていったかということがよく分かります。
我が国の未来のためにも、単なる「戦争は良くない」という否定的な見解のみに終始するのではなく、今回のような「大東亜戦争で我が国が勝てなかったのは何故なのか」ということこそが、歴史教育で学ばねばならない重要な課題ではないでしょうか。
「あの戦争は勝てたのではないか」という観点を、我々は絶対に見失ってはならないのです。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに最初の頃の戦局は
日本が有利であったと伺った事が有ります。
結果的には敗北せざるを得なかった戦争ですが、
仰るとおり結果ばかりを見て「もう二度と」と
目を背けるのでは無く、これから先もいついかなる時に
日本は戦いたくなくても、
戦いの火の粉が降り注ぐやも知れない事を
考えると、過去に学ぶべき
反省点を見つけ出して、来るべき時の為
最善を尽くす努力をすべきなのかも知れませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 過去に学ぶべき
> 反省点を見つけ出して、来るべき時の為
> 最善を尽くす努力をすべきなのかも知れませんね。
そのとおりです。
今回の講演でも、この観点を見失うことなく更新を続けてまいります。