今年の主役であった坂本龍馬(さかもとりょうま)やその同志の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)、西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)、あるいは桂小五郎(かつらこごろう、後の木戸孝允=きどたかよし)や高杉晋作(たかすぎしんさく)、そして幕府側の勝海舟(かつかいしゅう)など、いわゆる幕末の志士(しし)たちが織(お)りなす様々な人間ドラマに対して、私たちはその虜(とりこ)になることが多いようです。
幕末の定義としては、1853年にアメリカのペリーが黒船に乗って浦賀(うらが、現在の神奈川県)に来航し、翌年には強引に日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結ばせて、それまでの鎖国(さこく)から我が国を無理やり開国(かいこく)させた頃からだというのがありますが、その歴史的事実は正しいとしても、当時の世の中の様々な動きには、それに至(いた)るまでの大きな歴史の流れが存在することは意外と知られていないようです。
そこで、今回の歴史講座では、討幕(とうばく)や明治維新(めいじいしん)の立役者となった、いわゆる薩長土肥(さっちょうとひ)の4つの藩に江戸幕府を加えた、それぞれの幕末期における歴史を検証し、横並(よこなら)びに分かりやすくまとめることで、幕末の大きな歴史の流れをつかんでみたいと思います。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
彩 黒田さん、お久しぶりです。
覗きにきてはいるものの
いつもコメント残さなくて申し訳ないです。
私は鎌倉~室町辺りの歴史も好きですが、
確かに幕末の歴史はよく取り上げられますね。
細かい歴史を知らなくても迫力があるからでしょうか。
それでもあまり知られていない大きな歴史の流れ、
興味ありますね。^^
彩さんへ
黒田裕樹 > 黒田さん、お久しぶりです。
> 覗きにきてはいるものの
> いつもコメント残さなくて申し訳ないです。
ご無沙汰しております。
こちらこそ、ご訪問ばかりで申し訳ないです。
> 私は鎌倉~室町辺りの歴史も好きですが、
> 確かに幕末の歴史はよく取り上げられますね。
> 細かい歴史を知らなくても迫力があるからでしょうか。
> それでもあまり知られていない大きな歴史の流れ、
> 興味ありますね。^^
有難うございます。
幕末における歴史上の人物は、それぞれが個性的で非常に魅力がありますからね。
とはいえ、いくら個人に魅力があっても全体の歴史の流れが理解できなければ、単なる人物伝で終わってしまうのもまた事実です。
今回の講座では、時間をかけて全体の流れをとらえてみたいと思いますので、最後までよろしくお願いいたします。
ぴーち こんばんは!
そうですね。
この所、ドラマでも映画でも盛んに幕末を題材にした作品が多く放出されていますね。
今、日本が立たされている隣国との関係などと
開国当時の日本の状況に似通った所がある為でしょうか・・?
歴史に学ぶことは本当に沢山あるものだと
改めて最近思います。
黒田流の幕末解体録、楽しみにしています。
それと「重要なお知らせ」の件につきましては
拝読させていただきました。
億単位などというお金は
今まで見たことがありませんし、確かにお金はある程度は持ちたいという願望はありますw
けれどきっと億単位のお金を持ってしまうと、もっと
落ち着かない人生を送る羽目になりそうなので、
私は遠慮させていただきますね^^
付き合いが悪くてごめんなさいm(__)m
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですね。
> この所、ドラマでも映画でも盛んに幕末を題材にした作品が多く放出されていますね。
> 今、日本が立たされている隣国との関係などと
> 開国当時の日本の状況に似通った所がある為でしょうか・・?
> 歴史に学ぶことは本当に沢山あるものだと
> 改めて最近思います。
> 黒田流の幕末解体録、楽しみにしています。
仰るとおり、幕末の混乱した状況を学ぶことは現代に通じるものがあると思います。
これからじっくりと探ってみたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。
> それと「重要なお知らせ」の件につきましては
> 拝読させていただきました。
> 億単位などというお金は
> 今まで見たことがありませんし、確かにお金はある程度は持ちたいという願望はありますw
> けれどきっと億単位のお金を持ってしまうと、もっと
> 落ち着かない人生を送る羽目になりそうなので、
> 私は遠慮させていただきますね^^
> 付き合いが悪くてごめんなさいm(__)m
その件についてはお気になさらないで下さい。
誤解を招く表現もありましたので、文章を訂正させていただきましたm(_ _)m
管理人のみ閲覧できます
-
管理人のみ閲覧できます
-
sakura1956 どうも、元そうめんです。
これからも宜しくお願い致します。
確かに大河ドラマでは幕末の時代についてが
良く取り上げられてますよね。
大きな歴史の流れが存在していることはあまり知られていなかったんですか・・。
自分は結構、知られていると思っていました。。。
何故なんでしょうか・・。。。
大富豪ですか・・。
確かに億単位のお金を持つと羽振りの良い暮らしが出来そうですが
あまり落ち着かなくなりそうなので
自分は丁度良いくらいが良いですね。
sakura1956さんへ
黒田裕樹 > どうも、元そうめんです。
> これからも宜しくお願い致します。
お名前とブログ名を変更されましたね。
こちらのリンク先も修正させていただきました。
> 確かに大河ドラマでは幕末の時代についてが
> 良く取り上げられてますよね。
最近だけでも平成16年の新選組!や20年の篤姫、今年(22年)の龍馬伝と多いですよね。
> 大きな歴史の流れが存在していることはあまり知られていなかったんですか・・。
> 自分は結構、知られていると思っていました。。。
> 何故なんでしょうか・・。。。
個人の歴史はよく知られていても、例えば「幕府はなぜ滅びたのか?」とか「薩摩藩はなぜ明治維新の主役になったのか?」ということについての詳しい理由はあまり知られていないと思います。
今回の講座では、こういった流れについて詳しく紹介することになりますよ。
> 大富豪ですか・・。
> 確かに億単位のお金を持つと羽振りの良い暮らしが出来そうですが
> あまり落ち着かなくなりそうなので
> 自分は丁度良いくらいが良いですね。
こちらにまでお言葉有難うございますm(_ _)m
まぁこればっかりは人それぞれですからね。
学生時代からあまりお金もうけに熱心になるよりも、今しかできない勉強を続ける方がずっと価値があると思いますよ。
黒田先生
風早 りら 坂本龍馬
中岡慎太郎
西郷隆盛
大久保利通
桂小五郎
木戸孝允
高杉晋作
勝海舟
上記の名前を聞いただけで 心が
高鳴ります
「幕末の大きな歴史の流れをつかんでみたいと」
と言われる 先生のこれからの講座
楽しみにしています
信長のお話 友達の間でも 大変 好評でした
有難う御座います
風早りらさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
幕末の人物は、確かに錚々(そうそう)たる顔ぶれが並んでいますね。
今回は、人物だけでなく藩や幕府それぞれの立場での歴史の流れを順番にたどっていきます。
長丁場になりますが、信長シリーズ同様お楽しみいただければ幸いです。
島津家は、戦国時代にはあわや九州全土を統一するかの勢いだったのですが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)によってその野望は打ち砕(くだ)かれ、現在の鹿児島県に相当する薩摩・大隅(おおすみ)の2ヵ国を中心とする領地に閉じ込(こ)められました。
秀吉の死後、関ヶ原(せきがはら)の戦いでは西軍に属(ぞく)して、敗戦後は中央突破を強行し、最後にはわずかな手勢(てぜい)となりながらも無事に帰国して、その後も徹底抗戦(てっていこうせん)の意思を示したことによって、島津家の武力を恐れた徳川家康(とくがわいえやす)から所領を安堵されたのですが、実は島津家は、始めは家康に味方しようとしていました。
関ヶ原の戦いの前哨戦(ぜんしょうせん)として伏見城(ふしみじょう)の戦いがありますが、島津家はこの際に伏見城に入り、城主の鳥居元忠(とりいもとただ)を助けるつもりでした。しかし、事前の根回しが不足していたため、裏切りを恐れた鳥居元忠から拒否されてしまったのです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
風早 りら 今回の講座で 薩摩藩が
徳川幕府の倒幕を 企てたのは
幕末のことであっても
そのずっと 以前から 伏線は
あったのだと 実感しました
幕末のお話は興味深いです
楽しみです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 今回の講座で 薩摩藩が
> 徳川幕府の倒幕を 企てたのは
> 幕末のことであっても
> そのずっと 以前から 伏線は
> あったのだと 実感しました
> 幕末のお話は興味深いです
> 楽しみです
仰るとおりです。
幕末になって急に討幕を企てたわけではなく、長い時間をかけて雌伏していたんですよね。
この流れを理解できて、初めて薩摩藩の真意が見えてくると考えております。
ぴーち こんばんは!
守護→戦国→外様。
大名にも段階があり、様々な種類が
あったのですね!
(それすらもよく理解していませんでした^^;)今回は島津家が出世していった流れの概要を掴むことが出来、勉強になりました!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 守護→戦国→外様。
> 大名にも段階があり、様々な種類が
> あったのですね!
> (それすらもよく理解していませんでした^^;)今回は島津家が出世していった流れの概要を掴むことが出来、勉強になりました!
島津家の場合は、守護大名がそのまま戦国大名になった数少ない例ですね。それだけに歴史もあり、プライドも高かった。そして、その流れが関ヶ原で道を誤ることになってしまうんですよね…(´・ω・`)
サクラ ああ! 関が原前夜の事件って、倒幕の伏線だったんですか!
私にとっては、全く関係のない二つの事件とばかり思っていました。
何しろ、250年の隔たりがあったので。
幕府は必死になって外様やら譜代やらを配置したのに、外様から崩れていったんですね。
サクラさんへ
黒田裕樹 > ああ! 関が原前夜の事件って、倒幕の伏線だったんですか!
> 私にとっては、全く関係のない二つの事件とばかり思っていました。
> 何しろ、250年の隔たりがあったので。
そうなんです。
歴史の流れは意外なところでつながっています。250年という一見長い年月も、歴史という名の大河の流れではほんのひと時でしかありません。
> 幕府は必死になって外様やら譜代やらを配置したのに、外様から崩れていったんですね。
崩れる時はあっけないものですよね。ただ、幕府の崩壊は「自己責任」に原因があるともいえます。いずれ明らかにしますよ。
ねずきち 黒田さん、こんばんは。
リンク、しておきました^^
今後ともよろしくお願いします。
ねずきちさんへ
黒田裕樹 > 黒田さん、こんばんは。
> リンク、しておきました^^
> 今後ともよろしくお願いします。
早速のお聞き届け、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
mochimochi こういう話は初耳です。
続きが楽しみです
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > こういう話は初耳です。
> 続きが楽しみです
有難うございます。
薩摩藩の話はこれからも続きますので、どうぞお楽しみ下さい。
この後の島津家は、所領を安堵してくれた幕府に対して表向きは恭順(きょうじゅん、命令につつしんで従う態度をとること)の姿勢を示すものの、関ヶ原での恨(うら)みを忘れることはなく、幕末になると時には幕府と協力して討幕派を抑(おさ)えながら、最終的には自(みずか)らが討幕を果たして明治維新の元勲(げんくん)として君臨するようになります。
要するに幕末における薩摩藩は、関ヶ原での反省という前提に立ったうえで情報収集や情勢判断をしっかりと行い、常に主役側に回ることで、最終的には歴史の勝者となったのでした。薩摩藩の歴史は、いわゆる「失敗から学ぶ」という、歴史学習の原点に根差(ねざ)したものだったのです。
また、薩摩藩は幕末になって急に成長したわけではなく、それ以前にも大きな歴史の流れが存在していますが、中でも大きな転機(てんき)となったのは、外様大名出身の女性が徳川将軍家の正妻(せいさい)、つまり御台所(みだいどころ)になったことでした。どうしてこのような事態が起きてしまったのでしょうか?




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
面従腹背の心を持つものが
この世で一番怖い存在かも知れません。
しかし乱世の時代なら尚更、
そういう気持ちを持ち合わせながらも
相手に取り入り、従う振りをして
倒す戦略が一番利口な手口であったのでしょうね。
話は飛びますが、
韓国のサムソン電機は日本のソニーをも
脅かす存在にまで(というか、既に超えている?)躍進しているようですね。
今や日本は電機でも諸外国から取り残され
始めているようですね・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 面従腹背の心を持つものが
> この世で一番怖い存在かも知れません。
> しかし乱世の時代なら尚更、
> そういう気持ちを持ち合わせながらも
> 相手に取り入り、従う振りをして
> 倒す戦略が一番利口な手口であったのでしょうね。
そのとおりだと思います。
薩摩藩は過去の苦い失敗を見事に生かして、長い年月をかけて主役の座をつかみました。
一つの手本になりますね。
> 話は飛びますが、
> 韓国のサムソン電機は日本のソニーをも
> 脅かす存在にまで(というか、既に超えている?)躍進しているようですね。
> 今や日本は電機でも諸外国から取り残され
> 始めているようですね・・。
外国との競争は熾烈ですから、我が国の独自性を保ちながらも巻き返してほしいですね。
サクラ 西軍についたからって、ネチネチと外様大名として苛めていたのが原因かもしれませんね。
あれ? けど正妻にまでなったんですよね?
次回の更新を楽しみにしております。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 西軍についたからって、ネチネチと外様大名として苛めていたのが原因かもしれませんね。
イジメはいつの時代も人間の恨みを買いますからね。
復讐の機会をひそかにうかがっていたとしてもおかしくはありません。
> あれ? けど正妻にまでなったんですよね?
> 次回の更新を楽しみにしております。
外様大名の女性が、普通は将軍の正妻になれるわけがないんですよ。
ではなぜ正妻になれたのか…。次回(8日)の更新をお待ち下さい!
黒田先生
風早 りら 「 外様大名出身の女性が徳川将軍家の正妻 」
この経緯は 大河ドラマを見ていても
いまだ 納得いかないものがあります
それまでは 公家の出の姫宮が
正妻に迎えらることが多く
その処が 未だ よく 理解出来ません
明日 楽しみにしています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「 外様大名出身の女性が徳川将軍家の正妻 」
> この経緯は 大河ドラマを見ていても
> いまだ 納得いかないものがあります
> それまでは 公家の出の姫宮が
> 正妻に迎えらることが多く
> その処が 未だ よく 理解出来ません
> 明日 楽しみにしています
仰るとおりで、将軍家の正妻がなぜ外様出身なのか、理解しがたいところがありますね。
そのカラクリは、次回(8日)の更新でハッキリとさせたいと思います。
オバrev 外様大名から正室というあり得ないことが起こった、と言うのは2つしか考えられません。
まずその女性がクレオパトラか楊貴妃かはたまた小野小町かという絶世の美女だったか、もしくは薩摩藩が幕府の弱み、特に将軍の女性関係の弱みを握ったからじゃないでしょうか?チガウカナ(^0^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 外様大名から正室というあり得ないことが起こった、と言うのは2つしか考えられません。
> まずその女性がクレオパトラか楊貴妃かはたまた小野小町かという絶世の美女だったか、もしくは薩摩藩が幕府の弱み、特に将軍の女性関係の弱みを握ったからじゃないでしょうか?チガウカナ(^0^;)
なるほど、お考えになりましたね(^_^)v
果たして正解かどうかは、次回(8日)の更新で明らかになります。
それにしても、男性は美女には弱いですよね(^^ゞ
mochimochi 負けるということはある意味良いかもしれませんね。
ソニーも一度負けたら今度はすごい形で復活するかも。
それに、最近は企業の勝ち負けは昔の勝ち負けと意味が違ってきてると思います。
もちろん日本の名誉もあるのでぜびとも日本企業にがんばってほしいですけど。
あまり良く覚えてませんけど、黒田先生は以前九州は朝鮮半島や中国に近いので情報収集力が強かったと言ってませんでしたか?だから先見の目があったとか。。。
いづれにしても九州の人たちの活躍ぶりはすごいと思います。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 負けるということはある意味良いかもしれませんね。
> ソニーも一度負けたら今度はすごい形で復活するかも。
> それに、最近は企業の勝ち負けは昔の勝ち負けと意味が違ってきてると思います。
> もちろん日本の名誉もあるのでぜびとも日本企業にがんばってほしいですけど。
まさに「失敗から学ぶ歴史」ですね。
私たちも一度や二度の失敗でめげてる場合ではないかもしれません。
> あまり良く覚えてませんけど、黒田先生は以前九州は朝鮮半島や中国に近いので情報収集力が強かったと言ってませんでしたか?だから先見の目があったとか。。。
> いづれにしても九州の人たちの活躍ぶりはすごいと思います。
どこで書いたかはすぐには思い出せませんが、九州は大陸や朝鮮半島から地理的に近い分、様々な文化がいち早く伝わったことで結果として情報処理能力に長(た)けていたとも考えられますからね。
御三卿と外様大名との婚約でしたから、当時は特に問題にならなかったのですが、この後に将軍家の血筋が途絶(とだ)えるというアクシデントがあり、後継者として家斉が指名されたことから、話がややこしくなってしまいました。
しかし、一度婚約を行ったものを破談させるわけにもいかず、重豪の娘は公卿(くぎょう)の養女となったうえで予定どおり家斉の正室(せいしつ)となり、外様大名出身の女性が将軍家の御台所になるという前代未聞(ぜんだいみもん)の事態となったのでした。
ちなみにこれが前例となって、後の第13代将軍の徳川家定(とくがわいえさだ)の御台所にも、島津家の娘(ただし養女)が選ばれています。彼女こそが、平成20(2008)年の大河ドラマの主役になった篤姫(あつひめ)、すなわち天璋院(てんしょういん)です。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
篤姫と聞くと、つい最近NHKの大河ドラマで演じた「宮崎あおい」を思い浮かべてしまいます^^;
TVの影響とは恐ろしいものですね(汗)
きっと、これからは「坂本龍馬」=福山雅治なんだろうな~なんて思いますねぇ(笑)
私は坂本龍馬というと、何故か武田鉄矢さんを
思い浮かべてしまいます^^;
海援隊の影響でしょうかw
(今日はだいぶ、反れましたww)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 篤姫と聞くと、つい最近NHKの大河ドラマで演じた「宮崎あおい」を思い浮かべてしまいます^^;
> TVの影響とは恐ろしいものですね(汗)
> きっと、これからは「坂本龍馬」=福山雅治なんだろうな~なんて思いますねぇ(笑)
> 私は坂本龍馬というと、何故か武田鉄矢さんを
> 思い浮かべてしまいます^^;
> 海援隊の影響でしょうかw
テレビの影響は確かに大きいですね。
私も「龍馬=武田鉄矢」のイメージが強いですよ。金八先生の苗字は「坂本」ですからね(^^♪
オバrev なるほど~、いざという時にこのような対応ができる柔軟性を持っていたことが、徳川が長続きした理由の一つかもしれませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~、いざという時にこのような対応ができる柔軟性を持っていたことが、徳川が長続きした理由の一つかもしれませんね。
そうですね。原則を時には曲げた方が組織が長持ちすることはよくあります。
ただ、組織そのものが崩壊に向かっているときには、小手先ではどうしようもなくなることがあるんですよね…。話が先走りますが、幕末がまさにそんな状態でした(´・ω・`)
調所は斉興の期待に応(こた)え、江戸や大坂(おおさか、後の大阪)などの大商人からの多額の借金を250年間の無利子返済という事実上の棚上(たなあ)げとすることを強要したほか、奄美諸島(あまみしょとう)特産の黒砂糖(くろざとう)の専売を強化したり、事実上支配していた琉球(りゅうきゅう、現在の沖縄県)を通じて密貿易(みつぼうえき)を行ったりしました。
特に密貿易は大胆(だいたん)に行われ、当時の江戸幕府の貿易収支が赤字に転落したほどでした。幕府は薩摩藩の密貿易に疑いを持ちましたが、将軍の御台所が島津家出身だったために強く抗議(こうぎ)することができませんでした。こんなところにも「将軍家と縁続き」という大きな効果があったのです。
調所はやがて密貿易の責任を問われて自殺に追い込まれますが、彼の功績によって薩摩藩の財政は回復し、その財力を活用して幕末に英明な藩主が登場することになります。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
家臣「調所」は大胆な密貿易を展開したのですね~。ここまで大胆だと、もはや「密」とは呼べませんね(^^A
しかし、やはり出過ぎた事をすれば、身の安全の保障はない訳ですね。けれど、島津家というお家の為に懸命に心血を注いだ分、薩摩藩の財政回復したのなら、調所の魂も少しは救われたかもしれませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 家臣「調所」は大胆な密貿易を展開したのですね~。ここまで大胆だと、もはや「密」とは呼べませんね(^^A
それまで安定した黒字をたたき出していた幕府の貿易収支が一気に赤字になったんですから、ばれない方がおかしいですよね(^^ゞ
> しかし、やはり出過ぎた事をすれば、身の安全の保障はない訳ですね。けれど、島津家というお家の為に懸命に心血を注いだ分、薩摩藩の財政回復したのなら、調所の魂も少しは救われたかもしれませんね。
調所の最期は哀れではありましたが、彼の功績がやがて討幕という形で実を結ぶわけですから、いわゆる「以って瞑すべし」といったところでしょうか…。
調所
よんちゃん こんにちは。
今年読んだ本の一つに、佐藤雅美「薩摩藩 経済官僚」があります。
調所笑左衛門が主人公です。
この本を読んで、幕末の薩摩藩の勇躍の基礎は、重豪と調所にあることがわかりました。
よんちゃんさんへ
黒田裕樹 こんにちは、お言葉有難うございます。
> 今年読んだ本の一つに、佐藤雅美「薩摩藩 経済官僚」があります。
> 調所笑左衛門が主人公です。
> この本を読んで、幕末の薩摩藩の勇躍の基礎は、重豪と調所にあることがわかりました。
調所の功績は、最近になってようやく見直されてきたようですね。
ご紹介いただいた書籍につきまして、私は未読ですが機会があればぜひ拝読したいと思います。
西欧諸国(せいおうしょこく)に対抗するためには鉄製の様々な武器などを必要としましたが、当時の我が国の製鉄技術は、西欧のそれと比べて遅れていました。このため、西欧風の製鉄を行うために反射炉(はんしゃろ)の建設が急がれたのですが、斉彬はいち早く本拠地(ほんきょち)の鹿児島に反射炉を築造(ちくぞう)しました。
斉彬は他にも造船所やガラス製造所を次々と建設し、また砲術(ほうじゅつ)などの洋式の軍事訓練を行って軍事力の強化にも努めました。ちなみに現在の鹿児島の名産として知られるガラス細工の薩摩切子(さつまきりこ)は、この頃がルーツとなっています。
この他、斉彬は当時広まったばかりの写真技術にも興味を示し、本人の写真が残されているほか、自ら城の撮影を行ったとされています。また、我が国の国旗である「日の丸」は、幕末に諸外国との条約を結んだことで、外国船と区別するための標識(ひょうしき)として考案されたものでもありますが、その際に日の丸を提案した者のひとりとして斉彬の名が伝えられています。
こうして薩摩藩における様々な改革を行い、結果として我が国の近代化にも大いに貢献(こうけん)した斉彬でしたが、1858年に急死してしまい、藩主の地位を継(つ)いだ島津忠義(しまづただよし)の父であり、斉彬の異母弟(いぼてい、腹違いの弟のこと)でもあった島津久光(しまづひさみつ)が藩政の実権を握(にぎ)ったことで、薩摩藩は再び保守的な行動をとるようになりました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
日の丸は島津斉彬が関与していたのですね!
日の丸もそうですが、世界の国旗には
中心に丸印があるタイプは多いですね~
色的には比較的原色が主に使用されているようですが、中間色、或いは今でいうパステルカラーなど作り出すのは意外と難しいと聞いた事があります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日の丸は島津斉彬が関与していたのですね!
> 日の丸もそうですが、世界の国旗には
> 中心に丸印があるタイプは多いですね~
> 色的には比較的原色が主に使用されているようですが、中間色、或いは今でいうパステルカラーなど作り出すのは意外と難しいと聞いた事があります。
確かに国旗には原色が多いですよね。
個人の感情の問題かもしれませんが、原色で描かれた強さが、国旗の雰囲気に合っていると思います。
その意味でも、真っ赤な太陽というイメージのある我が国の日の丸は非常に魅力的ですね。
一方、西郷の親友であった大久保利通は久光に取り入り、側近(そっきん)として重用(ちょうよう)されましたが、決して久光の保守的な考えに賛同したわけではありませんでした。いずれ時代が西郷を必要とするようになると先を読み、あえて猫をかぶっていたのです。
やがて利通の読みは当たり、久光の行列をイギリス人が馬で横切ったことから殺傷(さっしょう)されるという生麦事件(なまむぎじけん)の悲劇の後に薩摩藩がイギリスと衝突して薩英戦争(さつえいせんそう)が起きると、このような非常事態に対応できる人物は彼しかいないということで、西郷は再び歴史の表舞台に登場するようになりました。
この後の薩摩藩は、それまでの幕府に対する中立的な立場から、西郷らによって次第に武力討幕へと政策が転換され、1866年には土佐藩(とさはん)の坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介によって、長州藩(ちょうしゅうはん)の桂小五郎らといわゆる薩長同盟(さっちょうどうめい、別名を薩長連合=さっちょうれんごう)を結び、討幕への機運が一気に高まりました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
紗那 お久しぶりです。
この辺りは篤姫で見ていました。
こうやって見ると、大河ドラマというのはよく構成されてますねー
中学までの授業だと、この辺の流れもほとんど無視されてます……
黒田先生
風早 りら 西郷隆盛という人は 要領の悪い人の
ように 以前から感じていましたが
やはり 先生の講座を 受けてそう
思いました
哀れな 感じがします
暫く 体調不良で 講座に参加出来ず
残念でしたが また 参加させて頂きますね
紗那さんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです。
ご無沙汰しておりますm(_ _)m
> この辺りは篤姫で見ていました。
> こうやって見ると、大河ドラマというのはよく構成されてますねー
大河ドラマは他に比べて、歴史の流れをしっかりと描いていると思います。
やはり1年もかければ、時間の余裕も生まれますからね。
> 中学までの授業だと、この辺の流れもほとんど無視されてます……
大河ドラマと比べると、時間があまりにも短いですからね(´・ω・`)
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 西郷隆盛という人は 要領の悪い人の
> ように 以前から感じていましたが
> やはり 先生の講座を 受けてそう
> 思いました
> 哀れな 感じがします
西郷隆盛は一徹の人でもありました。
その強さは、支持してくれる人々がいてこそ輝くんですよね。
その意味でも大久保利通の存在は大きかったです。
> 暫く 体調不良で 講座に参加出来ず
> 残念でしたが また 参加させて頂きますね
ご回復何よりです。
よろしくお願いします。
サクラ 西郷隆盛って、ほんわかしたイメージだったんですが、そんな波乱に満ちた半生があったんですね。
勿論、これからもまた波乱万丈になるわけですが。
薩英戦争で敗北したとはいえ、薩摩は英国にのっとられたわけではないんですね。
このへん、西郷さんの力量によるものでしょうか?
サクラさんへ
黒田裕樹 > 西郷隆盛って、ほんわかしたイメージだったんですが、そんな波乱に満ちた半生があったんですね。
> 勿論、これからもまた波乱万丈になるわけですが。
西郷隆盛の人生は苦難の連続です。
それゆえに人間も大きく、私たちはいつの時代も彼の生き方にひきつけられるんですよね。
> 薩英戦争で敗北したとはいえ、薩摩は英国にのっとられたわけではないんですね。
> このへん、西郷さんの力量によるものでしょうか?
西郷の力量だけでなく、当時イギリスの事情(植民地経営はインドで手一杯だったことや、何よりもアジアで安定した貿易相手がほしかったこと)もあったと思います。
この時代になると、一国の思惑だけでは何事も進まなくなるんですよね。日本史でありながら、世界史の目で歴史をながめる必要もあるんです。
ぴーち こんばんは!
西郷さんが、自殺未遂をですか?
今の今まで全く知らずにいました^^;
勉強になります!
大久保利通と西郷さんは幼馴染だとは聞いていましたが、二人の目指している考えには次第にズレが生じてくると習ったことがありましたが、私の聞き間違いだったのでしょうか・・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 西郷さんが、自殺未遂をですか?
> 今の今まで全く知らずにいました^^;
> 勉強になります!
西郷にとっては理想の藩主であった斉彬が急死したことは、自殺を図るほどの大きな衝撃だったんですね。その後も、斉彬とは全くタイプの違う久光によって遠ざけられ、忍耐の日々を過ごすことになります。
> 大久保利通と西郷さんは幼馴染だとは聞いていましたが、二人の目指している考えには次第にズレが生じてくると習ったことがありましたが、私の聞き間違いだったのでしょうか・・・
ズレが生じてくるのは維新後です。欧米を視察して海外との国力の違いを痛感した利通と、国内に残ってそれが理解できなかった西郷との差が、二人の仲に悪影響を与えてしまったんですよね。
この後は討幕派と佐幕派(さばくは、幕府を支持する立場のこと)とのせめぎ合いが続き、同年12月9日の王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)から小御所会議(こごしょかいぎ)を経(へ)て、慶喜の内大臣(ないだいじん)としての地位と徳川家の領地の返上を討幕派が認めさせました。
しかし、その後の佐幕派の巻き返しで小御所会議の内容が骨抜きにされ、慶喜の実権が温存されそうになると、西郷らは最後の手段として、江戸の商家を薩摩藩という身分を隠(かく)さずに片っ端(かたっぱし)から襲(おそ)って幕府を挑発し、慶喜の名誉が回復する前に幕府と討幕派とを戦わせることに成功しました。
これら一連の流れが、翌1868年(慶応4年=明治元年)旧暦1月の鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)から始まる戊辰戦争(ぼしんせんそう)の引き金となったのです。この戦いの結果、幕府はその実権を完全に失い、薩摩藩などを中心とする明治新政府が誕生することになったのでした。
ちなみに、戊辰戦争においては朝廷から下(くだ)されたいわゆる「錦の御旗(にしきのみはた)」や、最新鋭のアームストロング砲が大いに役立ったのですが、これらのキーワードはいずれ重要な場面で再登場することになります。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
こうしてみると西郷さんの瞬時の判断は
見事に功を奏していったのですね。
こうした臨機応変な対応能力があったからこそ、目的が
達成されていったのですね。
最新鋭のアームストロング砲。。
恥ずかしながら、初めて伺いました^^;
応援凸
紗那 この大政奉還の辺りはうまく幕府側が立ち回ったように思えます。だからこそ、この後の展開の読みミスが残念で仕方ないのですが
西郷さん、臨機応変過ぎますね……!自分たちの身分を明かして襲撃するという一見すると奇策にしか思えないのに。。。
サクラ 錦の御旗――まるで水戸黄門の印籠ですね。
ああ、けど成敗されるのは葵の御紋という。
倒幕戦争とは、250年間の兵器の停滞を一挙打破する時期だったんですね。
その後外来銃を排して、日本は村田銃を開発するわけですが。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こうしてみると西郷さんの瞬時の判断は
> 見事に功を奏していったのですね。
> こうした臨機応変な対応能力があったからこそ、目的が
> 達成されていったのですね。
そうですね。歴史教育上では王政復古の大号令で素直に討幕派に実権が転がり込んできた印象を受けるのですが、実際には西郷による一か八かの駆け引きがあったわけです。賭けに勝つあたりが、西郷の運の強さを感じますね。
> 最新鋭のアームストロング砲。。
> 恥ずかしながら、初めて伺いました^^;
歴史上に埋もれていることが多いですからね。
でも、これがあったからこそ戊辰戦争を勝てたのであり、また「薩長土肥」が勢ぞろいしたんですよ。
詳しくは今後の展開をお楽しみに(^^♪
紗那さんへ
黒田裕樹 > この大政奉還の辺りはうまく幕府側が立ち回ったように思えます。だからこそ、この後の展開の読みミスが残念で仕方ないのですが
> 西郷さん、臨機応変過ぎますね……!自分たちの身分を明かして襲撃するという一見すると奇策にしか思えないのに。。。
本当にそうですね。西郷の挑発にまんまと乗ってしまうあたり、幕府の戦略ミスが際立っているような気がします。もっとも、幕末から常に後手後手に回っている幕府ですが…(´・ω・`)
サクラさんへ
黒田裕樹 > 錦の御旗――まるで水戸黄門の印籠ですね。
> ああ、けど成敗されるのは葵の御紋という。
考えてみればそうですね。見事なパラドックスです(^^ゞ
> 倒幕戦争とは、250年間の兵器の停滞を一挙打破する時期だったんですね。
> その後外来銃を排して、日本は村田銃を開発するわけですが。
そうですね。この頃の西欧の火力は凄まじいものがありました。
でも、それをあっという間に自国のものにしてしまう我が国の技術力の高さは素晴らしいですね。
黒田裕樹さん
風早 りら 戊辰戦争の経緯は 今まで
かなり 複雑で わかりずらかったのですが
今回の先生の詳細な ご説明で
大分理解出来るようになりました
明日も楽しみにしています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 戊辰戦争の経緯は 今まで
> かなり 複雑で わかりずらかったのですが
> 今回の先生の詳細な ご説明で
> 大分理解出来るようになりました
> 明日も楽しみにしています
ご理解いただけて、私もうれしいです。
次回(13日)より長州藩の話が始まりますので、こちらにもご期待下さい!
綾小路江府士麿 幕末の騒動は興味引きます。
特に秘話が好きで、表舞台に出てこない
長州藩内での親幕派と統幕派の争いで、
わずか20数人で親幕派に立ち向かって
勝利した戦いなどは、晋作の戦略の凄さが
感じられます。
綾小路江府士麿さんへ
黒田裕樹 > 幕末の騒動は興味引きます。
> 特に秘話が好きで、表舞台に出てこない
> 長州藩内での親幕派と統幕派の争いで、
> わずか20数人で親幕派に立ち向かって
> 勝利した戦いなどは、晋作の戦略の凄さが
> 感じられます。
お言葉有難うございます。
幕末には歴史に埋もれた数々の秘話がありますよね。
今回の講座は全般を扱っているので紹介しきれないのが残念ですが、いつかは紹介したいと思います。
大胆な謀略(ぼうりゃく)や本人の戦上手(いくさじょうず)もあって、元就の一代で広大な領地を手に入れた毛利家でしたが、後を継いだ孫の毛利輝元(もうりてるもと)は凡庸(ぼんよう、すぐれた点もなく平凡なこと)な器量しか持っていませんでした。
輝元は関ヶ原の戦いの際に西軍の総大将に祭り上げられて大坂城(おおさかじょう、現在の大阪城)に入城しましたが、毛利家の一族の吉川広家(きっかわひろいえ)が家康の東軍に通じており、家康から事前に毛利家の本領安堵を約束されていた広家は、輝元が大坂城から出陣させないように工作するとともに、自軍は関ヶ原で一切動きませんでした。
戦いの後に家康から大坂城の明け渡しを要求された輝元は、家臣の「大坂城に残って戦うべきだ」との声を無視し、本領安堵の約束を信じ切って大坂城を無傷で明け渡したのですが、その途端(とたん)に家康は毛利家の領地没収を宣言したのです。この時になって輝元ばかりでなく広家も含(ふく)めて、自分たちが家康にだまされていたことに初めて気がついたのですが、すでに後の祭りでした。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
凡庸である事は決して悪いことでは
ないにせよ、藩主ともなる者は
凡庸であってはならないという好例のような
お話ですね。
ましてや、家康のような人(たぬきオヤジ?)
に掛かっては、木の葉一枚で簡単に騙されてしまいますね(^^A
正直や素直であることは大切な事ですが、
時には相手を少しだけ疑ってみることも
必要な時もあるということでしょうか。
輝元においては、やはり味方の意見を優先して
おくべきでしたね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 人の上に立つ者は、仰るとおり「お人よし」だけではやっていけない、ということですね。
ましてや家康が相手なのですから、元就クラスでないと対等にやっていけなかったでしょう。
輝元に優秀なブレーンがいればあるいは違った道になったかもしれませんが、小早川隆景が亡くなっていたのが痛かったですね。
黒田先生
風早 りら 毛利元就 輝元に対して
家康がとった 手段は当然の
ことだと思います
もし このままにしておいたら
いつか 家康を裏切ると思うのは
当然のことでしょう
家康のたくらみは仕方のないことで
それだけ 知恵があり 人を見抜く力が
あったのでしょう
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 毛利元就 輝元に対して
> 家康がとった 手段は当然の
> ことだと思います
> もし このままにしておいたら
> いつか 家康を裏切ると思うのは
> 当然のことでしょう
> 家康のたくらみは仕方のないことで
> それだけ 知恵があり 人を見抜く力が
> あったのでしょう
仰るとおり、食うか食われるかの戦国時代の流れが残っていたこの頃は、家康の手法は間違ってはいませんでした。現代の風習とは異なり、「だまされた方が悪い」世の中だったのです。
それでは、毛利家が助かる道はなかったのでしょうか?
次回(14日)の更新で考えてみたいと思います。
もし輝元が家臣の進言どおりに大坂城で戦っていれば、薩摩の島津家と同じように「毛利家恐るべし」と感じた家康によって本領が安堵された可能性もあったのですが、凡庸な輝元はそこまで頭が回らなかったのです。
この後も毛利家は、新たな城を交通の便の良くない山陰(さんいん)側の萩(はぎ)に築くことを強要されたり、幕府で普請(ふしん、土木工事のこと)が行われる際には自費で手伝わされたりするなど散々な目にあいましたが、毛利家の家臣たちは、自分たちの悲劇の原因を主君である輝元のせいにすることもできず、非情な処分を行った幕府を深く恨むようになっていきました。
時代が下るにつれて恨みは代々受け継がれ、太平の世の中が続く間も毛利家の長州藩では復讐(ふくしゅう)の機会を伺(うかが)いながら、江戸時代後期の19世紀に藩の財政の立て直しを行うことになります。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
毛利家の家臣たちは苦労が耐えなかったんですね。
でも主君がそんな凡庸のタイプだと、お家断絶やらの最悪な状態からは免れるので、考えようによっては、身の危険からは遠ざかれたのではないかと思うのですが、武士の社会としての考えとしては、余りに情けない事でしょうかね(^^A
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 毛利家の家臣たちは苦労が耐えなかったんですね。
> でも主君がそんな凡庸のタイプだと、お家断絶やらの最悪な状態からは免れるので、考えようによっては、身の危険からは遠ざかれたのではないかと思うのですが、武士の社会としての考えとしては、余りに情けない事でしょうかね(^^A
もともと120万石だったのが5分の2の37万石になったということは、収入が一気に4割になってしまったということですよね。おまけに一文にもならない労役まで課せられて、生活は相当苦しかったと思います。
ここまで貶(おとし)められると、身の危険から遠ざけられた喜びよりも、現状の苦しさを呪うばかりだったかもしれません。
でも、これほどの恨みがなければ、250年以上も復讐の機会をうかがうことは不可能だったかも…。歴史の流れは時として恐ろしくもあります。
黒田先生
風早 りら 家康という人は 本当に 頭がいいと
思いました
それが 子孫に受け継がれたなら
また 時代は大きく変わったでしょう
19世紀に藩の財政の立て直し
楽しみにしていますね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 家康という人は 本当に 頭がいいと
> 思いました
> それが 子孫に受け継がれたなら
> また 時代は大きく変わったでしょう
> 19世紀に藩の財政の立て直し
> 楽しみにしていますね
確かに外様大名を思い通りに操る家康の策謀は見事の一言です。
設立当初の幕府がいかに優秀だったかがよく分かるエピソードです。
長州藩も薩摩藩同様、財政事情が悪化しつつありました。
幕末に活躍する藩は、いずれも同じような悩みを抱えて、なおかつ同じように問題を克服していったんですよね。
執念
オバrev 毛利輝元と言えば、それまでの山城から平地に築かれた名城広島城を建てた人物です。また祖父元就の「3本の矢」はサンフレッツェの名前の元になっていますし、2人とも広島では大変有名な歴史上の人物です。
しかし、確かに関ヶ原以降の毛利家はその面影もない状況だったんですね。
ただ、何故あんな萩のような田舎(といっては失礼かもしれませんが)から、幕末~明治維新にかけて優秀な人材が次々と輩出されたのかが分かりました。
それにしても、250年たってから恨みを晴らすとは・・・凄い執念ですね(^^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 毛利輝元と言えば、それまでの山城から平地に築かれた名城広島城を建てた人物です。また祖父元就の「3本の矢」はサンフレッツェの名前の元になっていますし、2人とも広島では大変有名な歴史上の人物です。
> しかし、確かに関ヶ原以降の毛利家はその面影もない状況だったんですね。
一人の偉大な人物によって築き上げられた地位や名誉は、その後の一人の凡庸な人物によってすべてが失われてしまう…。平家並みの栄枯盛衰ですね(´・ω・`)
> ただ、何故あんな萩のような田舎(といっては失礼かもしれませんが)から、幕末~明治維新にかけて優秀な人材が次々と輩出されたのかが分かりました。
> それにしても、250年たってから恨みを晴らすとは・・・凄い執念ですね(^^;)
人間の感情のうち、特に憎しみは世代を超えて受け継がれますからね。それが執念と化してしまうあたりが、人間の業(ごう)の深さを実感します。
ぴーち こんばんは!
そうですか。
更に詳しい内情をお聞きすると
家臣の心情も致し方ないと、納得することが出来ます。ありがとうございますm(__)m
しかし、その家臣の中には主君に憎まれても
何とか知恵を貸そうと考えた者は誰もいなかったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 > そうですか。
> 更に詳しい内情をお聞きすると
> 家臣の心情も致し方ないと、納得することが出来ます。ありがとうございますm(__)m
> しかし、その家臣の中には主君に憎まれても
> 何とか知恵を貸そうと考えた者は誰もいなかったのでしょうか。
諸悪の根源(?)は大坂城を無傷で明け渡したことですから、その際に身体を張ってでも止める家臣がいなかったことが残念ですね(いたかもしれませんが)。
家臣の心情を思うと胸が詰まる話ですが、これは毛利家に限った話でもないところが時代の厳しさを感じます。
清風は敬親の期待に応え、薩摩の調所広郷と同様に藩の借金を長期にわたる返済方式によって整理した代わりに藩の特産物であった蝋(ろう)の専売を廃止して商人の自由な取引を認め、彼らからの運上金(うんじょうきん)、すなわち税金で藩の財政を活性化させました。
この他、領内の港であった下関(しものせき)に越荷方(こしにかた)を置いて、諸国の廻船(かいせん)によってもたらされる商品である越荷を抵当に入れて資金を貸し付けたり、あるいは越荷の委託販売(いたくはんばい)を行ったりして利益を収めました。
こうして財政の再建に成功した長州藩は、薩摩藩と同様に雄藩(ゆうはん)として幕末に名乗りを挙(あ)げますが、そのためには人材の育成が不可欠であり、やがてそれにふさわしい人物が登場することになります。
ところで、長州藩の財政再建に貢献した村田清風の業績を称(たた)え、その名を校名として採用した学校法人が存在することを皆さんはご存知でしょうか。大阪にある清風学園(せいふうがくえん)のことであり、私の母校である明星中学校・高等学校(めいせいちゅうがっこう・こうとうがっこう)とは至近距離(しきんきょり)にあります。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
清風高校といえば、体操の池谷選手の母校だったように思います。
体操選手や、スポーツ関連に力を入れている高校なんでしょうか^^
私の所の県南にも同じ名前の高校がありますが、姉妹校ではない・・・のかしら(笑)
歴史上の重要人物が学校や大学の創始者となるパターンって多いのでしょうか。(私の知る限りでは数人しか存じませんが^^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 清風高校といえば、体操の池谷選手の母校だったように思います。
> 体操選手や、スポーツ関連に力を入れている高校なんでしょうか^^
> 私の所の県南にも同じ名前の高校がありますが、姉妹校ではない・・・のかしら(笑)
> 歴史上の重要人物が学校や大学の創始者となるパターンって多いのでしょうか。(私の知る限りでは数人しか存じませんが^^;)
そのとおり、池谷選手の母校です。ソウルとバルセロナで銅メダルを獲得しましたね。
大阪の清風高校の場合は創始者ではなく、村田清風の業績にあやかって名付けたのですが、ぴーちさんの近くの高校はどうでしょうか…?
松陰の試みは結果として失敗に終わり、自首した後に郷里(きょうり)の萩に送られた松陰は、やがて松下村塾(しょうかそんじゅく)を開いて地元の武士や町人など、身分にかかわらず多くの塾生に対して教えました。
しかし、幕府の大老(たいろう)であった井伊直弼(いいなおすけ)による安政の大獄(あんせいのたいごく)が始まると、松陰も幕府によって捕(とら)えられ、1859年に処刑されました。なお、彼の辞世(じせい、死に際して読む短歌や俳句などのこと)は以下のとおりです。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽(く)ちぬとも 留(とど)め置かまし 大和魂(やまとだましい)」
松陰の身体は文字どおり刑場の露(つゆ)と消えましたが、その精神は塾生たちによって受け継がれ、長州藩における討幕の機運を高めることになったのでした。
(※下記の映像ですが、誤りがございます。吉田松陰の字は、正しくは「松陰」です。講義中に「松陰」と「松蔭」とを混同してしまったがゆえのミスでした。 謹んでお詫びのうえ、訂正いたします。)




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
井伊直弼が益々悪人に思えてくるエピソードですね(^^A
前回、「桜田門外の変」という映画を鑑賞した後ですので、憎悪さえ覚えてしまいそうです^^;
ところでまたまた脱線話で恐縮ですが
、尾形大作さんが歌った「吉田松陰」という歌が
ありましたね!
しかも作詞は先日他界された星野哲郎さんです。
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND578/index.html
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 井伊直弼が益々悪人に思えてくるエピソードですね(^^A
> 前回、「桜田門外の変」という映画を鑑賞した後ですので、憎悪さえ覚えてしまいそうです^^;
井伊直弼には直弼なりの考えもあったのですが、確かにこれはやり過ぎですね。
講座の後半で詳しく検証してみたいと思います。
> ところでまたまた脱線話で恐縮ですが
> 、尾形大作さんが歌った「吉田松陰」という歌が
> ありましたね!
> しかも作詞は先日他界された星野哲郎さんです。
> http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND578/index.html
吉田松陰ほどの人物ですから、やはり歌謡にも残されているんですね(^^♪
- 松下村塾は近いので行ってみたことがありますが、こぢんまりとした一軒家でした。
いくら幕府に恨みを持っていた毛利の土地だったとは言え、あれほどの人材を輩出させた吉田松陰の力は凄いと思います。
一体松陰のどういう人間性、カリスマ性、教えがそうさせたんでしょうかね?
オバrev(?)さんへ
黒田裕樹 ホストが同じなので、たぶんオバrevさんだと思うのですが…(^^ゞ
> 松下村塾は近いので行ってみたことがありますが、こぢんまりとした一軒家でした。
> いくら幕府に恨みを持っていた毛利の土地だったとは言え、あれほどの人材を輩出させた吉田松陰の力は凄いと思います。
> 一体松陰のどういう人間性、カリスマ性、教えがそうさせたんでしょうかね?
吉田松陰は時代に選ばれ、時代によって若い命を散らしましたね。幕末という激動の時代だからこそ輝いたのだと思います。
松下村塾は本当に狭いんですよね。でもあの塾から我が国の歴史を変える志士が次々と誕生する…。まさに奇跡ですよね。
カリスマ性は確かにあったと思いますよ。あの高杉晋作が慕っていたんですからね(^^ゞ
失礼しました(^^ゞ
オバrev あ"~!何とHN抜けてました(^0^;)
と言うことは、○○さんや○○さんへのコメントもHN抜けていたな~ (ノд`)アチャー
それにしても松下村塾の塾生にとって松陰との出会いは、人生邂逅と言う言葉がピッタリですね。実に羨ましいです。
オバrevさんへ その2
黒田裕樹 > あ"~!何とHN抜けてました(^0^;)
> と言うことは、○○さんや○○さんへのコメントもHN抜けていたな~ (ノд`)アチャー
どうぞお気になさらずに(^^♪
> それにしても松下村塾の塾生にとって松陰との出会いは、人生邂逅と言う言葉がピッタリですね。実に羨ましいです。
普通の人間が一生かかっても経験できない邂逅ですよね。まさに運命といえるでしょう。
吉田松陰の年齢。
晴雨堂ミカエル 時代劇では40代の俳優が演じる事が多い松陰ですが、松下村塾で活躍していた頃はまだ二十歳代後半の若造です。だいいち外国へ密航しようなどと冒険を考えるのは「若者」である証拠です。
黒田氏も「若い頃から学問に励んでいた」と表現されているところから、年齢をご存知でも松陰が「若者」というのは感覚的に違和感をお持ちのようですね。私なら「幼少の頃から」としますが。
時代劇や肖像画からの固定概念は根強い。
当時の平均寿命が短いからといって、当時の30前後が現代の40・50に相当するかのように誤解錯覚する事が多いですが、見た目の老け方はさほど現代とは変わりません。
ただ、乳幼児と初老(40歳)以降の死亡率が現代人より多く、今なら通院治療で治る病気や怪我でも死亡する事があったでしょうから、私たちより「人生の制限時間」を身近に感じていたでしょうけど。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 時代劇では40代の俳優が演じる事が多い松陰ですが、松下村塾で活躍していた頃はまだ二十歳代後半の若造です。だいいち外国へ密航しようなどと冒険を考えるのは「若者」である証拠です。
> 黒田氏も「若い頃から学問に励んでいた」と表現されているところから、年齢をご存知でも松陰が「若者」というのは感覚的に違和感をお持ちのようですね。私なら「幼少の頃から」としますが。
> 時代劇や肖像画からの固定概念は根強い。
松陰だけでなく、幕末の志士には確かに若者が多いですね。
ただ、現代の感覚における若者とは一味違うような気がします。
現代のように様々な理由で守られているのではなく、毎日が命がけの日々でしたから、人間の出来が違いますね。
松陰の肖像画は処刑前のものと伝えられてますが、筆舌に尽くしがたい実体験が、三十路前でありながら彼を老成させたのかもしれません。
> 当時の平均寿命が短いからといって、当時の30前後が現代の40・50に相当するかのように誤解錯覚する事が多いですが、見た目の老け方はさほど現代とは変わりません。
> ただ、乳幼児と初老(40歳)以降の死亡率が現代人より多く、今なら通院治療で治る病気や怪我でも死亡する事があったでしょうから、私たちより「人生の制限時間」を身近に感じていたでしょうけど。
寿命の短さや、いつ死ぬかもしれないという恐怖感が、当時の人々を突き動かしたのかもしれませんね。
いずれにせよ、現代の感覚で歴史を見ないようにくれぐれも注意しなければいけません。
お言葉有難うございます。
なぜか、長州モノが少ないような気が。。
青田です。 黒田先生
青田です。
大河ドラマでも、長州を主人公にしたものは
非常に少なく、あまり、人気がありません。
(マスコミの意図的なモノも感じますが)
私の記憶では、『花神』『花燃ゆ』くらいです。
私は、日本の歴史的な役割という観点では
非常に大きいのに、幕末モノでも、『坂本龍馬』『勝海舟』『西郷隆盛』などは多いです。
これは、私の憶測(独り言)ですが、明治以降は、陸軍は、長州閥、海軍は、薩摩閥。
でした。
陸軍=悪というイメージで、東京裁判で、裁かれました。
そう考えると
悪=陸軍=長州
というイメージで、マスコミもあまり、イイ印象を持ってないから、大河ドラマなどでも、
あまり、取り上げられないではと考えてしまいます。
乃木将軍(長州)は、愚かな司令官のように描かれます。
私個人は、ボロボロになりながら、教育の力で、多くの優秀な人材を輩出した幕末長州は、大好きです。
ちなみに、
来年の大河ドラマは、『真田幸村』で
日本人の『真田幸村』人気は尋常ではありません。
籠城戦のスペシャリストという点では、たしかに優れていますが、
ビジョン、戦略という点では、あまり、評価しません。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう一面もありますよね。
戦略やビジョンよりも、判官贔屓という概念が強い印象もありますが…。
ところが、幕末の頃の水戸学は、主君としてふさわしいのは幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室であり、また諸外国からのいわゆる外圧に対してはこれを排除すべきであるとする尊王攘夷(そんのうじょうい)の考えが中心となっていました。
吉田松陰も水戸学を学んで大きな影響を受け、その松陰から学んだ塾生たちによって、長州藩の藩論もいつしか尊王攘夷論が中心となり、討幕へ向けての大きな推進力になりました。攘夷の機運が高まった長州藩では、幕府の攘夷決行の掛(か)け声に応じて1863年旧暦5月10日に下関海峡を通過する外国船に対して砲撃を実際に行いました。これを長州藩外国船砲撃事件(ちょうしゅうはんがいこくせんほうげきじけん)といいます。
しかし、あまりに急進的な攘夷論は薩摩藩や会津藩(あいづはん)などから敬遠され、同年旧暦8月18日にはクーデターが起きて、三条実美(さんじょうさねとみ)らの公卿や長州藩などの急進派が京都を追われてしまいました。これを八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)といいます。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
余りに急な攘夷論は、確かに反感を持たれてしまうのは必須ですよね。
ただ、尊皇攘夷の精神というのは
ある程度大切なのではないかと思うのです。
鎖国をしていた260年間の間の日本はなんだかんだいっても、平和な時代でしたが、開国し外国との交流が盛んになった時から今日までの間、得るものも多かったでしょうけれど、それでも何か大切なものばかり失って来たように感じてなりません。
自国の安全はなるべく外国の庇護を受けずに自国で守っていこうという気持ち、日本人としての誇りとして持ちたいものだと思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 余りに急な攘夷論は、確かに反感を持たれてしまうのは必須ですよね。
後先を考えずに「ただ打ち払えば良い」というのは明らかに乱暴ですからね。
何事も慎重に作戦を練らないといけません。
> ただ、尊皇攘夷の精神というのは
> ある程度大切なのではないかと思うのです。
> 鎖国をしていた260年間の間の日本はなんだかんだいっても、平和な時代でしたが、開国し外国との交流が盛んになった時から今日までの間、得るものも多かったでしょうけれど、それでも何か大切なものばかり失って来たように感じてなりません。
> 自国の安全はなるべく外国の庇護を受けずに自国で守っていこうという気持ち、日本人としての誇りとして持ちたいものだと思います。
仰るとおりです。
薩摩藩も長州藩も、この後は性急な攘夷論に走らずに現実的な路線を貫くわけですが、その理由は「歴史に学ぶ」ことでした。次回(18日)以降に詳しく探ってみたいと思います。
黒田先生
風早 りら 吉田松陰と言う方は 素晴らしい方の
ようですね
この方には かなり 興味があります
また 機会がありましたら
この方の お話をお聞かせ下さいね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 吉田松陰と言う方は 素晴らしい方の
> ようですね
> この方には かなり 興味があります
> また 機会がありましたら
> この方の お話をお聞かせ下さいね
吉田松陰という歴史上の人物だけで講座ができるほどですからね。
いずれはぜひとも挑戦したいと思います。
1864年に起きた池田屋事件(いけだやじけん)によって追いつめられた長州藩は、京都で薩摩・会津の両藩と激しく戦いましたが敗れ(これを禁門の変=きんもんのへん、または蛤御門の変=はまぐりごもんのへん、といいます)、その後の幕府による第一次長州征伐(だいいちじちょうしゅうせいばつ)によって、長州藩の藩論は保守的な思想が中心となりました。
そんな長州藩に追い打ちをかけるように、長州藩外国船砲撃事件への報復としてイギリス・アメリカ・フランス・オランダの4ヵ国が下関を砲撃して占領(せんりょう)するという事件が起きました。これを四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたいしものせきほうげきじけん)といいます。
まさにボロボロの状態となった長州藩ですが、砲撃事件によって武力による攘夷の不可能を悟(さと)った長州藩は外国から学びながら力を蓄(たくわ)える道を選択し、後に高杉晋作によって奇兵隊(きへいたい)が結成されると、藩論を再び討幕へと導くことに成功しました。
ちなみに、外国からの攻撃を受けて攘夷の方針を転換したところは、薩英戦争を経験した薩摩藩と同じ路線をたどっています。いつの世も、人間は実際に経験しないと本質が理解できないのが宿命なのかもしれませんね。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
最後の一節だけに反応して、恐縮ですが^^;
仰るとおり、自分が経験してみないと納得出来ないというのは世の常なんでしょうね。
親がいくら口で駄目だと説得しても、子供は自分でそれを経験してみないことには、判ろうとしないという所でしょうか(苦笑)
応援凸
なおまゆ 楽しく読ませて頂いています。
実は、私は長州人です。
明治維新では、長州の出番が多く、少し、自慢で少し、恥ずかしく思ってます。
長州藩の藩論を転回させた絵堂の戦いは、高杉晋作主導の小さな戦いでした。
彼は、きっと首脳部は経験しなければ分からないと読んでいたのでしょう。
わずかな兵で決起した高杉晋作の「確かな見通し」がなければ長州藩は、維新の中心に居なかったかもしれません。歴史のアヤを感じます。
黒田先生
風早 りら 高杉晋作によって奇兵隊結成されるまでの
由縁を 詳しく 学ぶことが 出来
大変 有意義な 日となりました
彼のことは 以前より 興味がありましたので
今夜は特に楽しく 勉強させて
頂きました
有難う御座います
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 最後の一節だけに反応して、恐縮ですが^^;
> 仰るとおり、自分が経験してみないと納得出来ないというのは世の常なんでしょうね。
> 親がいくら口で駄目だと説得しても、子供は自分でそれを経験してみないことには、判ろうとしないという所でしょうか(苦笑)
確かにそのとおりですね。
小さなケガならまだ大丈夫なんですが、大ケガしてからでは遅い…。
長州藩の苦労話が一つの教訓になってくれればよいのですが。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 楽しく読ませて頂いています。
> 実は、私は長州人です。
> 明治維新では、長州の出番が多く、少し、自慢で少し、恥ずかしく思ってます。
そうなんですね。
地元の活躍は喜ばしいことです。
> 長州藩の藩論を転回させた絵堂の戦いは、高杉晋作主導の小さな戦いでした。
> 彼は、きっと首脳部は経験しなければ分からないと読んでいたのでしょう。
> わずかな兵で決起した高杉晋作の「確かな見通し」がなければ長州藩は、維新の中心に居なかったかもしれません。歴史のアヤを感じます。
仰るとおり、高杉晋作の活躍がなければ現在の我が国の体制はあり得なかったでしょう。
幕末の人材の豊富さは、今更ながらものすごいものがありますね。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 高杉晋作によって奇兵隊結成されるまでの
> 由縁を 詳しく 学ぶことが 出来
> 大変 有意義な 日となりました
> 彼のことは 以前より 興味がありましたので
> 今夜は特に楽しく 勉強させて
> 頂きました
> 有難う御座います
こちらこそ有難うございます。
高杉晋作については、この講座であと一回出てきます。
今回のことも、次回のことも、いずれも我が国の歴史を形づくった「隠れた偉業」だったと思います。
恐るべし長州藩
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この時代の長州藩は、あらゆる面で、特別だったと思います。
◆ 攘夷運動の中心だったのに、伊藤博文、井上馨らの若者を英国に密航させて、留学させる。
◆ 身分の低い人間が、中心的なリーダーになる。
伊藤博文は、足軽出身、山縣有朋は、中間の出身、久坂玄瑞は医者の息子、大村益次郎は医者
桂小五郎は、医者の息子。
リーダー核で、上士は、高杉晋作くらいです。
◆ 奇兵隊だけではなく、力士隊、遊撃隊などを
即席で創り、それが実際の戦いで、活躍できた。
◆ 第二次長州征伐(四境戦争)で、幕府軍15万VS長州藩5000で、長州藩が勝ってしまう。
いくら、平和ボケの幕府であっても15万
それにたいしても、いくら必死であっても、
元々武士ではない人間を即席の訓練で、兵士に
変えた長州藩。
どう考えても、奇跡としか考えられません。
長州立場で、考えると、ボロボロになりながら
常に逆転満塁ホームランの連続を繰り返していた気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 この当時の長州藩は、いわば「不運のどん底」と「幸運の女神」が同時であったと思われます。
その根にあるのは、記事で紹介したとおりの「徳川家に対する恨み」でしょう。
恨みは人を動かし、どんな不運をもはねのけて、最終的に奇跡の勝利を成し遂げる。
考えてみれば、背筋が寒くなるほど恐ろしいことですね。
復讐劇(西南戦争)
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
恨みと言えば、
西南戦争の時、政府軍の抜刀隊を
政府は、官軍に恨みのある会津藩出身の武士が
多く集めたという話を聞いたことがあります。
その政府軍の抜刀隊が、田原坂の戦いの勝敗を
決めました。
本当に未来は、どうなるか、わかりませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 本当にそうですね。
物事はどんな場面で功を奏したり、また裏目に出たりするか分かりません。
だからこそ、私たちは人生の教訓として歴史に学ばなければならないのです。
しかし、我が国の両派は外国からの支援は喜んで受けたものの、身に余(あま)る過剰(かじょう)な肩入れは断りました。幕府を、あるいは討幕派を倒す際に外国の力を頼り過ぎると、事後に外国からの法外な干渉を受ける可能性があることが分かっていたからです。
こうした諸外国との絶妙なバランス感覚が、幕府が倒れた後も我が国が西欧諸国の植民地になることなく、明治維新を迎えることができた大きな要因となりました。また、それ以前に実は我が国の領土が他国によって占領される危機があったのですが、高杉晋作によって回避(かいひ)されているという事実は意外と知られていません。
四国艦隊下関砲撃事件の後の交渉で、イギリスは関門海峡(かんもんかいきょう)の入り口にあって、軍事的にも重要な彦島(ひこしま)の租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りることだが、事実上の占領を意味する)を迫りましたが、晋作は粘(ねば)り強く交渉して、ついに撤回(てっかい)させることに成功しました。
もし晋作の功績がなかったら、彦島が中国における香港(ホンコン)のような存在になったばかりでなく、これをきっかけに我が国の植民地化が進んだ可能性も十分に考えられます。高杉晋作のまさに命がけの行動のおかげで、現在の私たちが存在しているといっても過言ではないでしょう。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですよね。
仰るとおり、外国に頼りきってしまうと
後々の様々な要求を呑まなければいけない羽目に
なりますものね。後がこわいですね(^^A
高杉晋作は、そんな重要な役割を担っていたのですか!
存じませんでした・というか、彦島という島の存在すら初めて聞きました(@@
お恥ずかしい事です

しかしながら、こういう地道な活動が後々大きな功績となりうるものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですよね。
> 仰るとおり、外国に頼りきってしまうと
> 後々の様々な要求を呑まなければいけない羽目に
> なりますものね。後がこわいですね(^^A
そのとおりです。
外国の過剰な援助は、その後の無茶な要求がからむことが多いですからね。
見返りを積極的に求めない外国なんて、お人よしの我が国ぐらいのものです。
> 高杉晋作は、そんな重要な役割を担っていたのですか!
> 存じませんでした・というか、彦島という島の存在すら初めて聞きました(@@
> お恥ずかしい事です

> しかしながら、こういう地道な活動が後々大きな功績となりうるものですね。
知らないところで我が国の危機を救ったというのはよくある話です。
そんなエピソードを地道に掘り起こして公表することで、先人の功績と私たちとの深いつながりを知ることも歴史教育にとって重要ですからね。
黒田先生
風早 りら 高杉晋作のお話
昨日より 期待していました
イギリスとの彼の賢い交渉
行動は 日本の誇りですね
素晴らしいと思います
明日 期待しています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 高杉晋作のお話
> 昨日より 期待していました
> イギリスとの彼の賢い交渉
> 行動は 日本の誇りですね
> 素晴らしいと思います
> 明日 期待しています
高杉晋作の命がけの行為が、結果として我が国を救いました。
また、そんな晋作の姿勢に畏(おそ)れたからこそ、相手国も身を引いたのでしょう。
毅然とした態度が外国相手には絶対に必要ですね。
関東の誠 戊辰戦争に対して英仏の代理戦争のような感じ方をしていました。また明治期に入った後、元新選組斎藤一の写真と言われる軍服はアメリカの北軍にそっくり、この流れの中、仰る通りバランス感覚を感じていました。 遡れば16~17世紀にかけての日本はカトリックとプロテスタントとの接し方も絶妙だったように思っています。
現代より歴史の中の日本の方が情報網が発達していたのでは?と言いたくなってしまう事実です。
関東の誠さんへ
黒田裕樹 > 戊辰戦争に対して英仏の代理戦争のような感じ方をしていました。また明治期に入った後、元新選組斎藤一の写真と言われる軍服はアメリカの北軍にそっくり、この流れの中、仰る通りバランス感覚を感じていました。 遡れば16~17世紀にかけての日本はカトリックとプロテスタントとの接し方も絶妙だったように思っています。
> 現代より歴史の中の日本の方が情報網が発達していたのでは?と言いたくなってしまう事実です。
そうですね。
幕末の時期も、また16~17世紀の時期も、国民や為政者が「生きるか死ぬか」の瀬戸際に立たされていました。
それだけにバランス感覚も鋭くなっていたのでしょう。現代のような「平和ボケ」とは比較にならないと思います。
なおまゆ 今の日本にこそ高杉晋作のような交渉術が必要ですね。
彦島は、小さな島です。
下関と短い一本の橋で繋がっています。
古くは壇ノ浦の合戦の時、平家の基地だったところです。瀬戸内海の入り口に当たるので航海の要衝には違いありません。
でも住んでる人達は、島の重要性、歴史を知りません。若者は次々と島を出て行きます。
故郷に愛着を持つためにも歴史に学ぶことは重要ですよね。
黒田さんの講座を読むと、その気持ちが強まる一方です。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史の断絶が見えてくるエピソードですね。
見た目は小さな島でも、それがどれだけの大きな意味を持っているのか。
実際に暮らす人も、また周囲の人々もその意味を理解しなければ、やがては国土の喪失=民族の滅亡へとつながってしまうでしょう。
歴史の流れは重要です。
木戸孝允
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ドラマや小説では、『木戸孝允』は
あまり、カッコ良く描かれませんが
調べてみると、この『木戸孝允』は
凄い人物ですね。
今まで、知らなかったのですが
リベラルであり、人情家である彼が大好きです。
<リベラルな面>
三権分立、教育制度の改革、議会制民主制度
憲法設立の必要性、廃藩置県
は、彼の構想力です。
<人情家>
◆秩禄処分のよる士族の困窮を心配して反対していた。
◆地租改正による農民の暮らしの心配をしていた。
◆ 会津戦争の会津の武士のことも心配していた。
◆ 幕臣の函館戦争で、死んだ、中島三郎助を心配していた。
幕臣である中島三郎助が戦死した時、慟哭した。
高杉晋作、西郷隆盛が有名ですが、木戸孝允も
明治政府に必要な人物だったと思います。
ただ、明治政府の中で、精神的苦悩が絶えず、
病気がちだったようですが。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、木戸孝允はあまり目立ちませんが、新政府の様々な政策に関係しており、なくてはならない人物でした。それだけに若くして亡くなったことが、残された伊藤博文らにとって重圧になったと思われます。
長州藩の動きを警戒(けいかい)した幕府は同年に再び長州征伐の兵を起こしましたが(これを第二次長州征伐といいます)、薩長同盟の影響でその動きは鈍(にぶ)く、やがて当時の将軍である徳川家茂(とくがわいえもち)が急死すると、征伐は中止になりました。
自己に逆らう長州藩を征伐できなかったことで幕府の威信(いしん)はさらに低下し、翌年(1867年)の大政奉還への流れとつながるのですが、その大きなきっかけとなったのが先述した薩長同盟であり、これを実現させたのは土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎らが中心でした。
ではなぜ土佐藩が幕末の歴史の表舞台に登場することになったのでしょうか。実は、この流れも関ヶ原の戦いが由来(ゆらい)となっているのです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
黒田さんの過去記事を数件拝見させていただきました・・・が・・。どうも、いまひとつ
判りませんでした(^^A
土佐藩=長宗我部氏。
土佐藩に何か関が原の戦いで
特別な決まりごとでも
あったのでしょうか・・?
まあ、私が自力で答えまで辿り着けるまでは
3年くらい掛かってしまいそうなので
このへんで引っ込むことにします(苦笑)
応援でお
ぴーちさんへ
黒田裕樹 これは申し訳ないですm(_ _)m
次回(21日)から土佐藩に関する記事が始まりますので、そちらをご参照いただければ幸いです。
またぜひお越し下さい(^^♪
オバrev う~ん、関ヶ原の戦い由来となると、土佐というと地理的に言って多分西軍で参加したでしょうから、その後の待遇は当然悪い。
薩長と同じくその恨みからじゃあないですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > う~ん、関ヶ原の戦い由来となると、土佐というと地理的に言って多分西軍で参加したでしょうから、その後の待遇は当然悪い。
> 薩長と同じくその恨みからじゃあないですか?
なるほど、土佐は西軍に参加していた、ということですね。
そのこと自体は正解ですが、関ヶ原当時に土佐を支配していたのはどこの家か、ということがカギを握ると思いますよ(^^♪
明日(21日)の更新をお楽しみに!
黒田先生
風早 りら 坂本龍馬と中岡慎太郎
今や 大河ドラマで 大人気ですが
この時代は もっと スーパーヒーロー
だったんでしょうね
本物のカッコ良さを感じます
現代にも 早く 表れて欲しいですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 坂本龍馬と中岡慎太郎
> 今や 大河ドラマで 大人気ですが
> この時代は もっと スーパーヒーロー
> だったんでしょうね
> 本物のカッコ良さを感じます
> 現代にも 早く 表れて欲しいですね
そうですね。
国益のために動いた彼らのような本物のヒーローが現代に現れてほしいですし、もし現れれば、私たちは温かい目で応援したいと思います。
素朴な疑問
青田です。 黒田先生
今晩は
青田です。
よく、薩摩と長州が犬猿の仲と言われますが、
これは、八月十八日の政変からなのでしょうか。
というのも、八月十八日の政変の起こった原因として、
朝廷内の公家が長州派が大多数を占めていたことが、面白くない薩摩が、会津と組んで、起こしたことということは、それ以前から、薩摩と長州が
仲が悪かった気がします。
なぜ、仲が悪かったのか、いつから、仲が悪かったのか知りたいです。
というのも、共に、関ヶ原の負け組であり、西国の雄藩同士なら、もう少し、仲が良くても、おかしくない気がするからです。
しかも、
薩摩の西郷隆盛も、島津斉彬の下で、いろいろな藩の人間(水戸藩など)と交流がありました。
そして、西郷隆盛が島流しに合っている間に長州の桂小五郎が、いろいろな藩の人間と交流がありました。(水戸藩など)
当初、薩摩藩も攘夷論を持っていたのであれば、両者が朝廷内の権力争いを起こしたことがどうも
納得できません。
青田さんへ
黒田裕樹 薩摩藩と長州藩との仲が決定的に悪化したのは仰るとおり八月十八日の政変~禁門の変からの流れですが、両者の姿勢が「公武合体派で幕府を援けながら政治に実権を握る」「幕府を倒して新たな枠組みで政治の実権を握る」と真っ二つに分かれていましたから、犬猿の仲になるのは必至の情勢だったといえますね。
薩摩藩が武力倒幕に傾くのは西郷隆盛が藩内の実権を握ってからであり、この劇的な変化には薩英戦争の敗北における「攘夷が不可能」と悟ったことや、第一次長州征伐の成功による幕府の増徴など複雑な要件が絡み合っています。
従って、薩長同盟の流れが確定するまではそれぞれの藩が独自の動きを見せながら反目し合っていたことになりまね。
実は、一豊はいわゆる「口八丁(くちはっちょう、口が達者なこと)」で土佐藩の藩主の地位を手に入れたのです。関ヶ原の戦いの以前、徳川家康は小山(おやま、現在の栃木県)において有力武将と今後の作戦会議を練(ね)っていました。この席で福島正則(ふくしままさのり)が家康に味方すると述べたのですが、それに勝るとも劣(おと)らない重要な発言を一豊が行いました。
一豊は、当時の居城(きょじょう)であった掛川城(かけがわじょう)を無傷で家康に明け渡すと宣言したのです。予想外の申し出に家康は驚(おどろ)きましたが、一豊に負けじと他の武将が我(われ)も我もと明け渡しを約束して家康に忠誠を誓(ちか)ったことで、一豊が発したひと言が家康の立場をより一層有利にしたのです。
家康は小山における一豊の功績を重視して、関ヶ原の戦いで大した手柄(てがら)がなかったにもかかわらず、一豊に土佐一国の支配を認めました。山内家は徳川家から大きな恩を受けたことで、以後も幕府の立場を考えて行動し、幕末においても大政奉還へと向かった、いわば可能な限り幕府を守る流れへと山内容堂(やまうちようどう)が政策を展開していったのでした。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
風早 りら 山内一豊から山内容堂へは
こうして 繋がっていたのですね
山内一豊は中々の知恵者のようですね
一般に知られている 彼のイメージとは
違うようですが かなり利口な人のようですね
今日も楽しかったです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 山内一豊から山内容堂へは
> こうして 繋がっていたのですね
> 山内一豊は中々の知恵者のようですね
> 一般に知られている 彼のイメージとは
> 違うようですが かなり利口な人のようですね
> 今日も楽しかったです
山内一豊の知恵ですが、実は他人から拝借したという話もあります。
いずれにせよ、実行力があった彼の才能を褒めるべきですね。
ぴーち こんばんは!
今でもビジネスマンの心得のひとつとして
「誰よりも早く行動」出来る人間は、誰よりも大金を手に入れることが出来るという指針を掲げている所もあるようですが、一豊はその「先手必勝」の精神のほかにも「奇想天外」な方法で家康の心を一瞬に掴んだ成功例ともいうべき方法を知っていた優れた人物だったんですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今でもビジネスマンの心得のひとつとして
> 「誰よりも早く行動」出来る人間は、誰よりも大金を手に入れることが出来るという指針を掲げている所もあるようですが、一豊はその「先手必勝」の精神のほかにも「奇想天外」な方法で家康の心を一瞬に掴んだ成功例ともいうべき方法を知っていた優れた人物だったんですね。
そうですね。大胆な作戦と実行力が、先んじて人を制することができるという見本のようなものです。
ただ、山内一豊の一言は、自身の出世のみならず意外な副作用をもたらしたのもまた事実なんです。
次回(22日)をお楽しみに!
土佐藩では、以前から山内家に従っていた家臣を上士(じょうし)として待遇した一方で、かつての長宗我部の家臣は郷士(ごうし)とされ厳しい差別を受けました。こうした差別が郷士たちのエネルギーと化したことで、幕末における尊王攘夷運動の一因となり、また明治の自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)のきっかけにもなりました。
例えば坂本龍馬は郷士の出身ですし、自由民権運動で有名な板垣退助(いたがきたいすけ)も元々は土佐藩の藩士です(ただし、板垣自身は上士の身分でした)。また、龍馬自身は商家の血を引いていたこともあり、敵(かたき)同士だった長州藩と薩摩藩とを、討幕のために最新鋭の武器が欲しい長州藩と、密貿易が得意な薩摩藩という経済的な立場から結びつけることで、薩長同盟にこぎつけることに成功しました。
この他にも我が国初の会社組織とされる海援隊(かいえんたい)を立ち上げたり、いわゆる船中八策(せんちゅうはっさく)という、当時では非常に進歩的な基本方針を残したりするなどした龍馬の自由な生き様の根底には、関ヶ原の戦いからの大きな歴史の流れがあったのです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
土佐藩にそんな身分制度が存在していたのですか!余り聞いた事がありませんでしたが、土佐藩独自の制度だったのでしょうか・・。
確かに、郷士と位置づけられた武士達の間では
身分を下に見られるほど、侮辱的な事はありませんものね。
海援隊は国内初の会社組織の始まりだったとは!
坂本さん、さすがですね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 土佐藩にそんな身分制度が存在していたのですか!余り聞いた事がありませんでしたが、土佐藩独自の制度だったのでしょうか・・。
> 確かに、郷士と位置づけられた武士達の間では
> 身分を下に見られるほど、侮辱的な事はありませんものね。
長宗我部の旧家臣も十分活用できたはずなんですが、郷士にとってはたまったものではないですね。
しかし、このような理不尽な差別から幕末~明治の運動につながるのですから、歴史というのは本当にわかりません。
> 海援隊は国内初の会社組織の始まりだったとは!
> 坂本さん、さすがですね!
商家出身の龍馬だからこその自由な発想ですね。
龍馬が我が国に残した功績は実に大きいです。それだけに暗殺が残念ですね。
:黒田裕樹さん
風早 りら 坂本龍馬の我が国初の会社組織とされる海援隊
当時としては 斬新な船中八策
彼の進んだ 考えは 素晴らしいものと
評価をしています
それを 取り上げて下さり 嬉しかったです
有難う御座います
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 坂本龍馬の我が国初の会社組織とされる海援隊
> 当時としては 斬新な船中八策
> 彼の進んだ 考えは 素晴らしいものと
> 評価をしています
> それを 取り上げて下さり 嬉しかったです
> 有難う御座います
そうですね。
もし龍馬が生きていれば、我が国の富国強兵も違った一面になったと思います。
本当に惜しい人物を亡くしましたね。
なぜ肥前藩が他の雄藩と肩を並べるようになったのでしょうか。そのカラクリは、実は「最新鋭の武器」にありました。肥前藩が所有していたアームストロング砲による砲撃の威力は当時としては凄(すさ)まじいものがあり、戊辰戦争では上野の彰義隊(しょうぎたい)を一日で壊滅(かいめつ)させ、また会津藩との戦いにおいては鶴ヶ城(つるがじょう)の落城(らくじょう)に大きく貢献しました。
こうした功績が認められて、明治維新以後のいわゆる藩閥政府(はんばつせいふ)において、肥前藩は他の藩に並び称されるようになったのですが、これは最新鋭の武器をいち早く導入した、藩主である鍋島閑叟(なべしまかんそう)の指導力が功を奏(そう)したものでした。
閑叟はどうして最新鋭の武器の導入を急いだのでしょうか。その原因は、明治維新から約60年前に肥前藩が受けた「屈辱(くつじょく)」にありました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そういえば、先日「アームストロング砲」の
お話が少しだけありましたよね!
そうですか~。肥前の国の鍋島さんの手柄だったのですね。(さん付けはおかしいでしょうか?笑)
それにしても、60年前の屈辱とは一体
どんなものだったのでしょうか。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そういえば、先日「アームストロング砲」の
> お話が少しだけありましたよね!
> そうですか~。肥前の国の鍋島さんの手柄だったのですね。(さん付けはおかしいでしょうか?笑)
そのとおりです。
戊辰戦争が薩長側の圧勝で終わったのも、最新鋭の武器があったればこそなんです。
まさに隠れた功績ですね。
> それにしても、60年前の屈辱とは一体
> どんなものだったのでしょうか。。
薩長がそうであったように、外国がからんでいます。
それも不意打ちで…。
次回(24日)の更新をお楽しみに!
黒田裕樹さん
風早 りら 明治維新から約60年前に肥前藩が受けた屈辱
とても 興味深いです
次回を楽しみにしています
私は今日24日は 夕方から夜間まで仕事です
楽しい 聖夜を過ごされることを 祈っています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 明治維新から約60年前に肥前藩が受けた屈辱
> とても 興味深いです
> 次回を楽しみにしています
> 私は今日24日は 夕方から夜間まで仕事です
> 楽しい 聖夜を過ごされることを 祈っています
屈辱は人間を、ひいては藩を大きくしますね。
肥前藩もかつての屈辱をバネに歴史を大きく変えました。
今年の聖夜は明日(25日)の準備に追われています(笑)。
皆様に素敵なクリスマスプレゼントができればよいのですが。
フェートン号はオランダ商館を襲って食糧などを奪(うば)うなどの乱暴(らんぼう)を働きましたが、最新鋭の設備を誇(ほこ)ったフェートン号の前に幕府も肥前藩も何ら抵抗することができず、当時の長崎奉行が責任を取って切腹するという悲劇をもたらしました。これをフェートン号事件といいます。
事件の後に幕府から叱責(しっせき)を受けた肥前藩は、汚名返上を目指して軍備を整えていきました。薩摩藩や長州藩よりもずっと前から攘夷の不可能を理解していた肥前藩だったからこそ、他の藩に先駆(さきが)けて最新鋭の武器を開発し、やがては維新の元勲として君臨するという流れがつくられたのです。
ちなみに、フェートン号事件後の肥前藩では藩士の教育にも力を注ぎましたが、その余りにも厳しい内容に反発する藩士が現れ、自由な学問を求めた彼は、明治になってから自身で学校をつくりました。
その人物こそが大隈重信(おおくましげのぶ)であり、学校は現在の早稲田大学(わせだだいがく)のことです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
日本の外国苦手意識をうまく利用されたかのような事件だったんですね(><)
しかし、イギリスもやってくれましたね(>0<)
それでもそんな事件があった事で
教育が強化されて、そこから反発するものが
現れたことで、w大が創設されることになるなんてその事件の関係、繋がりを思うと不思議です。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本の外国苦手意識をうまく利用されたかのような事件だったんですね(><)
> しかし、イギリスもやってくれましたね(>0<)
確かにしてやられましたね(^^ゞ
奉行の切腹という悲劇をもたらせてしまったのが残念です。
> それでもそんな事件があった事で
> 教育が強化されて、そこから反発するものが
> 現れたことで、w大が創設されることになるなんてその事件の関係、繋がりを思うと不思議です。
これぞ「歴史の流れ」ですね。
早稲田大学にまでつながっているのが凄いと思います。
幕府が成立した17世紀前半の世界では、キリスト教のカトリックを信仰したヨーロッパ諸国による世界各地の植民地化が進んでおり、我が国も例外ではありませんでした。このため、幕府はカトリックを禁教にするとともに信仰する諸国との国交を断絶し、同じキリスト教でもプロテスタントであり、我が国での布教をしないと約束したオランダや、同じアジアの国同士である清国(しんこく)や李氏朝鮮(りしちょうせん)など、限られた国との間でしか貿易を行いませんでした。
制限貿易にはこうした事情があったうえに、国交断絶という強硬な手段が可能だったのは、戦国時代からまだ時間が経っておらず、全国で数十万の武士が健在という強大な武力があったからこそでした。
しかし、制限貿易を始めてから平和が長年続くうちに、我が国では武力よりも学問が重視されるとともに、制限貿易の意味が履(は)き違(ちが)えられて、諸外国との交渉を一切行わないという鎖国(さこく)が当たり前と考えられるようになってしまいました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
少し記事から反れてしまい恐縮ですが、
日本はアジア諸国との縁は昔から切っても
切れないものがあったのですね。
今でこそ、日本で流行したものを中国は
真似をしているというニュースが飛び交っていますが、昔の日本も考えてみれば、中国から
伝来したものを取り入れて(悪くいえば、
真似)発展させて来ました。どちらにも加勢する事無く、客観視してみると、日本と中国は
どっちもどっちなんだと思えて来てしまうのです。ただ最近の中国側の模倣に関しては、
著作権など金銭的なものが絡んでくるので、
そこら辺りの事を考えると、余りに露骨で
模倣は行わないほうがよいのではないかとも思いますね。まあ、何をいった所で改善してくれる
相手ではなさそうですが^^;
制度貿易の件ですが、一度制定された制度も、世の中の変化に応じて
常に見直し、検討していかなければ、時代錯誤として見なされてしまいますものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
一度決めた制限貿易の制度を、1ミリたりとて変えることをしないという方がおかしいです。
世の中の流れは激しく動いていますから、それこそ「時代遅れ」といわれても仕方がないことになりますし、何よりも為政者として国民を守る義務があるのですから。
しかし、結果として幕府にはそれが理解できなかった。
それゆえに次回(26日)に紹介する悲劇が起きてしまうのです。