やがて我が国では「バスに乗り遅れるな」というスローガンが流行して、ドイツとの同盟を朝日新聞などのマスコミも大々的にキャンペーンするようになり、また第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外務大臣であった松岡洋右(まつおかようすけ)や陸軍の熱心な推進もあって、昭和15(1940)年9月にドイツやイタリアと日独伊三国同盟を結びましたが、この同盟は、我が国にとって「百害あって一利なし」という結果となってしまったのです。
松岡外相には、日独伊三国同盟を結ぶことによってアメリカにプレッシャーをかけ、泥沼化していた日華事変の解決や難航していた日米交渉をまとめようという思惑がありました。松岡外相はアメリカを説得するため、ドイツと不可侵条約を結んでいたソ連にも接近して、昭和16(1941)年4月に日ソ中立条約を締結しましたが、そのわずか2ヵ月後の6月にドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したため、外相の目論見(もくろみ)は崩れてしまいました。
また、三国同盟を結んだといっても、遠く離れたドイツやイタリアが我が国の危機に際して援軍をすぐに送ってくれる可能性は低かったですし、何よりも三国同盟を口実にアメリカが我が国に対して態度をさらに硬化させ、後述するような報復ともいえる措置(そち)を次々と行うようになるのです。
さらに付け加えれば、同盟締結時は破竹の勢いだったドイツがやがて劣勢に転じたことで、そんなドイツと同盟を結んでしまっていた我が国がますます不利になっていくのは、避けようもない流れとなってしまいました。要するに、我が国は第二次世界大戦の開戦直後にドイツが見せた強さに驚くあまり、その行く末を見誤ったのです。もし我が国が当時の世界各国の本当の情勢を的確につかんでいれば、と悔やまれてなりません。
※下記の映像は7月20日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
やはり、日本にとっての一番の悲劇は
ロシア革命だと思います。
第一次世界大戦で、欧米の目がヨーロッパに向いていて、
1907年に日露戦争で、勝利した時、日露協商で
極東最大の脅威であるロシアが同盟国になりました。
このロシアが共産主義化して、スパイを世界中に送り出してから、日本は国内外ともに振り廻されます。
もちろん、人類史上初の社会主義国家で、今のように情報のない時代ですから、国際情勢を複雑だと思いますが、そんな時だからこそ
一番、大事な時に、日本の外交能力が低下していたことが最大の悲劇だと思います。
今そうですが、学歴貴族化した外務省は役立ちませんね。(こんな時に榎本武揚、陸奥宗光、が外務大臣なら、こんなことには、ならなかったですね。)
青田さんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
今も昔も、貴族化した官僚は我が国の国益を重視できないようです。
ぴーち こんばんは!
遠くの親戚よりも近くの他人・・
やはり本来ならば、近隣諸国と仲良く出来れば
それに越したことは無いのでしょうかね。
それにしても、その時代の情勢を見誤ると
見事に裏目裏目に結果が出てしまうんですね。
恐ろしい事です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 遠くの親戚よりも近くの他人・・
> やはり本来ならば、近隣諸国と仲良く出来れば
> それに越したことは無いのでしょうかね。
現代の近隣諸国を見てもそうですが、現実には難しいですよね…。
> それにしても、その時代の情勢を見誤ると
> 見事に裏目裏目に結果が出てしまうんですね。
> 恐ろしい事です。
全くそのとおりです。
明治のころの輝かしい外交はどこへ行ってしまったのでしょうか…。
ドイツも想定外のアメリカ
青田です。 黒田先生
青田です。
この日独伊の三国同盟は、ドイツ側メリットから
考えると違う側面が見えてくると思います。
アドルフ・ヒトラーは激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、主義や思想、地政学的に対立するソ連をゲルマン民族の生存圏の拡大の為に撃破しなくてはならないと考えていました。
そのため、ソ連と満蒙の利権を争っていた日本と手を結ぶことを考え、
日本が対ソ戦に参加することでソ連兵力を東西に分断し、
さらには対英参戦により極東のイギリス植民地・英連邦諸国からの人的・物的支援を絶つことによって戦争を優位に進めることができると考えていました。
つまり、ドイツの想定の中には、アメリカの参戦は、全く、無かったわけです。
たしかに、アメリカが参戦せず、日本がソ連を北進し、極東方面のイギリスの植民地が攻撃すれば、
まあまあ、日本にとっても、メリットがないわけはないように思います。
青田さんへ その2
黒田裕樹 なるほど、そういう見方ですか。
だとすれば、我が国がソ連と中立条約を結んだ時点でどうしようもなかったのかもしれませんね。
ソ連は、日本をびびっっていました。
青田です。 黒田先生
青田です。
ソ連は、正直、日本にびびりまくっていました。
だからこそ、
プロパガンダ、スパイ活動をして、日本とガチンコの戦いません。(ソ連は、自分より強い相手とは戦わず、自分より弱い相手だと国際法を破って、無茶苦茶しますが)
そもそも関東軍は、満州というフランスとドイツを合わせた広大な土地で、30万~50万といわれる張学良軍を1個師団の1万5000人で制圧しました。
作戦を立案した石原莞爾も天才なら、多門二郎中将の用兵も素晴らしかったです。
広田弘毅駐ソ大使の北満州の進駐を告げるや
翌日にはリトビノフ外務人民委員会の名前で、
中立宣言をしました。
また、日本に不可侵条約の条約を拒否されるや否や、あわてて潜水艦をシベリア鉄道で運んだり、
ウラジオストックやハバロフスクで防空訓練をしての慌てようでした。
しかし、こういう事実は、全て、歴史の闇に葬られ、関東軍の強さを知っている日本人は、ほとんどいません。
ただ、こういう事実を知ると、日本は、強かったと自信を持てますね。
(日本の歴史教書では、日本は弱くて、残忍という教え方ですから。)
青田さんへ その3
黒田裕樹 あまり話すとネタバレになるのでこれまでにしますが、確かにそうですね。
我が国は蒋介石への援助を断ち切るため中国の沿岸を封鎖しましたが、各国は日本軍の勢力範囲外の陸路を通じて援助を続けました。なお、これらの陸路を当時は「援蒋(えんしょう)ルート」と呼んでいました。
援蒋ルートの主なものには仏印(=フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当)ルートやビルマルート・西北ルート・南支ルートの4つがありましたが、このうち最も重要だったのは仏印ルートであり、全ルートの半分以上の輸送量を占めていました。
我が国はフランスに対して仏印ルートによる援助行為を禁止するよう申し入れましたが、フランス政府は容易に承諾しようとしませんでした。しかし、1940(昭和15)年にフランスがドイツに降伏すると、仏印ルートの封鎖を認めるようになり、2ヵ月に及ぶ外交交渉の末に協定が成立し、これに基づいて我が国は日本軍を仏印に進駐させました。これを北部仏印進駐といいます。
我が国による北部仏印進駐は、ドイツに降伏した後のフランス政府であるヴィシー政権との間に結ばれた合法的なものでしたが、我が国に対する態度を硬化させていたアメリカはこれに反発し、イギリスに亡命していたド=ゴール政権こそがフランスの正当なる政府であるという口実で、我が国に対するくず鉄・鉄鋼の輸出禁止の方針を発表しました。
※下記の映像は7月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
この援助や援護に関しては確かに傍迷惑になることが
有るでしょうね。
北朝鮮への支援問題で日本も以前は揉めていましたが、やはり経済制裁は何故行うのかという意義を
各国がもう少し突っ込んで考えなければいけませんよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
経済制裁ができなければ、いつまでも相手をのさばらせることになりますから、当時の我が国が取った行動は当たり前のはずなのですが…。
アメリカが親中派になった隠れた理由
青田です。 黒田先生
青田です。
アメリカの異常なほどの親中の理由は
もう、一つあります。
フランクリン・ルーズベルト大統領は
先祖が中国人奴隷貿易で巨万の富を築いたことに
罪悪感を抱き、終生、親中派政治家を貫きます。
異常です。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに呆れかえる話ですね。
自分の意思を優先して国益を損なうとは…。
本来なら、これで詰めでした。
青田です。 黒田先生
青田です。
本来なら、重慶に蒋介石が遷都した段階で、
将棋言えば、詰めでした。
三国志の時代でいえば、日本が魏・呉を制圧して
蒋介石が蜀の国で、追い詰められている状況です。
援蒋(えんしょう)ルートさえなければ、これで
日本の勝利で、終わりでした。
ルーズベルトの日本憎しは、執念に近いものがあります。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
こうして、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutch)といった東アジアに権益を持つ国々が、共同して我が国の南方進出を抑えようとする構図が形成されました。これをABCDライン(またはABCD包囲網)といいます。
ABCDラインの中心となったのはアメリカでしたが、ハリマンが提案した南満州鉄道(=満鉄)の共同経営の拒否以来、長い時間をかけて反日体制が構築されてきたとはいえ、なぜここまで強気の姿勢を崩さず、我が国を追いつめようとしたのでしょうか。
実は、この背景にはアメリカとイギリスによる「利害の一致」に基づく共同戦線があったのです。
※下記の映像は7月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
ABCDラインですか!
これはまた上手い事並びましたね(苦笑)
それはさておき、
アメリカも自国の利益の為には
手段を選びませんね。
関係が何とか上手く行っているうちは
良いことを言うものですが、いざとなると
何処の国も自分の身がだけが可愛くなるもの。
今でこそ、友達・・だなんて都合の良い言葉で
関係がいかにも良好の様にアピールしていますが、
何かのキッカケでいきなり手のひらを
返したりするのもまた事実なのではなかろうかと
懸念します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 アメリカも他国である以上、仰るような可能性は十分にあります。
だからこそ、他国に足をすくわれないしたたかさを我が国は持たねばなりません。
一方、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領も「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と公約して三選を果たしたものの、ニューディール政策の行きづまりもあって経済が疲弊(ひへい)し、失業者が増加していました。
これらを打開するため、チャーチルとルーズベルトが手を組み、まず日本に先に攻撃させるかたちによって日米間で戦争を起こさせ、その後に日本と同盟関係にあるドイツとアメリカが戦えるように仕向けたのではないかと考えられているのです。
実際、アメリカによって昭和15(1940)年に日米通商航海条約を廃棄させられた我が国は、物資や石油などの重要な資源の不足に悩まされたことで、蘭印(=オランダ領東インド、現在のインドネシア)に対して戦略物資の輸入交渉を続けましたが、先述のとおり、アメリカやイギリスとつながっていたオランダによって、交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げました。
このため、我が国はフランスに対し、植民地である仏印(=フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当)の南部に日本軍を進駐させるよう交渉を続けました。南部仏印を含む南洋ルートは、ゴムや錫(すず)などの天然資源が豊富であり、コメの生産も盛んでした。我が国にとって、南部仏印が英米に占領される前に自国の軍隊を進駐させ、ゴムやコメの供給地を確保するという手段は、当時の国際通念上に照らしても当然の自衛行為でした。
※下記の映像は7月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なんと!
英国が黒幕に控えていたとは
驚きました!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 世界情勢は、時として不条理です。
米英が一緒になって日本叩きをすることで、我が国がますます追いつめられたんですよね…。
言うまでもないことですが、20世紀の国家が石油なくして存在できるはずがありません。それなのに石油を我が国に一滴たりとも「売らない」というアメリカの行為は、我が国に「死ね」と言っているに等しい暴挙でした。
なお、1928(昭和3)年にパリ不戦条約が結ばれた際、条約批准の是非をめぐってアメリカ上院議会で討議が行われた際に、当時のケロッグ国務長官が「経済封鎖は戦争行為そのものである」と断言しています。彼の言葉を借りれば、アメリカによる石油禁輸こそが我が国に対する先制攻撃だとは言えないでしょうか。
石油禁輸で追いつめられた我が国は、昭和16年9月6日に昭和天皇ご臨席のもとで御前会議を開いて帝国国策遂行要領を決定し、対米交渉がまとまらなかった場合には、10月下旬を目安として、アジアに植民地を持つアメリカやイギリス・オランダに対する開戦方針が定められました。
なお、この会議において、戦争ではなくあくまで外交的な解決を望まれた昭和天皇は、明治天皇がお詠みになった御製をご披露されておられます。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」
(※はらから=兄弟姉妹のこと)
※下記の映像は7月20日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
このアメリカですが、石油輸出の全面禁止の前に
日本に石油を高値で売って、ぼろ儲けしています。
青田さんへ
黒田裕樹 事実だとすれば由々しきことですね。
これこそ「戦争をやりたがっている」としか思えません。
ぴーち こんばんは!
確かに「戦争」というのは
武力を用いて行われる行為の事を差すのが
一般なのでしょうけれど、
今日のお話を伺っていると
直接的な攻撃では無いものの
経済の成長を止める行為は日本経済発展の「死」を
意味するものですものね。
これからの日本もそうでしょうけれど、
こういう卑怯な手口をいつ受けるか分かりませんので
自給自足で生きながらえることが出来る
方法を少しでも模索していくべきですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 理不尽な経済制裁も戦争を誘発しますからね。
自給自足をおろそかにすると、手痛いしっぺ返しを受けそうです。
日本も学ぼう
青田です。 黒田先生
青田です。
この蒋介石の『他人のふんどしで、相撲を取る。』能力は(フランス、中国共産党もお家芸)
正直、日本も学ばないといけないと思います。
小国が大国にたいして、生き残るために
これは、現在の『安保法案』でも同じです。
反対派は、アメリカに利用されると主張していますが、裏を返せば
日本からすれば、アメリカを利用できるということでもあります。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにそうですね。
国力を本当に回復させるためには、一時的であっても「寄らば大樹の陰」が必要なこともあります。
最後に笑えばそれでいい。
青田です。 黒田先生
青田です。
実は、アメリカは、単独では、開戦する勇気はありませんでした。
かなり、びびっていました。
だからこそ、イギリス、オランダ、中国による日本の多方面作戦で、日本の力を分散することを考えていました。
本来なら、日本もこうなる前に、腸略、謀略、外交を駆使して、相手を分断するようにするべきでした。
戦国時代、毛利元就が、大国の大内氏、尼子氏の力を利用し、謀略を使い、最後には、一番、得をした能力が欲しかったです。
青田さんへ その3
黒田裕樹 仰るとおりかと思います。
頼みの綱だった首脳会談が幻に終わり、対米交渉の外交期限も近づいた同年10月18日、近衛首相は「政権を投げ出す」という無責任なかたちで内閣を総辞職してしまい、新たに東條英機(とうじょうひでき)内閣が誕生しました。
ところで、これまでに述べた歴史の流れを振り返れば「アメリカが我が国を大東亜戦争に追い込んだ」という見方も成立しそうですが、これは「日本が一方的に侵略した」という「自虐史観」と表裏一体をなすものでしかありません。
我が国は、最終的にアメリカと大東亜戦争を戦うことになりましたが、実はソ連と戦争する可能性もあったことをご存知でしょうか。その分水嶺となったのは「北進論」と「南進論」の選択であり、またその決め手となったのが「ソ連によるコミンテルンの謀略」でした。
※下記の映像は7月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは
こうして流れを拝見していると
最悪な出来事と言うのは、何か一つだけ
要素が欠如してしまったからではなく、
幾重にも悪いことが重なった結果として
もたらされるものなのだなと改めて思いました
しかしながら、その一つでも良いキッカケが
あれば、最悪からは救われたかも知れないと
思うと残念でなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですよね。
我が国が日米開戦を決意するまでに「ここで別の決断をしていれば…」と思える場面が何度もありました。
しかし、現実には「そうはさせない」という動きもあったんですよね。それは何かというと…。
なお、御前会議において、ソ連への攻撃は情勢が有利になった場合に行うこととなり、独ソ開戦後に陸軍が満州などに約70万人の兵力を集結させた、関東軍特権演習と呼ばれた動員も8月に中止されましたが、この決定を誰よりも喜んだのが、東西の二方面から攻撃されるという危機が回避された、ソ連のスターリンであったことは言うまでもありません。
かくして、アメリカを牽制するために我が国が結んだはずの日独伊三国同盟や日ソ中立条約は、結果としてことごとく裏目に出てしまい、ソ連(=コミンテルン)のスパイであった尾崎秀実(おざきほつみ)らが強く主張していたとおりの南進論を選択してしまったことになります。
つまり、我が国はコミンテルンのスパイに操られるかたちで南進以外の選択肢を失ってしまったとも考えられるのです。そして、この選択は当然のようにアメリカを刺激し、先述した南部仏印進駐による対日石油禁輸など、我が国がますます追いつめられたのみならず、近衛内閣の崩壊を招くとともに、東條内閣の成立という歴史の流れをもたらしたのでした。
なお、近衛内閣の総辞職と前後して、我が国の特別高等警察(=特高)が、ソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動並びに謀略活動を行っていたとして、ゾルゲや尾崎秀実らを逮捕するという、いわゆる「ゾルゲ事件」が発覚しています。
※下記の映像は7月20日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
陸軍は、元々、ソ連を仮想敵国と考えていました。
だからこそ、満州はソ連への防衛ラインとして
重要だったわけです。
それにたいして、海軍は、予算をもらうために
アメリカを仮想敵国にしていました。
(本音は、違いますが)
ドラマ・映画などでは、海軍は、アメリカとの戦争回避論者の多い善玉、陸軍は、開戦派の悪玉と
描かれますが、
冷静に考えると陸軍のほうが、まともです。
この陸軍と海軍の考え方の違いも、少なからず、影響している気がします。
もうこの時には、仮想敵国まで、陸軍と海軍とでは、違っています。
(日露戦争時の陸軍と海軍の見事なまでの連携とは、雲泥の差です。)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
ネタバレになるので深くは言いませんが、陸軍と海軍の連携のなさは、統帥権干犯問題とも密接にかかわっています。
ぴーち こんばんは!
なるほど、結局戦争が起きてしまう動機というのは、他国の陰謀に簡単に導かれてしまう
自国のまとまりの無さと、戦況に対する無知さが
拍車を掛けてしまうという事でしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、結局戦争が起きてしまう動機というのは、他国の陰謀に簡単に導かれてしまう
> 自国のまとまりの無さと、戦況に対する無知さが
> 拍車を掛けてしまうという事でしょうか。
そのとおりです。
裏を返せば「我が国が一方的に侵略した」という動機も当てはまらない、ということになりますね。