そこで翌12月1日に国民政府の首都である南京を攻略する決断を下したのですが、その背景には「首都である南京を押さえれば蒋介石(しょうかいせき)も講和に応じるだろう」という期待感がありました。要するに、長期化しつつあった日華事変を打開するために、我が国は首都攻略という手段を選んだのであり、そこに領土的野心が存在する余地は全くなかったのです。
さて、首都攻略を決意した日本軍でしたが、その行動は実に慎重でした。いきなり南京を攻めるようなことをせず、籠城する国民政府軍に投降勧告を行って退却をうながし、彼らが拒否をしてから攻め込んだのです。
なぜなら、我が国と中国との戦いは当時の世界各国が注目しており、決して親日とは言えない外国人ジャーナリストも日本軍の一挙手一投足に注視していたからです。南京攻略の責任者であった松井石根(まついいわね)陸軍大将も「後世の模範となるような行動をとるべし」と、軍規の徹底を呼びかけていました。
※下記の映像は7月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
今日のお話は、いかにも日本的な
考えの元、行われた手段ですね!
その行動が吉と出るか・・あるいは・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおり、いかにも日本的です。
ということは、あくまでも常識的な支配をもたらすはずですが…。
戦闘状態が長くなればなるほど、たとえ守り切ったとしても周囲は火の海あるいは瓦礫(がれき)の山となって都市機能が完全に麻痺(まひ)しますし、流れ弾に当たるなど一般市民も犠牲になりやすくなります。そんな大きな被害を受けるくらいならば、いっそのことあっさりと敵に開放して、後日に奪還すべく力を蓄えて捲土重来(けんどちょうらい)を期した方が、はるかに得策というものではないでしょうか。
実際、この後勃発した第二次世界大戦においても、フランスの首都であるパリにドイツ軍が迫った際に、フランスの指導者がパリを「オープン・シティ」にすることによって破壊を免れていますし、我が国も戊辰戦争の際に旧幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)が江戸を無傷で明け渡すことによって、その後の江戸改め東京に首都としての機能を持たせることに成功しています。
では、南京攻略が目の前に迫った際に、蒋介石は何をしたのでしょうか。実は、彼は日本軍による降伏勧告に応じるどころか、20万人近くの南京市民を置き去りにしたまま、夜陰に乗じて南京を脱出してしまったのです。
※下記の映像は7月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
己の良心に従った政治を行った結果の
統治なら、安心して仕切る事も出来たでしょうが
人々を苦しませ、悲しませた後の悪政であれば
いづれ自分の命も奪われて当然なのでは無いかという
恐れが心にあったのかも知れませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、報復を恐れたというわけですね。
いずれにせよ、国民を無視したひどい話です。
しかし、敗北した国民政府軍の一部兵士が軍服を脱ぎ捨てて、便衣隊(べんいたい)として一般市民に紛れてゲリラ的活動を繰り返したために、南京攻略後も日本軍は便衣隊に対して徹底的な掃討戦を行い、その後ようやく17日になって南京への入城式を行ったのです。
南京攻略後、暴行や略奪を繰り返していた国民政府軍がいなくなったことで、南京城内に設けられていた安全地帯の市民は入城した日本軍を歓迎しました。また、南京には日本人のほか多くの外国人ジャーナリストが残っており、当時の南京の様子を世界中に打電しましたが、その内容には特に大きな問題もありませんでした。
ところが、現代の中国や我が国を中心として、南京攻略の際に数十万人もの人々が無惨にも殺されたという、いわゆる「南京大虐殺」があった、ということにされてしまっているのです。
なぜこんなことになっているのでしょうか。
※下記の映像は7月13日までの掲載分をまとめたものです。





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万里ママ 事実を塗り替えられて
歴史を虚偽に変えられるのは困りますね。
ましてや、人の生き死にに関する事ですから、
都合に合わせての吹聴は酷いです。
とかく、歴史の真実は曲げられがちですね。
ぴーち こんばんは!
素人目の意見で恐縮ですが、
日本は常に何処かの国から仕掛けられて
初めて行動を起こす性質を持っている国だと
思います。
最初に揉め事を仕掛ける国は、自国の過ちを
棚に上げ、針小棒大に言いふらしている。
その策略にまんまと引っ掛かってしまう
日本の対応にも時には歯がゆさを感じる時が
有りますが、それも時の政府が
あくまで自国を守るため。と判断したからなのでしょうけれど。
万里ママさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史のねじ曲げは許されませんが、それを認めてしまっている現状が歯がゆいですね。正しい歴史を取り戻さねばなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 例えどのような理由が存在しようが、歴史のねじ曲げを許した段階で我が国がいわれなき誹謗中傷を受けますからね。戦後70年、そろそろ覚悟を決めるべきかもしれません。
その後、昭和57(1982)年の文部省(現在の文部科学省)の教科書検定において、中国大陸への「侵略」を「進出」に書き改めさせたという新聞記事が出て、記事自体は誤報であったにもかかわらず、当時の日中関係の外交問題にまで発展しました。
こうしたいわゆる「教科書誤報事件」によって近隣諸国条項が設けられ、我が国の歴史教育や教科書に深刻な悪影響を与えるとともに、歴史問題が外交カードとして使えることに味をしめた中華人民共和国が、「南京大虐殺」が事実であると喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)し始め、その流れが今もなお続いてしまっているのです。
では、彼らが主張する「南京大虐殺」は本当にあったのでしょうか。結論から先に言えば、そうした「事実」は全く有り得ないのです。
※下記の映像は7月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
つい先日、新聞のコラムで
中国人の女性が日本に来て驚いた話が書かれていました。内容的にはその女性の友人は日本人が嫌いだと言っていたそうです。けれど、その女性も最初は日本という国、日本人に対して偏見を持っていたそうですが、日本に実際に来てみて、そのイメージががらりと変わり、とても好感が持てるようになり、その友人にも日本の良い所を語ったと言っていました。(確か、著者もなさったようです)
大変嬉しい話だなと思いました。
その後にその記者の方の感想が書かれていて、
何も知らず、何も見聞きしないものに対して
ただ闇雲に政府や他の人が悪者扱いする事を
真に受けて、毛嫌いするのは滑稽だと言います。
しっかり自分の目で耳で確かめた上で、意見するべきで、自分が知らない事に対し、決めつけた観念を持つべきではないと述べていました。
そして、こちらは私の意見ですが
日本側も
良いものを沢山備えているにも関わらず、世界へアピールする力が弱い事が
誤解を招く要因になっているのではないでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに我が国はアピール力が弱いですね。
その一方で、我が国の悪口ばかり言う勢力が確実に居座り続けているようですが…。
「南京攻略当時は日本軍が報道管制を敷(し)いており、一切事実を明らかにしなかったからだ」とも考えられそうですが、当時の戦争報道は自由であり、先述のとおり、南京入城に対しても外国人を含む多数のジャーナリストが同行していました。しかし、彼らが「大虐殺」の記事を書いたり、後になって本として出版したりしたという事実は一切ありません。
また、戦後になって次々と発表された「南京大虐殺の証拠写真」に関しても、そのすべてが捏造(ねつぞう)されたものであることや、南京攻略とは無関係であったことが今では明らかになっています。
その一方で「虐殺の現場を見せなかったから報道されなかっただけだ」という意見もありますが、当時の南京は東京の世田谷区よりも小さい面積でしかなく、そんな狭い場所で数十万の人々を秘密裏(ひみつり)に虐殺しようにも、どんなに隠そうとしても隠しきれるものではないことは、火を見るより明らかではないでしょうか。
※下記の映像は7月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
今回のユネスコ世界遺産軍艦島の問題でも
韓国側が強制的に労働させられたと訴えた
一悶着が有りましたが、
確かに韓国人の徴用はあったとしても、
物事は何でも言い様ですよね。
日本をあくまでも悪者扱いしようと
考えている国からすれば、全てがネガティヴな思想に
なってしまうでしょうしね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本をあくまでも悪者扱いしようと
> 考えている国からすれば、全てがネガティヴな思想に
> なってしまうでしょうしね。
それを分かってやっているのであれば、より悪質ですよね。
全く困ったものです。
数学
安部雅哉 はじめまして、南京事件が無かった、拝読させていただきました。勿論仰るとおりなのですが。これでは気のふれた左翼連中には通じないと感じました。
何故ならば、おっしゃっているのは既に巷で何度も何度も連呼されてきたことの繰り返しだからです。
ですから南京事件を否定するためには数学的論証が必要なのです。
南京の人口と虐殺者数についても触れていらっしゃいますが、基本はそれです。
上海に上陸した日本陸軍の兵站について検証されると面白いものが分かります。
上海から南京まで日本軍は徒歩で移動したわけですが、それにかかる補給、また各自が持参した弾薬数,など,また輸送に使われたトラックの数。一説には8台の日産のトラックが使われたそうですが、8台の当時のトラックで数万お軍隊を補給できることはありません。こういった数字の検証により、物理的に不可能であると立証しなければなりません。そうでないとこれまでの南京否定で、またかと言う印象しか一般の方々に与えかねません。
安部雅哉さんへ
黒田裕樹 はじめまして、貴重なご意見をくださり、誠に有難うございます。
今回は講演時間の都合で、本文を含む内容に終始しておりますが、今後に講演の機会がある場合には、ぜひ参考にさせていだだきたく存じます。
当時の我が国は国際連盟から脱退していることもあって、日本軍の中国大陸における行動に対し、国際社会の目はどちらかと言えば批判的でした。もしそんな折に大虐殺を行っていれば、当時の世界のジャーナリストはこぞって我が国を非難するはずですが、現実にはそんな声は全く聞かれていません。
確かに南京攻略から半年後に書かれた「虐殺の記録」は残っていますが、これも筆者が南京へは一度も出向かずにすべて伝聞で書かれていたことや、後には筆者自身が中国政府に雇われていたことから、反日プロパガンダの一環として出版されていたという事実も明らかになっています。
また、中国は南京大虐殺における死者が約30万人いたと喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)していますが、当時の正式な記録によれば、陥落直後の南京の人口は約20万人で、軍隊は別に約5万人いたと伝えられていますから、合わせても約25万人しかいません。
25万人しかいないのに、どうやって30万人も虐殺できるというのでしょうか。しかも、日本軍が占領してからわずか1ヵ月後に南京の人口は約5万人も増えているのです。大虐殺が行われたばかりの都市に、なぜ1ヵ月に5万人もの多くの人々が押しかけてくるのでしょうか。
※下記の映像は7月13日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
この数の誇張は、チャイナの伝統ですね。
三国志演義でも、どう考えても、当時の人口から
考えて、合わないのに
無茶苦茶な人数が描かれています。
(そのほうが、迫力があり、面白いと思うからだと思いますが)
チャイナの歴史観は、SF(フィクション)が当たり前という前提で、日本人は、考えないといけないですね。
青田さんへ
黒田裕樹 まさに仰るとおりですね。
歴史と言っても我が国とチャイナとでは質が全く異なるのでしょう。
ぴーち こんばんは!
確かにそう言われてみれば、
その数字が間違いなくどこぞの国の
でっち上げに過ぎないと理解出来ます。ただ、
こういう事実というのはなかなか世間には
伝わりにくいもので、しかも
一度学校時代に覚えてしまった
出来事というのは大人になってから
認識を改め直す事は容易ではない
事も確かだと思いますので、根気が必要ですね(^_^;)
(本来は最初に覚える段階で事実をそのまま
学習出来れば最良なのでしょうけれど)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに根気が必要ですよね。
教育界だけでなく、ほとんどすべてを乗っ取られていたのですから、後始末が大変です…。
本当は歴史がないチャイナ
青田です。 黒田先生
青田です。
私も含め多くに日本人が誤解しているのは
チャイナの歴史は4000年ということです。
ただ、現在でも、中国の映画、本は、決まっています。
● 史記(春秋戦国時代~前漢まで)
● 三国志(実は、明の時代に書かれたもの)
● 明の朱元璋
しかありません。
さらに、文化大革命で、それ以前の歴史・宗教はことごとく破壊され、全て、ゼロになりました。
日本を含め、どこの国でも歴史・文化というものは、それなりに連綿と続いているか、記憶(記録)が残ります。
それがシナには、ありません。
結局、歴史・文化のない国は、反日でしか、
アイデンティティを持てないようですね。
(共通の恨みの対象を創り、国民が一つになる。)
青田さんへ その2
黒田裕樹 考えてみれば、歴史を持たないチャイナは憐みの対象かもしれませんね。
もっとも、我が日本がお付き合いする必要は全くありませんが。
しかし、それは先述の便衣隊が一般市民に紛れてゲリラ的活動を繰り返していたからであり、その行為自体が国際法に違反しています。確かに民間人が巻き添えによって不幸にも殺された事実もあったでしょうが、ゲリラ兵を掃討しなければ何時まで経っても戦闘状態が終わりません。
さらにいえば、そもそも南京を「オープン・シティ」にしていれば、このようなゲリラ兵の掃討を行う必要すらなかったのではないでしょうか。だとすれば、一般市民に犠牲者が出ることが分かっていながら自分だけさっさと逃亡してしまった蒋介石の責任は極めて重いと言わざるを得ないでしょう。
ところが、これだけの「大虐殺はなかった」という証拠がそろっていながら、現実には我が国の歴史教科書の多くが、南京大虐殺を肯定する内容を今もなお記載し続けています。いつまでこのようなことが行われるのでしょうか。
※下記の映像は7月13日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
私は、個人的には、保守でも、リベラルでも
世の中いろいろな考えがあってもイイと思っています。(ちなみに、ヨーロッパの左翼は、日本の左翼とは、全く、違う意味です。)
ただ、立場、思想の違いがあったとしても、
共通の正しい事実認識(FACT)を基に議論しなければ、議論は平行線になります。
まずは、『南京大虐殺』についての正しい事実(捏造ではない)を基にリベラル派も議論するべきだと思います。
ぴーち こんばんは!
どうも最近の船舶の沈没事故などでも
船長が責任逃れに逃亡する事が有りましたが、
国民性なのでしょうかね?
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
捏造を起点にしては、何も始まりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 船舶事故は中国のみならず、韓国でもありましたが、やっていることは両国とも同じように思えますね…。
我が国が示した新たな和平条件は、南京攻略の際に日本軍に多数の死傷者が出たこともあり、損害賠償の請求などの厳しい条件が追加されていましたが、そもそも第一次和平工作が成立していれば、南京戦そのものが存在しなかったのですから、ある意味当然の帰結といえました。
我が国は年末までの回答を蒋介石に迫り、トラウトマンもそのように伝達しましたが、年が明けても国民政府側からの正式な回答はなく、再度強く迫っても言(げん)を左右にするばかりでした。
蒋介石の態度に業(ごう)を煮やした我が国は、国民政府との交渉を打ち切る決断を最終的に下したのですが、その一方で、交渉決裂に最後まで反対した勢力も存在しました。それはどこだと思いますか。
実は陸軍なのです。
※下記の映像は7月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
ここでまたしても軍の勢力が
邪魔立てして来るのですか・・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ここでまたしても軍の勢力が
> 邪魔立てして来るのですか・・(^_^;)
いいえ、逆です。
本文にもあるとおり、陸軍は「交渉決裂に最後まで反対していた」のです。
詳しくは明日の更新でお話しします。
なぜなら、広大な中国大陸での全面的な戦闘状態となれば、大陸に多数の兵力などを投入しなければならなくなり、同じアジアの脅威であったソ連などに対する備えが不十分になる恐れがあったからです。
我が国の戦力の限界を考慮した陸軍の参謀本部は、昭和13(1938)年1月11日に昭和天皇ご臨席のいわゆる御前会議が開かれた際に「支那事変処理根本方針」を示すなど、あくまで和平による事変解決に望みをつないでいました。
しかし、その直後にトラウトマンを通じて蒋介石側から誠意のない回答が送り付けられたことから、我が国では、政府が主体となって国民政府との交渉打ち切りに向けて突き進むことになるのです。
※下記の映像は7月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
お話を伺っていると
昭和天皇は大変なご苦労が有りましたね。
そして、天皇という存在の偉大さを
改めて感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 昭和天皇は常に平和的解決を望まれておられました。
仰るとおり、かけがえのない素晴らしいご存在だと思います。
日本の陸軍の基本方針
青田です。 黒田先生
青田です。
日本陸軍は、『ノータッチというタッチ』(居留民の安全の確保のみ)
を考えていました。
実は、これは、明治以来の伝統です。
伊藤博文は、日清戦争で、首都北京攻略が見えてきたところで和議を結びました。
日露戦争でもロシアを北満州に追い返し、満州における日露の権益を確保しつつ、清国の主張を確認しました。
それは、中国大陸に深入りすると碌なことは
ないことを当時の日本(特に陸軍)は、知っていたからです。
シナでは、どんな王朝も300年以内で滅んでいることを、それにたいして、日本は、二千年間一度も歴史が途絶えたことがないことを日本の陸軍は、知っていました。
それゆえ、外交で、『ノータッチというタッチ』が基本姿勢でした。
なぜか、今の日本の歴史教科書では、全く、このことが書かれていません。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
私たちは自国の歴史をまだまだ知りません。
近衛首相の考えも広田外相と同様であったことから、閣議において交渉打ち切りを決定し、昭和13(1938)年1月16日に「今後国民政府を対手(あいて)とせず」という声明を発表しました。これを第一次近衛声明といいます。
近衛首相がこのような一方的な声明を出した理由としては、我が国と友好的な政府が中国側にできることを期待していたからだ、という説もありますが、声明が出された当時の中国に存在していた有力な政府組織は、蒋介石の国民政府以外には有り得ませんでした。つまり、我が国は第一次近衛声明によって、日華事変の早期停戦に向けての唯一の窓口を自ら閉ざした結果となってしまったのです。
第一次近衛声明の発表は日華事変の泥沼化を招きましたが、その一方で軍部の統制派と同じ思想を持った官僚によって、国家総動員法など社会主義的な内容の法制度が次々と成立した一方で、ソ連への備えがおろそかになるという流れをもたらしましたが、この声明によって一番得をしたのは果たして誰なのでしょうか。
当時の近衛内閣には、後にソ連(=コミンテルン)のスパイとして処刑された尾崎秀実(おざきほつみ)がブレーンとして暗躍していたことを、私たちは忘れてはいけません。
※下記の映像は7月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
一番得をした人物ですか・・
ソ連側でしょうかね??
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 一番得をした人物ですか・・
> ソ連側でしょうかね??
結果的に見ればそうなりますね。
状況証拠も揃っていますし、こういった見方も重要かと思われます。