また、大正14(1925)年に成立した普通選挙法によって選挙費用が増大し、政党が財閥(ざいばつ)などからの献金に頼らざるを得ないという事情があったにせよ、「三井と立憲政友会」「三菱と立憲民政党」といった、財閥と政党との結びつきが、政界と財界との癒着(ゆちゃく、好ましくない状態で強く結びつくこと)につながっているという国民の批判が高まっていました。
こうした中で、昭和5(1930)年に浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣が金解禁を断行しましたが、経済活動に詳しい財閥は、金解禁の際にあえて円高に設定した政策が遠からず失敗する可能性が高いとみていました。もし金輸出再禁止となれば、円高に設定されていた円の価値が暴落するため、財閥系の銀行は大量の「円売りドル買い」を実行して、自己の財産を失わないようにしたのです。
財閥の読みは当たり、昭和6(1931)年に犬養毅(いぬかいつよし)内閣が金輸出再禁止を行ったことで、結果として「財閥が為替相場を利用して巨額の富を得た」ことになりましたが、当時の我が国が不況の真っ最中であったことから、日々の生活に苦しんでいた国民の財界への不信を強めました。
財閥が行ったリスクヘッジ(=相場変動などによる損失の危険を回避すること)はもちろん合法的な経済活動であり、現代でも当然のように行われていますが、当時は「世の中が不況で苦しんでいるのに、財閥だけが為替相場で儲(もう)けているのは許せない」という主張がまかり通るようになってしまい、このような社会的な背景が、当時の我が国を震撼(しんかん、人をふるえあがらせること)させたいくつかの「血の粛清(しゅくせい)」を生んでしまうのです。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
こういうことを言うと左翼と言われそうですが、
国民が貧しさで、喘いでいる時に
『「世の中が不況で苦しんでいるのに、財閥だけが為替相場で儲(もう)けているのは許せない。』という風潮が起こるのは、感情レベルでは理解できます。
実際に、目の前で観える風景だからです。
これは、この時代だけの話ではありません。
現代でも、格差が広がり、そのことで、共産党に入る若者が増え、共産党が議席数が増えたのも
物語っています。
大事なことは、格差を無理になくした社会が、どんな社会になったのかも、歴史から、学ばないといけないですね。(共産主義の末路)
青田さんへ
黒田裕樹 確かに気持ちは理解できなくはないですが、当時の思想や経済論が未発達だったのが惜しまれますね。
昭和維新という言葉
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、昔(20歳の時)、図書館で、その当時の新聞を閲覧したことがありましたが、
アレを観ると、国民の間での不満は仕方ないように思いました。
かなり、過激な内容です。
(現代のように、インターネットがない時代なので仕方ないとは、思いますが、)
しかし、この共産主義思想の恐ろしいことは
『暴力革命』を全面肯定していたことです。
さらに、この当時、『昭和維新』がスローガンになりました。
、『昭和維新』=『明治維新×社会主義思想』とどんどん負の拡大解釈になった気がします。
そうなると、拡大解釈で、歯止めが効きません。
最初は、財閥憎しでも、それがやがて、政治家憎し、マスコミ憎し、知識者憎しへの負の連鎖へと繋がります。
青田さんへ その2
黒田裕樹 まさしくそうですね。
ただ、昭和維新という言葉はいずれ講座で紹介しますので、ネタバレ厳禁でお願いします。
何度も同じことをずっと長いあいだ時間をかけてお願いしていると思いますが…。
ぴーち こんばんは!
この問題は今現在の日本にも通じるお話だなと思いながら読ませて頂きました。
国民感情がこの状況まで追い詰められて居ないのは、親の世代がまだ裕福な家庭が多いために
そこからの援助が多少なりとも有るからだと
思いますが、それも無くなってしまった時には
やはり同じようになってしまう気がします。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
同じことを繰り返すことのないように願いたいものです。
彼らは、我が国が行きづまった原因が、財閥や政党政治の腐敗(ふはい)ぶりにあると断じて、これらを打倒して軍部を中心とする強力な内閣を誕生させ、内外政策の大転換を図ろうと考えましたが、それは同時に、国家社会主義の実現のために自由主義経済を攻撃する生贄(いけにえ)として、財界首脳や政治家などを選び、彼らに「血の粛清」をすることを意味していました。
昭和6(1931)年に入ると、陸軍の幕僚将校(ばくりょうしょうこう、司令部に直属し参謀事務に関与する将校のこと)である橋本欣五郎(はしもときんごろう)を指導者としたほか、陸軍の中堅将校を構成員とした政治結社の桜会が中心となり、民間の思想家である大川周明(おおかわしゅうめい)らも参加して軍部内閣樹立のクーデターを2度も計画しましたが、いずれも事前に発覚して失敗に終わりました。
二つの未遂事件は、起きた時期からそれぞれ三月事件・十月事件と呼ばれていますが、これらの行動によって青年将校や民間団体が大きな刺激を受け、翌年の昭和7(1932)年2月に、金解禁の際に大蔵大臣だった井上準之助(いのうえじゅんのすけ)が、翌3月には三井財閥幹部の団琢磨(だんたくま)がそれぞれ射殺されました。この二つの事件は、実行犯が所属していた団体名から血盟団事件と呼ばれています。
なお、血盟団は日蓮宗の僧侶(そうりょ)である井上日召(いのうえにっしょう)を指導者とし、政党や財閥の関係者を「一人一殺(いちにんいっさつ)主義」で暗殺しようとしました。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
何やら「生贄」やら「一人一殺」などと
血生臭いワードが多く出てきましたね(^_^;)
本来、出家された人の口からは
出る言葉(出してはいけない言葉)では無いだけに、この時代の異様さを
垣間見る事が出来ますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、僧職にふさわしくない言葉ですね。
当時の異様さが垣間見えると同時に、今の世の中であってはならないことだと強く認識します。
最後は、政治家の決断
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、たとえ血の粛清があったとしても
最後は、政治家の決断・決意・覚悟だと思います。
忘れてはいけないのは、
幕末も血の粛清は、薩摩藩、長州藩でもありました。
そして、明治維新後も明治政府の高官の暗殺は
非常に多かったです。
(例、大久保利通、森有礼など)
しかし、それでも明治の先人は、その屍を越えて、
歯を喰いしばって、前に進みました。
不思議に政党政治が定着化してから、政治家が小粒化した気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。
血の粛清にもびくともしなかった政治家もいましたが、そうでない政治家が増えていたのが当時の現実でもありました。
こうした「目的達成のためには暗殺などの非常手段も辞さない」という精神はその後も続き、昭和7(1932)年5月15日に、それまでの政治や外交に強い不満を持っていた海軍の青年将校を中心とした一団が首相官邸を襲い、犬養毅首相を射殺しました。この事件は今日では五・一五事件と呼ばれています。
犬養首相の暗殺という非常事態を受けて、後継の首相には元老の西園寺公望(さいおんじきんもち)の推薦によって海軍大将で穏健派の斎藤実(さいとうまこと)が選ばれ、約8年続いた政党内閣は中断を余儀なくされました。
斎藤内閣は立憲政友会や立憲民政党からも閣僚を迎え、いわゆる挙国一致内閣をめざしたことで世論の支持を集めました。また、その後を継いだ岡田啓介(おかだけいすけ)も同じく穏健派の海軍大将の出身でした。
三月事件・十月事件から血盟団事件、さらには五・一五事件と続いた一連のテロリズムは為政者や財界を震え上がらせましたが、海軍の穏健派の重鎮を次々と首相に選んだことによって、表向きは動揺が収まったように見えました。しかし、その裏では国家社会主義思想が軍部を中心に確実に浸透(しんとう)し、やがては我が国全体を巻き込んだ前代未聞の大事件が起きてしまうのです。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!
臭いものに蓋をしただけの政策では
一時的には治まるものの、
内部では濃度が高まり、いつ爆発するか
分からない状態に陥ってしまったわけですね。
更に大きな揉め事とは何だったのでしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、本質的には何も変わっていませんからね…。
だからこそ、暴発した際の恐ろしさが凄まじいのです。
国家社会主義は、当時の「エリート中のエリート」でありながらも決して裕福ではなかった若手の青年将校たちが、それゆえに富裕層である地主や資本家あるいは財閥に対してやるせない怒りを向けるとともに、彼らと癒着(ゆちゃく)している(と思い込んでいた)政党政治をも敵視したことによって、大きな広がりを見せるようになりました。
我が国における国家社会主義の拡大は、やがて陸軍内に皇道派と統制派という二つの大きなグループをもたらしました。このうち皇道派が荒木貞夫(あらきさだお)や真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)などを中心として、直接行動で既成の支配層を打倒することによって国家体制の転換を狙った一方、永田鉄山(ながたてつざん)や東條英機(とうじょうひでき)らを中心とした統制派は、革新官僚と結んで合法的に総力戦という名の社会主義体制を実現しようとしていました。
昭和10(1935)年には、統制派の永田鉄山が陸軍省内で執務中に皇道派の陸軍中佐に殺害されるなど、両派は激しい派閥争いを繰り広げていましたが、その一方で「天皇の名によって議会を停止し、私有財産を国有化して社会主義的政策を実行する」という目的は両派共通のものでした。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
日本における社会主義とは、やはり天皇を中心に・・という理念は共通課題だったわけですね。
そのような日本独自の考えに基づく
社会主義理論が存在しても良い気がしますが、そういうわけにも行かないのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 国家社会主義の本質は、天皇の存在をスターリンやヒトラーのに置き換えれば、共産主義の思想そのままであったことが大きな問題でした。
ただ、ソ連の失敗という教訓を知っている現代ならともかく、共産主義に幻想を抱いていた当時は…。
これを岡田内閣打倒の好機と見た政友会が、昭和11(1936)年1月に内閣不信任案を帝国議会に提出したのに対し、岡田内閣は衆議院を解散して総選挙に打って出ましたが、同年2月20日に行われた投票結果は、政権与党である立憲民政党の勝利に終わり、政友会は惨敗しました。与党の躍進(やくしん)という結果を受け、岡田内閣の政権基盤は安定化すると思われましたが、選挙結果に衝撃を受けた皇道派による「直接行動」によって、選挙からわずか6日後に、我が国史上稀(まれ)に見る惨劇が起きてしまうのです。
昭和11年2月26日未明、皇道派の一部青年将校が「昭和維新」を目標として第一師団などの兵約1,400名を率いて決起し、首相の岡田啓介や大蔵大臣で元首相の高橋是清、内大臣で同じく元首相の斎藤実、侍従長(=天皇・皇后の側近として仕える侍従の長官)の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)らを襲撃しました。
岡田首相は危うく難を逃れましたが(ただし、当時は死亡と伝えられました)、高橋蔵相や斎藤内大臣は殺害され、鈴木侍従長は重傷を負いました。その後、勢いに乗った将校たちは国会を含む国政の心臓部を4日間にわたって占拠しましたが、このクーデターは今日では二・二六事件と呼ばれています。
前代未聞の大事件を受け、将校たちに同情する姿勢を見せた陸軍首脳部は、彼らの意図を認めるか否(いな)かで動揺しましたが、ご自身にとってかけがえのない「股肱(ここう、最も頼りになるという意味)の臣」を失われた昭和天皇は激怒され、当時は岡田首相が死亡したと伝えられたことで内閣不在の緊急事態ということもあり、自らのご意志で事件の解決に乗り出されました。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
この頃の若者は政治に対して関心が高く
行動力も決断力もあったので、これ程までの
事件に発展してしまったのでしょうね。
現代の若者は、政治に対してここまでの反発心が無い代わりに、政治にも無関心で
投票にも出向こうとしない。
関心が高すぎても、危ぶまれるし、
無さ過ぎても、今度は未来的に不安を感じる。
なかなか程よい状態を保つ事は難しいものですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに仰るとおりですね。
政治の関心の高さが仇にならないためにも、よりいっそうの「国民を幸福にする政治」が求められますが…。
私の勘違い
青田です。 黒田先生
青田です。
私が、20代の時、この『226事件』を美化する映画が多く、創られ、
私も、今より、無知で、アホだったので、
友人に
『あの事件を起こした青年将校は、カッコイイな。』というと
その友人は、私に、
『あいつらは、アホや。有能な人材であった高橋是清を殺し、鈴木貫太郎を殺そうとした。』と
言われました。
この年になり、その友人の言う意味がよくわかります。
ただ、言い訳になりますが、
『226事件』をテーマにした映画は
青年将校=正義の味方、殺された政治家=私腹を肥やす悪者。
というストーリーで描かれます。
見事に洗脳された馬鹿な私でした。(苦笑)
戦前=悪のイメージ
青田です。 黒田先生
青田です。
戦前=オール悪のイメージですが、
これは、GHQの洗脳だけでない気がします。
というのも、
私の父親は、昭和7年生まれ、母親は、昭和12年生まれです。
昭和11年に226事件が起きていますから、私の両親は、幼い時にこういう国内の軍の暴走を観て育って世代です。
団塊世代だけが洗脳教育を受けたと思われていますが、この時期に生まれた世代もあまり、戦前の日本にいいイメージを持っていない気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 必要以上の美化は、かえって今の国民に誤解を与えますからね。
事実を淡々と紹介することが重要だと思います。
戦前生まれの人々は、昭和20年を境に価値観から何からすべてが変わってしまったので、大変ではなかったかと思います。
なお、二・二六事件をきっかけとして陸軍内部で皇道派はその力を失い、統制派が主導権を握ることになったのですが、クーデターによる「血の粛清」の爪痕(つめあと)は想像以上に大きく、この後は統制派の意思が陸軍の意思、ひいては我が国全体の意思として大きな影響を持つようになるのです。
二・二六事件によって岡田内閣は総辞職し、かわって広田弘毅(ひろたこうき)が首相となって新たな内閣を組織しました。挙国一致内閣として成立した広田内閣でしたが、陸軍の主導権を握った統制派の影響は避けられず、その目標に経済の国家統制強化をめざした「広義国防国家」を掲げました。
また、陸軍の強い要求を受けた広田内閣が、廃止されていた軍部大臣現役武官制を復活させたため、軍部の政治に対する影響力をさらに強めることになってしまいましたが、このことが大東亜戦争後に開かれた極東国際軍事裁判(=東京裁判)において、文官でただ一人A級戦犯にされて死刑となった理由の一つではないかといわれています。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんにちは!
民衆の怒りが留まる所を知らずに
大きく拡大し、それを押しとどめようとしても
何の効力も発揮せずに、押し流されてしまう
時が有りますよね。
いくらその流れを変えようと頑張ってみても
多勢に無勢。
勢いに身を任せる他為す術が無いものですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
だからこそ、国民の真の幸福を追求した政治が求められています。
対立が多すぎます。
青田です。 黒田先生
青田です。
この当時の対立軸が多すぎますね。
対外的には
●日本vsアメリカ、シナ
国内的には、
● 政党間対立。
● 政府 vs 軍。
● 陸軍 vs 海軍。
● 陸軍の皇道派vs統帥派。
それにしても、国外は、ともかく、国内で
なぜ、ココまで、バラバラになったのかと不思議に思います。
いつの時代でも、内部抗争は、国力を弱体化させますね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに多すぎますね。
こうなった原因は一体なんだったのでしょうか…。
最終的に利益を得た国家や人物などを疑うべきかもしれませんが。