ところが、1914(大正3)年に第一次世界大戦が始まると、我が国を含む各国は、流出を防ぐ目的で金の輸出入を禁止したため、金本位制は一時停止されました。そして大戦後に、世界各国が相次いで金本位制に復帰しましたが、その中で我が国だけが、関東大震災や金融恐慌といった混乱が続いたために遅れていたのです。
昭和4(1929)年7月に成立した立憲民政党の浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣は、大蔵大臣に井上準之助(いのうえじゅんのすけ)を起用し、金の輸出入を解禁して(これを「金解禁」といいます)、列強と同じく金本位制に早期に復帰することを大きな目標としました。
金本位制では貿易赤字が続くと、その分だけ通貨(=金貨)が海外に流出して、国内の通貨量が減ると同時にモノの売り上げも落ち込むため、困った国内企業が経営合理化によってモノの値段を下げることで、結果として国内外で再び売り上げが伸びるようになる、という経済上での大きな特徴がありました。
我が国が金本位制に復帰すれば、世界における円の為替相場も安定するため、経営合理化によって輸出を拡大して、国内産業を活性化させると同時に、企業の国際競争力を確保することで、不況が続く日本経済を立て直すことが可能になるであろう、と浜口内閣は考えていたのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
何やら、浜口内閣の思惑に
一波乱起きそうな展開ですねぇ・
その後が気になります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何やら、浜口内閣の思惑に
> 一波乱起きそうな展開ですねぇ・
> その後が気になります。
鋭いですね(笑)。
果たしてこの後の展開はどうなるのでしょうか…。
金解禁の際に問題となったのが、円とドルとの交換比率でした。当時の為替相場が100円=44ドル前後(1ドル=2.300円前後)であった一方で、金の輸出入を禁止する前は「1ドル=2.005円」でした。もし現在の相場を基準とした新平価(平価とは「外貨と比べての価値」のこと)で金解禁を行えば円安となり、日本製品の輸出に有利となります。
しかし、浜口内閣は新平価での金解禁を主張した国内の反対の声を押し切る形で、旧平価である「金2分=1円=0.49875ドル(1ドル=2.005円)」での交換によって、昭和5(1930)年1月11日に金解禁を断行しました。これでは円高となって輸出に不利となりますが、円の価値を下げて解禁に踏み切れば国としてのメンツが立たないのと、国内の企業をあえて逆境の中に放り出すことによって合理化と体質改善を行わせ、結果として国際競争力を強化させるという狙いがあったとされています。
ところが、浜口内閣や井上蔵相によるこうした目論見(もくろみ)は、完全に裏目となってしまったのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち おはようございます!
なるほど。。
やはり器量以上のものを望み過ぎては
いけないという事でしょうか・・
まだハイハイ状態の赤ちゃんに、駆け足を
しろと強いても無駄な様に。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり器量以上のものを望み過ぎては
> いけないという事でしょうか・・
> まだハイハイ状態の赤ちゃんに、駆け足を
> しろと強いても無駄な様に。
母親らしい上手い例え方ですね。
仰る一面もありますし、当時の世界情勢を意識していなかった面もあります。それは…。
だからこそ浜口内閣は金解禁を断行したのですが、当時はアメリカの大不況によって我が国の輸出額は激減していました。不況にあえぐ国が、他国からモノを買う余裕などなかったのです。このため、売れなくなった生糸や繭(まゆ)の価格が大暴落し、養蚕(ようさん)農家が大きな打撃を受けることになりました。
さらに我が国に深刻な影響をもたらしたのが、正貨(=金貨)の大量の海外流出でした。世界恐慌の嵐が吹き荒れる中では、各国の正貨の保有が死活問題となりますが、そんな折に我が国が金解禁をしたものですから、世界各国が日本からの金の輸入に殺到し、我が国の金の保有量があっという間に減少してしまったのです。
加えて、金解禁をめざしていた浜口内閣が緊縮財政を行っていたことが、不況をさらに拡大させました。景気が悪化した際には、現代の「アベノミクス」のような積極的な経済政策が求められているにもかかわらず、その真逆を行ったことにより、全国各地で企業の倒産や操業短縮が相次いで、多数の失業者があふれるようになり、昭和恐慌と呼ばれた甚大な恐慌に陥ってしまいました。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
木を見て森を見ず・・という所でしょうか。
やはり全体の様子を把握しないと
何事も上手く行かないようですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
世界中を眺める視野が必須だと思いますが、この時は全く逆でしたね…。
折からの恐慌で農家の兼業が望めなくなったうえに、都市の失業者の多くが帰農した際に大凶作となったことから、農村では甚大な危機となりました。農家の多くは翌年の種籾(たねもみ)まで食い尽くしたほか、欠食児童や婦女子による身売り(=親が給与を前借りして働きに出すこと)が続出しました。
金解禁を断行した浜口内閣への非難の声は、外務大臣の幣原喜重郎による協調外交がもたらした軍縮に関する問題(詳しくは後述します)もあって日増しに高まり、浜口首相が昭和5年11月に東京駅で狙撃(そげき)されると、翌昭和6年4月に内閣が総辞職し、後継の第二次若槻礼次郎内閣も短命に終わりました。
その次の立憲政友会による犬養毅(いぬかいつよし)内閣が、組閣直後の昭和6年12月に金輸出再禁止を行ったほか、大蔵大臣の高橋是清による経済政策によって、我が国の景気はようやく回復へと向かうのですが、それまでの昭和恐慌の爪痕(つめあと)は予想外に大きく、我が国の将来に重大な影響を与えることになるのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
豊作貧乏などと言いますものね。
なんでもそうですが、「過ぎたるは及ばざるが如し」ですね・・
農業は携わったことはありませんが、
自然相手の事ですので、毎年、毎年ご苦労があると思います。
それに農業が不作だと一国の食料問題に直結したでしょうから、大変な時代だったでしょうね。
現代社会では
消費者の立場からすると
外国からの輸入にばかり頼るのも、何かしら心配なことも
多くです。本来は国内の農産物、地産地消で
賄う事が出来れば、それに越したことはないと思っていますが・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、自然に左右される農業は大変な苦労を伴うと思います。
それだけに自給率をもっと上げるべきなのですが…。
一方、共産主義国家のソ連では、いわゆる五ヵ年計画が成功しているかのように見えたことで、世界の経済政策は、先述したアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領によるニューディール政策や、ドイツのヒトラーなど、自由主義から社会主義へとシフトし始めるものも現れました。
我が国でも、金融恐慌から昭和恐慌へと不況が続くなかで、北一輝(きたいっき)や大川周明(おおかわしゅうめい)などを中心として、次第に国家社会主義思想が広まるようになりました。国家社会主義とは、天皇を中心としながらも、その思想は「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」という社会主義(=共産主義)そのものでした。
要するにドイツのヒトラーや、当時のソ連の指導者であったスターリンを天皇に置き換えただけであり、天皇という「錦の御旗(みはた)」を利用することで、社会主義の本質をごまかしているに過ぎなかったのです。しかし、当時の我が国が大不況であったがゆえに、この国家社会主義思想は当時の軍人、特に青年将校を中心に大きな広がりを見せるようになりました。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
人間の考えることは例え人種が違えども
同じなのですね。
今置かれている現状が悪化してくると
何処かに救われる道はないものかと模索し始めますが、結局、どんな道を選んでも多少の不具合や我慢すべき所が生じてくるものですよね。
一つの信念をしっかりと見極めないと、あちらこちらに流されるだけの風潮で終わってしまうのかもしれません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今置かれている現状が悪化してくると
> 何処かに救われる道はないものかと模索し始めますが、結局、どんな道を選んでも多少の不具合や我慢すべき所が生じてくるものですよね。
そのとおりです。
現状打破は誰しもが目指すことですが、不具合や辛抱を伴うことに変わりはありません。
無理してそれらを避けようとすれば、その報いを受けてしまうんですよね。
ココが重要ですね。
青田です。 黒田先生
青田です。
ここがまさに、戦後教育の誤解の
最大のポイントですね。
多くに日本人は、この青年将校=右翼思想(国粋主義者=保守)と勘違いしています。
そして、ナチスのヒトラーも右翼思想(保守政党)の政権だと勘違いしています。
しかし、ナチスの正式名称がドイツ社会主義労働党という左翼政党です。
そのナチス党が、議会で多数派を占めていた共産党を徹底的に弾圧しました。
しかし、ソ連も無茶苦茶です。
そもそも、みんな平等を標榜していた共産主義から、独裁者が出ます。
これは、現代でも、同じだと思います。
某大〇市の某市長は、
最初は、保守的な発言をして、保守政党と一緒になったと思ったら、今度は、左翼的な発言をして、おまけに言論弾圧をし、独裁者になろうとしています。
こういうことをする人間がいるから、
私は、自分を保守とも左翼とも言いません。
(支持を得るための表面的な思想発言は、大嫌いです。)
青田さんへ
黒田裕樹 鋭いご指摘を有難うございます。
現代にもつながる重要なポイントですね。
しかし、その優秀さとは裏腹に、彼らの給料は決して高くなく、また預かった兵士からは、東北地方を中心に欠食児童や婦女子の身売りなどの悲惨な境遇の話を聞かされたことで、多くの青年将校たちが、当時の経済体制を不満に感じるとともに憎むようになりました。
彼らの怒りは富裕層である地主や資本家、そして財閥(ざいばつ)に向けられ、さらにはそんな体制を許しているとともに、財閥と癒着(ゆちゃく、好ましくない状態で強く結びつくこと)している(と彼らが思い込んでいた)政党政治をも敵視し始めました。
そんな彼らが、先述した国家社会主義思想に染まっていくのは、ある意味自然な流れでもありました。頭脳明晰で文武両道の青年将校たちは、自分の思想に絶対の自信を持っており、そんな彼らの様々な行動によって、やがて我が国の運命が大きく暗転することになるのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
人の心を忘れた財閥が、人の心を持ち合わせた青年将校を雇った結果ですね。
結局は、他人を軽視し、人情を踏みにじるとまわりまわって
自分の身も危うくなってしまうという事でしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 これは判断が難しいですね…。
真っ当な商行為といえども、国民の心を忘れれば、その報いを受けるということでしょうか。
マルクス・レーニン主義の一番の問題点
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、当初、226事件など、青年将校によりクーデター行為にいたる思想がどうしても
理解できませんでした。
というのも、この当時は
● 政党政治が成熟化し
● 立憲君主制の議会制民主政治も根付き
● 軍も組織として、上下関係がしっかりしたものであり
● 治安維持法で、社会主義への警戒心もある社会だったからです。
しかし、マルクス・レーニン主義の最大の特徴を知ると理解できました。
それは、マルクス・レーニン主義は、『暴力革命』を大肯定していたことです。
つまり、『革命のためには、暴力をOK』という考えです。
不思議なもので、最初は、労働者のために立ち上がるのに、後に『暴力革命』だけが拡大し、独裁者が出るのは、この後の世界の歴史が証明していますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
『革命のためには、暴力をOK』。統帥権干犯問題ともリンクします。
このため、補助艦についても主力艦同様に制限をかけるため、昭和2(1927)年にスイスのジュネーヴで、アメリカ・イギリス・日本の3ヵ国間で討議されましたが、アメリカとイギリスとの意見の衝突によって物別れに終わりました。これをジュネーヴ軍縮会議といいます。
その後、昭和3(1928)年には、アメリカやフランスの提案によって各国の代表がパリに集まり、国際紛争の解決や国家の手段としての戦争を放棄することを規定した、パリ不戦条約が結ばれました。
もっとも、不戦条約によって一切の戦争を放棄したわけではなく、自衛のための戦争は認められるという見解を、我が国を含む各国が持っていました。ただし、自衛戦争の範囲がどこまで認められるかについての明確な規定がなかったために、後に中国大陸などでの我が国による政策や軍事的行動が、「不戦条約違反」として各国から非難されるようになったのです。
なお、パリ不戦条約には、違反した場合の制裁の規定はありませんでした。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
自衛戦争の範囲を定めるのは確かに難しいですよね。
傷害事件で相手から殺されそうになったら、必死に抵抗して、正当防衛で相手を逆に刺してしまった・・などという案件だとしたら、何処までが正当防衛と認められるか、判断に苦しむ場合も有りますものね。
けれど、最初に何も制定されなかったというのも、問題があったと言えば、そうでしょうし・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり難しいですが、相手方の戦闘行為を自衛と一切認めずに、問答無用で非難しても始まらない、というのもありますよね。
明らかな自衛の場合だってあるのですから。
会議では各国の意見が対立して難航しましたが、主力艦の建造禁止を昭和6(1931)年末から昭和11(1936)年末までさらに5年延長することや、補助艦の総トン数をアメリカ10・イギリス10.29・日本6.97の比率にまとめることになりました。
しかし、かねてよりアメリカを仮想敵国として、政府から軍事予算を引き出させるとともに、対米戦に備えて補助艦たる潜水艦の建造を増やしていた日本海軍の軍令部は、補助艦の建造が不可能となる軍縮条約の締結に猛反対しました。
これに対して、当時の浜口雄幸内閣は、幣原喜重郎外務大臣による協調外交を展開しており、また金解禁の実施のために徹底した財政緊縮の必要があったことから、ロンドン海軍軍縮条約の締結を決断しましたが、このことが日本国内に大きな波紋を呼ぶことになるのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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なるほど、確かに大日本帝国憲法(=明治憲法)の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、条文を素直に読めば、統帥権は天皇のみが有するという規定となりますが、実際にはもちろん天皇ご自身が指揮を取られることはなく、陸軍や海軍の責任者が握っていました。
また、そもそも国の軍備について決定を下すことは統治権の一部であり、統治権は天皇の名の下に内閣が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃材料の一つでしかありませんでした。
ところが、時の野党である立憲政友会が、「与党の攻撃材料になるのであれば何でもよい」とばかりに、統帥権干犯問題を政争の具として、軍部と一緒になって政府を攻撃したことで、話が一気に拡大してしまったのです。ちなみに、この時に政府を激しく非難した政友会の議員の一人である鳩山一郎(はとやまいちろう)は、鳩山由紀夫(はとやまゆきお)元首相の祖父です。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
まさに『統治権は天皇の名の下に内閣が行うものです。』が重要なポイントですね。
なぜなら、日本をしっかりと、議会があり、内閣が機能していました。カタチ上は、シビリアン・コントールです。
しかし、
この「統帥権」の問題が戦後教育でも
かなり、曲解されて、教えられていますね。
ただ、冷静に考えて、立憲君主制の国で
ほとんどの君主は、統帥権を持っていますが
統帥権干犯問題など起こっていません。
むしろ、立憲君主制の国のほうがシビリアン・コントロールが健全に行われています。
逆に共産主義や、帝政・王政のない国のほうが、無茶苦茶です。(軍政になりやすい。)
ぴーち こんばんは!
これが実際に、陛下ご自身が全て取り仕切れる制度であったのなら、横槍を入れる事が出来なかったのでしょうけれど、天皇の名のもとに、天皇の存在を上手く利用して・・という都合の良さに付け入る隙を与えてしまったのも、落ち度では無かったのかなと思いますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、憲法上においても本来であれば何の問題もないはずなのですが、政党側が政争のために統帥権干犯を肯定したことが致命的でしたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 憲法上の文言の解釈として、スキを与えてしまったのは確かですね。
とはいえ、正しく運用すべき政党側が解釈を曲解することまでは想定外だったとも思えますが…。
ところが、軍部が火をつけ、政友会が油を注いだ統帥権干犯問題はもはや止めることができず、ロンドン海軍軍縮条約そのものは何とか批准(ひじゅん、国家が条約の内容に同意すること)に成功したものの、先述のとおり、浜口首相が昭和5(1930)年11月に東京駅で狙撃されて重傷を負い、翌昭和6(1931)年4月に内閣総辞職をした後、同年8月に死亡しました。
統帥権干犯問題は、確かに大日本帝国憲法における欠陥ともいえましたが、憲法制定当初は全く問題視されていませんでした。それがなぜ、制定から40年以上も経ってから、我が国に深刻な影響を与えるようになったのでしょうか。
その背景には、例えば伊藤博文のような明治維新の元勲(=国家に尽くした大きな功績のある人のこと)たる元老の存在があったのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
その当時は何も問題視されなかった
事が時代が変化した事で、対応出来なくなってしまったのでしょうか。。?
伊藤博文の件が引っかかりますね(゜゜)
元老の誤解
青田です。 黒田先生
青田です。
高校の時、馬鹿な歴史教師は
『元老が内閣を支配するくらいの影響力・発言力』があったから、日本は太平洋戦争に突入した。』
まるで、『元老』=『老害』のように語っていました。
しかし、日露戦争の時は、オール元老のパワーが勝因に繋がっていたと思います。
もし、あの時、政党(特に自由民権運動上がりの)が元老。たとえば、板垣退助だったら、日露戦争に負けていました。
時々、黒田先生がバックトゥーザフューチャーで30年前にタイムスリップして、歴史を教えて頂いているのを夢でみます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > その当時は何も問題視されなかった
> 事が時代が変化した事で、対応出来なくなってしまったのでしょうか。。?
鋭いですね。そのあたりを詳しく紹介することになると思います。
> 伊藤博文の件が引っかかりますね(゜゜)
伊藤は元老の代表的人物ですからね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに、元老に対する誤解や曲解はひどいものがありますね。
> 時々、黒田先生がバックトゥーザフューチャーで30年前にタイムスリップして、歴史を教えて頂いているのを夢でみます。
有り得ません(爆)。
そもそも明治維新や明治新政府は、元老たちが明治天皇の下で起こしたのですから、元老の意見は天皇の意見と同じだけの重みをもっていましたし、その元老たちの推薦によって内閣総理大臣が選ばれたことから、首相や内閣も天皇や元老と一体のものと考えられていたのです。
これだけの重みがある以上、たとえ大日本帝国憲法に規定のなかった内閣であっても、その指導力はいかんなく発揮され、日清戦争や日露戦争の際にも、その絶妙な政治的判断によって、我が国は国難を何度も乗り越えてきました。
しかし時が流れ、昭和を迎える頃には、元老のほとんどが死に絶えてしまい、大正期に元老となった西園寺公望のみとなってしまいました。こうなると、元老の意見が天皇の意見と同じであると誰も思わなくなり、同時に内閣の権威も低下してしまったことで、統帥権干犯問題が表面化してしまったのです。
そして、そんな統帥権干犯問題をさらに拡大してしまったのが、本来は軍部をコントロールする立場であるはずの政党であったことが、何とも言えない皮肉でもありました。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。。
そういうカラクリでしたか。
その後、何十年も継続させていくというのは
並々ならぬ努力が必要という事が改めて感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
継続させるには(単なる学問だけでなく)優秀な人材が不可欠であるということがよく分かります。
なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが、「軍部は政府の言うことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして、我が国では軍部の暴走を事実上誰も止められなくなってしまうようになりました。
さらには、政府のいうことを聞く必要がなくなった軍部自体も似たような悩みを抱えることになりました。なぜなら、軍のトップが憲法を盾に政府の言うことを聞く必要がないということが、自身の部下に対して「政府の言うことはもちろん、陸海軍の中央の意向も確認する必要がない」という風潮を同時に生み出してしまったからです。
やがて我が国では、青年将校を中心に軍部による「血の粛清(しゅくせい)」が当たり前になったほか、陸軍首脳が全くあずかり知らないところで、現地の軍隊が勝手に軍事行動を起こすようになりますが、これらは元はといえば、国家全体の指揮系統を弱めた政治家や軍部の責任でもあるのです。
その後の我が国は、国家としての統制のとれない二重政府の状態と化してしまったことによって、やがては大東亜戦争へと突き進む理由の一つになったのですが、もちろんそれだけが直接の原因であるはずもなく、世界中で起きた様々な出来事を背景に、我が国は複雑な歴史をこの後も歩むのでした。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。
(※第47回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[5月14日]からは第3回公民授業の講演部分の更新を開始します)





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ぴーち こんばんは!
他の国の事情は存じませんが、日本という国は
どうも最終的に足の引っ張り合いをして内輪揉めをしているうちに、結果自分で自分の首を締める傾向が強い様に思います。
それと言うのも、日本が余り他の国からの責め苦に悩んで来たことが無かったからでしょうか?
つまりは世界を相手にして来なかった内弁慶が
悪い結果に結びつく要因になっているのでは?などと考えてしまいます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そのような見方もあり得そうですね。
いずれにせよ、大東亜戦争への流れは引き続き注目していきますので、次回以降もよろしくお願いします。