そんな信長には、いくつかの「顔」が存在しているといわれています。羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉=とよとみひでよし)や柴田勝家(しばたかついえ)など多数の有能な家臣を従(したが)えて天下統一を目指したという「武将」としての顔のほか、楽市・楽座(らくいち・らくざ)や南蛮貿易(なんばんぼうえき)によって経済力を高めた「政治家」としての顔、そして数多くの人間を無慈悲(むじひ)にも殺害したとされる「虐殺者(ぎゃくさつしゃ)」としての顔などです。
しかし、信長の数多くのエピソードがそれぞれ部分的に紹介されることはあっても、彼が目指そうとしていたことや、あるいは彼の死後にも引き継がれていったことなどの信長の全体像については意外と知られていないのではないでしょうか。
今回の講座では「歴史の転換者」の名にふさわしい信長の行動や、現代の歴史の流れにもつながる彼の功績(こうせき)について側面的な立場から紹介すると同時に、彼の生涯(しょうがい)から私たちが学ぶべき「教訓」についても探(さぐ)っていきたいと思います。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
織田信長。
良面でも、悪い面でも
どちらにもその名を轟かせた方だった様ですね。
私などは、やはり「本能寺」の一件が記憶に残っている程度ですので、これからまた詳しく勉強させてくださいね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 織田信長。
>
> 良面でも、悪い面でも
> どちらにもその名を轟かせた方だった様ですね。
> 私などは、やはり「本能寺」の一件が記憶に残っている程度ですので、これからまた詳しく勉強させてくださいね^^
歴史にその名を残す武将ですから、何らかの大きな足跡がありますよね。
これからその謎について探っていきますので、よろしくお願いしますm(_ _)m
紗那 信長……!
我が家では、父も紗那も二人そろって信長好きだったりします。
秀吉も好きですが←
確かに信長のことを体系的に知ることは今まで無かったかもです。期待してます♪
紗那さんへ
黒田裕樹 > 信長……!
> 我が家では、父も紗那も二人そろって信長好きだったりします。
> 秀吉も好きですが←
信長好きの人は多いですよね。私もその一人ですが(^^♪
> 確かに信長のことを体系的に知ることは今まで無かったかもです。期待してます♪
有難うございます。次回(27日)からの更新をお楽しみに!
黒田裕樹さん
風早 りら 信長の全体像
期待 満々です
私も私の友達も全て
彼のファンです
彼が 生存していたら 日本は大きく
変わってたでしょう
残念です
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長の全体像
> 期待 満々です
> 私も私の友達も全て
> 彼のファンです
> 彼が 生存していたら 日本は大きく
> 変わってたでしょう
> 残念です
現代の乱世にこそ、信長のような優れた行動力を持ったリーダーが必要なのかもしれませんね。
次回(27日)以降の全体像で詳しく探っていきたいと思います。
初めてコメントいたします
sohya ■黒田裕樹先生。
私の敬愛するbittercup氏が、先生の記事を
紹介され、それによって知りました。
先生も身分を明らかにされていますが、私も本を
だしたりしている関係上「カミングアウト」しております。
「木村草弥」と申す「歌人」「詩人」です。
この二つの「実作者」でありますが、短詩系として
このブログでは、それらの文芸に「特化」した体裁を採っています。
この「梅田東学習センター」には一度行ったことがあります。
私の大阪での友人たちの多くが高校の国語科の
教師でありまして、その読書会がここでやっておられ
出たので覚えております。
貴サイトは「リンク」に貼りましたので、今後、随時拝見いたします。
同じブログに所属しておられるので便利です。
では、また。
sohyaさんへ
黒田裕樹 ご訪問ならびにリンク先への設定、有難うございます。
私からも相互リンクさせていただきますので、今後ともよろしくお願いいたします。
こうした行為に対して眉(まゆ)をひそめる人々が多いのも事実ですが、時は戦国時代であり、食うか食われるかの厳(きび)しい毎日であったことを考えれば、信長の行動にもそれなりの理由があったと考えるべきでしょう。
城主といってもまだ若く、行動力もある信長にとってはそれこそ「自分で領内の様子を確認する」必要があり、その際に形式ばった衣装(いしょう)では領民の本音(ほんね)を聞くことができないという考えから、あのような行動をとったと思われます。要するに信長は、領地や領民を守るためには「生きた情報」を得ることが何よりも重要であることを、若いうちから肌(はだ)で感じていたのではないでしょうか。
こうした信長の「情報を重視する」姿勢は、後の彼の生涯に何度も襲(おそ)いかかる危機に対しても大いに役立つことになるのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると
織田信長の若い頃は「野生児」と言った
印象を受けました。
是非、黒田流、織田信長風口上を
拝聴したかったですねぇ(笑)
抹香をわしづかみに投げつける劇場も^^
仰るとおり、様々な意見を聞いて歩くという
ことはその人にとってはなによりの勉強に
なる事ですし、またその経験や情報が
後々の人生に役立ってくるものでもありますよね^^
私も「かわいい子には旅をさせよ」の精神を尊重して行きたいと思います(気持ち的に)
応援凸
オバrev 信長は非常に興味ある人物で、その評価は面白可笑しくではなく、キッチリとした評価が知りたいと思っていましたので、期待しています(^^)
まずその手始めですが、生きた情報ということは言い換えれば現場の情報ですよね。
机上の空論ばかりで、現実味のない政策を繰り返す今の官僚にも是非読んで頂きたいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こうして伺っていると
> 織田信長の若い頃は「野生児」と言った
> 印象を受けました。
> 是非、黒田流、織田信長風口上を
> 拝聴したかったですねぇ(笑)
> 抹香をわしづかみに投げつける劇場も^^
あぁ、その手がありましたねぇ(笑)。
「喝!」とか言うのも良いですが、先に自分が喝を入れられそうです(^^ゞ
> 仰るとおり、様々な意見を聞いて歩くという
> ことはその人にとってはなによりの勉強に
> なる事ですし、またその経験や情報が
> 後々の人生に役立ってくるものでもありますよね^^
> 私も「かわいい子には旅をさせよ」の精神を尊重して行きたいと思います(気持ち的に)
青年期の信長は生きた情報の中で過ごしたことで、通常の城主とは全く異なる道を歩むことになりましたが、これが彼の人生に良い意味で大きな影響を与えましたからね。
やはり苦労は若いうちからした方がいいのかもしれません。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 信長は非常に興味ある人物で、その評価は面白可笑しくではなく、キッチリとした評価が知りたいと思っていましたので、期待しています(^^)
有難うございます。ご期待に沿えるように頑張ります!
> まずその手始めですが、生きた情報ということは言い換えれば現場の情報ですよね。
> 机上の空論ばかりで、現実味のない政策を繰り返す今の官僚にも是非読んで頂きたいですね。
仰るとおりだと思います。
某人気番組ではないですが「事件は現場で起きている」わけですから。
紗那 確かに信長の行動には革新的なものを感じますよね♪
特に、領民と対等の立場で話をする、というのは当時では画期的な考え方だったんだろうと思います
だからこそ、現実に沿ったよりよい新しい政策を立案できたのでしょうね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 確かに信長の行動には革新的なものを感じますよね♪
> 特に、領民と対等の立場で話をする、というのは当時では画期的な考え方だったんだろうと思います
> だからこそ、現実に沿ったよりよい新しい政策を立案できたのでしょうね。
そのとおりですね。
信長の革命的なおかつ先進性あふれる行動が我が国の新しい時代を切り開く源(みなもと)となったわけですから、青年時代にすでにその片鱗(へんりん)を見せていたというのもうなづけます。
黒田裕樹さん
風早 りら 織田信長 カッコ良いです
彼が現代に生きていたとしても
人気 抜群 だったことでしょう
今日は 凄く 楽しかったです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 織田信長 カッコ良いです
> 彼が現代に生きていたとしても
> 人気 抜群 だったことでしょう
> 今日は 凄く 楽しかったです
信長は美男子と伝えられていますし、行動力もありますから、仰るとおり人気者になっていたかもしれませんね。
楽しんでいただけて何よりです。
おきばりください
sohya ■黒田裕樹さま。
お早うございます。
bittercup氏からのご縁ということですが、
よろしくお願いいたします。
このFC2というのはアメリカに籍のある会社ですが、
よく出来ているレンタルサイトだと思います。
ただ最近会員が多くて編集コントロールのところが
とてもビジー状態になっていて速度がのろく嫌ですね。
よろしくお付き合いください。
コメントを置かなくても覗いていますから。
では、また。
sohyaさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
FC2同士で交流を深められることは素晴らしいですね。
よろしくお願いいたします。
駿河(するが、現在の静岡県東部)を本拠地(ほんきょち)とする戦国大名の今川義元(いまがわよしもと)が、1560年に尾張を狙(ねら)って侵攻(しんこう)してきたのです。2万5千ともいわれる今川の軍勢に対して、信長が動員できる人数はそのわずか10分の1以下の2000人程度でした。まともに戦っては勝ち目がありません。
家臣からは籠城(ろうじょう、城に立てこもって戦うこと)を勧(すす)める意見もありましたが、信長は動きませんでした。しかしその後、今川軍の攻撃開始を聞くと信長はすぐさま出陣(しゅつじん)し、熱田神宮(あつたじんぐう)で戦勝祈願(せんしょうきがん)を行いました。
実は、信長は家臣からもたらされる「ある情報」を待っていたのです。そして、その情報こそが、圧倒的に不利と思われた情勢を一気に逆転できる唯一(ゆいいつ)の手段でもありました。




いつも有難うございます。
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Kei おっ
いいところで終わりましたね。。。
続きは明日ですね。。。
信長好きの息子に<ねえ、これ知ってる?>と
自慢したいので、、、
明日も確実にお邪魔いたします(笑)Kei
ぴーち こんばんは!
信長に限っては
「多勢に無勢」は通用しない様ですね!
さてさて、どんな戦法を打ち出すのか。
そして、どんな情報を得るのか。
楽しみです♪
応援凸
Keiさんへ
黒田裕樹 > おっ
> いいところで終わりましたね。。。
> 続きは明日ですね。。。
> 信長好きの息子に<ねえ、これ知ってる?>と
> 自慢したいので、、、
> 明日も確実にお邪魔いたします(笑)Kei
Keiさんがお子様に自慢できますように(笑)、明日(29日)以降もご期待に沿えればと思います。
続きもぜひお楽しみに!(^^♪
紗那 この桶狭間の話は有名ですね♪
とはいえ、このように、情報戦で信長が勝ったという認識は今までにしたことがなかったです^^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 信長に限っては
> 「多勢に無勢」は通用しない様ですね!
> さてさて、どんな戦法を打ち出すのか。
> そして、どんな情報を得るのか。
> 楽しみです♪
有難うございます。
「情報を巧みに利用した戦法」でも言っておきましょうか(^^ゞ
次回(29日)をお楽しみに!
紗那さんへ
黒田裕樹 > この桶狭間の話は有名ですね♪
> とはいえ、このように、情報戦で信長が勝ったという認識は今までにしたことがなかったです^^;
戦国時代の戦(いくさ)といえば「力と力の激突」という印象がありますからね。
情報戦がどのような作用をもたらすのか、ぜひご覧いただきたいと思います(^^♪
黒田裕樹さん
風早 りら 信長ファンには 堪らない 今日の講座ですね
まるで 映画のワンシーンを見ているみたい
「圧倒的に不利と思われた情勢を一気に逆転できる唯一の手段でもありました」
その後は 皆さん ご存じでしょうが
やはり 先生の 講座でお聞きしたいです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長ファンには 堪らない 今日の講座ですね
> まるで 映画のワンシーンを見ているみたい
> 「圧倒的に不利と思われた情勢を一気に逆転できる唯一の手段でもありました」
> その後は 皆さん ご存じでしょうが
> やはり 先生の 講座でお聞きしたいです
確かに映画のワンシーンにふさわしい光景ですね。
次回(29日)の更新を思う存分堪能(たんのう)いただければと思います。
後の世で「桶狭間の戦い」と呼ばれたこの戦(いくさ)は、信長による大逆転の勝利だったわけですが、戦後の論功行賞(ろんこうこうしょう、功績を論じ程度によって賞を与えること)では、それまでの慣例とは異なる現象が起きました。
義元の首を実際に打ち取った家臣よりも、義元が桶狭間を行軍中であるという情報を知らせた家臣の方が一番手柄(いちばんてがら)であるとして、より多くの褒美(ほうび)を与えられているのです。その背景には、刀や槍(やり)による手柄よりも情報戦を制することが戦勝につながるという信長の考えがありました。
さて、義元の死によって今川家は急速に勢力が弱まっていったのですが、ここで信長は通常の戦国大名とは全く異なる路線を歩むことになります。なぜ信長がそんな行動をとったのかを理解することによって、彼の生涯をかけた「大きな目標」を私たちは目(ま)の当たりにすることができるのです。




いつも有難うございます。
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Kei なるほど。。。
情報を持ってきた家臣のほうが、褒美が上。。
信長すごいですね。
それが、桶狭間で勝利に導いたんですね。
今日もいいところで終わってしまいました。。
また、明日来ます。
毎日、分かりやすくお勉強させていただきありがとうございます。Kei
mochimochi 本当に自分も信長と一緒に桶狭間に行くような臨場感のある講座でとてもおもしろかったです。
ぴーち こんばんは!
今でこそ情報化社会と言われていますが(或いはそれ以上に
「情報過多」時代でもあるかな?(笑))
信長の時代は、情報の伝達速度も、量も少なかったのではないのかと推測いたします。
それ故、少ないだけにとても貴重なもので、ましてや、それが確実なる情報だったとしたら、仰るとおり、刀や槍の手柄よりも、価値は高かったのでしょうね。
関係ない話ですが、刑事事件なども、やはり情報ありきですものね。
応援凸
紗那 なるほど、信長は情報戦のうまい武将でもあったわけですね。
確かに考えてみると、奇襲というのは一般に弱い立場の者が強い立場の者に仕掛けるわけで、それを成功させるためには情報が絶対必要ですよね。完全に盲点でした。
此処から先の信長の行動も当時では考えられないような行動ですよね^^;
Keiさんへ
黒田裕樹 > なるほど。。。
> 情報を持ってきた家臣のほうが、褒美が上。。
> 信長すごいですね。
> それが、桶狭間で勝利に導いたんですね。
単なる力関係だけではなく、情報戦で相手を制する。
圧倒的な兵力差を打開するにはこれしかないですよね。
> 今日もいいところで終わってしまいました。。
> また、明日来ます。
> 毎日、分かりやすくお勉強させていただきありがとうございます。Kei
有難うございます。
明日(30日)もぜひお越し下さい。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 本当に自分も信長と一緒に桶狭間に行くような臨場感のある講座でとてもおもしろかったです。
講師冥利に尽きるお言葉、有難うございます。
今後もぜひお越し下さい。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今でこそ情報化社会と言われていますが(或いはそれ以上に
> 「情報過多」時代でもあるかな?(笑))
> 信長の時代は、情報の伝達速度も、量も少なかったのではないのかと推測いたします。
> それ故、少ないだけにとても貴重なもので、ましてや、それが確実なる情報だったとしたら、仰るとおり、刀や槍の手柄よりも、価値は高かったのでしょうね。
> 関係ない話ですが、刑事事件なども、やはり情報ありきですものね。
現代のようにかえって情報過多の時代になりますと、その有難みも薄れてしまっているようですが、当時の確かな情報は何物にも勝る宝だったと思います。
だからこそ信長は一番手柄を認めたのでしょう。
仰るとおり、現代の刑事事件においても「確かな情報」をもとに慎重に捜査を進めてほしいものです。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど、信長は情報戦のうまい武将でもあったわけですね。
> 確かに考えてみると、奇襲というのは一般に弱い立場の者が強い立場の者に仕掛けるわけで、それを成功させるためには情報が絶対必要ですよね。完全に盲点でした。
そうなんですよね。
情報戦を勝ち抜くことが数万の兵を動かすことよりも重要なことを信長は見抜いていたのですから、やはり彼は天才ですね。
> 此処から先の信長の行動も当時では考えられないような行動ですよね^^;
仰るとおりですね。
次回(30日)から詳しく紹介しましょう(^^♪
黒田裕樹さん
風早 りら 「情報戦を制することが戦勝につながるという」
この考え だから 信長は好きですね
一番手柄が 誰か よく 理解しています
やはり 信長は 頭 相当良いです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「情報戦を制することが戦勝につながるという」
> この考え だから 信長は好きですね
> 一番手柄が 誰か よく 理解しています
> やはり 信長は 頭 相当良いです
私もそう思います。
信長の配下からしてみれば、この上なく心強い存在ですよね。
当時の今川家は三河(みかわ、現在の愛知県東部)から遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)、さらには駿河と広大な領地を持っていたのみならず、これらの地域は気候が温暖で収穫(しゅうかく)も多く、海の幸(さち)にも恵まれ、さらには金山もあるという、経済力豊かな「おいしい」場所でもありました。
通常の戦国大名であれば、何も考えることなくこれらの領地を狙うことでしょう。しかし、実際には信長は「おいしい」領地には目もくれず、徳川家康(とくがわいえやす)と同盟を結び、家康に今川家の攻略を任せたうえで、自(みずか)らは美濃(みの、現在の岐阜県南部)の征服(せいふく)を目指しているのです。
なぜ信長はこのような手段を選んだのでしょうか。実は、この選択こそが信長が描(えが)いていた「天下統一へ向けての明確なビジョン」だったのです。




いつも有難うございます。
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オバrev うぅ~ん、信長はそんな美味しい領地を目の前にして、家康に譲ったんですか(゚゚;)エエッ
私なら、絶対に真っ先に手に入れようとしたと思います。
やっぱ要所での生き方が、天才たる所以でしょうか。しかし凄いですね。
こういった上司に仕えた秀吉は、戦国時代をむしろ楽しんだような気がします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > うぅ~ん、信長はそんな美味しい領地を目の前にして、家康に譲ったんですか(゚゚;)エエッ
> 私なら、絶対に真っ先に手に入れようとしたと思います。
> やっぱ要所での生き方が、天才たる所以でしょうか。しかし凄いですね。
通常の武将ならまずそうしたでしょう。しかし、信長の目標を考えれば…というわけです。
やはり彼は天才ですね。
> こういった上司に仕えた秀吉は、戦国時代をむしろ楽しんだような気がします。
秀吉にとっては、頑張れば頑張るほど出世できるのですから、これほど理想的な上司はいなかったでしょうね。
ぴーち こんばんは!
「おいしい領地には目もくれず」
え~っと。。
このフレーズ。以前、黒田さんのお話に中で
語られていたのを覚えているのですが、
誰だったかしら・・。
すみません、忘れてしまいました(>0<)
やはり皆と同じ考え、同じ行動をしていては出世は出来ないと言うことでしょうかね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「おいしい領地には目もくれず」
>
> え~っと。。
> このフレーズ。以前、黒田さんのお話に中で
> 語られていたのを覚えているのですが、
> 誰だったかしら・・。
> すみません、忘れてしまいました(>0<)
今年の2月の初めての東京講演である第10回の歴史講座でも同じような場面が出てきていますから、そちらかもしれませんね(^^♪
> やはり皆と同じ考え、同じ行動をしていては出世は出来ないと言うことでしょうかね。
仰るとおりです。他人を出し抜くには独自の、しかも評価される行動をとるということなんですよね。
紗那 んー、こうやって戦国時代で天下統一するためには……を分かっていても、私は今川の領土を取りに行ってしまう気がしますw
私たちですらそうなのに、答えがわからないことを自信満々にやってのける信長はやはりかっこいいです
♪
紗那さんへ
黒田裕樹 > んー、こうやって戦国時代で天下統一するためには……を分かっていても、私は今川の領土を取りに行ってしまう気がしますw
> 私たちですらそうなのに、答えがわからないことを自信満々にやってのける信長はやはりかっこいいです
> ♪
私だってそうですよ(^^ゞ
信長のこういった自信はどこから来るのでしょうね…。天才の頭脳は天才にしか分からないのでしょうか?
黒田裕樹先生
風早 りら 「信長は「おいしい」領地には目もくれず徳川家康と同盟を結び 家康に今川家の攻略を任せたうえで自らは美濃の征服を目指しているのです」
やはり 信長はカッコ良いです
今日も信長ファンの友達と黒田先生の
信長の講座の話で盛り上がりました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「信長は「おいしい」領地には目もくれず徳川家康と同盟を結び 家康に今川家の攻略を任せたうえで自らは美濃の征服を目指しているのです」
>
> やはり 信長はカッコ良いです
> 今日も信長ファンの友達と黒田先生の
> 信長の講座の話で盛り上がりました
それは光栄です。
お友達の方にも是非この講座をご覧になっていただければと思います。
天才児:織田信長
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この織田信長は、天才すぎます。
私も、ビジョンを持とうとしますが
やはり、目の前のことで、精一杯で、
なかなか、未来のビジョンを考えられません。
今の日本の政治家にビジョンがないと、よく、言われますが、
やはり、目先の政局のことだけで、精一杯なのでしょうね。
ましてや、織田信長の時代は、戦国時代で
どこの大名も、余裕がなく、今日を生きるのに
精一杯です。
そんな時に、ビジョンを考えられた織田信長は
凄すぎます。
おそらく、織田信長は、人生の諸行無常を
非常に達観して観ていたのではないかと
思います。
それは、織田信長の愛した敦盛の内容ですが
『人間五十年、化天[1]のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。』これが信長の思想の根底にあったと
思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信長の見通しの良さは誰にも真似できないですね。
彼一人の人生の達観ぶりがこの世を動かしたのかと思うと胸が熱くなりますが、それ故に本能寺の変を招いてしまったのかもしれません。
ということは、今後は信玄や北条氏から自己の領地を守るために、常に大軍を彼らとの隣接地に置かねばならないことになりますから、そんな「防衛するのが精一杯(せいいっぱい)」の情勢において、天下統一を目指して上洛(じょうらく、京へ向かうこと)を目指すようなことが果たして可能でしょうか?
こうしたことが頭にあったゆえに、信長は奪えるかもしれない今川家の領土をあっさりと捨てて、家康に三河の攻略を勧めるという、いわば三河を「クッション」として自領の尾張を「安全地帯」にしたうえで、後顧(こうこ)の憂(うれ)いをなくして美濃を攻め取り、上洛への道を確保しようと考えたのです。
天下統一のためには目先の利益にこだわらずに常に長期的なビジョンを持つという信長の一貫した姿勢が、今後の彼の人生やその方針を大きく変えたのでした。




いつも有難うございます。
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佐佐木あつし こんにちは。
信長はその性格も大好きで
あの日本人離れした気質の一面には
男惚れする思いですw
やはり、大きな事をなさんとする人は
常人のはるか遠くを見据えてなければ
いけないんですね。
器の広さが仕事の大きさを
作るのかもしれないと思うと
もっと切磋琢磨しなければと
焦るばかりの思いです(;・∀・)
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 信長はその性格も大好きで
> あの日本人離れした気質の一面には
> 男惚れする思いですw
私も憧れますね。ただ、実際に仕えた家臣は大変でしたでしょうけど(^^ゞ
> やはり、大きな事をなさんとする人は
> 常人のはるか遠くを見据えてなければ
> いけないんですね。
> 器の広さが仕事の大きさを
> 作るのかもしれないと思うと
> もっと切磋琢磨しなければと
> 焦るばかりの思いです(;・∀・)
私も同じ思いです。
教師として、また歴史の語り部としてはまだまだ修行が足りないことを痛感しております。
ぴーち こんばんは!
なるほど!
車で例えると
三河を「エアバック」にし
尾張を「シートベルト」にしたんですね^^
目先の利益に拘らずに・・ですか。
信長は「先見の明」に長けていたんですね。
俗に将棋の棋士が相手の10手先まで
読みながら、将棋を指すと言われているようですが、そんな能力もそれまでの人生経験から生まれたんでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど!
> 車で例えると
> 三河を「エアバック」にし
> 尾張を「シートベルト」にしたんですね^^
これは絶妙な例えですね(^^♪
参考にさせていただきますm(_ _)m
> 目先の利益に拘らずに・・ですか。
> 信長は「先見の明」に長けていたんですね。
> 俗に将棋の棋士が相手の10手先まで
> 読みながら、将棋を指すと言われているようですが、そんな能力もそれまでの人生経験から生まれたんでしょうね。
先見の明がいかに大切かということですね。
本物の勝負師の凄みを感じます。現代の政治家にも見習ってほしいものですよね。
黒田裕樹さん
風早 りら 「 天下統一のためには目先の利益にこだわらずに常に長期的なビジョンを持つという信長の一貫した姿勢 」
やっぱり 信長は カッコ良いです
今日 映画 「桜田門外の変」見ました
歴史好きで信長大好きな友達とみました
信長が殺されなければ 鎖国はなかったでしょう
返す返す 残念です
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「 天下統一のためには目先の利益にこだわらずに常に長期的なビジョンを持つという信長の一貫した姿勢 」
>
> やっぱり 信長は カッコ良いです
> 今日 映画 「桜田門外の変」見ました
> 歴史好きで信長大好きな友達とみました
> 信長が殺されなければ 鎖国はなかったでしょう
> 返す返す 残念です
桜田門外の変は今年話題の映画の一つですね。
その他にも時代劇の傑作が多いのがうれしいです。
秀吉や家康と違って、開放的な信長であれば鎖国政策はとらなかった可能性がありますね。
仰るとおり残念なことだと思います。
宝の山
たぬき 駿河 遠江 三河が宝の山との指摘ですが
太閤検地で
駿河 15万石
遠江 25万石
三河 29万石
尾張 57万石
美濃 54万石
伊勢 57万石
単に宝の山と呼ぶなら、美濃や伊勢の方が隣接国としては適当。実際に美濃や伊勢に出兵している。
美濃の斉藤家とは道三の死後1556年から断続的に係争状態にあるから、桶狭間の戦いのあとも美濃とは戦わざるをえない。
上記の係争があるということは、対美濃工作は進行しているだろうが、対三河に関しては、桶狭間の前の段階では係争が薄い。
桶狭間の戦いのあと、情報が薄い三河に向かうより、情報の濃い美濃に向かうのが妥当だと思うのだが、別に宝の山とか、上洛を目指してというようなことを指摘しなくても。
たぬきさんへ
黒田裕樹 ご指摘ありがとうございます。
確かに石高を考えれば西へ向かう方が妥当であったかもしれません。
ただ、この場合に分岐点となったのは、今川家の将来をどう見るか、ということであったと考えております。
義元亡き後の今川家は凋落が激しかったことで、領地を拡大するのであれば、7年もかかった美濃よりも比較的攻めやすく、またその他にも本文にあるような地形的な条件がそろったことで、奪いやすい方から奪っていくという方法を、通常の戦国武将なら考えはしないかという観点から講座を進めております。
しかしながら本文を読み返してみれば「宝の山=領土」というイメージが強く、ご指摘のようなお考えを持たれるのも自然かと思われます。
私を含めて、現代人は歴史を結果から見る傾向があります。現代から見た「価値があり、情報がある方から攻める」イメージと、戦国時代の「大名が弱ったところから攻める」イメージとの互換性も視野に入れながら、今後の勉学に励みたいと思います。
mochimochi 講義からも勉強になりましたが、みなさんのコメントからも勉強になりました。
良いサイトですね。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 講義からも勉強になりましたが、みなさんのコメントからも勉強になりました。
> 良いサイトですね。
有難うございます。
一方的に自己の見解を述べるだけではなく、皆様から頂いたご意見をもとに双方向へ幅広い知識や理解を深めていくことが、私のブログに対するモットーであり、同時に教師の心得の一つとも思っております。
これからもぜひお越し下さい。
新たな征服者によって地名が変わるということは、世界の権力者にはよくあることでした。例えば古代のアレクサンドロス大王が征服した地は「アレクサンドリア」と呼ばれ、現代でもエジプトの都市として残っています。
しかし、我が国では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が草薙の剣(くさなぎのつるぎ)でなぎ倒した草を積んで火を放ち、敵を火攻めにしたことからついた「草薙」や「焼津(やいづ)」のように過去の伝承(でんしょう)から地名が付いたり、あるいは足利氏(あしかがし)や新田氏(にったし)のように、地名を自分の苗字(みょうじ)にしたりすることはあっても、時代の権力者によって地名が変わるということは、これまでに例がありませんでした。
その背景には、信長による「天下統一へ向けて世の中を新しくする」という強い意思表示がありました。そして、新たに名づけられた岐阜の地には、将来に向けての実験ともいえる数々の工夫がなされていったのです。




いつも有難うございます。
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サクラ 確かに、日本で支配者が地名を変えるってのは聞きませんね。
私は、信長には一定の常識が欠けていたんだと思います。
勿論それは悪く思われたりもしますが、私は、信長の欠け具合は良い欠け方だったと思いますよ。
信長の目からすれば、「こうすればよくなるのに、何故誰もやらないのか」という事が多かったんじゃないでしょうか。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 確かに、日本で支配者が地名を変えるってのは聞きませんね。
> 私は、信長には一定の常識が欠けていたんだと思います。
> 勿論それは悪く思われたりもしますが、私は、信長の欠け具合は良い欠け方だったと思いますよ。
> 信長の目からすれば、「こうすればよくなるのに、何故誰もやらないのか」という事が多かったんじゃないでしょうか。
世の中を新しくするには、仰るとおり良い意味での欠陥が必要なのかもしれませんね。
誰にも思いつかないことを実行するということは、裏を返せば一般常識に問題があるということでもありますから。
「コロンブスの卵」は常識を超えたところに存在するのでしょうね。
黒田裕樹さん
風早 りら 地名井ノ口を岐阜と改めたのですね
地名改名は信長が最初でしたか
知りませんでした
天下布武
乱暴のように聞こえる この言葉
当時は手段は それしかありせん
彼の「天下布武」成し遂げて
欲しかったです
ぴーち こんばんは!
岐阜の岐には「本道から枝分かれする道」
或いは「いき方が幾重にも分かれる」
という意味合いがありますが、将来へ向けての
幾重にも広がる工夫という意味をこの字に
込めたのでしょうか・・。
応援凸
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 地名井ノ口を岐阜と改めたのですね
> 地名改名は信長が最初でしたか
> 知りませんでした
自分の力で改名したのは信長が初めてです。
他の国と同じように権力者の力を誇示するのもあったでしょうが、自分の力で新しい世の中をつくるという意気込みも感じられますね。
> 天下布武
> 乱暴のように聞こえる この言葉
> 当時は手段は それしかありせん
> 彼の「天下布武」成し遂げて
> 欲しかったです
仰るとおり、戦国時代を終わらせるには武力で天下を統一する以外に方法がないですからね。
残念なのは、彼の手で成し遂げることができなかったことです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 岐阜の岐には「本道から枝分かれする道」
> 或いは「いき方が幾重にも分かれる」
> という意味合いがありますが、将来へ向けての
> 幾重にも広がる工夫という意味をこの字に
> 込めたのでしょうか・・。
岐阜の地名の由来には様々な説がありますが、仰るような意味のほかに、古代中国の周の文王が岐山より起こったという伝説から採ったとも考えられています。
いずれにせよ、信長らしい斬新な考えですね。そして、新たに名付けた岐阜の地で、信長は将来に向けての壮大な実験を行うのです。
すなわち、岐阜城周辺の土地を区割りして、家臣から足軽(あしがる)に至(いた)るまでに半(なか)ば強制的に移住させたのです。数千から1万と考えられる動員兵力のすべてが仮に移住したとすれば、その家族を含めて少なくとも数万の人口が集中することになりますから、あっという間に岐阜は我が国有数の都市となりました。
人口が多ければ、衣食住において商売が常に成り立ちますから、常設(じょうせつ)の店舗(てんぽ)もすぐに定着しますし、信長は楽市・楽座の政策を行っていますから、多額の税を払う必要もありません。さらに、家臣が城下に定住しているということは領民の安全が保障(ほしょう)されるだけでなく、敵が攻めてきた場合にもすぐに戦えるという防衛上のメリットもありますから、まさに良いことづくめと言えますね。
信長のこうした天才的な発想によって、経済力も軍事力も高められていったのですが、その背景には「兵農分離(へいのうぶんり)」や「楽市・楽座」という柔軟(じゅうなん)な政策がありました。それにしても、信長はなぜこのような政策を思いついたのでしょうか。
実は、信長は「敵」ともいえる対象から、その長所と短所を学んでいたのです。




いつも有難うございます。
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Kei 信長は、ほんとに、頭の良い、賢い方だったのですね。私が小学校のころにただ丸暗記した信長の政策は、彼の頭脳の中で、きちんと計算されて行われたことだったのですね。今日も、お勉強させていただきありがとうございます。
~追伸
黒田さんのブログ、リンクさせていただいてもよろしいですか?もしダメということであれば、おっしゃってくださいね。
これからもよろしくお願いいたします。Kei
Keiさんへ
黒田裕樹 > 信長は、ほんとに、頭の良い、賢い方だったのですね。私が小学校のころにただ丸暗記した信長の政策は、彼の頭脳の中で、きちんと計算されて行われたことだったのですね。今日も、お勉強させていただきありがとうございます。
素人目には行き当たりばったりであっても、裏ではしっかりと計算し尽くされている。
信長の天才的な発想とともに、その実行力は群を抜いていますね。歴史に名を残す人物というのはやはり素晴らしいです。
> ~追伸
> 黒田さんのブログ、リンクさせていただいてもよろしいですか?もしダメということであれば、おっしゃってくださいね。
> これからもよろしくお願いいたします。Kei
リンクは喜んでお受けしますし、こちらからも相互リンクさせていただきますね。
今後ともよろしくお願いいたします。
ぴーち こんばんは!
ちょっと前ですが、孫子の兵法という本を読む機会があったんですが、その中に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という言葉がありましたが、信長も孫子のこの言葉を知っていたのでしょうかね?
まずは敵をよく知ることこそが勝利する鍵であるのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ちょっと前ですが、孫子の兵法という本を読む機会があったんですが、その中に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という言葉がありましたが、信長も孫子のこの言葉を知っていたのでしょうかね?
> まずは敵をよく知ることこそが勝利する鍵であるのでしょうね。
敵を知ることが勝利につながることは、まさしく仰るとおりですね。
果たして信長はどんな敵から学んだのでしょうか?
次回(3日)をお楽しみに!
黒田裕樹さん
風早 りら 楽市・楽座
学校で勉強した事思いだしました
でも その時は興味が 湧きませんでした
黒田先生の講座で ワクワクしています
信長の頭脳は相当なものですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 楽市・楽座
> 学校で勉強した事思いだしました
> でも その時は興味が 湧きませんでした
> 黒田先生の講座で ワクワクしています
> 信長の頭脳は相当なものですね
有難うございます。
信長の知能の高さや頭の回転力は凄まじいものがあると思います。
加えて彼は学習能力がきわめて高かったとも考えられるのですが、そのあたりを次回(3日)の更新で明らかにしていきたいと思います。
忍耐力のある織田信長
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
織田信長は、スグにキレる短期なイメージを
持っていましたが、織田信長は、徳川家康に
勝るとも劣らない、『忍耐力』のヒトだったように思います。
① 美濃攻めに8年間掛っている。
しかも、その手法は、地味な調略。
② 石山本願寺との戦いには、10年間掛っている。
③ 決して、大きな戦いに勝っても、深追いしない。
◆長篠の戦い(1575年)→武田征伐(11582年)長篠の戦いの7年後に決着。
◆姉川の戦い(1570年)→小谷城の戦い(1573年)姉川の戦いの3年後に決着。
常に、織田信長は、長期戦を想定しています。
短期的な戦いでは、武田信玄、上杉謙信には
勝てないかもしれませんが、長期戦を制する
ことが、織田信長の根底にあったのですね。
それを実現させる施策が、兵農分離につながっているのでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信長は「キレれば怖い」というイメージとは裏腹に、目標を達成するためには実に忍耐強く辛抱しています。
そして、このような兵法を実現させるためにも、仰るように「兵農分離」は欠かすことができません。
信長の発想は「必要は発明の母」の一面もありますね。
現代における宗教に対する印象といえば、特に仏教に関しては「お坊さんが有難いお経(きょう)を読む」という平和なイメージしかありませんが、これが定着したのは江戸時代(えどじだい)以降のことであり、それ以前、特に戦国の世では自分の身を守るためにそれぞれの宗教勢力が僧兵(そうへい)などの武力を持っていました。
特に京都などの有力な布教地(ふきょうち)においては、要所ごとに関所を置いて通行税を徴収(ちょうしゅう)したり、あるいは座(ざ)を設けて商売を許可するために税金を集めたりすることによって莫大(ばくだい)な権益(けんえき)が存在したため、宗教同士の勢力争いによって、血で血を洗う戦いが繰(く)り広げられました。
これらの権益を維持するために各宗教勢力は軍事力を強化しましたが、軍事力の強化は多額の資金力を必要とするため、布教地に対する税を増やして利益を上げれば、今度はその権益を守るために武力を強化する―。この繰り返しによって、いつのまにか宗教勢力は政治力や資金力を持った巨大な圧力団体と化してしまったのです。
こうした宗教勢力同士の争いで泣かされ続けたのは、家を焼かれたりして生命の危険にさらされた無数の庶民(しょみん)でした。彼らは、もはや人々の暮(く)らしに大きな障害と化してしまった宗教勢力を追放して、かつての過ごしやすい世の中に戻してほしいと切望(せつぼう)するようになりました。




いつも有難うございます。
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サクラ どんな伝統宗教にも、現在のカルトのような、うんざりさせられる時期ってあったりしますよね。
特に名僧の人生を見てみると、怖いと思うほど他宗教の批判やぶつかり合いが激しいですし。
特にこの時代の仏教は、ネガティヴなイメージが大きいです。
サクラさんへ
黒田裕樹 > どんな伝統宗教にも、現在のカルトのような、うんざりさせられる時期ってあったりしますよね。
> 特に名僧の人生を見てみると、怖いと思うほど他宗教の批判やぶつかり合いが激しいですし。
> 特にこの時代の仏教は、ネガティヴなイメージが大きいです。
宗教の宿命ともいえる他派への排他的な性質と、権益とが重なったことで、この当時の宗教には仰るとおりネガティヴなイメージが定着してしまっていますね。
そして、そのイメージは今後の信長との争いを通じて見れば、残念ながら本当のことであると言わざるを得ないようです。
ぴーち こんばんは!
よく人間の煩悩である「三毒」という要素に
「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)」というのがありますが(私、実際には漢字では書けそうにありませんがw)
三毒が元々備わっている人間が宗教という
馬の手綱を取れば、自分の思い通りに采配してみたい。宗教という名前を借りてお金儲けが出来るのではないか。。などいう欲が絡み、結局、最初は人々を救済したい。人々の悪しき行いを正していきたいという純然たる思いが失われてしまい、横道へ馬車は逸れていってしまうんでしょうね。
結局それらの欲にまみれずに、最後まで最初の思いが脈々と受け継がれてきた宗教こそが、今の私たちを救うことが出来る唯一無二の存在になってくれそうな気がします。それを見つけられた人間こそが次世代を担っていく使命を与えられるのでしょうが・・さて。
応援凸
黒田裕樹さん
風早 りら 信長が 宗教を武力で 弾圧したように
言われることが 多いようですが
今日のお話を聞くと
信長も武力で 対抗するしかなかったのだと
思います
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この当時の宗教勢力は人間の救済よりも仰るような三毒にまみれてしまっていたのかもしれませんね。
乱世であればあるほど人々は宗教へと走りますから、その需要が仇になったとも言えます。
それにしても、ここまで毒が回ると元に戻すのは至難の業ですよね。
果たして信長はどのような手段で…おっと、先走り過ぎましたね(^^ゞ
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長が 宗教を武力で 弾圧したように
> 言われることが 多いようですが
> 今日のお話を聞くと
> 信長も武力で 対抗するしかなかったのだと
> 思います
仰るとおりですね。
この後の信長と宗教勢力との戦いは、今一度この講座で紹介することになりますので、またぜひご覧ください。
この当時の戦国大名の兵力の大半は、実は地元の農民兵でした。彼らは家族を故郷に人質同然に残していることもあって、命がけで戦ったために強かったのですが、初夏や初秋のような農繁期(のうはんき)には農作業に専念させる必要があったために、農民兵には「一年中戦うことができない」という大きな弱点がありました。
上洛を目指そうとすれは、必然的に長期間兵力を温存しなければいけませんが、農民兵が主体ではそれが不可能でした。しかし、資金力を利用して兵を雇(やと)えば一年中戦えるため、長期間にわたる兵力の温存が可能となるのです。現実に宗教勢力は布教地である都市を中心に常に武力を蓄(たくわ)えていました。
これを見た信長は「資金力さえあれば兵を常駐(じょうちゅう)できる」ことに気が付いて、他の大名よりもいち早く兵農分離に成功しました。しかし、兵力を維持するための膨大(ぼうだい)な資金力を確保するにはどうすればいいのでしょうか。ここで信長は二つ目として、宗教勢力とは逆の発想を思いついたのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
2つ目の逆の発想ですか・・
何でしょう・・
思いつきませんでした(^^A
明日の答えを楽しみにしています^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 2つ目の逆の発想ですか・・
> 何でしょう・・
> 思いつきませんでした(^^A
> 明日の答えを楽しみにしています^^
そうでしたか(^^ゞ
ではヒントをひとつ。
逆の発想ということは、宗教勢力が行ったことと反対のことをするということですよね。
彼らががんじがらめの規制をかけているとすれば、信長は…ということです(^^♪
また明日(5日)のお越しをお待ちしております!
黒田裕樹さん
風早 りら 「信長は二つ目として、宗教勢力とは逆の発想」
かなり 考えてみまたが思い浮かびません
明日のお答 楽しみにしています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「信長は二つ目として、宗教勢力とは逆の発想」
> かなり 考えてみまたが思い浮かびません
> 明日のお答 楽しみにしています
はい、明日(5日)にはお答えいたします。
「逆の発想」。後から聞けば「そんなことか」と思えますが、実際に思い付くのはそう簡単ではありません。
天才の信長ならではだと思います。
このような流れがあって、信長が支配した領地内においては楽市・楽座が行われるようになりました。商業が盛んになる町は自然と経済力が高まりますので、宗教勢力に比べて大幅(おおはば)な減税を行っても、逆に信長の領地における収入が増えるという結果をもたらしました。
しかし、信長の政策はそれまでの権益の恩恵を受けていた宗教勢力にとっては大きな迷惑であり、上洛した信長が自己の武力を背景に宗教勢力に対して権益の放棄(ほうき)と武装解除(ぶそうかいじょ)を迫(せま)ってもこれに反対し、信長が妹の婿(むこ)である浅井長政(あざいながまさ)の裏切りによって危機に陥(おちい)った際などに、信長を滅(ほろ)ぼそうと画策(かくさく)しました。
生命を狙われて激怒した信長は、自衛の意味も込めて比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼討(やきう)ちし、また一向一揆(いっこういっき)の勢力を、女子供に至るまで皆殺(みなごろ)しとしたのです。




いつも有難うございます。
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mochimochi 自分にとっても庶民にとっても良いことを明確に知っていたから大胆なことができたのですね。
今の政治家もそうであってほしいです。
ぴーち こんばんは!
人が集まれば、確かに経済力が高まり
収益が上がる事は確かです。
宗教勢力からすれば、信長は目の上のタンコブ。
言わば、「商売仇」として当然の如く憎まれてしまったんですね。
金という欲に駆られた人間は相手の命をも
奪い去る狂気を秘めているものですが、
その狂気のどんな小さな芽も摘み取って
しまおうと信長は考えたのですね。
情けを掛けた
途端、自分の命を奪おうとする人間に
一生狙われることを恐れたのかもしれませんね。
応援凸
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 自分にとっても庶民にとっても良いことを明確に知っていたから大胆なことができたのですね。
> 今の政治家もそうであってほしいです。
私もそう思います。
庶民が困っていること、あるいは望んでいるものを瞬時に理解できる為政者が人気が高いのは当然ですからね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いつの世も商売敵は狙われますからね。
信長の場合も、(武力で脅しているとはいえ)当初は話し合いで解決しようとしたのに、先に手を出されてかつ生命まで奪われようとしたのですから、怒って当然ですよね。
そして、相手の生命を奪うのであれば、報復させないためにも皆殺しにするという方法も、当時の状況からすれば理解できなくもないです。
このあたりは、次回(6日)の更新で明らかにしたいと思います。
黒田裕樹さん
風早 りら 比叡山延暦寺の信長の武力行使
非難されることも多いので
先生のように それまでの 経緯を
こうして 詳細に 分かりやすく
説明して下さる方がいらして嬉しいです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 比叡山延暦寺の信長の武力行使
> 非難されることも多いので
> 先生のように それまでの 経緯を
> こうして 詳細に 分かりやすく
> 説明して下さる方がいらして嬉しいです
有難うございます。
延暦寺の焼き討ちなどの信長の虐殺行為の真実については、次回(6日)の更新で改めて説明させていただきます。
私たちが気づいていない一つの「幸福」にも触れるつもりですのでご期待下さい!
楽市楽座
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は中学の時、
『なぜ、楽市楽座で、減税をしたら、経済力が大きく』なるのか、不思議でした。
というのも、普通の大名の発想なら、領民・商人に重い税金を取るほうが、税収があがると考えたからです。
ただ、黒田先生の講座を受けて、わかったのですが、減税をしても、人口が増えれば、税収が増えるのですね。
大阪のH市長が『平成の織田信長』として、
関西を経済特区にし、平成の楽市楽座を
関西に創ってくれるとイイですね。
というのも、今の日本は
◆ 世界一法人税が高い国。
◆ 消費税も上がる。
(生活必需品にも同率で)
ですから、今の日本の政府は、織田信長時代の宗教勢力を彷彿させます。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るような市長が実現するかどうかはともかく、景気回復の施策として信長ほど優れた教材はないでしょうね。
ただ、信長と同じように抵抗勢力の壁は厚いかもしれませんが…。
さて、信長による宗教勢力への反撃は、それまでの「神様や仏様に逆らえばバチが当たる」という考えを打ち破るものでもあったために、現代も含めて余計に他人から曲解(きょっかい)される傾向にあるようですが、私たちがさらに誤解していることがあります。実は、信長は宗教そのものを決して弾圧(だんあつ)していないのです。
現実問題として、信長は比叡山延暦寺の焼討ち後に天台宗(てんだいしゅう)の禁教令を出していませんし、また一向宗(いっこうしゅう)が1580年に石山本願寺(いしやまほんがんじ)を退去した後にも、今後の布教は自由であると認めています。要するに、信長が行ったのは武力や資金力によって巨大な権益を持っていたのみならず、我が国の政治に介入(かいにゅう)しようとした宗教勢力の解体だったのでした。
信長が宗教と政治とのかかわりを徹底的に否定したことによって、現代に生きる私たちは政教分離(せいきょうぶんり)が当然の世の中で暮らすことができるだけでなく、他国のような原理主義者による自爆テロリストも我が国には存在しません。私たちは信長から素晴らしい「贈り物」をプレゼントされているのかもしれませんね。




いつも有難うございます。
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風早 りら 「信長が行ったのは武力や資金力によって巨大な権益を持っていたのみならず、我が国の政治に介入しようとした宗教勢力の解体だったのでした」
「政教分離」
「信長から素晴らしい「贈り物」
私が常よりの考えです
大きな 拍手 先生に贈りたいです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「信長が行ったのは武力や資金力によって巨大な権益を持っていたのみならず、我が国の政治に介入しようとした宗教勢力の解体だったのでした」
> 「政教分離」
> 「信長から素晴らしい「贈り物」
> 私が常よりの考えです
> 大きな 拍手 先生に贈りたいです
お考えが一致したのは私もうれしい限りです。
信長の功績は計り知れないですね。
紗那 信長が宗教そのものを弾圧しなかった証拠に、キリスト教を受け入れているというのもあるのですよね。まぁ、貿易とかを狙ったとも思えるのですが
でも、思ってたよりも信長は寛容だったのですね!
紗那さんへ
黒田裕樹 > 信長が宗教そのものを弾圧しなかった証拠に、キリスト教を受け入れているというのもあるのですよね。まぁ、貿易とかを狙ったとも思えるのですが
仰るとおりですね。
キリスト教(=カトリック)は信長の生存中は我が国に対して牙をむくことがなかった、つまり政治に介入することがなかったので信長は認めていました。カトリックの野望が表沙汰になるのは秀吉の時代からです。
> でも、思ってたよりも信長は寛容だったのですね!
これも皆さんが誤解していることですね。ある事件が起きるまでは、信長は実は非常に寛容な武将だったんですよ。それが事件をきっかけに性格が変わり、さらにあることが引き金となって…おっと、先走ってはいけませんね(^^ゞ
mochimochi 現代の人も信長から学べることはたくさんあると思います。
当時の家臣達は彼から色々学んだのでしょうか?
それとも、信長が余りにも卓越してたために引いてしまったのでしょうか?
家臣の中で一番彼から学んだ人は誰ですか?
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 現代の人も信長から学べることはたくさんあると思います。
私もそう思います。
国民の安全を保障するとともに経済力を高める、そして我が国の平和に逆らう勢力は有無を言わさず処断する…。現代の政治家にも見習ってほしいですよね。
> 当時の家臣達は彼から色々学んだのでしょうか?
> それとも、信長が余りにも卓越してたために引いてしまったのでしょうか?
> 家臣の中で一番彼から学んだ人は誰ですか?
結果的に一番学んだのは秀吉で、信長と秀吉の両者から学んだのが家康といえるでしょう。
家康と信長との関係については講座の後半で紹介することになると思います。
ぴーち こんばんは!
本日、自分のPCが不調の為、娘の不慣れなPCを使用中にて、お返事が出来ずに申し訳ありません。
明日中に回復出来れば、良いのですが^^;
今日はこれにて失礼させていただきます。応援は済みです♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> 本日、自分のPCが不調の為、娘の不慣れなPCを使用中にて、お返事が出来ずに申し訳ありません。
> 明日中に回復出来れば、良いのですが^^;
> 今日はこれにて失礼させていただきます。応援は済みです♪
わざわざ有難うございます。
PCのご回復、私も祈っておりますm(_ _)m
オバrev 歴史を一断面で断定すると大きな誤解を招きますね。
一つの決断には、さらにそこに至る歴史があり、また時代背景があるんだということがよく分かります。
信長が政教分離できてなかったら、秀吉や家康でもできなかったんじゃないでしょうか。
それにしても、日本人離れした天才だと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 歴史を一断面で断定すると大きな誤解を招きますね。
> 一つの決断には、さらにそこに至る歴史があり、また時代背景があるんだということがよく分かります。
全くもってそのとおりです。
いつもの繰り返しになりますが、歴史を理解するには大きな流れでとらえることが不可欠ですからね。
どこかの政治家のような「どちらかが一方的に加害者だ!」という見方はあり得ないのです。
> 信長が政教分離できてなかったら、秀吉や家康でもできなかったんじゃないでしょうか。
> それにしても、日本人離れした天才だと思います。
天才の信長だからこそ成し得たことであり、秀吉や家康が独自にはできなかったでしょう。
そうなると、我が国と宗教とのかかわりがどう変化していったか分かりませんね。
後に同じような悩(なや)みを抱(かか)えることになった豊臣秀吉や徳川家康は、関白(かんぱく)や征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となることで朝廷の後ろ盾を利用しましたが、信長は既存の権威におもねることなく、破天荒(はてんこう、誰もが成し得なかったことをすること。「豪快で大胆な様子」という意味は間違いです)なことを思いつきました。
それは自分自身が「神」となって人々の信仰の対象となることで、既存の権威を打ち破ろうとしたことです。それまでの我が国では、菅原道真(すがわらのみちざね)のように死後に神として祀(まつ)られることはあっても、生前に「自らを神として祀れ」と宣言したのは信長が初めてでした。
「信長=神」という図式は、初めてお聞きの皆様には耳を疑う話かもしれませんが、実は間接的な証拠(しょうこ)があります。それは信長によって建てられた、前代未聞(ぜんだいみもん)の構造(こうぞう)で知られる安土城(あづちじょう)です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
信長=神宣言までしたのですか!(@@
へえーへえーへえーへえー・・・(ちょっと懐かしい事をいってしまいました^^;)
破天荒というイメージはありましたが、
そこまで大胆だったとは思いませんでした^^;
まあ、今の時代も宗教を笠に「自分は神」だと
平然と宣言している方もいらっしゃいますが
信長の時代は、斬新なアイディア?だったのかも知れませんね(汗)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 信長=神宣言までしたのですか!(@@
> へえーへえーへえーへえー・・・(ちょっと懐かしい事をいってしまいました^^;)
これはまた懐かしいですね(^^ゞ
20へぇーまでいくのは至難の業でしたが(笑)。
> 破天荒というイメージはありましたが、
> そこまで大胆だったとは思いませんでした^^;
> まあ、今の時代も宗教を笠に「自分は神」だと
> 平然と宣言している方もいらっしゃいますが
> 信長の時代は、斬新なアイディア?だったのかも知れませんね(汗)
自らの権威を高めるためにはやむを得ない手段だったと思われますが、どれにしても誰もが思いつかないことですからね。
次回(8日)でその証拠を探っていきたいと思います。
:黒田裕樹さん
風早 りら 信長ファンの私が 唯一 彼への不満は
自分を神格化しようとしたことです
安土城の天守閣に それを 示しているはずです
明日 楽しみにしています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長ファンの私が 唯一 彼への不満は
> 自分を神格化しようとしたことです
> 安土城の天守閣に それを 示しているはずです
> 明日 楽しみにしています
権威付けのためには仕方がなかったとはいえ、自らを神と称する手法には疑問や不満を感じるのは無理もないと思われます。
次回(8日)の更新でその目的や理由、そして効果を明らかにしたいですね。
歴史のif
青田です。 こんばんは
黒田先生
青田です。
信長=神
の図式は、知っていましたが、
信長が正親町天皇にたいして、軍事パレードをした後、
朝廷が信長への懐柔策として、安土城に使者を
送り、『関白、右大臣、征夷大将軍のどれでも
好きな官位を与える』という使者を信長は、追い返しましたが、
もし、信長が、全部の官職を得ていたとしたら、
どうなっていたでしょうね。
破天荒な信長なら、有り得た気がします。
そうなると、信長亡き後の織田信忠への政権交代も円滑だったし、
天皇を超える権威者にならなければ、明智光秀も
朝廷との交渉役として重宝され、本能寺の変もなかったように思います。
黒田先生は、どう思われますか?
青田さんへ
黒田裕樹 信長が朝廷の懐柔策に一切従わなかったのは、いずれの地位にしても「朝廷に選ばれた」という存在でしかなかったからだと思います。
自分が神であるということは、天皇ですら自分をコントロールできないということでもありました。正親町天皇の御前での軍事パレードは典型的なデモだったのでしょう。
おそらくは自分を「生き神」として崇拝させ、信忠はその子として存在させることで織田家の天下を維持しようという腹積もりだったと思われます。
そして、皇室を崇拝していたと思われる光秀にはそれが許せなかったのではないでしょうか。
安土城の天守閣(てんしゅかく)は、他の城とは違って「天主」と呼ばれていました。これは当時のキリスト教の別名であった「天主教」にもつながり、天主に存在する信長は神の生まれ変わりであると考えることもできます。
また、信長が完成した安土城に入城するのは1579年の旧暦5月11日ですが、この日は信長の誕生日であると考えられており(12日説もあります)、誕生日を祝して入城するという姿勢は、イエス=キリスト生誕の日であるクリスマス(12月25日)を祝う習慣ともつながっています。
さらに、安土城の上層(じょうそう)には釈迦如来(しゃかにょらい)の図が描かれていたと伝えられており、その上の「天主」に存在する信長こそが、あらゆる仏や神を超えるものとして信仰の対象にしたとも考えられているのです。




いつも有難うございます。
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サクラ 確か安土城内には寺院があって、そこに信長自身を祀らせたという話を聞いたことがあります。
何でも、信長の誕生日には地元民を参拝させたとか。
こういう信仰で、はたして信長に権威がついたものでしょうか?
むしろ新興宗教と同じですから、多くの人に嫌がられたのではないかと思いますが。
フロイスもキリスト教的立場から嫌悪感を示していますし。
ぴーち こんばんは!
安土城は、和洋折衷様式だったのですか。
神や仏を一緒くたに祭っていたのですね。
なるほど。。。
いっその事、どちらか一つに統一した
方が救われたかも知れません。
どうしても二大勢力同士、一つの城の中で対立、喧嘩の元になりますからね。
消失した原因の一因はそこにもあったのかも
知れませんね(^^A
応援凸
サクラさんへ
黒田裕樹 > 確か安土城内には寺院があって、そこに信長自身を祀らせたという話を聞いたことがあります。
> 何でも、信長の誕生日には地元民を参拝させたとか。
> こういう信仰で、はたして信長に権威がついたものでしょうか?
> むしろ新興宗教と同じですから、多くの人に嫌がられたのではないかと思いますが。
> フロイスもキリスト教的立場から嫌悪感を示していますし。
そうですね。今まで誰もが経験したことがないですから反発も強そうですが、「生き神様」のその後の流れを作ったという貢献は大きいですね。その恩恵(?)にあすかった人間がすぐに現れますし(笑)。
フロイスの場合は同じ「一神教」の立場として同類を認めることができなかったゆえに、過剰に反応した可能性があると思いますよ。
mochimochi ”自分を神として祭らせた”というエピソードは初めて知りました。
特殊な新興宗教ですね。
この方法以外無かったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 安土城は、和洋折衷様式だったのですか。
> 神や仏を一緒くたに祭っていたのですね。
> なるほど。。。
> いっその事、どちらか一つに統一した
> 方が救われたかも知れません。
> どうしても二大勢力同士、一つの城の中で対立、喧嘩の元になりますからね。
> 消失した原因の一因はそこにもあったのかも
> 知れませんね(^^A
そうですね。「神や仏を超える」という意味で安土城内に置いてあったのでしょうが、違う種類の御守を一緒くたにしたように、確かに喧嘩したのかもしれませんね(^^ゞ
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > ”自分を神として祭らせた”というエピソードは初めて知りました。
> 特殊な新興宗教ですね。
> この方法以外無かったのでしょうか?
既存の権威が当てにできない以上は、これ以外に方法がなかったのかもしれませんね。
もっとも彼が開拓者になったことで、この後すぐに「生き神様」が現れて、こちらは定着するようになるのが我が国らしいところだとも言えます。
黒田裕樹さん
風早 りら 「仏や神を超えるものとして信仰の対象 」
やはりこの部分に対しては
信長の考えに抵抗を感じざるをえません
ただ この発掘調査や復元図などでその全容が明ら
かになってきているなら 天守閣の復元を切に 望みます
そういった事に税金を使うことには
異論はありません
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「仏や神を超えるものとして信仰の対象」
> やはりこの部分に対しては
> 信長の考えに抵抗を感じざるをえません
一般の人間が嫌悪感を抱くのは無理もありません。
ただ、已むに已まれぬ事情も考慮出来るのも一つの考えだとは思います。
> ただ この発掘調査や復元図などでその全容が明ら
> かになってきているなら 天守閣の復元を切に 望みます
> そういった事に税金を使うことには
> 異論はありません
そうですよね。
一律に税金の無駄遣いと決めつけるのではなく、いわゆる「生き金」はどんどん使うべきでしょう。
安土城
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、安土に城を築くということにたいして
地理的な要衝に目をつけたことに驚きます。
京都まで、半日で行ける。
北陸道・山陰道・東海道に通じている。
どこを押さえるのがイイかを考える力では
信長は、天才ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、交通の要所である安土に目を付けた信長の発想は素晴らしいと思います。
しかし、安土には致命的な欠陥がありました。
それは「海に面していない」ということです。
将来、南蛮貿易などで利益を上げようと思えば海に面した城でなければ役に立ちません。
ではどこに城を築けばよいのでしょうか?
その答えは秀吉によって受け継がれていますね。
皆さんは、徳川家康が現在どこで眠っているかご存知でしょうか。もちろん栃木県日光市(とちぎけんにっこうし)にある日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)ですね。東照宮において家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)として祀られているのですが、これは、家康が死の直前に「自分を日光に権現として祀るように」と遺言(ゆいごん)したのがそもそもの由来(ゆらい)です。
つまり、東照大権現として祀られるのは家康自身の意思によるものなのです。しかも、権現とは神の化身(けしん、仮の姿という意味)という意味ですから、まさに家康を現人神(あらひとがみ)、すなわち「生き神様」として祀っていることになります。
信長が「自分を神として祀る」ことは確かに破天荒なことでしたが、これがきっかけとなって、家康が同じように「権現様」と祀られても何の違和感(いわかん)もなかったことが、信長の考えが結果として人々に受けいれられた間接的な証拠とはならないでしょうか。
ところで、既存の権威を超えるために「自らが神になる」と宣言した信長でしたが、絶対的な権力を持つ為政者(いせいしゃ、政治を実行する者のこと)が自らを神格化することは、同時に「自分が正しいと思うことは何でも正しい」という独裁的(どくさいてき)で危険な思想を持つことにもつながっていました。そして、その考えの末(すえ)に待っていたのが本能寺の変だったのです。




いつも有難うございます。
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mochimochi 信長のアイデアがベースになっていたのですね。
家康の神の化身のことも初耳です。
ただ、前にテレビで家康は死後も江戸を守るために江戸の方向を見る角度で葬られたと聞いたことあります。
その時は単純に”あぁ、すごいな”と思っただけでしたが。。。
信長の遺言ってどんな物だったのでしょう?
やっぱり日本の繁栄を願ったのでしょうかね?無念な死に方でしたけど。。。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 信長のアイデアがベースになっていたのですね。
> 家康の神の化身のことも初耳です。
> ただ、前にテレビで家康は死後も江戸を守るために江戸の方向を見る角度で葬られたと聞いたことあります。
> その時は単純に”あぁ、すごいな”と思っただけでしたが。。。
家康の考えは、実は深いところにあったんですね。生き神として江戸を見続けるという発想は、信長の考えを引き継がなければそう簡単には思いつかないことでしょう。
> 信長の遺言ってどんな物だったのでしょう?
> やっぱり日本の繁栄を願ったのでしょうかね?無念な死に方でしたけど。。。
史実によれば、光秀に襲われた際に「是非に及ばず」と言っているようですね。
様々な解釈がなされているようですが、一般的には「事ここに至ってはどうしようもない」という意味ではないかと考えられているようです。
ぴーち こんばんは!
現人神と言えば、昭和天皇も戦時中はそう崇められた一人でもありましたね。
しかし、独裁者というのは、いつの世もどの国にも出現するのですね^^;
応援凸
なおまゆ こちらでもブログをしてらしたんですね。
seesaaで読ませてもらってましたが、私もこちらに引っ越して参りました。あひるの代理人です。
こちらでは少し違ったアプローチで歴史を見ようと思ってます。
相変わらず冴えた視点と文章で嬉しくなります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 現人神と言えば、昭和天皇も戦時中はそう崇められた一人でもありましたね。
> しかし、独裁者というのは、いつの世もどの国にも出現するのですね^^;
仰るとおりで、独裁者というのはいつの世にも存在します。21世紀の東アジアの島国にも「38人」いるかもしれませんが(^^ゞ
昭和天皇については祭り上げられたことが果たして本当に良かったのか、見解が分かれるところですね。
私の講座でも検討してみたいです。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > こちらでもブログをしてらしたんですね。
> seesaaで読ませてもらってましたが、私もこちらに引っ越して参りました。あひるの代理人です。
> こちらでは少し違ったアプローチで歴史を見ようと思ってます。
> 相変わらず冴えた視点と文章で嬉しくなります。
お久しぶりです。同じFC2同士で、今まで以上にブログ上での交流ができることを嬉しく思います。
なおまゆさんの歴史観も、大いに参考にさせていただきたいですね。
黒田先生
風早 りら 「 東照大権現として祀られる家康 」
やはり それには 抵抗があります
いよいよ 「 本能寺の変 」
信長が 「 是非に及ばず 」
と言ったのは 真実か 知りたいです
最後 能を舞ったとかも言われてますが
詳しく 是非 最後の 話 お聞きしたいです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「 東照大権現として祀られる家康 」
> やはり それには 抵抗があります
> いよいよ 「 本能寺の変 」
> 信長が 「 是非に及ばず 」
> と言ったのは 真実か 知りたいです
> 最後 能を舞ったとかも言われてますが
> 詳しく 是非 最後の 話 お聞きしたいです
残念ながら、今回は本能寺の変そのものを紹介することはないんですよ。
申し訳ないです。
ただ、本能寺の変に至るいきさつは非常に重要だと思いますので、ぜひご覧いただければと思います。
家康の権現様は、天下を取った分長く続いて、しっかり定着してしまっていますね。
しかし、妹の婿で絶対的な信頼を寄せていたはずの浅井長政の裏切りにあってからは、信長の人格が大きく変化していったと考えられるのです。例えば、浅井長政を滅ぼした後に、父の浅井久政(あざいひさまさ)や朝倉義景(あさくらよしかげ)とともにそのドクロを漆塗(うるしぬ)りにして金粉(きんぷん)をまぶした薄濃(はくだみ)にして、それらを肴(さかな)に酒を飲んだ、という記録が残っています。
先述の比叡山延暦寺の焼討ちや一向一揆に対する皆殺しも、結果的には仕方がなかったとはいえ、信長の「敵に対しては容赦(ようしゃ)なく牙(きば)をむく」考えの延長線上にあったことは否定できないでしょう。
こうした信長の姿勢は、自らを神としただけでなく、天下統一が近づいて自分に正面切って敵対する人間が少なくなった1570年代の後半からより顕著(けんちょ)に、そしてよりエスカレートしていきました。古今東西(ここんとうざい)の絶対的な権力者の誰しもが陥(おちい)りがちな「独裁者の罠(わな)」に、信長もはまってしまったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
若い頃の信長の性格の話は
当然の如く、初めて伺いました。
若い頃は人を疑うことを知らずに
正義感の強い真っ直ぐな性格だったのですね。
信頼していた者からの裏切りで
人を信頼できなくなってしまったのですね。
「可愛さ余って、憎さ百倍」
余りに純粋過ぎたり、感受性が強すぎたり
する性格は、正常な人間関係が築かれている
うちはよいでしょうけれど、何かの拍子に
捻じ曲げられた時は、その勢いも
きっと凄まじいエネルギーで相手を攻撃する刃と化すのでしょうね。
良くはわかりませんが、確かに世の独裁者と呼ばれている人たちの
性格は何処か頑なであり、ストイックでも
あるように感じます。何かの恨みを晴らすかの様にも感じます。
応援凸
黒田先生
風早 りら 「 妹の婿で絶対的な信頼を寄せていたはずの浅井長政の裏切りにあってから 」
人は自分の信用した人からの裏切りは
悲しいものです
それが 憎しみへとなり
その後誰のことも信用出来なくなったのでしょう
残念です
ぴーちさんへ
黒田裕樹 信長は天才であるがゆえに、感受性も人一倍強かったのでしょうね。
だからこそ「信じていた者に対する裏切り」に対するショックは大きく、仰るとおり凄まじいエネルギーと化したと思われます。
このあたり、確かに世の独裁者と同じ匂いがしますね。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「 妹の婿で絶対的な信頼を寄せていたはずの浅井長政の裏切りにあってから 」
> 人は自分の信用した人からの裏切りは
> 悲しいものです
> それが 憎しみへとなり
> その後誰のことも信用出来なくなったのでしょう
> 残念です
確かに仰るとおりですね。
裏切りはいつの世も悲しいものです。
だからこそ、人間は信頼に応えなくてはなりません。
松永久秀
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、織田信長の家臣の甘さとして、
驚くべきことは、松永久秀にたいする、扱いです。
松永久秀は、3度信長を裏切り、3度目も
織田信長は
『平蜘蛛』の茶釜を差し出せば、命を助けると
まで言いました。(結局、久秀は、茶釜を砕いて、爆死しましたが)
松永久秀と言えば
◆ 足利義輝を殺害する。
◆ 奈良の大仏を焼き払う。
などの、当時の倫理観からしても、かなり、
ヤバイ人物です。織田信長は
そういう過去のある松永久秀を家臣にし、しかも
裏切りも許しています。
これは、私の想像ですが、織田信長は、心の底では、人を信じたかったのではないでしょうか。
だからこそ、明智光秀が、まさか、裏切るとは
思わず、自分の遊軍として、手元に置いていたと
思います。
(やはり、毛利元就と比べると、人間にたいして、甘いですね。)
青田さんへ
黒田裕樹 松永久秀の場合は、信長の優しさとともに天下に名高い茶器を求めたという背景がありそうですね。
いずれにせよ、青田さんには何度も同じことの繰り返しになりますが、信長の甘さだと思います。
その中の一人に、重臣の明智光秀がいました。皇室などの旧来の権威や秩序を重視していたとされる光秀にとっては、自らが神となる信長の姿勢やその独善的な態度に、心の中で次第に反感が高まっていました。
そして、そんな光秀の不満が一気に爆発する日がやってきました。きっかけとなったのは信長による四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)攻めでした。信長は元親と当初は同盟を結んでいたのですが、元親が四国統一を実現しようとすると次第に反目(はんもく)するようになり、1582年には信長の子の織田信孝(おだのぶたか)に元親を滅ぼすべく出陣させようとしました。
しかし、信長と元親との間を取り持ったのは他ならぬ光秀であり、しかも光秀の家臣の義理の妹が元親に嫁(とつ)いで、その間に跡継(あとつ)ぎの信親(のぶちか)が生まれていました。こうした背景もあって、信長の四国攻めによって立場を失った光秀は絶望し、それまで自分の心に抱えていた爆弾(ばくだん)に火がついて、信長を本能寺の変で滅ぼしたのです。時に1582年旧暦6月1日の深夜であり、信長は波乱に満ちた49歳の生涯を閉じたのでした。




いつも有難うございます。
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mochimochi 本当に人間の思惑って複雑ですね~。
改めた考えさせられます。。。
話は変わりますが、このサイトはとても勉強になります。
ありがとうございます。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 本当に人間の思惑って複雑ですね~。
> 改めた考えさせられます。。。
そうですよね。いろんな人間の思惑が重なりあうところに社会が存在し、思惑によって人間の一生が左右されてしまう…。考えてみれば恐ろしくもありますね。
> 話は変わりますが、このサイトはとても勉強になります。
> ありがとうございます。
こちらこそ、お褒めのお言葉有難うございます。
これからもぜひご覧下さい。
黒田裕樹さん
風早 りら 佐久間信盛や林通勝を突然追放した件は
私も納得がいきません
この頃から 信長は かなり変わっていったと思います
誰のことも 信じることが 出来ず
可愛そうな気さえします
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 佐久間信盛や林通勝を突然追放した件は
> 私も納得がいきません
> この頃から 信長は かなり変わっていったと思います
> 誰のことも 信じることが 出来ず
> 可愛そうな気さえします
「独裁者ほど孤独な人間はいない」とよく言われますが、信長もその一人だったのでしょうね。
裏切られた無念がやがて人間不信となり、誰も信じられなくなっていく。
権威を高めるために自らを神格化したことが、彼の孤独に拍車をかけてしまったのでしょう。
確かに哀れではあります。
ぴーち こんばんは!
残らず殺害する・・
そういう手法は、イランのフセイン政権やら、
中国なども日本では覚せい剤所持くらいの違法では数年刑期を終えたら、出所出来てしまうものを、中国では死刑に処されてしまう程、厳しいもがあるので、日本よりも中国のほうが国民感情は
爆発すれば規模が大きいように思います。
(ましてや、人口も多いですし)
独裁政治特有の末路を信長も辿ってしまったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 残らず殺害する・・
> そういう手法は、イラクのフセイン政権やら、
> 中国なども日本では覚せい剤所持くらいの違法では数年刑期を終えたら、出所出来てしまうものを、中国では死刑に処されてしまう程、厳しいもがあるので、日本よりも中国のほうが国民感情は
> 爆発すれば規模が大きいように思います。
> (ましてや、人口も多いですし)
> 独裁政治特有の末路を信長も辿ってしまったのですね。
そうですね。無理が通れば道理が引っ込む。
残らず殺害するという無茶を繰り返すという独裁者特有の感情が、彼の人生の幕を引いてしまったとも考えられます。
もっとも、これは世界各国の独裁者に共通して言えることですね。
現代の我が国に独裁者はいるのでしょうか…。
バテレン?
日の本の子 いつもご教授ありがとうございます。
質問ですが、光秀が焼き打ちするのにバテレンが
加担していたという話を何かで読んだんですが如何でしょうか?当時、焼け跡に骨も残らないのは焼夷弾が
使用されたとありました。この頃から信長にも日本侵略を企む手が伸びていたのでしょうか?
日の本の子さんへ
黒田裕樹 > いつもご教授ありがとうございます。
> 質問ですが、光秀が焼き打ちするのにバテレンが
> 加担していたという話を何かで読んだんですが如何でしょうか?当時、焼け跡に骨も残らないのは焼夷弾が
> 使用されたとありました。この頃から信長にも日本侵略を企む手が伸びていたのでしょうか?
こちらこそ、いつもご訪問下さって有難うございます。
本能寺の変には様々な説があり、仰るようなカトリックの宣教師がからんでいたというのもありますね。
ただ、私は以前の歴史講座(第4回)でも取り上げたように、光秀の単独行為と考えております。
焼け跡に骨も残らなかった理由については、本能寺の地下には火薬庫があり、信長がそこに火をつけたために木っ端みじんになってしまったのではないかという説があります。鉄砲伝来の際に中継者となった種子島氏と本能寺には法華宗という共通事項があり、そこからのつながりではないかと考えられています。
食うか食われるかの厳しい世の中では、逆らってくる者に対して皆殺しなどの容赦ない攻撃を加えることは、ある意味仕方がないことでした。しかし、武力で相手を屈服(くっぷく)させたり、大胆な政策で庶民の支持を集めたりすることはできても、皇室や朝廷などの旧来の権威を超えることは容易ではありませんでした。
考え抜いた信長は、自らを神として祀る環境をつくって従来の権威を超えようとしましたが、それは同時に独裁者にありがちな 「自分がシロと口にすれば、どんなものでもシロになる」という危険な思想も伴(ともな)っていました。そして、こうした矛盾(むじゅん)が大きな形で爆発したのが、光秀による本能寺の変だったのです。
もし本能寺の変が起こらなかったら、信長はこの国をどう導(みちび)いていったのでしょうか。すべての謎(なぞ)を一気に消し去った光秀の天下はわずか10日余りで姿を消し、秀吉から家康へと世の中は移っていきましたが、信長の「歴史の転換者」としての完成した姿を想像することは、現代の私たちにとっても興味深い歴史ロマンと言えるでしょう。
(第19回歴史講座の記事はこれで終了ですが、次回[11月13日]に補足の記事を更新します。)




いつも有難うございます。
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佐佐木あつし 信長という存在は
作家から見ても過去に多くの作品が生まれているように、とても大きな存在です。
なぜああいった先見性や独自性があったのか?
駆け抜けて行ったあの人生は何だったのか?
先生のおっしゃるようにもし、本能寺がなければ・・
国が乱れるときほど
ああいった個性が生まれるのかもしれませんが
興味の尽きない人物なのは
確かです。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 信長という存在は
> 作家から見ても過去に多くの作品が生まれているように、とても大きな存在です。
これまでに数えきれないほどの作家が物語などに書いてきましたが、その勢いは永遠に衰える気配を見せないところは、先生の仰るとおりですよね。
> なぜああいった先見性や独自性があったのか?
> 駆け抜けて行ったあの人生は何だったのか?
> 先生のおっしゃるようにもし、本能寺がなければ・・
そこなんですよね。
本能寺の変がなかった場合の我が国が果たしてどのような変化をとげたのか、全く見当もつきません。
彼の先見性や独自性を考えれば、諸外国へ乗り出して行った可能性が高いのではないかと思いますが…。
> 国が乱れるときほど
> ああいった個性が生まれるのかもしれませんが
> 興味の尽きない人物なのは
> 確かです。
現代もだんだん乱世のような匂いがしてきましたが、果たして「21世紀の信長」は存在するのでしょうか?
興味が尽きない分、ぜひ現れてほしいものです。
ぴーち こんばんは!
確かに信長に限らず
坂本龍馬があんな形で暗殺されなかったら・
とか、これまでの日本の歴史の中で
志半ばにして命を奪われてしまった人物に対してそれぞれのその後を色々と模索してしまうというのは、ありますよね。
信長の場合はどうだったのでしょうか。。
遅かれ早かれ結果的に、ヒトラーや、フセインの様に
結局は独裁者の末路は自殺に追い込まれたり暗殺及び、抹殺されてしまう運命にあったのでしょうかね・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに信長に限らず
> 坂本龍馬があんな形で暗殺されなかったら・
> とか、これまでの日本の歴史の中で
> 志半ばにして命を奪われてしまった人物に対してそれぞれのその後を色々と模索してしまうというのは、ありますよね。
「歴史にifは禁物だ」という意見もありますが、今後の我が国の行く末を探るためにも、もしも龍馬や信長が生きていたらと想像することは決して悪いことではないと考えております。
特にこの二人は強く思いますね。
> 信長の場合はどうだったのでしょうか。。
> 遅かれ早かれ結果的に、ヒトラーや、フセインの様に
> 結局は独裁者の末路は自殺に追い込まれたり暗殺及び、抹殺されてしまう運命にあったのでしょうかね・・
そこなんですよね。
当時の信長には侍女の皆殺しなど、恐怖政治の一面がありましたが、日本人は伝統的にこうした政治手法、ましてや独裁者を嫌う傾向がありますからね。
現代でも「健忘」の人物あたりがそうなりつつあるようですが…。
なおまゆ いつも興味深く拝見しています。
織田信長は、先見性があったのでしょうか?
彼が意識的に時代を先取りしていたようには見えません。結果的にそう評価されたのが実情のように思っています。(だから天才なんでしょうね)
本能寺の変は、残念な事件でした。
彼がもう2年生きていれば日本は統一されていたと思います。
おそらく、天皇は消滅し、一時的に織田皇帝が誕生したかもしれません。
ただ、部下に背かれ命をおとす可能性は大きかったと思います。豊臣秀吉あたりが謀反をしたかもしれませんね。
本能寺の変は、明智光秀が実行したのでしょうか?
私は、光秀は信長の意向を最もよく理解、実行した武将とみています。変当日も信長の親衛隊として上洛し、護衛したものと思っています。
実行犯は部下の中に潜んでいたと考えています。
尤も人の数だけ原因があるといわれる事件ですから、そこを考えるのもロマンかなと思います。
歴史を転換し損ねた「未完の皇帝」にもう一度、できれば現代で完成した姿を見せて欲しい。
先生のブログを読み、そんなことを思いました。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > いつも興味深く拝見しています。
有難うございます。
> 織田信長は、先見性があったのでしょうか?
> 彼が意識的に時代を先取りしていたようには見えません。結果的にそう評価されたのが実情のように思っています。(だから天才なんでしょうね)
なるほど、天才であるがゆえに結果としてそうなったというわけですね。確かにそういった面もありそうです。
> 本能寺の変は、残念な事件でした。
> 彼がもう2年生きていれば日本は統一されていたと思います。
> おそらく、天皇は消滅し、一時的に織田皇帝が誕生したかもしれません。
> ただ、部下に背かれ命をおとす可能性は大きかったと思います。豊臣秀吉あたりが謀反をしたかもしれませんね。
馬揃えの件もありましたし、自らが神になるという発想は、最終的にはもう一人の「現人神」の消滅を目指すことにもつながりますから、皇室の否定も、また配下の謀反も可能性はありそうですね。
> 本能寺の変は、明智光秀が実行したのでしょうか?
> 私は、光秀は信長の意向を最もよく理解、実行した武将とみています。変当日も信長の親衛隊として上洛し、護衛したものと思っています。
> 実行犯は部下の中に潜んでいたと考えています。
> 尤も人の数だけ原因があるといわれる事件ですから、そこを考えるのもロマンかなと思います。
なおまゆさんが以前から仰っておられるご見解ですね。
様々な説を考えるのは、確かに歴史の大きなロマンだと私も思います。
> 歴史を転換し損ねた「未完の皇帝」にもう一度、できれば現代で完成した姿を見せて欲しい。
> 先生のブログを読み、そんなことを思いました。
乱世ともいえる現代は、一度信長のような「革命児」が現れた方がいいのかもしれませんね。
そのうえで完成された姿を見出せれば、この国はどの方向へと進むのでしょうか…。
:黒田裕樹さん
風早 りら 信長が殺害されず
生存していて 天下を 統一したら
彼は自分を神格化することを
止めたと思います
利口な彼は 恐怖政治は長くは 続かない
ことにの 気がついたと思います
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長が殺害されず
> 生存していて 天下を 統一したら
> 彼は自分を神格化することを
> 止めたと思います
> 利口な彼は 恐怖政治は長くは 続かない
> ことに 気がついたと思います
最終的に天下を統一した家康は、自分のような独裁政治では徳川家が長続きしないことに気がついて、跡継ぎにわざと凡庸な秀忠を選んで、話し合いの政治に持っていくことで江戸幕府を260年間も保つことに成功しましたね。
家康は、おそらく信長や秀吉の末路を間近で見て気づいたと思うのですが、信長であれば、仰るとおり統一後に自ら気が付いた可能性もあると私も思います。
オバrev 信長についての歴史講座、大変興味深く拝見させて頂きました。
しかし講座が終わった今でも謎は多いですね。もっと深く知りたいと思いましたが、歴史ってのは残っている資料から推測するしかない所があってなかなか全容解明は難しいですよね。
でももし信長が本能寺の変を切り抜けていたら、やはり人間ですから傲慢になって、人心が逃げていって結局長期政権にはならなかったような気がします・・・というのは私のような凡人が考えることで、そういう凡人の考えの及ばないことをやっていたかもしれません(^^;)
それにしても、歴史上の有名な人物ってのは、我々の世代から見るとそれぞれに凄いことをやっているし、その考え方も現代に通ずるものがあると思います。
今後の講座も楽しみにしています♪
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 信長についての歴史講座、大変興味深く拝見させて頂きました。
> しかし講座が終わった今でも謎は多いですね。もっと深く知りたいと思いましたが、歴史ってのは残っている資料から推測するしかない所があってなかなか全容解明は難しいですよね。
そうですね。物語の世界では大胆な構想を練ることも可能ですが、史実に沿った内容を目指すとなると、どうしてもわからないところが増えてしまいがちです。
> でももし信長が本能寺の変を切り抜けていたら、やはり人間ですから傲慢になって、人心が逃げていって結局長期政権にはならなかったような気がします・・・というのは私のような凡人が考えることで、そういう凡人の考えの及ばないことをやっていたかもしれません(^^;)
正直私にも見当がつきません(^^ゞ
通常なら独裁者の末路として片づけられそうですが、普通では考えられないような発想を持つ信長ですから、ひょっとすると上手に切り抜けた可能性もありますし。
> それにしても、歴史上の有名な人物ってのは、我々の世代から見るとそれぞれに凄いことをやっているし、その考え方も現代に通ずるものがあると思います。
> 今後の講座も楽しみにしています♪
有難うございます。
歴史は私たちにとって最高の「生きた教科書」ですから、大いに参考にしたいものですね。