「日本は1931(昭和6)年の満州事変以来、足掛け15年にも及ぶ長い戦争状態となり、アジア太平洋地域全体を侵略し、世界中の人々に多大な迷惑をかけた。これを『十五年戦争』と呼び、また1941(昭和16)年からアメリカなどを相手に仕掛けた戦争を『太平洋戦争』、または『アジア太平洋戦争』と呼んでいる」。
これは、いわゆる「太平洋戦争」に関する記載ですが、そもそも我が国は当時の戦争を「大東亜戦争」と命名していました。ところが、戦後にGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)によって使用が禁止され、以後は太平洋戦争と呼ばざるを得なくなったのが真相です。
いずれにせよ、大東亜戦争または太平洋戦争は、本当に教科書どおりの「日本による一方的な侵略戦争」だったのでしょうか。この謎を解くためには、単に戦争前後のみならず、少なくとも明治時代にまでさかのぼらなければ、真実の姿を見出すことはできません。
折しも、今年(平成27年=2015年)は、終戦から70周年にあたります。当講座では、今回から4回に分けて、大東亜戦争の全体像を探っていきたいと思います。
ところで、歴史の真実を探究するには、特定の重要な事象に関して後世の人間が勝手に名称を改めるというようなことをするべきではありません。名は体を表すと言います。「大東亜戦争」という呼び名で戦った戦争の意味は、その名でしか浮かび上がらせる事はできません。従いまして、当講座では「大東亜戦争」という呼称で統一します。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
以前にも黒田さんのブログで
この大東亜戦争についての記述がございましたが
私は初めて、この戦争がアメリカから仕掛けられた
戦争だと知り驚きました。
それ以前は、それまでの世界との戦いの中で
勝利し列強だと傲慢になっていた
日本が勝手に仕掛けて起こした戦争だと思っていました。
ここにもアメリカ側のプロパガンダが存在していたのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、アメリカを含む連合国全体によるプロパガンダですね。
いわれなき誹謗中傷を打ち破るためにも、日本人自身の手で真実を見出さねばなりません。
懲りない面々
青田です。 黒田先生
青田です。
アメリカ・中国は、国際法を知らない。
ロシアは、国際法を知っていて、破る。
フランスは、戦争に負け続けるが、なぜか、いつも最後は、戦勝国の大国になる。
本当に懲りない面々です。
やはり、一番、まともなのがイギリスのような気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 イギリスは騎士道がありましたからね。
白人国家の気質は他国と五十歩百歩ですが、この違いは大きいです。
やはり、立憲君主制が良かった気がします
青田です。 黒田先生
青田です。
イギリスは、立憲君主制の民主主義でした。
つまり、伝統的なイイモノは、残し、それに
新しいモノを組み合わせるハイブリッドな民主主義です。日本もハイブリッド化した民主主義ですが、
それにたいして、
〇 ソ連は、共産主義による恐怖政治。
〇 フランスは、王政→共和政→帝政をひたすら繰り返します。
〇 アメリカは、自分勝手な民主主義。
〇 中国の歴史は
① 新王朝の成立。
② 功臣の粛清。
③ 対外侵略戦争。
④ 漢字の改変と歴史の捏造。
⑤ 閨閥、宦官、官僚など官僚の権力の増大。
⑥ 秘密結社の乱立と農民の反乱の全国化。
⑦ 地方軍閥の中央侵入。
①に戻る。
中国の歴史は、この繰り返しです。
そう考えると、立憲君主制は、一番、安定した民主主義を築けると思います。
青田さんへ その2
黒田裕樹 立憲君主制が、現在のところ一番良い制度であることを、はからずも歴史が証明しているようですね。
これは、外国を征するのに別の外国を利用するという「以夷制夷(いいせいい)」と呼ばれた、中国の伝統的発想に基づくものでありましたが、領土の返還を受けて喜んだのもつかの間、日清戦争の敗北で「眠れる獅子」のメッキがはがれた清は、欧米列強から成功報酬ともいうべき「落とし前」をきっちりと付けさせられることになってしまいました。
例えば、ドイツは膠州(こうしゅう)湾を清から租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りること)したほか、山東省内の鉄道敷設(ふせつ)権を獲得し、イギリスは九龍(きゅうりゅう)半島や威海衛(いかいえい)を租借し、さらにフランスが広州(こうしゅう)湾の租借権と付近の鉄道敷設権を得るなど、欧米列強が清を「生体解剖」するかのように支配権を強めていった当時の流れは、今日では「中国分割」と呼ばれています。
このようにして、列強によって着実に進められていった中国分割でしたが、この流れに出遅れてしまったのがアメリカでした。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
考えてみれば、中国もこうした屈辱を味わったが為に、急速に経済成長を成し遂げる必要に駆られた訳ですね。
けれど、急いては事を仕損じるではありませんが、
駆け上がった階段の足下から、見る間にガタガタと
踏みしめたはずの階段の崩壊が始まって居るのようにみえるのは私だけでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 現代の中華人民共和国の発展ぶりはめざましいですが、仰るような一面も否定できないのも事実ですよね。
急発展は何がしかの犠牲をもたらすともいえます。
このため、アメリカは1899(明治32)年に、国務長官のジョン=ヘイが「門戸開放・機会均等」を列強に通告しました。国務長官の宣言の背景には、中国分割に関して「自国の分も残してほしい」というアメリカの本音がうかがえます。
アメリカの思惑をよそに、清の生体解剖は着々と進んでいきましたが、もっとも露骨に動いたのは、我が国と国境を接するロシアでした。ロシアは1896(明治29)年に清と対日軍事同盟を結び、シベリア鉄道を清の領土を挟(はさ)むように延長して、ウラジオストックへ至る東清(とうしん)鉄道の敷設権を得ました。
また、ロシアは清が我が国から返還を受けた遼東半島の旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)の港をも租借しましたが、これはロシアが間接的に我が国の領土を奪ったことを意味していました。さらにロシアは、東清鉄道から大連湾までの鉄道敷設権をも獲得しましたが、これらによって、ロシアが鉄道開通後に自国と満州や遼東半島とを自由自在に通行できるようになることから、結果的に満州や遼東半島全体がロシアの支配を受けることを意味していました。
こうしたロシアの圧迫に悩まされた我が国は、明治37(1904)年に日露戦争を戦い、苦難の末に勝利をつかむことができたのですが、このことが、皮肉にも我が国とアメリカの関係の悪化をもたらすことになってしまったのです。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
ロシアの様に確かに広い国土を有する事は
自国にとっては良いことなのでしょうけれど、
私達が住む持ち家などもそうですが、余りにも大きな家を購入した事で、その後の維持費に手間取り
それだけに見合う様な収入も維持していかなければなりませんので、大変だと思います。
なんでも身の丈に合った広さだけ保有できれば良いのでは無いかと存じます。
結局は管理不足になり疎かになれば、他国にも迷惑を掛けることにもなることでしょうし。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考えは、おそらくは平均的な日本人の思想そのものだと拝察します。
ところが、他国を侵略することが当然の国家からすると、膨張主義が国是になってしまうんですよね…。
しかし、我が国が日露戦争に勝利したという事実は、アメリカをして我が国に警戒感を植え付けせしむ結果をもたらしました。なぜなら、アメリカが東アジアにおける権益を得るためには、ロシアに勝つまでに強国となった日本の存在が目障りになるからです。
もっとも、アメリカ自身も当初は平和的な妥協の道を探っていました。我が国がポーツマス条約で得た長春(ちょうしゅん)以南のいわゆる南満州鉄道(=満鉄)に対して、アメリカの鉄道王のハリマンが、明治38(1905)年に我が国との共同経営を呼びかけたのです。
ハリマンの申し出は、いわば「満州の権益の一部をこちらにもよこせ」というアメリカの意思でもありました。これに対し、元老の井上馨(いのうえかおる)や伊藤博文(いとうひろぶみ)、あるいは首相の桂太郎(かつらたろう)らは、日米関係の安定を重視して共同経営に賛同しようとしました。
ところが、当時の外務大臣で、ポーツマス条約の全権大使でもあった小村寿太郎(こむらじゅたろう)が猛反対したことで、我が国はハリマンの申し出を断ったのです。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
日本がアメリカに先制攻撃を仕掛けたという
思いを抱かせた小さな芽はもしかしたら今日の
お話が発端だったのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本がアメリカに先制攻撃を仕掛けたという
> 思いを抱かせた小さな芽はもしかしたら今日の
> お話が発端だったのでしょうかね?
直接のきっかけではないですが、アメリカにとって不満が高まったことは間違いないですね。
その後の歴史を見ると…。
しかし、満州での権益を得られなかったアメリカは、この件を境に我が国への態度を硬化させ、翌1906(明治39)年にはサンフランシスコで日本人学童排斥(はいせき)事件が起きるなど、日本からの移民に対して厳しい政策を行うようになりました。
我が国に対して敵意を持つようになったアメリカは、この頃から日本を仮想敵国とみなし、やがては「オレンジ計画」という名の戦争計画を立案するようになるのです。
果たして我が国はハリマンの申し出を受けいれるべきだったのでしょうか。少なくとも、いわゆる「ハリマン問題」によって一度こじれた日米関係が、その後も好転することがなかったことだけは間違いありません。
また、単なる日米両国間の関係のみならず、この後の世界における日米の立場も微妙に変化していったのも事実であり、そのきっかけとなったのが「第一次世界大戦」でした。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですね。。
それでも
いづれ
遅かれ早かれアメリカがこういう傲慢な
態度を改めなければ
日本との対立は避けられなかった事だと
思います。
例えば、ある男が気の優しい友人に借金を願い出て
貸してくれるだろうとある程度踏んでいたものの、
思わぬ誤算から断られたとして、それを恨みに
その友人を脅したり、襲撃したりしたら、それは立派な犯罪行為になると同じように、
その時のアメリカの考え方、態度は
間違っていたと思います。
そもそも、自国が乗り遅れてしまった事に対して
なんの反省もせずに、後から
横取りする様な邪さ。
更に自分の至らなさを認めず、今度は他国に
責任をなすりつけるなど、言語道断!気に入らないですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考えは、日本人として至極当然のことです。
ところが、それに比べて世界は余りにも「腹黒い」んですよ。ただ、私自身もここでアメリカに「アメ」をしゃぶらせることが正しかったかどうかは分かりませんが。
いずれにせよ、我が国の命運がどこでどんな分かれ道になるのか、見極めるのは至難の技ですね。
万里ママ 譲るか断るか、難しい決断ですね・・・。
ただ、これによってアメリカがグッと
態度を硬化させた事は間違いないと思います。
外交の大変さ、譲歩すべきかどうかの
難しさを、改めて考えてしまいます。
このように、第一次世界大戦までには、
色々な伏線があったのですね。
万里ママさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、非常に難しい決断だったと思います。
ハリマン問題は結果として日米関係をこじれさせましたが、もし受けいれていれば安定していたかといえば、それも分かりませんからね。
明治時代ですら難しい外交は、大正期にさらに複雑になっていきます。
日英同盟の範囲がインドまでと定められていたこともあって、当初は参戦をためらった我が国でしたが、イギリスからの再三の要請を受けた末に、ようやく大正3年8月に、ドイツに対して宣戦布告しました。
中国大陸の山東半島に出兵した我が国は、ドイツが租借していた膠州(こうしゅう)湾の青島(チンタオ)を占領したほか、太平洋へと逃れたドイツの東洋艦隊を追撃して、ドイツ領だった南洋諸島も占領しました。また、我が国は海軍を地中海やインド洋・太平洋など各地へ派遣して、連合国の商船や輸送船の護衛などを担当しましたが、ヨーロッパ戦線に陸軍を派遣することはなく、どちらかと言えば限定的な参戦に留まりました。
一方、第一次世界大戦を欧州各国との友好関係の構築の好機と見たアメリカは、1917(大正6)年に参戦し、ヨーロッパ各地を転戦して多くの犠牲者を出しながらも、連合国側に最終的に勝利をもたらすことに成功しました。
この結果、イギリスなどの連合国と、参戦に消極的な(と見られた)我が国と積極的に貢献したアメリカとの関係が、第一次世界大戦を通じて明らかに変化したほか、ヨーロッパにおけるアメリカの発言権が大きくなりました。そして、このことが結果として我が国に不幸をもたらすことになるのです。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
狩猟民族の血が騒ぐのでしょうか。
アメリカという国は、戦う事に対しては
何処かしら積極性を感じます。
けれど
今回のお話は、それに加え
明らかに日本を出し抜こうという意図が
見えますね。
日本の欠点を見出して、上手く突いてくる所は
天才的だなと思います。
現在でも金で解決するのではなく、人を
駆り出させようと日本をセッセと突いて居る事は
今も昔も変わらない体質なんですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
まさに「敵ながらあっぱれ」。見習うところは見習うべきです。
正規の戦争において獲得した権益の返還を求められたのであれば、相手国に対しその代償を求めるのは当然の権利です。かくして、我が国は大正4(1915)年1月に、袁世凱政府に対して、中国における満州や内蒙古(ないもうこ)などの、日本の権益の強化と保全を目的とした内容の文書を提出しましたが、これが後に「二十一箇条の要求」と呼ばれるようになりました。
提案した主な内容は、山東省におけるドイツの権益を日本が継承すること、南満州や東部内蒙古における日本の優越権の承認、旅順・大連および南満州鉄道の租借期間の延長、日中合弁事業の推進などでした。
中国との交渉は難航の末に、我が国が最後通牒(さいごつうちょう)を出したこともあり、同年5月に提案の大部分を中国に承諾させましたが、これら一連の動きが諸外国にねじ曲げられて伝えられたことが、我が国の立場を後々まで悪化させる原因となってしまったのです。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
その「捻じ曲げた」原因の中に
アメリカの陰謀が隠されていたという結末なのでしょうか・・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > その「捻じ曲げた」原因の中に
> アメリカの陰謀が隠されていたという結末なのでしょうか・・(^_^;)
この回答は次回の更新までお待ちください。
いずれにせよ、唖然とする話です。
しかし、少しでも我が国からの干渉を逃れたいと思った袁世凱は、極秘のはずだった提案内容を外部へ漏(も)らしたほか、我が国からの提案を「要求」と捏造(ねつぞう)して、我が国の「不当」を喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)しました。
この動きに対して中国世論は敏感に反応し、袁世凱が「要求」を受けいれた5月9日を「国恥(こくち)記念日」としたほか、以後の排日運動の活発化をもたらしてしまいました。
しかも、こうした中国の「捏造」による悪影響が、日中両国間のみならず、海外においても「欧米列強がヨーロッパ戦線にかかりきりになっていたことに乗じて、日本が中国に権益拡大要求を強引に押し付けた」という印象が定着してしまったのですが、その原因を中国とともにつくった国こそがアメリカだったのです。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
やはり、そうでしたか。
こういうお話を伺っていると
世界とのお付き合いというのは、
片方の手は相手国と友好を結ぶために
握手をしながら、片方の手には常に
槍を持ちながら牽制していなければいけない
という図式が想像されますねぇ・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
外国との真の友好関係というのは、余程のことがない限り有り得ません。
まして隣国同士や、共通の利益目標がある場合は…。
これらの「攻撃」に対して、我が国は明確な対策を講じることが結局はできず、日本に対する「意図的につくられた不当なイメージ」だけが独り歩きする結果を残してしまったのです。こうなった原因の一つとしては、元老がその威厳によって我が国を支えていた明治の頃と比べ、政党が自己保全のために政争を最優先することが多かった大正時代には、軍事や政治の安定したバランスが崩れていたことが挙げられます。
なお、こうした一方で、大正6(1917)年に日米間において、前外務大臣の石井菊次郎(いしいきくじろう)とランシング国務長官とが石井・ランシング協定を結び、中国の領土保全・門戸開放の原則と、中国における我が国の特殊権益の保有とを確認しあいました。
しかし、この協定が結ばれた当時は、アメリカが第一次世界大戦に参戦している時期であり、アメリカが我が国と協定を結んだのは、自国が参戦中に、中国大陸に対して日本が余計な手出しをしないように抑え込もうと考えたのが主な目的でした。それが証拠に、この協定は大戦終了後の大正12(1923)年に早くも破棄されています(詳しくは後述します)。
そもそも「門戸開放・領土保全」という言葉の聞こえは良いですが、先述したように、要するに出遅れたアメリカにも中国の利権をよこせ、という意味であることは、当時の誰もが分かっていたことでした。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに相手国ばかりを全面的に責める訳にもいかないものですよね。
日本国内情勢もまた混沌としていたからこそ、
そこへ上手く漬け込まれたのでしょうしね。
よく家族関係がギクシャクしていると世間様との
関係も上手く行かなくなるのと同じですね。
特殊詐欺なども、家族間の連携が上手くいかない隙を突かれるものだし、今回の●●家具の親子確執問題も、世間からすれば、ただただ嫌悪感を植え付けるだけで、喜ばれる話ではありませんものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るあたりが外交の難しさでもあります。
何でも相手国のせいにしているばかりでは、某国(?)のように国益を害するばかりですからね。