そして翌668年正月、中大兄皇子は43歳でようやく天智天皇(てんじてんのう)として即位されましたが、このご即位も決してスムーズに行われたわけではありませんでした。
同じ668年に、新羅の僧である道行(どうぎょう)が、三種の神器(=天皇であることを証明する大事な神器のこと)の一つである草薙(くさなぎ)の剣を盗むという事件がおきました。道行は新羅まで逃げようとしましたが、途中で嵐にあって失敗に終わりました。
この事件は、新羅が天智天皇のご即位を妨害しようとした事実の一つとされています。天智天皇はかつて百済再興をめざして白村江の戦いを起こされました。ということは、天智天皇が、百済を滅ぼした新羅に対して良い感情をお持ちでないことは明らかだったのです。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 青田です。
目から鱗です。
滋賀県の大津市に都があったことがあるのですね。
知りませんでした。(一生の不覚)
ただ、この時代に交通の要衝である大津に目をつけるのは、天智天皇の先見性は凄いですね。
私のような下々の小市民には、考えられないことです。
ぴーち こんばんは!
やはり良からぬ思惑で行動した事に対しては
天は味方をしてはくれないものですね。
43歳と言うと、昔で言えば
隠居生活をするべく年齢では無かったのでしょうか?
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、天智天皇は交通の要衝として近江の地を選ばれたと思われます。
中大兄皇子の頃からの優秀さがうかがえますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 畏れ多くも天皇陛下の三種の神器を奪おうというのですから、このような失敗をするものと思われますね。
当時は人生50年以下でしたから、確かに遅いご即位ではあります。それだけ世の中が落ち着かなかったのかもしれませんが…。
まず、668年に我が国で初の本格的な法令となる近江令(おうみりょう)を、中臣鎌足らとともに制定したとされています。ただ、近江令は現存せず、近年ではその存在を疑われている一面もあります。続いて670年には、公地公民制への準備として、我が国初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)がつくられました。
また、671年には漏刻(ろうこく)、つまり水時計が宮廷内に設置され、正確な時を告げるようになったとされています。この日は今の暦に直すと6月10日であり、「時の記念日」として有名ですね。
こうした一方で、天智天皇のご在位中に中臣鎌足が669年に56歳で亡くなりました。鎌足の死の直前に、天智天皇は大織冠(だいしょくかん)の地位と「藤原」の姓を授けられました。鎌足は死後に「藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」と呼ばれ、我が国の歴史にその名を残す藤原氏の始祖となったのです。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
中臣鎌足も寿命が縮まる程の波瀾万丈な人生を送られた割には、随分と長命だったのですね!
そう言えば
歴史のテストの前に
不謹慎な語呂合わせで名前を覚えたのを
思い出しました(^^ゞ
「なまごみのかたまり」
失礼致しましたm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「なまごみのかたまり」
ありましたねぇ(笑)。
不謹慎な語呂合わせも、インパクトがありますからいつまでも覚えられますし、これもまた勉強ですね(^^;
我が国とかかわりの深い任那や百済を滅ぼした新羅は確かに憎いですが、その新羅が朝鮮半島を統一しようとする勢いである現状を考えれば、我が国の唐に対する防波堤の意味も込めて、一切のしがらみを捨てて新羅と「大人の関係」を結ぼうというのがその真意でした。
しかし、こうした「現実的」な考えは、「新羅憎し」の感情を優先させる天智天皇や大友皇子には受けいれられず、両者はいつしか対立するようになりました。そして671年10月、天智天皇は大海人皇子を宮廷内に呼びつけられると「天皇の地位を譲る」と仰られました。
「これは罠だ」と直感した大海人皇子はこの誘いを断り、直ちに出家して吉野へ向かい、政治的野心のないことをアピールしました。
天智天皇は同じ年の12月に46歳で崩御されました。天皇の崩御は単なる後継争いだけでなく、我が国の今後の外交路線も含めた大きな流れの中で、避けることの出来ない波乱の予感を漂(ただよ)わせていました。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
弟の方が、一段崇高な考え方をする人物だったのですね。
確かにいつまでも角を突き合わせてばかりでは
何の発展も解決策にもならないでしょうし、それよりも
自国の今後の為には、嫌な相手でも仲良くしていかなければいけないことを先読みしていたとはすごいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
恩讐を越えて、大人の付き合いができるのが国益にかなった外交ですからね。現代の日米軍事同盟のように…。
東国の兵士を味方に付けた大海人皇子は、近江や大和へ向かって軍を進めました。近江朝廷側も善戦しましたが、結局は敗北し、大友皇子は自殺しました。大海人皇子が大友皇子を破ったこの戦いを、当時の十干十二支(じっかんじゅうにし)から「壬申の乱」といいます。
大海人皇子が勝利できた最大の原因は、東国の下級役人や地方豪族が皇子に従ったからでした。一方、大友皇子は西国に対して自分の味方になるように説得しましたが、いずれも拒否されました。なぜこのようなことになったのでしょうか。
その理由の一つとしては、天智・大友父子の「反新羅」の外交政策に対する反発が挙げられます。我が国の未来のために、恩讐を越えて新羅との関係を修復しようとする大海人皇子の考えが全国に受けいれられたといえるでしょう。
では、もう一つの理由とは何でしょうか?
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
和の精神をまずは第一と考える日本人の意見が
後押しをしたのですね!
後もう一つですか・・
わかりません(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 和の精神をまずは第一と考える日本人の意見が
> 後押しをしたのですね!
そうなりますね。我が国の平和を第一に考えた結果だと思います。
> 後もう一つですか・・
> わかりません(^^ゞ
さて、なんでしょうか?
一方、民衆の考えに近い下級役人や地方豪族の立場からすれば、中央豪族の私有に甘んじるよりも、大海人皇子を支持して彼の下で国づくりを進めた方が、遥(はる)かに理想的といえました。
これらの理由があったからこそ、一種のクーデターともいえる壬申の乱が成功したのでしょう。なお、大友皇子は、壬申の乱から約1200年後に、明治政府によって「弘文天皇(こうぶんてんのう)」の名を贈られています。
壬申の乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位され、天武天皇(てんむてんのう)となられました。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
いわゆる民主主義政治の先駆けと言える改革を
行ったために勝利したと言う事でしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > いわゆる民主主義政治の先駆けと言える改革を
> 行ったために勝利したと言う事でしょうか?
結論的にはそうなりますね。改新事業の後退は、中央豪族という「既得権者」にとっては旨みがあっても、名もなき国民には不利になるばかりですから。
その他にも、中華の法体系にならった律令や、我が国の歴史書である国史の編纂(へんさん)を開始されたり、我が国初の銭貨(せんか)となる富本銭(ふほんせん)の鋳造を行われたりしました。
外交面では新羅との国交を回復させ、遣新羅使を何度も派遣される一方で、唐との国交を一時的に断絶されました。この結果、我が国は新羅という独立国家をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができたのです。なお、遣唐使の復活は8世紀当初まで待つことになります。
また、天武天皇は自身(=天皇)が中心となる力強い国家体制の確立を目指されて、中華の都城(とじょう)にならった本格的な宮都である藤原京(ふじわらきょう)の造営を開始されるなど、様々な政策を行われましたが、こうした大胆な改革を実現できたのも、壬申の乱によって中央の豪族などの「抵抗勢力」を排除したことで、改新への事業が勢いづいたからだと考えられます。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
下手に対立するよりも、調子の良い相手を上手く
利用して、他国の関係を良くして行こうとした考えは畏れ入りますね^^;
それとは別な話ですが、
広島に黒田選手が戻って来るそうですね!
おめでとうございます♪
オバrev この時代、老いぼれた私の頭に残っている教科書的知識は、天智天皇~天武天皇~聖武天皇ですが、天武天皇の行った改革の中身については教科書には殆ど出てこなかったように思います。
歴史的意味があまりなかったのか、歴史的研究が昔はあまり行われていなかったのか、どうなんでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 下手に対立するよりも、調子の良い相手を上手く
> 利用して、他国の関係を良くして行こうとした考えは畏れ入りますね^^;
仰るとおりですね。
これぞ外交の真髄だと思います。
> それとは別な話ですが、
> 広島に黒田選手が戻って来るそうですね!
> おめでとうございます♪
8年ぶりですからね。本当にうれしい限りです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この時代、老いぼれた私の頭に残っている教科書的知識は、天智天皇~天武天皇~聖武天皇ですが、天武天皇の行った改革の中身については教科書には殆ど出てこなかったように思います。
>
> 歴史的意味があまりなかったのか、歴史的研究が昔はあまり行われていなかったのか、どうなんでしょうか?
他の時代に比べて地味であることが原因かもしれませんね。
あるいは、朝鮮半島との絶妙な外交関係が、今の時代に知られたくないとか…。
ところで、我が国の「日本」という国号は、689年につくられた飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)によって正式に定められたと考えられていますが、それから約1300年以上を経た現代まで、この国名は全く変わることなく使われ続けています。
チャイナや朝鮮半島などの国々が、王朝が変わるごとに国名が変わってきたことと比較すると、それが特別のことであるのが理解できますね。
我が国の国名が長い年月のあいだ変わっていないのは、チャイナや朝鮮半島などのように王朝が変わって国が途絶えたり、あるいは他の民族にとってかわられたりすることがなかったからです。我が国は世界でもっとも長い歴史を持つ国なのです。
私たち日本国民は、我が国の悠久の歴史を誇りに思うと同時に、子々孫々に至るまで繁栄させるための努力を重ねなければなりません。混迷続く今の世の中であればこそ、一人ひとりの覚悟が問われているのではないでしょうか。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。
(※第45回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[12月29日]からは通常の更新[=平成時代]に戻ります)





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ぴーち こんばんは!
なるほど!
よく中国4千年の歴史が。。などと
言われたりしますが、そう言われてみると
日本という国の名前のままで長い歴史があるのは
我が国が唯一だという事なのですね!
本当に、この伝統だけは守り続けていきたい
ものですね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
1300年以上にわたって受け継がれてきた歴史を、私たちの代で終わらすわけにはいきませんからね。