こうなると困ったのは新羅です。高句麗と百済の両方から攻められたうえに、我が国の支援も得られず、追いつめられた新羅は、起死回生の策として唐との軍事同盟を選択しましたが、これは、ある意味非常に危険な賭けでした。
新羅が唐と同盟を結べば、間に挟まれた高句麗や百済と戦いやすくはなりますが、問題はその後です。高句麗や百済が滅んだ後は、唐と新羅の両国が残されます。ということは、唐は新羅のみを相手にじっくりと時間をかけて滅ぼすことが可能となるわけです。
その後の展開が読めていた唐は、新羅からの誘いを喜んで受けました。唐から見て、遠く(=新羅)の相手と結んで、近く(=高句麗・百済)の敵を倒す、という政策のことを、遠交近攻といいます。
一方、新羅にしてみれば、将来の不安よりも、「今そこにある危機」の打開のためには、やむを得ない選択でした。そして新羅は、唐の信頼を得るために、それまでの常識では考えられない政策を始めるのです。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
戦わずして、既に先が見えてしまっている同盟ですか・・
その後の新羅の思惑が気になりますね。
この当時の新羅は今の日本の状況と類似している様に見えるのですが・・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 戦わずして、既に先が見えてしまっている同盟ですか・・
> その後の新羅の思惑が気になりますね。
> この当時の新羅は今の日本の状況と類似している様に見えるのですが・・・。
なるほど、新羅が我が国と似ていますか…。
そのあたりも含めて、新羅の「常識破り」をじっくりとご覧いただきたいと思います。
つまり、民族の風俗や服装、官制や年号だけでなく、名前のあり方(名字を漢字一文字に変えました)に至るまで、すべてを中華風に改めたのです。
百済の有名な将軍である鬼室福信(きしつ・ふくしん)がそうであったように、それまでの新羅を含む朝鮮半島の人々の名字は、我が国の姓(かばね)である「中臣」「物部」などと同じく「二文字」が基本でした。
しかし、これ以降の新羅では、当時の武烈王(ぶれつおう)が本名を「金春秋(きん・しゅんじゅう)」と名乗るなど、名字を漢字一文字に統一し、これは現代でも「朴槿恵(パク・クネ)」「李明博(イ・ミョンバク)」あるいは「金正恩(キム・ジョンウン)」のように、全く変わっていません。
この後、新羅は唐を追い出して統一国家を創立することに成功しますが、文化的には完全に中華に背骨をつくり変えられてしまっており、この点が、公地公民といった律令制を中華からほぼ完全なかたちで輸入しても、日本文明の基本を一切変えなかった我が国との非常に大きな違いといえるでしょう。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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万里ママ 文化を取り入れず、仕組みだけ
上手に取り入れた日本と違い、
新羅は文化ごと中華風になったのですか…。
そういう背景での独立では、
統一国家を作っても、その先が大変ですね。
ぴーち こんばんは!
韓国の一文字の姓はこの頃に成立されたものだったのですね。
以前、韓国の姓は日本と比べると少なく250種類くらいしかないので、婚姻関係も8親等以上離れていなくてはいけないという話を聞いた事が有りました。
すみません。。新羅の話題から離れてしまいましたが^^;
万里ママさんへ
黒田裕樹 > 文化を取り入れず、仕組みだけ
> 上手に取り入れた日本と違い、
> 新羅は文化ごと中華風になったのですか…。
> そういう背景での独立では、
> 統一国家を作っても、その先が大変ですね。
我が国と朝鮮半島の大きな違いがここに存在するんですよね。
仰るとおり、統一国家をつくっても、精神まで「属国」になってしまった代償は高くついたと言わざるを得ないようです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 韓国の一文字の姓はこの頃に成立されたものだったのですね。
> 以前、韓国の姓は日本と比べると少なく250種類くらいしかないので、婚姻関係も8親等以上離れていなくてはいけないという話を聞いた事が有りました。
> すみません。。新羅の話題から離れてしまいましたが^^;
その話は私も聞いたことがあります。
姓が同じだと近親婚の可能性もありますから、難しいですよね…。
こうして唐と同盟を結んだ新羅は、やがて反撃に転じました。660年には唐と共同で百済を攻め、首都を落とされた百済は滅亡してしまいました。
百済の遺臣たちの多くは、かねてから同盟を結んでいた我が国に逃れ、百済の復興を訴えました。彼らに同意した朝廷は、翌年の661年に斉明天皇ご自身が先頭となって軍勢を率いて、百済救済のために九州へ向けて出発しました。
しかし、斉明天皇は九州から動けぬまま、病のためにその年の夏に68歳で崩御されました。斉明天皇の崩御後は、中大兄皇子が即位しないままで政治を行いました。これを称制(しょうせい)といいます。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 青田です。
やはり、日本が本当の文化国家になったのは、
朝鮮半島のように陸続きで、なかったことが幸いした気がします。
海洋国家の
日本の文化の面白さは
① 海路で、文化が入るので、ほぼ原形の純粋なまま文化が入り、そのまま残る。
→ 日本の今の漢字は、その意味を古来よりあまり変えていません。それにたいして、シナは、王朝が変わるたびにその意味・文法も変わり、
文化が変容して、無茶苦茶になってしまいました。
だから、今でも、中国では、歴史的建造物があまり残ってません。(文化大革命の前からです。)
これは、仏教も同じで、海路で、伝わったタイ・スリランカは、原始仏教でそのまま伝わっていますが、それ以外の国は、変容しています。
② 取り入れる文化と絶対に取り入れない文化を分ける。
日本は、シナから、文化を取り入れてきましたが、朝鮮半島のように、やみくもに取り入れることは、しませんでした。
(例:宦官だけは、絶対に取り入れませんでした。)
さらに神道・仏教・中華文化のハイブリッド化も日本のお家芸だと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、地理的環境が我が国に大きな影響を与えたことは間違いないと思います。
我が国は私たちの想像以上に恵まれているともいえそうですね。
ぴーち こんばんは!
なりふり構わぬ策ですか・・
一国をこれだけの思いをしながら
守り切ったという事に対しては
賞賛に値する事ではないでしょうか・・
窮地に追い込まれた時の最後の最後に
参考にしておきたい事でも有るような^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 話が先走りますが、この後の新羅が統一国家を樹立したのは紛れもない事実です。
とはいえ、当時の中華との力関係が、現代にまで至っているという現実を思えば、やはり手放しで参考にできるとは言いがたいものがありますね。
白村江の戦いの敗北によって、百済の王族以下多くの人々が我が国に亡命し、その後帰化しました。我が国は唐や新羅の報復を恐れて、国境沿いの対馬(つしま)や壱岐(いき)、筑紫(つくし)に当時の兵士にあたる防人(さきもり)を置いたり、九州北部の行政機関であった大宰府(だざいふ)に大規模な水城(みずき=大宰府を守るための堀や土塁のこと)を築いたりしました。
なお、水城は今もその多くが残存しており、現地(福岡県太宰府市)に行けば当時の様子が容易に分かります。
さて、朝鮮半島では668年に高句麗が滅ぼされた後、ついに唐と新羅とが国境を接して争う事態となりました。我が国にも緊張感が高まりましたが、結局は唐や新羅が我が国に攻め寄せることはなく、逆に新羅が我が国の後ろ盾を求めて、唐へ朝貢すると同時に、我が国へも朝貢するようになりました。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると
日本は海に囲まれた島国なので
他国からの攻めを容易に受けることは少ないとは言え、九州地方は大陸からは近い所に位置しているので昔からこうした他国からの侵害を常に警戒していなければ行けなかったという点では苦労も多かった事でしょうし、
関係のない話かも知れませんが、その後の国内での争い事では九州勢が強かったというのは、
そう言った戦力が早くから身についていた
という事は言えないでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、九州時の強さは地理的環境が大きく作用していると思われます。
天孫降臨の伝説も九州の高千穂ですからね。
そして、旧高句麗領の北部を中心に渤海(ぼっかい)が建国されたり、唐自体の内乱もあったりして、兵を集中できなくなった唐は、朝鮮半島の支配をあきらめ、やがては新羅の存在を認めたのでした。
長いあいだ勢力争いが続いた朝鮮半島は、結局は新羅による統一で幕を下ろしました。我が国は任那(みまな)や百済の問題などで、新羅とはかねてより敵対関係にありましたが、状況が変化すると、新羅は手のひらをかえして、我が国に朝貢するなど後ろ盾として頼るようになり、また我が国も新羅を防波堤とすることで、唐の侵略を受けるのを防ぐことができたのでした。
要するに、新羅は自国の生き残りのために唐と同盟を結び、唐と共に我が国と戦って勝利するや、今度は唐を裏切って我が国に朝貢して接近するという、いわゆる「二枚舌外交」を貫き通したのです。新羅によるこうした姿勢こそが、現在の朝鮮半島の情勢を、本当の意味で理解する流れにもつながるといえるのではないでしょうか。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど・・
新羅はコウモリ的な存在だったと言えますね。
良く言えば、臨機応変な対応で国の存続を見事に
持ち越した武勇伝にも聞こえますが、
ある反面、その余りの調子の良さ、卑怯さを
他国からは疎まれるので、孤立する運命を辿るでしょうね。
生き残ることは出来た反面、常に批難を浴びたり、白い目で観られたりと孤独感を味わうというリスクを味わう事を覚悟であるなら、仕方がないかも知れませんが・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
我が国の歴史とは全く異なりますが、それを誇りとしたいですね。
我が国が原則どおりに行動できた背景の一つに、新羅との友好関係の構築が挙げられます。百済との関係が深かった我が国にとって、それまでの外交姿勢を180度転換させるような政策は、そう簡単にできるものではありませんでした。
しかし、実際に7世紀後半には遣唐使が行われないかわりに、遣新羅使(けんしらぎし)が短期間に何度も行われているのです。我が国がそこまでの政策転換ができた理由は何だったのでしょうか。
その背景には、白村江の戦いの後の外交路線を、「反新羅」でいくのか、あるいは「親新羅」でいくのかで対立した、「兄弟」による骨肉の争いがあったのです。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
強いものにあえて頼らなくとも
この日本は島国であるという事を味方に
日本人全体が同じ志の元、結束すれば
強靱な盾となりうる力を秘めているのでしょうね。
今の日本も、結束力が足らずに
個人個人が好き勝手な考え、行動をしていると
そこへチョンと突かれでもしたら
たちまち、崩壊が起きるとも限りません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国が今までに存続できているのは、仰るとおり日本人の結束力の賜物でしょう。
それだけに、現状に対する危機感をもっと持つべきかもしれません。