朝廷にとって重要な行事ですから、大臣(おおおみ)の蘇我入鹿も必ず出席します。これを好機と見た二人は、儀式の途中で入鹿を殺害する計画を立て、当日までに刺客を二人準備して、彼らとともに儀式が行われる大極殿(だいごくでん)の物陰に隠れました。
すべての準備を終えた645年6月12日、大雨が降る中で儀式が始まり、朝鮮半島からの上表文を、蘇我倉山田石川麻呂が読み始めました。事前に練られた計画では、上表文を読んでいる途中で刺客が飛び出し、入鹿を亡き者にする手はずでした。
ところが、肝心の刺客たちが出てきません。極度の緊張と、入鹿の尊大さに怖気(おじけ)づいてしまっていたのです。「このままではまずい」。鎌足の顔に焦りが浮かび始めました。
なかなか出てこない刺客たちに、上表文を読んでいた石川麻呂も焦り出しました。上表文に残された文字は、あと数行分しか残されていません。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
肝心な時に役に立たない刺客とは(^^ゞ
刺客の資格が無い方たちで困りましたね・・
(あ、つまらない事書いてしまい、すみません^^;)
その後の展開が気になります・・・
オバrev 改革というのは中々一直線には進まないもんですね。
動画見ましたが、黒田先生の見事な役者振りに感激しました(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歴戦の強者である入鹿の前では、さすがの刺客も怖気づいてしまったというところでしょうか。
この後の展開は…次回の更新までお待ちくださいm(_ _)m
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 改革というのは中々一直線には進まないもんですね
そのとおりですね。この後に大化の改新を成し遂げても、うまくいかないこともありますから。
> 動画見ましたが、黒田先生の見事な役者振りに感激しました(^^ゞ
光栄です(^^;
どうせならなり切りたいですよね(爆)。
入鹿「どうして震えているのだ!」
石川麻呂「へ、陛下の御前(おんまえ)ですから、ふ、不覚にも緊張しまして…」
しどろもどろで返答する石川麻呂に対して、入鹿がさらに不信感を持ちました。このままでは計画が失敗するどころか、すべてが発覚してしまうのが目に見えていました。
「だめだ。もはやこれまでか」。鎌足が観念したその瞬間でした。
「ヤーッ!」
凄まじい気合とともに、手に剣を持った一人の若者が飛び出しました。この若者こそが、中大兄皇子その人でした。皇子が入鹿に向かって突進すると、はじかれたように刺客たちも駆け出しました。入鹿は皇子を含んだ三人がかりで攻められ、激しく斬りつけられました。
瀕死(ひんし)の重傷を負った入鹿は、皇極天皇に向かって命乞(いのちご)いをしました。
「なぜ俺がこんな目に…。何の罪があるというのだ…」。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 青田です。
この時、中大兄皇子は、
この時の中大兄皇子の勇気・行動力は、卓越しています。
しかも、この時、中大兄皇子は、19歳でした。
この時の中大兄皇子の勇気・行動力は、卓越しています。
私が、19歳の時、何も考えてないアンポンタンでした。
この中の登場人物では、石川麻呂に自分が近い気がします。(笑)
ぴーち こんばんは!
今の時代の様に
テレビ、ラジオ、パソコン、携帯、雑誌、本など
あらゆる情報を得ようと思えば、簡単に得られる時代に生きていると、これだ!という思いが分散されてしまい、自分の意志というのがどうも弱まってしまう傾向が強いと思います。
この頃の様に、他の誘惑も少ない時代。
ある1つの思いを遂げようと真剣になればなるほど
意志は強靱になり、更に精神も研ぎ澄まれて
ココぞという時にその思いが発揮出来たのでは
無いでしょうか・・?
青田さんへ
黒田裕樹 確かにあの若さで素晴らしい行動力ですよね。
私もせいぜい石川麻呂止まりだと思います(笑)。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、何でもすぐに入手できる現代とは大違いですからね。
それだけに本人の感性が非常に重要なのでしょう。それにしても、素晴らしい行動力だと思います。
「何事ですか、これは!」
天皇の息子である中大兄皇子は、母の皇極天皇の前へ進み出ると、きっぱりと理由を述べました。
「蘇我入鹿は皇族を滅ぼして自分が皇位につこうとした大悪人ですから、誅殺(ちゅうさつ)したまでのことです」。
理由を聞かれた皇極天皇は、黙って席を立たれました。その間に刺客たちが入鹿に止めを刺し、ついに入鹿は殺害されてしまいました。
入鹿の死は、直ちに父親の蘇我蝦夷にも伝えられました。配下の者が逆賊になるのを恐れて次々と朝廷に投降していく姿を見た蝦夷は抵抗をあきらめ、翌日に屋敷に火をかけて自殺しました。こうして栄華を極めた蘇我氏の本家は、わずか一昼夜で滅亡してしまったのです。
なお、最近の教科書などでは、大化の改新のきっかけとなった蝦夷・入鹿親子が滅ぼされた一連の政変のみを取り上げ、わざわざ「乙巳(いっし)の変」と紹介しているのが目立っているようです。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私くらいの年代ではきっと「大化の改新」という言葉でしか教えて頂いた事はないと思います。
これまでの中大兄皇子らの固い決心を知った後に「乙巳の変」と言う言葉を聞くと
テロかクーデターでも起こした様な
響きに聞こえてしまい、
まるで極悪人扱いされている様に聞こえてしまうのは私だけでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > これまでの中大兄皇子らの固い決心を知った後に「乙巳の変」と言う言葉を聞くと
> テロかクーデターでも起こした様な
> 響きに聞こえてしまい、
> まるで極悪人扱いされている様に聞こえてしまうのは私だけでしょうか?
ぴーちさんのお気持ちは、私を含めて歴史の大きな流れを理解できる人々の共通の疑問であると思います。
今の歴史教育は、あまりにも唯物論で決めつけ過ぎなのです。
中大兄皇子は都を難波(なにわ、現在の大阪市)に移すと、我が国史上初めての元号となる「大化(たいか)」を制定し、645年は「大化元年」となりました。
続いて朝廷内の役職の改革に着手した中大兄皇子は、それまでの大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)の制度を廃止し、新たに左大臣・右大臣・内臣(うちつおみ)の制度を設けました。そして、左大臣には阿部内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂、内臣には中臣鎌足がそれぞれ任じられました。
翌大化2(646)年正月に、中大兄皇子は強固な中央集権体制における国家をつくるための大原則をうたった「改新の詔(みことのり)」を公布し、公地公民制など聖徳太子以来の朝廷の悲願の実現に向けて大きく前進しました。今日では、こうした一連の国政の改革を総称して「大化の改新」と呼ばれているようです。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
生前での天皇の譲位というのは
この先もあったのでしょうか。
聖徳太子の意志を継いだ政治の原点がここに
誕生した訳ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、蘇我氏の打倒によって、聖徳太子以来の悲願の実現に一歩近づいたことになりますね。
生前での天皇のご譲位は、この後も持統天皇をはじめとして、60人近くおられます。
例えば、中大兄皇子が新たな冠位制度を導入した際に、左大臣の阿部内麻呂と右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が、新しい冠の着用を拒否しています。これが遠因となったのか、649年に阿部内麻呂が病死すると、その直後に石川麻呂が朝廷への謀反を疑われて自殺に追い込まれました。
また、中大兄皇子は孝徳天皇と不和になり、653年に中大兄皇子が飛鳥へ戻ると、有力な家臣が次々とこれに従い、孝徳天皇は難波の都に取り残されて、翌年に寂しく崩御されました。
中大兄皇子は次の天皇に自らが即位せず、母親の皇極天皇が再び皇位につかれて斉明天皇(さいめいてんのう)となられました。なお、一度退位された天皇が再び即位されることを重祚(ちょうそ)といいます。
このようにして、中大兄皇子が様々な矛盾を抱えながら政治を実行している間に、東アジアの情勢は風雲急を告げていました。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
笛吹けども踊らず。。。ですか。
なかなか理想と現実のギャップの差が大きければ大きいほど、困難を極めますね。
日本人の気質なのでしょうか・・・それとも
それがそもそも人間の本質なのかは知りませんが、
どうも新しいものには消極的な態度を
示す傾向は今でも強いですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですよね。
理想に燃えて改革路線を突き進もうとすれば、必ずといっていいほど、抵抗勢力も強くなる傾向があります。
昨日総選挙が行われましたが、来るべき新政権にも当てはまる問題ですよね…。