朝廷にとって重要な行事ですから、大臣(おおおみ)の蘇我入鹿も必ず出席します。これを好機と見た二人は、儀式の途中で入鹿を殺害する計画を立て、当日までに刺客を二人準備して、彼らとともに儀式が行われる大極殿(だいごくでん)の物陰に隠れました。
すべての準備を終えた645年6月12日、大雨が降る中で儀式が始まり、朝鮮半島からの上表文を、蘇我倉山田石川麻呂が読み始めました。事前に練られた計画では、上表文を読んでいる途中で刺客が飛び出し、入鹿を亡き者にする手はずでした。
ところが、肝心の刺客たちが出てきません。極度の緊張と、入鹿の尊大さに怖気(おじけ)づいてしまっていたのです。「このままではまずい」。鎌足の顔に焦りが浮かび始めました。
なかなか出てこない刺客たちに、上表文を読んでいた石川麻呂も焦り出しました。上表文に残された文字は、あと数行分しか残されていません。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
肝心な時に役に立たない刺客とは(^^ゞ
刺客の資格が無い方たちで困りましたね・・
(あ、つまらない事書いてしまい、すみません^^;)
その後の展開が気になります・・・
オバrev 改革というのは中々一直線には進まないもんですね。
動画見ましたが、黒田先生の見事な役者振りに感激しました(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歴戦の強者である入鹿の前では、さすがの刺客も怖気づいてしまったというところでしょうか。
この後の展開は…次回の更新までお待ちくださいm(_ _)m
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 改革というのは中々一直線には進まないもんですね
そのとおりですね。この後に大化の改新を成し遂げても、うまくいかないこともありますから。
> 動画見ましたが、黒田先生の見事な役者振りに感激しました(^^ゞ
光栄です(^^;
どうせならなり切りたいですよね(爆)。
入鹿「どうして震えているのだ!」
石川麻呂「へ、陛下の御前(おんまえ)ですから、ふ、不覚にも緊張しまして…」
しどろもどろで返答する石川麻呂に対して、入鹿がさらに不信感を持ちました。このままでは計画が失敗するどころか、すべてが発覚してしまうのが目に見えていました。
「だめだ。もはやこれまでか」。鎌足が観念したその瞬間でした。
「ヤーッ!」
凄まじい気合とともに、手に剣を持った一人の若者が飛び出しました。この若者こそが、中大兄皇子その人でした。皇子が入鹿に向かって突進すると、はじかれたように刺客たちも駆け出しました。入鹿は皇子を含んだ三人がかりで攻められ、激しく斬りつけられました。
瀕死(ひんし)の重傷を負った入鹿は、皇極天皇に向かって命乞(いのちご)いをしました。
「なぜ俺がこんな目に…。何の罪があるというのだ…」。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 青田です。
この時、中大兄皇子は、
この時の中大兄皇子の勇気・行動力は、卓越しています。
しかも、この時、中大兄皇子は、19歳でした。
この時の中大兄皇子の勇気・行動力は、卓越しています。
私が、19歳の時、何も考えてないアンポンタンでした。
この中の登場人物では、石川麻呂に自分が近い気がします。(笑)
ぴーち こんばんは!
今の時代の様に
テレビ、ラジオ、パソコン、携帯、雑誌、本など
あらゆる情報を得ようと思えば、簡単に得られる時代に生きていると、これだ!という思いが分散されてしまい、自分の意志というのがどうも弱まってしまう傾向が強いと思います。
この頃の様に、他の誘惑も少ない時代。
ある1つの思いを遂げようと真剣になればなるほど
意志は強靱になり、更に精神も研ぎ澄まれて
ココぞという時にその思いが発揮出来たのでは
無いでしょうか・・?
青田さんへ
黒田裕樹 確かにあの若さで素晴らしい行動力ですよね。
私もせいぜい石川麻呂止まりだと思います(笑)。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、何でもすぐに入手できる現代とは大違いですからね。
それだけに本人の感性が非常に重要なのでしょう。それにしても、素晴らしい行動力だと思います。
「何事ですか、これは!」
天皇の息子である中大兄皇子は、母の皇極天皇の前へ進み出ると、きっぱりと理由を述べました。
「蘇我入鹿は皇族を滅ぼして自分が皇位につこうとした大悪人ですから、誅殺(ちゅうさつ)したまでのことです」。
理由を聞かれた皇極天皇は、黙って席を立たれました。その間に刺客たちが入鹿に止めを刺し、ついに入鹿は殺害されてしまいました。
入鹿の死は、直ちに父親の蘇我蝦夷にも伝えられました。配下の者が逆賊になるのを恐れて次々と朝廷に投降していく姿を見た蝦夷は抵抗をあきらめ、翌日に屋敷に火をかけて自殺しました。こうして栄華を極めた蘇我氏の本家は、わずか一昼夜で滅亡してしまったのです。
なお、最近の教科書などでは、大化の改新のきっかけとなった蝦夷・入鹿親子が滅ぼされた一連の政変のみを取り上げ、わざわざ「乙巳(いっし)の変」と紹介しているのが目立っているようです。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私くらいの年代ではきっと「大化の改新」という言葉でしか教えて頂いた事はないと思います。
これまでの中大兄皇子らの固い決心を知った後に「乙巳の変」と言う言葉を聞くと
テロかクーデターでも起こした様な
響きに聞こえてしまい、
まるで極悪人扱いされている様に聞こえてしまうのは私だけでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > これまでの中大兄皇子らの固い決心を知った後に「乙巳の変」と言う言葉を聞くと
> テロかクーデターでも起こした様な
> 響きに聞こえてしまい、
> まるで極悪人扱いされている様に聞こえてしまうのは私だけでしょうか?
ぴーちさんのお気持ちは、私を含めて歴史の大きな流れを理解できる人々の共通の疑問であると思います。
今の歴史教育は、あまりにも唯物論で決めつけ過ぎなのです。
中大兄皇子は都を難波(なにわ、現在の大阪市)に移すと、我が国史上初めての元号となる「大化(たいか)」を制定し、645年は「大化元年」となりました。
続いて朝廷内の役職の改革に着手した中大兄皇子は、それまでの大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)の制度を廃止し、新たに左大臣・右大臣・内臣(うちつおみ)の制度を設けました。そして、左大臣には阿部内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂、内臣には中臣鎌足がそれぞれ任じられました。
翌大化2(646)年正月に、中大兄皇子は強固な中央集権体制における国家をつくるための大原則をうたった「改新の詔(みことのり)」を公布し、公地公民制など聖徳太子以来の朝廷の悲願の実現に向けて大きく前進しました。今日では、こうした一連の国政の改革を総称して「大化の改新」と呼ばれているようです。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
生前での天皇の譲位というのは
この先もあったのでしょうか。
聖徳太子の意志を継いだ政治の原点がここに
誕生した訳ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、蘇我氏の打倒によって、聖徳太子以来の悲願の実現に一歩近づいたことになりますね。
生前での天皇のご譲位は、この後も持統天皇をはじめとして、60人近くおられます。
例えば、中大兄皇子が新たな冠位制度を導入した際に、左大臣の阿部内麻呂と右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が、新しい冠の着用を拒否しています。これが遠因となったのか、649年に阿部内麻呂が病死すると、その直後に石川麻呂が朝廷への謀反を疑われて自殺に追い込まれました。
また、中大兄皇子は孝徳天皇と不和になり、653年に中大兄皇子が飛鳥へ戻ると、有力な家臣が次々とこれに従い、孝徳天皇は難波の都に取り残されて、翌年に寂しく崩御されました。
中大兄皇子は次の天皇に自らが即位せず、母親の皇極天皇が再び皇位につかれて斉明天皇(さいめいてんのう)となられました。なお、一度退位された天皇が再び即位されることを重祚(ちょうそ)といいます。
このようにして、中大兄皇子が様々な矛盾を抱えながら政治を実行している間に、東アジアの情勢は風雲急を告げていました。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
笛吹けども踊らず。。。ですか。
なかなか理想と現実のギャップの差が大きければ大きいほど、困難を極めますね。
日本人の気質なのでしょうか・・・それとも
それがそもそも人間の本質なのかは知りませんが、
どうも新しいものには消極的な態度を
示す傾向は今でも強いですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですよね。
理想に燃えて改革路線を突き進もうとすれば、必ずといっていいほど、抵抗勢力も強くなる傾向があります。
昨日総選挙が行われましたが、来るべき新政権にも当てはまる問題ですよね…。
こうなると困ったのは新羅です。高句麗と百済の両方から攻められたうえに、我が国の支援も得られず、追いつめられた新羅は、起死回生の策として唐との軍事同盟を選択しましたが、これは、ある意味非常に危険な賭けでした。
新羅が唐と同盟を結べば、間に挟まれた高句麗や百済と戦いやすくはなりますが、問題はその後です。高句麗や百済が滅んだ後は、唐と新羅の両国が残されます。ということは、唐は新羅のみを相手にじっくりと時間をかけて滅ぼすことが可能となるわけです。
その後の展開が読めていた唐は、新羅からの誘いを喜んで受けました。唐から見て、遠く(=新羅)の相手と結んで、近く(=高句麗・百済)の敵を倒す、という政策のことを、遠交近攻といいます。
一方、新羅にしてみれば、将来の不安よりも、「今そこにある危機」の打開のためには、やむを得ない選択でした。そして新羅は、唐の信頼を得るために、それまでの常識では考えられない政策を始めるのです。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
戦わずして、既に先が見えてしまっている同盟ですか・・
その後の新羅の思惑が気になりますね。
この当時の新羅は今の日本の状況と類似している様に見えるのですが・・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 戦わずして、既に先が見えてしまっている同盟ですか・・
> その後の新羅の思惑が気になりますね。
> この当時の新羅は今の日本の状況と類似している様に見えるのですが・・・。
なるほど、新羅が我が国と似ていますか…。
そのあたりも含めて、新羅の「常識破り」をじっくりとご覧いただきたいと思います。
つまり、民族の風俗や服装、官制や年号だけでなく、名前のあり方(名字を漢字一文字に変えました)に至るまで、すべてを中華風に改めたのです。
百済の有名な将軍である鬼室福信(きしつ・ふくしん)がそうであったように、それまでの新羅を含む朝鮮半島の人々の名字は、我が国の姓(かばね)である「中臣」「物部」などと同じく「二文字」が基本でした。
しかし、これ以降の新羅では、当時の武烈王(ぶれつおう)が本名を「金春秋(きん・しゅんじゅう)」と名乗るなど、名字を漢字一文字に統一し、これは現代でも「朴槿恵(パク・クネ)」「李明博(イ・ミョンバク)」あるいは「金正恩(キム・ジョンウン)」のように、全く変わっていません。
この後、新羅は唐を追い出して統一国家を創立することに成功しますが、文化的には完全に中華に背骨をつくり変えられてしまっており、この点が、公地公民といった律令制を中華からほぼ完全なかたちで輸入しても、日本文明の基本を一切変えなかった我が国との非常に大きな違いといえるでしょう。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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万里ママ 文化を取り入れず、仕組みだけ
上手に取り入れた日本と違い、
新羅は文化ごと中華風になったのですか…。
そういう背景での独立では、
統一国家を作っても、その先が大変ですね。
ぴーち こんばんは!
韓国の一文字の姓はこの頃に成立されたものだったのですね。
以前、韓国の姓は日本と比べると少なく250種類くらいしかないので、婚姻関係も8親等以上離れていなくてはいけないという話を聞いた事が有りました。
すみません。。新羅の話題から離れてしまいましたが^^;
万里ママさんへ
黒田裕樹 > 文化を取り入れず、仕組みだけ
> 上手に取り入れた日本と違い、
> 新羅は文化ごと中華風になったのですか…。
> そういう背景での独立では、
> 統一国家を作っても、その先が大変ですね。
我が国と朝鮮半島の大きな違いがここに存在するんですよね。
仰るとおり、統一国家をつくっても、精神まで「属国」になってしまった代償は高くついたと言わざるを得ないようです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 韓国の一文字の姓はこの頃に成立されたものだったのですね。
> 以前、韓国の姓は日本と比べると少なく250種類くらいしかないので、婚姻関係も8親等以上離れていなくてはいけないという話を聞いた事が有りました。
> すみません。。新羅の話題から離れてしまいましたが^^;
その話は私も聞いたことがあります。
姓が同じだと近親婚の可能性もありますから、難しいですよね…。
こうして唐と同盟を結んだ新羅は、やがて反撃に転じました。660年には唐と共同で百済を攻め、首都を落とされた百済は滅亡してしまいました。
百済の遺臣たちの多くは、かねてから同盟を結んでいた我が国に逃れ、百済の復興を訴えました。彼らに同意した朝廷は、翌年の661年に斉明天皇ご自身が先頭となって軍勢を率いて、百済救済のために九州へ向けて出発しました。
しかし、斉明天皇は九州から動けぬまま、病のためにその年の夏に68歳で崩御されました。斉明天皇の崩御後は、中大兄皇子が即位しないままで政治を行いました。これを称制(しょうせい)といいます。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 青田です。
やはり、日本が本当の文化国家になったのは、
朝鮮半島のように陸続きで、なかったことが幸いした気がします。
海洋国家の
日本の文化の面白さは
① 海路で、文化が入るので、ほぼ原形の純粋なまま文化が入り、そのまま残る。
→ 日本の今の漢字は、その意味を古来よりあまり変えていません。それにたいして、シナは、王朝が変わるたびにその意味・文法も変わり、
文化が変容して、無茶苦茶になってしまいました。
だから、今でも、中国では、歴史的建造物があまり残ってません。(文化大革命の前からです。)
これは、仏教も同じで、海路で、伝わったタイ・スリランカは、原始仏教でそのまま伝わっていますが、それ以外の国は、変容しています。
② 取り入れる文化と絶対に取り入れない文化を分ける。
日本は、シナから、文化を取り入れてきましたが、朝鮮半島のように、やみくもに取り入れることは、しませんでした。
(例:宦官だけは、絶対に取り入れませんでした。)
さらに神道・仏教・中華文化のハイブリッド化も日本のお家芸だと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、地理的環境が我が国に大きな影響を与えたことは間違いないと思います。
我が国は私たちの想像以上に恵まれているともいえそうですね。
ぴーち こんばんは!
なりふり構わぬ策ですか・・
一国をこれだけの思いをしながら
守り切ったという事に対しては
賞賛に値する事ではないでしょうか・・
窮地に追い込まれた時の最後の最後に
参考にしておきたい事でも有るような^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 話が先走りますが、この後の新羅が統一国家を樹立したのは紛れもない事実です。
とはいえ、当時の中華との力関係が、現代にまで至っているという現実を思えば、やはり手放しで参考にできるとは言いがたいものがありますね。
白村江の戦いの敗北によって、百済の王族以下多くの人々が我が国に亡命し、その後帰化しました。我が国は唐や新羅の報復を恐れて、国境沿いの対馬(つしま)や壱岐(いき)、筑紫(つくし)に当時の兵士にあたる防人(さきもり)を置いたり、九州北部の行政機関であった大宰府(だざいふ)に大規模な水城(みずき=大宰府を守るための堀や土塁のこと)を築いたりしました。
なお、水城は今もその多くが残存しており、現地(福岡県太宰府市)に行けば当時の様子が容易に分かります。
さて、朝鮮半島では668年に高句麗が滅ぼされた後、ついに唐と新羅とが国境を接して争う事態となりました。我が国にも緊張感が高まりましたが、結局は唐や新羅が我が国に攻め寄せることはなく、逆に新羅が我が国の後ろ盾を求めて、唐へ朝貢すると同時に、我が国へも朝貢するようになりました。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると
日本は海に囲まれた島国なので
他国からの攻めを容易に受けることは少ないとは言え、九州地方は大陸からは近い所に位置しているので昔からこうした他国からの侵害を常に警戒していなければ行けなかったという点では苦労も多かった事でしょうし、
関係のない話かも知れませんが、その後の国内での争い事では九州勢が強かったというのは、
そう言った戦力が早くから身についていた
という事は言えないでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、九州時の強さは地理的環境が大きく作用していると思われます。
天孫降臨の伝説も九州の高千穂ですからね。
そして、旧高句麗領の北部を中心に渤海(ぼっかい)が建国されたり、唐自体の内乱もあったりして、兵を集中できなくなった唐は、朝鮮半島の支配をあきらめ、やがては新羅の存在を認めたのでした。
長いあいだ勢力争いが続いた朝鮮半島は、結局は新羅による統一で幕を下ろしました。我が国は任那(みまな)や百済の問題などで、新羅とはかねてより敵対関係にありましたが、状況が変化すると、新羅は手のひらをかえして、我が国に朝貢するなど後ろ盾として頼るようになり、また我が国も新羅を防波堤とすることで、唐の侵略を受けるのを防ぐことができたのでした。
要するに、新羅は自国の生き残りのために唐と同盟を結び、唐と共に我が国と戦って勝利するや、今度は唐を裏切って我が国に朝貢して接近するという、いわゆる「二枚舌外交」を貫き通したのです。新羅によるこうした姿勢こそが、現在の朝鮮半島の情勢を、本当の意味で理解する流れにもつながるといえるのではないでしょうか。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど・・
新羅はコウモリ的な存在だったと言えますね。
良く言えば、臨機応変な対応で国の存続を見事に
持ち越した武勇伝にも聞こえますが、
ある反面、その余りの調子の良さ、卑怯さを
他国からは疎まれるので、孤立する運命を辿るでしょうね。
生き残ることは出来た反面、常に批難を浴びたり、白い目で観られたりと孤独感を味わうというリスクを味わう事を覚悟であるなら、仕方がないかも知れませんが・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
我が国の歴史とは全く異なりますが、それを誇りとしたいですね。
我が国が原則どおりに行動できた背景の一つに、新羅との友好関係の構築が挙げられます。百済との関係が深かった我が国にとって、それまでの外交姿勢を180度転換させるような政策は、そう簡単にできるものではありませんでした。
しかし、実際に7世紀後半には遣唐使が行われないかわりに、遣新羅使(けんしらぎし)が短期間に何度も行われているのです。我が国がそこまでの政策転換ができた理由は何だったのでしょうか。
その背景には、白村江の戦いの後の外交路線を、「反新羅」でいくのか、あるいは「親新羅」でいくのかで対立した、「兄弟」による骨肉の争いがあったのです。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
強いものにあえて頼らなくとも
この日本は島国であるという事を味方に
日本人全体が同じ志の元、結束すれば
強靱な盾となりうる力を秘めているのでしょうね。
今の日本も、結束力が足らずに
個人個人が好き勝手な考え、行動をしていると
そこへチョンと突かれでもしたら
たちまち、崩壊が起きるとも限りません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国が今までに存続できているのは、仰るとおり日本人の結束力の賜物でしょう。
それだけに、現状に対する危機感をもっと持つべきかもしれません。
そして翌668年正月、中大兄皇子は43歳でようやく天智天皇(てんじてんのう)として即位されましたが、このご即位も決してスムーズに行われたわけではありませんでした。
同じ668年に、新羅の僧である道行(どうぎょう)が、三種の神器(=天皇であることを証明する大事な神器のこと)の一つである草薙(くさなぎ)の剣を盗むという事件がおきました。道行は新羅まで逃げようとしましたが、途中で嵐にあって失敗に終わりました。
この事件は、新羅が天智天皇のご即位を妨害しようとした事実の一つとされています。天智天皇はかつて百済再興をめざして白村江の戦いを起こされました。ということは、天智天皇が、百済を滅ぼした新羅に対して良い感情をお持ちでないことは明らかだったのです。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 青田です。
目から鱗です。
滋賀県の大津市に都があったことがあるのですね。
知りませんでした。(一生の不覚)
ただ、この時代に交通の要衝である大津に目をつけるのは、天智天皇の先見性は凄いですね。
私のような下々の小市民には、考えられないことです。
ぴーち こんばんは!
やはり良からぬ思惑で行動した事に対しては
天は味方をしてはくれないものですね。
43歳と言うと、昔で言えば
隠居生活をするべく年齢では無かったのでしょうか?
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、天智天皇は交通の要衝として近江の地を選ばれたと思われます。
中大兄皇子の頃からの優秀さがうかがえますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 畏れ多くも天皇陛下の三種の神器を奪おうというのですから、このような失敗をするものと思われますね。
当時は人生50年以下でしたから、確かに遅いご即位ではあります。それだけ世の中が落ち着かなかったのかもしれませんが…。
まず、668年に我が国で初の本格的な法令となる近江令(おうみりょう)を、中臣鎌足らとともに制定したとされています。ただ、近江令は現存せず、近年ではその存在を疑われている一面もあります。続いて670年には、公地公民制への準備として、我が国初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)がつくられました。
また、671年には漏刻(ろうこく)、つまり水時計が宮廷内に設置され、正確な時を告げるようになったとされています。この日は今の暦に直すと6月10日であり、「時の記念日」として有名ですね。
こうした一方で、天智天皇のご在位中に中臣鎌足が669年に56歳で亡くなりました。鎌足の死の直前に、天智天皇は大織冠(だいしょくかん)の地位と「藤原」の姓を授けられました。鎌足は死後に「藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」と呼ばれ、我が国の歴史にその名を残す藤原氏の始祖となったのです。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
中臣鎌足も寿命が縮まる程の波瀾万丈な人生を送られた割には、随分と長命だったのですね!
そう言えば
歴史のテストの前に
不謹慎な語呂合わせで名前を覚えたのを
思い出しました(^^ゞ
「なまごみのかたまり」
失礼致しましたm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「なまごみのかたまり」
ありましたねぇ(笑)。
不謹慎な語呂合わせも、インパクトがありますからいつまでも覚えられますし、これもまた勉強ですね(^^;
我が国とかかわりの深い任那や百済を滅ぼした新羅は確かに憎いですが、その新羅が朝鮮半島を統一しようとする勢いである現状を考えれば、我が国の唐に対する防波堤の意味も込めて、一切のしがらみを捨てて新羅と「大人の関係」を結ぼうというのがその真意でした。
しかし、こうした「現実的」な考えは、「新羅憎し」の感情を優先させる天智天皇や大友皇子には受けいれられず、両者はいつしか対立するようになりました。そして671年10月、天智天皇は大海人皇子を宮廷内に呼びつけられると「天皇の地位を譲る」と仰られました。
「これは罠だ」と直感した大海人皇子はこの誘いを断り、直ちに出家して吉野へ向かい、政治的野心のないことをアピールしました。
天智天皇は同じ年の12月に46歳で崩御されました。天皇の崩御は単なる後継争いだけでなく、我が国の今後の外交路線も含めた大きな流れの中で、避けることの出来ない波乱の予感を漂(ただよ)わせていました。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
弟の方が、一段崇高な考え方をする人物だったのですね。
確かにいつまでも角を突き合わせてばかりでは
何の発展も解決策にもならないでしょうし、それよりも
自国の今後の為には、嫌な相手でも仲良くしていかなければいけないことを先読みしていたとはすごいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
恩讐を越えて、大人の付き合いができるのが国益にかなった外交ですからね。現代の日米軍事同盟のように…。
東国の兵士を味方に付けた大海人皇子は、近江や大和へ向かって軍を進めました。近江朝廷側も善戦しましたが、結局は敗北し、大友皇子は自殺しました。大海人皇子が大友皇子を破ったこの戦いを、当時の十干十二支(じっかんじゅうにし)から「壬申の乱」といいます。
大海人皇子が勝利できた最大の原因は、東国の下級役人や地方豪族が皇子に従ったからでした。一方、大友皇子は西国に対して自分の味方になるように説得しましたが、いずれも拒否されました。なぜこのようなことになったのでしょうか。
その理由の一つとしては、天智・大友父子の「反新羅」の外交政策に対する反発が挙げられます。我が国の未来のために、恩讐を越えて新羅との関係を修復しようとする大海人皇子の考えが全国に受けいれられたといえるでしょう。
では、もう一つの理由とは何でしょうか?
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
和の精神をまずは第一と考える日本人の意見が
後押しをしたのですね!
後もう一つですか・・
わかりません(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 和の精神をまずは第一と考える日本人の意見が
> 後押しをしたのですね!
そうなりますね。我が国の平和を第一に考えた結果だと思います。
> 後もう一つですか・・
> わかりません(^^ゞ
さて、なんでしょうか?
一方、民衆の考えに近い下級役人や地方豪族の立場からすれば、中央豪族の私有に甘んじるよりも、大海人皇子を支持して彼の下で国づくりを進めた方が、遥(はる)かに理想的といえました。
これらの理由があったからこそ、一種のクーデターともいえる壬申の乱が成功したのでしょう。なお、大友皇子は、壬申の乱から約1200年後に、明治政府によって「弘文天皇(こうぶんてんのう)」の名を贈られています。
壬申の乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位され、天武天皇(てんむてんのう)となられました。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
いわゆる民主主義政治の先駆けと言える改革を
行ったために勝利したと言う事でしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > いわゆる民主主義政治の先駆けと言える改革を
> 行ったために勝利したと言う事でしょうか?
結論的にはそうなりますね。改新事業の後退は、中央豪族という「既得権者」にとっては旨みがあっても、名もなき国民には不利になるばかりですから。
その他にも、中華の法体系にならった律令や、我が国の歴史書である国史の編纂(へんさん)を開始されたり、我が国初の銭貨(せんか)となる富本銭(ふほんせん)の鋳造を行われたりしました。
外交面では新羅との国交を回復させ、遣新羅使を何度も派遣される一方で、唐との国交を一時的に断絶されました。この結果、我が国は新羅という独立国家をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができたのです。なお、遣唐使の復活は8世紀当初まで待つことになります。
また、天武天皇は自身(=天皇)が中心となる力強い国家体制の確立を目指されて、中華の都城(とじょう)にならった本格的な宮都である藤原京(ふじわらきょう)の造営を開始されるなど、様々な政策を行われましたが、こうした大胆な改革を実現できたのも、壬申の乱によって中央の豪族などの「抵抗勢力」を排除したことで、改新への事業が勢いづいたからだと考えられます。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
下手に対立するよりも、調子の良い相手を上手く
利用して、他国の関係を良くして行こうとした考えは畏れ入りますね^^;
それとは別な話ですが、
広島に黒田選手が戻って来るそうですね!
おめでとうございます♪
オバrev この時代、老いぼれた私の頭に残っている教科書的知識は、天智天皇~天武天皇~聖武天皇ですが、天武天皇の行った改革の中身については教科書には殆ど出てこなかったように思います。
歴史的意味があまりなかったのか、歴史的研究が昔はあまり行われていなかったのか、どうなんでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 下手に対立するよりも、調子の良い相手を上手く
> 利用して、他国の関係を良くして行こうとした考えは畏れ入りますね^^;
仰るとおりですね。
これぞ外交の真髄だと思います。
> それとは別な話ですが、
> 広島に黒田選手が戻って来るそうですね!
> おめでとうございます♪
8年ぶりですからね。本当にうれしい限りです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この時代、老いぼれた私の頭に残っている教科書的知識は、天智天皇~天武天皇~聖武天皇ですが、天武天皇の行った改革の中身については教科書には殆ど出てこなかったように思います。
>
> 歴史的意味があまりなかったのか、歴史的研究が昔はあまり行われていなかったのか、どうなんでしょうか?
他の時代に比べて地味であることが原因かもしれませんね。
あるいは、朝鮮半島との絶妙な外交関係が、今の時代に知られたくないとか…。
ところで、我が国の「日本」という国号は、689年につくられた飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)によって正式に定められたと考えられていますが、それから約1300年以上を経た現代まで、この国名は全く変わることなく使われ続けています。
チャイナや朝鮮半島などの国々が、王朝が変わるごとに国名が変わってきたことと比較すると、それが特別のことであるのが理解できますね。
我が国の国名が長い年月のあいだ変わっていないのは、チャイナや朝鮮半島などのように王朝が変わって国が途絶えたり、あるいは他の民族にとってかわられたりすることがなかったからです。我が国は世界でもっとも長い歴史を持つ国なのです。
私たち日本国民は、我が国の悠久の歴史を誇りに思うと同時に、子々孫々に至るまで繁栄させるための努力を重ねなければなりません。混迷続く今の世の中であればこそ、一人ひとりの覚悟が問われているのではないでしょうか。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。
(※第45回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[12月29日]からは通常の更新[=平成時代]に戻ります)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど!
よく中国4千年の歴史が。。などと
言われたりしますが、そう言われてみると
日本という国の名前のままで長い歴史があるのは
我が国が唯一だという事なのですね!
本当に、この伝統だけは守り続けていきたい
ものですね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
1300年以上にわたって受け継がれてきた歴史を、私たちの代で終わらすわけにはいきませんからね。