幕府の実権は、当初は管領(かんれい)の細川氏が握(にぎ)りましたが、細川晴元(ほそかわはるもと)がやがて執事(しつじ)の三好長慶(みよしながよし)に倒され、その長慶も家臣の松永久秀(まつながひさひで)の台頭(たいとう)を許すことになりました。
諸国においても、守護大名が京都で幕政を担当している間に守護代(しゅごだい)や家臣に実権を奪われたことで、その多くが没落していきました。名門や旧家が滅びる一方で、まさに下剋上(げこくじょう、力があれば身分の上下に関わらず出世ができる風潮のこと)の名のもとに、戦国大名(せんごくだいみょう)と呼ばれた新興勢力による大名が各地で続々と誕生していったのです。
戦国大名は、自己の実力によって獲得(かくとく)した領国(りょうごく、別名を分国=ぶんこく)を治(おさ)めました。これらの戦国大名が活躍した、応仁の乱から室町幕府が滅亡するまでのおよそ100年間を戦国時代(せんごくじだい)といいます。
ちなみに、松永久秀は主君の三好長慶を裏切ったのみならず、1565年には第13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)を暗殺し、さらに1567年には東大寺(とうだいじ)に放火して大仏殿が焼け落ちるという大惨事(だいさんじ)を引き起こしており、戦国時代きっての梟雄(きょうゆう、残忍で強い人物のこと)と呼ばれています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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サクラ 戦国時代って、何でもアリですね~。
私は昔、戦国大名って「伯耆国」とか「因幡国」とかを治めていたかと思っていたんですよ。
ところが鳥取県で有力だった南條氏っていうのは、伯耆国の東側だけを治めていたんですね。
しかもそれだけじゃなくって、私の通っていた幼稚園の部分だけを治めていた大名(?)もいたらしいですし。
そんな混乱期が、百年にも渡ったんですね~。
明治時代に始まった戦国時代が今終わったものと考えると、気の遠い話です。
サクラさんへ
黒田裕樹 ひとくちに戦国大名といっても、当初は一国すべてを領有しているのはむしろ少数派でした。
仰るような「猫の額(ひたい)」ほどの領地しか所有していない大名、というより国人が多数であり、彼らを取り仕切って家臣に組み入れたのが大名となっていったという図式もあります。
もっとも、同じくほんのわずかな領地から中国地方の大半を領有するまでに至った毛利元就のような大名も存在するところが、戦国時代の面白さでもあるわけですが(第5回の歴史講座に詳しく書いています)。
> そんな混乱期が、百年にも渡ったんですね~。
> 明治時代に始まった戦国時代が今終わったものと考えると、気の遠い話です。
100年は長いですからね。確かに気の遠くなる話ではあります。
ぴーち こんばんは!
戦国時代とは、100年間も続いたんですか!
この時代に生まれ、平和を知らずに一生を終えた人もいたという事実を思うと、せつないですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 戦国時代とは、100年間も続いたんですか!
> この時代に生まれ、平和を知らずに一生を終えた人もいたという事実を思うと、せつないですね。
確かに100年といえば人間の平均的な一生よりも長いですからね。
現代の平和に生きる私たちは、その有難みをもっと感謝しなければいけません。
黒田先生
風早 りら 応仁の乱から室町幕府が滅亡する100年間が戦国時代だったんですか
こんなに 長いとは 知りませんでした
庶民は どんなに 逃げ回り
苦しいことだった事でしょう
いつの時代も犠牲が 一番 大きいのは
庶民ですよね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 応仁の乱から室町幕府が滅亡する100年間が戦国時代だったんですか
> こんなに 長いとは 知りませんでした
> 庶民は どんなに 逃げ回り
> 苦しいことだった事でしょう
> いつの時代も犠牲が 一番 大きいのは
> 庶民ですよね
そうですね。
力あるものが世の中を支配する戦国時代は、弱いものは常に虐げられるという厳しい時代でもありました。
ただ、身分にかかわらず、強い者は誰しもが出世の機会が与えられた時代でもありました。その最たるものが豊臣秀吉ですね。
しかし、後に鎌倉公方が下総(しもうさ、現在の千葉県北部など)の古河公方(こがくぼう)と伊豆(いず、現在の静岡県南東部など)の堀越公方(ほりこしくぼう)とに分裂すると、上杉氏も山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)の両家に分かれてお互いに争うようになりました。
これらの混乱に乗じた伊勢宗瑞(いせそうずい)は、京都から下って15世紀末に堀越公方を滅ぼすと、相模(さがみ、現在の神奈川県)の小田原に進出して、伊豆・相模の2ヵ国を領する大名となりました。
なお、伊勢宗瑞の子の氏綱(うじつな)が後に北条氏(ほうじょうし)を名乗ったため、宗瑞の名は今日では北条早雲(ほうじょうそううん)と呼ばれています。なお、北条氏は氏綱やその子の北条氏康(ほうじょううじやす)によって古河公方も滅ぼし、関東の大半を支配する大名となりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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風早 りら 「 関東の大半を支配する大名 」
今 現在 関東に 住んでいる 私には
大変 興味があります
現在の神奈県 静岡県 千葉県
この頃から 有名だったのですね
明日も楽しみにしていますね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「 関東の大半を支配する大名 」
> 今 現在 関東に 住んでいる 私には
> 大変 興味があります
> 現在の神奈県 静岡県 千葉県
> この頃から 有名だったのですね
> 明日も楽しみにしていますね
そういえば今回(13日)はりらさんにとってご当所でしたね。
関東地方を治めた北条氏の活躍は結構古かったんです。
次回以降もぜひお楽しみ下さい。
甲斐(かい、現在の山梨県)では守護大名だった武田氏(たけだし)がそのまま戦国大名となり、武田信玄(たけだしんげん、出家前の名は晴信=はるのぶ)が信濃(しなの、現在の長野県など)に進出すると、謙信と信玄は北信濃の川中島(かわなかじま)で何度も激突(げきとつ)しました。これを川中島の戦いといいます。
東海では守護大名の流れをくむ今川義元(いまがわよしもと)が駿河(するが、現在の静岡県東部)を本拠(ほんきょ)として勢力を拡大し、他には三河(みかわ、現在の愛知県東部)の松平氏(まつだいらし)や尾張(おわり、現在の愛知県西部)の織田氏(おだし)、美濃(みの、現在の岐阜県南部)の斎藤氏(さいとうし)らが存在しました。
中国では守護大名の大内氏(おおうちし)が強大な力を持っていましたが、16世紀半ばに大内義隆(おおうちよしたか)が家臣の陶晴賢(すえはるかた)によって倒されると、その晴賢を安芸(あき、現在の広島県西部)の国人(こくじん、地方の豪族のこと)出身の毛利元就(もうりもとなり)が滅ぼし、山陰地方(さんいんちほう)の尼子氏(あまごし)と激しく争いました。
この他、四国では長宗我部氏(ちょうそかべし)が、九州では大友(おおとも)・龍造寺(りゅうぞうじ)・島津(しまづ)の各氏が、また東北では伊達氏(だてし)らが有力な戦国大名として君臨(くんりん)していました。




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ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると、戦国時代に活躍していた武将の名前は今でも有名な方ばかりで、本当に日本全国、北から南まで戦いが繰り広げられていたのですね~改めて、驚きました!!
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こうして伺っていると、戦国時代に活躍していた武将の名前は今でも有名な方ばかりで、本当に日本全国、北から南まで戦いが繰り広げられていたのですね~改めて、驚きました!!
確かにそうそうたる顔ぶれですね(^^ゞ
戦国時代という名に嘘はないということがよく分かります。
紗那 戦国時代……!
いつの間にか講座の方も話が進んでたのですね!
しかし、あまりに興味ありすぎて今回の内容は知ってることばかりでした←
あ、でもそれはそれでいいことですよね♪
紗那さんへ
黒田裕樹 > 戦国時代……!
> いつの間にか講座の方も話が進んでたのですね!
そうなんです(笑)。
やっと戦国時代に入りましたが、まだ先は長い…。
> しかし、あまりに興味ありすぎて今回の内容は知ってることばかりでした←
> あ、でもそれはそれでいいことですよね♪
もちろんそうですよ(^^♪
まずは有名な戦国大名の紹介ですが、ここからは専門的な内容になるかも!?
上杉謙信は
オバrev あれ~、上杉謙信は関東管領だったんですか(O_O)
その後、信濃に移ったんでしょうか。
それにしても、この戦国時代に生き残るのは大変だったんでしょうね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > あれ~、上杉謙信は関東管領だったんですか(O_O)
> その後、信濃に移ったんでしょうか。
長尾景虎は1561年に関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ)からその地位を譲られ、名を上杉政虎(うえすぎまさとら)と改めています。そして、同じ年に信玄との死闘で有名な4回目の川中島の戦いが起きているんですよね。
ちなみに、謙信と名乗ったのは1570年です。
> それにしても、この戦国時代に生き残るのは大変だったんでしょうね。
群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の世ですからね。勢力争いは半端(はんぱ)ではなかったでしょう。
:黒田裕樹さん
風早 りら 上杉謙信
武田信玄
今川義元
毛利元就
馴染みの深い 名前 登場
益々 楽しみに なってきました
戦国時代のお話 やはり 心トキメキますね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 上杉謙信
> 武田信玄
> 今川義元
> 毛利元就
> 馴染みの深い 名前 登場
> 益々 楽しみに なってきました
> 戦国時代のお話 やはり 心トキメキますね
このあたりは有名どころですからね。
次回(15日)からは戦国大名の統制力について探ってみたいと思います。
連コメですが
オバrev あ~、なるほど。越後に居ながら関東管領の職を兼務したってことですか?
オバrevさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、連コメも歓迎しますよ(笑)。
> あ~、なるほど。越後に居ながら関東管領の職を兼務したってことですか?
そのとおりです。もともとこの頃までには関東管領は有名無実化していましたからね。
謙信が関東管領を引き受けたことで、北条氏とは宿敵となってしまったことが、後の謙信の行動の大きな制約になった可能性が高いですね。
国人や地侍らの収入としては、耕地に課せられた税を銭に換算(かんざん)した貫高(かんだか)という基準が用いられ、彼らの地位や収入を保障する代わりに、貫高に見合った一定の軍役(ぐんやく)を負担させました。これを貫高制(かんだかせい)といい、戦国大名の軍事制度の基礎を固める効果をもたらしました。
また、戦国大名は強力な軍を編成するため、有力な家臣を寄親(よりおや)とし、その下(もと)に一般の武士を寄子(よりこ)として配属させました。これを寄親・寄子制といいます。
寄親・寄子制によって戦国大名は、鉄砲(てっぽう)や長槍(ながやり)などの新兵器を使った集団戦も可能となったのでした。




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ぴーち こんばんは!
鉄砲の日本伝来は、室町時代くらいでしたか?(素朴過ぎる質問ですみません^^:)
戦国時代に鉄砲がポピュラーに使用されるようになったんですね。寄親、寄子なんて初めて聞きました!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 鉄砲の日本伝来は、室町時代くらいでしたか?(素朴過ぎる質問ですみません^^:)
> 戦国時代に鉄砲がポピュラーに使用されるようになったんですね。寄親、寄子なんて初めて聞きました!
鉄砲の伝来は室町後期(戦国中期)の1543年です。そのうち講座でも紹介しますよ。
寄親・寄子制は高校の日本史で学びます。この制度が確立してから、軍勢を編成しやすくなったんですよね。
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紗那 わわわ、一気に専門的な話に踏み込んでいきましたね!
全然知らない話ばかりに!
戦国大名も頭を使って、いろいろな方面(政治的・軍事的・金銭的など)から自分の国を統治して、他大名を制服、または対抗する工夫をしてたということでしょうか。
こういう話を聞くと、ますます興味が湧いてきます!
はじめまして
梵天丸 はじめまして黒田様。
以前から、こちらで勉強させていただいております。
一度お礼とご挨拶を、と思っておりました。
私も一応歴史に関係するブログをやってるのですが、
ほとんど知識がないもので、ここでの勉強がたいへん
役に立っております。
これからもどうぞよろしくお願いします。
紗那さんへ
黒田裕樹 > わわわ、一気に専門的な話に踏み込んでいきましたね!
> 全然知らない話ばかりに!
今日の内容は高校生で初めて学ぶ内容ですからね。
もちろん、覚えておいて損はないですよ(^^♪
> 戦国大名も頭を使って、いろいろな方面(政治的・軍事的・金銭的など)から自分の国を統治して、他大名を征服、または対抗する工夫をしてたということでしょうか。
そのとおりです。食うか食われるかの戦国時代ですから、各大名はそれぞれ知恵を絞って様々な工夫をしていました。しばらくはその具体的な内容の更新が続きますよ。
> こういう話を聞くと、ますます興味が湧いてきます!
大変良いことです(^o^)/
次回以降もぜひお越し下さい!
梵天丸さんへ
黒田裕樹 こちらこそはじめまして。
いつも当ブログへお越し下さいましてありがとうございます。
梵天丸さんのお役に立ててうれしく思います。
私も負けないように頑張らないといけませんね♪
これからもよろしくお願いします。
黒田裕樹さん
風早 りら 貫高制
寄親・寄子制
今まで 知らなかった事ばかりです
戦国大名も かなり 頭脳を使って
計算して 戦国の世を 駆け抜けていたのですね
興味深く 今日も 拝見しました
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風早りらさんへ
黒田裕樹 > 貫高制
> 寄親・寄子制
> 今まで 知らなかった事ばかりです
> 戦国大名も かなり 頭脳を使って
> 計算して 戦国の世を 駆け抜けていたのですね
> 興味深く 今日も 拝見しました
有難うございます。
いくら武力がある戦国大名といっても、家臣団の一つも統制できないようではどうしようもないですからね。
様々な工夫をしながら強くなっていった様子が、講座の中からご理解いただければ幸いです。
分国法はそれまでの幕府や守護によって定められた法を継承(けいしょう)したほか、家の慣習法を成文化したものが多く、また私闘(しとう)を行った当事者の双方を処罰(しょばつ)してすべての紛争(ふんそう)を大名による裁定に委(ゆだ)ねるとした喧嘩両成敗法(けんかりょうせいばいほう)によって、家臣団の統制の強化を目指しました。
有名な分国法としては、朝倉氏の朝倉敏景十七箇条(あさくらとしかげじゅうしちかじょう)や武田氏の甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)、今川氏の今川仮名目録(いまがわかなもくろく)、伊達氏の塵芥集(じんかいしゅう)などがあります。
また、戦国大名は新たに獲得(かくとく)した領地に対してしばしば検地(けんち)を行いましたが、この検地は家臣である領主などに耕地の面積や収入額などを自己申告させるもので、指出検地(さしだしけんち)と呼ばれています。
検地によって農民の耕作面積や年貢量などが検地帳(けんちちょう)に登録され、戦国大名が農民の耕作権を保障する代わりに農民に対する直接支配を強化するとともに、荘園制度の根幹(こんかん)であった名田(みょうでん)の解体が進む結果をもたらしました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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オバrev 検地は、秀吉が最初ではなかったんですね。初耳です。
戦国時代は、戦争ばかりではなく、大きな時代変化に各地区の大名は工夫をこらしていたんですねぇ。
ところで秀吉と言えばもう一つ、刀狩りをしましたが、これは秀吉のオリジナルのような気がしますが、どうでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 検地は、秀吉が最初ではなかったんですね。初耳です。
検地そのものは戦国時代から行われていました。ただ、この頃は農民たちの「自己申告制」による検地だったので、極端な言い方をすればいくらでも「ごまかし」が可能でした。秀吉のように実地検分で行うようにするためには、それこそ天下を統一しようかとするだけの強大な武力が背景になければ、戦国の世では生命がいくつあっても足りないという状況もあったのです。
> 戦国時代は、戦争ばかりではなく、大きな時代変化に各地区の大名は工夫をこらしていたんですねぇ。
> ところで秀吉と言えばもう一つ、刀狩りをしましたが、これは秀吉のオリジナルのような気がしますが、どうでしょうか?
刀狩そのものは、柴田勝家が先に行ったという説もあるようですね。
サクラ あ、自己申告制だったんですね!
なんか、現代と同じですね。
さすがに怪しければ、
太閤検地の画期的だった理由が解かりました。
サクラさんへ
黒田裕樹 > あ、自己申告制だったんですね!
> なんか、現代と同じですね。
> さすがに怪しければ、
> 太閤検地の画期的だった理由が解かりました。
そのとおりです。実地検分をするのとしないのとでは天と地ほどの差がありますからね。
この当時は誰しもが武力を持っていましたし、ましてや農民の集団一揆の可能性もありましたから、実地検分をしたくても生命の危険があってできませんでした。
秀吉のように強大な武力を背景にしなければ不可能だったのです。
黒田裕樹さん
風早 りら 検地はこの頃から行われるようになったのですね
農民は 厳しい規則になったとも言えますよね
農民に対する直接支配ですものね
この頃 の農民の方々の ご苦労
大変だったことでしょう
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 検地はこの頃から行われるようになったのですね
> 農民は 厳しい規則になったとも言えますよね
> 農民に対する直接支配ですものね
> この頃 の農民の方々の ご苦労
> 大変だったことでしょう
領地内の生産力を上げるために、農民への負担を増やしたことは十分考えられます。
ただ、この頃の見地は自主申告だったために「ごまかし」も可能な制度でした。
その分、農民がしたたかに生きていけた時代であったとも言えるでしょう。
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城下はやがて人や物資が集まる中心地となり、大名の居城(きょじょう)を中心に城下町(じょうかまち)が形成されました。この当時の有名な城下町としては、北条氏の小田原や今川氏の府中(ふちゅう)、上杉氏の春日山(かすがやま)、朝倉氏の一乗谷(いちじょうだに)などがあります。なお、今川氏の府中は領国である「駿」河の「府」中として駿府(すんぷ)と呼ばれました。現在の静岡です。
この他にも、戦国大名は鉱山(こうざん)の開発や治水(ちすい)の事業などを積極的に行うとともに、領国内の関所の廃止や商業の発展のために組合である座(ざ)を廃止して商品の流通を促進(そくしん)し、また領国内の宿駅(しゅくえき)や伝馬(てんま)などの交通制度を整えて城下町を中心として領国を一つの経済圏(けいざいけん)のまとまりとしました。
ただ、この当時の戦国大名の兵力の大半が平時は農作業を行う農民兵(のうみんへい)であり、彼らは地方への長期間の滞在(たいざい)が事実上不可能であったこともあって、各大名は天下統一よりも周辺諸国への領地拡大を目指していました。




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サクラ 戦国時代って、始終国が荒れてるイメージでした。
それどころか、水害とか、飢饉とか。
けれども戦国大名は自らの力で国を守っていましたし、農民との結びつきも強かったんですね。
兵を出しすぎれば、大戦末期みたいに食糧不足もおきますし。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 戦国時代って、始終国が荒れてるイメージでした。
> それどころか、水害とか、飢饉とか。
> けれども戦国大名は自らの力で国を守っていましたし、農民との結びつきも強かったんですね。
> 兵を出しすぎれば、大戦末期みたいに食糧不足もおきますし。
そのとおりです。戦国大名といえども、攻め込むだけでなく領地を守ることの方が重要でした。
そのためにあらゆる政策を行うとともに、いざ出兵の際には兵糧が尽きることのないよう、また生産性が落ちることのないよう気を付けていたんですよね。
そうめん この時代の静岡県は駿府と呼ばれていたんですか・・。
ずっと駿河かと思っていました。
参考になりました(^^;)
城下町は色々な地方にあったんですね。
そこは人や物資が集まる中心地という事から、とても賑わっていたんですね。
そうめんさんへ
黒田裕樹 > この時代の静岡県は駿府と呼ばれていたんですか・・。
> ずっと駿河かと思っていました。
> 参考になりました(^^;)
静岡県というよりは静岡市ですね。
駿河の中心=県の中心であることは変わっていないようです。
> 城下町は色々な地方にあったんですね。
> そこは人や物資が集まる中心地という事から、とても賑わっていたんですね。
小規模な城下町は全国にありました。
ただ、それを自己の領地内で全国的に、しかも計画的に行った武将がいたのです。
それは誰かというと…?
ぴーち こんばんは!
私の住む所にも、伝馬町という町名が存在しますが、元辿れば戦国時代にまで遡るのですね~!
駿府というのは、時代劇でよく耳にしておりました(^^A
戦に備えて、色々な準備が着々と整備されいった時代でもあるんですね!
応援凸
紗那 戦国時代の農民兵しか組織されていなかった時代は、多分一般の人が想像してるのより、ずっと平和だったのでしょうね。
とりあえず、大名が防備を固めてくれているわけですし。
まぁ、農民兵だけでなく、正規軍が組織されるようになると話は変わってくるのでしょうが……w
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 私の住む所にも、伝馬町という町名が存在しますが、元辿れば戦国時代にまで遡るのですね~!
> 駿府というのは、時代劇でよく耳にしておりました(^^A
> 戦に備えて、色々な準備が着々と整備されいった時代でもあるんですね!
伝馬町は東京にもありますから、探せばもっと各地にもあるでしょうね。
やっぱりいつ戦争があるか分からない時代ですから、平和慣れした現代とは違って、危機管理がしっかりと出来ていたと考えるべきでしょうね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 戦国時代の農民兵しか組織されていなかった時代は、多分一般の人が想像してるのより、ずっと平和だったのでしょうね。
> とりあえず、大名が防備を固めてくれているわけですし。
> まぁ、農民兵だけでなく、正規軍が組織されるようになると話は変わってくるのでしょうが……w
農民兵は平時はすべてが手作業という重労働な農業に従事させられて、いざ戦争となったら命がけで戦わねばなりませんでしたから、その負担は想像を絶する大きいものだったかもしれませんよ。
その一方で戦争専門の兵力は、普段は訓練だけを行っていればよいですから、まだマシだったといえるのかもしれませんが…。
黒田裕樹さん
風早 りら 戦国大名は 革新的な ことを
かなりしていたのですね
鉱山の開発や治水の事業まで
関所を廃止し商業の発展させた
城下町を中心として領国を一つの経済圏のまとまりとした
また 知識が増えました
ありがとう 学ぶ喜び感じます
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 戦国大名は 革新的な ことを
> かなりしていたのですね
> 鉱山の開発や治水の事業まで
> 関所を廃止し商業の発展させた
> 城下町を中心として領国を一つの経済圏のまとまりとした
> また 知識が増えました
> ありがとう 学ぶ喜び感じます
各大名が生き残りをかけて戦っているわけですから、必然的に経済圏のまとまりが求められるわけですね。
人間は必要に迫られないと動かないものかもしれません。
一方、この頃には各地の寺院が参詣者(さんけいしゃ)の増加に努めたために、門前町(もんぜんまち)や寺内町(じないまち)が発展しました。特に寺内町には門徒(もんと、宗門を同じくする信徒のこと)の商工業者が集結したことによって、新設の市場や町が開かれました。
主な門前町としては伊勢神宮の宇治・山田(うじ・やまだ、現在の伊勢市)や善光寺(ぜんこうじ)の長野などがあり、寺内町としては一向宗(いっこうしゅう)の摂津(せっつ)の石山(いしやま、現在の大阪市)や加賀の金沢などがあります。
なお、戦国大名の中には商業の発展のために市場の税を免除する楽市(らくいち)や、商業などにおける独占的な組合の座を撤廃(てっぱい)する楽座(らくざ)を行う者もいました。そして、この楽市・楽座を自己の領地で全国的に展開した一人の武将が、豊富な経済力をもとに天下統一へと近づくことになります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
「楽市楽座」は何とか記憶の片隅から引っ張り出すことが出来ました(笑)
今でいう所の、『税務署』管軸や、『独占禁止法』的な効力を意味していたのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「楽市楽座」は何とか記憶の片隅から引っ張り出すことが出来ました(笑)
> 今でいう所の、『税務署』管軸や、『独占禁止法』的な効力を意味していたのでしょうか?
なるほど、絶妙な例えですね(^^♪
税金を安くして商業を発展させ、人口を増やして結果として増収につながる…。
現代の政治にも見習ってほしいですね。
黒田裕樹さん
風早 りら 大阪市は摂津の石山だったんですね
黒田裕樹さんの地元ですね
それを知っただけで 今日は嬉しいですよ
「一人の武将が、豊富な経済力をもとに天下統一へと近づくことになります」
黒田裕樹さんの明日への期待抱かせる
お話の仕方 魅力的です
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 大阪市は摂津の石山だったんですね
> 黒田裕樹さんの地元ですね
> それを知っただけで 今日は嬉しいですよ
仰るとおり、石山は私の地元にあります。現在の大阪城近くですね。
> 「一人の武将が、豊富な経済力をもとに天下統一へと近づくことになります」
> 黒田裕樹さんの明日への期待抱かせる
> お話の仕方 魅力的です
有難うございます。
物語形式のブログである以上は、一話完結の中にもつながりのある内容でありたいと常に思っております。
今回の「明日への期待」は、23日の講座で明らかになりますよ。
また、交通手段の発達は人の流れを活発にして、行商(ぎょうしょう)や巡礼(じゅんれい、聖地や霊場をめぐって旅をすること)が盛(さか)んになったことにより、各地で港町(みなとまち)や宿場町(しゅくばまち)が繁栄(はんえい)しました。これらの都市の中には、富裕(ふゆう)な商工業者たちが自治(じち)の組織をつくり、堀(ほり)をめぐらすなどして防御(ぼうぎょ)を固め、大名から独立するものもありました。
代表的な港町としては、日明貿易(にちみんぼうえき)の根拠地(こんきょち)となった堺(さかい)や博多(はかた)、あるいは伊勢の桑名(くわな)などがあり、特に堺は36人の会合衆(かいごうしゅう、または「えごうしゅう」)、博多は12人の年行司(ねんぎょうじ)と呼ばれる豪商(ごうしょう)の会議によって市政が運営されるという、一種の自由都市(じゆうとし)の性格を持っていました。
なお、京都においても町衆(まちしゅう)と呼ばれた富裕な商工業者を中心に自治的団体である町(ちょう)が結成され、惣村(そうそん)と同じように独自の町法(ちょうほう)が定められました。さらに、町が集まって町組(ちょうぐみ)という組織がつくられ、町衆の自治組織は月行事(がつぎょうじ、または「がちぎょうじ」)と呼ばれる代表者によって自治的に運営されました。
ちなみに、これらの町衆が戦災で大きな被害を受けた京都を復興(ふっこう)したことによって、1500年には京都の最大の祭りである祇園祭(ぎおんまつり)が再興(さいこう)されています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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サクラ 商人までもが領土を持つとなると、ほんと戦国時代のイメージって崩れますね。
武将だけではなく、宗教家、商人までもが独立した領土を持つ時代――。
ひょっとしたら武将以外が天下統一を成し遂げた可能性もあったんじゃないかと思うと――ほんとどうなっていたんでしょうね。その後の日本史は。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 商人までもが領土を持つとなると、ほんと戦国時代のイメージって崩れますね。
> 武将だけではなく、宗教家、商人までもが独立した領土を持つ時代――。
> ひょっとしたら武将以外が天下統一を成し遂げた可能性もあったんじゃないかと思うと――ほんとどうなっていたんでしょうね。その後の日本史は。
確かに、戦国時代は誰しもが出世を夢見る時代でした。
ただ、天下統一を成し遂げようと思えば、それこそとんでもないエネルギーや長期にわたる計画性など、数多くの難しい条件がそろっていましたからね。
宣伝になっては申し訳ないのですが(笑)、次回の講座で何らかの回答が出せればと思っております(^^ゞ
ぴーち こんばんは!
京都の祇園祭りは、TVでは拝見したことはありますが、実物は未だ未見なんですが、
一度、戦災で中断されていたんですか!
存じませんでした(^^A
また再興されてよかったですね^^
ここら辺のお祭りには、見られない
趣やら、豪華さがありますので、このまま
ずっと平和のまま、継続していって
欲しいですね~。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 祇園祭のルーツは平安時代にまでさかのぼるそうですから、1000年を超える長い歴史を誇っているんですよね。
応仁の乱のほか、第二次大戦の際にも中断していますから、仰るとおり平和の象徴としてもずっと続いてほしいと思います。
黒田裕樹さん
風早 りら 有名な祇園祭の発祥のいわれが理解出来ました
この頃から 商業が 活発化され
豪商が 出て 千石船のような
名前のある 船まで 活躍するようになった
のですね
祇園祭り 見てみたくなりました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 有名な祇園祭の発祥のいわれが理解出来ました
> この頃から 商業が 活発化され
> 豪商が 出て 千石船のような
> 名前のある 船まで 活躍するようになった
> のですね
> 祇園祭り 見てみたくなりました
商業の発展はこの頃から目ざましくなりました。
町がにぎわう方が、祭りが盛り上がるに決まっていますからね。
祇園祭は宵山しか行ったことがありませんが、独特の雰囲気が楽しいですよ。
ただ、時期が時期だけにものすごく蒸し暑いんですけどね(笑)。
紗那 幕府や朝廷が権威を持っていた時代は守護などが自国のことに専念出来ていたのが、戦国時代になって、外にも目を向けざるを得なくなると、その時に力があったところは独立することもあったということなんでしょうか。
祇園祭、そういう裏をしると、なんか見る目が変わりますw
紗那さんへ
黒田裕樹 > 幕府や朝廷が権威を持っていた時代は守護などが自国のことに専念出来ていたのが、戦国時代になって、外にも目を向けざるを得なくなると、その時に力があったところは独立することもあったということなんでしょうか。
そのとおりですね。誰しもが出世できるということは、油断していれば足元をすくわれますから、実力を維持するのも大変だったというわけです。
> 祇園祭、そういう裏をしると、なんか見る目が変わりますw
長年続いていますからね。いろんな歴史があるんですよ(^^♪
大航海時代の先頭に立っていたのは、早くから絶対主義の王国を形成していたイベリア半島の王国であるイスパニア(=スペイン)とポルトガルでした。両国は産業や貿易を保護して輸出を拡大し、国富(こくふ、ここでは国家の財産全体のこと)の増大を目指す重商主義(じゅうしょうしゅぎ)に基(もと)づいて、植民地の獲得に力を注ぎました。
やがてイスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島(しょとう)を占領して、ルソン島のマニラを根拠地(こんきょち)としました。
一方、ポルトガルはインド洋で貿易を行っていたアラブ人を追い出すと、インド西海岸のゴアを根拠地として東へ進出し、マレー半島のマラッカから明(みん)のマカオにも拠点を築きました。要するに、イスパニアは西廻(まわ)りで、ポルトガルは東廻りでそれぞれアジアに進出したことになります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
日本は戦国の世だと言うのに、西洋では既に近代化に向けてのエンジンが掛かり始めていたんですね。
最近特に思うのですが。。
これは私の偏った考え方で恐縮なのですが、余りにも急速に成長を遂げた国というのは、身を滅ぼすのも早まるもので、大河が流れる如く、ゆっくりと時間を掛けて少しずつ成長した国との比ではない様に存じます。
今回、領土問題で騒ぎを起している国も何千年という重く貴重な歴史を今世紀で消耗してしまわないことを願うばかりですが。。
サクラ このころから西洋人が日本に渡ってくるんですね。
案外グローバルだったことに驚かされます。
『フロイスの日本史』なんか興味深そうなので、読んでみようかと思っています。
語学の観点から、当時の発音も知りたいですし。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本は戦国の世だと言うのに、西洋では既に近代化に向けてのエンジンが掛かり始めていたんですね。
そうですね。我が国の戦国時代も近代化が進む可能性はあったのですが、鎖国状態に入ってしまいましたからねぇ…。
> 最近特に思うのですが。。
> これは私の偏った考え方で恐縮なのですが、余りにも急速に成長を遂げた国というのは、身を滅ぼすのも早まるもので、大河が流れる如く、ゆっくりと時間を掛けて少しずつ成長した国との比ではない様に存じます。
> 今回、領土問題で騒ぎを起している国も何千年という重く貴重な歴史を今世紀で消耗してしまわないことを願うばかりですが。。
なるほど、そういう視点もありますよね。
「何でも自分の思い通りになる」という考えは、国際社会ではそう簡単には通用しませんからね。
サクラさんへ
黒田裕樹 > このころから西洋人が日本に渡ってくるんですね。
> 案外グローバルだったことに驚かされます。
欧州諸国が我が国にやってくるのはそれなりの理由があるんですよ。
次回(21日)以降の更新で明らかにしたいと思います。
> 『フロイスの日本史』なんか興味深そうなので、読んでみようかと思っています。
> 語学の観点から、当時の発音も知りたいですし。
フロイスの日本史は独特の視点から切り込んでいますからね。
きっと興味を持たれると思いますよ。
黒田裕樹さん
風早 りら 日本が戦国時代
ヨーロッパは大航海時代
凄い差ですよね
でも その半面
現在の日本を想うと
ここまで よく 頑張ったものですよね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 日本が戦国時代
> ヨーロッパは大航海時代
> 凄い差ですよね
> でも その半面
> 現在の日本を想うと
> ここまで よく 頑張ったものですよね
大航海時代と戦国時代とでは差が大きいと思われがちですが、それほどでもないんですよ。
いずれ詳しく紹介しますが、我が国の鉄砲の数は当時で世界一だと言われていますしね。
戦国時代は確かに生命が軽んじられていた時代ではありましたが、サバイバル性が強かった分、技術の進歩は素早かったんです。
当時のイスパニアとポルトガルとの間には、15世紀末の1494年、大西洋(たいせいよう)を東西に分ける一本の線が引かれ、この線から東側で発見されるものはすべてポルトガルに、西側で発見されるものはすべてイスパニアに属するという取り決めが、カトリックのローマ教皇(きょうこう)の承認によって結ばれました。これをトルデシリャス条約といいます。
まるで地球を饅頭(まんじゅう)を二つに割るかのように分割するというとんでもない発想ですが、これは当時の白人至上主義(はくじんしじょうしゅぎ)による人種差別に基づく当然の思想でもありました。そして両国は条約の取り決めを守りながら着実に植民地化を進め、その過程では南アメリカ大陸西側にあったインカ帝国や、メキシコ中央部にあったアステカ帝国という二つの国が滅ぼされ、国民の生命や財産、さらに文化が永遠に失われてしまうという悲劇が生じていたのです。
一方、当時の東アジア地域では明が倭寇(わこう)の鎮圧(ちんあつ)や密貿易の禁止のために海禁政策(かいきんせいさく)をとっていましたが、実際には明以外にも我が国や朝鮮・琉球・安南(あんなん、現在のベトナム)などの人々が幅広(はばひろ)く中継貿易を行っていました。そして、ヨーロッパ人による東アジアの進出は、これらの中継貿易に参加して莫大(ばくだい)な権益を得ようとする目的もあったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
確かに「大航海時代」などと聞くと
イメージとしては雄大で、明るい世界が思い浮かぶのですが、実際はそうでは無かったのですね。
関係のない話ですが、「ONE PIESE」なども「大海賊時代」などというスローガンを掲げていますが、シンプルに考えれば、殺し合いですものね(><)
インカや、アステカはこの頃の時代に消え去ってしまったのですね(TT)
チチカカ湖とか、クスコとか、そんなエキゾチックで神秘的な場所は一度現地をみて歩きたいという願望はありますねぇ^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに「大航海時代」などと聞くと
> イメージとしては雄大で、明るい世界が思い浮かぶのですが、実際はそうでは無かったのですね。
> 関係のない話ですが、「ONE PIESE」なども「大海賊時代」などというスローガンを掲げていますが、シンプルに考えれば、殺し合いですものね(><)
実際そうですからね。
海賊の楽しい冒険はあくまで漫画の世界。現実は激しい殺し合いで、見るに堪えませんからね(´・ω・`)
> インカや、アステカはこの頃の時代に消え去ってしまったのですね(TT)
> チチカカ湖とか、クスコとか、そんなエキゾチックで神秘的な場所は一度現地をみて歩きたいという願望はありますねぇ^^
白色人種ほど、他人や他国の文化や文明を滅ぼした人種はありませんからね。
我が国が島国で良かったなと思えるほどです。
せめて神秘的な場所に当時の面影を探ってみたいものですね。
黒田裕樹さん
風早 りら 植民地化
以前より 考えていました
何故 人間は ここまで 欲深いのかと
領土を広げること
戦争は全て そこから 始まっているかの
ようです 悲しいですよね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 植民地化
> 以前より 考えていました
> 何故 人間は ここまで 欲深いのかと
> 領土を広げること
> 戦争は全て そこから 始まっているかの
> ようです 悲しいですよね
そうですね。
特に白色人種は20世紀前半まで、有色人種の国を次々と植民地化して、何の罪もない人々を奴隷のごとく扱っていました。
この状態からようやく抜け出せたのはつい最近、60年ほど前です。
きっかけを作ったのは、結果として白色人種の国と激しく戦った有色人種の国、つまり我が国なんですよね。
これも歴史の事実の一つです。
ノー天気な日本人。
晴雨堂ミカエル 20年近く前でしたか、コロンブスの大西洋横断成功500周年記念に復元したサンタ・マリア号で航海するイベントがありました。嬉々として参加したのが日本人です。
これこそ国辱行為です。
韓国朝鮮・中国、そしてラプラタ王がいたフィリピンでは大航海時代の意味を学校でしっかり教えているのに、日本はチョモランマ初登頂と同じ感覚で紹介しています。愚かなことです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 20年近く前でしたか、コロンブスの大西洋横断成功500周年記念に復元したサンタ・マリア号で航海するイベントがありました。嬉々として参加したのが日本人です。
> これこそ国辱行為です。
> 韓国朝鮮・中国、そしてラプラタ王がいたフィリピンでは大航海時代の意味を学校でしっかり教えているのに、日本はチョモランマ初登頂と同じ感覚で紹介しています。愚かなことです。
そういえばありましたね。
歴史を知らないということは、世界中で笑いものにされるという痛々しい話でした。
一般人はもちろん、為政者にとっても大きな教訓のはずなのですが…。
紗那 教皇子午線とかトルデシリャス条約の話ですよね。以前にそういう条約が昔結ばれてたんだよ、という話を聞いて半信半疑だったんですが、この前の世界史の授業でほんとに出てきてびっくりしました。
小学生のときに国調べの宿題でペルーのことを調べたことがあり、インカ帝国に少なからずの愛着があります。
そのときはスペイン許すまじ、でしたけど、こういう歴史的経緯を知ると、仕方の無いことでもあったのかなと思いました。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 教皇子午線とかトルデシリャス条約の話ですよね。以前にそういう条約が昔結ばれてたんだよ、という話を聞いて半信半疑だったんですが、この前の世界史の授業でほんとに出てきてびっくりしました。
地球を真っ二つに割るなんて冗談のような話ですからね。
でも、当人たちは本気でできると思っていた節はありますね。実際に行動していましたから。
> 小学生のときに国調べの宿題でペルーのことを調べたことがあり、インカ帝国に少なからずの愛着があります。
> そのときはスペイン許すまじ、でしたけど、こういう歴史的経緯を知ると、仕方の無いことでもあったのかなと思いました。
この当時は「力あるもの」「武力を持っているもの」が当然のように支配する世の中でしたからね。
人間同士の秩序に関する歴史はまだ新しいものだとも言えますから。
手先が器用だった鍛冶職人(かじしょくにん)によって鉄砲はまたたく間に複製(ふくせい)されると、やがて貿易港でもあった堺などにおいて大量に生産され、各地の戦国大名に売り込まれました。
鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊(きばたい)を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方、雨の心配のない城の中ではいくらでも撃(う)てることから籠城戦(ろうじょうせん)に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきました。
ちなみに、ポルトガル人は鉄砲そのものを我が国に購入させる目的で種子島にわざと漂着したのではないかとも考えられています。その野望は我が国で鉄砲が大量生産されたことで潰(つい)えましたが、火薬の原料となる硝石(しょうせき)が我が国で生産されなかったことから、これを我が国に輸入することで貿易が成立することになりました。




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サクラ ほんと日本は技術大国ですよね。
当時世界一の銃保有国でしたし。
硝石に至っては、大量の糞尿や魚の腸で国内生産したという話も聞きます。
サクラさんへ
黒田裕樹 > ほんと日本は技術大国ですよね。
> 当時世界一の銃保有国でしたし。
> 硝石に至っては、大量の糞尿や魚の腸で国内生産したという話も聞きます。
そのとおりですね。
ただ、硝石については仰る方法で生産が軌道に乗ったのは江戸時代ですから、この当時は輸入に頼らざるを得なかったという事情もあります。
ぴーち こんばんは!
野望を胸に日本へ鉄砲を伝来したポルトガルも、
日本人の手先の器用さまでは計算外だったようですね。
やはり何事も侮ってはいけませんね。
それでも、その原料でもある硝石を大量に売ることが出来たのは、計算どおりだった様ですね。
ただでさえ、鉱物資源に乏しい日本ですものね。
所で、現在も中国が輸出制限しているレアアース問題も、
その代替素材が出来るようになれば、問題も
解決出来るんでしょうけれどね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 野望を胸に日本へ鉄砲を伝来したポルトガルも、
> 日本人の手先の器用さまでは計算外だったようですね。
> やはり何事も侮ってはいけませんね。
> それでも、その原料でもある硝石を大量に売ることが出来たのは、計算どおりだった様ですね。
> ただでさえ、鉱物資源に乏しい日本ですものね。
そうですね。
我が国の器用な手先もさることながら、目的をさっさと切り替えるポルトガルの計算高さも大したものです。
> 所で、現在も中国が輸出制限しているレアアース問題も、
> その代替素材が出来るようになれば、問題も
> 解決出来るんでしょうけれどね^^;
レアアースについては中国以外の国からの輸入に活路を見出そうとしているようですね。
いずれにせよ、代替素材の早期開発が望まれるところです。
紗那 鉄砲は日本の中世史を大きく揺るがしたのですね。
この当時は、歴史的に見ても、世界が大きく揺れた時代の一つではないかと思ってます。
ポルトガル人も抜け目ないですが、まさか日本人が鉄砲を自産するとは考えもしなかったでしょうね
紗那さんへ
黒田裕樹 > 鉄砲は日本の中世史を大きく揺るがしたのですね。
> この当時は、歴史的に見ても、世界が大きく揺れた時代の一つではないかと思ってます。
仰るとおり、鉄砲という新兵器は、我が国の合戦を革命的に変化させる大きな存在でしたからね。
また、我が国での鉄砲の総数は世界でも抜きんでいたといわれていますから、世界史レベルの出来事であったといえます。
> ポルトガル人も抜け目ないですが、まさか日本人が鉄砲を自産するとは考えもしなかったでしょうね
日本人の、しかも有色人種の手先の器用さや技術力の高さはまさに想定外だったことでしょう。しかし、そんな中でも貿易に活路を見出すあたりはさすがですね。
黒田裕樹さん
風早 りら 種子島時尭の名前 始めて知りました
鉄砲が 種子島からと言うのは
知っていたのですが種子島時尭の
ことは知りませんでした
火薬の原料 これも考えたことはなかったです
原料の硝石は日本では生産されなかったんですね
それも初めて知りました
ありがとうございます
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 種子島時尭の名前 始めて知りました
> 鉄砲が 種子島からと言うのは
> 知っていたのですが種子島時尭の
> ことは知りませんでした
> 火薬の原料 これも考えたことはなかったです
> 原料の硝石は日本では生産されなかったんですね
> それも初めて知りました
> ありがとうございます
種子島氏は地名から苗字を名乗ったようですね。足利氏や新田氏と同じです。
いずれにせよ、種子島時尭の活躍がなければ我が国の歴史は大きく退化していたかもしれません。
戦国時代の頃、硝石は国内では生産されなかったゆえにポルトガルとの貿易が成り立ちました。
それがまた我が国の歴史に大きな影響を与えるのです。
いつものことながら、歴史には大きな流れがありますね。
南蛮貿易は先に我が国に上陸したポルトガルを主体にして行われました。我が国には鉄砲やその火薬・香料(こうりょう)・中国の生糸(きいと)などが輸入され、我が国からの輸出品としては、当時生産量が増加していた銀のほか、金や刀剣がありました。
また当時の貿易港としては、松浦氏(まつらし)の平戸や大村氏(おおむらし)の長崎、大友氏(おおともし)の豊後府内(ぶんごふない、現在の大分市)などの九州地方が中心でした。
なお、ポルトガル人やイスパニア人が南蛮人と呼ばれたのに対して、17世紀初頭の頃から来日したイギリス人やオランダ人は紅毛人(こうもうじん)と呼ばれています。




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ぴーち こんばんは!
南蛮人というのはよく耳にしますが、
紅毛人というのは初めて聞きました!
確かに赤毛・・というイメージはありますね^^;
今でこそ、日本の金の採取量は高くないと思いますが(ココの所、よく存じません)
この当時で、採り尽くされてしまったのでしょうか。
それでは、応援凸
黒田裕樹さん
風早 りら ポルトガル人やイスパニア人が南蛮人
イギリス人やオランダ人は紅毛人
今では 全て 外国人
時代によって 変わってきますね
貿易 この頃は日本も 金や銀も輸出出来たのですね
今では そんな 資源はありません
頭で 貿易するしか ありませんよね
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 南蛮人というのはよく耳にしますが、
> 紅毛人というのは初めて聞きました!
> 確かに赤毛・・というイメージはありますね^^;
南蛮人と区別するために名付けたのでしょうが、特徴をよくとらえてますね(^^♪
> 今でこそ、日本の金の採取量は高くないと思いますが(ココの所、よく存じません)
> この当時で、採り尽くされてしまったのでしょうか。
戦国時代にヨーロッパの進んだ技術が伝えられたことで(例えば、より深く掘り進めることができるようになった)、特に秀吉の頃から江戸時代初期にかけて、金は空前の採掘量を誇るようになります。
ちなみに現代の我が国では、主に鹿児島で金が採掘され続けています。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > ポルトガル人やイスパニア人が南蛮人
> イギリス人やオランダ人は紅毛人
> 今では 全て 外国人
> 時代によって 変わってきますね
そうですね。
戦国時代までは西洋人と接する機会はありませんでしたから、当時はそのように名付けたのでしょう。
現代では同じ外国ですから、当然かつ分かりやすい呼称ですね。
ちなみに私たちも外国においては立派な外国人ですが(笑)。
> 貿易 この頃は日本も 金や銀も輸出出来たのですね
> 今では そんな 資源はありません
> 頭で 貿易するしか ありませんよね
輸出するものは、時代によって工夫が必要です。
頭で貿易をするのであれば、当然その頭を鍛えなけれなならない。
教育はいつの時代も重要ですね。
イエズス会による布教活動は、イスパニアやポルトガルによる植民地政策と一体化して行われました。布教の拡大によって地元住民にカトリックを信仰させ、その後に「神の名の下(もと)に」侵略を仕掛けることで容易に目的を達成できるという、いわばお互いの利害が一致した結果でした。
我が国との南蛮貿易も、実は布教活動と一体化させていたのであって、現実に1549年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主である島津貴久(しまづたかひさ)の許可を得て布教活動を開始しました。
ザビエルは鹿児島から京都にのぼった後、山口の大内義隆(おおうちよしたか)や豊後府内の大友宗麟(おおともそうりん、別名を義鎮=よししげ)らの大名の保護を受けてキリスト教(カトリック)の布教活動を続けました。
なお、当時のキリスト教はキリシタン(=切支丹)、あるいは天主教(てんしゅきょう)と呼ばれています。




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紗那 なるほど、一見関係の無いように思っていたことがここでも絡み合ってるんですね!
植民地政策の一環というわけですか。
日本ではどうだったんでしょうか……
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど、一見関係の無いように思っていたことがここでも絡み合ってるんですね!
> 植民地政策の一環というわけですか。
そのとおりです。政治や文化、あるいは宗教を別々に学習していると、こうした理解がなかなかできません。
「歴史の流れ」がいかに大切かということですね。
> 日本ではどうだったんでしょうか……
この頃はまだ大丈夫でした。しかし時代が進むと…。
黒田裕樹さん
風早 りら 宗教と植民地政策
宗教と政治
考えさせられます
宗教を そうした事に利用して欲しくないです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 宗教と植民地政策
> 宗教と政治
> 考えさせられます
> 宗教を そうした事に利用して欲しくないです
私たち日本人にとって、政教分離は当然のことですよね。
でも、諸外国は必ずしもそうではないのが現実です。
そして、かつての我が国でも…これはまた近々取り上げますね。
mari36 スペインと日本の出会いですね。もしかしたら、日本も南アメリカの国々のようになってしまったかもしれなかったのに..危ないところだったのでは、と思います。
mari36さんへ
黒田裕樹 > スペインと日本の出会いですね。もしかしたら、日本も南アメリカの国々のようになってしまったかもしれなかったのに..危ないところだったのでは、と思います。
各地におけるスペインの所業を鑑(かんが)みれば、仰るような危険性も十分にあったと思われるのは当然ですよね。
しかし、現実としてそうならなかったのは、やはり何らかの理由があるということでしょう。
では、その理由とは…いずれ講座で紹介しますね(^^♪
ポルトガル船がカトリックの布教を認めた大名領にした入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは南蛮貿易による権益の欲しさから宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、中には自らが洗礼を受けてキリシタン大名となるものも現れました。
キリシタン大名のうち、九州の大友宗麟や大村純忠(おおむらすみただ)、有馬晴信(ありまはるのぶ)らは、イタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって1582年に少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。これを当時の年号から天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)といいます。
カトリックによる教えは、ヨーロッパの進んだ文化にあこがれたり、あるいは既存の仏教を中心とした宗教勢力が権益を求めて争い合う姿勢に不満を持ったりした人々の間で急速に広まっていきましたが、その一方でキリシタン大名の大村純忠が、信仰心のあまり自領の長崎をイエズス会に寄進するという前代未聞(ぜんだいみもん)の行為も見られ、カトリックに潜(ひそ)む我が国侵略の野望は、水面下で確実に広がっていきました。
※次回(10月26日)からは第19回歴史講座の内容の更新を開始します。




いつも有難うございます。
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風早 りら 大村純忠が信仰心のあまり自領の長崎をイエズス会に寄進するという話は知りませんでした
それで長崎はその後 どうなったのですか
明日 お答え待っています
気になります
ぴーち こんばんは!
宗教は麻薬だなどと例えられますが、
麻薬以上の怖さも宗教には孕んでいる場合も多いと思います。
仰るとおり、特にカトリック系に関しては
日本人の西洋に憧れる要素が多分にあるものと思われます。
応援凸
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 大村純忠が信仰心のあまり自領の長崎をイエズス会に寄進するという話は知りませんでした
> それで長崎はその後 どうなったのですか
> 明日 お答え待っています
> 気になります
残念ながら明日からは23日の歴史講座の更新となりますので、以前に行った第11回の講座の中でりらさんの答えになりそうな記事を参考とさせていただきます。
a href="http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-439.html" target="_blank">http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-439.html
明日からもよろしくお願いします。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 宗教は麻薬だなどと例えられますが、
> 麻薬以上の怖さも宗教には孕んでいる場合も多いと思います。
> 仰るとおり、特にカトリック系に関しては
> 日本人の西洋に憧れる要素が多分にあるものと思われます。
今回の場合は宗教の中に大きな野望が潜んでいましたからなおさらですよね。
単なる憧れだけでは、世の中はうまくは渡っていけないのかもしれません。
関東の誠 「キリスト教伝来と隠された真実」が終わってしまうのですか?。もっと教えて頂きたかったです。非常にアバウトな分類ですが、古くからある自然崇拝の多神に対する信仰と旧約聖書以降の唯一神教との間に被征服者と征服者の関係があるように思い、その中で八百万神の日本が被征服者にならなかったことに非常に興味深さを感じていましたので、またの機会を楽しみにしております。
関東の誠さんへ
黒田裕樹 > 「キリスト教伝来と隠された真実」が終わってしまうのですか?。もっと教えて頂きたかったです。非常にアバウトな分類ですが、古くからある自然崇拝の多神に対する信仰と旧約聖書以降の唯一神教との間に被征服者と征服者の関係があるように思い、その中で八百万神の日本が被征服者にならなかったことに非常に興味深さを感じていましたので、またの機会を楽しみにしております。
キリスト教についてはもちろんこれからも講座で紹介していくことになりますが、時代が若干変わることになりますので(戦国→安土桃山)、日を改めて更新させていただきます。ご容赦下さい。
ちなみに、八百万の神様が被征服者にならなかったことにはそれなりの理由があると私は見ております。
mochimochi 大名が利益のために改宗したというのは、ほぼ正しいと思います。
ただ、全ての大名がそうであったとは思いません。
その辺少し繊細なことですので、”大勢の大名が~”としてほしかったです。
それと、私にとってキリスト教と茶道とは切っても切れないことなのです。というのは、ある情報では、これらの二つはお互い深いつながりがあると言ってるからです。実際、千利休の奥さんはクリスチャンであったとのことです。
ただ、この情報の信憑性はあまりないですが。。。
このシリーズ楽しみにしています。
ちなみに ”八百万の神様が被征服者にならなかったことにはそれなりの理由があると私は見ております。”
とても興味があるので良かったら教えてください。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 大名が利益のために改宗したというのは、ほぼ正しいと思います。
> ただ、全ての大名がそうであったとは思いません。
> その辺少し繊細なことですので、”大勢の大名が~”としてほしかったです。
なるほど、確かに一理ありますね。仰ることも考慮して内容を若干変更させていただきます。
> それと、私にとってキリスト教と茶道とは切っても切れないことなのです。というのは、ある情報では、これらの二つはお互い深いつながりがあると言ってるからです。実際、千利休の奥さんはクリスチャンであったとのことです。
> ただ、この情報の信憑性はあまりないですが。。。
うっすらとですが耳にしたことがありますね。
千利休も謎に包まれた人物です。
> このシリーズ楽しみにしています。
> ちなみに ”八百万の神様が被征服者にならなかったことにはそれなりの理由があると私は見ております。”
> とても興味があるので良かったら教えてください。
有難うございます。ごく簡単に説明させていただきます。
我が国はもともと八百万の神様が同時に存在する多神教であり、他の宗教が入ってきても、我が国にふさわしい形に変化する傾向にあります。例えば、成り立ちからして全く異なる仏教も「神仏習合」によって古来の神道と一緒にされてしまっていますよね。
キリスト教の場合、当初は侵略の手段に利用されたのと、誰であっても身分に差がないという考えが封建社会にそぐわなかったことで江戸幕府から迫害を受け続けました。明治時代になってようやく公認されましたが、その後も信者数は伸び悩み、我が国全体で1%程度しかいないとされています。
本来であれば公認された時点でもっと信者数が増えるはずなのですが、一神教のキリスト教が我が国の多神教の考えに及ばず、また仏教のように変化することができなかったからではないかと私は見ております。
もっとも、キリスト教の中にも「キリストの幕屋」のように我が国の風土に合わせようとする教団も存在していることを申し添えます。
mochimochi 丁寧な返答ありがとうございます。
実は今カトリック教会でも変化が起こっているらしいです。(これから数十年かけて)
男性の神に加えて、女性の神も認めはじめたのです。
なぜこういうこと起こっているか私自身はっきり知りませんが、本家本元に戻ろうとする試みだと思います。キリスト教以前は両方いたらしいですからね。
もしキリスト教が男性と女性の神になっても、日本にキリスト教が広まるとは思いませんけどね。
狭い内容ですみませんでした。
貴重なお時間を取って返信していただいきありがとうございます。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、私が存じ上げない貴重な情報を有難うございます。
我が国において外国の宗教が一般化するには、多神教を認めるように変化させるしかないのではと思っております。
今後のカトリックの進展については私も注目してみたいですね。
戦国時代には数多(あまた)の戦国大名が各地に存在していましたが、その多くは自分の足元を固めたり、あわよくば隣の国を征服しようかと考えたりするなど、どちらかといえば地域的な対立が中心でした。
そんな中、応仁の乱から約1世紀を過ぎた頃に、初めて天下統一の意思を明確にし、なおかつその実現に一生をかけて挑(いど)んだ人物が現れました。もちろん織田信長(おだのぶなが)のことです。
信長の出身である織田家はもともと尾張(おわり、現在の愛知県西部)の守護大名であった斯波氏(しばし)の代理人である守護代(しゅごだい)の家臣という身分でしたが、父である織田信秀(おだのぶひで)の頃には独立し、尾張の中で大きな勢力を持つようになりました。
信秀の急死後、若くして家督(かとく)を継いだ信長は身内を含めた争いに勝ち抜き、1559年には尾張一国を統一するまでに成長しましたが、そんな彼に大きな試練が、不気味な足音とともに東の方角からやって来たのでした。
ちなみに、この頃までに没落した斯波氏ですが、もともとは室町幕府の管領(かんれい)を務めるほどの名門でした。ところで皆さんは「ほ・し・は」を覚えていますか?
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
80000HITですか!
おめでとうございます

前回の70000HIT以来、早いぺースでカウントされてますね^^
これからも、頑張ってくださいね!!
「ほ・し・は」
すみません。。忘れていましたm(__)m
以前の記事に自分はどんなコメントをしていたのか確かめてみたら、やっぱり同じ様な事を書いてました(苦笑)
進歩の全くない、ぴーちでした(あはは^^;)
失礼しました~!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 80000HITですか!
> おめでとうございます

> 前回の70000HIT以来、早いぺースでカウントされてますね^^
> これからも、頑張ってくださいね!!
70000HITが9月25日でしたから、50日で10000HITを記録したことになります。
本当に有難いことですし、皆様のご期待をひしひしと感じております。
> 「ほ・し・は」
> すみません。。忘れていましたm(__)m
> 以前の記事に自分はどんなコメントをしていたのか確かめてみたら、やっぱり同じ様な事を書いてました(苦笑)
> 進歩の全くない、ぴーちでした(あはは^^;)
> 失礼しました~!
いえいえ、復習もまた重要です。
今回のように、時には以前の学習を振り返る機会があると思いますが、せっかくなので頑張りましょう!(^^♪
まさに絶体絶命の危機でしたが、信長は今川軍が狭くて身動きの取りにくい桶狭間(おけはざま)を行軍中であるという情報を入手すると、ほぼ全軍を桶狭間へと突入させました。折からの豪雨もあり、視界の悪かった今川軍は信長軍の奇襲に対して体勢を立て直す暇(ひま)もないうちに、大将の義元が首を落とされて無念の最期を遂げました。
世にいう桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を挙げた信長の前に、義元が倒されたことで勢力が一気に衰えた今川家の領地が広がっていましたが、信長はこれらに目もくれず、1562年に三河(みかわ、現在の愛知県東部)の松平元康(まつだいらもとやす、後の徳川家康=とくがわいえやす)と同盟を結んで、今川家の領土獲得を家康に任せたうえで自身は斎藤氏(さいとうし)が領有する美濃(みの、現在の岐阜県南部)の攻略に専念しました。
通常の戦国大名であれば、まず間違いなく今川家の領地を狙ったでしょう。しかし、大きな目標があった信長には、今川家の領地を手に入れることで、例えば武田信玄(たけだしんげん)や北条氏康(ほうじょううじやす)のような強豪と接するというリスクを避けたいという思惑がありました。
では、信長の大きな目標とは何だったのでしょうか。信長は苦労の末、1567年に美濃を攻め落とすことに成功しましたが、その際に自分の目標を天下に宣言することになるのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
これはもしや、つい先日こちらで勉強させていただいたばかり・・・(冷や汗)
もとい、
「復習するは我にあり」です!!(苦笑)
すみませ~~ん!70%忘れていました!!(更に滝汗)
両隣に敵を作りたくないという妙な理由だけが
頭をかすめるだけでした(>0<)
それにしても、勝利に導かれている時というのは、ちゃんと自然も味方してくれるものなんですね。確か、元寇襲来の時も台風に助けられましたっけ・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > これはもしや、つい先日こちらで勉強させていただいたばかり・・・(冷や汗)
>
> もとい、
> 「復習するは我にあり」です!!(苦笑)
> すみませ~~ん!70%忘れていました!!(更に滝汗)
> 両隣に敵を作りたくないという妙な理由だけが
> 頭をかすめるだけでした(>0<)
いえいえ、一度だけで覚えられなければ二度、それでもダメなら何度でも復習すればいいんですよ(^^♪
> それにしても、勝利に導かれている時というのは、ちゃんと自然も味方してくれるものなんですね。確か、元寇襲来の時も台風に助けられましたっけ・・
幸運は努力する者にやってくるという話もありますよね。
英雄として名を残す人物は、何がしかの幸運を持っているようです。
さらに、美濃の稲葉山城(いなばやまじょう)に入った信長は、城付近の地名であった「井ノ口(いのくち)」を「岐阜(ぎふ)」と改めました(城の名前も岐阜城としています)。なお、岐阜については、名君として知られた古代中国の周(しゅう)の文王(ぶんおう)が岐山(きさん)より興(おこ)ったというエピソードが由来であるとされています。
それまでの我が国では、過去の伝説から地名が付けられたことはあっても、時の権力者が地名を変更するということは例がありませんでした。信長は、地名を新しくすることによって「天下統一へ向けて世の中を新しくする」という自身の強い意思を表現したのです。
ちなみに、信長以降は我が国で権力者が地名を変更することが当たり前になりました。例えば、信長の家臣であった羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉=とよとみひでよし)は、近江(おうみ、現在の滋賀県)の今浜の地を信長から与えられた際に、信長の名にあやかって「長浜(ながはま)」に改めています。




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ぴーち こんばんは!
人間は何か目標を達成しようと考えた時、
その目標に達成できる一番の早道は
第三者に自分の目標を公表して
目標達成の宣言をしてしまうという
方法がありますね。
公表した手前
結果的に努力する事になるので、成功すると言われていますが、
信長はまさに
その方法を実行し、成功を収めた一人でもあるのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 人間は何か目標を達成しようと考えた時、
> その目標に達成できる一番の早道は
> 第三者に自分の目標を公表して
> 目標達成の宣言をしてしまうという
> 方法がありますね。
> 公表した手前
> 結果的に努力する事になるので、成功すると言われていますが、
> 信長はまさに
> その方法を実行し、成功を収めた一人でもあるのですね。
いわゆる「有言実行」ですね。
自分自身を追い詰めることで、目標を達成しようとする。
そこに天賦の才能が加われば恐いものなしかもしれません。
地元の農民にとって唯一ともいえる財産は、彼らが所有する田畑(でんぱた)でした。農民は田植えや稲刈りなどのいわゆる農繁期(のうはんき)には、当然田畑に釘付けになりますよね。
ということは、仮に戦国大名自身の領地が広がったとしても、まさか農民の田畑を動かすわけにはいきませんから、農民自身もそう易々(やすやす)と移動させることができなかったのです。しかし、信長にはそれが可能でした。なぜでしょうか?
実は、信長の兵力はいわゆる兵農分離(へいのうぶんり)された、戦争専門の傭兵(ようへい)が中心だったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
「兵農分離」のお話を伺っていると
あの黒澤明監督の「七人の侍」を思い出します。
あの作品もいわゆる野武士を題材にしていて、
舞台は戦国時代ですので、黒澤監督はこの信長の傭兵作戦を題材に構想を練ったのかもしれませんね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「兵農分離」のお話を伺っていると
> あの黒澤明監督の「七人の侍」を思い出します。
> あの作品もいわゆる野武士を題材にしていて、
> 舞台は戦国時代ですので、黒澤監督はこの信長の傭兵作戦を題材に構想を練ったのかもしれませんね^^
七人の侍は海外にも翻案された(荒野の七人)ほど有名ですよね。
舞台は戦国時代がモデルですが、百姓が野武士に戦いを任せる、というところが史実とは異なるようです。
当時は百姓など身分にかかわらず武器を持って戦っていましたからね。
加えて、傭兵は農民兵のように田畑を持っていないことから移動の自由があり、それゆえに戦国大名が本拠地を移しやすいという長所も持っていたのです。
さて、信長は兵農分離の長所を最大限に利用して岐阜に本拠地を移動すると、それまでの戦国大名と同じように家臣たちを城下に住まわせることで人や物資の流れをつくるという、いわゆる城下町の建設に乗り出しましたが、信長のやり方は徹底していました。
すなわち、家臣を半強制的に岐阜に移動させることで、彼らの家族などを含めた数万の人口が一気に岐阜へと流れて、あっという間に岐阜は我が国有数の大都市となったのです。
岐阜を新たな城下町として繁栄させることに成功した信長は、大きな目標である天下統一への次の一手として、西の方角へ眼を向けていました。




いつも有難うございます。
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風早 りら 信長は岐阜を城下町として繁栄させることに
より 多くの 金銭的価値を生み出すことを
理解していたのでしょう
そうすれば そのお金を 軍事資金に
回すことも出来ますよね
ここ暫く 体調をくずし ブログアップも
ご訪問も出来ず残念でした
今日アップ出来ました
また 宜しくお願いします
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長は岐阜を城下町として繁栄させることに
> より 多くの 金銭的価値を生み出すことを
> 理解していたのでしょう
> そうすれば そのお金を 軍事資金に
> 回すことも出来ますよね
そのとおりです。
経済の発展はいつの世も金銭的価値を生み出します。
信長の凄いところは、これを徹底したことです。中途半端では効果が得られませんからね。
> ここ暫く 体調をくずし ブログアップも
> ご訪問も出来ず残念でした
> 今日アップ出来ました
> また 宜しくお願いします
体調が回復なさって何よりでした。
早速訪問させていただきましたよ(^^♪
ぴーち こんばんは!
傭兵と農民兵ではやはり一長一短がそれぞれあるのですね。
それでも、信長のやり方にあったのは、傭兵の方だったんですね。
「兵農分離」は全国に影響し広がりを見せたわけではないんでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 傭兵と農民兵ではやはり一長一短がそれぞれあるのですね。
> それでも、信長のやり方にあったのは、傭兵の方だったんですね。
> 「兵農分離」は全国に影響し広がりを見せたわけではないんでしょうか?
傭兵を取り入れたことで、信長の戦い方の幅が広がりましたからね。
兵農分離は傭兵制が広まったことで全国に浸透し、秀吉の刀狩によって事実上完成します。
これも歴史の流れですね。
次の将軍職を目指していた義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)は、それまで匿(かくま)われていた越前(えちぜん、現在の福井県北東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)から離れ、義景の家臣であった明智光秀(あけちみつひで)の仲介で信長を頼りました。
それまでに北近江の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結び、妹のお市(いち)を長政の妻としていた信長は、この好機に早速上洛(じょうらく、京へと向かうこと)を決意しました。
信長は上洛の途中で南近江の六角氏(ろっかくし)を破ると、1568年に無事に京へとたどり着き、義昭を将軍へと就任させました。名ばかりではあっても、武家の棟梁(とうりょう)である室町幕府の将軍を誕生させ、また京に入ったことで朝廷を保護する立場となった信長は、天下統一に向けて大きく前進することになったのです。
義昭は自らの将軍就任の最大の功労者である信長に深く感謝し、管領もしくは副将軍になるよう勧めましたが、信長はいずれも辞退し、代わりに堺(さかい)を含む和泉(いずみ、現在の大阪府南西部)の支配を認めさせました。一見すると、いわゆる「名よりも実を取った」と思われる信長の行為でしたが、その裏にはしたたかな計算がありました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
そういえば、今日のニュースで岐阜城跡を史跡に指定するように申請をしたそうですね。
同じくして、富士山も申請したそうですが、
富士山はゴミが(人工的に)多すぎる為に今まで却下されていたようですが、世界遺産登録に向けて今度はいかがなものでしょうね。
けれど、国宝とか、世界遺産指定という制度は、本来
人間一人一人がその建物やらを大切に扱っていこうという意識が高ければ、わざわざ世界遺産指定にしなくても良いものの、指定しないと守られない世の中もなんだか悲しくも思うのですよね(^^A
余計な発言でしたね。失礼しました!
(記事とも違うコメントでごめんなさい)
応援凸
黒田裕樹さん
風早 りら 信長と光秀の関係は ドラマ等でよく聞き 見ることも多いのですが
今回の講座で詳しく二人の関係が説明されていて 私の頭の中に明確に入ることが出来ました
最後の信長のしたたかな計算 予想がつきかねます
明日の講座を楽しみにしています
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに「世界遺産」にしないと守られない、という考えは困ったものだと思います。
とはいえ人間の行なうことは善ばかりとは限らないのが世の常ですからね。
内容についてはどうぞお気になさらずに(^^♪
こちらも深く考えさせられ、勉強になりましたm(_ _)m
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長と光秀の関係は ドラマ等でよく聞き 見ることも多いのですが
> 今回の講座で詳しく二人の関係が説明されていて 私の頭の中に明確に入ることが出来ました
> 最後の信長のしたたかな計算 予想がつきかねます
> 明日の講座を楽しみにしています
光秀の半生はあまり知られていないのですが、義昭を信長に紹介したのは確かだとされています。
この後、光秀は信長のもとで空前の出世を遂げることになります。
したたかな計算は、信長が義昭をどう見ていたかがカギを握ることになりますね。
次回(20日)もぜひお楽しみください。
ぴーち こんにちは!
世界遺産に指定されるということは
地元にとっても喜ばしいことだとは思いますが、
やはりその存在を後世にまでも大切にしていこうという思いはさておき、どうも、経済効果とか、利益の方に結びつける傾向の方が大のような気がしてなりません。
それはそれで確かに必要な事なんでしょうけれど、
どうも純粋な気持ちから、いつも遠ざかってしまうところが解せない時があるんですよね。・
と、またまた堅苦しい話になってしまいすみません^^;
応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 確かに「遺産の存在を守る」という純粋な思いから、商売のようなドライな感覚に陥ってしまうのは否定できないですね。
水は低きに流れるとはいえ、残念な話だと私も思います。
いくら戦国の世とはいえ、主(あるじ)に対する謀反(むほん)というのはダメージが大きく、後の天下取りにも影響を及ぼすのは避けられません。だからこそ、信長は義昭の誘いを断り、その代わりに我が国最大の貿易港の一つであった堺をおさえるために和泉の支配を義昭に認めさせたのでした。堺を我が手にしたことによって、信長はこの後、貿易などの経済面において他の戦国大名よりも大きく優位に立つことになります。
さて、義昭が将軍になったばかりの頃の二人の関係は良好でしたが、信長は次第に義昭を圧迫するようになっていきました。やがて信長の本意を悟(さと)った義昭は激怒して、信長を倒すべく様々な作戦を練り始めました。
後の世に「信長包囲網(のぶながほういもう)」と名付けられた、信長にとって人生最大のピンチが訪(おとず)れようとしていました―。




いつも有難うございます。
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風早 りら 信長ー副将軍ー義昭の家来ー義昭を見限るー主人に対する裏切り
この構図を避けたかったのですね
やはり 信長は 先見がありますよね
やっぱり 好きですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長ー副将軍ー義昭の家来ー義昭を見限るー主人に対する裏切り
> この構図を避けたかったのですね
> やはり 信長は 先見がありますよね
> やっぱり 好きですね
目先の名誉よりも、自分が目指す「本当の目的」を実現するという困難な作業は、先見の明なくしては有り得ない、ということですね。
りらさんのように、信長ファンが多いのもうなづけます。
オバrev やっぱり信長には目先の利益にとらわれないしっかりとした戦略がありますね。
管領や副将軍をことわるとは、それまでの武士の中では異例のような気がします。
さらに凄いのは、しっかり堺を押さえている。
天下を取るという志と、何が重要ポイントかを知るための情報収集能が信長の強みじゃないでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > やっぱり信長には目先の利益にとらわれないしっかりとした戦略がありますね。
> 管領や副将軍をことわるとは、それまでの武士の中では異例のような気がします。
> さらに凄いのは、しっかり堺を押さえている。
> 天下を取るという志と、何が重要ポイントかを知るための情報収集能が信長の強みじゃないでしょうか。
まさしく仰るとおりです。
情報収集能力の高さは、うつけと他人に思われながらも青年時代に行っていた昔からの得意技だったのかもしれませんね。