新政府からすれば、自分たちが政治の実権を握る前に、江戸幕府が諸外国に無理やり結ばされた不平等条約など引き継ぎたくはありませんでしたが、政権が交代しても、国家間のルールをそのまま継承するのが世界の常識であった以上、やむを得なかったのです。
明治政府が受けいれた安政の五ヵ国条約でしたが、1872年7月4日(旧暦明治5年5月29日)から改正が可能となっていました。これを知った政府は、条約改正の交渉を開始するとともに、欧米列強からの侵略を受けないようにするためには、自分たちが直接西洋まで出かけて見聞を広める必要があると考えました。
そこで、明治4(1871)年旧暦11月に、右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)を全権大使とし、大久保利通(おおくぼとしみち)や木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文(いとうひろぶみ)らを副使とする大使節団を欧米に派遣(はけん)しました。これを岩倉使節団といいます。
ところが、条約改正の交渉は、最初の訪問国アメリカで早くもつまずいてしまいました。外交使節が交渉を外国で行うためには、国家元首からの全権委任状が必要だったのですが、そのことを知らなかった岩倉使節団は持参していなかったのです。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
これまでの日本人が重んじてきた常識が
ある日を境に180度急展開した訳ですから
知らないことだらけ、急務の課題山積で
大変でしたよね。
けれど、日本人の底力はそんな困難にもヘコタレなかったと信じたい所ですが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、課題山積で大変だった明治政府でしたが、確実な歩みで我が国を世界の一等国にまでのし上げた実績は素晴らしいと思います。
ただ、そんな政府も当初は思わぬ落とし穴にはまることも多かったんですよね…。
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。
その後の使節団は、その目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも、内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。
なお、岩倉使節団の条約改正交渉の失敗に対しては、以下のように風刺(ふうし)した狂歌(きょうか、日常を題材に洒落や風刺を盛り込んだ短歌のこと)が知られています。
「条約は 結びそこなひ 金は捨て 世間へたいし 何と岩倉」
(※「たいし」は「対し」と「大使」とをかけている)
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに条約交渉には失敗しても、転んでもタダでは置き上がらない精神は、学ぶ所大だと思います!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに条約交渉には失敗しても、転んでもタダでは置き上がらない精神は、学ぶ所大だと思います!
私もそう思います。特に大久保利通や伊藤博文は大きな屈辱を味わっただけに、その後の外国視察には期するものがあったでしょうし。その一方で、常に結果が求められる政治への風刺は厳しいものがありますね。
寺島はアメリカとの間で関税自主権回復の同意を得ることができましたが、当時アジアに対して大きな利権を持っていたイギリスやドイツが反対したことで、交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げてしまいました。
また、寺島が条約改正の交渉をしていた頃の明治10(1877)年に、イギリス商人のハートレーが我が国にアヘンを密輸入して捕まりながら、イギリス人の裁判によって無罪となったというハートレー事件が起きました。
さらに明治12(1879)年には、西日本を中心にコレラが流行した際に、神戸に停泊していたドイツ船のヘスペリア号が、我が国からの検疫(けんえき)命令を無視して横浜入港を強行したことで、結果として関東地方でもコレラによる被害が拡大し、全国で10万人を超える多数の死者を出してしまったというヘスペリア号事件が起きました。
こうした流れを受けて、寺島は外務卿を辞任し、条約改正に向けての交渉も失敗に終わりました。そして、ハートレー事件やヘスペリア号事件のような出来事を繰(く)り返させないためにも、政府は領事裁判権の撤廃を優先して交渉を続けることになりました。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
世論に関しては、何か直ぐに手柄を立てないと
認めて貰えない風潮が有りますよね。
今でも何ら変わらないですが・・
失敗があったりすると、余計な事をするからだと
言う方もいらっしゃいますが、失敗をした後の
対応が成功すれば、それは新たな進歩と認められるべきものではないかと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
表舞台での成功には、陰での数えきれない失敗がつきものです。
明治政府も様々な失敗を重ねながら、条約改正を成功へと導くことになります。
井上は、条約改正を有利に進めるためには欧米列強の制度や風俗、あるいは習慣や生活様式などを我が国でも積極的に導入すべきであると考え、明治16(1883)年に洋風の鹿鳴館(ろくめいかん)を東京・日比谷に建設して、国際的な社交場としました。
鹿鳴館では連日のように舞踏会(ぶとうかい)が行われ、我が国の要人も、夫人に洋装させてダンスを踊り続けました。井上によるこれらの手法は欧化政策(おうかせいさく)と呼ばれていますが、条約改正のためには格式にこだわってはいられないという、明治の要人たちの必死の思いと気概を感じさせるエピソードでもあります。
こうした努力が実ったのか、明治20(1887)年には外国人の内地雑居(ないちざっきょ、外国人に我が国への自由な居住を認めること)を認める代わりに、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を盛り込んだ改正案を列強が了承しました。
しかし、領事裁判権の撤廃には「ある条件」があり、またその条件と深くかかわった「ある事件」が起きていたことによって、井上は政府の内外で大きな非難を受けてしまったのです。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
あの有名な鹿鳴館は、そんな政府の苦肉の策から
生まれた建物だったとは存じませんでした。
その後の井上氏の非難が気になりますね・・・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あの有名な鹿鳴館は、そんな政府の苦肉の策から
> 生まれた建物だったとは存じませんでした。
> その後の井上氏の非難が気になりますね・・・(^_^;)
政府も遊びであんな建物をつくったわけではなかったんですよね。
ただ、井上氏は条約改正を急ぐあまり、禁じ手ともいえる事をしでかしていたのです…。
ぴーち おはようございます!
さすがに、遊びで・・とまでは思いませんでしたが、
単に西洋かぶれが高じて作られた建物だったのか・
くらいにしか考えておりませんでしたので、
内情を伺えて勉強になりました^^
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、お言葉有難うございます。
鹿鳴館を始めとして、特に近代における政府の苦悩が、完全に誤解(あるいは曲解)されていることが多いですからね。これからも真実を見極めていきますので、よろしくお願いいたします。
我が国において外国人を被告とする裁判に対して、半数以上の外国人の判事(=裁判官)を採用するという条件が付いていたのです。もしこれが実現した場合には、仮に領事裁判権が撤廃されたとしても、過半数の外国人判事が存在することで、我が国で罪を犯した外国人に有利な判決が出る可能性が高いことは明白でした。
井上の改正案は政府内からも批判が多く、我が国のフランス人顧問(こもん)で法学者のボアソナードが反対したほか、農商務大臣の谷干城(たにたてき)が抗議の辞任をしました。
やがて改正案の内容が一般の国民の知るところとなると、井上によるそれまでの極端な欧化政策に反発していた民衆が、前年に起きていた「ある事件」に対する不満もあって激高し、収拾がつかなくなってしまいました。
では、その「ある事件」とは何だったのでしょうか。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
外国人絡みの犯罪は難しいですね。。
以前、聞いた話ですが
日本で犯してしまった罪が本国へ帰ると全くの無罪になってしまうそうだと言うので、驚いたことがあります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 外国によって罪の種類も大きく異なりますからね。
だからこそ、領事裁判権を一方的に与えてはいけないはずですが…。
船長は神戸の領事裁判所で裁判を受けましたが、同じイギリス人の判事は無罪の判決を言い渡しました。多くの日本国民はこの判決に激怒し、政府も船長を殺人罪で告訴して横浜領事裁判所で再び裁判が行われましたが、船長に下された判決はわずかに禁錮(きんこ、監獄に閉じ込める刑罰のこと)3ヵ月であり、被害者への賠償は一切行われませんでした。
我が国で罪を犯した外国人に対して、同じ外国人が裁判権を握っている以上、正当な裁判が行われることが不可能であることを嫌(いや)というほど思い知らされた国民の間から、領事裁判権の撤廃を求める声が日増しに高くなっていきましたが、そんな折に外国人判事を認める井上の改正案が発覚したものですから、国民の怒りが頂点に達してしまったのです。
結局、井上の改正案は見送られ、条約改正の交渉を中止するとともに、井上は混乱の責任を取って外務大臣を辞任しました。
なお、井上による一連の条約改正交渉に失望した民権派によって三大事件建白運動が始まり、自由民権運動が再び活発化しました。また、同じ紀州沖でこれより4年後の明治23(1890)年に再び起きた不幸な遭難(そうなん)事故(=エルトゥールル号事件)が、我が国とトルコとの厚い友情のきっかけとなりました。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
この時代、日本という国は
これ程までに見くびられていた訳ですね。
白人至上主義の最たるもの・・ですね・・
その後のトルコとのお話は、黒田さんの所で
以前勉強させていただいた記憶がありますが、
その記憶が少し曖昧になってしまったので、
再確認させていただきます♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、白人は有色人種など人間扱いしていなかったのです。そんな排他主義が招いた悲劇でもありました。
我が国とトルコの関係については、第13回歴史講座で紹介しました。
下記のURLをご参考ください。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-category-25.html
しかし、条約改正案の内容がイギリスの新聞であるロンドン・タイムズにすっぱ抜かれると、井上と同じように政府の内外で強い反対論が起きました。
なぜなら、大隈の改正案には「大審院(だいしんいん、現在の最高裁判所)に限って外国人判事を任用する」と書かれていたからです。いくら大審院に限定であっても、下級裁判所で外国人が判決を不服として上訴すれば、最後には大審院で裁かれることになり、井上案と同じ結果になるのは目に見えていました。
大隈の改正案を受けいれるかどうか政府内で様々な議論が続けられましたが、そんな折の明治22年10月18日、大隈が閣議からの帰途(きと)で馬車に乗っていた際に、政治団体の玄洋社(げんようしゃ)の来島恒喜(くるしまつねき)が大隈めがけて爆弾を投げつけました。
爆弾によって大隈が右足を切断するという重傷を負うと、これを機に条約改正の交渉は再び中断し、大隈も外務大臣を辞職しました。なお、大隈を傷つけた来島は、爆弾の炸裂(さくれつ)と同時に自決しています。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
何処の国でもそうなのでしょうけれど、外国人にその国の政権を担って貰うと言うことは、
外国に魂を売った事と何ら変わりはない気がします。
大げさに言えば、侵略されたと思っても良いくらいだと思えてなりません。
ですので、
何が何でもそれだけは死守して行きたいと思う考えとのせめぎ合いが
起こっても仕方が無かったのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国が成長していく過程において、時には生命を賭けたせめぎあいが起きることもあるかもしれません。