我が国が開国したのは、嘉永(かえい)7年(=1854年)の日米和親条約からであり、その4年後の安政5(1858)年には不平等な内容の日米修好通商条約を結ばされたほか、他の4ヵ国とも同じような条約を締結しました。その後、我が国が条約改正を最終的に実現したのは明治44(1911)年になってからであり、何と50年以上もかかっているのです。
なぜ我が国は条約改正にこれだけの膨大(ぼうだい)な時間を費やさなければならなかったのでしょうか。また、そもそもなぜ我が国は不平等条約を結ばされなければならなかったのでしょうか。
今回の講座では、条約改正を目指しての我が国の苦難の道のりと、それに前後する大きな歴史の流れを振り返りたいと思います。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
半世紀ですか・・
言われてみれば、確かに気が遠くなる程長いですが
やはり嫌々ながら受け入れざるを得なかった
事という事で、それだけの覚悟とまた改正の為の
方向転換をしなければいけない猶予の時間だったのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり嫌々ながら受け入れざるを得なかった
> 事という事で、それだけの覚悟とまた改正の為の
> 方向転換をしなければいけない猶予の時間だったのでしょうかね?
半世紀もかかったのは、条約改正に向けての土壌づくりに一番時間を費やしたというべきかもしれません。
これからじっくりと検証したいと思います。
黒船は蒸気船であり、船上に多くの大砲を並べたうえで空砲を放つなどの威嚇(いかく)を加えながら、幕府に対して開国を求めるフィルモア大統領の国書の受理を迫(せま)りました。
アメリカの有無を言わさぬ態度に対して、抵抗をあきらめた幕府は、やむなく国書を受け取り、回答を翌年に行うことを約束して、ようやくペリーを日本から退去させました。
しかし、幕府のこうした手段は、苦し紛(まぎ)れであるとともに、結論の先送りに過ぎず、幕府はその後の対応に苦しむことになりました。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かにその場しのぎの対処法に頼ってしまうと
その時はなんとか引き下がって貰う事は出来ても、根本的な解決法ではないので、より以上
強気で責めて来られてしまいますよね。
この時の日本は外国からの責めを食い止められるだけの体力は無かったのでしょうか・・
やはり江戸時代の平和がこういう時の対処の仇と
なってしまったのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり江戸時代の平和がこういう時の対処の仇と
> なってしまったのでしょうかね?
残念ながらそういわざるを得ないのが現実なようです。
詳細は講座の後半で紹介して、ここでは不平等条約の内容を優先に進めていきます。
黒船による砲撃(ほうげき)で我が国に危害が及ぶことを恐れた幕府は、結局ペリーの武威(ぶい)に屈して、同年旧暦3月に日米和親条約を結びました。条約の主な内容としては、
1.アメリカ船が必要とする燃料や食糧を日本が提供すること
2.難破船を救助し、漂流民を保護すること
3.下田・箱館(現在の函館)の2港を開き、領事の駐在を認めること
4.アメリカに一方的な最恵国待遇(※注)を認めること
以上が挙げられます。幕府はこの後、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結び、200年余り続いた鎖国体制から、我が国は何の準備もなく開国して、いきなり世界の荒波に揉(も)まれることになってしまいました。
※最恵国待遇=日本が他国と条約を結んだ際に、アメリカが与えられたよりも有利な条件を他国に認めた場合、アメリカにも自動的にその条件が認められること。当時の幕府は外交知識に欠けていたため、アメリカの言われるままに一方的な最恵国待遇を認めた。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど。。
大東亜戦争に日本が負けてアメリカの言いなりになる以前、既にこの頃から
アメリカは日本よりも高い位置から見下ろす様に
優位に物事を進めようとしていたのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 大東亜戦争に日本が負けてアメリカの言いなりになる以前、既にこの頃から
> アメリカは日本よりも高い位置から見下ろす様に
> 優位に物事を進めようとしていたのですね。
この流れを見る限りはそうなりますね。
それを許した幕府の失策も深刻と言えそうです。
当時の老中であった堀田正睦(ほったまさよし)は、アメリカとの通商に理解を示しましたが、幕府の独断で通商条約を結べば、開国に反対して外国を排斥(はいせき)しようとする攘夷派(じょういは)の激しい反発を招く可能性があることを警戒しました。
そこで、堀田は条約の締結に際して天皇の許可、すなわち勅許(ちょっきょ)を得ることで世論を納得させようと考えました。封建社会において、それまでは独断で何事も強行してきた幕府でしたが、この頃には朝廷の顔色をうかがわなければならないまでに権威が低下していたのです。
しかし、堀田の狙(ねら)いは裏目に出てしまいました。当時の孝明天皇(こうめいてんのう)をはじめとして、朝廷に攘夷派の意見が強く、容易に勅許が下りなかったのです。自分で仕掛けた足枷(あしかせ)により行きづまった幕府に対して、ハリスは当時の世界を揺(ゆ)るがした大きな出来事を利用して、追い打ちをかけるかのように通商を迫りました。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
もう少し心に余裕があったのなら、また時間に猶予があったら、朝廷に攘夷派が多いという事は分かるはずだったのかも知れませんが、焦る気持ちで
藁をも掴む思いでいる最中は、何も見えなかったのかも知れませんね。
また、アメリカ側もそれを狙う為の手段を取ったのでしょうね。交渉上手なアメリカの方がこの時は
上手でしたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 朝廷に関しては、攘夷派の多数派工作にしてやられたという説もありますね。いずれにせよ、根回し不足が大きかったと思います。アメリカの件については、詳しいやり取りを次回(14日)の更新でご紹介します。
アロー戦争で清はまたしても敗北し、1858年にさらに不平等となる天津(てんしん)条約を結ばされましたが、ハリスはこの条約を口実として、以下のように幕府に対して通商条約を強く要求しました。
「清に勝ったイギリスやフランスが、勢いに乗って日本を侵略する可能性が否定できないから、これを防ぐには、日本と友好的なアメリカと通商条約を先に結んで、彼らに戦争の口実を与えないようにする以外に方法はない」。
ハリスによる最後通牒(さいごつうちょう)ともいえる警告を受けて、当時の大老であった井伊直弼(いいなおすけ)は、勅許を得ないままアメリカと通商条約を結ぶことを決断しました。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうでしたか。。今まで日本ばかりが開国を迫られたとばかり思っていましたが、中国もまた外国から開国を迫られ、戦争にまで発展してしまったのですね。
まだ、戦って敗北した方が、良かったのでしょうかね・・?
無条件降伏の様な日本の開国は今考えると良かったのか、悪かったのか。。(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時の我が国にとって、清国の悲劇は決して対岸の火事ではありませんでした。
攻められて植民地化されるよりは、勅許がなくとも条約を結ぶ方がましだという考えだったと思われます。
もし、ジョン万次郎が通訳なら
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、ジョン万次郎に、この条約を結ぶ前に『欧米の文化・考え方』を
幕府が勉強し、少なくともジョン万次郎を
通訳にすべきだったと思います。
ジョン万次郎こと中浜万次郎ですが、幕府ではペリーの来航によってアメリカの知識の重要性が増していたことから、
1853年、幕府に召聘され直参の旗本となりました。
しかし、「いざ交渉」となった時、徳川斉昭をはじめとする攘夷派(→ 尊王攘夷運動)は、
アメリカの教育を受けた万次郎がアメリカ側のスパイをするのではないかと懸念し、
結局交渉の席で万次郎が通訳をすることはありませんでした。
(ただ、1860年(万延元)、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節には通弁(通訳)主事にえらばれ、
咸臨丸で活躍しましたが、完全に後手に廻りました。)
ジョン万次郎は、単に、英語ができるだけではなく、日本語と英語の背景まで、十分に理解していました。
① 日本語は、『共感』、英語は、『人間関係』
を大事にすることから、成り立っていること。
(英語)
・ thank you.
英語は、ほとんどの文章には、必ず、youが入る。
それにたいして、
(日本語)
・ 有難うございます。(こんなことは、滅多にないですね。)の意味です。
つまり、英語は、相手との関係性を基に二成り立っていますが、日本語は、二人称のない文章が多いです。それで、日本人は、相手に伝わると思っていました。
② 英語は、地名に人の名前をつけるが、日本語では、滅多に地名に人の名をつけない。
たとえば、
・ アメリカ・カナダの州・駅の名前はほとんど人の名前。
・ 日本では、岡山県の方谷駅(山田方谷という例外はありますが)では人の名前を地名でつけない。
英語(アングロサクソン)は、人間を地名につけることで、人間をカリスマス化する傾向があります。
③ 日本人では、挨拶をする時、自分を小さく見せるようにする。(お辞儀)
アングロサクソンは、自分を大きく見せるように挨拶する。
→ 手を広げるのは、手に武器を持ってないことの証拠。
→握手は、効き手に武器を持ってないことの証拠を相手に示すこと。
こういったことを背景に知らないと、やはり、欧米と平等な条約を結ぶのは、至難の技です。
この条約を結ぶ際、英語の通訳もいたようですが、いくら通訳がいても、相手の国の歴史・文化的な背景まで知らないと難しいと思います。
このことを日本人は、知らないで、条約締結したことが、不平等条約に繋がったと思います。
ジョン万次郎への起用が後手に廻り過ぎたと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにジョン万次郎の起用を誤った風潮がありますね。
それだけ当時の幕府が外交下手になっていたと言えそうです。
1.神奈川・長崎・新潟・兵庫を新たに開港し、江戸や大坂で市場を開くこと
(※実際には神奈川の代わりに横浜が、兵庫の代わりに神戸が開港しました。なお、横浜の開港後に下田が閉鎖されています)
2.通商は自由貿易とすること
3.外交官の江戸駐在や日本国内の旅行を認めること
4.開港場に居留地を設けるが、一般外国人の国内旅行を禁止すること
ここまではまだ良かったのですが、問題だったのは以下の2つでした。
5.アメリカに対して領事裁判権を認めること
6.関税はあらかじめ両国で協議すること(=協定関税制)
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
万里ママ 領事裁判権を認めたのはちょっと・・・ですね。
ただ、突然のことだったのでしょうし、
植民地化の文字が頭に浮かんだのも否めません。
税については、今でも色々ともめている
全世界的な内容ですよね。
ぴーち こんばんは!
法的な事は存じませんが、
最後のふたつを拝見していると
一々アメリカのお伺いを立てなければ
物事が進まないというのは
何やら面倒くさい法案ですね(^_^;)
万里ママさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、植民地化を免れるためには致し方なかったかもしれませんが、それまでの対応次第では大きく変化した可能性がありますからね。
関税は現代でも大きな問題となっていますが、この場合も非常に深刻でした。詳しくは後に紹介します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 一々アメリカのお伺いを立てなければ
> 物事が進まないというのは
> 何やら面倒くさい法案ですね(^_^;)
そのとおりですね。アメリカのお伺いが結局はアメリカの言いなりと化してしまう訳ですから、非常に困ったことになってしまいました…。
例えば、A国とB国のうち、A国のみが領事裁判権を認められた場合、A国の国民がB国で罪を犯してもA国で裁判が行われたのに対して、B国の国民がA国で罪を犯せば現地のA国によって裁判が行われるため、著しく不利となったのです。
なお、我が国に領事裁判権がなかったことが、明治以降の外交問題に甚大(じんだい)な影響をもたらすようになります(詳しくは後述します)。
領事裁判権の問題も大きな不平等でしたが、これよりももっと深刻だったのは6.でした。協定関税といえば聞こえは良いですが、実際には我が国に関税自主権が認められなかったのです。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに5の領事裁判権に関しては、
早く言えば、罪を犯さなければ適用されない
事でしょうからね。
6の場合は、一般国民の生活に直結した問題なだけに厄介と言えば厄介でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに5の領事裁判権に関しては、
> 早く言えば、罪を犯さなければ適用されない
> 事でしょうからね。
> 6の場合は、一般国民の生活に直結した問題なだけに厄介と言えば厄介でしょうね。
どちらも大変重要なんですよね…。
6.については次回に詳しく紹介しますが、5.の場合も実際に数々の問題が起きてしまったのが残念でなりません。
ぴーち なるほど!
文面から、6の方が最重要であるかのような
選択問題に
見せかけての本当はどちらも重要であった・・という・・引掛け問題だったんですか(笑)
恐れ入りましたm(__)m
確かに5の方も理不尽な問題が起きた事でしょうね(^_^;)
またお邪魔させてください
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、こちらの書き方にも問題があったかもしれませんので…。
いずれにせよ、今後の展開をご覧いただければと思います。
例えば、国内にて100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が50円で買える場合、関税を40円に設定して合計90円での販売となれば、十分対抗できることになります。
このためには関税自主権が必要となるのですが、日米修好通商条約によって我が国には認められませんでした。このため、外国の安い商品が低い関税で輸入されることで、国内の産業が大きな打撃を受けるとともに、関税による収入が見込めないことで、我が国は二重の苦しみを味わうことになってしまったのです。
アメリカと通商条約を結んだ後に、幕府はイギリス・フランス・ロシア・オランダとも同じように条約を結びましたが(これを「安政の五ヵ国条約」といいます)、その内容はアメリカと同様に我が国にとって不平等なものでした。
こうした幕府によるとてつもなく大きな失政のツケは、明治維新後に誕生した新政府にも、重い負担としてのしかかるようになるのです。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
こういうお話を伺うと
益々、江戸時代の鎖国は日本人にとって
本当の意味で良かったのか、悪かったのかと
考えさせられますね。
余りに違いすぎる外国との文化、経済観念に
この当時の日本の苦悩は計り知れなかったと
思います。
ぴーちさん
黒田裕樹 鎖国の是非に関しては、講座の後半で改めて検証することになりますが、少なくとも現実のような諸外国に振り回される事態は避けられたのではないかと思えますね。