家康の養女と結婚した長政は、関ヶ原の戦いにおいて切り込み隊長として西軍に猛攻(もうこう)を加えるなど活躍しましたが、豊前中津にいた官兵衛も、これに呼応(こおう)するかのように、九州で様々な動きを見せました。
中津城の防衛と、自身の判断での出陣を認める旨(むね)を、家康と事前に密約していた官兵衛は、石垣原(いしがきばる)の戦いで大友義統(おおともよしむね)を破り、同じく家康に臣従した加藤清正(かとうきよまさ)と連携(れんけい)して、島津氏に攻め込む構えを見せるなど、堂々たる働きぶりを見せました。
また関ヶ原の以前に、官兵衛と長政とが西軍の有力武将であった吉川広家(きっかわひろいえ)を説得し、本戦において毛利軍が動きを見せなかったなどの功績もあって、長政は筑前国52万石を擁(よう)する大大名となったのです。
なお、長政が中津城に凱旋(がいせん)帰国した際に、喜ぶ長政に対して官兵衛が「家康がお前の右の手を握っている間に、左の手は何をしていた。なぜ左手で家康を刺し殺さなかったのだ」と叱責(しっせき)したとされる話が有名ですが、これは後世の創作と考えられています。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。





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- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛は、どちらかと言えば、豊臣恩顧の大名です。
その黒田官兵衛が、豊臣秀吉の死去から
わずか2年後に起きた関ヶ原の戦いで
東軍についたのは、
「誰が天下を取るのが、世の中のためになるか。」を常に考えていたからだと思います。
これは、私の勘ですが
黒田官兵衛自身は、徳川家康のような性格の悪い陰険な人間は、大嫌いです。(笑)
ただ、これもまた、皮肉な話で、徳川家康の息子の徳川秀忠、結城秀康は、黒田官兵衛のことが大好きで、屋敷を何度も訪れたり、黒田官兵衛が亡くなった後も
黒田長政に黒田官兵衛の生前の教えを何度も尋ねたそうです。
青田さんへ
黒田裕樹 私も官兵衛の現実主義的な考えに賛同します。
確かに家康嫌いの要素がありますね(笑)。息子の長政はどうだったのでしょうか…。
黒田長政は
- 黒田先生
青田です。
黒田長政は、徳川家康が好きだったと思います。
黒田長政は、徳川家康と同じく
正直、性格は、あまり、良くありません。(笑)
〇 宇都宮氏をだまし討ちして、虐殺。
(宇都宮氏の呪いが噂されました。)
〇 徳川家康の養女を妻にしています。
〇 黒田騒動の原因を創りました。
〇 後藤又兵衛を放逐しました。
ぴーち こんばんは!
先頭に立って
世の中を牽引するリーダーシップに長けている
人物と、決してトップでは無いけれど、
そのトップの裏方としてしっかりと支える
縁の下の力持ち的な存在に徹すると成功する
人物が居ますが、
官兵衛は、どうも後者として成功した人物
の一人の様に思えて来ました^^
青田さんへ その2
黒田裕樹 なるほど、黒田長政に関してはご推察の通りかもしれませんね。
彼の活躍で52万石となったものの、すべてが上手くはいかないようです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに官兵衛は裏方向きかもしれませんね。
ただ、彼自身の才能をバックアップしてくれる存在があれば、あるいは大化けできたかもしれません。
やがて病を得た官兵衛は、慶長9年3月20日(1604年4月19日)に、京都の伏見で59歳の波乱に満ちた生涯を閉じました。以下は官兵衛の辞世の句です。
「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
自分の人生にはもはや思い残すこともなく、伝えるべき言葉もない。後は道に迷うこともなく、成り行きに任せて神のもとに向かうだけであるという、キリシタン大名らしい辞世の句といえそうです。
官兵衛の葬儀はキリスト教式で行われた後、長政によって仏式でも挙行されました。なお、官兵衛亡き後の黒田氏は筑前52万石の大名として、紆余曲折(うよきょくせつ)を経ながらも明治維新まで命脈を保(たも)つこととなりました。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。





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とまと え、黒田官兵衛って、キリシタンだったんですか?
(大河ドラマをちゃんと見てないのバレパレ)
また、以前のように、こちらで歴史の勉強をさせて頂きたいと思います。
よろしくお願いしますm(__)m
とまとさんへ
黒田裕樹 お久しぶりです。
拙ブログも開設以来5年が経過しましたが、何とか毎日更新を続けております。
今後ともよろしくお願いいたします。
ぴーち こんばんは!
官兵衛はキリスト教信者で、その子供には
同じ宗教の相続はされなかったんですか。
出来れば、いづれの宗教にせよ、子供にも
同じものを信じるように残せたら、良かった
かも知れませんが・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 官兵衛の息子である長政は、当初はキリスト教に入信していましたが、幕府の弾圧が厳しくなると棄教しています。官兵衛と違って現実主義者なのかもしれませんね。
しかし、今回の講座を通じて見えてきた官兵衛の実像は「筋を通し続けた武将」であり、彼の「優しさ」が家族に対する愛情や家臣の団結力を高め、さらには周囲の信頼を得ることによって、我が国を平和に導く役割を果たしたといえるでしょう。
また、彼は裏切られて長いあいだ土牢に閉じ込められるという苦しみを味わいましたが、その経験が彼の人間性をより高めるとともに、様々な局面における強(したた)かさを備えていったとも考えられます。
戦国武将として輝かしい出世を遂(と)げた、黒田官兵衛のサクセス・ストーリーを振り返ることによって、私たちは何を得ることができるでしょうか。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
ただの小心から来る心の弱さを「優しさ」だと
誤解して、結局泣きを見る羽目になる事が
有りますが、本当の優しさを見せてくれる人は、
心の強さや広さを持ち合わせているものですよね。
官兵衛はきっと様々な経験から、自分の器を
大きくしていった人物なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、官兵衛は単なる「優しい」武将ではありませんでした。
その詳細については、次回(20日)の更新をご覧ください。
また、官兵衛自身が戦(いくさ)の達人であるとともに、「可能な限り兵力を損なうことなく戦争を終わらせる」ための様々な調略にも長(た)けていましたが、これらは諸外国との外交における大きな力となり得ることでしょう。
優しさや強さと共に、調略といった外交バランスにも優れ、さらには大きな挫折(ざせつ)などの様々な体験から身につけた、内面からにじみ出る「強(したた)かさ」も同時に併(あわ)せ持つ。
そのような人物こそが、我が国を正しい方向へと導く為政者として相応(ふさわ)しいのではないでしょうか。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※第42回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[6月21日]からは通常の更新[=昭和時代・戦後]に戻ります)





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ぴーち こんばんは!
「可能な限り兵力を損なうことなく戦争を終わらせる」
この精神、大東亜戦争の日本軍にも活かして欲しかったですねぇ・・
ほとんど神です
- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛のような名君は、日本史上だけでなく、
世界史上でも、類まれです。
私は、戦国時代の奇跡だと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「可能な限り兵力を損なうことなく戦争を終わらせる」
> この精神、大東亜戦争の日本軍にも活かして欲しかったですねぇ・・
ぴーちさんのお気持ち、私も良くわかります。
緒戦の勝利の段階で講和を結べていれば、と悔やまれますね。
青田さんへ
黒田裕樹 > 黒田官兵衛のような名君は、日本史上だけでなく、
> 世界史上でも、類まれです。
> 私は、戦国時代の奇跡だと思います。
確かに仰るとおりですね。
現代の政治家にこそ、官兵衛のような人材が求められると思います。