このとき、官兵衛は秀吉とともに中国地方の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)攻略の最中でした。信長の死を知って悲嘆(ひたん)にくれる秀吉に対して、官兵衛は以下のように言いきりました。
「信長公亡き今、貴方様こそが天下を治めるべき人ですぞ」 。
官兵衛が本当にそこまで考えていたかどうかは不明ですが、主君の死で激しく動揺(どうよう)していた秀吉が、官兵衛の一言でショック療法を受けたかのように立ち直り、その後の「中国大返し」を成功させて光秀を討ち果たし、天下取りに名乗りを上げるようになったことだけは間違いありません。
※下記の映像は6月16日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
信長の生き様を垣間見た時、
やはり家臣から裏切られる人物と言うのは、
周りに対しての配慮が足りないように思えてなりません。
官兵衛にはやはり先見の明があったのでしょうね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 その後の彼の生き様が証明しているように、官兵衛に先見の明があったのは間違いないですね。
それだけ官兵衛が優秀だったといえますが、今回の彼の言動にはやはり謎が多いです。
吉川英治の『黒田如水』
- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛を描いた小説では
司馬遼太郎の『播磨灘物語』が有名ですが
吉川英治の『黒田如水』では、
この一言の意味は
『誰だったら、この戦国時代を終わらせることができるかを常に考えていた。』とあります。
黒田官兵衛が、秀吉には、絶対に敵わない力として
『運と魅力』だと常々、考えていたそうです。
その前提での一言だったのでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 > 『誰だったら、この戦国時代を終わらせることができるかを常に考えていた。』
吉川英治らしい展開ですね。
現実にそのとおりになるのですから、官兵衛の思いもそこにあったのかもしれません。
この後、天正15(1587)年の九州平定によって豊前国(ぶぜんのくに)12万石の大名となった官兵衛は、新たな居城として中津城(なかつじょう)の築城に取りかかりましたが、間もなく領国で起きた一揆(いっき)を無事に鎮圧(ちんあつ)すると、天正17(1589)年には子の長政に44歳で家督を譲(ゆず)りました。
ただし、家督を譲ったといっても隠居(いんきょ)したわけではなく、翌天正18(1590)年の小田原攻(おだわらぜ)めの際には、当主の北条氏直(ほうじょううじなお)を官兵衛自らが説得し、開城へと導きました。
官兵衛の働きによって北条氏は事実上滅亡し、同天正18年に豊臣秀吉はついに自らの手で天下統一を果たすこととなったのです。
※下記の映像は6月16日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーちから黒田裕樹さんへお返事です^^ こんにちは!
人生50年と言われていた時代で
今でこそ44歳などはまだまだ若い世代だと言われていますが、当時は相当晩年になってから家督を譲ったことなのではないでしょうか?
それだけ官兵衛は命燃え尽きるまで、自分を必要としてくれる人物がいる限り、第一線で活躍していこうという思いが強かったのでしょうかね^^
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-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時の44歳は高齢の部類に入りますからね。
秀吉は確かに天下を統一しましたが、この後も大忙しでしたから、まだまだ官兵衛の力を必要としたのでしょうね。
宇都宮氏のだまし討ち
- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛は、大好きな武将ですし、
仁徳もある武将だと思います。
ただ、九州を統治する時に行った
宇都宮鎮房とその一族へのだまし討ちだけは
どうしても、納得できません。(人生最大の汚点)
調略で、宇都宮鎮房とその一族を救うことも出来たと思います。
肥後の統治に失敗して、切腹させられた佐々成政を考えると、黒田官兵衛で、あっても非常手段を使わないと治めるのが、難治の土地だったということでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、九州平定のためには非情な手段が必要だったのかもしれませんね。
文禄(ぶんろく)元(1592)年に始まった1回目の朝鮮出兵たる文禄の役(えき)に際し、官兵衛も軍監(ぐんかん)として渡海(とかい)しましたが、小西行長(こにしゆきなが)や石田三成(いしだみつなり)らとの確執(かくしつ)もあって思うような采配(さいはい)が取れず、文禄2(1593)年の帰国後に秀吉の怒りを買いましたが、官兵衛が出家したこともあって許されました。なお、出家の際に官兵衛は「如水円清(じょすいえんせい)」と号しています。
官兵衛の帰国後、朝鮮との間に一度は和議が成立しましたが、その後こじれたことで、慶長(けいちょう)2(1597)年に秀吉はふたたび朝鮮を攻めました。これを慶長の役と言います。
慶長の役において官兵衛はふたたび渡海し、釜山(プサン)の北に位置する梁山(ヤンサン)城を少数の兵で守りきるなど軍功を挙げたものの、官兵衛が帰国した後に秀吉が慶長3(1598)年に死去したのを理由に、日本軍は朝鮮から撤退しました。
秀吉の死によって、我が国で再び不穏(ふおん)な空気が漂(ただよ)い始めていましたが、時代の流れを読んでいた官兵衛は、徳川家康(とくがわいえやす)に味方する道を選びました。
※下記の映像は6月16日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
さすがの官兵衛も、仲違いする関係の
仲裁もままならないときがあるはずですよね。
秀吉の怒りを買ったとありますが、
それだけ秀吉は官兵衛に対して、多大な信頼を寄せると共に
過大な期待もしていたのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 朝鮮出兵に関しては、若い頃から秀吉を支えてきた武将が多かったため、官兵衛の言うことを聞かなかった、という側面があるようです。
秀吉もそれが分かっていたので、官兵衛を叱責するだけで済ませたのかもしれません。