また、信長が東から播磨をうかがう一方で、西からは毛利氏(もうりし)がその影響力を伸ばそうとしており、播磨の各大名は、織田につくか毛利につくかの選択を迫られるようになっていました。
そんな中、これからの時代の流れを読んでいた官兵衛は、主君の小寺政職(こでらまさもと)を説得して天正(てんしょう)3(1575)年までに信長に臣従を誓うと、信長の家臣であった羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉=とよとみひでよし)に見いだされ、以後は秀吉に、ひいては信長に従って、播磨や中国地方の平定に奮闘(ふんとう)しました。
信長や秀吉は官兵衛の活躍ぶりを喜びましたが、群雄が割拠(かっきょ)する播磨の平定はやはり難しく、天正6(1578)年2月には東播磨の別所長治(べっしょながはる)が信長を裏切り、居城である三木城(みきじょう)に立てこもりました。いわゆる三木合戦の始まりです。
※下記の映像は6月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
常に官兵衛は、時代を先読みし
どの勢力に加担すれば、生き残る道が開けるかを
模索していたという事でしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信長に味方するところまでは時代の先読みが出来ていたとおもわれます。
しかし、この後に官兵衛は「痛恨の失敗」を経験することになってしまうのです。
村重の謀反(むほん)に対して、官兵衛の主君であった小寺政職(こでらまさもと)も同調しようとしたため、官兵衛は村重を説得しようと単身で有岡城に乗り込みましたが、逆に捕えられ、城内の土牢(つちろう)に入れられてしまいました。
有岡城に出向いたまま、いつまで経っても帰ってこない官兵衛に対して、信長や秀吉は「官兵衛は裏切ったのか」と不信感を抱(いだ)くようになりました。信長には人質として官兵衛の子の松寿丸を差し出しており、このままでは見せしめのために殺害される可能性がありました。
官兵衛の、いや黒田氏にとっても最大のピンチといえましたが、これらを救ったのが、普段から見せていた官兵衛の「優しさ」でした。
※下記の映像は6月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
優しさは
特に戦乱の世の中ならば、無用なものだと
一蹴されてしまうものなのでしょうけれど、
これまで
人に与えて来た優しさは
いざ自分がピンチに
陥ったときに、自分へ返って来るものだと
信じたいですね。
まさにこの時が、官兵衛自身自分の身を
助けることになった場面なんでしょうね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ことわざの「情けは人のためならず」を彷彿とさせるエピソードとなります。
そして、それは官兵衛の自身の行動にもつながってくるのです。
そんな官兵衛のひたむきさに絆(ほだ)された世話役の加藤重徳(かとうしげのり)は、いつしか官兵衛と心を通わせるようになり、何かと便宜(べんぎ)を図るようになりました。
また、主君が行方不明になった黒田氏においても、父である黒田職隆(くろだもとたか)を中心として家臣が一つにまとまり、絶対の忠誠を誓った「起請文(きしょうもん)」を提出するなど鉄の団結力を見せました。
こうした動きは、官兵衛が普段から周囲に気を配るなどの「優しさ」がなければ、考えられなかったことでしょう。官兵衛や彼を支えた家臣たちの願いは、天正7(1579)年10月の有岡城の落城によって叶(かな)えられたのです。
※下記の映像は6月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。日頃からの人との密なお付き合いが
いかに大切であるか・・・
人と人との信頼関係がいかに一朝一夕では成り立たないものか、改めて考えさせられるエピソードですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど。日頃からの人との密なお付き合いが
> いかに大切であるか・・・
> 人と人との信頼関係がいかに一朝一夕では成り立たないものか、改めて考えさせられるエピソードですね!
私もそう思います。
官兵衛の普段からの人間性の素晴らしさがよく分かる話です。
官兵衛が救出された後、翌天正8(1580)年1月には三木城が落城し、信長は播磨平定に向けて大きく前進しました。また、牢内の世話役だった加藤重徳の次男が官兵衛の養子となって黒田一成(くろだかずしげ)と名乗り、後に黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)の一人として活躍することになりました。
また、起請文を書いた一人である母里友信(もりとものぶ)も黒田二十四騎の一人となったほか、民謡「黒田節」のモデルとされるなど、現代でもその名を残しています。
さらには信長を裏切って出奔(しゅっぽん)した主君の小寺氏に対しても、後に子の氏職(うじもと)を客分として迎えるなど厚遇しました。
有岡城での幽閉(ゆうへい)は官兵衛にとって痛恨の出来事ではありましたが、同時に家臣の鉄の団結力など、通常では得難(えがた)い経験を積むことになりました。小寺氏の事実上の滅亡で黒田の姓に復した官兵衛は、その後も秀吉配下として信長の天下統一に貢献することとなったのですが、思わぬ運命が彼を待ち受けていました。
※下記の映像は6月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
一度裏切られた人物の子孫といえども
通常でしたら、厚遇などあり得ない事なのでしょうけれど、そこを許す事が出きるということは
度量の広さの何ものでもない気がしますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
官兵衛の度量の広さと優しさが、身内や家臣以外の様々な人々の心を動かしたのだと思えます。