そして、我が国を終戦へと導いた鈴木内閣も同日に総辞職しました。閣僚から取りまとめた辞表を懐(ふところ)に参内(さんだい)した貫太郎に対して、昭和天皇は優しく仰られました。
「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」。
陛下のお言葉を受けた貫太郎は、自宅に帰ると、陛下から二度までも「よくやってくれたね」とのお言葉をいただいた、と家族に話し、顔を伏せてむせび泣きました。
終戦後の貫太郎は、枢密院議長を再び務めた後に昭和21(1946)年に辞職すると、その後は静かな日々を過ごしましたが、昭和23(1948)年4月17日に、肝臓がんのため満80歳で死去しました。葬儀後に荼毘(だび)に付された彼の遺灰の中に、二・二六事件の際に受けた弾丸が混ざっていたそうです。
※下記の映像は4月26日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
貫太郎首相、当時の80歳としては長命なほうでしたね。
まさに天寿を全うされたという印象です。
それでもこれまでお伺いさせていただいた人生を思い返すと、波乱万丈な人生を歩んで来られたのだなと改めて思いました。
弾丸のお話は、痛々しいですね^_^;
私の祖父も弾丸こそ体には受けなかったものの、
南方の方へ行かされた為に、晩年は
マラリアの後遺症なのか、よく高熱を出していましたっけ・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、鈴木首相の人生は波乱万丈だったと思います。
弾丸の逸話は確かに痛ましいですね。よくぞ80歳まで生きながらえてくださったものです。
彼は人生において何度も生命の危機に直面しましたが、奇跡的に生きながらえた後に、我が国を終戦へと導くという一大事業を達成することになったのですが、それはまさに「目に見えぬ大きな力」がもたらした運命と言えるものでもありました。
彼の人生をたどることで、私たちは「国家のために忠誠を誓うとともに、長い歴史と伝統を誇る我が国の将来を案じて、次世代へとタスキをつなごうとする姿勢に、年齢などは関係ない」という「当然のこと」に思いを馳(は)せることができないでしょうか。
振り返れば、戦後70年近くのあいだ、我が国には色々なことがありました。しかし、もし鈴木貫太郎が混迷続く我が国の現状を見れば、彼はいったい何を思うでしょうか。彼自身が命がけで終戦へと導いただけの値打ちが今の我が国にあると、心の底から満足してくださるでしょうか。
鈴木貫太郎の生き様を学ぶことで、私たち日本国民が今すぐにでも「為(な)さねばならないこと」が自然と見えてくるのではないか。私にはそう思えてならないのです。
※下記の映像は4月26日までの掲載分をまとめたものです。
(※第41回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[4月27日]からは通常の更新[=昭和時代・戦後]に戻ります)





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ぴーち こんばんは!
そうですね。。
確かに人間の性というのは元々勝手なもので
平和で何事もなければ、変化を求める気持ちが働き、激動の世の中が続けば、何事も無い平穏な日々を願ったりするものですよね。
この習性は変えられないとするならば、せめて
現代の日本がこれまでになった事の発端には
貫太郎氏の様な人物がいたからこそだと感謝することを認識し、
また彼の功績に思いを馳せることを忘れてはならないのだと
思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私が今回の講演で申し上げたかったのは、鈴木貫太郎首相らが命がけで支えてきた我が国の歴史と伝統を、それを意識することなく我々の代で潰してしまって良いのか、ということです。
歴史を振り返ることは、私たちの未来を明るくするために努力することでもあるのですから。